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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記-
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編集者
投稿日時: 2009-6-27 20:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1









 恐怖の日々、そして平和への願い
              小松 英子



 戦争が烈しくなって、本土にB29が来襲するようになった昭和二十年、私は池上線の池上徳持町という所に祖母と母、兄、弟二人と暮らしておりました。父は軍隊の徴用で、滅多に帰って参りませんでした。真ん中の弟は農家に預かっていただいておりました。

 毎晩のように、警戒警報のサイレンが鳴ると、枕元に用意した防空頭巾とリュックと水筒を持って庭に作った防空壕に入り、解除になるのを待ちました。リュックの中には学用品、食料と、なぜか白い新品の運動靴が入っていました。

 ある日、それは五月二十五日でした。空襲警報になり、防空壕でも危ないと知らせが来ました。母と兄はもしもの時の消火活動のために残り、私と一番下の弟、祖母と身体障害の弟、と二組に分かれて、町会の人の誘導で避難することになりました。あれは確か、第二京浜国道沿いの池上本門寺の近くか、まだ先の馬込の方向に向かったような気がします。焼夷弾が火を放って落ちてくるのが、暗い空にとても近く感じられ、この辺りも危ないと、また違う場所へと逃げました。私は幼い弟を離すまいと、しっかり手を握って、みんなについて行くのが精一杯でした。

 空襲警報も解除になり、わが家の方に戻って行くと、辺りは見渡す限り、駅の方まで家が残っていません。私の家も煙が出ていて全焼でした。母と兄は必死に消火したそうですが、身の危険を感じて、やはり近所の人と一緒に逃げたそうです。

 後日、道路の空地に焼夷弾のもえかすが山のように積まれていたのが怖いようでした。防空壕の中からは、骨組みだけ残ったミシンと、金属製の箱の中の着物類が半分くらい焼け残って出てきました。いつまでもこげ臭いにおいがしていました。

 その日は町会のお世話になりましたが、私共はすぐに祖母の親類を頼って寝泊りできる所を求めて等々力に行きました。母と兄も焼け跡の整理をしてから遅れて来ましたが、その家にはすでに別の焼け出された親類が入っていて、あちら七人、こちら六人の大家族が半分ずつ使う賑やかな生活が始まりました。

 五月二十五日の大空襲で多くの同級生が焼け出されました。無線機の組み立て作業をしていた学校工場も、この日を境になくなりました。その後、疎開しないで残った女学校三年生の私達に与えられたのは召集令状書きの仕事でした。

 渋谷から市電で焼け野原を通って青山一丁目にある師団司令部に通いました。師団司令部も全焼で、その跡に仮設されたテント張りの部屋で、召集令状の宛名を一字一字丁寧に書きました。私の家の近くのご主人のお名前を書いたこともありました。横田治子さんはクラスの高山さんのお父様のお名前を書いたそうで、勿論他言は許されず、心を痛めたものでした。その頃小林先生が軍隊の原中尉の許可を頂き、お昼休みに広い連隊の片隅で讃美歌を歌わせていただいた事は忘れる事が出来ません。今考えますと戦争中にこのような事が出来たのは、皆の気持ちが通じたのでしょう。唯一心休まる時でもありました。

 市電から見る青山通りの焼け野原には、日を追ってバラックが二つ、三つ、四つと増えて行きました。何処へも行く所のない方は、その辺りにある焼けた木やトタン板を集めてきて、掘立て小屋をたて住むようになったのです。その生活力に感心したものでした。

 八月十五日は、何か重大な発表があるという事で、駒場の第一高等学校の校庭に集まりました。そして天皇陛下の終戦のお言葉を伺いました。兵隊さんも一緒だったように思います。皆直立不動で、聞きづらい音でしたが戦争が終わった事はわかりました。地面に涙が落ちて拭うのを忘れるくらい大変な事がおきた…と感じました。みんな泣いていました。

 家は焼かれ、こわい思いは何度もしましたが、父は軍隊から、弟は疎開先から戻り、家族八名怪我もなく無事だったことを心から感謝しました。

 しばらくして、私達も家族だけで住める家を探し始めていた頃、突然、三浦軍曹が私を訪ねてやって来ました。青山一丁目の師団司令部で私達を監督していた方です。これから東京を離れ、故郷に戻り仕事を探すとの事でした。短い時間でしたが強く印象に残っている思い出です。

 私共は、食料事情の厳しさなどはありましたが、とにかく家も見つかり、家族皆で一緒に暮らせるようになりました。三浦軍曹もきっと新しい生活を始められた事と思いました。

 第二京浜国道の池上あたりを逃げ廻ったあの恐怖は、どう言い表したらよいか分かりません。こんなことが二度とないように、私は、憲法第九条は大切に守らなければいけないと思うのです。

 (大森区池上徳持町)

編集者
投稿日時: 2009-6-28 21:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2

 帝都大空襲の思い出
        岩原 さかえ(八十六歳)



 当時私は両親と姉妹三人の一家で、田舎に縁故もないため、疎開もせず、止むなく東京に住み、そのつど恐ろしい思いをしながら奇跡的に罹災をまぬがれた。

 明治神宮参道の惨禍に話のおよぶ前提として、B29による帝都無差別絨毯爆撃の最初からのべることにしたい。

 三月十日、私達は赤坂区の青山北町に住んでいた。電車通りから二分の横町で、梅窓院や、外苑、参道の近くで、そろそろ真白いこぶしや木蓮の咲くころであった。戦争の情報は大本営発表をラジオで聞くだけ、防空演習でバケツリレーや縄製の火叩き訓練はしていても、まさかあんな大空襲で、深夜突然起こされるとは思っていなかった。警報と同時に空は真赤、物干しにのぼって東をのぞむと、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の音とともにふきあがる火の粉が強い風にのって頭上に落ちてくるではないか。これが本当の空襲というものか、と驚き呆れ、庭の小さな防空壕で念仏をとなえたりアーメンの祈りをしたりしたが、この際どの神にたよったらよいか、疑った。飛行機の唸り声は、近くなったり遠くなったり、防空壕を出たり入ったり、非常な危険を感じて、身のおきどころなくうろうろしているうちに、夜が明けて静かになっていった。私達は助かったが、朝の表通りは、下町で焼け出された人々が鍋釜をさげて渋谷をさして行列で歩いていった。睫毛(まつげ)まで焼かれ、焦げた着物をひきずって歩く姿はこの世のものとはみえなかったが、不思議なことに「自分たちは助かった」という誇りのせいか、にこにこ笑っている人がいた。死人の山を見てきた人々だったことは、後で知った。

