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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2008-10-16 7:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・31
 
 思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・2

 峰本 通訳だった小林さんは、かなり公平にモノを見ることができたんじゃないですか。私も、敵意丸出しのあの国情の中なので日本軍人という立ち場は十分に意識しながらも、武器を捨てている捕虜にはお互いが人間だという考えで接してきたつもりです。炊事班のコイル軍曹(EDWARD・COYIE)、連絡将校だったブロードウオーター中尉(ROBERT.J.BROADWATER)、懐しい名前がいろいろと浮かんできますが、彼らと交流した収容所勤務は、よい思い出がたくさんあります。

 小林 私もそうです。コイル軍曹は、しよつちゅう私を招いてくれた。あのころ一般の日本人には口にすることのできない豪華な、おいしいものをいっしょに食べながら、四方山話をしたものです。彼の役目柄、収容所へ食糧品を納めにくる日本人ともよく話していましたね。愉快な男だった。先般、当時の人捜し運動のためにツテを頼って連絡したんですが、五年前に死亡、家族との連絡もとれないということでした。残念です。

 峰本 亡くなったんですか。もうかなりの年でしょうからね。そういえば、収容所へは近所の豆腐屋の娘さんが、いつも元気に豆腐を運んでいた。林たね子さん〝たねちゃん″と親しまれていた。あのころ十八歳とかいっていましたな。神戸市の垂水にいまも元気に住んでいます。先日も連絡しましたが、元気そうでしたよ。彼女はコイル軍曹ら炊事班の捕虜ともよく雑談していたが、人気娘だったことを覚えています。彼女も懐しい一人ですね。

 小林 天びん棒《注1》をかついで、よく豆腐を運んでいましたね。元気そうな娘さんでした。(笑い)

 峰本 コイル軍曹は彼女のそんな姿を見て〝いつも 「タネチャン、ゲンキ、イチバン (たねちゃん、元気、一番)」 といって笑わせていましたね。(爆笑)

 小林 そうでしたね。食糧というと、私もよく彼らと買い出しに行きましたが、捕虜はとにかく、外出したがっていました。外に出ると、のびのびと明るかった印象がいまもちらつきます。

 峰本 そう、彼らにとっては確かに外出が気晴らしと、情報を得るきっかけだったんでしょう。情報といっても、とくに日本人が教えるわけでもない。雰囲気で何かを知りたいという軽い気持ちだったんでしょうがね。いつだったか、彼等らを連れて和歌山市の丸正百貨店へ買い物に行ったことがありました。ワカメやヒジキのくずをたくさん買い込み帰る途中、憲兵に会って「何を買い込んだか」「こいつらをなぜ外に連れ出すのか」「敵兵を勝手に行動させるとはなにごとだ」「そうでなくても日本人のために物資を大切にしなければならん時に、敵兵に塩を贈るやり方はけしからん。以後、注意するように…」と、厳しく問いつめられ、叱られたことがありましたよ。憲兵は絶対でしたから、こちらの階級が上でもどうでも抵抗できなかった。いま思うと馬鹿らしいことでしたが、しかし、当時、青い目の人間、それも捕虜を引き連れて堂々と日本軍人が買い物をする姿は、一般市民の眼には何とも異様に映ったでしょうね。こちらは別に悪いことをしたんじゃあない。まあ、特異な歴史といえる時代だったんですなあ。

 小林 そうですね。彼らといろいろなことを話し合い、いっしょに買い出しなどをして親密になると、同じ生をうける人間であり、敵国人という気が薄らぎ、友人という感じがわいてきましたね。

 峰本 そうそう、人間としての情がわいてくる。わいてきた。事務所などで連絡将校の捕虜らとも話したことがあった。といっても私は片言の英語、彼らも片言の日本語を交えたチャンボン語で、身ぶり手ぶり、時に英語の辞書を広げながら話したものです。そんな時に彼らはよく言っていましたね。「いずれは握手する時がくる。いつまでも反目し合って交戦していると、いずれ人間が滅び、とり返しがつかなくなる」と真面目に言ってたことがありましたよ。

注1 天びん棒=両端に荷をかけ中央を肩にあてて担う棒。江戸時代の魚やさんの行商など。
編集者
投稿日時: 2008-10-17 7:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・32
思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・3

