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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-26 23:05
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋・その4 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

鍛冶屋の職人技を、どのようにして身につけられたのかが、よくわかりました。職業訓練所と就職された企業での修行の中で、鉄の扱い方を身をもって覚え、独立されてから、いろんな現場の中で、鉄の扱いの技を磨かれ、お爺さんの遺伝子をよみがえらせたのですね。
素晴らしいことです。普通は、お父さんのもとで修業をして、技の伝承となるものですが、自らの努力によって道を開かれたのは、並みの苦労ではなかったとしのばれます。
でもそういう、努力の中から、日本の伝統である職人技が、よみがえったことは、獲得されたメダルとともに、賞賛に値します。
どうぞ、これからも、8代目鍛冶屋の技を、磨いてください。
編集者
投稿日時: 2010-3-29 7:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その5 本田 裕

 村の鍛冶屋のうた

 昨年、羽生市の音楽愛好グループの皆さんが文化ホールで「村の鍛冶屋」の歌を合唱しました。
 村の鍛冶屋の歌は大正元年につくられました。作詞作曲は不詳で4番まで歌詞がありました。
 私たち、昭和生まれの世代では昭和60年頃までは、小学生の音楽の時間に2番まで唄った記憶があるのではないかと思います。
 戦争に突入したり、終戦になったりして、歌詞は部分部分変えられたりしました。私も気分が良い時などは、ハンマーでリズムをとりながら、口ずさむこともあります。

 鍛冶屋の仕事は、鞴(ふいご)で風を送り、800度に加熱した、真っ赤な鉄をコークス炉から取り出して、素早くハンマーで叩くと、飛び散る火花は、歌の如く、鍛冶小屋に火の花を咲かせるのです。
 羽生の鍛冶屋さんの入り口の壁に、1番の歌詞が書いてありますので添付いたします。

  コークスと 鉄の臭いの中にして 日々鍬をつくる 春待ち乍ら








sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-29 22:43
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋・その5 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

その5もなかなか読みごたえのある文です。
鍛冶屋さんのトテティンカン、々、という音が聞こえてきます。

ところで、短歌については、小生は門外漢ですが、
なかなかよい生活短歌と思います。
が、
中段の「鉄のにおいのなかにして」の「して」には何か
特別の思いがありますか?小生は勝手に、「なかにいて」のほうが良いと思うのですが?僭越ですが。ご教示ください。

編集者
投稿日時: 2010-4-3 9:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その6 本田 裕
 羽生の鍛冶屋に羽生市立南中学の先生が訪ねてきました。
 子供たちに、職場体験学習を、お願いしたいということでした。3年前のことであります。
 8年前にも、やったことがあるので2度目の依頼であるので私は、快く引き受け、前回、準備不足があったので、3年前は、順備もしっかりとやって、安全を第一に、2日間10人の1年生の生徒に、真っ赤な鉄を曲げたり、押し切りで鉄を切らせたり、鉄と鉄を溶接をしたり、そして、私が、手を貸しながら、くわを造る体験をさせました。

 子供たちは、オー、オーと声を出し乍ら、体を斜めにしながらも、10人の生徒が、交替しながら、立派に使えるくわを完成させました。
 2日目は、カマと庖丁の研ぎ方を教えました。手助けしながら、ねぎ、大根、トマトなどを切らせて、切れるようになった庖丁に、うわー、すげーと声を出しながら、ハシャイデおりました。      
 午後は研いだカマで、鍛冶屋さんちの庭の草取りをさせ、体験学習を終えました。

 これも、昭和30年代に技能訓練所での、技能訓練を受けた経験が、子供たちに体験させる機会をつくることが出来たのだと思います。
 技能訓練所で学んだ基礎技能は、沢山あります。何年か先には、大人を対象に、生活に役立つ技能指導の日を設けた工房を考えて見たいと思っております。

 中学生の子供たちは、夏休みの終りに絵入りの体験作文を書いて届けてくれました。、
 そして、私が嬉しかったことは、数人の生徒の父兄が、貴重な経験をさせて頂き・・・とあいさつに見えられたことでした。


















編集者
投稿日時: 2010-4-6 7:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その7 本田 裕
 