 この空襲で十万人が死んだことも私達は知らされなかった。近所の防護団員が駆り出されて羅災地の死体処理をシャベルでトラックに積み上げる仕事をしてきたと小声でしゃべってくれた。これは秘密だぞ、とおそろしい顔で言ってくれたのが唯一の情報であった。

 当時私は麻布の六本木にある東洋英和女学院につとめ、中の妹は丸の内にある三菱商事会社につとめ、末の妹は杉並区西荻窪にある東京女子大学の学生であった。三月十日の空襲で、妹は急遽東京女子大学の寮に疎開した。両親は小田急沿線の成城学園の知人の一室に衣類や炊事道具を運び出すことにした。そんなことぐらいが一家の疎開であった。

 つぎのB29の来襲は四月二十日前後に二回あり、蒲田・川崎を中心とする工業地帯が襲われた。敵機は初めの目的を終了すると帰りしなに東京のあちこちに任意に焼夷弾や爆弾を落としていったから、今度はやられると母がおそれ、どうしても安全なところに逃げるといいだした。母は病気で歩けないから私と妹に交代で負(おぶ)ってくれというのにはまいった。父は勤務先の当直で不在、母がどうして気弱になったのか。私達は途方にくれたが、背中の母の指図にしたがって辿りついたのが、神宮参道の銀行の石段であった。参道はひろびろして人影もなく、なるほどここなら燃えるものもなく安全にちがいないと、姉妹は汗をぬぐいながら母の識見に感謝した。こんども家は罹災をまぬがれた。

 疎開する人々が急増し、表通りは引越車の行列である。いよいよここも危ないというので、父の知人が世田谷区の井の頭線沿線の下北沢に空き家を見つけてくれた。軍人一家の疎開で、留守番を探していたという。私達は大八車を借りてきて、大事なピアノをはじめ山の如き書籍・家財道具・箪笥・風呂桶まで、何度も赤坂と下北沢を往復して移転を完了して一週間たったころ、五月二十五日の大空襲がやってきた。今度は宮城・赤坂御所をはじめ山の手の住宅地、渋谷・品川・大森・世田谷等々、絨毯爆撃は同じこと、この時も母はダメ人間で、どこかに逃げるという。隣組も逃げてしまったのだ。このとき父は屋根の上にのぼって風向きを見ていたが、類焼の火はもうこっちにはやってこないから逃げるなと母を叱ったのは偉かった。日頃武士の娘などといばっていたのに、女はいざというときに腰抜けだと思った。翌日私は下北沢から淡島神社を経て歩き出したが、一望千里の焼け野が原は家のすぐそばから始まった。お米が黒こげになった配給所のそばで、髪の毛を焼いた女が発狂していた。ゆけどもゆけども廃墟である。共に歩く妹と何を話したろうか。道玄坂をのぼり渋谷をへ、宮益坂にさしかかると、都電の車庫から出てきた数台の電車が白骨化してならんでいた。目の前の電信柱が火をふいて倒れてきても「アラッ」と言って飛びのくだけ。

 青山学院は住んでいたことがあるのでなつかしいが、鉄筋の校舎だけ残り木製住宅は皆焼け、間島記念図書館の前の空き地に木炭化した人がころがっていた。

 学生寮に入っていた学生の少年で、消火活動に入るべく訓練どおりに整列して番号をかけている最中に直撃されたとのこと。私達は人間の焼けた匂いに鼻をおおいながら歩いていった。青山の屋敷町にはマントルピースがそこかしこに焼け残り、サンタクロースの入るべき煙突だけがそびえていた。また沢山のお蔵の窓から火がふき出ていた。青山・霞町・材木町と歩いてきても、目標となる建物がないので勤め先への道に迷ってしまう。

 驚き呆れ、絶望のうちに四時間かかってたどりついた職場に、生徒たちが私のところへ集まってきた。コクテル堂の白松久枝さんは砂山にもぐって助かったという。飯倉の深山愛子さんは六つあったお蔵に皆火が入って焼けてしまったという。ほかにもそれぞれ何か言ったのだろうが、私も逆上していて頭に残っていない。そしてついこの間の空襲で母を負(おぶ)って逃げた表参道の銀行の石段で折りかさなって人が焼け死んだこと、表参道は火のトンネルになって群衆を一舐めにしたことなどを知った。

 空襲があっても人は食べ物をもとめて買い出しにも行かなければならないし、お勤めにも行かなければならない。焼け野が原の徒歩出勤の朝、渋谷のあたりが暗くなり、現在横浜がB29に爆撃されているとのことであったが、ついでにP51という敵機がやってきて、あわてて逃げ込んだ防空壕のトタン屋根に射撃弾の音を聞いた恐ろしさも忘れられない。

 宮益坂のミルクホールの一家が防空壕で蒸し焼きになったこと、私の受け持ちの沢池好江さんが祖母さんと青山学院の石塀の脇の防火用水の中で死んだことなど、すぐには判明しなかった。徒歩通勤の途上、シャベルで死人を穴から掘り出している光景にも何度かあった。女や子供や老人や病人など非戦闘員が何万と殺され、広島や長崎に原爆を落とし、八月十四日にも地方都市を破滅させたアメリカの罪は未来永劫に記録しなければならない。

 (世田谷区)
編集者
投稿日時: 2009-6-29 8:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3

 忘れられない歴史の事実を伝えるために
                白井 貞









 戦災犠牲者の追悼碑
 表参道みずほ銀行前




 今年、港区政六十年記念として、表参道に「戦災追悼碑」が建立されたことは快挙です。

 東京大空襲の数ヶ月は、生き延びた者にとっても、生き地獄の感があります。まして戦災でいのちを奪われた方の恐怖と無念さ、お遺族のかなしみは、果てることがありません。「戦災追悼碑」は、そうした思いにこたえるとともに、いまは戦争を知らない人が三人に二人という時代なので、戦争の惨さを改めて知らせます。

