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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
sumidagawa60
投稿日時: 2012-5-7 23:40
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代


羽生の鍛冶屋さん、アクセス1万件ヒットおめでとうございます。

済みません、今夜は飲んでますので
折角の昭和の40年代の原稿にコメントができなくて。

おやすみなさい!

編集者
投稿日時: 2012-4-26 8:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代

 草加市の建設会社の鉄骨部門には、私よりも経験の長いベテランがおりました。(愛称)海老さんという親方は、20年の経験で、工場長という立場で、重量鉄骨の総合的な知識と技量を備えておりました。私にも親切に、指導してくれたので、助かりました。原寸引きから加工、現場組み立て、施工完了まで、急所急所のおさまりのコツを教えてくれました。おかげで半年で、重量鉄骨の加工から現場施工までを理解できるようになりました。
 じょじょに加工をまかされるようになり、忙しい日々が続きました。昭和45年頃、大量消費時代を迎えた消費拡大の波に乗り、企業は増産のための設備投資が急ピッチで進められました。

 私は、製造ラインの拡張の仕事で、草加、鳩ケ谷、川口、八潮、越谷、などにあった皮革工場、ソース工場、ビール工場、パン工場、製紙工場、印刷工場、鉄筋製鉄工場、鋳物工場、金網工場、などのラインの骨組の制作や補修等の仕事で現場制作をする機会が多くめぐってきました、そんなことで、生産を上げるためのスピードアップの現場を見ながら、高度経済成長の中で、私も、波に乗って仕事をしていたのかと今更ながら思っております。
 消費の拡大は、増産のために工場増設を加速させ、物流、備蓄倉庫を必要とする経済波及効果を生むことになりました。そして、草加、越谷周辺の余裕ある農家の中には、300坪から600坪程の倉庫を建てて貸す人が出て来ました。越谷の農家で倉庫を建てていた時、3時休みに、よく、おせち料理に使うクワイをご馳走になったことが記憶にあります。

 高度経済成長の時代を、今となって思うのですが、昭和40年代は、第一次ものづくり競争の時代ではなかったかと、私は感じております。
 サラリーマンの給与も、毎年1万以上~2万前後のペースで上がり、趣味の分野にも皐月の盆栽が流行り、親方の海老さんを筆頭に、同僚も、私も皐月の盆栽に熱くなり、数万、数十万の、日光や、やたの鏡などの盆栽を求めて、栃木の鹿沼へ休日は、みんなで車を走らせたものです。皐月盆栽ブームは高度経済成長時代の日本人の忙しさの中に湧き起こった好景気の証しの一つとも云えるのではないでしょうか。
編集者
投稿日時: 2012-4-7 8:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 27 軽量鉄骨から重量鉄骨へ

 加須市の鉄骨建築会社での軽量鉄骨の加工から施工までの経験を積み、本格的な重量鉄骨を経験するために、昭和45年4月、草加市の個人経営の建設会社に転職しました。総合請負の建設会社で、重量鉄骨加工、鋼材の販売、金属スクラップ回収等をやっている会社です。従業員は20人足らずの会社ですが、元請けのため、土建、大工、板金、スレート、とび職,  電気、水道、排水工事、外壁、サッシ、タイル、左官、など多種の職人を傘下にして、総合的に鉄骨構造を軸とした、工場、倉庫, 店舗ビル、鉄骨住宅、工場内生産設備、等の仕事をしている会社です。

 1500坪程の敷地に事務所、鋼材倉庫、門型、天井クレーン付きの鉄骨加工場、鋼材倉庫の2階は、広い原寸場となっておりました。

 入社してまもなくの6月、社員旅行があり、社長一家、従業員の家族も無料招待の大阪万博見学を兼ねた、二泊三日の社員旅行に行くことになりました。好景気の波に乗って、世間の平均よりも高待遇の会社でありました。

 草加、越谷、川口、浦和、を主な仕事エリアの中で、成長企業の設備拡大で重量鉄骨建築は、てんてこ舞いの忙しさでした。 私は、さまざまな業種の企業の施工現場で日本経済が拡大して行く姿を重量鉄骨建築を通して見ることができました。製鋼所、ビールメーカー、倉庫会社、食品加工会社、皮革加工会社、段ボール会社、製紙会社、部品下請け工場、パチンコ店、などなど、施工現場で多くの経験をして行く機会に恵まれました。

 次回は、記憶にある、出来ごとを記して行きたいと思います。


編集者
投稿日時: 2012-4-4 6:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 26 当時の農家は

