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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     自分誌 鵜川道子
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2009-4-12 8:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・16

 私は身体も順調に快方に向ったのでヘルパーの仕事に復帰することが出来た。新しい家に移り住んで初めての試練を経験したのであったが翌年の五月頃のある日仕事を終えて自宅の玄関を開けるとガスの臭いが異様に鼻をつき台所へ行って見ると元栓からホースをつないで応接間へと延びている、急いで引き戸を開けようとしたが動かない。元栓をしめて裏の家に助けを求めた。何と云うことだろう。テーブルの上には酒と睡眠薬のビンが転がっていて殆んど飲みつくした形跡があり、ソファーの上で横たわっている夫の姿に少々やり切れない憤りを感じながら救急車の要請をしたのだった。
 近くの病院に運ばれて行く夫の傍で付添い乍ら私は今思い返しても恐ろしい底無し沼に足を引っぱられて行くような思いでどう表現したらよいのかわからない。医師も看護婦も一生懸命甦生処置を施した後、どうしてこんなことをするに至ったのかと問われた。長女が中二、長男は小六の頃のできごとであった。この子供達に影響があるのではないかと心配であったが子供たちは普段の生活が荒れる様子もなく学校生活も特別支障がなかったことで私も胸をなでおろした。
 三ヶ月くらいで何とか退院したものの家にとじ込もっているのは良くないと思ったのか年老いた姑が兄の所で働いてはどうかと話しをしてくれたのでプレス工場に2,3日行ってみたものの満足な製品が作れず仕事にならないと断られたのだった。
 薬を飲み乍らの労働であったことが原因のようである。電車の中で座るとつい、うとうとして目的地を通り過ぎて何度も行ったり来たりして自分でも困っている様子だったのでその後は家で養生をする様にと二、三ケ月は家に居たが、私としては仕事を休むわけにはゆかず心配ではあったが自分の仕事に日中は没頭することが出来た。
 夫は以前から家の中で何もしないで本を読んだりテレビを見ている生活が多かったので、あまり、あてににせずそっと静かにしておこうと云う心境になっていた。 
 末っ子で育てられた昭は姑や姉達から何もしないたゞ与えられる愛だけを受け乍ら苦労もなく人生を歩んで来た結果だと聞かされたが本人としては別に苦労する必要もなく少年時代を過して来た延長線上に結婚をしてしまったのかも知れないと思った。
編集者
投稿日時: 2009-4-10 8:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・15
 何はともあれ新しい都営住宅は六帖と四帖半の畳の他に四帖半くらいの台所つきである。トイレも水洗トイレである。もう云う事なしの住宅がやっと自分達の生活の場になったと思えたのであるが果たして昭はどう思ったのだろうか? 結婚して間もなくから仕事として充分に働いてくれたことは無かった。
 子供が二人も出来たと云うのに生活に意欲が感じられず、私の目から見ると子供の為にも別れた方がいいのではと考えたこともあった。そして時にはこの不満がどうにもならないことも幾度となくあったが最初の縁は教会で知り合って結婚した、神の前で誓い合ったと云うことにいつも苦しめられている様であった。 
 そしてこれが神から与えれた私への試練だったのかと考える毎日であったのかと考える毎日であったように思われた。私は夫の心の中をのぞいてみたいと思い悩む日々であったが末っ子で親や兄弟達に甘えて育った生活の延長が結婚生活の上に現れていると思えば私が頑張って仕事をして行く以外にないのだと考える様になってしまったのかも知れない。
 生活は現実的であり内職から務めに切り替え二人の子供達は早いうちから独立心の旺盛な性格となり私にとってあまり心配させられるようなことはなかったように思う。
 長男は四年生になるとすぐ新聞配達をやりたいと云い真面目に仕事をする様になった。 長女が中学生になった頃、私も保険の仕事で、知人からいい方法を教えるから家を建てる気はないかと云われ都営住宅はあまりにも狭く感じる様になっていたので夢が叶えられるならばと習志野に土地を見に行って主人にも相談をしたのだが家など必要ないと云う返事が帰ってきた。それならば主人を頼ることは一切なく仕事に精を出して頑張る以外に道はないとあきらめ知人の教えてくれた方法を確実に実行してみようと考えはじめることにした。 