 小林 捕虜なりに考えたことばだったかも知れませんが、しかし私も彼らと話していて、人間とは何か、戦争とは何かということを真面目に彼らが考え、話題にしてくることが多かった。
 いまでも私の心に残る彼らのことばの一つは「捕虜は刑期なき死刑囚のようなものだ」ということです。それだけ毎日が不安だったんですね。だから、私は私なりに、彼らのそんな心理を察して、収容所での生活が安全であるように気くぼりしたつもりです。

 峰本 とにかく、生きのびること、身の安全をもっとも気にしていたことは事実ですね。戦争末期にはしょっちゅう〝空襲警報〃が発令されましたが、そんな時、アメリカ軍の艦載機や大型爆撃機が飛来した時でも、彼ら捕虜は決して防空壕に入ろうとしなかったですね。小林さんも知っているように、防空壕に入ると、日本軍が一斉射撃して自分らを一人残らず殺すかも知れないと恐怖を感じていたんです。こちら、われわれ日本軍サイドからいうと、万一、収容所が爆撃され捕虜を死なせることにでもなったら大変だと考え、防空壕入りを指示したんですが、駄目でしたね。収容所の屋根には大きな文字で「POW」(捕虜)とペンキで善かれていました。捕虜にとっては友軍機がこの場所を爆撃するハズがないと考えていたんですかね。それでも上空から見ると、すぐ近くに軍需工場や施設があり、これを狙《ねらい》い撃ちしても収容所内に弾が落ちることがありました。そんな時でも彼らは平然として、というか身は伏せていても防空壕には入りませんでしたね。われわれも、あれには困りました。しかし、そんな急襲でもあの収容所で捕虜の死者が出なかったのは幸でした。

 峰本 捕虜の希望をなるべくかなえる努力をしたことは事実でした。厳しい環境で制約はありましたが…例えば、確かヒルマンという名の五十歳くらいの老兵がおりました。ある日、日本軍の軍属が所外労働の監督業務を終って帰所するなり「彼は老齢で肉体労働に間に合わないので軽作業部門に変えてほしい。彼のような体力では作業日課が遅れてしまう」と注文をつけてきたことがありました。一も二もなく、彼を部署変えしました。自分らの寝具の下に敷くための藁(わら)を抱え、縄ないをする軽労働をさせたんです。それからは彼の体調もよく、喜んでいるようでした。このほか、チャウディという高齢の兵士にも肉体労働から自分たちの弁当運搬役に変えたところ、とても喜んでいました。

 小林 下士官以下は捕虜国際条約によって労働を課せられる。将校は労働をさせられないと決まっているので、老年兵でも何かの労働を余儀なくさせられたんですね。

 峰本 菜園づくりも楽しかったですよ。食糧不足の時でしたから、なるべく自給自足の方法を考えたんです。捕虜の方からも希望があり、所外の近くで将校連中がやっていました。ところが、戦後と違って肥料はすべて人糞です。近くの農家から桶と柄杓(ひしゃく)を借り、農家の畑の肥つぼから糞尿《ふんにょう=大便と小便》をもらって運ばせ、作物にかけさせたんですが、おかげで作物のできもよく、食糧の足しに役立ちました。だが、人糞を扱う彼らは「臭い」「汚い」「非衛生だ」と、とくに最初のころはきらって扱うことを拒んでいました。アメリカなど西欧にはそんな習慣がないのでびっくりしたんでしょう。しまいには何とか慣れましたがね。戦後、私の軍事裁判の時、この人糞作業をさせたことが問題になり「人道上、許せない」と指摘されたんですが、私としては日本人の習慣上、やったまでだと再三、説明しても、なかなか理解してくれなかった。これも刑の裁定に影響したのではないかと思いますが、まあ、戦争裁判とは、負けた民族の文化、慣習を否定した上に成り立っていると、つくづく考えさせられましたね。こうして勝った者の文化が敗戦文化を同化させ、普及するんでしょう。それにしても、善意から出たあの人糞農園が指揮されるとは‥・(苦笑い)
編集者
投稿日時: 2008-10-19 8:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・33

 思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・4

 小林 巣鴨拘置所や刑決定後のご苦労は大変だったと思いますが、いろんなことがあったんでしょう?

