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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )
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編集者
投稿日時: 2008-10-5 8:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )
 五十九年前、パラオ諸島アンガウル島を守備していた日本軍一、二〇〇名が米陸軍第七七師団二万人と激戦し一カ月後に玉砕した。日本軍は昭和十九年十二月三十一日全員戦死と発表され、日本の留守家族には死亡通知書(戦時公報)が届けられた、「戦死確認セラレ候」とされた一兵士の記録である。
 私は孤島アンガウル島で今、過去の記憶を想い出してペンを進めている。


現地召集、初年兵教育、激戦

 五十九年前「陛下(昭和天皇)の為、日本の為に太平洋の防波堤になります」と遺書を書いて祖国に帰る引揚者に託したのは、ついこの間のことの様である。パラオで現地召集《(注1)》されてから宇都宮の五九連隊に配属され、三ヶ月の初年兵教育、四七ミリ連射砲による対戦車射撃訓練、対戦車壕、タコ壷(個人掩待壕)堀り等連日の猛暑の中での訓練を積み、昭和一九年九月一七日に空爆、艦砲射撃《(注2)》後に上陸してきた米陸軍第七七師団二万名を迎撃した。後藤大隊長以下ニ、一〇〇余名の一員として見事に訓練の成果を開花させた。不運にも日本軍の無線機の故障により途中から通信が途絶したが、夜間打ち上げる照明弾によってその健闘ぶりは明らかにされた。他、日本のゼロ式三座偵察機による夜間の偵察、アンガウル海峡を渡る決死の伝令によるパラオ本当(島)への連絡等、ペリリユウ島と共に天皇の島としで嘉賞《かしょう=(注3)》された。が追いつめられた戦闘は北西部の山岳戦となった。進行するM四戦車《(注4)》と連射砲との決戦では互角の戦闘が出来たが砲弾欠乏の為砲を棄て山岳戦へ移行し、狙撃、手榴弾戦となったのである。
 夜間は水の確保の為低地へ下らねばならず、砲爆で多くの死者を出した。
 十月中旬、日本軍陣地内に打ち込まれてた迫撃砲で三名の兵が殺傷され、筆者は左半身不随となり動けなくなった。日本軍は残存兵一五〇余名、食料、弾薬共に欠乏し後藤大隊長は最後の攻撃を開始し玉砕した。米軍は後藤大隊長の遺体確認をパラオ人に求め、日本軍の組織的戦闘は終結した。
 筆者は左肘関節切傷、左大腿部盲カン、胸部破片創を負うが傷が内蔵に達しなかったので助かった。が一ケ月は動くことが出来ず傷の手当に終始した。十月十八日以降出撃出来ない兵士は陣地死守、自決を命じられた。
 明治節十一月三日、傷の手当をして日向ぼつこをしているところを米兵に発見された。幸いなことに米兵は日本軍の戦利品探しに来たらしく逃げ出したので私は洞窟内に逃れ潜むことが出来た。後に米軍数十名が捜索にきて、負傷し隠れていた高木上等兵が発見され手榴弾戦をして戦死した「下園、手榴弾をくれ」と絶叫した高木上等兵の声は今も忘れられない。
注1:軍隊に召集されるのは 通常本籍地で行はれるが 滞在地で
  召集される事をいう
注2;航空機による爆撃と 艦船からの砲撃
注3:よいとして ほめられる
注4:米軍の中型戦車(通称 シャーマンと呼ばれる)
編集者
投稿日時: 2008-10-6 7:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・2
 陣地を捨て 池の丘に進出

 米軍陣地が一望出来る丘の上に中山二等兵と移動し転伏したトロッコを住居にし、昼間は潜み、夜間行動で食糧確保に勉めた パパイヤの根、オカガニ、ヤシガニ、稀に米軍食糧によって命をつないだが慢性の栄養失調になりつつあった。


