@





       
ENGLISH
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
メイン
   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
投稿するにはまず登録を

スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | 下へ
投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2014-5-27 7:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 45

 野鍛冶への道 その1

 昭和52年に刃物店を開業して、1年が過ぎ、販売、修理、そして庖丁を造るようになり、鍛冶屋としての本田刃物店が、歩き出しました。コークスは熊谷の「増野石炭店」から、松炭は岩手県水沢市の「馬場商店(当時の社名)」から、一般特殊鋼材は大里村の「熊谷特殊鋼」高級安来鋼は、東上野の「岡安鋼材」木柄は、熊谷市肥塚の「納見木工所」とのつながりが出来て、本格的に鍛冶屋としての、態勢が整いました。そして、庖丁の分野に挑戦していく一方、農道具の製造にも品目を広げて行きました。

 熊谷の「木島鍛冶店」、鴻巣市の「石井農具店」との交友ができ、万能、鍬、鎌、草かき、などの造るところを見せてもらい、富士電機時代、鉄を加工する技術経験が生き、何度か見ただけで、自分にも出来る見通しが立ち、野鍛冶製品制作の挑戦が始まりました。鉄を加工していろいろな形状を制作することは、それほどむずかしいことではありませんでした。昭和53年秋からスタートした、野鍛冶への道「羽生の鍛冶屋」奮闘の始まりです。
































編集者
投稿日時: 2014-5-11 6:25
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 44 その3

 顕彰碑建立その後

 道の駅はにゅうに建立された「あぁ上野駅」を作詞した羽生の作詞家関口義明先生の顕彰碑が、東京 朝日 埼玉 読売新聞の埼玉版に掲載され、埼玉の各地から、毎日見学者が訪れるようになりました。

 川口、春日部、さいたま、こうのす、小川など、東北出身という人が目立ちます。建立後、1っヵ月の内で、見学に来た人にどこから来たんだいと聞いてみると「宮城から東京に出て来たんだけど、女房が鴻巣なんで、鴻巣に家を建てたんだ・・・」春日部の人は、井沢八郎の唄を聞きながら、「うちのかあちゃんは、しゅっ、しゅっ、ぽっぽで真っ黒顔で青森から春日部に来て俺につかまっちゃったんだ」と面白、おかしく、話しました。

 また、除幕式にも、その後も何度も顕彰碑の前にたたずむ、見たからに紳士的な方、それも、そのはず上野をめざし50数年前北海道から上京し、東京での生活から、今は加須市に住み、加須市の観光大使として活躍されている、水戸部真正志さんでした。関口先生とも交友を持たれていた尊敬すべき方です。 歌碑の前に来てボタンを押す人は、あとを絶ちません。唄を聞いて涙ぐむ人、何回もボタンを押す人を見ていると、「また押したと、笑いながら」ソーラー、音響機器の調子を調べ、毎日顕彰碑の状態を見に来ている私なのですが、長谷川会長の信念と関口先生の奥様の協力、そして、観光協会の会長でもある河田市長の顕彰碑建立への理解が、部長、課長に難しい国の認可手続きの仕事を頑張らせてくれたといえる。

 今は、50年前、60年前を思い出し、埼玉県内を主に訪れているが、やがて、東京には集団就職で、何十万人はいるであろう上野に来た人に知れ渡るようになると、「道の駅はにゅう」は、新たな観光スポットとして、脚光を浴びることになる日も遠い日ではないだろうと予想する。

 50年60年前の高度経済成長期に故郷を離れ関東地方でまだ元気にしている70歳前後の人達は元より、50代の若い人にも、ボタンを押して井沢八郎が唄う「あぁ上野駅」を聞いてもらい、23歳の頃この歌を作った関口先生が「道の駅はにゅう」から500メートルの利根川土手際で生まれたこと、詩の素晴らしさに感動し羽生にも凄い人がいたんだと感動してもらえたら、先生の奥様、長谷川会長、11人の発起人、地元の川俣、母校の羽生実業高等学校、羽生市にとっても誇りにできる有難い宝物になる。

 今日もどこかのおじさん、おばさんが歌碑の前に立ち、石に刻まれた文字を読み、赤いボタンを押した・・・「どこかに 故郷の 香りを乗せて・・・

編集者
投稿日時: 2014-4-25 9:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 44 その2