 「赤坂青山地域の大半が焦土と化し」と碑文にありますが、焼ける前には市電に乗ってよく出掛けた処でした。江戸時代からの山の手で、大名屋敷や寺院の多いお屋敷町の風情と、明治以後の御所や青山墓地、赤坂藝者の賑い、名のある学校、病院も想い出します。貴重な歴史文化が失われて残念です。そしてさらに言えば、平和に暮らしていた市民が、一瞬にして戦災で凡てが奪われたことの重大さをしっかり考えたいものです。

 追悼碑建立の請願書に署名を乞われたとき、青山の市電の車庫や六本木辺、表参道の入口近くで戦災死があったこと、善光寺別院でも伽藍が焼け落ちた、しかし、皆様が善光寺に供養塔を立て、戦災殉難者追善法要を平成六年の五十回忌まで行われたとのことを聴きました。お遺族の高齢化によるのでしょうが、感無量です。

 「戦災追悼碑」の格調のある石碑に一礼して、碑文を読み、感動しました。「表参道ではケヤキが燃え、青山通りの交差点附近は火と熱風により、逃場を失った多くの人が亡くなりました。」は名文です。戦争の実情を知らない若者の心底にとどく力を持っています。

 しかし、わたくしは腰掛けて、しばらく哀悼の情に浸っていましたが、ここは若者のファッション街の入口、立ちどまって見る人がいない。考えさせられました。恐らく縦書きの碑文を読む習慣が欠けるのでしょう。読めない字はないと思うが、書に馴染むこともない。そこで要旨を横書きにした白い案内板を立てたら、読む人が増えるのでは…、一工夫を願います。

 また、石碑のバックが未完成で荒れ果てた感じがします。雑草がまばらに生えた土の山に、季節の可憐な花でも植え込んだら、花に惹かれて若い女性が足を止め、案内板に気付いて、碑文を読むことになるでしょう。石碑、周囲の石の汚れも気になります。
 これは墓石をみがくおばあさんの感覚。もう少し若かったらボランティアでやりたいが、三田からバスと地下鉄を乗り継いで訪ねるのでは、手がでない。
 以上、僭越なことを述べて恐縮します。

 戦災者の苦難には及ばないが、敗戦のとき、二十二歳の私の体験を述べましょう。

 戦時繰上卒業で昭和十七年二月に労働科学研究所へ。中島飛行機と立川飛行機の栄養調査をしていた。それだけに東京大空襲が本格化した、十九年十一月のB29、百十一機の来襲以来、度々の爆撃で二つの航空機工場が壊滅して、そこで働いていた少年・少女の多数の顔を想い出します。三月十日の下町は三百二十五機、山の手の五月二十四日は五百六十二機、二十五日は五百二機、それからも空襲の恐怖は続き、加えて食糧配給も混乱して飢えに苦しみました。

 三月十日の空襲は淀橋(南新宿)で、その時は新宿と思ったが誤る。下町の空襲でした。家中が桃色になって震えていた。翌日、強制疎開の令状が来て、三月末に大八車に家財を積んで、叔父が引き、私が後押し、青梅街道を行き、成宗(南阿佐ヶ谷)へ移る。隣組長の二階屋が引き倒される中です。淀橋は四月に焼けて、間一髪でした。

 父は輸送船の船長で、昨秋から消息が絶えていた。母と娘三人、長女の私は買出し他の男役。サツマ芋三十キロを帯芯で作ったリュックで背負った時は必死でした。

 五月二十五日の空襲は、物凄い爆音と炸裂音で一時覚悟しました。青梅街道へ出ると、新宿方面から紅蓮の焔の壁が道路一杯になって押し寄せてくる。空には照明弾が無数、ゆっくり降りてきて、その上方に数十機のB29が銀の矢尻のよう。黒点としかいえないわが戦闘機が二、三機、まとうように飛ぶ。この圧倒的な戦力の差に茫然と。だが、今回も無事でした。火は鍋屋横丁迄を焼き尽して消えました。このときに港区が焼けたのですね。千駄ヶ谷、目黒、七月には板橋の親戚が焼けて、家族は無事でしたが戦後は苦労しました。

 その後はどちら様も飢えと買出しに苦しみ、タケノコ生活。疎開交渉の苦渋、疎開者への差別、出征した家族の生死の不安と、苦闘が続いたと思います。

 もう東京は危ない。新潟県の親戚、知人を訪ねたが、間違いでした。そこで僅かな縁を思い出し、上の妹は村上高女の家事科教師として九月からの就職が決まり、私はさらに夜行で日本曹達(前年に栄養調査で訪ねていた)に行き、就職が一つ返事できまる。下の妹は入学しても学徒動員で埼玉県の上尾の工場へ阿佐ヶ谷から通っていたが、ダウンして七月から休学。私と上の妹は敗戦後に任地へ行き、その後帰京しました。

 この旅から帰った夜、父の公報(一月末に戦死)が待っていた。後に調べてもらうと、船長として覚悟の見事な最期でした。戦没船員遺族会では妻達の苦闘を知る。私と同年齢か上の方だが、乳幼児を抱えて戦後の苦労を耐え抜いて、母として再婚せずに老いた。三浦半島・観音崎の戦没船員記念碑の前で行う、毎年五月の追悼式に集う子供や孫に助けられる、九十歳を越えた姿に涙する。戦争は妻子や両親のささやかな幸せまで奪った。

 ああー東京大空襲の頃に出会った人々は,凡てが不本意な時代なのに、なんと純粋で清冽な人が多かったことでしょう。どうぞ戦災者やお遺族のことを忘れないで欲しい。

(杉並区成宗)












 戦災殉難者供養塔
     善光寺
編集者
投稿日時: 2009-6-30 10:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて

  広島原爆被災の記
             KS

 




 
  KS 画

 昭和二十年三月十日、東京の下町は大空襲を受けて、全域にわたって大火災が起こり、焼け野原となり、多くの犠牲者が出た。惨状はまさに地獄そのものであった。実はこの日、麻布霞町付近にもいくつかの焼夷弾が落とされ火災が起きて多少の被害がでた。私は当時十五歳の中学生だったが、B29のうなるような爆音と焼夷弾の落ちてくる音は未だに耳にこびりついている。