 峰本 ありましたが、何といっても、身に覚えのないことを理由に裁かれたことが残念無念でしたね。あそこではA級戦犯の小磯(国昭)大将らといっしょに入浴したことがあった。小磯大将は足を患っていたが、背を流してあげるとお礼をいわれた記憶があります。同じ戦犯の岸信介さん(元首相)にも偶然、会いました。あそこでは黒人兵は親切で、風呂でも新しい石鹸をしょっちゅう与えてくれたが、白人兵はどうもわれわれに敵意をむき出しにする者が多かったと感じました。戦時中、日本軍と交戦するなどして苦い経験があったんですかね(?)

 小林 多奈川の捕虜収容所長だった倉西泰次郎・中尉には拘置所内で会われましたか?

 峰本 会ったと思います。すばらしい人でしたね。気の大きな紳士で、捕虜からも慕われていたと思います。よい上官でした。

 小林 その通りです。所長という立場上、収容所でのすべての責任者として戦犯の疑いありとされたんでしょう。私も積極的に運動しましたが、起訴される理由はない、善良な軍人、捕虜にも寛容で尊敬されていたということを証言する捕虜が相次ぎました。ガルブレイス少佐(J●M・GALBRAITH)、ブロードウォーター中尉(R・1・BROAODWATER)らはその中心でしたね。ついに不起訴となりましたが、当然でしたね。釈放後、私に「助命運動をしてくれた君に感謝する」と何度もいわれたが、その倉西中尉もいまは亡き人…戦後、よくマージャンをしに伺ったがご夫婦ともマージャン好きでした。私の中学の恩師でもあったんですから、余計に思い出が残っています。

 峰本 そうだったんですか。日本側も捕虜側も戦後四十年以上経ったいま、亡くなった人も多いでしょうが、生きて元気に暮らしている人でも、随分変わり、会ってもわからない人が多いでしょうな。それにしてもあの当時の人びとのことは懐しいですね。

 小林 峰本さんも戦後、ずーつとあとになって来日したコイル軍曹に会ったそうですが、私もイギリスのフロー中尉、アメリカのブロードウオーター中尉らに六、七年前に会いました。みんなすっかり変わった。ガルブレイス少佐のこどもには進駐軍で再来日した時、将棋を教え、すっかりよくプレーしたものです。奥さんも親切でした。終戦の時兵庫・生野の捕虜収容所でアメリカの捕虜幹部が 「こんなものを持っていてもすぐ役立たないから…」と、彼らのみんなの労働賃金(?) か毎月の給与(?) かの一部を日本の郵便貯金にしていた通帳を私に手渡した時にはびっくりしました。十五㌢ぐらいの厚さでしたが、一括して「お前が使え。これからは苦しい時勢になるからプレゼントするよ」と渡してくれた時には驚きました。相当な高額だったようです。もっとも受け取りませんでしたがね。(笑い)

 峰本 そう、彼らの給与、労賃は毎月、きちんと処理していましたからね。捕虜にも国際赤十字を通じて給与はきちんとしていました。その点はよく守られていたんですが、収容所によって労働内容が違っていたんで、なるべくよい内容の収容所へ行きたいと、みんな言っていましたね。生野(兵庫) は鉱山作業なのでみんなきらっていたが、近くの吉原製油からいつも大量の豆をプレゼントされ、楽しみにしていた者が多かった。大阪市・市岡の収容所ではアルコール類が振舞われ、よく酔っ払っていたが、楽しそうでしたよ。多奈川では最初、栄養失調から一日に十人ぐらいの死者が出たが、すぐ改善されました。わたしらも彼らの食糧集めに必死でしたよ。
編集者
投稿日時: 2008-10-20 7:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・34
 思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・5

 小林 捕虜を守ることが日本側の義務でしたもんね。時々、収容所へ石を投げる地元の人がいたが、あれには弱りました。当時の鬼畜《=残酷で、無慈悲な行いをする》米英の思想下では当然、予想される現象だったんでしょぅが、日本側の職員としては大変、弱りましたね。捕虜に万一のことがあっては…と所長以下、苦心されていましたね。

 峰本 まあ、あの時代、いろんなことがありました。終戦を機にたった一日で収容所の主人公が入れ変わったんですから、私ら軍人は気が気でなかった。過去、どんなに親切にしていても、日本軍人というだけで復讐 (ふくしゆう) されかねないと衆議《=多人数で相談》一決、あの八月十五日の終戦の日は、はやばやとあらゆる書類を焼却し、軍人だけ兵庫・生野町の駅前旅館にかくれていました。米など食糧もたくさん車に積んでかくれましたが、それらは間もなく、日本の警察がどこかへ持ち去ってしまいました。いやな思い出ですね。

