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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
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あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 11:27
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
引き続き、哈爾浜学院21期生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された「成瀬孫仁日記」を、許可を得て記載いたします。

     
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創刊号に載った分は、簡にして要を得たと賛辞を呈しておいたが「本当はずっと膨らんだものではないか。手を入れぬ、そのまま生のものを送ってくれ」「いや、同期生をはじめ登場人物へのちょっとした月旦もしてるし、そのままじゃどうかね~」「責任は編集者としてのオレにある。任せてくれ」と提供してもらった次第。

 ズバリ、一次資料としての迫力、臨場感にあふれ、老いたる胸を刺激すること、抜群。
 彼の内なる告白も出てくるので、数え年十八歳の青年初期のウブさを赤裸々にみせて清々しさを感じさせる一方、青春の心の泥濘(ぬかるみ)を想起させてくれて憮然たらざるを得ない。(編集者:作間 隆美)


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 11:40
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
昭和十六年六月 琿春へ勤労奉仕

 六月一日(日) 曇後雨 暖
 朝から曇り空、遂に昼前に雨になる。
 昼食後十三号室で「汁粉」会の余りがあるから食べに来いと呼び に来た。「汁粉(シルコ)」でなくて「善哉(ゼンザイ)」。餅でなくて小麦粉の團子。丼二杯。満腹。

 腹ごなしに二時頃から「登亭和」百貨店へ衛生展を見に行く。女性の身体を詳しく説明した図が澤山あった。恥ずかしい。

 六月二日(月) 晴 暖
 朝からどうにも眠くて仕方がない。
 朝礼にて院長曰く「院長になってもう一年になる。其の間皆に対して叱責一つしなかった。先日帽子をかむれと言ったのに未だかむってない者がいる。残念な事だ。院長の命令に服さない者は民族の先頭に立つ事が出来ない」と。

 国民道徳の時間に院長曰く「日本民族は北方に伸びる可きである。之を忘れると民族は自滅する。我等学院生は満州国の国境外で活動するのだ。国境を北に越え、西に越えて日本民族の先覚者たれ」と。

 六月三日(火) 曇後雨 涼し
 昨夜、夜ふかししたので朝の点呼に出ず。
 放課後身体検査あり。結膜炎だと。馬鹿にしている。併し之も病気の内。肺病は免かれた。胸部疾患の者相当いたが、あまり気にかけている様子は見えない。

 掲示板に提示あり。「外務省書記生に採用希望の者は申し出よ」と。この件に付き室で相当議論あり。今更外務省に入る位なら内地の高等学校、東京帝大へでも行った方が早道ではないか。

 嘉永六年本日ペルリ浦賀に来る。大正九年本日我軍尼港《注1》占領とある。外務省の件と関係があるのか。

 六月四日(水) 雨曇 暖
 朝から雨降り、道は大いに泥濘《ぬかる》む。
 休操の時間に身体検査あり。身長一米五七。胸囲八十八。体重五十七キロ。視力十二。学校に納める金。プリント代一円。共済会費一円。アルバム代一円五十銭。柔道部費三円。寮費五十銭。

 六月五日(木) 雨 暖
 本日から軍隊宿泊。朝から準備、細雨の中を泥濘を踏んで孔子廟の近くにある歩兵聯隊《注2》へ向かう。昼食後、機関銃を用いる教練。教官として少尉が二人張り切っている。

後、部隊内の風紀衛兵所《注3
、聯隊砲、速射砲等を見学。

夜は夜間演習。細雨の中を散々這廻される。幹侯の歩哨《注4
の動作を見学。吾々が見ているためか近付くと照れ臭さそうに見えた。

 六月六日(金) 晴 暖而寒
 朝五時三十分起床。兵隊と一緒に朝の点呼。体操。
 午前中、分隊の陣地攻撃、午後、大砲、機関銃の最終弾に膚接しての突撃演習。夜は小哨《注5》の動作。急に温度が下り寒い。
 早く寮に帰りたい。

 六月七日(土) 晴 暖
 部隊宿舎最終日。朝から各個戦斗教練、聯隊の作業場で行う。露崎が頭から濠の中に転り込んで目を廻す。昼食は代用食。大豆飯と支邦素麺。結構美味しい。当たり前だ。腹は充分すぎる位空になっている。

 午後練兵場で小隊の攻撃演習、匍匐《ほふく=注6》前進、ちょつと引鉄《ひきがね》を長く引いていると転機注7》三十発。弾丸はもうない。
 学校へ帰り、入浴、三日間の垢を落として帰寮。

 六月八日(日) 晴 暑
 学校へ行く。空教室で春日、深坂と試験勉強。三人で煎餅、生菓子を充分に食べる。午後一緒に「光」 へ行く休み。「池田」 へ行く。
三年生は試験が終っている。
 昨夜二年生は多数の者が酔って帰り荒れまはっていた。

 六月九日(月) 晴 暑
 朝から。一日中暑かった。夜、遅くまで皆勉強している。今日は旧暦の五月十五日、満月!!夜半の月は煌々として照らし、地上は霜が降った様に白い。