 保険会社のノルマに苦しみ乍ら十年目にして子供達の将来のことを考え公務員として勤められないかと考える様になり区役所に履歴書を提出し試験を受ける事にしたのである。この時も保険の仕事をしていた頃の知人により勧められたのだった。面接の時にヘルパーと云う職種のあることを初めて知ったのだったが、高齢者の身の廻りのお世話をしてみる気はありますか?と開口一番の問にすぐ返事が出来たのは本当に良かったと思った。それは姑がいつも私のよき話し相手をしてくれていたお蔭であったように思う。老人と話している時は何となく気持ちが落ち付くのである。 孫二人を姑に逢わせに行くのが近くに住んでいたせいもあって非常に喜んでくれたからである。しかし孫を見せて喜ばせるだけでなく昭の話になると大変悲しませる事の方が多かったかも知れない。しかし私にとっては実の母以上に心の寄り所のように思っていたのである。区役所(江戸川)に入所して老人援護係に籍をおき昭和四十八年六月よりヘルパーとして先輩方について家庭訪問をする様になった。
 新人研修は年に何十時間と云う決まりがあって時々老人ホーム等の実習があったが慣れないながらも楽しいこともありノルマに追われていた頃の大変な仕事を経験して来た私にとってそんなに辛い仕事ではないし喜んでくれる相手の顔がすぐに見られるのはどんな仕事にも勝っているように思えて楽しい日々を送っていた。その年、長女は中学生長男は小学五年生になっていた。
 秋には契約していた家が九月の終り頃に完成し十月に習志野へ引越したのだった。都営住宅に入っていたので都の方から二百七十万円の借金をしたが自分の給料に見合うローンを組み土地は建築会社より借金したが割合順調な返済方法で滑り出しはよかったと今までの苦労に対しても感謝の思いであった。
 しかし翌年の八月になって五年前にわかっていた筋腫の手術で入院、その入院中に主人が自分から会社を止めて来たと枕元で云われたのである。 
 全くわけのわからない行動に云い様のない怒りと不安を覚えた。何でこんな時に!と手術の後の身動きならない痛みと精神的な苦痛を味あわされたと云う思いが大きく、自律神経が狂ってしまい夜も眠れず、昼間はうつらうつらすると恐ろしい夢を見るかと思えば空中を鳥のように飛んで見知らぬ土地や山に登ると云う経験をすることが何日かあり、予定の退院日が一週間も遅れてしまった。昭はそれ以後何ヶ月か失業保険を貰って生活の足しにするような生活であった。時々職安に行くがなかなか思うような仕事もなく家で本を読んだりテレビを見たりする毎日が続いていた。江戸川に住んでいた頃と違い今迄の勤務先が遠くなったことでやはり無理だったのかと思ってあきらめたのではないかと考えたりもしたが家に毎日居ても私の留守の間に何もする気にもなれずに夫昭にとっては洗濯機も掃除機も何の役にもたたないのであった。
 今まで働くの大嫌いな人だったので今更頼んでまで家事を手伝って貰う気持ちはなかった。失業保険を受給している間も割合のん気にしている様に見受けられたが、本人にしたら九ヶ月と云う時間の流れは次第に身の置き所がない程に窮地に追いつめられていったのかも知れない。
編集者
投稿日時: 2009-4-9 7:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・14

 或る時新小岩に向って歩いていると以前勤めていた同僚に出逢った。本当に短期間しか勤めていなかった人だったのにお互いに名前を覚えていてどちらからともなく挨拶を交わして近況報告のような会話があった。お互いに背中には女の子をおんぶしていたのだった。そして割合近い所に住んでいることが分った。
 内職をしているが働きに行きたいと思っていると云う。家庭事情が分ってしまい、年令も同じと云うことが親密度が嫌が上にも深くなって行った。そして二人共内職ではなく子供連れで働きに行こうと云うことになったのだった。長女はもうすぐ一歳の誕生日を迎える頃だったが友人の子供はそれよりも半年前に一歳を過ぎて体も大きく丸々と太っていた。仕事中はおんぶして作業の途中でミルクを与えたりおむつの交換をするのである。母子共に辛い状態の中でわずかな報酬を頂くのである。お金の有難さは身にしみてわかるのであった。こんな苦しい時にお互いの悩みを話し合って来た友人は遠く西と東に別れても未だにずっと心の通い合う友となっているのである。
