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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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編集者
投稿日時: 2013-3-31 6:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 37(奮闘記その6)

 「庖丁」

 昭和52年、刃物店を開業して、大工道具、ハサミと共に庖丁を当初のメイン商品としてとりあつかった。東京の問屋を通じて、業務用は、浅草の正本総本店の和庖丁、築地の杉本牛刀、中華庖丁、横浜の正金牛刀、そして、庖丁生産地、岐阜のミソノ牛刀を主に販売しました。当時は、羽生の町にも、魚屋、寿司や、肉屋と云った、職人腕を持った、個人店が在りましたから本物の庖丁を取り扱う必要がありました。ちなみにプロの庖丁の当時価格はサイズ、種類、材質にもよりますが、概ね1万~2万と行ったところでした。そして、家庭用の菜切り庖丁の価格は上級物で3千円~4千円でした。浅草の問屋は、鋼の良い庖丁を扱っていたので、お客さんからは好評で、よく売れました。月に一度は、社長が見え、私も勉強のために時々、駒形に出向いて、直接、品定めをして、仕入注文をする形をとりました。また、東京の問屋には、刃物関係の方が出入りしているので、私にとっては、日本の刃物業界の情報を得る場でもありました。

 やがて、私には、刃物を作る時がくるのですが、手さぐりの奮闘が始まります。

編集者
投稿日時: 2013-2-12 8:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 36 奮闘記その5

 昭和52年開業時、鋏と業務用庖丁の一流品を取り扱う浅草駒形にある問屋と取引をはじめました。そこで、社長に、職人の工場を見たいから、連れて行ってくれと、頼みました。社長は、二つ返事で、松戸にある宇梶鋏製作所へ案内してくれました。

 宇梶さんは弟子を一人おいて、ラシャバサミと刈り込み鋏を作っておりました、私の見学目的は、どんな設備機械でどんな工程で研磨仕上げをしているかです。

 宇梶さんは、仕事場を真っ先に見に来たことで、私を褒めてくれました。半日ほど仕事を見せてもらい、必要な機械、道具とハサミの研ぎ方の手順とポイントを習得させていただきました。ハサミ修理の道が一気に拓きました。

 私の店では、宇梶製の「本常正」「長十郎」を中心に、保坂製の「兼吉」岡本製の「長勝」岩田製の「増太郎(SLD)石塚製の「長太郎」広瀬製の「明作」三浦製の「庄三郎」を店頭に並べました。

 宇梶鋏制作所での見学は羽生の縫製作業に従事する皆さんに、ハサミを愛用してもらえるように、修理も合わせて、貴重な勉強となりました。

 工場見学の帰り道、技術の精進、磨きをかける決意が、私の中に湧き上がりました。

 添付した写真ですが、明治15年吉田弥吉が、ラシャ鋏の原形を作り、多くの弟子たちを育てたのですが、その弟子たちの系統図です。

編集者
投稿日時: 2013-2-9 8:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田裕 35 奮闘記その4

 大工道具では、大変な授業料を払いました。しかし、裁ち鋏(ラシャ鋏)、については、何といっても、東京の職人が作った鋏が最高品です。

 東京下町を中心に、千葉県に実力ある十数名の名工が活躍しておりました。長太郎、正次郎、長勝、兼吉、団十郎、本常正、長十郎、庄三郎、増太郎、正太郎、総太郎、などの銘で東京鋏工業組合「東鋏」として、東京の問屋を通じて全国の刃物店、金物店へ流通されておりました。

 私も、浅草の問屋と取引をはじめて、ラシャ鋏に関しては一流品ばかりを店に並べました。また、握り鋏は、同じ問屋を通じて、播州小野産の一流品を揃えました。衣料の町羽生では、縫製に関係する数千人の人達が、切れ味の良いものばかりを使用していたからです。