 小林 話したら、きりがないほどいろんな話題はつきません。戦時中という異常な事態の中で起きた事実ですが、よい思い出も、悲惨な思い出も、すでに半世紀前のことなんですね。すべては戦争のもたらした事実なんですね。二度と繰り返してはならない歴史のひとこまだったんです。わたしたちのこの体験が、二十一世紀に暮らす〝未来の世代″にプラスとなって生かされるよう祈りたい気持ちです。

 峰本 戦争は起こすべきではない。平和な未来が持続することを心から願いたい。私らの体験が、未来に大きな光となってほしいものですね。

 小林 そうです。峰本さんのように誤った裁判で受刑された方の苦しみはもうご免です。最近NHKテレビ特別番組で、戦時中のアメリカ兵捕虜が食を与えられず、紙片や布をちぎって食べた酷い収容所の体験を話していたと発言していたのを見聞しました。私としてはそんなことはあり得ないと信じ、すぐNHKに「裏づけがあっての発言だったのか」と問い合わせたところ、「アメリカ本土で取材中、元捕虜の発言をそのまま録音放送したに過ぎない」というんです。「もっと裏づけをとって確実なデータで発言すべきだ」と文句をいってやりましたよ。あれやこれや…で、少くとも日本本土の捕虜収容所の一つである、われわれの勤務した収容所では、こうして戦後、彼我の友情がつづいていることを訴え、あの苦しい戦時中でも敵国捕虜に人間として対応してきた証にしたいと情熱を燃やす気になったんです。もちろん、戦争裁判の一方的なあり方、その結果、善意の人たちが悲惨な思いを体験した事実も卒直に残し、次世代の人びとに知ってもらいたいという欲も起きましてね。

 峰本 あなたの若者のような情熱が、何としても実現するよう、期待します。私も洗いざらい体験したことを話しますよ。

 《峰本さんの顔は生き生きとし、話すにつれて眼も輝いてきた。苦しかった過去、あの時代、あの捕虜収容所で体験した苦労や、一面では愉快なできごとが、戦犯時代の辛さ、惨めさと交錯して、複稚な思い出となったことは否めない。しかし、いまとなっては、すべてが懐しい過去として次々と浮かび上がってきたのだろう。私自身、峰本さんの話が呼び水になって、久しぶりにあのころのことが明瞭《めいりょう》に思い出せたことは幸いだった》
編集者
投稿日時: 2008-10-21 8:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・35
 第八章
  忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜《さが》し・1

 戦時中から戦争直後にかけて捕虜と占領軍の中で、アメリカ兵を中心にさまざまな実体験をした私だ。強烈な印象で脳裏に焼きついている。なかでも捕虜収容所時代に出くわした捕虜やその関係者については、戦後ずっと思いを馳《は》せ、折りがあればぜひコンタクトして「友情」を回復したいと願いつづけてきた。だが、生きることに忙しく、生業(なりわい)に形振(なりふ)りかまわず、のめり込まざるを得なかった。そのうえ、主だった捕虜の住所録メモを頼りに手紙を出しても音信不通。なんとかしたいと思いながらも空しく日々が過ぎていった。
 終戦後に一別以来、消息不明のままの捕虜たちだったが、私の心の中にはいつも彼らが存在しつづけている。その多くの人びとの思い出をたびたび夢に見た。単に夢で会うだけの心痛む日々だった。連絡のとりようもない〝消息不明の人びと″への友情は、私につきまとう〝人間の運命″としてあきらめきれない、本当に胸痛む思いの悩みだった。