 西暦一六七二年本日、ロシアの偉大なる開明皇帝ピヨートルが生まれた。

 六月十日(火) 晴 暖
 試験終わる。会話散々。日本語も満足でないのに何でロシヤ語が喋れるか。
 精進落しに街へ出る。

注1:黒竜江河口から20キロの地点にある(ニコライエフスク)
注2:一般的にはどこの国でも歩兵大隊を基間に幹に司令部,火力支援、雑務を行なう中隊を組み合わせて編成されている
注3:弾薬庫の出入り監視に当る兵隊
注4:歩哨、警戒、監視の任に当る兵士
注5:軍隊がある場所に留まる時、警戒を任務とする部隊のひとつ
注6;腹ばいになって 進む
注7:転換の機会、此処では連続して


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 11:41
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
 六月十一日(水) 晴 暑
 朝点呼にも出ず七時過ぎまで寝てしまう。
 放課後、春日、鈴木達と柔道部先輩に送る慰問袋《注1》の品々を買いに「登喜和」「丸商」を廻る。

 日誌帳に昭和十三年本日、支那軍が日本軍の進撃を阻むため、黄河堤防を破壊したとある。

 六月十二日(木) 晴 暖
 又もや昨夜蒲団を落とす。毎晩の事なり。此の頃暑いせいか。明日甲組のクラス会。会費一円集める。残り財布の内に全財産六十銭。

 六月十三日(金) 晴 暑
 戦斗帽紛失する。困ったね。暫くカンカン帽の厄介になるか。一銭残らず財布の底をはたいて菓子を買い、居た者数名、校庭で寝転んで食べる。底をはたいても金六十銭。

 帰寮の途中、代用官舎の裏で寝転んでメツチェンを眺める。テニスをしていた可愛子チャンが逃げた。洋子さん、京子さん、房子さん、皆可愛い小学校五年生。
 満人の姑娘に声を掛ける。

 「うるさいな大学生、そんなのあるか」と日本語で叱られた。
散髪代もなくなったので寮で春日に散髪して貰う。春日は上手(ウマイ)よ。
併し蚊に刺されるのには閉口した。

 六月十四日(土) 晴 暑
 午後春日と散歩。池田屋に寄る。学校に帰る。校庭でクラス会あり。一人当りビール二本、忽ちなくなる。帰寮す。室会あり。皆大いに踊る。晩ストーム《注2》旺んなり。

 六月十六日(日) 晴 暑
 教練試験あり。
 日ソ通商条約(日ソ通商貿易の基礎となる通商ならびに貿易及び支払協定)が成立する。日ソ貿易、日ソ交渉も軌道に乗るのか、我等の活動の新天地が開けてくるのか、ロシヤ学を目的として学んでいる学院生としては喜ぶべき事である。

 深坂に「アツカマシイ」と言われる。何が何だか解らないが、理由は聞く必要がない。

 六月十七日(火) 晴 暑
 数日来無理をして来たので大変疲れている。経済の時間覚悟して眠る。頭がスーツとした。一年生がカンカン帽を貰う。皆はしゃいでいる。

 伊津野、長い間のチフスも癒り退院する。目出度い。
 三年生河野亮さん退学となる。頭の良い人を惜しいことだと坂崎さんが残念がっていた。

 六月二十日(金) 雨晴曇 涼
 朝から雨、昼前に晴れる。午後又雲が出る。試験は毎日続いているが、一喜一憂の気持ちが段々薄らいで行く。大人になって行っているのか。図太くなって行っているのか。ひょっとすると諦めているのかも知れない。

 二十日間あまり預けていた冬の制服を質屋へ出しに行く。一円也を要す(1)
 中台先生が「シューバ」等毛皮類を日本人は扱い慣れてないから夏など使用してない時は質屋に預けるのが品質保全のために良いのだなどとおっしゃっていられたが、こちらは品質保全のためではない。

六月二十一日(土)晴 暖
 試験終りぬ。帰寮、荷物の整理をして再び登校。柔道部のスキヤキ会あり。豚肉のスキヤキむごくってどうにもならない。満洲の豚の精力に圧倒された形である。

 家庭教師に行く。九時前に終わり、春日との約束に従い街に出て、キタイスカヤ、スンガリーを訪ねる。約束の場所にいない。帰ってみると他に急用が出来たのか「成瀬すまん」と書置があった。

 帰途、素晴らしい姑娘に会う。又、バスの中で可愛いお嬢さんのような、結婚しているらしい人に会う。恋をするなら前の様な姑娘、結婚するなら後の様な女(ヒト)。
 帰ってみると室では離散会の最中。


(注)
(1)六月二十日 質屋へ冬の制服を質草に入れた事は覚えてない。

注1:戦地にある出征兵士などを慰め、その不便をなくするため、中に日用品などを入れて 送った袋
注2;戦前日本の旧制高等学校、や大学予科、旧制専門学校などの学生寮において 学生が集団で行なう蛮行のこと


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 11:47
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
 六月二十二日(日) 晴 暖
 試験後第一日、朝から布団を日光浴。室は大掃除。後学校へ行き蒙古研究旅行の出発を見送る。其の後太陽島へ行く。物すごい人魚の群。始めて太陽島へ来たが、素晴らしい。