 開店当初から、鋏は売れました。それだけに、顧客につなげていくために販売、修理に遣り甲斐のある商品でありました。そして、衣料の町に生まれたからこそ、私に、第二の人生、生活の糧となる仕事が与えられたものと考えております。

編集者
投稿日時: 2013-2-7 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 34 奮闘記 その3

 開店して、1ヵ月が過ぎた。お客さんも、はじめて見る顔の人が多くなりました。縫製に関係する人をはじめ、農家の人、そして、大工さんが目立ちはじめました。

 大工道具と云えば、鋸、鑿、鉋、玄能、など、数十種類の道具となります。東京の問屋と取引を始めたことで、品質に落ち度はなかったのですが、地元の大工さんの使用している道具の値段を聞いて、仕入れ単価が高めであることに気が付きはじめました。

 鑿を例にとると、鑿には、追入組鑿十本組があります。当時の大工さんは、十本組で2万円程度の鑿を使用していました。私の店では、2万5千円と三万5千円の値札を付けておりました。知り合いの大工さんから、「ちょっと高いんじゃない」と云われ、近隣の大工道具専門店の販売価格を何か所も調べて歩きました。

 そこで、分かったことは、やはり、私の店の大工道具は、近隣の中で、割高であることが分かりました。「仕入れ価格が高い」ということです。経験の浅い私にとっては、ショックでした。
 東京の問屋へ行き、専務に価格交渉をしましたが、うまく逃げられてしまいました。

 開店して、最初のつまずきが、仕入れの勉強が甘かったことでした。
 大工道具の販売価格を大幅に下げて、損を覚悟で見切り処分することにしました。東京の大工道具の問屋とは縁を切ることになりましたが、その問屋の課長が、情けの心で新潟の大工刃物の産地、与板町の良心的な問屋を紹介してくれました。

 東京製というレッテルだけで、取引をはじめてしまった私には、50万程の損失が月謝となり、仕入れ、品定めの勉強をさせる切っ掛けとなったようです。

編集者
投稿日時: 2013-2-5 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 33 奮闘記 その2

 開店の日、開店お知らせのチラシを新聞折り込みに1万枚入れました。朝8時に、シャッターを上げると第1号のお客さんは、よく知るところの葬儀屋さんでした。

 当時は、職人であった葬儀屋さんは自分のところで、棺や葬儀道具を作っていました。

 開店、第1号のお客、葬儀屋さんは、高級カンナを2丁お買い上げになりました。1万5千円のカンナ2丁で3万円のところを開店記念3割引きで2万1千円、そして、さらに、千円おまけして、2万円也。これが本田刃物店のはじめての売上金額でした。

 その後、時間が経つに連れ、裁ちバサミ、庖丁、握りバサミ、などを、義理を含めて買いに来てくれた人、住宅街の中を、探しながら来てくれた人が数多くおりました。はじめての経験で、勝手が分からない中、商いの経験のある、おふくろと友人も手伝ってくれて、お客の対応をしてくれました。開店初日は、70人程のお客が、来店してくれました。

 2日目は、お客の数は、半分程度になりましたが、縫製屋さんが多く来て、裁ちバサミや握りバサミをまとめて買ってくれて、初日より売上が多くなりました。ハサミや庖丁の研ぎを持ってくる人も多くなり、開店当時は、販売と修理で頭の中がチンプンカンプンで、空を見上げることのない、毎日でありました。

 開店記念セールの1週間も終わり、それから無我夢中での半年後、本田刃物店が「先祖からの鍛冶屋」の火を再び灯す、切っ掛けとなる日が近づくのであります。
編集者
投稿日時: 2013-2-1 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 32 奮闘記 その1 「開業」