 職場配属への第一歩

 私は、昭和39年に3ヵ年の認定職業訓練、技能訓練所を卒業しました。卒業と同時に重電機メーカーの、変電所や大きな工場にある変圧器、遮断機、配電盤の本体の製造部門の職場に、配属されました。
 3000人近く働く工場の中の、私の職場は100人程の、男だけの職場です。技術的には、溶接、板金、製缶、鍛造、プレスに関する技能をもって、1チーム10人の役割り分担で、製品が造られておりました。                        
 専門的になりますが、変圧器、遮断機、配電盤は、鉄板、アングル、チャンネル、といった、1トン近い重量の鋼材が、図面に基づいて、リーダーの指示に従って、正確に、制作して行きます。私の職場には、溶接、板金等に、高い技を持った先輩がおりましたから、私は、先輩のやっている仕事を盗むことが、仕事の中での仕事でもありました。 
 会社勤めという組織の中は、出世競争が潜在する中、ライバル心が強く、その反面、それが良い意味での、技術の向上の原動力でもあったように思えます。
 技能訓練生という、肩書きをもって、職場に配属された私は、常に、先に出て、上でなければならない、プレッシャーもありました。当時、年若い私は、人間関係の調整が未熟でありました。そんな、大組織の職場で、本庄市から通勤していた高橋さんは、1年制の職業訓練所を卒業した先輩ですが、私には、良く面倒をみてくれた 三ッつ年上の兄貴的存在でした。
 溶接は、金子先輩、板金は羽鳥先輩、製缶は荻原先輩、鍛造は柳田先輩、の指導と技を、「盗む技こそ」が、自分の腕を向上させ、職場の中で1番にならなければならないという「負けず嫌いの私に」成長させたのではないかと思います。
 
    火花飛ぶ グラインダーに 向かい合う 防塵マスクを しっかり付けて










編集者
投稿日時: 2010-4-7 8:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・8 本田 裕

 初めての給与

 昭和36年4月1日、私は企業が技能者を養成するために設立した、技能訓練所へ2期生として、同期の30名と共に入社しました。
 一般入社と違い、生産活動をしないために、会社は、3年間で、一人あたり、当時の金で300万の訓練教育費を掛けたようです。
 4月1日に入社式を行い、訓練センターでの、本格的な授業と、基礎訓練が始まりました。
 ヤスリ掛け作業とハンマー打ちの訓練、初めて回した旋盤、毎日、毎日基礎訓練が続きました。一ヶ月も経たないうちに、左手の親指と人さし指は腫れあがり、右手の掌は血豆と共に皮がはがれて、茶碗も箸も満足に、もてないほどでした。

 厳しい訓練が始まって、無我夢中の4月28日に、担任の先生から、印刷された茶封筒が渡されました。「手当」と書いてありました。
 社会に出て初めて頂いた給与です。1年生は6千円、2年生は、7千円、3年生は8千円が給与に当たる手当でした。
 そして、私が、4月に手にした、初めての手当、給与は、家に帰ってから開けて見ました。「3925円」入っておりました。
 封筒の中から取り出し、貧乏の仲間入りをした、わが家のことを考えると食いぶちとして、2000円、おふくろに渡しました。


編集者
投稿日時: 2010-4-10 8:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・9 本田 裕

 衣料の町羽生とハサミ

 自分自身の鉄の仕事から離れて、昭和の時代に、隆盛を誇った衣料の町羽生の、当時を語りたいと思います。今は、海外に圧され元気がなくなりましたが、昔は仕事が山ほどあり、金持ちが多く、裕福な町でした。

 戦前戦後の羽生は、足袋と被服の製造、販売によって、栄えました。昭和30年代、私の記憶の中には、町の何処へ行っても、ミシンの音が鳴り響き、大小合わせて数百社もあり、1万人以上の市民が、(じいちゃん、ばあちゃん、子供)までが、なんらかの地場産業の衣料に関わっておりました。羽生駅の朝,夕は近隣市町村から被服工場に勤める1000人近い女性が電車に乗降して広場やホームはごった返しました。

 駅通りには衣料問屋が立ち並び、店の中は、地方から、買い付けに来た小売屋さんが、商談をしていた光景が目に残っております。

 また、羽生市には、「ああ、上野駅」の作詞家がおりますが、集団就職の時代、羽生市に昭和20年代から、40年代にかけて、東北から、述べ、一万人を超える若き女性が、被服工場や繊維加工工場に集団就職して、衣料の町で汗を流し、羽生の衣料を支えておりました。

