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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2010-8-4 9:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 18

 東京の刃物 
 
 東京は刃物産地とは言われていないが、日本の中心だけに、商工業文化の先端が集まっていると云って過言ではない、刃物文化に於いても、少ないながら、今でも、多種の鍛冶職人が伝統を守っている。

 昭和を頂点に東京の鍛冶職人が造った、庖丁、理容ハサミ、鉋、ラシャ切ハサミ、等も東京製として、市場に出回っていたが、騒音の問題で近県に移転したり、地方への下請け依頼等に切り替え、東京都内での、鍛冶屋刃物の生産は、昭和の50年頃から減少して行きました。

 しかし、東京製刃物の中で、刀匠の系図を引き、明治7年生まれ~昭和32年没(本名加藤廣)の「千代鶴是秀」の鉋は有名であり、また、昭和の高度成長期には刀匠「水心子」の銘で庖丁や握りハサミが刃物専門店で販売されておりました。

 東京刃物は、戦国、江戸時代からの刀鍛冶が明治になって、実用刃物への転換をして東京刃物として形成して行ったのでした。

 日本刀製法技術が原点の東京製刃物には、優れたものがありましたが、私は、ラシャ切鋏を高く評価したいと思います。「長太郎、正次郎、長勝、兼吉、増太郎、庄三郎、菊和弘、本常正、団十郎、聡太郎」などの銘がハサミに刻印され、日本全国の縫製業者を中心に工場から服装学院、家庭に至るまで広く愛用されていたのであります。

 平成になった今日、東京で鍛冶屋として刃物を製造している軒数は10軒程になっているのではないかと思います。

 しかし、東京はなんと云っても日本の東京です、浅草、日本橋、築地、合羽橋と東京には有名刃物店、道具街、があり日本の刃物産地から、ドイツ、海外から、刃物、利器、道具が集まり、販売競争にしのぎが削られているのです。
編集者
投稿日時: 2010-8-8 8:22
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 19

 私の人生観に幅を持たせてくれた”大学講座”との出会い

 前回まで、刃物産地の鍛冶屋事情等を話して来ましたが、昭和40年代の私の個人史に戻り話しをて参りたいと思います。

 昭和40年、重電機メーカーで働いておりましたが職場の人から、「通信教育大学講座」という、生涯教育の受講の勧めを受けました。知られざる教育者、生涯教育の先駆者、「高瀬兼介」先生との出会い、18人の指導教授との出会い、日本全国、北海道から九州までの、何千人もの受講生との出会いの機会を得ました。

 鉄と共に歩んで来た5年間でしたが、鉄とはおよそかけはなれた、文化系の学問=”大学講座”に出会えたことは、私の日常の生活に変化をもたらし、私の人生観に幅を持たせてくれたと思います。

 通信教育という指導教授の教科書をもとに、ゼミナール、地区学習会、等を通じて、2年間で選択科目最低4科目以上の論文の提出と合格点が卒業の条件でありました。12年間で30707人入学し、9227人が卒業を果たしました。私は最低で卒業させて貰いましたが、20科目提出の優秀な受講生は28人おりました。

 戦後、女子高を対象とした文集、「いづみ」から出発して、誰にでも学べる、大学解放をめざし、高瀬主幹の生涯教育に賛同した18人の指導教授は、全国の受講生に、また、狭い視野の中で生きていた私達に、広がりのある知識を与えてくれました。

 当時、各大学の教授であった「青木生子、一番ヶ瀬康子、氏家寿子、大石康彦、佐藤慶二、佐藤輝夫、高村勝治、田中美知太郎、森進一、辻ひかる、戸川行男、中野卓、二戸田六三郎、松木光、松田寿男、湯浅明、吉田精一、和久利誓一」の主幹を入れて19人の先生方の書かれた日本古典文学、社会福祉、生活管理、経済学、現代思想、フランス文学、英米文学、哲学、ドイツ文学、心理学、社会学、宗教学、栄養学、世界文化史、科学史、生物学、日本近代文学、ロシア文学、政治学、人生論、の教科書は、”心のこもった愛の書”でありました。

 私は、一生懸命勉強をすることはありませんでしたが、高瀬主幹との出会いが、丁度、技能五輪大会への県大会に向けての時期であったこともあり、高瀬主幹の人生論を読んだ私は、励まされ、自分に負けてはいけないと、熱い闘志を燃やすのでした。

