メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) 一練習生が見た海軍電測学校の環境 | 投稿するにはまず登録を |
スレッド表示 | 新しいものから | 前のトピック | 次のトピック | 下へ |
投稿者 | スレッド |
---|---|
善兵衛 | 投稿日時: 2009-1-6 11:44 |
登録日: 2009-1-4 居住地: 投稿: 2 |
一練習生が見た海軍電測学校の環境 「昭和19年にできたのですね。なぜ、もっと早く作らなかったのか不思議です。」
場所は神奈川県藤沢市で当時は市街地を北にはずれた農村地域、 入校時私たち3000人が居住する区画は未完成で、兵舎はどうやら間に合った格好でした。しかし、 10棟ある兵舎の周囲は桑畑のままで、入隊式前日の私たちが、切り株にワイヤーロープを縛り付けて人海戦術で引き抜き、そのあとを裸足の「その場駆け足」で踏み固めました。兵舎内の通路も私たち全員の踵で三和土(たたき)に仕上げました。 烹炊所(厨房)、厠(トイレ)、洗面・洗濯場は間に合っていましたが、管理棟や講堂(教室)は建築中でした。 浴場は未だなので、はるばる別な兵舎群までの「もらい湯」がずっと後まで続きました。 「 あわ、大急ぎで作ったのですね。」 終戦の何年か後、訪ねたことがありました。一面麦畑、まだ自動車工場が出来る前。 「いま、その「自動車工場」が大変な状態です。」 一昨年同期の一行と、懐かしいはずの『海軍電測学校』の場所『いすゞ自動車』工場を見学しましたが、残っていた風景は僅かでした。 一番印象に残っているのは富士山と大山を一望する風景ですが、今はビルの屋上にでも上らないと見れないのではないでしょうか? 電測上下水道 炊事、洗濯、洗面、入浴、1万人が必要な水を相模川の上流から開渠で引き込んでありました。 後日知ったことですが、 現在、横須賀水道といって横須賀市に至る上水道で、元は海軍が軍港用として造った水道だったのです。 海軍は自前の水路の上に電測学校を造ってその水を途中利用したのでした。 当時そのようなことを聞いたと思うけれども、関心が無かったかのでうろ覚えでした。 洗面・洗濯場の横に木の櫓が組まれて、木のタンク(つまり、でかい水桶)が載せられていました。 常にいわれていました。 「茶が烹炊所にいつでも用意してあるから茶を飲め、生水を飲んではいけない」 ・・・ 禁じられていてもその水を飲む。全体では誰かが腹痛になったかどうか知らないが、私も周りのものも無事でした。お茶といっても緑茶が煮出されて紅茶色になっていました。 引地川(ひきちがわ) 相模川の水を汲んで炊事・入浴・掃除・洗濯をして汚れた水を 引地川 に流していたのでした。 (水洗でなかったからトイレの排水は流していません。) 当時の一同に代わって(僭越乍)この川に感謝を捧げます。 引地川 を渡って、電測学校正門まで700メートル、正門から兵舎まで更に1キロ余り。 のどかな光景、実は 葛飾北斎の富嶽三十六景にありそうな風景です。 富士山を背景に形のいい松が生えています。その松の脇を牛に引かれた大きな荷車が通っています。 すばらしく美しい! のどかな光景です。 --- のどかさ --- 数分後に厳しい訓練開始のラッパが鳴ると思うと一層深く感じる! 積荷は樽がいっぱい。その樽の中身は何でしょうか? 初めのうちは私たちも知りませんでした。 当ててみてください。 ・・・正解は、 海軍少将電測学校長以下我々に至る 万に近い数の士卒一同、軍務の合間に生産した有機肥料が詰まっているのです。 ごく荒れた日のことは知りませんが毎日滞ることなく往復しているのが見られました。 傍目にはのどか でも大変な仕事です。もしも休んだらどうなったことでしょう? 牛かたさん、うし君ほんとうにご苦労様でした。 善兵衛 |
スレッド表示 | 新しいものから | 前のトピック | 次のトピック | トップ |
投稿するにはまず登録を | |