 羽生の鍛冶屋 本田 裕 寫眞


   関口義明先生顕彰碑









   関口義明先生顕彰碑除幕式






















編集者
投稿日時: 2014-4-24 6:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 44

 高度経済成長期の応援歌「あぁ上野駅」 

 昭和39年、井沢八郎が唄った「あぁ上野駅」は日本中の人々の心を響かせた。今から50年前に大ヒットした「あぁ上野駅」のことを書き綴るきっかけが起きました。

 昭和39年といえば、東京オリンピックが開催された年でもある。また、私にとっては、富士電機の技能訓練所を卒業して、現場に配属され、配電盤、変圧器、遮断機の製品制作現場に就いた年でもありました。当時の富士電機は、川崎、日野、千葉、松本、四日市、そして吹上と六事業所があり、私が7年間勤務した吹上工場も、当時、従業員は2500人位いて、マグネットスイッチの製造増産で、従業員の募集が掛けられ、県内はもとより、東北地方からの就職者も多く目だっていました。会社では、女子寮を建て、男子には、借り上げ宿舎を用意して、雇用受け入れ体制を整えていました。どこの職場にも、福島、宮城、山形、岩手出身の従業員が機械工場、電気組み立て工場、板金、溶接工場で汗と油にまみれて、頑張っておりました。季節工といって、半年間の契約で近隣や東北から働きに来ていた人も100人位はいた記憶があります。当時は人手不足で、中学卒の若い働き手を金の卵と呼ばれた時代でもありました。東北線に乗って東京に夢を膨らませてやって来た人の数は、高度経済成長期にどれくらいいたのでしょうか、私には数えられないことです。私がいた板金工場は120人程ですが、途中入社の人は3か月の見習い期間を経てから正規雇用になる順序をたどりますがそれらの中には、集団就職で上野について京浜工業地帯の中小会社に就職して、挫折を味わい転々と渡り、吹上工場にたどり着きやっと自分の居場所を見つけたと生き生きと輝いて働いていた人がいたことを思い出しました。



 昭和40年、通信教育大学講座を勉強する機会が出来、月に1度は東京に出かけるようになりました。そして、上野で中学生が行列して上野駅の改札口を通り、広小路口の方へ歩いて行く列を目にしたことがあります。今思えば、3月の終わりの頃とだったので、修学旅行ではなく、あの行列が集団就職で来た東北の中学生だったのだと今にして思うのであります。その時には、井沢八郎の「あぁ上野駅」の唄が毎日のようにテレビから流れておりました。さて、今、何故、50年前のことを書くことになったかということですが、「あぁ上野駅」を作詞した関口義明先生は、羽生市の出身なのです。残念なことに関口先生は平成24年8月72歳で他界されました。そして、平成24年12月、私の知り合い同志が一藤うどん店で、宮崎出身の70歳の森山さんから、羽生生まれの83歳の羽生実業高等学校の関口先生の先輩である長谷川さんに、あんな素晴らしい、詩を作った人を何もしないでいいのかと、火がつけられました。長谷川さんは、よし、羽生市のために役に立つようなことをしょうと固い、熱い闘志が湧いてしまいました。火が付いてしまったからには、もう止まりません。詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建てようという決心となりました。顕彰碑を建てる場所は、利根川昭和橋際、「道の駅はにゅう」となり、国土交通省の管轄する河川法にはまる場所だけに、市の力を借りなければ到底できないことであり、市長の協力と遺族の了解、発起人会の結成、羽生市観光協会、地元自治会、羽実同窓会の協賛、そして、「関口先生を偲ぶ市民の会」を結成し8588名の賛同署名を集め、11名の役員の奉仕と関口先生の奥様から、多額の寄付を頂き、「関口義明先生を偲ぶ顕彰碑建立実行委員会」は、羽生市の商工課が窓口になって、国土交通省利根川上流河川管理局からの許可が僅か申請から20日間で下りました。びっくりする間もなく、電源はソーラー発電の設計でボタンを押すと「あぁ上野駅」の唄が流れる顕彰碑の工事に取り掛かり、その間に著作権許諾の手続き、除幕式の準備、3月30日を目指し、市長、議長、国会議員、県会議員、羽実同窓会長、羽実校長、地元、川俣地区自治会長、前会長、市役所担当部課長、関口先生の地元歌手の後援会、賛同に協力した市民、そして、ゲストとして、あぁ上野駅を唄っている歌手「立花英樹」そして後援会の皆さん総勢二百数十名の出席による盛大な除幕式となりました。