 身近に危険が迫って来て、両親も決断せざるを得なくなった。弟と私は、兵士としてこれから戦わなければならぬ大切な人的資源であるから、安全なところに疎開した方がよいということになった。両親は東京に仕事があるし、姉も五年の約束で入った女学校が四年で卒業となり、海軍の施設で徴用工として働いていたので東京に残り、私たち二人は父の親戚のいる広島に疎開することになった。

 親戚の家は広島市街から約八キロメートル北の農村にあった。現在では広島市のベッドタウンになってしまったが、あのころは田圃や畑ばかりの静かな村であった。我々二人は県立廣島一中の三年と二年に編入させてもらうことができた。しかし、授業はなく勤労動員で広島市内の小さな工場で旋盤工として働くことになった。朝八時の朝礼から昼休みを挟んで五時まで、爆弾の信管作りに励んだ。と言っても実際に私が作っていたのは、何の変哲もない親指くらいの円筒であった。それがどのような働きをするのかは教えてもらえなかった。四月に初めて工場に行った頃は、まだ寒くて暖房のない工場での作業は手がかじかんで辛かったが、四か月もたつと仕事にも慣れて生活を楽しむ余裕もできてきた。

 そして、八月六日、歴史に類を見ない戦争犯罪が行われた。八時の朝礼が終わって木造平屋建て工場で旋盤の前に立った直後、稲妻か超強力な写真のフラッシュのような光を見た。工場内は、機械やモーターの騒音がひどく、爆発音は聞こえなかった。直後に爆風で舞い上がったほこりであたりは真っ暗になった。ガラス窓は明けられており、爆風の方向と平行であったのは幸運だった。そうでなければ、我々は体中にガラスの破片が刺さり大変なことになったはずだ。全員外見上ほとんど無傷だったが、D君だけは、天井から落ちてきたモーターの主軸にあたって意識を失っていた。後で、その二、三日後に彼は亡くなったと聞いた。

 埃が少し静まったところで、壊れた壁や、ぶら下がった天井をよけながら外へ出た。外で働いていた同級生は熱線で火傷をしていた。近所の家がつぶれておばあさんが下敷きになっていたので、壊れた建具などをどけて何とか助け出すことが出来た。また、工場のすぐ近くにあった、広島市立女学校校舎の板壁がくすぶっているのが見つかり、手押しポンプを引き出して消そうとしたのだが、水圧が足らず届かなかった。そこで、はしごをかけてバケツリレーで何とか消し止めた。

 爆発のショックが大きかったので、この間もその後も怖さも心配も全く感じない無感情な状態で、機械的に動いていたように思う。爆発後しばらくたってから、中心部の方から怪我をした人や、火傷をした人が大勢逃げてきた。衣類を吹き飛ばされたためほとんど裸で、肌は赤黒く焼けただれていた。腕の皮が剥けて手先からひものようにぶら下がっている人も沢山いた。歩けなくなって我々の防空壕に倒れ込んでくる人も多く、水!水!と言うのだが、当時は怪我人に水を飲ませるとすぐ死ぬから絶対に水を与えてはならないと教育されていたので、我々に出来るのは、声を掛けて団扇であおいであげることだけだった。私の怪我は足の小さな切り傷だけだった。それまで私は怪我をしても膿んだことはなかったが、これはすぐ膿んで、何時までたっても直らなかった。また、非常に疲れやすく無気力な状態が長く続いた。

 欧州各国の大都市でも、空爆の被害を受けたところは多い。しかし、火薬の爆弾は爆発して破壊すればそれで終わりだが、原子爆弾は爆発して、熱線と爆風で破壊するほかに、放射能をまき散らし、被爆者の体内に入って、長く健康を損ねる。また、後日爆発地に入った人にも被害を与える。このいわゆる入市被爆を、日米の政府は隠したがっているが、当時広島・長崎にいた人なら誰でも、直接に被爆しなくても、翌日以降に爆心地に入り原爆症にかかった人を多数知っているはずだ。

 核兵器の使用は第一級の戦争犯罪である。米国人は、広島・長崎への原爆投下を正しいとする人が多いが、当時の日本はすでに崩壊しており、そのことを米国政府はよく知っていたのだから、海上に落として威力を見せるだけで十分だったはずだ。多くの非戦闘員を殺す必要は全くなかった。

 また、米国政府が一貫して放射能の危険性を隠し続けているのも許し難い犯罪である。我々は唯一の被爆国民として、世界中の人に原爆被害の実相を正確に伝える責務がある。そして、もし次の原爆が使用されれば、世界中の人類は滅亡することを理解してもらいたい。そのためには、戦争をなくすことが大切である。戦争がなければ、原爆は不要になる。戦争放棄を掲げた日本国憲法が戦後の我が国の繁栄の土台であることを心に銘記したい。
 
 (赤坂区青山高樹町)
編集者
投稿日時: 2009-7-2 19:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1-

 戦争への道

 日清(明治二十七、八年)、日露(明治三十七、八年)の戦争によって、日本はアジアへの侵出に大きく踏み出した。明治二十八(一八九五)年、台湾を清国より割譲、明治四十三(一九一〇)年、韓国を併合。日本は中国東北部(南満州)の利権をロシアから譲り受け、関東軍を配置した。

 第一次世界大戦(大正三~七(一九一四~一九一八)年)に、日本は連合国側として参戦し、対支二十一か条要求を出して、武力によって実現させようとしたのが満州事変(昭和六年(一九三一)年)である。昭和七年、日本の傀儡(かいらい)国家満州国が成立。

 満州を足場にして領土拡大を図る日本は、十五年戦争の時代に入る。日本では二・二六事件(昭和十一年)が起こり、軍部の政治支配力は著しく強化された。昭和十二年七月七日、盧溝橋事件が起き、日中戦争(当時日本側は支那事変といった。日支事変ともいう。「支那」という呼称を日本は第二次世界大戦末まで使う)が始まる。昭和十二年十二月、南京占領、蒋介石率いる国民政府は臨時首都を重慶に移し、中国共産党と抗日民族統一戦線を結成する。

 日中戦争が泥沼化すると、日本は豊富な資源をもつ南方進出を計画する。日独伊の三国同盟を結び、東南アジアの仏領、英領、蘭(オランダ)領の植民地への侵攻が始まる。日本の勢力圏拡張の構想はアメリカとも対立することになる。