 昭和四十八年(一九七三)の春だったと記憶する。私は、もちろん収容所時代の異国の友を捜しっづけながらも、行方が知れず、途方に暮れつつ、忙しくなった本業で各地を飛び回る日々がつづいていた時だった。突然、アメリカから「ミスター・ジョン・M・ガルブレイス (JOHN・M・GALBRAITH)」の名で私に国際電話がかかってきた。「あのガルブレイス大尉に相違ない」私は逸(はや)る心を抑えながら受話器を取り上げた。彼の声に懐しさと昂奮《こうふん》が一度に噴き出すようだった。「ハロー、ファイヤー・ボール(私の収容所時代のニックネーム)」ガルブレイス大尉に間違いなかった。捕虜当時は三十歳前だった。
 彼の話がつづいた。「懐しい。元気ですか。私は家族ともども元気です。そのご連絡しようと思いながらも商売が多忙で失礼しました。いま私は輸出入貿易業を営んでいます。増えつづけるマイカーを中心とした各種自動車で、市街地の排ガス汚染が日米ともに問題になっている昨今です。実はその排ガスを最少限に抑える特殊器具を扱っており、ぜひ日本で販売したいと思います。あなたも貿易業に身を置いているとのことですが、ぜひあなたの力で日本に輸出できるよう尽力願います。あなたもこの器具で儲《もう》かるものと信じます。折りがあれば再会しましょう」力いっぱいの声だった。「私は小さな輸出会社を経営しているだけで輸入の経験はありませんので…」というと「力になってあなたの会社を大きくしてあげよう」という返事がハネ返ってきた。その場は商売の話に終始した。
 「彼も一生懸命、がんばっているのだなあ。でもなぜ私の住所がわかったんだろう?」こう思いをめぐらしてみたが、結局、ニューヨークに住む私の学友、池田保君が私のことを知らせたと、あとでわかった。いずれにしろ「これを機に友情復活だ」私はこう思いながら考えた。貿易業とはいえ、私は輸出専門。しかも扱う業種も内容もまったく違う。安易に請け負っても、彼にマイナスになったら気の毒だし、私自身もそれでプラスになる自信がなかった。結局、彼のいう排ガス特殊器具の輸入を中心に貿易を手広くしている知人を紹介することにし、事情を記してこの旨、連絡した。商売上のことはそれから私の知人との間で交渉し、運んだようだったが、そのご親交を復活するためしたためた手紙に対し、ずっと返事がない。いまどうしているのだろうか。ぜひ再会したい友の一人なのだが‥・。
編集者
投稿日時: 2008-10-22 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・36
 第八章
  忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜し・2

 次に米軍捕虜の最高指揮官であり私の戦犯容疑者としての巣鴨プリズン行きを救ってくれた恩人であるフランクリン・M・フリニオ大佐(FRANKlIN・M・FLINIAU)にコンタクトを試みた。
 五十一年(一九七六)七月三十日。別れて三十年も経っている。別れる時に手渡してくれたカリフォルニア・ハリウッドの住所に宛てて電報を打った。
 「こちらは生野キャンプ通訳だったファイヤ・ボール・小林です。お元気の事と思います。ぜひ一度お会いしたい。私が日本へご招待致したいので、お返事下さい。高丸商会 社長。」と云う内容で会社の住所・テレックス番号・電報略号・電話番号等を連絡した。だが、転居して電報が届かなかったのか、幾日待っても返事がなく、ナシのつぶてだった。やるせない気持ちで如何とも出来なかった。当時三十五歳ぐらいの彼の凛々《りり》しい姿を思い出しながら安泰を祈るのみだった。
 「アメリカの友人ともぜひコンタクトしたい」と八方手をつくしたが、どうしてもわからず、途方に暮れたまま時が過ぎていった。ただ夢で会うだけの日々だった。

 昭和五十六年(一九八一)夏、商用で知りあったロンドンに住むインド人貿易商が来日、雑談中、私の体験したイギリス人捕虜のことが話題になった。備忘録に記していた彼の名前と住所を示して帰英後、彼を捜してくれるよう依頼した。その名はイギリス陸軍のケネス・ジョージ・フロー中尉 (KENNETH・GEORGE・FROW)。大きな目、強度の近視メガネをかけ、物静かで温厚な話しぶりの英国紳士。当時二十五、六歳のやさしい将校だった。

 彼は、私が昭和十九年 (一九四四) から二十年 (一九四五) の終戦時まで勤めていた兵庫県朝来郡生野町の大阪捕虜収容所生野分所に収容されていた捕虜の一人で連絡将校だった。ジャワ (現インドネシア) で日本軍に捕まり、和歌山の収容所から生野へ送られたが、私とはわずか半年ばかりの付き合いで、当時は二十五、六歳の若さだった。
 イギリス人の捕虜では唯一人、友情を感じたフローさんとは、収容所で話す機会が多かった。英会話も教えてもらった。戦時中とはいえ、敵対国の壁を越えた〝友情〃が芽生え、終戦で別れる時がきた際には、大切にしていた扇子を一本贈った。妻、尚子が嫁入り道具の一つに持参し、私ら夫婦にとっては大切に保管していたものだった。こんな関係にあった彼だけに、チャンスがあればぜひ再会したい友だった。