 「希望、真実、愛情、信頼」の精神が、後の鍛冶屋人生の中で、困難を乗り越える時、人の幸せを願う時、お客さんの笑顔が見える仕事をめざす時など、大学講座で学んだ多くのことが、今の私を前向きに進ませてくれております。


sumidagawa60
投稿日時: 2011-5-8 0:03
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋さん、なんとか続きをお願いします!
5000件の閲覧ヒット、おめでとうございます。

ところで、昭和の初めにお爺さんの代で、一旦は、
火が消えた羽生の鍛冶屋さんが、どのようにして
この平成の世によみがえったのか、その辺のいきさつを
是非、語ってください。

今、全国のどこの町でも、所謂”職人技”が消えようとしてます。
もったいないことです。

もうすこし、この国のリーダーがしっかりしてれば、こういうことにも関心を持って取り組んでくれるのでしょうが、残念ながら、今の政治家は庶民の思いには疎いようです。

そうです、なんでもそうですが、個人が、できることから始めることが大切かと思います。

引用:

kousei3さんは書きました:

 私の人生観に幅を持たせてくれた”大学講座”との出会い

 前回まで、刃物産地の鍛冶屋事情等を話して来ましたが、昭和40年代の私の個人史に戻り話しをて参りたいと思います。

 昭和40年、重電機メーカーで働いておりましたが職場の人から、「通信教育大学講座」という、生涯教育の受講の勧めを受けました。知られざる教育者、生涯教育の先駆者、「高瀬兼介」先生との出会い、18人の指導教授との出会い、日本全国、北海道から九州までの、何千人もの受講生との出会いの機会を得ました。

 鉄と共に歩んで来た5年間でしたが、鉄とはおよそかけはなれた、文化系の学問=”大学講座”に出会えたことは、私の日常の生活に変化をもたらし、私の人生観に幅を持たせてくれたと思います。

 通信教育という指導教授の教科書をもとに、ゼミナール、地区学習会、等を通じて、2年間で選択科目最低4科目以上の論文の提出と合格点が卒業の条件でありました。12年間で30707人入学し、9227人が卒業を果たしました。私は最低で卒業させて貰いましたが、20科目提出の優秀な受講生は28人おりました。

 戦後、女子高を対象とした文集、「いづみ」から出発して、誰にでも学べる、大学解放をめざし、高瀬主幹の生涯教育に賛同した18人の指導教授は、全国の受講生に、また、狭い視野の中で生きていた私達に、広がりのある知識を与えてくれました。

 当時、各大学の教授であった「青木生子、一番ヶ瀬康子、氏家寿子、大石康彦、佐藤慶二、佐藤輝夫、高村勝治、田中美知太郎、森進一、辻ひかる、戸川行男、中野卓、二戸田六三郎、松木光、松田寿男、湯浅明、吉田精一、和久利誓一」の主幹を入れて19人の先生方の書かれた日本古典文学、社会福祉、生活管理、経済学、現代思想、フランス文学、英米文学、哲学、ドイツ文学、心理学、社会学、宗教学、栄養学、世界文化史、科学史、生物学、日本近代文学、ロシア文学、政治学、人生論、の教科書は、”心のこもった愛の書”でありました。

 私は、一生懸命勉強をすることはありませんでしたが、高瀬主幹との出会いが、丁度、技能五輪大会への県大会に向けての時期であったこともあり、高瀬主幹の人生論を読んだ私は、励まされ、自分に負けてはいけないと、熱い闘志を燃やすのでした。

 「希望、真実、愛情、信頼」の精神が、後の鍛冶屋人生の中で、困難を乗り越える時、人の幸せを願う時、お客さんの笑顔が見える仕事をめざす時など、大学講座で学んだ多くのことが、今の私を前向きに進ませてくれております。


編集者
投稿日時: 2012-1-7 6:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 20 本田 裕 退社への選択

 昭和40年代、日本は高度成長の時代を迎えた。私は、大手電機メーカーで働いていた。増産増産の勢いが工場の中にも表れ、毎日が残業でそれでも間に合わない位、受注が増え続いていた。臨時工が毎週50人ずつ募集され、私が入社した昭和36年には1600人であったが、埼玉工場の従業員も43年には3000名近くまでになっていた。
 その反面、会社組織の拡大の中で辞める者も多く、組織に順応出来る人、出来ない人が目立つようになっておりました。