 昭和十五(一九四〇)年九月、仏領インドシナ北部に進駐、十六年四月から日米交渉が始まり、アメリカは日本軍の中国からの撤退を要求、南方への進出を認めなかったが、日本はその年の七月に仏領インドシナ南部にも進駐、アメリカは日本への石油の輸出を禁止。十一月五日の御前会議で英米蘭との戦争を決意、その時期を十二月初頭と決めていた日本の陸海軍は、作戦準備に入っていた。十一月二十六日にアメリカ国務長官ハルが提示した「ハル・ノート」では日本側の拒否回答に対し新提案もしているが、日本側はアメリカの最後通牒とみなして太平洋戦争(日本政府は大東亜戦争と呼び支那事変も含むとした)に突入した。

 十二月八日、日本時間午前二時、英領マレー半島侵攻、三時十九分真珠湾を奇襲、米・英・蘭に宣戦。


 東京空襲のあらまし

 東京への米軍の初空襲は昭和十七年四月十八日のドゥリットル爆撃隊長のB25中型爆撃機による空襲である。B25はミッドウェイ島沖の空母ホーネットから十六機が飛び立ち日本上空に侵入、東京のほか川崎、横須賀、名古屋、神戸を爆撃した。その後約二年半、米軍機は東京には姿を見せなかった。

 本格的に空襲が始まったのは昭和十九年十一月二十四日からである。米軍は十九年七月にサイパン島を占領すると、サイパン、テニヤン、グアム島の飛行場からB29が飛び立った。二十年二月までは主として軍需工場に対して、昼間、約一万メートルの高々度から、目視による精密爆撃であった。軍需工場の上空が雲に蔽われている日には、市街地に無差別爆撃を行った。焼夷弾爆撃も増えてきて、二月中旬には航空母艦からの艦上機が大量に襲来し、機銃掃射をした。三月から五月にかけては夜間超低空のB29による焼夷弾無差別攻撃。終戦までの東京周辺のB29による爆撃、艦上機、P51などによる機銃掃射による攻撃が特徴である。


 東京大空襲

 一般に「東京大空襲」というと、二十年三月十日の下町への空襲を指す場合が多い。被害の大きさが東京の空襲を代表しているという意味でもある。三月十日午前零時八分に始まったB29三百二十五機による二時間半にわたる無差別絨毯爆撃(焼夷弾一六六五トン)で、下町全域は焦土と化し、死者は十万人を超えた。

 大戦中、一日の死者が十万人というのは広島に次ぐもので、世界にも例がない。

  世界の無差別爆撃による死者数(概算)を示すと、
   一九三七年四月          ドイツ軍によるスペイン・ゲルニカ空爆 二千人
   一九三八年二月~四三年八月 日本軍による中国・重慶空爆      二万人
   一九四〇年九月~十一月    ドイツ軍によるイギリス・ロンドン空爆  四万人
   一九四五年二月          米英軍によるドイツ・ドレスデン空爆  三万五千人

 三月十日の空襲を指揮したカーチス・ルメイ司令官は、東京以外の都市にも、また広島、長崎の原爆投下にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。


 山の手大空襲

 昭和二十年四月十三日から五月二十五日にかけての東京山の手地域へのB29による夜間焼夷弾攻撃をいう。

 この間でもっとも規模が大きく被害が甚大だったのは、東京市街地最後の空襲といわれた五月二十五日から二十六日にかけての空襲だった。その一日前の五月二十四日早朝にも空襲があり、一部赤坂、渋谷にも被害が出た。二十四日午前一時三十六分、B29五百六十二機、主として目黒、荏原、品川方面、投下した焼夷弾三六四五トン。五月二十五日は午後十時二十二分からB29五百二機、赤坂、麻布、渋谷、中野方面に焼夷弾三二五八トンを投下した。

 投下した焼夷弾の数は三月十日の下町空襲より倍ぐらい多かったが、死者ははるかに少ない(二十四日はもっと少ない)。このことは地域の立地条件の違いや建物疎開がされたことや空襲の連続で老人や女性、子供たちの疎開が急速に増えたことも一因といわれるが、三月十日の空襲の経験から、住民が消火活動より早く避難することを選んだためと思われる。しかし爆撃を受けた市街の惨状、人々の恐怖は三月十日の空襲と変わらなかった。

 米軍は五月二十五日の空襲を最後に「主要目標はなくなった」として東京を大規模爆撃リストからはずした。五月二十五日から二十六日の死者数は、一日の死者数としては、東京では三月十日東京下町の大空襲に次いで多い。被災率は、港三区の中では赤坂区がもっとも高くて八三・七%(戸数比(新修港区史))、渋谷区は七六・八五%(面積比(新修渋谷区史))である。
編集者
投稿日時: 2009-7-3 14:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2-

 東京空襲記録(島部を除く)

 参考資料‥『東京大空襲・戦災誌』(東京大空襲を記録する会)、
 『日本の空襲』十補巻資料篇(『日本の空襲』編集委員会)
                               *来襲機名を記載していないものはすべてB29
































編集者
投稿日時: 2009-7-4 19:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3-
 略年表 (昭和11年~20年)















編集者
投稿日時: 2009-7-5 8:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4-
 ことばの説明


 B29

 ボーイング社製米軍の大型重爆撃機。昭和十八年完成。全長三十メートル、翼長四十三メートル、重量五十四トン、航続距離六千六百キロメートル、最時速五百八十キロメートル、積載量十トン。サイパン、テニアン、グアムの三島が占領されて十九年八月から基地が建設され、七飛行場ができた。中国成都基地より五十機が移ってきて日本全土が爆撃の射程距離内に入った。B29の東京初来襲は十九年十一月二十四日。初期は昼間、高度八千メートルから一万メートルで、軍需工場などを目標に高高度精密爆撃であった。機数は千機に増え、夜間発着が可能となり、夜間の低高度(千五百~三千メートル)無差別爆撃をおこなった。B29の本土来襲は延べ三万四千七百九十機で、三百五十三回出撃し、約十六万トンの爆弾、焼夷弾を投下した。広島、長崎に原子爆弾を投下したのもB29である。


 青山脳病院

 明治四十年九月、斎藤茂吉(精神科医、歌人、随筆家)の義父斎藤紀一によって青山南町五丁目(現南青山四丁目)に建てられた。ローマ式建築で、前面に円柱が並び、屋根には数個の尖塔と正面玄関の上には時計塔があり、周囲は家もまばらな原の中のこの建物は、一躍青山の名物になった。大正十三年十二月二十九日、失火により焼失、二十数名が死亡した。

