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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     飛行戦隊中隊長新海希典
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編集者
投稿日時: 2009-7-8 8:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
飛行戦隊中隊長新海希典

 はじめに

 スタッフより

 この記録の転載につきましては

 特攻隊慰霊協会
  事務局 羽 渕 徹也 様

 のご了解を頂戴しております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 陸軍挺進部隊銘々伝⑤
           田中 賢一

 飛行戦隊中隊長新海希典

  最初の出会い
 
 昭和17年4月初め頃と記憶するが、第一挺進団司令部はラングーンにあり、私は司令部の部員だった。内地で編成された挺進飛行戦隊第四中隊が到着するというので、私は高級部員に命じられてミンガラトンへ迎えに行った。ミンガラトンはラングーン郊外にある飛行場である。飛行戦隊主力は南方軍の輸送任務に就いており、まだビルマに来ていなかった。

 電報で知らされていた時刻通り飛来し、中隊長機を先頭に着陸した。機種は百式輸送機(通称MC) である。12機が着陸したが、うち2機が滑走路から僅かに飛び出して草むらの中に止まった。その前に中隊長新海大尉が降りてきたので、私は初対面の挨拶をしたが、内地の厚手の飛行服の上衣のバンドは締めてなく、ズボンはずり落ちて臍が見えている。軍刀は操縦席に置いて来たのか、持っていない。この人の風評は聞いていたが、中々の大物と思った。最後の機が着陸するのを待って全員を集合させ、滑走路から飛び出したことについて激しく叱った。この飛行場の滑走路は当時舗装してなく、赤土を転圧しただけだったので、飛び出した2機も人力で飛行場内に戻すことが出来た。


 新田原における訓練振り

 ラシオ空挺作戦は目標の30分前まで行ったが、天候不良で進入出来ず引き返し、取り止めになった。パレンバン作戦時は、飛行戦隊は3個中隊で、新海中隊は残念の極みだった。南方の進行作戦も一段落し、挺進団は内地に帰った。

 挺進団司令部は挺進練習部に復帰し、挺進聯隊や挺進飛行戦隊は練習部の隷下となり、練習部と飛行戦隊は新田原に位置した。私は練習部の本部で教育訓練担当の幕僚となった。落下傘降下は、今までは昼だけ実施していたが、上司の指導もあり、これからは夜間降下の訓練も行うように指示を出した。

 指示した手前、やってみなければわらぬと、私は教育部と研究部の若手と計り、新田原飛行場で初めは月明時、次は暗夜に実施してみた。開傘衝撃を感じても傘が正常に開いているか、占検するため懐中電灯を携行したが、暗夜であってもその必要はないことが判明した。

 さて、この指示に基づき、挺進飛行戦隊では夜間飛行を盛んに行い始めた。中でも新海中隊は徹底していた。新海は下宿を引き払い、中隊長室に寝泊まりして、昼夜転倒で訓練した。毎晩毎晩爆音の絶えたことがない。週番司令は、戦隊と司令部の大尉か古参中尉が就くことになっており、私も何回か上番したが、新海中隊の訓練振りには呆れてしまった。中隊整備班長の武田中尉は53期騎兵から航空に転科した人で、私の1期後輩、旧知の間柄なので私のところに来て、空中勤務者は昼間寝るからいいが、整備は昼やらねばならないし、夜も寝ているわけにはいかないし、何とかするように新海さんに話してくれないかと言ってきた。

 私が言ったわけではないが、戦隊内でも問題になったらしく、新海中隊は西筑波飛行場に転地訓練に行くことになった。そこでも猛訓練を続けたらしい。ある1機が翼端を飛行場脇の大木に引っ掛けたが無事着陸し、操縦者が降りて見て驚いた。翼端が千切れてない。中隊長に報告したら「居眠り操縦か」と一口言っただけだったという。


 二回目の出動

 昭和18年5月、再び第一挺進団に動員が下令された。ニューギニアのベナベナハーゲンに敵が飛行場を設定しているので、それを奪取するのが目的だった。飛行戦隊長は前回と同じ新原少佐、新海中隊は第一中隊となった。挺進聯隊はペリリユー島に、飛行戦隊はルソン島のストッチェンバーグに進出し、作戦準備をした。ニューギニアのウエワクを中継基地とする計画だったので、ここに先遣隊を出した。

 結局この作戦は第十八軍で検討した結果、地上進攻が不可能ということで取止めとなった。新海大尉が先遣隊の一員としてウエワクにいる時大空襲を受けた。皆壕に退避したが新海だけは地上に胡坐をかいていて、敵機の攻撃振りを仔細に観察していた。

 新海は挺進戦隊在隊間、訓練では名を残したが、武運には恵まれなかった。この人が戦史に強い足跡を残したのは、第二独立飛行戦隊長時代及び戦死した第六十二戦隊長の時である。それについては、別の標題を掲げて述べることにする。
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