 私が今回、顕彰碑建立に関わったというのは、一生一代の「俺は諦めないと云った84歳の長谷川会長の大決断を成功させることでありました。だから私は終始、役には就かず無役を以って高齢の長谷川会長が最後までやり通せるように補ってやることでした。

 午前8時~午後5時まで、ソーラー発電でボタンを押すと「あぁ上野駅」が順調に流れます。高度経済成長期の思いでが蘇って来るでしょう「道の駅はにゅう」に是非お越し下さい。

編集者
投稿日時: 2013-5-9 10:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 43(奮闘記その12)

 (初めて庖丁を造る)

 昭和53年4月、刃物店を開業して1年が経ちました。52年11月8日、鍛冶屋の火を灯し、急きょ、即席ながらの練習修行を開始して、燃焼の加減、機械、作業道具に慣れること、岡安鋼材から仕入れた高級刃物鋼の性質テスト、などをくりかえしながら庖丁造りに挑戦しました。

 富士電機に勤務していた技能訓練所の基礎勉強と、溶接、鍛造、熱処理等の経験を思い起こしコークス炉に火を入れました。

 極軟鋼を800度程に加熱、タガネで割り込みを入れ、日立金属安来鋼青紙二号(タングステン含有)の刃物鋼を極軟鋼と共に加熱、そして軟鉄とハガネを接着させるための鍛接材の(テツロウ)をまぶして極軟鋼の割り込み部分にハガネを挟み込み、コークスの中に入れ炉の温度を上げ加熱、800度~850度の範囲内で(テツロウ)が溶け出す状態を見て、極軟鋼とハガネを素早く鍛接(ここで、村の鍛冶屋のうたの如く、火花が飛び散ります)

 つづけて、800度前後で加熱をしながら、スプリングハンマーの力で(ダンダンダンと音をたて)薄く延ばして行く、ある程度の形に伸ばしたら、酸化スケールを表面から飛ばすため、水打ちと加熱を繰り返しながら、片手ハンマーを使い金敷の上で叩いて庖丁の表面をきれいにして行きます。

 鉄の表面を平らにし、柄が入る(こみ)の部分を修正し、庖丁の形状に近づけます。その後、歪を取り、荒削りをして、焼き入れ態勢に入ります。

 油焼き入れで、一応の目安として、焼き入れ温度770度、焼き戻し温度170度で熱処理を行い、その後、研磨作業、四工程を経て、初めての黒打ち仕上げの庖丁が完成しました。
 
 今後、焼き入れ温度、焼き戻し温度と時間、磨き仕上げ、さまざまの庖丁の研究課題が待っております。

編集者
投稿日時: 2013-4-24 6:37
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 42(奮闘記その11)

 刃物鍛冶精進の道(日本刀)

 青森県陸奥湾川内町で江戸時代から先祖が燃やしていた鍛冶屋の火を昭和52年11月、先祖の血を引く私が、埼玉、羽生の地で40年ぶりに灯した。

 お祖父さんを知らない私ですから、お祖父さんから鍛冶屋の仕事を仕込まれたわけではなく「いつの間にか、お祖父さんがやっていた鍛冶屋を始めることになった」ということであり、私自身の人生の紆余曲折の試練の中から、鍛冶屋の火を灯すことになったわけです。

 その後の刃物店のことは後に記すことにして、鍛冶屋の火床にコークスが燃え、スプリングハンマーの調子に慣れる練習の日々を送りながら、鋼材の買い入れ先に足を運びました。一般特殊鋼は、熊谷市の熊谷特殊鋼、刃物鋼は東上野の岡安鋼材が買い入れ先に決まりました。

 そして、私が、勉強先として、よく足を運んだのが、熊谷の刀匠、四分一二三さんの所です。当時は秋田と山形から二人の弟子がおりました。四分一さんは、娘さんが、通信教育大学講座を勉強した私の後輩でもありました。