 そこで、被服製造に欠かせないのが、裁ちバサミ、小バサミ、裁ち庖丁、目打ち等です。これらの、刃物は、当時は、東京、三条を中心とした、ハサミ職人が作っておりました。このハサミを羽生市に於いては、鍛冶屋が造ったハサミが被服製造に活躍して、その数は、昭和40年当時の羽生市の人口44000人を上回る(50000丁)前後の裁ちバサ、小ばさみ、が繊維に関する地場産業に、活躍していたものと推測されます。町には、専門にハサミを扱う店や研ぎやさんが目立つ程ありました。

 昭和40年は、私は重電機メーカーで、鉄に関する技術を修行していましたが、12年後に羽生の地場産業の、縫製に欠かせない、ハサミの修理に、「羽生の鍛冶屋」再点灯と共に、大きく関わることになります。そのお話しをするのは、まだまだ、先になりますが、お楽しみに!
sumidagawa60
投稿日時: 2010-4-12 7:33
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 衣料の町羽生について
集団就職の時代、懐かしいですね。

井沢八郎が唄った、「ああ、上野駅」は、間違いなく歴史に残る
日本の名歌のひとつです。昭和の40年代の日本の高度成長期の
一歩手前の30年代の農村から都市へ労働市場が転化する時代の雰囲気を見事にとらえてます。

「どこかに、故郷の香りをのせて・・・♪」

この、作詞者の関口義明氏が羽生生まれで、まだご健在で作詞家としてご活躍中とのこと。

当時は、日本は、繊維産業が全盛のころ、小生の生まれ故郷、愛知の一宮も紡績会社が点在し町はニット産業で栄えておりましたが
、今では、見る影もありません。

時代の、変遷とはこういうものなのでしょうか?



sumidagawa60
投稿日時: 2010-4-14 20:17
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 集団就職列車の時代について
「上野は、おいらのこころの駅だ・・・♪」に代表される原風景について。一言、三言。
町の古老からの聞き語りです。

当時は、羽生も縫製屋さんが景気が良く、どこの会社も商店も人出不足。人材を求めて、総務課長さんは、東北の中学校を歩きまわり、今でいう、逆就活です。

そして、採用された子供たちが集団列車に乗って、上野駅に着く頃、出迎えに出て、旗を振って、そのまま、東武電車に乗せて、羽生まで、延べ何千人という女子を連れ来て、作業場でミシン掛の仕事を覚えてもらって、商売をこなした時代が懐かしいとのことです。

そうして、東北から出てきた、子供たちは、夜は会社が経営する
裁縫学院で、行儀見習いをして、大人になって、町の青年のところに、お嫁にいった子もあれば、途中で、東京に憧れて、夜の街の女性になった方もあるとか。悲喜こもごも、人生いろいろです。

現代版、女工哀史かもしれませんが、間違いなく言えることは、そういう子供たちが、来るべき日本の高度成長時代の原動力となったことは間違いありません。

編集者
投稿日時: 2010-4-16 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・10 本田 裕

 集団就職

 ところで「集団就職」ですが、お客さんで、昭和40年頃、従業員40人程の縫製工場に就職した人がおりまして、先日、当時のお話しを伺うことが出来ました。                      
 以下の取材内容です

 [社長が宮城出身であることから、同郷からの人が多かった。途中で辞めて宮城へ帰った同僚もいたけれど、私は、辛抱して、ミシンの技術を一生懸命身に付けた。社長が、家族同様に私達を大切にしてくれた。成人式に着物を作ってもらった、羽生に縁あって、結婚する時も、社長が、嫁入り道具を買ってくれた。会社は、もうやってないけれど、私が青春時代過ごした、工場の一部と住まいは残っているので、今は、実家に行くようなつもりで、私と同年代の倅さんや娘さんと兄弟のような気持で、お付き合いをしている。私は、小さな、集団就職だったけど、社長さん達にミシンの技術を教わり、それが、10年前まで、生活の糧に役だった。今は、孫を連れて、実家と想うくらい、社長の家に遊びにいくのが、楽しみで、しあわせである]と語っておりました。

 この方は、現役の時は、働き者で、腕がよく、だから、私が、鍛冶屋の火を灯してから、ハサミを扱うようになり、東京の名工の造った最高級の裁ちバサミと三条にいた、小バサミ職人の手打ちの製品を何丁も買ってもらいました。

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