 知人のインド人貿易商も、こんな事情を知って親身になって捜してくれた。別れる時にもらった彼の古い住所メモをしらみつぶしに当たってくれた。その努力の甲斐があってついに新しい住所が判明した。その年、昭和五十六年十方に消息判明の手紙を受けとった。フロー中尉は戦後、帰国して大学に再入学、いまはロンドンで弁護士として健在であることがわかった。私はさっそく手紙を書いた。その直後、その年の末に懐しいフロー中尉から私に返信が送られてきた。
 「ぜひ折りをみてお会いしたい。本当に懐しい」というものだった。嬉しかった。時機をみて会うことを決意し、すぐ返事を書いたが、当時、戦後三十六年を経て、捜し求めていた「異郷の友」と音信できた第一号となったのがイギリス人の彼だった。
編集者
投稿日時: 2008-10-28 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・37
 忘れ得ぬ〝鉄条網の友″捜し・3
 
 五十九年(一九八四)の夏だった。元アメリカ人摘虜将校、名前はブロードウオーター。元中尉。戦時中の十七年(一九四二)、フィリピンで日本軍の捕虜となり、約三年間、仲間とともに大阪・多奈川、兵庫・生野の捕虜収容所で暮らした彼の消息を知った。
 ブロードウォーター中尉は、戦後、帰国し、昭和五十五年 (一九八〇) までコカコーラ社の副社長をつとめ、たまたまジョージア州日米協会専務理事として五十九年七月初め、東京で開かれた日米協会総会に出席のため一行二十余人とともに来日。総会終了後も一人、東京に滞在し、仕事の合間をぬって 「クラニシ所長」 を捜し求めていることをラジオで放送していたという。知人のいる産経新聞社を通じ、確認してもらった。
 「あの、ブロードウォーター中尉に違いない。クラニシ所長とは私の勤めた収容所の倉西泰次郎・陸軍中尉なんだ。間違いない」私はすぐブロードウオーターさんの宿泊する、ラジオ放送で報道された東京のホテルオークラに連絡した。やはり「あのブロードウオーター中尉」だった。東京のTBSテレビ局からも私に連絡があり、再会日をセットしてくれたという。七月二十六日の再会日に上京を約束した。胸の高鳴りを抑《おさ》えることができなかった。戦後ずっと捜し求めつづけていたアメリカの友人のなかで再会する最初の人だった。

 私の戦時中の捕虜との友情復活を実現する行動は、なかなか思うように進まない。このため当初から、私の旧神戸高商時代の親友、日系アメリカ二世で、戦時中は日本の学徒出陣で海軍士官として生まれ故郷のアメリカ軍と実戦を交えた、ポール・保・池田君とは連絡をとりつづけ、現在にいたっている。彼を通じても収容所時代のアメリカ人の〝異国の友″捜しをつづけてもらっているが、なかなか、はかどらない。その全部は行方が不明、アメリカの在郷軍人関係団体にコンタクトしてもらって十分な返事がもらえなかったということだった。

 池田君は、戦後、GHQで勤務したあと、日綿実業の大阪本社に勤め、後年、昇進してアメリカ日綿実業の社長を長らく務めた。この時、子どもの進学のためアメリカに永住を決めた。
 いまはアメリカ人として日本企業のアドバイザーとして活躍しつつ、日米親善友好のために力を尽くしている。その彼からの連絡でもガルブレイス大尉の居所はそのご不明、その他の私が依頼した捕虜だった人びとの行方も明らかでないという。
 私の戦後の〃忘れ得ぬ友情復活〃作戦はこうして始まり、大阪のアメリカ総領事館筋の協力も得ていまもなお、つづいている。是が非でも、主だった ”戦時中の異国の友人〃の消息を知り、飛んで行き、再会の喜びと感激にひたりたいと、神に祈るような気分の毎日である。


編集者
投稿日時: 2008-10-30 9:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・38
 一つの戦争証言
     ′元捕虜が明かす恩情の日本軍人・1