 そういうこともあってか、私に対しては、もったいないくらいの対応をしてくれました。
 「武州住熊谷太郎源重秀」が刀匠、四分一さんです。奥さんは八重子さん、教養を備えたしゃべりの中に、鍛冶屋を始めた私を讃える言葉が、いつもありました。

 四分一さんは、私を弟子にしたいような気持ちで、刀の鍛錬場で、刀の出来るまでを何度となく見せながら、教えてくれました。時には、私は刀の焼き入れを手伝ったこともありました。
 また、四分一さんは、日本刀を由緒あるところに奉納したり、後に酒井雄哉氏、大阿じゃ梨に刀を贈られもしました。

 刀匠、「武州住熊谷太郎源重秀」昭和53年当時の写真ですが、私は横で玉鋼を鍛えながら、32768枚の層になって刀となって行く過程をじっと見ておりました。

 四分一さんから学んだことは、いくつもありますが、また、折りに触れて記することがあると思います。

編集者
投稿日時: 2013-4-12 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 41(奮闘記その10)

 
 鍛冶屋作業場完成「神事」

 11月8日は鞴祭りの日です。「たたら祭り」とも云われ鍛冶屋が仕事を休み、鞴を清めて新米、新酒、果物、海の魚をそなえて祖神のご加護を感謝し、仕事の繁栄を祈願する祭りです。
 鞴祭りは、15世紀の中ごろから大阪、堺の鉄砲鍛冶の間から始まりました。

 伏見稲荷の御火焚の日、11月8日にお札をうけて鍛冶場に祀る風習が、日本のあちこちの鍛冶屋に関系する仕事をやっている人達に広まったお祭りであると理解している。

 私は富士電機に勤務していた昭和40年前後、鍛冶作業が多い板金工場で鞴祭りの経験がありました。未完成ながらも、スプリングハンマーの設置が済み、火床と作業台が完成したことで、十数年前に経験をしたことを想い起こし、地元の神主さんに頼んで祈願祭を行いました。

 昭和52年11月8日、祈願祭を執り行ったことで、八代目としての羽生の鍛冶屋の火が再点灯したのであります。
 これから、数々の段取りをしながら、本格的な鍛冶屋を目指しての勉強が待ち受けております。


編集者
投稿日時: 2013-4-7 7:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 40(奮闘記その9)

「鍛冶屋巡り」と機械の設置

 昭和52年秋、鍛冶屋の火を灯そうと、決意が固まってきて、当時健在であった鍛冶屋を訪ねて歩きました。
 熊谷の木島鍛冶店、鴻巣の石井農具店、小川町の湯本鍛冶店、古河市の川田鍛冶店、黒須農具製作所、などを訪ね、作業場の設備、配置を見させて頂きました。同業者だけに、親切な人ばかりではありませんが、多くが鍛造機械のメーカーや設置の仕方を教えてくれました。

 さっそく、鍛造機械の設置できる作業場づくりの準備と鍛造機械メーカーにスプリングハンマーを発注し、市内で鉄工所をやっている兄の友人の(山ちゃん)に小屋作りを手伝ってもらうことにしました。スプリングハンマーは熊谷の木島さんが使用している、新潟、三条市の寺沢鉄工所へ注文しました。

 2週間ほどで機械が東武運輸で運ばれて来ました。機械設置図を元に350キロの機械が乗るため1、5立米の生コンが打たれアンカーボルトも埋め込まれてスプリングハンマーの機械の基礎が作られました。

 そして、1週間後に上部機械ハンマー部と下部の金床がアンカーに固定され、スプリングハンマーの設置は終わり、モーターの電気配線をして、完了しました。

 急いで小屋が出来、次の段取り作業は、鞴(ふいご)の制作となります。・・次回で説明
編集者
投稿日時: 2013-4-6 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 39(奮闘記その8)

 「鍛冶屋を灯す準備」

 昭和52年秋、私の胸の内は、昭和10年頃まで、お祖父さん、お祖母さんが江戸時代から続けて来た、鍛冶屋業を営んでいた。青森県川内町の、むつ湾に流れ込む、川内川の河口のそばに、父は生まれたが私の父は家業を継がずに、上京し、日本橋の印刷屋に住み込み、働きながら現在の明治大学に通った。家業を父の兄弟達も役場や営林署などに勤め家業を継がなかったことから、江戸時代から続いた鍛冶屋の灯はお祖父さんの代で消えることになったのです。