 それから引っ越した所は同潤会通りの小学校に近い三軒長屋の真中の六畳間であった。右隣の住人は母親と女の子二人、左隣には七十代の母親と四十代の独身女性の二人暮しであった。トイレは右隣りにしかついてない。水道は三軒で一つの洗い場を交替で使用するものであった。一番つらいのが夜中でも隣家の台所の戸を開けて用足しに行くことであった。
 長女が一歳八ヶ月になった頃、長男が誕生した。雨漏りがしないだけがとり柄の家であった。南に高い窓が一つあるが太陽の光も満足に入らない、そして北側に入口があるのだった。春になって暖かくなると家の柱や板が古いためその中から虫が出て来る。雨が降ると入口に水が溜まる。二段に別れている台の上の方には食器を伏せて置くざると下の台には石油コンロが置かれていたが、今考えてもよくあんな所でと思う。
 叔母の家の近くだった為に洋裁のまとめを内職としてさせて貰うことになり夜は電燈を風呂敷で囲って洋服の袖ぐりのまつりボタン付けなどをして朝には出来上がったものを届けるのであった。
 こんな生活が続いていたが昭はよく会社を休んでは家に居ることが多く私の心もおだやかではない毎日であった。家の無いのがこんなにつらく悲しい思いをしなくてはならないのかと思い都営住宅の申し込みを年に二回づつは必ず行っていた。早く人間らしい生活がしたいとの願いは年と共にふくらんで行きその願いがやっと叶う時が来た。かかさず申し込みをして五年間、ようやく篠崎に四階建ての鉄筋アパートに入居許可を得た。長女も長男も三歳と一歳になって保育園へ入所させ、私は保険外交員として働くようになっていた。主人昭と私の収入を合わせても民生住宅に入居出来る資格があった。 この時ばかりは地獄から天国に移り住んだ心地であった。新しい保育園も団地内に出来上り二人の子供も以前とは送り迎えが楽になりいよいよ保険の外交と集金に力を入れて仕事が出来るようになっていたが主人は住み心地のいい四階の部屋でテレビを見たり本ばかり読み会社が不満だと云って止めてしまったのである。どうしてこんなことでと私から見れば本当に頼りにならなない夫の行動には理解できぬ日々もあった。
編集者
投稿日時: 2009-4-8 8:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・13

 丁度その頃、体の変調に気付きつわりが始まって日毎に強くなって二十四才になろうとする夏から秋にかけての出来事であったが私の気持ちの中では子供が生まれたら、昭もいつまでも自分が子供のような気持ちではいられなくなって仕事にも一生懸命になってくれるのではにかと思っていた。
 しかし、それは私だけの考えだったのかと後悔する日日が多くなり何ともつらい気持で月が満ちて行った。はがゆく思い乍らも、少しでも経済的に切りつめた生活をと考えながらも勤めていた会社をさっさと止めて近所で見つけて来た内職をすることにした。生まれるその日迄内職をやっていた。作った製品を大きいビニール袋に入れて外に出し書き置きをして夕方産院に入院した。 昭和三十五年三月十五日、十六日の朝方春雷を聞きながらの出産であった。大望の女の子であった。退院した日、田舎の母が手伝いの為上京して来た。結婚式以来二年振りに母に逢ってつい近況報告をし乍ら不安な心境を話してしまった。
 夫のことは何一つ知らずに婚約後は離れて暮らした四ヶ月余りが悔やまれていると気を許してしまい母に告げた。生まれて来た我が子を胸にして泣いた私の姿を見た母はどんな思いであっただろうか。母は娘の私がきっと幸せにやっているものとばかり思っていた気持ちを破ってしまったのだろう。母の気持ちを裏切った親不孝な娘だと又情けなくなって泣いていたようにも思う。
 が今更夫の昭と別れるわけにもゆかないと云う気持ちはあった。教会で神と人に誓ってしまった私達の結婚であったからなのだ。どんなに苦しくても神は見捨てるようなことはないと信じていたから。娘は美智代と命名した、私にとっては出来過ぎた可愛い子であった。そんな可愛い子供の顔を見ても主人は抱いたりあやしたりすることもせず会社を休んではふらっと家を出て夕方には帰って来ると云う日々は以前と同じで収入は相変わらず最低生活を強いられ給料日まであと三日もあるのに財布の中には三百円しかなく調味料も買えないと云うことすらあった。
 子供が出来たら他に家を見つけると云う条件であったので早速不動産屋を歩き日の当たらない部屋で六帖、共同炊事場、共同トイレと云うアパートをさがし当てた。とにかく家賃さえ安い所と云うのが私の第一条件であったから昼間でも電気をつけなければ家具も畳も見えない部屋である。昔引揚げて来た当時土蔵で暮らした事が思い出された。日光が当たらない部屋に住んだお陰で風邪ばかり引いていた。そんな部屋に何ヶ月か暮らしていたが向い側の住人が越して行ったのを機に北側に窓のある四帖半の部屋に換えて貰うことにした。