 帰寮の途中電柱に「六日二十一日獨、対ソ開戦を布告!!」と云う新聞社のビラが多数貼られているのが見られた。電撃に打たれた様になり、暫く立ち止まってジイッとビラを見つめた。頭がジィンと鳴っている様だ。一体どう云う事になるのだ。

(本人注=偶然か日誌の覧外に大伴家持のあの「海行かば水清く山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」と云う有名な歌が記載されて居り、又明治三十六年本日藤村操、華厳瀧に身を投じて自殺とある)

 六月二十三日(月) 晴 暖
 朝から勤労奉仕の準備。種々準備品配給さる。昼頃学校三階で二時間程度昼寝。午後春日とキタイスカヤ、スンガリー散歩。点呼なし。

 六月二十四日(火) 晴 暖
 朝から登校。泥柳の綿が淡雪の様に飛び交ふ。午前中銃の手入。勤労作業。何故か精出してやらうとする元気がない。

 正午から終業式あり。院長訓辞に日く「如何にしても露西亜語を勉強せよ」と。獨ソ戦争が勃発したからには何を態々(ワザワザ)院長先生に言われなくても、そんな事は学院生全員の胸の中にある。

午後勤労奉仕の支度金五円渡される(2)。 直ちに連れ立って街へ出る。半日ももたずに腹の内へ消える。鈴木が腹が痛いと盛んに訴える。

 寮の整理は完全にやってしまう。明日起床四時半、春日、馬場は夕方五時の列車で帰って行った。

 六月二十五日(水) 晴 暖
 午前四時半起床。登校。院長の訓辞を受けて出発。午前八時十分哈雨浜駅発の列車で出発。横道河子、憧れの露西亜風の建物が周囲の森に良くマッチしている。美しい風景に眼を楽しませつつ午後八時牡丹江着。

下車して街に出る。夜間の為か街は殺伐なるかに見ゆ。柔道部集まりてビールを飲む。
午後十時牡丹江発。酔いのためか長く眠れた。

 六月二十六日(木) 晴 暖
 午前六時頃圖們《注1》着。税関検査。煙草十本以下との事。私は煙草は喫わないので持っていない。が事情が解ると、之はまるでペテンに掛けられた様なものであるので、税関に噛みついて私の分として十本返させて皆に分配した。

 圖們で豆満江を渡り朝鮮へ、暫時で列車は訓戎にて満洲国領へ入り暉春へ着く。
 朝鮮の風景は東満と同じく小山が多い。小山と云っても草ばかりの樹のない山ばかり。無理もない。国境線を引かれ、二つの国になっているだけで旧は同じ地方だ。午前十時頃暉春着。多数の出迎えを受けて県公署へ行き昼食。貨物自動車にて快適な旅を続ける事数時間、現地に到着。四方ソ聯に取り囲まれている様に見える。山並を越えてはるか東の方にポシェット湾が白く輝いて見えた。

 六月二十七日(金) 曇 暖
 午前六時起床。午前中自由時間で勝手次第。午後梅村学監先生の御話あり。

 昨夜はスウスウ風が入って来て寒く眠れなかった。夜不寝番が当たる。寒くて風邪を引く。山崎が持って来た「暖流」を借り、勤務中に読んでしまう。啓子、ギン、日疋、どうなんだろうか。物足りない。映画が出来ていると。見てみたい。

 六月二十八日(土)  曇 寒
 国境に雲垂れて無気味である。良く見て始めて気がついたが、ポシェット湾を望む東の山の稜線に点々としてあの有名なソ聯の「トーチカ」が連なっている。兵隊の説明によると二千米程離れた山々がソ聯領だとは驚いた(3)

 炊事当番、おまけに伝令、一日中走り廻った。手紙も書けない。
 勤労奉仕は「飯事(ママゴト)」みたいなもので、昨年よりはるかに楽で「キャンプ」生活みたいなものだ。

 作業は道路工事。一年生と二年生は別に作業をする。昨年も勤労奉仕は道路工事。露西亜語で道路は出来ないから毎年肉体労働者か。
夕方「トーチカ」を眺めて想いに沈む。鈴木も馬場も春日も来ていないが、この国境の風光をみせてやりたい。

 六月二十九日(日) 晴 暖
 今日始めて道路作業に出る。休憩が多くて結構楽だが、矢張り辛いことは去年と変わらない。どうも体が鈍(ナマ)っているか、手袋を使わず作業をすると、すぐ手に豆が出来た。

 相馬さんの話(ピー屋《注2》の話、何時童貞を失ったかの話)を聞く(4)。 男ってそんなものか。それが自然かも知れないが、人間だもん、少しは反自然的であって良いのではないか。
 間食はない。皆煙草ばかり喫っている。学院は吾々の様に煙草を喫わない者まで煙草を喫えと云わんばかりの環境を作っているのか。

 夕暮れの美しさは何時も見られるとは限らない。が物想いに沈むのは矢張り夕方だ。夕方になると雲が四方に立ち込めて国境の山々を隠す。

 六月三十日(月) 晴 暖
 昨夜、皆夜遅くまで唄ばかり歌って騒ぐ。作業は午前中のみ。
昨年の黒龍江畔、孫河では風がさっぱり無かった様に思うが、今年は日本海が見える所のためか風があって有難い(5)。 併し矢張り、樹陰が欲しい。午後は昼寝、故里の夢を見る。