 それから、40年間の間、大東亜戦争を経て終戦の年9月に再び、鍛冶屋の火を灯すことになる私が生まれたのであるが、幼年時代においては、鍛冶屋になることなど考えたこともなく、5歳の時は朝鮮戦争が勃発して、羽生の上空にも、轟音を響かせ輸送機が毎日通過して、私は、空を指差して、「そあ、そあ」と「ら」の発音が出来ず、空を指差しては、大人たちに笑われながら可愛がれていた記憶があります。小学6年ごろから、理科と社会が好きになり、特に気象や天文学に興味が出て大人になったら、気象庁に勤めたいと子供なりの夢がありました。

 しかし現実は夢を可能にしてくれず、14歳の頃から、父の健康が優れず、兄達3人は高校に進学出来たのですが、すぐ上の兄と、私は、就職への道を自ら決めたのです。特にすぐ上の兄は、中学1年から新聞配達をして、家計の足しをして、卒業したら新宿のパン屋に就職しました。

 私は、高校進学を諦め、気象庁に勤める夢も捨て、富士電機で技能訓練生の募集があり、5倍の競争率でしたが、何とか合格して、技能と技術への道に入ることになりました。

 父は青森の鍛冶屋のせがれ、母は羽生の農家の娘、その間に生まれたのが私であるが、先祖の血が私をじょじょに鍛冶屋の火を灯すようにしているのかと今にして見れば思えることである。

 3歳の時のまるまるした坊やが、30年後に羽生の鍛冶屋として再び鍛冶屋の火を灯すのですから、人の先のことは、分からないものである。添付写真は、幼年時代の私、先祖の家の町の風景、と昭和20年代の鍛冶屋の家で育った親族の写真を添付させて頂きますが、自分で農具、刃物を作ろうと腹が決まりだした以上、近隣の鍛冶屋見学、刀鍛冶鍛錬所での勉強、鋼材や、工具や、コークス、松炭、溶剤機器、ガスや、鉄骨や、棒や、などなど足を運んで準備体制に忙しくなることになりました。

 本田刃物店を開店して、半年後のことですから、無鉄砲と云えば、そういうことになるのでしょう。







編集者
投稿日時: 2013-4-2 7:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 38(奮闘記その7)

 「野鍛冶へのきっかけ」

 昭和52年4月10日開業の本田刃物店、手さぐりの中で初夏を迎え、農家の人から農具の、くわ万能、草削り、鎌、鉈、のこぎり、唐くわ、薪割り、植木鋏などの、園芸農作業に使う、刃物道具の依頼が飛び込んで来ました。

 ラシャ鋏、庖丁、大工道具をメインにスタートした本田刃物店です、対応に間に合わず、お客を逃がさざるをえませんでした。急きょ、産地である三条、播州、武生、土佐産の園芸農具の専門問屋を探し、三条、播州、武生の問屋とつながることが出き、取引問屋は、浅草、与板、三条、播州小野、武生の五軒となりました。得意分野に区分けして、取引することにしました。

 しかし、昭和36年から39年の3年間、富士電機吹上工場の技能訓練生時代に金属材料について基礎勉強した知識と現場経験から、当時産地で作られ当店で扱い始めた刃物商品が、私の目には、一部を除いて合格点が上げられませんでした。

 当時、ホームセンターもあちこちに出来始め、量産化された商品が、目立つようになりました。

 私の町にも、当時は、まだ金物店が頑張る中、個人のホームセンターも出来、隣りの加須にも、行田にも、館林にも、吹上にも集客力の高いホームセンターが、次々と出来、拡大して行きました。

 市場が高品質より安価商品、を目指すようになり、その流れの中で産地も機械化を図り、量産体制で作業工程省略のものづくりへと舵を切り始めておりました。そのためか、匠の仕事、職人技の商品が減り始めて来たことも問屋筋の産地事情から分かって来ました。
お客さんに満足してもらえる商品を取り揃えることの、難しさが、じょじょに、私には、壁となって、自分が作った方が、良い物が出来るのではないかと、考えるようになって来たのです。

 昭和52年夏のことでした。
« 1 (2) 3 4 5 ... 8 »
スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | トップ

投稿するにはまず登録を