 町工場で鉄骨建築の仕事経験の中で、農家に出向いての作業が多かったせいか、昭和44年頃の農業面における、機械化による農作業の進歩の様子を見ることが出来ました。経済成長の波に乗って昭和30年代後半頃から農業機械の導入が見られるるようになったと思いますが、40年代になると小型のトラクター、手押しの田植機械、バインダー、が稲作に導入され、何処の農家も労働力を人力から機械力へと変えて行きました。農機具メーカーは、新型機械の開発販売に拡大を計り、手押し機械から乗用型機械へと普及を進めて行きました。農家で鉄骨の作業場を作っていると、農協の職員、農機具店が、よく、農家に出入りしていたことが、記憶に残っております。

 楽をして米を作りたいという農家の思い、おいて行かれたくないという心理に、農機具メーカーは次々と新型タイプの機械を開発して、日本の農法を変えて行きました。

 当時、高度成長期において、日本の農業は規制に守られながら、農業外収入の増加で、だんだん豊かになった農家が多くなった時代でもありました。

 中規模的農家は、広い屋敷、新築された入母屋造り、三波石で造られた庭、鉄骨の納屋、車庫、軽トラ、ホンダのカブ号、スクーター、乗用車2台、等が昭和40年半ばの高度成長の時代に仕事先の農家で見た光景でありました。

 農業から日本の高度成長の姿を描写するのは、力足らずになったと思いますが、次は別な産業の中から、記憶を元に当時のことを記したいと思います。
編集者
投稿日時: 2012-3-19 6:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 25 鉄骨建築の時代

 昭和43年~44年にかけての鉄筋屋の経験も終りとし、鉄骨建築の経験をしようと、加須市の個人経営の鉄骨屋へ転職しました。社長と奥さんと従業員一人のところへ、私は敢えて勤めることにしました。個人事業の経験のためです。200坪の敷地に100坪の建屋、その中に原寸場と溶接機3台、シャーリング、コンプレッサー、トラック2台の町工場です。その鉄骨屋は農家をお得意とする仕事が多く、仕事の半分以上が農家相手でした。

 当時の米作り農家の主は、土木建設工事に出稼ぎ、または、製造業会社に勤め、収入の増加で、金銭的にも余裕が出来て、トラクター、乾燥機、などの農業機械を入れる作業場を鉄骨で作る農家が増えてきたのです。

 そういう時代変化で、木造から鉄骨加工の仕事が急激に多くなり、私が勤めた小さな鉄骨屋でも、注文はやりきれない程、増えて行きました。
 私は、現場合わせの鉄骨作業で、村のあちこちで、景気の良くなって来た農家の作業場制作に、現場工法で携わりました。このころ、兼業で景気の良くなった農家が、藁屋根の家から、瓦ぶきのベランダ付きの二階建ての家を建て替える家が、目立ち始めたのもこのころです。

 高度経済成長時代の中で、鉄骨建築の視点から農家の生活文化の成長を見ておりますが、羽生の鍛冶屋が、平成時代になって、農家と切っても切れない、農家の応援団としての仕事をすることになろうとは、昭和44年ごろの私には、想像もつかないことでありました。次回も、そのころのことで思い出すことが出てきましたら、鉄骨の仕事を通じて当時の経済成長話しをしたいと思います。
sumidagawa60
投稿日時: 2012-3-8 23:23
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋さん誕生の秘話、いよいよ佳境に
羽生の鍛冶屋さん

お久しぶりです。

KOUSEI3さんのご尽力で、昭和の個人史Ⅱ(~高度成長期)
区分が設定されましたね。

お陰で、羽生の鍛冶屋さん誕生のいきさつが語られることとなったことを、ご当人はもとより、読者の一人としても共に喜びたいと思います。

どうぞ、今後とも貴重な個人史を披露されることにより、
「時代の語り部」としての役割を果たされんことを期待してます。
編集者
投稿日時: 2012-3-4 6:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 24 鉄筋屋

 鉄筋屋という仕事は、請負が主で、コンクリート打ちこみが迫り間に合わなくなると、仲間の同業者から、梁やスラブ(床)配筋の時、臨時に応援の声が掛かります。そのような時は通常の日当の5割増しとかになるため、喜び勇んで、同業者仲間の現場に行くことになり、3日とか1週間で現場が変わります。そのために、都内を中心に、転々と渡り歩きます。当時の郵政省(14階建て)、赤羽駅東口の今は無きダイエー、西口に建設された5階建ての公団アパート、溝の口の事務所ビル、中野のマンション、浦和東口の西友、そして浦和郊外の社員寮など、電車を利用して、現場通勤を致しました。

 当時は、羽生から東武電車に乗り、久喜で東北線にのりかえ、都心に向かいました。都内に通勤するサラリーマンで、電車内はぎゅうぎゅう満員で座れることはまれなことでした。帰りは始発である上野駅から乗ることを選びました。それは、座席に座れるからで、仲間の中には、酒の好きな人が多く、今では考えられないことですが、電車の中では、裂きイカや、柿の種をつまみに、飲酒が目立ったものでした。帰りの東北線電車内は、ハツリ屋、仮枠大工、などの都内で仕事を終えた見慣れた人達の会話で賑やかでもありました。