 遊兵《注1》と合流、アンガウル島《注2》脱出計画

 正月を迎える。小指のようなサツマイモ、野鶏のスープ、ヤシガニで戦友中山と祝う。日本援軍は来ないがいつか来るだろうと祈っていた。米軍は飛行場を完成し米軍機は西へと飛んでいく。比国攻略の為だろうと考えていた。夜間トロッコから出て米軍陣地を見ていると岩陰を動く物体に気づいた。日本兵以外に居ないと思い近寄るのを待って誰何《すいか》する。
 「照」と呼ぶと「神兵」と返事が返ってきた。友軍の木下兵長で沖縄兵二名と旧陣地内に潜んでいるという。合流して数日後、食糧難からこのままアンガウル島に居れば餓死するしか無い、島を脱出して北部の無人島へ渡ろうと考えていた私は脱出計画を提案した。しかし沖縄兵が山原(ヤンパル)出身で泳げないという。そこで一計を案じて筏を作り、つかまって足だけ泳がせペリリユー島を目指して夕刻出発し一時間に一キロメートル泳ぐ。
 十二キロを泳ぎきれば夜明け前にべリリユー島西岸に着く。後は島伝いに適当な無人島に渡ろうと計画した。北東港に近い海に入り上げ潮に乗り北西に進んだ。やがて下げ潮にかかると逆潮によりグングン流された。必死で泳ぐが、三人を引っばつて体力のない二人の泳ぎでは無理なことであつた。ペリリユー島の灯が次第に遠のく。濡れた軍服が、地下足袋が重い。体力の限界を知り三時間の力泳後力尽きて西港近くに逆上陸した。


 再び食料確保に出撃、二名射殺され、三名P・O・W(捕虜)に

 旧陣地内に再び潜み、長期籠城に備えるべく食糧確保を考え夜間に西港へ出撃、米軍歩哨線のアンテナ(鉄篠網)に引っかかり沖縄兵二名と中山二等兵が死亡した。倉田・木下・沖縄兵の三名が後ろから撃たれると思い観念したが撃たれなかった。やがて米兵が集まり見せ者の屈辱。翌日米軍MPの尋問を受けた後、ペリリユー島へ渡る。
 P・O・W・キャンプで船坂軍曹に逢う。
 ハワイへゆくと、下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等が先着し私達がアンガウル島で生存していたことに驚く。


 米国P・O・Wキャンプへ、そして復員
 
 ペリリユーからヤップのウルシー、グアム、ハワイ、米大陸西岸のポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経てウィスコンシン州、そしてアイオワ州のクラリンダー郊外のP・O・W・キャンプに入る。大陸横断鉄道での移動である。やがて終戦、私は負傷者の一員として真先に日本に移送されることになり、昭和二〇年の十一月に横浜港に入り浦賀の重砲学校で復員した。
四年ぶりの祖国日本は富士山が美しかった。
注1:指揮系統から外れた兵隊
注2:南太平洋パラオ諸島の島
編集者
投稿日時: 2008-10-7 8:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・3

 戦後、海洋生物学を学ぶ

 東京都水産試験場の職員として働き始め、出張ということで東京深川の水産講習所で堀重蔵、妹尾秀頼教授、他の学生に混じって数々の講座を受講した。新宿の資源科学研究所で岡田彌一郎博士等。パラオの熱帯生物研究所の研究員であつた阿部宗明、江口元起博士他、パラオに居た加藤源治先生等からも個人的に色々ご教示いただいた。岡田彌一郎博士の戦前パラオのタイマイ(亀)の研究は特に私の注意を引いた。


 品川、お台場でマガキ養殖

 堀教授からの教示により品川台場でのマガキの採苗試験に松本技師と取組み成功した。
 その時に浦島橋で見たアカウミガメに興味を引かれたのを発端に東京湾、伊豆七島、小笠原のアオウミガメに目を付けた。岡田教授の指導でもある。

 伊豆大島、小笠原に海亀を追って

 日本沿岸のアオウミガメは小笠原から来遊すると推定し、岡田教授の指導の下で研究を続けた。世界にさきがけた小笠原のカメの人工孵化は明治時代に島庁長官の小花作助により開始され惜しくも第二次大戦で中断していたのを小笠原返還後私は復活させた。


 米国のP・O・Wとなった日本の一兵士、三十年後に米国へ

 国際ウミガメ会議が米国で開催され、私は外務省より日本代表とし出席する為、バンクーバー経由でワシントン、ケネディ空港へ向った。会場となった国務省で小笠原のアオウミガメの放流成果を発表し、世界にさきがけた人工孵化の再開は注目を浴びた。 
 ゼロ戦乗りであつた東京大学の鯨博士こと西脇教授にほめられたのも嬉しかった。パラオ諸島アンガウル島で米国捕虜となった一兵士が三十年後に米国国務省の講堂で講演をするなど夢にも考えなかった事であつた。生きていて良かつた。


 再びアンガウル島に暮らす

 私の海産爬虫類の研究はアオウミガメからタイマイも含め、やがて比国の絶滅危惧種ミンドロワニに及んだ。比国パラワン島に国立ワニ研究所をJICAで建設しミンドロワニ・イリエワニの研究を開始、今も継続している。そして今、パラオのタイマイ・イリエワニの研究を継続し、再び玉砕島アンガウル島に暮らしている。

 (2003年4月) 

 ー完ー

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