 昭和二年、茂吉が院長に就任。病院の再建は、住民の反対のため松沢村松原に再建、青山は脳外科病院とし、松原の分院になった。昭和十七年十二月、茂吉の長男斎藤茂太が院長になるが、二十年五月二十五日の空襲で全焼し終焉を迎えた。

 病院に隣接していた自宅で空襲を体験した次男北杜夫は、小説「楡家の人びと」に、被災の情況、青山通りの惨状について詳しく書いている。現在、病院跡地はマンションになり、茂吉の歌碑が建っている。


 青山墓地

 青山家の下屋敷跡(現南青山二丁目)に東京市が公営墓地として開設。その三年前の明治五年に開いた青山墓地の飛び地(現南青山六丁目)の立山墓地が、日本最初の公営墓地といわれる。昭和十年、東京市は青山墓地と立山墓地をあわせて東京市青山霊園と名称を改めた。総面積約九万坪、埋葬体数約十二万体。有名人の墓が多い。


 表参道

 大正九年十一月、明治神宮の創建とともに開設。大正十年沿道にケヤキが二百一本植えられた。関東大震災の時は未完成だったが、五年間かけて整備された。明治神宮から青山通りまで全長一キロメートル、両側に歩道があって幅の広いまっすぐな道路は当時としては珍しかった。

 二十年五月二十五日の空襲では表参道は炎の流れとなって人々は逃げまどい、ケヤキは火をかぶって焼け、かろうじて再生したのは明治神宮寄りの十本ぐらいであった。昭和二十三年から二十四年にかけて若い苗木が植えられケヤキ並木は復活したが、地下鉄工事で根を切られたり、きのこに侵食された木が多い。ケヤキは現在百六十五本だが、参道の東側は植えて間もない若い木が数本ある。


 学徒勤労動員

 学徒勤労動員は十七年一月から始まっていたが、昭和十八年六月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定し、本格的な戦時動員が実施された。対象は中学校三年以上。同年十月の「戦時非常措置」によって勤労動員が強化され、十九年二月から原則通年動員、四月から二年生以上が学業を中断し、主として軍需工場で働いた。一年生も学校工場で働いた例がある。


 学徒出陣

 兵役法では男子は十七歳から兵役に服することを義務としていたが、大学、専門学校生は徴兵猶予になっていた。昭和十六年十月十六日、大学、専門学校年限が六か月短縮と決まり、大学は二年半で卒業となる。十八年九月二十二日、法文科系学徒の徴兵猶予停止が閣議決定された。同年十二月、入営となる出陣学徒の壮行会が十月二十一日に明治神宮外苑で開催された。なお、理工系学徒は「特殊技術をもつ者」として入営延期とされた。


 学徒挺身隊
 
 女子挺身隊のことをいう。昭和十八年九月に創設され、十四歳以上二十五歳未満の女性が、市町村長、町内会、婦人団体などの協力によって構成されていた。十九年八月に女子挺身勤労令が公布されて女子挺身隊制度が法的な根拠を持つと、以後徴用が強制された。この法令は二十年三月の国民勤労動員令に吸収され、挺身隊も国民義勇隊に再編成された。


 金鵄勲章

 陸海軍人の武功に対し与えられた賞牌で、明治二十三年二月十一日に制定された。功一級から功七級まであって、それぞれ金額が決められていた。明治二十七年十月の年金令では年金が支給されることになっていたが、昭和十六年六月に年金をやめ、一時金とした。


 勤労動員

 昭和十六年三月に国民労務手帳が公布され、戦争のための人的資源として国民登録が実施された。男子は十六歳以上四十歳未満、女子は十六歳以上二十五歳未満の未婚のもの(昭和十九年一月からは男子十二歳以上六十歳未満、女子は十二歳以上四十歳未満)を対象として、強制的に軍需産業や食糧増産、鉱山、炭鉱などに徴用した。


 国債

 政府は軍事費をまかなうために国債を増発し、債券消化に支障をきたすと貯蓄債券、報国債券を発行、町内会、隣組を通し割り当てるようになった。


 国民学校

 昭和十六年公布の国民学校令により同年四月一日から二十一年度まで尋常小学校を国民学校に改称した。

 「皇国」の次代を担う「少国民」を育成する場として位置づけられ、軍事教練なども正課に組み込まれた。国民学校六年生の上に高等小学校に相当する二年間の教育課程の高等科をおく。


 国家総動員法

 昭和十三年四月一日公布。日支事変(日中戦争)に際して「人的及び物的資源」を統制、動員、運用するための法律。十六年三月、総動員法は改正され、統制強化、罰則規定の強化が計られる。日支事変が始まった年の昭和十二年八月二十四日には国民精神総動員実施要綱が近衛内閣で決定した。国民精神総動員運動は昭和十五年十月発会の大政翼賛会へと受け継がれていく。

 
 近衛師団

 明治四(一八七一)年、天皇の警護を名目に薩摩、長州、土佐の三藩から約一万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。明治五年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組、明治二十四年、近衛師団と改称された。

 昭和十八年、十九年に編成された近衛第二師団、第三師団は終戦時には作戦地に赴いていたため、本来の近衛兵としての任務、本土決戦のための任務は近衛第一師団が担当した。旧日本軍の中では一番実力を持っていたといわれる。昭和二十年八月十日、ポツダム宣言受諾、十五日の未明に天皇のラジオ放送の「玉音盤」を奪おうとする将校らの反乱があったが、制止され失敗に終わる。

 近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館/工芸館となっている。


 焼夷弾

 燃えやすい焼夷剤と少量の炸薬とを入れた爆弾。B29一機がばらまく焼夷弾は千五百二十発。日本は焼夷弾を先に中国の都市空襲で使った。米軍も日本の木造家屋にもっともふさわしい焼夷弾として、油脂焼夷弾(ナパーム弾)を開発した。親弾といわれる集束焼夷弾は、地上約七百メートルで分解して三十八発のM69焼夷弾がばらまかれ、着地と同時に信管が作動して油脂分を広範囲にばらまき、燃え上がる。落下するとき尾部から出されたリボンに火がついて、炎の雨のように見える。落下地点で炎上するエレクトロン焼夷弾やマグネシウム焼夷弾も投下された。