 獨ソ戦争!! 濁軍圧倒的優勢。ドイツ国防軍の威力たるや全く凄まじい。赤軍は手も足も出ないのだろうか。併しソ軍はどうやら焦土戦術を行っているらしい。ゲネラル、クツウゾフに習おうとするのか。長期抗戦で行こうとするのか。

 案外、赤色政府はこれまでの人民弾圧の反動が出て簡単に倒れるかも知れない。三十年後の日獨大決戦を目ざすか。その時私は四十八歳の予定。併し此の戦争で果たして生き残れるか。
 晩飯はボタモチ!!


(2)六月二十四日 勤労奉仕に支度金五円貰った事は覚えてない。

(3)六月二十八日一年生の時、孫河で山の上からアムールの向こうのシベリヤを遥か遠くに眺めた気持ちは憧れに似た感じであったのに、二年の時はソ聯の山々を身近で見ると何だか不気味なものを感じた。

(4)六月二十九日 相馬勇さんの話を聞く……恐らく二十期の相馬勇さんだろうが、二十期の人が勤労奉仕に吾々と一緒に来ていたのだろうか。彼は一年生の時に室長だった福真吾四郎さんと同郷とかで良く来ていたので知っている。

(5)六月三十日 ソヴィエート政府は崩壊せず、日獨大決戦もなかった。有ったものは日本軍の捕虜と獨軍の捕虜がシベリヤで相見えただけだと云う甚だ淋しい結果に終わった。

注1:図們(ともん)中国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する
注2:俗称は戦前にあった女郎屋で 売春を目的とする場所


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 11:52
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
関特演スタート
七月一日(火) 晴後雨 涼
 午前中、道路修築。午后雨天の為休息。作業で肩が痛い。久し振りに風呂に入ると背中がビリビリ痛かった。

 七月二日(水) 曇 涼
 朝から雨が降ることを期待したが、降らない。がっかりして「モッコ」を担ぐ。

 県公署の開拓課長、「キャラメル」、煙草持参で慰問に来る。堂々たる体格。話が面白い。皆を集めて、
 「簡単に言えば青年は誰でも異性に近づくことを望む。併し一層接近すると臆病になる。そして心にもない動作をする。最初、女性は男性より臆病であり、羞恥心が強い。併し後には之が反対になる。之より判ずれば女は男より一般的に図々しいのか?一度頼り傾けばどっと潮のように流れてしまうのか?反対に男が臆病で、自信がないのか?」
 こんなことを話して、とっとと帰ってしまった。満洲には豪傑がおるわ。

 七月三日(木) 曇後晴 暖
 午前、午後共作業あり。午前は雨の降るのを期待し、午後は何かの拍子で作業中止にならないかと期待する。そんな期待はする方がずるい。

 福永が腹をこはして休んでいる。心配だ。
 軍属が「ハイヤー」を福昌公司に乗り着けて来て威張っている。
 作業には身が入らない。

獨ソ戦は如何に。赤軍は獨逸國防軍の機械化部隊と空軍に散々叩かれながら果てしない後退を続けている。ソ聯にも勝たしたくないが、ドイツにも圧倒的には勝たしたくない。

 七月四日(金) 晴 涼
 今日こそ作業は晝から「没有(メイユウ)《注1》」と思っていたら一日中あった。皆ブウブウ言ひながら作業をする。

 七月五日(土) 晴 暖
 作業午前中のみ。第一期の作業本日終了。午後清らかな細流(セセラギ)に浴して涼しい気分に浸る。室内検査、教練あり。
 学監先生日く「教練をやって徹する所、禅の奥まで行かなければならない」と。人殺しの訓練が最後に到達する所が禅の奥義か?

 今日、お前は強情だといはれた。理由など知っても何もならないから聞かない。俺は素直で、すごく気の弱い人間なんだ。だから常に鎧を纏っているんだ。俺だって心も休も強くなりたい。それは自信を持つ事か。自信とは何なんだ。解った様で解らない。

 此處をお前達他国民は越えることは出来ないんだと厳として聳える国境の山の様になりたい。
 晋宋齋梁唐代間    高僧求法離長安
 去人成百歸無十    後者不知前者難
 道遠草天唯令凍    沙河遮日力疲殫
 後賢如未請斯旨    往々将経容易看

七月六日(日) 曇 涼
 起床六時。日曜日作業なし。各組対抗野球大会あり。一年生乙組優勝す。午後余興大会有り。珍芸続出快笑の内に終る。

 七月七日(月) 曇 涼
 第二期の作業始まる。晝飯は「カタパン」《注2》と「善哉(ゼンザイ)」。こんなものと思ったが、腹の内で膨れたのか満腹す。

 七月八日(火) 雨 涼
 朝から「ボソボソ」雨が降っているのに作業。午後第一六四部隊長来る。院長から激励の電報来る。体調は良いのに仕事をしたくない。作業は丁度中間日で、前半が今日終わり、明日から後半に入る。