 私にとって、鉄筋屋の仕事は製図を学んでいたことで、難しくはありませんでしたが、50キロから60キロの鉄筋棒を担ぐ作業なので、肉体的には、きつかったのかもしれませんが、若かったせいもあり、苦にはなりませんでした。郵政省での仕事をした時、14階のてっぺんで作業しながら、霞が関ビルや、東京タワー、番号が書かれた森ビル、下の道路を見下ろせば、交差点で堰を切るように走りだす車の列、まさしく、アクセルをふかして日本経済が急成長して行くような光景でありました。
編集者
投稿日時: 2012-3-1 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 23 2度目の職

 昭和43年6月、転職2度目の職に付きました。その職種は、鉄筋屋という、野帳場の仕事です。兄がこの仕事をしていたことから、1年間をめどに、手伝うということで、経験を積むことを含め、建設現場への通勤が始まりました。

 当時は、高度成長の中で、公団の建設、高速道路、新幹線、高層オフィスビルの建設、などが目白押しで、建設されておりました。私が、初めて鉄筋配筋の仕事に付いたのは、当時の大宮市の地銀の本店建設現場でした。大手建設会社が元請けとなり、8階建ての鉄骨に、加工した鉄筋を結束線で縛り、コンクリートを打ち込む仮枠内に寸法通りに組み立てて行くのが鉄筋屋の仕事なのですが、建設現場には、日雇い感覚の職人が組を作って作業しておりました。高い日当を求めて、請負による多業種の職人が建設現場内で請負金額内で完了するために汗を流しておりました。

 地銀の本店には、仲間の車で通っていたのですが、サニーとカローラがしのぎを削るマイカー通勤のはじまりの時代でもありました。私も車を持ちたい、そんな欲が出たのか、保証は無くとも、車を買うための高収入の鉄筋屋の仕事で都内の建設現場を兄達の仲間と渡り歩きました。次回は電車通勤で都内現場へ通った様子などを記したいと思います。
編集者
投稿日時: 2012-2-18 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 22

 新しい職場を見つけて、就職したものの、そこで待っていたのは、いじめでした。作業現場は主に溶接の仕事が多かったのですが、20代、が主で、30代、40代が数人、総勢30人足らずの小さな会社でした。入社して一週間位は何でもなかったのですが、10日目頃から、作業ノルマを余分に与えられたり、工場内の勝手がまだ分からないのに、図面だけ渡されて、これやっておいてくれと、指示を出され、あとは、聞いても、応えてくれず、自分で材料を探し出し、福岡出身の加藤さんだけが、親切に、工場内のことを教えてくれました。武里団地から通勤していた加藤さんのおかげで指示された仕事もやりこなすことができました。私より先に入社していた人の何人かが、私の溶接技術にねたみを持っているような感が見られました。それは、何かと、やりずらいところの溶接をさせることでした。
 入社して、一ヶ月が過ぎた頃、休憩時間の時、少し離れていた私の耳に、私への、ねたみの会話が聞こえました。
 はっきりと記憶にはないのですが、入社したばかりなのに、自分たちが入社した時より待遇が良すぎることへの不満のように聞こえました。高度成長期における、人出不足の中で、技能者を求める企業にとって、資格等を持った技能者に高待遇で受け入れたことが、時には私のように、どこからか情報が漏れたのか、職場の人間関係に悪い作用での経験をさせられました。2ヵ月の短い期間の中で、本社部長の工場長が、ある日映画を見に行こうと、浅草の映画館へ、そして、葵丸新の天ぷらをご馳走してくれたことが、何より楽しい思い出です。しかし、二週間後、私は、別な理由をつけて、退社したのでした。
編集者
投稿日時: 2012-2-10 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 21 初めての職安

 さて、7年間技能の学ばさせてもらい、勤務した重電機メーカーを退社する決断をして、退社の前に職探しに初めて行田、春日部、越谷、の職安に行きました。

 職種ごとに求人欄に相当量の募集カードがケースに置かれておりました。私に該当する会社は、溶接工、鉄骨、製缶、等の職種が50社から100社以上、求人をしておりました。より取り見取りの求人ラッシュの様相でした。どれにしようかと選ぶのが大変でありました。私は、大企業ではなく、中小企業よりも、小さめな会社を選びました。溶接、製缶の技能が生かせる、中小河川の水量を自動的に調節をするダムを制作、施工をする会社を、第二の就職先に決めました。

 しかし、入社して、早くも、武者修行の第二の就職先で待ち受けていた試練は、いじめに遭うことから始まるのでした。この続きは次回に・・・
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