 昭和三十五年の秋であった。三、四カ月住んで年が開け正月三日の夜中普段あまり夜泣きをしない長女が急に激しく泣いて目が覚めた。おむつを取り替え入口の方に歩いた時に突然倒れ込んだ。頭痛がしておかしいと気付いたのはレンタン中毒、酸欠だったと咄嗟に頭をかすめた。夫を起こし娘と三人で近くの病院へ走った。もう少し遅かったら一家三人心中と云う運命待っていたであろうと本当に思った。こんなことがあって狭い四帖半の部屋に住み続ける気持がなくなり又部屋さがしに歩いた。何しろ家賃の安い所ばかりを相変わらずさがし歩いた。赤ん坊をかかえてあまり収入の定まらない夫の働きと内職だけの僅かな収入で短期間に何度も引越しをするのはとてもつらいことだったがそんなことは云って居られない。毎日の生活費に事欠く状態となった。内職と部屋さがし、いつもいつも頭の中はそればかりを考えていた。
編集者
投稿日時: 2009-4-7 8:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・12

 結婚式の翌朝姑は私達の家を見に来た。新婚旅行にも行かずの第一日目の早朝の訪問にびっくりして飛び起き不意をつかれた私のうろたえた姿は筆舌には表わすことの出来ないものである。姑の目から見た私達の姿はきっと頼りない幼な子のように写ったであろうか、四月二十八日の出来事であった。
 夫昭の四月分の月給までまだ日があるからと何がしかのお金と今まで使用していたと云う印鑑を私に預けて行ったのである。しかし印鑑は預ったものの一冊の通帳もなく一カ月分の食費を手渡されたのである。
 兄姉達からのお祝いだと云って洋服ダンスとベビーダンスと飯台が用意されていた。私の親からはお祝いと云って弐萬円也を頂き下駄箱と鏡台そして台所用品等を買い揃えたのだった。ふとんは、使用していたものの綿を打ち返して用意したような気がする。ただこれだけの家庭用品が新しい小さな家の中に運びこまれて形だけは何とか生活が始められた。五月の末になり主人から初めての月給を生活費として受け取ったのだが、とても頼りない収入であることを実感した。口に出してはまだ云えず困惑した。しかし二、三ヶ月経っても充分生活して行くことには程遠い収入でだんだん不安がつのって来たのである。
 昭は朝会社へ行く様な格好で家を出るのだが真直ぐに会社に出勤していないことが、会社からの電話によりだんだん分って来たのだ。思い余って理由を問い正してもなかなか真相が分らず給料日になるとその結果が否応なく出てくるのである。こうなっては私も家で内職などはしていられないと勤めに出ることを考えずには居られなくなった。何となくあせりのような気持ちになり近くの工場に働きに行ったり亀戸の化粧品会社の事務員として手伝いに行くことになったが、若い頃の高望みは一斉捨ててパートの様な勤務体形の会社ばかりに他ならなかった。私が一年半位働いている間に昭は大っぴらに会社を休んでは家で寝ていることが多くなっていった。
 クリスチャンとして聖日には教会へ行き礼拝をし清く正ししい生活がお互いの基盤と考えていたが、結婚前の約束などいつしかくずれ去って行くのが何ともくやしい思いであった。神前で誓った永遠に幸せな夫婦生活を夢見ていたのに現実は全く逆の方向に走っている思いがつきまとう様な気がしてならなかった。それでも日曜日になると教会に足が向いて行き夫婦で同じ信仰の道に進みたいたいと夫には何度も誘ったのだが。
編集者
投稿日時: 2009-4-6 15:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・11

 それから二年経た頃に教会の仲間になった昭と半年くらいの交際の末結婚する事になった。勿論叔母夫婦にも話して長野の実家から父母も呼んで牧師の了解により正月に婚約するとそのまま父母と長野の実家へ帰った。
 四月に結婚の日取りまで決めてどうして遠い所へ離ればなれにさせられたのだろうか、あの時は自分の意思は全然なくて父母や叔父叔母の云うことを素直に聞く以外にはなかったのだろうかと不思議に思う。十七歳の春に父母の元を離れて五年間、これでもう親や兄弟の住む家で共に生活をする期間もないのかと思えば父母もたとえ四ヶ月でも手許(てもと)に置いて親らしいことをしたいと考えたのかも知れない。婚約者となった昭も何も云わず新宿駅迄見送りに来たがそのまま別れた。あの時は婚約の記念にと思ったのか時計と手袋をくれたのを覚えている。