 
 昭和52年、4月10日、私は、刃物販売、刃物研ぎ、農具製造の羽生の鍛冶屋こと「本田刃物店」を開業しました。

 15年間の修行を続けて来た、オイルショック後に、突然の、脚、腰強打による怪我で1年間の入院、人生を大きく狂わさせられることとなった。埼玉医科大の8階の廊下の窓越しで羽生の方角を見ながら、年老いて来たおふくろに申し訳ないことをしてしまったと涙を流した。大きな仕事は出来なくなったけど、自分には、15年間、身に付けた腕がある、駆け足や高所作業は出来なくなったけど、座り仕事でも、両手に技術があれば、いくらでも仕事はできる、「負けたくない」そんな思いで、退院後、1年間、毎日、利根川の土手に行って、リハビリを続けながら、縫製の町羽生で、出来る仕事は何かを考えました。

 住宅街の中で、自分に出来る仕事として、まず、選んだのが、縫製で使う鋏の修理と家庭で使う庖丁の研ぎでした。そして、大工、土建業、鉄骨業の友達らが手弁当で店と作業場を作ってくれました。

 温かい友情に支えられ、そして、当初は、はさみ、庖丁、農具、大工道具、等の仕入れ販売も加え、小さな「本田刃物店」羽生の鍛冶屋はスタートしたのであります。

 次回より、多くの経験をして行く記録を綴る中で、羽生の鍛冶屋の奮闘ぶりを書いて行きたいと思います。

編集者
投稿日時: 2013-1-30 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 その31、社員旅行、南九州へ

 昭和46年、勤めていた建設会社は、高度成長の波に乗って、好景気でありました。社長は従業員には慈悲深い人でありました。利益は、従業員の福利厚生のために、使う社長でありました。ボウリング大会、上野東天紅等への食事会、そして、個人的には、社長が着ていた東京の有名デパートのオーダーのブレザーを何着も頂きました。

 そして、4月には南九州へ社員旅行が企画されました。川崎港から、6千トンのハイビスカス号で、宮崎の日向港へ向かいました。26時間かかりましたが船酔いにもならず、初めての船旅は楽しいものでした。日向に付くと日豊本線で宮崎駅に向かいました。宮崎に着き、バスで宿泊地の青島に向かいました。洗濯板の海岸を見ながら、青島を一回り歩き、当時のジャイアンツの宿泊ホテルの隣りの橘ホテルに到着しました。当時のホテルとしては、レジャーランド風の大ホテルで、部屋を間違うほどの広さでした。宴会と料理、娯楽で十二分に楽しみ、翌日は、バスで、堀切峠、えびの高原、霧島温泉、国分、そして桜島を半周しながら、煙出す桜島の写真をとりながら、観光客がひっ切りなしに立ち寄る、食堂、土産物店、で迷子にならぬよう、鹿児島港への船に乗りました。港に着くと、再び、バスに乗り、西郷隆盛の銅像の立つ観光スポットへ、そして、磯庭園を見学し、物産店によりながら、西鹿児島駅に到着しました。夕方は、駅近くの料亭に行き、旅行最後の贅沢郷土料理、薩摩料理を思い残すことのないように、ご馳走になりました。夜行列車に乗るまでの自由時間を、パチンコ等で楽しみました。

 夜行列車が、西鹿児島駅を出発すると、列車の座席では退屈しのぎに、トランプや花札が始まり、八代や熊本を通過するのを、うつろに聞きながら、目が覚めたころは、博多、博多、の場内アナウンサーの声でした。

 何処で朝食を摂ったのかは記憶になくなりましたが。福岡空港から、初めて乗る飛行機で全日空で羽田へと帰路に着きました。

 高度成長期時代の中、小規模会社ながらも、社長の計らいで、お土産以外は、すべて、会社持ちという、私にとっては、豪華な旅を経験しました。また、この時代は、余裕のある人たちにとっては、海外旅行への始まりでもあったように記憶しております。
 高度経済成長期には、私の住む羽生市でも、社員旅行が、「ハワイ」といった好景気を象徴した、鍛冶屋から転向した農機具メーカーもありました。 

編集者
投稿日時: 2012-7-24 6:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 その30 家電の普及 本田 裕