 私と同期に入社した30名の内16名が6年間の内に公務員への道を選び夜学から大学へと選択した者、運送業、建築業、洋品販売業、電気部品組み立て業、設備工事など自営業独立の選択をして辞めて行きました。同期の16人が辞めていく中で、私も、いつか独立したい目標が芽生え始め、入社7年目は、一生会社人間でいるより、もっと幅広い経験を積んで独立したい方向に気持ちが傾いて行きました。高度成長の始まった昭和40年代には、仕事には不自由をしない下請けからの起業を起こすチャンスが転がっておりました。私も、今の技術に磨きをかけ、鉄一筋の武者修行の道を歩むことに決意が固まり、入社7年で退社の選択をしたのでした。

 私に多種の技能を学ばしてくれた重電機メーカーを昭和43年3月28日退社・・・さあ、羽生の鍛冶屋はどこへ行く?
編集者
投稿日時: 2012-2-10 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 21 初めての職安

 さて、7年間技能の学ばさせてもらい、勤務した重電機メーカーを退社する決断をして、退社の前に職探しに初めて行田、春日部、越谷、の職安に行きました。

 職種ごとに求人欄に相当量の募集カードがケースに置かれておりました。私に該当する会社は、溶接工、鉄骨、製缶、等の職種が50社から100社以上、求人をしておりました。より取り見取りの求人ラッシュの様相でした。どれにしようかと選ぶのが大変でありました。私は、大企業ではなく、中小企業よりも、小さめな会社を選びました。溶接、製缶の技能が生かせる、中小河川の水量を自動的に調節をするダムを制作、施工をする会社を、第二の就職先に決めました。

 しかし、入社して、早くも、武者修行の第二の就職先で待ち受けていた試練は、いじめに遭うことから始まるのでした。この続きは次回に・・・
編集者
投稿日時: 2012-2-18 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 22

 新しい職場を見つけて、就職したものの、そこで待っていたのは、いじめでした。作業現場は主に溶接の仕事が多かったのですが、20代、が主で、30代、40代が数人、総勢30人足らずの小さな会社でした。入社して一週間位は何でもなかったのですが、10日目頃から、作業ノルマを余分に与えられたり、工場内の勝手がまだ分からないのに、図面だけ渡されて、これやっておいてくれと、指示を出され、あとは、聞いても、応えてくれず、自分で材料を探し出し、福岡出身の加藤さんだけが、親切に、工場内のことを教えてくれました。武里団地から通勤していた加藤さんのおかげで指示された仕事もやりこなすことができました。私より先に入社していた人の何人かが、私の溶接技術にねたみを持っているような感が見られました。それは、何かと、やりずらいところの溶接をさせることでした。
 入社して、一ヶ月が過ぎた頃、休憩時間の時、少し離れていた私の耳に、私への、ねたみの会話が聞こえました。
 はっきりと記憶にはないのですが、入社したばかりなのに、自分たちが入社した時より待遇が良すぎることへの不満のように聞こえました。高度成長期における、人出不足の中で、技能者を求める企業にとって、資格等を持った技能者に高待遇で受け入れたことが、時には私のように、どこからか情報が漏れたのか、職場の人間関係に悪い作用での経験をさせられました。2ヵ月の短い期間の中で、本社部長の工場長が、ある日映画を見に行こうと、浅草の映画館へ、そして、葵丸新の天ぷらをご馳走してくれたことが、何より楽しい思い出です。しかし、二週間後、私は、別な理由をつけて、退社したのでした。
編集者
投稿日時: 2012-3-1 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 23 2度目の職

 昭和43年6月、転職2度目の職に付きました。その職種は、鉄筋屋という、野帳場の仕事です。兄がこの仕事をしていたことから、1年間をめどに、手伝うということで、経験を積むことを含め、建設現場への通勤が始まりました。

 当時は、高度成長の中で、公団の建設、高速道路、新幹線、高層オフィスビルの建設、などが目白押しで、建設されておりました。私が、初めて鉄筋配筋の仕事に付いたのは、当時の大宮市の地銀の本店建設現場でした。大手建設会社が元請けとなり、8階建ての鉄骨に、加工した鉄筋を結束線で縛り、コンクリートを打ち込む仮枠内に寸法通りに組み立てて行くのが鉄筋屋の仕事なのですが、建設現場には、日雇い感覚の職人が組を作って作業しておりました。高い日当を求めて、請負による多業種の職人が建設現場内で請負金額内で完了するために汗を流しておりました。