 そして四月二十七日の結婚式の一週間前迄はお互いが文通のみの交際であった。今思うと本当に不思議に思われて仕方がない。相手のことは殆んど何一つわからないと云ってもいいような交際期間だった。
 実際昭の年令だって見かけは30才を越えているかと思われる位に私の目から見ると頼もしく写っていたのだが年を聞いて耳を疑ったほどであった。二十三歳になったばかりであったし兄弟姉妹八人の末子だと聞いて又びっくりする。そして親は父六十九才母七十歳と云い、その父や母が私に逢いたいから家に来るように云われた時は女の私が彼の家に先走って顔を出すことがいいことなのかと迷いとうとう婚約式の時、牧師と一緒に叔母の家を訪問した義母を見たのが初めてであった。父親は中風で歩くのもやっとで来られないと云っていた。
 信州には父の妹で小学校教師をしている独身の叔母がいたが丁度結婚の話があって私よりも二日早い結婚式が決まり、父母はいろいろと心配している最中であったがとに角四月は東京での二つの結婚式に出席することが気がかりだったと思う。
 私は未だ若かったので別に急ぐ必要はなかったのだが昭の親が高齢者のために私達を早く結婚させたいと思ったのかと今になって思う。昭和三十三年の春のことであった。叔母の家の裏庭に六帖一間の部屋に玄関と台所一帖とトイレのついた小さな家を建てて貸してくれた。叔母夫婦の気持ちを考えると父や母以上に私のことを思いこの結婚の幸せを願ってくれた気持ちが今更乍ら有難いものであったと思い起こすのである。
編集者
投稿日時: 2009-4-5 13:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・10

 叔父も叔母も人の子を預って居る以上心配だったのだろう、タイプもいいが将来役に立つ洋裁の仕事を手伝ってみないか?と相談をかけてくれた。又外に出たければいつでも捜せばいいからしばらく皆んなと仕事を手伝って見たらと云う。 
 中学の頃、家庭科の時間に針を持つことが非常に苦手だった自分を知っている以上やれる自信は皆無に等しかった。それなら近くの洋裁学校に少し通って基本だけでも教わり乍ら家の仕事を手伝えばいいじゃないかと云ってくれたので新小岩のマスダ洋裁学院に通ってみることとなった。
 院長先生は毎日素敵な衣装を着替えて来る。そして勿論洋裁の基本から教えてくれるのだがイベントもありすごく楽しみな授業であった。美容の大家の山野愛子先生が現れたり、シャンソン歌手の芦野広が来てシャンソンを歌ってくれたのもすごいと思いやっぱり東京だと感心して毎日が何となく楽しく思えるようになった。
 午前中で授業が終り家に帰ると洋裁を仕事としている叔母の仕事の手伝いをすると云ってもミシン掛けなどは全然出来ないのでアイロンの掛け方を教えて貰ったりボタン付けやまとめ等であった。
 自分では方向転換したつもりでも心のどこかでは納得出来ない気持ちが残っていた。これが運命なのかと思い乍ら生きてゆくことの難しさを考えては悶々とした日々を送っていた。


 丁度その頃、信州の田舎での事を思い出したのである。友人宅にアメリカ人の牧師がやって来て誘われるままに興味をもって説教を聞きに行ったり日曜学校に通ったことがあった。
 東京、江戸川区で、路傍伝道の一群が家の近くを太鼓を叩き乍ら賛美歌を歌っていた。
 急に懐かしさがこみ上げてきて誘われるままにテントの中に入ってゆくと品のいい婦人達が3,4人と青年の男女4,5人位だっただろうか、私のように興味あり気に入った者が何名か居た。 牧師はあまり背の高くない丸顔の中年男性であった。頭の毛の生え際がもう薄くなっていたが顔だけは血色がよく一見して熱血漢と云う印象があった。
 伝道しているのを見て私はすごい感動を覚えたのである。日曜日と木曜日の夜は町会の会館で集会をやっているので参加して下さいとのことであった。聖書の話が聞かれると思うと何だか嬉しい気持ちになって仕事が終わると夕食後叔父と叔母の許可を得ては町会会館へと足を運んだ。牧師先生は埼玉から出張して熱心に聖書を述べ伝えてこの地にキリスト教会を建設したいと大きな夢を語ることもあった。
 埼玉にも教会と保育園があり自分の家庭や子供のこと教会のことなどもよく話してくれた。夏の頃、埼玉の教会に仲間と大勢で招かれて一日楽しく過ごしたこともあった。牧師の家には物静かな奥様と三人の男の子が居て一番上の子はまこと君と云っていた。保育園の所で仲間と写真を撮った。場所は久喜と云う所だった。埼玉は隣りの県ではあるが江戸川の松江迄週二回出張して神のみ言葉を伝えに来るのは本当に大変なことだと思った。人は心で動かされるのだと感じた。