 七月九日(水) 雨 涼
 午前中作業。午後休息。細雨がこんなにシトシトと降っている中で働けるか。一週間もすれば病気になるぞ。

注1:「メイユウ」で否定をあらわす
注2:硬いパン、ビスケットなのだが その硬さは尋常でない


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2008-10-26 12:05
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
 七月十日(木) 雨 涼
 朝から雨にも拘らず作業に出たが直ぐ中止。講堂で学監先生から「張鼓峰事件」(1) に就いて話を聞く。

皇軍将兵の勇戦敢闘に感歎すると共に蘇軍《ソグン=注1》に満領を不法占拠されたまま放置し、未だ解決し得ない日本政府の不甲斐なさに涙を絞る。丁度、三年前の明日の夜から蘇軍の侵入が始まった。五百名の戦死者を含む干五百名の死傷者は一体何のために悪戦苦闘をしたのか。

 日本の不甲斐なさに比べ欧羅巴《ヨーロッパ》ではどうだ。獨軍の進撃。蘇軍の大敗退!!

 七月十一日(金) 雨後晴 涼
 朝から雨降る。雨中の作業は休に悪いので「サボル」。作業に出ている者に悪いと思う罪悪感もある。

 午後久し振りに雨止み、太陽が輝く。国境が一ぺんに明るくなった。
 休んでいると本が読めるが、始めて一日作業を休み黒星一点と云う感じも淋しい。

 昨日から防空演習発令。国境なので若干の悲壮感は有る。

 七月十二日(土) 雨 涼
 雨の中午前中のみ作業あり。此の頃頓(トミ)に国境方面は緊張して来た。防空演習は始まる。晝間は勿論、特に夜間前照燈に覆いをした貨物自動車が貨物を満載して、国境への山道を荷を運んで来る。

兵隊の移動も激しい。聞くと十五日までに戦闘準備を完了せよとの事であると。愈々悲しくも有り又嬉しくもある事が起るのではないか。
間食に「善哉(ゼンザイ)」。毎晩Y談ばかりで十二時前に寝たことはない。
 米国海軍「アイスランド」に上陸占領す。

 七月十三日(日) 晴 暖
 午前、午後共作業なし。午前中休息、洗濯。午後廣渡先生の「ノモンハン」(2) 実戦談あり。先生は歩兵大尉。歩兵聯隊で生き残った将校の内の最高位の人である。
「ビスコ」「羊羹」を食べ「サイダー」を飲みながら聞く。戦いの真実を知ることが出来た。

 最初に戦いに参加したのは在海拉爾《ハイラル=注2》の第二十三師団(師団長小松原中将)と第七師団(在斉々哈爾)の一ケ旅団で、戦傷死が全部で六万とか七万とか云はれているのはデマであるが、ソ軍機械化部隊に大敗した事は事実である。

日本軍には戦車も対戦車砲も数量が充分でなく質も劣り、ソ軍戦車の装甲を貫通出来ず、数少ない野砲、山砲で悪戦し、前近代的な火炎瓶など用いたが、役に立たず、ソ軍の戦車は草原を走り廻って日本軍陣地を蹂躙した。

もう戦斗でなく殺戮である。戦車はなくても、有効な対戦車砲さえあればあのような無残な敗北はなかった。

 日本軍は後に四ケ師団とニケ旅団の兵隊。全満の、東満の第一線からも対戦車砲を集め、日本及び支那派遣軍からも飛行部隊を転属させ攻撃を準備したが、九月十五日停戦協定成立、ソ聯は九月十七日ポーランドに侵入して行った。日本など傍えも寄れない鮮かな外交の手口である。

 廣渡先生の聯隊の定員が干二百名、生き残りが三百名。そして全聯隊の死傷者総数干五百名。此の数字は補充された兵隊が、次々戦傷死していることを物語っている。誠に悲惨の一語に盡きるが、国民はこの事を知らない。

 七月十四日(月) 晴後雨 暖
 午前中、精魂込めて働いた。そのためか午後作業に出ると直ぐ俄雨のため中止。後数日にして作業終了の予定。
 「作業しなかった日はあっても露西亜語の本を読まない日はありませんでした」。何か何虞かで聞いた様な言葉だ。

 七月十二日英ソ相互援助保約締結。英はどれだけ蘇を援助出来るか。米の援英物資をソ聯に送るか。英には大艦隊が未だ健在。

 七月十五日(火) 曇 涼
一日中作業。道路完成す。一年生が午後手伝いに来る。一生懸命に励む。

 琿春《注3》県長と行政課長慰問に来る。講堂で県長の話あり。面影は案外優男に見えた。講演要旨は「日本内地の物差で大陸諸物を計るな」と云うことである。後作業場見学に廻る。後姿が何とも子供っぽく印象良ろし。行政課長は映画「熱砂の誓」に登場する「楊」と云う人物にそっくり。

 午後七時から建国神霊廟の式典あり。後点呼。真面目に就寝。

 七月十六日(水) 曇 涼
 午前中道路の色直し。午後休み。午後三時頃、駐屯軍司令官来る。
一場の訓示あり。曰く
「国境の道路を構築して貰う恩恵よりも、学業を投げ打って此の淋しい国境まで来て下さった事が、兵の気持ちに与える感情が非常に有難い。諸君は学院創設の時の真の目的に生きるように。必ず近い内にその時機は来ます」