 地銀の本店には、仲間の車で通っていたのですが、サニーとカローラがしのぎを削るマイカー通勤のはじまりの時代でもありました。私も車を持ちたい、そんな欲が出たのか、保証は無くとも、車を買うための高収入の鉄筋屋の仕事で都内の建設現場を兄達の仲間と渡り歩きました。次回は電車通勤で都内現場へ通った様子などを記したいと思います。
編集者
投稿日時: 2012-3-4 6:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 24 鉄筋屋

 鉄筋屋という仕事は、請負が主で、コンクリート打ちこみが迫り間に合わなくなると、仲間の同業者から、梁やスラブ(床)配筋の時、臨時に応援の声が掛かります。そのような時は通常の日当の5割増しとかになるため、喜び勇んで、同業者仲間の現場に行くことになり、3日とか1週間で現場が変わります。そのために、都内を中心に、転々と渡り歩きます。当時の郵政省(14階建て)、赤羽駅東口の今は無きダイエー、西口に建設された5階建ての公団アパート、溝の口の事務所ビル、中野のマンション、浦和東口の西友、そして浦和郊外の社員寮など、電車を利用して、現場通勤を致しました。

 当時は、羽生から東武電車に乗り、久喜で東北線にのりかえ、都心に向かいました。都内に通勤するサラリーマンで、電車内はぎゅうぎゅう満員で座れることはまれなことでした。帰りは始発である上野駅から乗ることを選びました。それは、座席に座れるからで、仲間の中には、酒の好きな人が多く、今では考えられないことですが、電車の中では、裂きイカや、柿の種をつまみに、飲酒が目立ったものでした。帰りの東北線電車内は、ハツリ屋、仮枠大工、などの都内で仕事を終えた見慣れた人達の会話で賑やかでもありました。

 私にとって、鉄筋屋の仕事は製図を学んでいたことで、難しくはありませんでしたが、50キロから60キロの鉄筋棒を担ぐ作業なので、肉体的には、きつかったのかもしれませんが、若かったせいもあり、苦にはなりませんでした。郵政省での仕事をした時、14階のてっぺんで作業しながら、霞が関ビルや、東京タワー、番号が書かれた森ビル、下の道路を見下ろせば、交差点で堰を切るように走りだす車の列、まさしく、アクセルをふかして日本経済が急成長して行くような光景でありました。
sumidagawa60
投稿日時: 2012-3-8 23:23
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋さん誕生の秘話、いよいよ佳境に
羽生の鍛冶屋さん

お久しぶりです。

KOUSEI3さんのご尽力で、昭和の個人史Ⅱ(~高度成長期)
区分が設定されましたね。

お陰で、羽生の鍛冶屋さん誕生のいきさつが語られることとなったことを、ご当人はもとより、読者の一人としても共に喜びたいと思います。

どうぞ、今後とも貴重な個人史を披露されることにより、
「時代の語り部」としての役割を果たされんことを期待してます。
編集者
投稿日時: 2012-3-19 6:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 25 鉄骨建築の時代

 昭和43年~44年にかけての鉄筋屋の経験も終りとし、鉄骨建築の経験をしようと、加須市の個人経営の鉄骨屋へ転職しました。社長と奥さんと従業員一人のところへ、私は敢えて勤めることにしました。個人事業の経験のためです。200坪の敷地に100坪の建屋、その中に原寸場と溶接機3台、シャーリング、コンプレッサー、トラック2台の町工場です。その鉄骨屋は農家をお得意とする仕事が多く、仕事の半分以上が農家相手でした。

 当時の米作り農家の主は、土木建設工事に出稼ぎ、または、製造業会社に勤め、収入の増加で、金銭的にも余裕が出来て、トラクター、乾燥機、などの農業機械を入れる作業場を鉄骨で作る農家が増えてきたのです。

 そういう時代変化で、木造から鉄骨加工の仕事が急激に多くなり、私が勤めた小さな鉄骨屋でも、注文はやりきれない程、増えて行きました。
 私は、現場合わせの鉄骨作業で、村のあちこちで、景気の良くなって来た農家の作業場制作に、現場工法で携わりました。このころ、兼業で景気の良くなった農家が、藁屋根の家から、瓦ぶきのベランダ付きの二階建ての家を建て替える家が、目立ち始めたのもこのころです。

 高度経済成長時代の中で、鉄骨建築の視点から農家の生活文化の成長を見ておりますが、羽生の鍛冶屋が、平成時代になって、農家と切っても切れない、農家の応援団としての仕事をすることになろうとは、昭和44年ごろの私には、想像もつかないことでありました。次回も、そのころのことで思い出すことが出てきましたら、鉄骨の仕事を通じて当時の経済成長話しをしたいと思います。
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