 牧師先生の熱血が信者一人一人に伝わってか集会には出席が多くなり次の年のクリスマスには洗礼を受ける決心をしたのである。世の中はまだまだ安定しているとは云えなかったが教会に集まる同志は老(おい)も若(わか)きも本当に真面目そのものであり心の暖かさを持っている人の集まりであると確信した。そして毎日の生活も仕事もこれで変わるのではないだろうかとそんな気がしたが変わったのは私の心だけであった。もともと不器用な私が一番苦手な仕事をするのだから楽しい世界ではなかったがキリスト教の教えに少しでも忠実に生きようと努力していたことは確かであった。
 今思えば私の青春時代は実に聖らかな身と心であったかと思う。これも父の妹とそのつれ合いの叔父のやさしさの故であったと思っている。叔父も叔母もきっと安心して私を見守っていたのかも知れない。
編集者
投稿日時: 2009-4-4 8:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・9

 浜松にずっと居たい気持ちもあったのだが東京へ出て働きたい旨を強く押し通したのである。荷物をまとめ東京の叔母からの手紙を待っていた。しばらくして伯母から住所と地図と東京駅から乗車するバス路線を書いた手紙を貰い受け入れ体制が整ったことを確認してトランクを提げて浜松を後にしたのであった。 
 浜松の駅で東海道線の電車に乗ろうとした時、同じクラスで一年間仲良く過ごした間渕京子さんと偶然会って聞くと同じ東京に行くところだと云っていた。当時は新幹線はなくゆっくりとお互いに話し合い乍ら東京駅までの時間を楽しんだ。京子さんは小石川の親戚に行くのだと云っていたが、それが最後になるとは考えられないことだった。 本当に若い年令で他界してしまった様である。
 丸の内からいまはもうない市川行きの都営バスに乗った。随分道のりがあったが江戸川区役所(八蔵橋)で下車、大杉公園に向って歩き出した。地図を見乍らトランク一丁提げて十月の日ざしがかたむいてる時間帯、一本道をドブ川に添って右に曲がり菊畑の手前に叔母の家の表札を見た。地図の通りであった。門の鍵は開けてあったので玄関を開けて「ご免下さい」と声をかけると叔父が現れた。
 はじめて見る叔父の顔、やさしそうな叔父の第一印象、今でもあの姿がはっきりと浮かんで来る。「私、信州の道子です」と自己紹介すると「ああ道ちゃん!上がりなさいよ」と快く出迎えてくれた。手にはホーキとはたきを持っていた。掃除をしていたのだろう「叔母は菊の花を買いに行っているけどすぐに帰って来るから」と座敷に通してくれた。茶色の猫が独りで窓のガラス戸を開けて外に出て行った。初めて東京の土を踏んだ日であった。叔母も菊の花を手にしてすぐ帰って来た。 
 この時の光景は何十年の月日が流れているのに忘れることが出来ない。それからというもの叔父や叔母と相談してもう一度タイプを習いに行こうと云う気持ちになった。叔父はナスアルミに勤めていたが退職したばかりだと云っていた。叔母夫婦にも子供がなく、叔母が若い頃新宿の文化服装学院を卒業しずっと洋裁の仕事をしていたと云い若い人5,6人で自宅でずっと洋裁の仕事をしていたとのこと、叔父はとてもきれい好きで何かと家事を手伝い乍ら若い頃から小説を書くことが夢であったらしい。よく書斎にこもっていることが多かった。
 食事の後によく冗談めいたユーモアを云っていたが何でもよく知っている人で本当に頼れる叔父で安心して心おだやかな生活をさせて頂けたと心から感謝している。 西も東も全くわからない私のためバスで一緒に出かけ東京をガイドしてくれたり本当に親切にして下さったと叔父の気持ちに対して今更乍ら思い出しては感謝しているのである。お陰で少しずつ東京の生活に慣れ日本橋のタイピスト学院で和文タイプを三ヶ月習得することが出来た。日本橋三越前と云う駅前にあるメトロ街に学院があって三越に立ち寄ることもあった。エレベーターの中で高校(長野)の同級生に逢った。彼女はエレベーターガールとして三越に就職していたのだった。見違えるような変身ぶりだったが直ぐに名前を思い出して少しの時間だったが再会の喜びを味わった。東京のしかも三越に勤めるとあんなにきれいになってしまうのかとうらやましく思ったものだったがあの時以来逢ってはいない。タイピストとして働こうと心に決めて三ヶ月真面目に通学しようやく就職先を探す為飯田橋の職業安定所に足を運んだ、昭和30年頃のことである。丁度その頃は大変な就職難の時代であったのだった。一度浜松で失敗しているので大きい会社に就職したいと云う願望が強すぎたようだった。なかなか思うような所がなかった。夢は益々ふくらむ一方だが現実はそう簡単にはいかない。