 今まで来た誰よりもこの「べた金」の閣下の言葉は丁寧で、誠にジェントルマンだ。之は訓辞ではなく感謝と激励の言葉ではないか。
「学院創設の時の真の目的…」なんて何か学院の事を良く知った北方関係の人らしい。

 七月十七日(木) 曇 涼
 作業、午前中、道路修繕。午後なし。
 丘に昇って蘇聯国境の山々を見る。ポシェット湾は遥か眼下に遠く望まれる。「トーチカ」など直ぐ目の先だと想われる程近い感じを受ける。
此の国境の山の何處かにあの「トーチカ」に照準を合はせて、引鉄を引けば良いようにして待っている砲が無数にあるに違いない。

 学院生はソ聯国境さえ見せて置けば感歎、心が満ちるのではないか。
 身体検査あり。結膜炎(慢性)と。

 七月十八日(金) 晴 暖
 本日炊事当番。伝令。
 日下が病気で寝ている。昨夜五藤が徹夜で看病する。朝早く交代する。「ウンウン」唸って苦しそうだ。下痢と発熱。特に下痢がひどい。注射を何回しても止まらない。

 第一号室の室会を「トーチカ」の見える国境の丘の上でする。楽しく駄弁っただけだったが、皆満足して呉れた。酒でも有れば一段と盛り上がったろうに有難い。

 昨日、勤労奉仕慰問団が来る。満洲国防婦人会の御婦人達。服の繕ぎなどをして呉れた。私はワイシャツを繕って貰った。

 七月十九日(土) 晴 暖
 日下、昨夜一晩中、苦しみ、坤いていた。正視に耐えない程苦しんだ。朝交代する。熱は下がったが、赤痢と判明したので服を着替え消毒する。小川へ洗濯に行く。太陽はカンカン照りで暑いが、水の内へ入ると身振ひする程冷たく気持が良い。

 午後、最後の仕事として完成した道路に紀念柱を立てに行く。二年生の担当した道路を「第二極光道路」と、一年生の担当した道路を「第三極光道路」と名付け、それぞれ記名した記念柱を立てた。之で新しい道路が生まれ私達の仕事は終った。

病人が出たので最後の会を出来るだけ細(ササヤカ)なものにする。併しストームは盛大にやった。ソ聯のトーチカから丸見え。何か兵隊の反乱とでも見たかお祭の行事とでも見たか。

 本部を取りまき先生方にもその内に加わって頂く。梅村学監先生の見事な「お頭(ツム)」に酒を注いで摩(サス)ったり、軽く叩いたりする不らち者も現われたが、温厚な心の広い学監先生は笑いながら、一緒に「ワイワイ」騒いで頂いた。至らぬ非礼も未熟な若さのなせる技と許して頂きたい。



(1)七月十日。(2)七月十三日。
  「張鼓峰事件」と「ノモンハン事変」この二つの国境紛争事件には重大な相似性がある。

一、紛争前にソ聯軍の高級将校が日満側に逃亡して来ている。

 二、ソ聯軍の圧倒的な兵力、火力、機械力の前に日本軍は完敗している。

 三、戦闘後の国境線はソ聯軍の主張する線で事実上画定している。昭和十三年六月十三日、極東地方粛清工作の総元締である内務人民委員部極東地方長官リユシコフ三等政治大将が国境を越えて、清洲国琿春正面に逃げて来た。

彼の極東在住一年間に同地域で逮捕された者二十万人、その内彼自らが逮捕した者三千人。七千名が銃殺刑に處せられている。その粛清が彼自らの上に及ぶのを恐れて満洲国へ逃亡したのである。

 又、昭和十三年七月末、ジャミン・ウデ (外蒙の首都ウラン・バートルと張家口街道上の国境付近に在る)に駐屯するソ聯自動車早化狙撃第三十六師団の兵器部長フロント少佐「フルンゼ赤軍陸軍大学卒業生)が内蒙古の西蘇尼特(張家口西北方約二五〇キロ) に自動車で逃げて来た。

フロント少佐の脱出三週間後に、外蒙古軍タムスク駐屯騎兵第六師団宣伝班長ビンバー大尉が満洲国内へ逃げて来た。何れもあの有名なスターリンの粛清工作が自分に及ぶのを恐れた結果である。

  両事件についての戦闘の状況等については戦後数限りない記事になっているが、何れも日本の完敗で終っている。戦闘後の国境の画定も戦闘の勝敗の結果が明確に出ている。

  張鼓峰事件においては正式の国境画定の作業がなく、日本軍が死守していた陣地から撤退するとソ軍は直ぐ進入して来、陣地を構築して占領してしまった。つまり日本軍は主張した国境線を自ら捨ててしまった。

  ノモンハンでは両国の国境画定委員会による作業が終ったのは停戦二年後の昭和十六年八月。新しい境界線は外蒙古の主張通りハルハ河東方に国境擦、国境標柱が立てられた。

注1:ソ聯軍
注2:満州国(中国東北部)西北の市街地
注3:中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する都市