 善光寺

 信州善光寺の別院で、浄土宗の尼寺。慶長六(一六〇一)年、徳川家康の勧請(かんじょう)を受け、江戸谷中に建立。元禄十六(一七〇三)年、火事により焼失し、現在地(北青山)に移る。文久二(一八六二)年、再び類焼を受けた。明治維新後の試練を乗り越えて、総建坪四百九十坪、二重層の仏殿が完成したが、その翌年の昭和二十年五月二十五日の空襲で大伽藍、仁王門ともに焼け落ちた。戦後三十年近くの歳月をかけて現在の建物が完成した。

 境内に勝海舟の撰文による高野長英の碑があったが、戦災で大破したため昭和三十九年に再建された。戦災殉難者の供養塔もあり、毎年五月二十五日には法要が行われる。


 疎開

 空襲などの被害を避けるために都市の住民、建物を分散させた。昭和十八年十二月に都市疎開実施要綱がきまる。


 建物(強制)疎開

 空襲による延焼を防ぐために、東京、横浜、川崎などの密集地や、鉄道、軍需工場などの周辺建物は強制的に取り壊された。


 学童疎開

 国民学校(今の小学校)三年生(二十年からは二年生)以上で、個別に縁故先に疎開(縁故疎開)できない学童たちを、学校ごと集団で疎開(集団疎開)させた。昭和十九年六月三十日に学童集団疎開が閣議で決定、十九年八月四日に東京の第一陣が出発。疎開地では学校ごとに旅館、寺院などに分宿して授業を受けた。


 第一師団
 
 明治二十一年五月に東京鎮台(明治前期の陸軍の軍団)を母体に編成された。この時編成された全国六師団が日本で最も古い師団である。第一師団司令部は赤坂離宮内に設置されたが、明治二十四年三月に赤坂区青山南町一丁目に移転した。司令部内には麻布連隊区司令部も置かれ、連隊区内の徴兵、召集、在郷軍人に関する事務などを行った。第一師団は東京の警備を主な任務としたが、日清戦争、日露戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争に参加。最終の任地はフィリピンレイテ島で、補給が途絶えて壊滅状態となった。当初約一万名で編成されたが、昭和二十年一月の残存兵力は八百名であった。第一師団司令部の庁舎は五月二十五日の空襲により全焼した。


 歩兵第一連隊

 第一師団歩兵第一連隊は明治六年改称の東京鎮台歩兵第一連隊第一大隊が創始である。明治十七年に赤坂檜町に駐屯。昭和十一年二月二十六日、歩兵第三連隊、赤坂一ツ木町の近衛歩兵第三連隊とともに青年将校が軍事クーデターに決起(二・二六事件)。十一年五月に渡満、支那事変、ノモンハン事件に参加、十九年十一月レイテ島に転進、二十年一月セブ島に渡ったが、八月に終戦を迎える。レイテ島上陸時約二千五百あった兵力の生存者は三十九名だったという。


 歩兵第三連隊

 明治七年十一月、東京鎮台を改称して創立。明治二十二年から昭和十四年八月まで麻布龍土町に駐屯、昭和十一年五月、主力が中国東北部に派遣され、十八年八月から沖縄宮古島の防衛に任じたが終戦を迎える。

 龍土町の駐屯地には十四年八月、近衛歩兵第五連隊が編成されたが、中国、南方戦線へ出動。十八年五月、首都防衛のため近衛歩兵第七連隊が創立された。前東京大学生産技術研究所の建物は震災のため倒壊した兵舎を昭和三年六月に再建したものである(青山公園の「麻布台懐古碑」より)。


 大本営

 戦時または事変に際して天皇を軍事統帥面で補佐するためにできた作戦指導機関。国民への情報伝達の公的窓口であった。明治二十六年に制定、第二次大戦後廃止。


 徴兵検査と兵役

 明治六年一月徴兵令発布、当時は免除の対象が多かった。昭和二年、徴兵令に替えて兵役法が公布され、十七歳から四十歳(昭和十八年からは四十五歳)までの男子はすべて兵役に服することが定められた。徴兵検査は満二十歳(十九年からは十九歳)で受け、甲種から戊種までに選別、甲種は現役で入隊し、平時は三年間服務、戦時には徴集された。乙種は補充兵役として、丙種は国民兵役として必要に応じて召集。戦争末期には丙種も召集された。


 東京都制と特別区再編、町名・地番の整理

 昭和十八年、東京府と東京市の二重行政を一本化し、東京都になる。東京市には三十五の区があったが、昭和二十二年三月に二十二区に再編、二十二年十月に板橋区から練馬区が独立して二十三区が特別区となった。港区は赤坂区、麻布区、芝区が合併して成立。渋谷区は昭和七年十月、渋谷、千駄ヶ谷、代々幡の三町が合併して成立した。町名、地番は、昭和三十年代から四十年代にかけて全都で整理された。


 同潤会青山アパート

 同潤会とは、関東大震災後にできた財団法人。義援金で設立された、政府による日本初の本格的な住宅供給組織である。はじめは賃貸だったが、戦後、東京都が民間に払い下げた。鉄筋コンクリート造りで最新の設備を備えた、当時としては画期的な住居であった。東京では十六箇所につくられ、青山アパートは表参道沿いに昭和二年に完成。三階建て十棟。戦災にも耐えてきたが、老朽化による建て替えを巡って三十年を経、平成十五年夏以後取り壊しが始まり、平成十八年二月、跡地に表参道ヒルズが開業。かつてのアパート一棟を復元した同潤館がつくられている。


 特攻隊(特別攻撃隊)

 太平洋戦争末期、爆弾を装着したままパイロットもろともに敵艦隊に体当たり攻撃するために日本軍によって特別に編成された部隊。特殊潜航艇や人間魚雷による水中特攻、モーターボートによる水上特攻などもある。昭和十九年十月二十六日、フィリピン、レイテ湾の米軍艦艇に突入した神風(しんぷう)特別攻撃隊が最初といわれる。以後、陸海軍ともに多数の特攻隊を出撃させた。航空特攻隊の死者は約四千人にのぼるとされる。