 生命保険会社のタイピストを募集していることを知って応募した。面接の日、本社を尋ねたら何と宮城を一望する所に玄関のある会社である。胸をときめかせて面接に望んだ。こんな東京のド真中でタイピストの仕事が出来たらと考えただけでも胸が高鳴ったのである。4,5日してから合格通知が来て次回は学科試験の日が記るされてあったのだ。本当によかったと胸がわくわくしていた。そして二度目のテストに赴いた。なんと云うことだろう、これも通過した旨の知らせがあったが三次試験は又日を改めて身体検査があると云う。三次試験が通ればあの大きな会社のしかも本社の中で仕事が出来るのだと思えばもうこれ以上の所はないと云う気持ちになっていた。そして第三次試験に臨んだ。しかし、その結果は肺に跡(かげ)(病気の)があると云うことだったのだ。レントゲンは昔の病を暴露したのだ、何と云うことだ。崖っぷちから海の中に突き落とされたような衝撃に襲われた。今迄一生懸命やって来たことは一体何だったのだろう、全てが無に伏してしまった。今更父母の許に戻ることも出来ない。これからどうしよう、又、職業安定所に行く気持ちにもなれなくなってしまった。今更小さな会社に勤めるのはもうこりごりと八方ふさがりのような心境になった。
編集者
投稿日時: 2009-4-3 8:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・8

 その時はこのまま親や弟妹達と一緒に暮らす生活が終わるなんて考えもしなかった。残る後一年間の高校生活を我慢してでも進級したかったのだが父が許してくれなかったのが残念であった。浜松の学校は母が若い頃六才下の人達と学んだ女学校であった。昔と今では名前が変わったが校長は三代目の岡本富郎先生である。県立から私学に転校を願い出たのでなかなか難しかったようであるが伯母と母が必死でお願いして入学を許された。
 西遠女子学園と云った。簡単に入学できないと誰もが考えていた。でも長野の学校に戻る事も出来ないと覚悟していた。母が幼い頃にお世話になった恩師を訪ねて力になって頂いたので四人で面接に行ったのだった。
 校長先生は特別に入学を許可したいがそれには条件があると云われた。それは人と何か違う特技があればとの事、私はこの時咄嗟(とっさ)に「速記が出来ます」と答えていた。「将来速記者になり度いと思って速記を習っています」と口から出た言葉。「その他には?」と聞かれ「ダンスを習っていました」と課外活動の事を伝えた。このまま学校を止めたらどうなるのかと云う切羽詰った気持ちから出た言葉だったかも知れないが思いがけない言葉が口から飛び出したと自分でも本当にびっくりしたのだがそのことで入学が許可されたのであろうか?
 ・・残る一年間は親から離れて伯母の世話になることとなった。そしてこの一年は思い切り勉強をさせて貰ったといつも心の底から感謝して過ごした。伯母には二人の子供があったが男の子は戦死、女の子は結婚適齢期の26才で戦後結核で亡くなったのだった。私も引揚げてきたばかりの頃その従姉妹に一度会ったことがあったのだ。
 伯母は私のことを本当に可愛がって世話をして下さったと思う。高校在学中は授業の他に塾でタイプやソロバンを習って就職の準備もした。卒業後はタイプを生かそうと伯父の世話で浜一織布KK入社したのだが七ヶ月ほど勤務したものの自分の希望とは程遠い会社の雰囲気に負けて退職せざるを得なくなってしまった。
 伯父や伯母に本当に申し訳ないと思いつつ… それから長野の実家に帰った時、父の妹で朝鮮で共に暮らした叔母に逢った。現在は東京で住んでいるとの事だった。浜松の高校を卒業して七ヶ月働いたがと現在の心境を話すと、東京へ出て来ないかと快く誘ってくれたのだ。あの頃の私は東京と聞いただけで夢見る乙女の心境になりあこがれを強く抱くようになってしまった。浜松に帰ってから叔母には本当に申し訳ないと思ったのだが東京へ行き度い気持ちを話した。
 自分ながら恩知らずの姪だと思われるのではないかと覚悟を決めての事だったが叔母は強く反対もせず東京行きを許してくれた。
編集者
投稿日時: 2009-4-2 8:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・7