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あんみつ姫

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投稿日時: 2008-10-26 12:09
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Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
 七月二十日(日) 晴 暖
 朝七時起床。日下、遂に赤痢と決まる。琿春の陸軍病院に入院のため九時貨物自動車にて出発。同行する。中台先生も一緒。

 日下、第三四二部隊(陸軍病院)に入院。後中台先生と、第一六四部隊(駐屯軍司令部か)、次に県長の自宅を訪問。当地滞在中の世話になった労を謝す。主食はチャン料理。午後、中台先生の知人、入江先生(元工大の先生)を訪ね、御厄介になり、別荘(?)に宿す。

 当七月十六日第二次近衛内閣総辞職、七月十八日第三次近衛内閣成立。南進か北進で迷っているのか。松岡外相の日ソ中立条約は失敗か。ひょっとすると国境を越えてシベリヤへ等と云うことがあるのかね。

 七月二十一日(月) 曇 暖
 所謂「別荘」で一夜を過ごす。中台先生の御伴。午前中琿春発。訓戎(朝鮮領)で税関検査、新京行急行に乗替える。列車内空席多く楽。吉林から若い満人の御婦人と一緒になる。片言同士の満語(支那語)と日本語の会話。何處の国でも若い御婦人は良く笑う。

 新京駅食堂にて学院庶務課長広瀬六郎先輩(一期)にお会いする。御話によると「三年生は八月一日から学業を止め、関東軍に従軍、二年生は夏期休暇取止め露西亜語の授業をしながら待機。一年生は帰郷を許す」と。愈々来るものが来たなと心は奮い立つ。

 哈爾浜への列車混雑して眠られず。

 七月二十二日(火) 曇 暖
 八時頃、哈爾浜駅着。電車で中台先生宅へ。朝食を頂く。男の子が一人。女の子が一人。奥さんはしなやかな細めの眼鏡をかけた美しい方だった。

 学校へ行くと朝礼の最中。仕事を片付けて、寮に帰り整理する。帰郷と思っていたのが、取止めのため何だか気が落ち着かない。
 駅へ山本正則君(二十二期)を見送って帰る。室に高橋のお爺ちゃん(高橋壮吉氏。寮監)と三年生の方が来ており夜遅くまで駄弁る。

 七月二十三日(水) 晴 暖
 日下、のお父上に日下入院の件に付報告方々、事情説明の手紙を書く。

 新京へ発つべく駅へ行ったが、最後の列車が発車した後だった。
 清水裕久(二十期)さんの下宿に泊めて貰う。途中、犬に大いに吠えられる。挙動不審、犬にも解るか。

 七月二十四日(木) 曇 暖
 朝七時十分起床。電車で駅へ。時間を持てあます。九時四十分発大連行列車に乗る。車内混雑す。午後五時十四分正確に新京駅着。
 同郷の谷上仙次郎氏宅を宿とす。陸軍病院の裏、満鉄の配給所。

 七月二十五日(金) 曇 暖
 新京第一日日、深坂を引っばり出して駅、喫茶店三軒、「宝山」、「三中井」を廻る。「三中井」の屋上、凪がありて涼し。

 偶然、吉田修氏(十九期) に会う。バレーをしていた。中銀クラブに行き御馳走になる。閑静な都会と思へない所であった。寧ろ、贅沢な感じだ。
 七月二十三日、日本軍南部佛印進駐を開始す。

 七月二十六日(土) 晴 暖
 興安大路が連京線と交差する所に輿安大橋があり鉄路は橋の下を走っていた。日本は「満鉄」「鮮鉄」の列車を「大連」「釜山」に集中し始め、民間列車の運行を制限し、一斉に軍隊及び軍需物資の国境へ向けての輸送、集中の大輸送作戦を始めた。「大動員(3)」が始まったのである。

興安大橋の上に立っていると軍隊及び軍需品の輸送列車が十分間隔位で北上して行っている。連京線は複線である。併し戦争が始まるのかと言う悲痛感が少しもない。

 七月三十一日まで寝て食い、食っては寝、気が向いたら街へ出る。
良く他人の家に唯で宿り勝手な事をしたものと感心する。


(3)七月二十六日
  六月二十二日に開始された獨ソ戦による北方対ソ戦備の充実のために下令された「関東軍特別演習」(関特演)の大輸送作戦の事である。

昭和十六年七月七日に第一次動員下令、同年七月十六日に第二次動員下令、之に依り関東軍は、戦時定員充足の十四ケ師団を基幹とする兵力約七十万の地上軍、飛行七十一ケ中隊を基幹とする飛行機約六百機を保有する航空部隊とより成る大軍団となった。三年生が軍要員として引っばられたのも之と関連がある。

 併し極東ソ軍の独ソ戦への兵力の西送による減少が実現せず、陸軍は昭和十六年八月九日年内対ソ武力行使の中止を決定した。

 北方作戦に必要なものとして関東軍に組入れられた二十期生は再び学校には帰らず、朝鮮の龍山に入営、何の関係もない、ビルマ、ニューギニア等に送られて殺されることになる。