 私が本格的に〃捕虜収容所の友情〃復活運動を始めてから最初に〃夢の再会″をしたアメリカの親友の一人はロバート・J・ブロードウオーターさん(元陸軍中尉。ROBERT・J・BROADWATER)。再会したさい、収容所長・倉西泰次郎さんのすばらしさ、収容所にいた大半の日本人職員や軍人の友情に感動したことなど、思い出を聞かされたことは、すでに述べた。そのご彼は、日本軍と交戦した太平洋戦争中から捕虜時代、戦後もっとも日本とかかわり深い団体の責任者となって活躍する現在までの思い出と体験を、ジャーナリストがインタビューによる聞き書きの形で、アメリカのアトランタ・ビジネス・クロニクル紙の一九八四年(昭和五十九年)五月二十一日号に掲載した。この中で彼は体験的「日本人論」を強調し、「一貫して日本人を讃仰してきた」と結んでいる。日本軍と戦い、敗れ、捕らえられた苦しい経験をもつ彼が、そこまでわれわれ日本人を思い、観察し、接していたとは”戦争〃という厳しい敵味方の対立のあとだけに、あらためて彼の理知的な洞察《=本質を見抜く》と深い友情に感激した。

 以下、そのあらましを紹介しよう。
 「〝バターン死の行進″生き残り兵いまジョージア州日米協会専務理事に」の見出しで一頁を埋めた記事である。筆者はディック・ジェントリー氏。
 ブロードウォーター中尉と日本人との出会いは、簡単明瞭な事実から始った。(フィリピン戦線で)日本軍が地平線の彼方から轟音をとどろかせて来襲した時だった。クラークフィールドは潰滅《かいめつ》した。同僚将校がその砲撃被害について「どうやら戦線報告書を提出する必要はないな」と自嘲《じちょう》的にいった言葉を覚えており、それほど完膚《かんぷ》なきまでに被害を受けた戦いだった。

 この時点から事態は急転した。本間雅晴中将の率いる日本軍団がマニラ北部に上陸、南進掃討《そうとう=のこらず払い除く》作戦を開始した。真珠湾攻撃に次ぐ六か月の日本軍連戦連勝の幕開けだった。米比連合軍九万の兵士はたちまち首都マニラから湾を隔てたバターン半島へ後退しなければならなくなった。二マイル沖では一万五千人の兵士とマッカーサー総司令官をふくむフィリピン防衛陸軍総司令部が、堅固な装備のコレヒドール島に閉じ込められたままとなった。この島は米比両軍の最後の砦(とりで)だったが、ほどなく陥落する運命にあった。その最後の戦闘で、日本軍は一日に一万六千発もの砲弾を島へ撃ち込むすさまじさだった。
 ブロードウォーター中尉は、ついにコレヒドール島を踏むことはなかった。一九四二年(昭和十七年)四月八日。四十年前のあの辛い日を忘れることができない。日本軍の進攻に備え道路に障害物を設けていた時だった。白旗をかかげた友軍のジープが近づき、同乗の将校が「わが軍は降伏した」と緊張した口調で話し、走り去った。だが、ブロードウオーター中尉は驚かなかった。ルーズベルト大統領の演説のラジオ放送を聞いてすでに〝降伏″を知っていたからだ。その放送で大統領は「現在、史上最強の艦隊を召集中で、それはヨーロッパ戦線に派遣のためである」と強調していた。「われわれは時間かせぎのための犠牲《ぎせい》に供されるんだー中尉はもちろん、バターン、コレヒドールにいるすべてのアメリカ将兵はそう考えていた。そしてコレヒドールへ行けばオーストラリアにたどり着ける。そうすれば助かると船舶、ボートを探したが、ただの船一艘も見つけることはできなかった。とうとう退去することはできなかった。

 四月九日にバターン半島、五月六日にはコレヒドール島が完全に日本軍によって陥落。日本軍は九万五千人の捕虜を捕えた。中尉もその一人だった。彼が戦争捕虜になった時からすでに四十余年の歳月を経たが、「バターン死の行進」から生還した1人である。あのバターンでは何千もの、数えきれないアメリカ兵が、砲弾の止んだ中で命を落とした。地獄の行進の流れの中に横たわるアメリカ兵の死体。飢えにあえぎ、マラリアにかかり、五人に一人の捕虜が苦渋に満ちた表情でぶっ倒れ、死んでいった姿、事実は、忘れようにも忘れられない。
 「私の部隊には三十三人の将校がいた」と中尉はいうが、その中でわずか三人しか生還できなかった。彼はその三人のうちの一人だったのである。だから、もし日本人憎しの情を持つ人がいるとすれば、彼をおいて他にいないといえるほどの経験をしたのである。
 その彼が、いま強調する。「私は日本人を誰も憎んでいません」と。それどころか、現在、ジョージア州日米協会の専務理事として両国間の友情と理解を深めるために全力を投球している。アトランタ在住の日本人がもっとも快適な生活を送れるよう尽力することが、彼の使命だというのである。