 母は行商をやめて我が家に小さい店をつくった。母は毎日重い荷物を持ち運ぶのが少しづつ大変になってしまったのだと思った。浜松の母の弟には大分お世話になったが結局売り食いで仕入れのお金も満足に返済出来ない状態になったとのことであった。が幸い駅に近い場所であった為日銭をわずかでも欲しいと思ったに違いない。そのうち魚やパン、菓子、野菜等を店に並べて売るようになった。 
 母が家に居るということは本当に有り難いことであった。その頃私は体に異常を訴え病院通いが始まったのだった。中学一年の初め頃腎臓と肺浸潤を患って入院した。その後はしばらく学校にも行かれない時期があって思うように家の手伝いも出来ず毎日家族が忙しい思いをしていると云うのに子供乍ら何ともつらい日々を送っていた。母はとても心配して担任の先生には一年休校を願い出ていた様である。一学期は殆んど休んでしまったので秋になって登校した時は英語や数学はもう何も分からず学校が面白くなくなっていたのである。だが担任の永原先生は学校では体育の時間は見ているだけでよい、放課後の清掃も免除として無理をしなくてよいと云う特別な条件で登校を受け入れて下さったのである。頭髪の中や顔にまで出来物が出来て包帯を巻いていたがとうとう毛髪を全部剃り落とし男の子のような姿になってしまったのだった。学校を一年休学すれば卒業も一年遅れるわけだからその時のことを考えればとやっぱり先生は大目に見て下さったのだろうと感謝の気持ちで中学生活を送ることが出来た。
 しかし三年生になると高校受験の話や進路を話し合う機会が多くなり悩みもだんだん深くなって行く。父は女の子だから無理して高校は進学せず家の中の手伝いをした方がいいと強く主張するが母は何としても高校受験だけでもした方がいいと云う。母は若い頃女学校に行きたかったが兄弟が多く親に負担をかけまいと六年間専売局で働いてから女学校に入学した話を私によく聞かせてくれていたのである。
 その為か父と母の意見が異なり、まとまらずにいたが受験だけして、その後決めればいいと気持ちを決めて最後の返事をしたのだった。
 県立高校を受験することにした。心も決まって受験組に入って勉強することで何となく嬉しい気分になっていたのだが卒業式が近づくにつれ父の反対はますます本格化して行き、その中での受験の発表を見た。成績は自分で考えていたよりはずっとよい方向で合格していた。そんな時も父からは「こんなに貧乏しているのにお前が高校など入学したら後に続く弟達もみんな高校に行くと云うことになるだろう、その時はどうする」と云う。母は全く逆の言葉で私の心を支えてくれた。将来のことを考えて高校ぐらいは行かなければ…と父と母の間で私の心はとても悩んだ、そして実力行使をする決意で母から商品を借りて一人で木曾の山村に出かけて行き行商をやってみようと一軒一軒の家庭訪問して一日中歩いた。自分の思いをぶつけてみたが思うように商品は売れずがっかりして、夕方家に帰った。本当に辛い一日であったが母の苦労を痛切に味わった。
 父の云うことを聞いて家の手伝いをしようかとも考えたが、母は「後で後悔する、私が何とかするから高校には行きなさい」とかばってくれたのだった。

 最後まで辛抱出来るだろうかかと悩みつゝ、桔梗ヶ原高等学校に入学、汽車通学をした。中学の頃体が弱かったので少しでも健康になりたいと思う気持ちで課外活動はダンスクラブに入部し夏休みの合宿もやって見た。又クラブの発表会も楽しく忘れ難い思い出の一つとなった。
 体はすっかり元気を取り戻し勉強も男女共学の中で一日も休むことなく一日一日が青春真只中と思えるような空気に包まれる学校生活であったが家に帰ればそんなに楽しいことは一つもなく母と一緒に店の手伝いをしたり炊事の支度、掃除、洗濯や風呂炊きで宿題もまともに出来ない様な忙しさであった。
 父に一言でも逆らったら学校など止めろ勉強など必要ないと顔さえ見れば怒鳴っていた。それでも二年間はそれに耐えていたが、いつも母に対しては可哀想で心が揺れ動いていた。父は面白くないうっぷん晴らしを私に全て向ける様になって時々体罰まで受けることがあった。寒い冬の夜、雪も降っているのに家に入れて貰えず風呂の火を焚く所で一夜を明かしたこともあった。今考えても体中がぶるぶるふるえるようだ。母の姉である伯母がよく木曾の御岳山に登るために来ていた頃、母や私のことを心配して浜松の学校に転校を薦めてくれた。母は毎日の様子をみて心を痛めていたのか伯母の気持ちを受け入れて二年生の三学期が終わった春休みに私の浜松行きを許してくれたのだった。
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