 配給制度

 戦時統制経済のもとで、特定商品を数量、頻度、対象が決められて消費者に公平に売る制度のこと。昭和十五年にマッチ、砂糖の配給が始まり、十六年四月に生活必需物資統制令が公布。米、塩、味噌、酒、木炭、等々、衣料品、外食券に至るまで通帳、購入券がつくられ、隣組長によって配られた。


 広島原爆投下

 昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市上空に侵入したB29エノラゲイ号が投下した一発の爆弾が閃光とともに爆発した。翌日大本営は「新型爆弾」と発表した。アメリカでは大統領が「原子爆弾」であるという声明をすぐ出した。爆風により半径二キロメートル以内の家屋は全壊し、熱線により火災が発生した。爆心地近くの人はほぼ即死し、家屋の下敷きになったまま焼き殺された人も多い。さらに、放射線障害や火傷により年内に広島で十四万人、長崎で七万人の死者が出た。現在でも多くの人が後遺症に苦しんでいる。広島の原子爆弾はウラン型、長崎はプルトニウム型と言われている。


 ミッドウェイ沖海戦

 昭和十七年六月四日から七日にかけて日米海軍の死闘が行われた海戦。日本は旗艦「大和」をはじめあらゆる艦船を集中させ、米軍の戦力は日本の半分にも満たなかったが、日本側が大敗した。この海戦が、戦争開始以来の日本の優位が逆転する転機となる。ミッドウェイ島は日本の本州とハワイ諸島の中間にあり、米軍は早くからこの島に飛行場をつくり、前哨基地としていた。昭和十七年四月十八日の本土への初空襲はこの基地近くの海上にあった空母ホーネットより飛来したものだった。軍部はこの奇襲に大きな衝撃を受け、空襲の禍根を絶ち、奪取して、逆に日本の前哨基地にしようとミッドウェイ島を襲ったのである。


 明治神宮

 明治天皇・昭憲皇太后をまつる。大正九年十一月一日創建。明治神宮ができる前は皇室の御料地だったが、明治時代は井伊家の下屋敷であった。内苑、外苑には、全国から献木されたおよそ十二万本、三百六十五種の人工林が繁り、面積は約七十万平方メートルである。昭和二十年四月十三日から十四日の空襲で、本殿等主要建物は焼失したが、三十三年十一月に復興造営された。五月二十五日から二十六日にかけての空襲では、火に追われた近隣の大勢の人たちが森林に逃げ込み、難を逃れた。


 代々木練兵場

 明治四十二年七月に開設、四十三年十二月にこの地で日本初飛行に成功している。麻布、赤坂の歩兵連隊の演習地として使われた。明治十九年に開設した青山練兵場(現明治神宮外苑、総面積五万五千坪)が博覧会を開催するための代替地でもあった。広さ二十万坪で現在のNHKも練兵場の跡地で、渋谷区役所寄りの所に衛戍(えいじゅ)(陸軍)刑務所があり、二・二六事件の関係者がここで処刑された。

 演習のない時は一般に開放され草野球や凧(たこ)揚げが行われたが、昭和十年代になると禁止された。戦争末期には学徒たちの教練場にもなった。周辺には黄砂が舞い上がり、号令と鉄砲、機関銃の音が鳴り響いていた。

 戦後米軍に接収されて、宿舎ワシントンハイツになり、昭和三十九年に返還、東京オリンピックの選手村になった。都立代々木公園として開園したのは昭和四十二年十月である。

 防衛省は平成十九年五月、地対空誘導弾パトリオットミサイルPAC3を首都圏に配備し、訓練することを決めた。代々木公園は候補地の一つに上がっている。

編集者
投稿日時: 2009-7-6 16:54
登録日: 2004-2-3
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表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5-

 参考資料

 「東京大空襲・戦災誌」第一~第五巻「東京大空襲・戦災誌」編集委員会編(一九七五)同委員会

 「東京都戦災誌」 (復刻版)東京都編集(二〇〇五) 明元社

 「東京大空襲の記録」東京空襲を記録する会(八刷一九九五)三省堂

 「東京大空襲 戦時下の市民生活」江戸東京博物館編(一九九五)江戸東京博物館

 「日本の空襲」一~十補巻(資料篇)日本の空襲編集委員会  (一九八一)三省堂

 「図説 東京大空襲」早乙女勝元(二刷二〇〇七)河出書房新社

 「写真集 子どもたちの昭和史」子どもたちの昭和史編集委員会(二刷一九八四)大月書店

 「新修 港区史」 (昭和五十四) 港区

 「写された港区一~四、抄」 (一九八一~一九九三)港区立みなと図書館

 「平和を創り守るためにー今、戦争を考える」 (平成十八)港区・港区教育委員会

 「平和への願いをこめて二〇〇七 今語り継ぐ戦争の体験」  (平成十九)港区

 「新修 渋谷区史 下巻」 (昭和四十一)渋谷区

 「渋谷区の歴史」東京ふるさと文庫 林陸郎ほか(昭和五十三)名著出版

 「渋谷区史跡散歩」東京史跡ガイド 佐藤昇(一九九二)学生社

 「あの頃 青山・青南時代」青南小学校36回同期会卒業五十周年記念文集(一九九四)非売品

 「古稀燦讃」青南小学校33回卒業生古稀記念誌(平成十)非売品

 「語りつぐ平和の願い」新宿区平和都市宣言五周年記念誌(一九九二)新宿区

 「戦災の跡をたずねて-東京を歩く」長崎誠三(一九九八)アグネ技術センター

 「あの戦争を伝えたい」東京新聞社会部(二〇〇六)岩波書店
編集者
投稿日時: 2009-7-6 16:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6-

 奥付

 表参道が燃えた日一山の手大空襲の体験記-
           2008年2月15日初版発行(非売品)
           2008年4月15日2版1刷発行
           2008年6月15日2版2刷発行
 制作・発行「表参道が燃えた日一山の手大空襲の体験記」編集委員会

 連 絡 先 編集委員会
     株式会社アグネ技術センター内
     〒107-0062東京都港区南青山5-1-25北村ビル
     TEL/FAX 03(3409)0371

 印刷・製本 株式会社 平河工業社
 
 Printed in Japan,2008

 定価700円


 表参道が燃えた日一山の手大空襲の体験記一
      山の手大空襲の体験記編集委員会発行


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