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あんみつ姫

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Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
白井長助さんのことども
                       (成 瀬 孫 仁)

一学年一学級、一学級五十名、一年生から五年生まで全員二百三十名の離島(香川県小豆島)の田舎中学校から哈爾浜学院へ入って驚いたことが二つあった。

一つは教練のルーズなこと(後では厳しくなったが、入学当時の昭和十五年は驚く程ルーズであった)。配属将校は阿部大佐、配属軍官松井将校、他に井出口少佐という手塚院長と陸士同期の人のいいお爺さんがいた。

 入学した年、哈爾浜西南方の香坊までの野外演習があった。演習の課目とか途中何があったか全然今の記憶にない。空砲五発貰ったので四、五人で三八銃の先に赤カブを刺し込んで空砲を発射し、その赤カブが何メートル飛んだか競争した事しか覚えていない。

哈爾浜開拓義勇軍高等訓練所で晝食後、迎えに来た馬車に三八銃を投げ込んで、手ぶらでブラブラ勝手に帰ったのには驚いた。

 もう一つは白井長助教授の歴史の試験場にノートでも何でも持ち込み自由ということである。これにも驚いた。

 この先生、教課目が民族学とか歴史理論とかに変わっても、卒業する最後まで日本史を教えていたように思う。丸刈りの鉢の大きな頭、強度の近眼鏡の奥に光るヤブにらみのどこを見ているのか解らない眼、反軍的(反院長的といってもいいでしようか)な言動にかかわらず確固たる日本的(右派的)な信念を持っていた。

 鉢の大きな頭は親譲りらしい。鈴木淳栄がポームニムに書いている「新京脱出行」に出て来る第二航空軍特殊情報部(中村博一、福岡健一、瑠璃垣馨、城所尚爾、鈴木淳栄、成瀬孫仁、の六人が居たソヴィエート航空部隊の暗号解読部隊。同級生が六名も集まった部隊は珍しい。この外に数名の先輩が居られた)高級部員の小原豊中佐から先に私信を頂いた。

小原中佐は露西亜語は堪能で満州でずっと対ソ情報に関係された権威である。「大尉時代旅順の要塞司令官だった白井二郎中将(白井長助先生の父君)に二年間お仕えしたことがあるが、頭の鉢の大きい人だった」と書いておられた。やはり親譲りである。

 白井さんはなかなか油断の出来ない方で(この言い方は失礼だと思うが、悪い意味でないので御勘弁願いたい)、平気で事実でないこと、正しくないことなどを口にした。

さすがに学院の正式授業の時は言わなかったが、北方亜細亜研究会ではたびたびこうした問題発言にぶつかった。調べていると、先生が言われたことと反対のこと、またその事実がなく他の事実が現れて来るのである。

 それを白井さんに告げると「良く研究した。お前たちはもう中学生ではないのだから、人が言っていることが正しいことか、正しくないことか、事実であるのか、事実でないのか自分で研究して判断していかなければならない。しかしよく解った。これからも注意せよ。」と。偉いものだ、顔の表情一つ変えないで言ってのけた。

 すると白井さんが言ったこと、教えたこと、すべてが半分か、三分の一か、正しくない、事実でないことがあるのか、今となっては全く関係のないことだと思っている。

 ところで「ポームニム21」の試刷りに書いた白井さんの父君白井二郎少佐のことが気になって来た。これは白井さんに当時聞いたままのことであるが、確かめようもない。四十数年前の亡霊に悩まされて心は揺れ動くのである。渋谷院長は終戦時、ご家族とともに自決された。白井さんも岸谷隆一郎先輩も皆死を家族と共にされている。

 いずれも御夫人、子供を殺して最後に自決している。人にはそれぞれの主義、思想、立場があり、複雑なものであることは理解出来る。

 私は八月十五日の終戦を愈々哈爾で迎えた。その時、妹が新京に居たので電話を掛けたが、戦争の混乱で通じない。悪いことだが、私は部隊の作戦用の電話で新京の本部を呼び出し、かねて知っている交換手に頼んで市外の妹の所につないでもらった。
私は「兄さんは愈々哈爾で死ぬから、お前帰ったらお母さんにそのとおり伝えてくれ」と言うと、恐ろしく元気な声で「帰ったらその通り伝えてあげる」と言った。

 院長も、白井さんも、岩谷先輩も死ぬのなら自分だけ死ねばいいので、何で御夫人、子供さんを供にしなければならないのか。私にうちのばあさんが「貴方が死ぬ時一緒に死にたい」と云う。あまり出来すぎているから話三分の一にしても嬉しい。

 妻が夫に、子供が父に一緒に死のうと言われた時、あの一九四五年八月の終戦時の国際的状況、社会事情、これに伴う人間の心の混乱を思えば拒否出来なかったのではないか。子供に至っては拒否の方法手段すら解らなかったはずである。

 院長、白井さん、岸谷先輩とも夫人、子供さんたちを供にすることなく一人で死ぬべきであったのではないか。明治の美学のためにあたら妻子の命を奪った感なきにしもあらず。
と考えるのは、心得違いということだろうか。

               (成瀬孫仁日記(三)につづく)


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あんみつ姫

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