 昭和30年代の「三種の神器」といえば、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことであるが、昭和40年代になると、カラーテレビ、クーラー、マイカーへと変わって行ったといえる。

 昭和45年勤めていた建設会社の社長宅には、最新の電化製品がありました。エアコン、ステレオ, 電子レンジ、など、一般家庭よりも先取りして、電化製品が普及しておりました。

 従業員は、会社敷地内にある、社長宅にも、度々上がることがあり、最先端を行く文化生活を見せられ、仲間の中には、大型テレビ、応接間に、ステレオを、サイドボードをと、ボーナスの時期になると、昼食の時、電気製品購入の話題で持ちきりでした。

 臨時ボーナスが出るほどだったので、物価上昇が進む中で、仲間の従業員も遅れを取ることなく電化製品に囲まれた文化生活を営んでおりました。ところで、わが家は、昭和45年頃は、ちょっと世間より遅れをとりまして、世間が新型に対して、旧型の電気製品で一応の電化生活を追っかけていたのが、当時のわが家でした。

 残念なのは、わが家で使用していた電気製品等の写真等が残っていないのが残念です。ただ記憶としてあるのが、テレビはソニー、洗濯機はサンヨー、冷蔵庫、はナショナル、であったように思います。クーラー、電子レンジはありませんでした。単純なオーブンでした。掃除機もありませんでした。もっぱらホウキとハタキでした。炬燵は家具調ではなく、単純電気炬燵でした。

 音楽は苦手なのでステレオはなく、電気製品に過剰の金を掛けることなく、まあまあの給料を私は、家の増改築のために、友達との交友のために使い、そして、働いて頂いた給与は先々、自営独立に役立つようにして行こうと微かな決意を描き始めました。

編集者
投稿日時: 2012-5-29 5:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 29 立ち上る煙

 昭和46年頃、当時を見ると高度経済成長の時代であったと云えるのだが、家電産業の成長、自動車産業の成長が著しく目立っていた。国内需要、輸出の拡大に伴い、それらの機器に付随する、プラスチック、ゴム、合板、塗料、等の有機材料の加工産業も並行して、成長して行った。このほか住宅建築の増加に伴い、日本は裾野の広い産業、経済成長の基盤が出来上がったといえる。企業は増産に伴い生産工場の敷地には、加工済みの残材が積まれていた光景を仕事がら、目にすることが多かった。私が勤めていた建設会社は、鉄、非鉄金属の回収もしていたことから、依頼を受けたところの町工場に、鉄屑などを度々引き取りに行った。また、東武鉄道の耐用年数の過ぎたレールや、型式の古い放送機器を内幸町と渋谷のNHKの放送センターにも、2トン、4トントラックで引き取りに何度か行ったことがある。

 日本の技術は進歩を続け、世の中に新製品が続々と出て、高度経済成長は消費社会の中で流行を早めて行った。その結果、増え始めたのが廃材と称する「ごみ」である。私の住む北埼玉にも行き場をなくした建築廃材、タイヤ、建設残土が雑種地等に高く積まれた光景が、あちこちに見られた。

 大きな工場の煙突からは、ボイラーを焚くために重油を燃やし、灰色の煙が上っていた。、今では考えられないことだが、リサイクル産業が整備されていなかった当時は、行き場のない、ごちゃ混ぜの廃材を燃やしているのか? 田んぼの彼方に高く立ち上る、煙の光景が何本も見られたものである。

 昭和40年代、日本の高度経済成長は環境問題を後回しにし、資源を大量に消費して、世界のトップを目指していた時代であったのではないだろうか。
編集者
投稿日時: 2012-5-8 6:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代
sumidagawa60さん

 応援、ありがとうございます。

 羽生の鍛冶屋さん、素晴らしいですね。
 
 こういう記録が、日本中のあちこちから、ここに集まればいいな

 と思います。

 これからも、応援、よろしくお願いいたします。
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