 彼の言葉はつづく。「日本人は戦闘の際には凶暴ですが、私自身、日本民族に憎しみを覚えたことはありません。あの当時をふり返ると、確かに日本軍の中には、何人か嫌悪の情を感じた人もいたが、一方では非常に親近感を覚えた人もいました」 と彼は一例を示した。捕虜になった最初の日だった。偶然、彼の前に来た一人の日本兵は、中尉からライフル銃を取り上げ、代りに一缶のミルクをくれた。「これを飲め」というポーズをとった。二千~三千人の捕虜が並んでいたが、とにもかくにも口に入れるものを貰えたのは、わずか二人か三人で、中尉はそのうちの一人だった。さっそくその夜から〝行軍″が始まったが、長い長い捕虜の幽鬼《ゆうき=亡霊》のような列がつづく中、一日に三十-五十人の割合で倒れていった。〝バターン死の行進″の姿だった。
 中尉は、一九四二年 (昭和十七年) 秋、他の多くの捕虜とともに長門丸で、労働要員隊の一人として日本本土へ送られた。しかし、率直にいって、バターン行進を終ったあとだったので、長く辛い日々を経て、やっとひと息つけたと感じた。日本本土に到着して列車に乗せられた時には、車内が〝曖い〃と、思ったほどだった。それだけ、降伏からバターン行進、日本本土までの道程は厳しく、辛いものだったとふり返っている。


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投稿日時: 2008-11-2 8:48
登録日: 2004-2-3
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捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・39
 一つの戦争証言
      元捕虜が明かす恩情の日本軍人・2

 彼の捕虜収容所暮らしは、終戦(一九四五年=昭和二十年八月十五日)までつづいた。最初の収容所(大阪・多奈川捕虜収容所)の所長は倉西泰次郎・陸軍中尉だったが、ブロードウオーター中尉と彼との出会いは、そのスタートから〃近親感〃と〝畏敬《いけい=恐れ敬う》〃と〝信頼”に包まれていたようだ。「尊敬すべき紳士だった」とブロードウオーター中尉は倉西中尉を心から評価している。

 倉西中尉は、応召前、旧制中学校(現高校)で英語の教師だったというだけあって、私たち捕虜が収容所に入って最初に聞いた彼の訓示は、軍人らしからぬ、しかし尊敬に値いするものだった。この時から彼の温い人柄が、私の心に焼きついた。感激した。
 「あの場でわれわれに話すような内容ではなかった。(有名な英文学者であり作家の)ロングフェローの〝時の砂の上につけた足跡〃の一文を引用して、誠実な語調で話したのを、いまもはっきり覚えている」という。倉西中尉はロングフェローの一文を引用することによって「いまは困難な時節だが、たとえ捕虜生活の中でも決して自分自身を見失ってはならない。つねに祖国や祖国に残してきた親、家族のことを思い、その名をけがさないよう、冷静に落ち着いた生活態度を保たねばならない、ということをわれわれに話した。私たちは彼の意を十分、理解できました」と当時のことをふり返った。あの時、通訳がそばにいた。倉西中尉の話は日本語で行われ通訳を通して伝達されたが、中尉の知的な物腰、口調、経歴などから察すると、その通訳よりも上手に英語を使いこなせる人だと直観した。

 ブロードウォーター中尉の回想はまだまだつづく。「倉西中尉の捕虜への思いやり、心を砕《くだ》いてくれた行為は数知れない」〝図書館ができるくらい″たくさんの英語の本を入手し、提供してくれたこともその一例。〝西欧世界の没落″〝ローマ帝国の興亡″など有名な古典、哲学書など「捕虜にでもならなかったら決して読むことのなかった書籍をたくさん読みました」
 当時、収容所を管理する日本軍のなかに、敏捷《びんしょう》で多少、感情的な、小犬を連想させる伍長が一人いた。「吠える時は別でしたが、それなりに親切な人でした。捕虜菜園の種まきや手入れをせっせと手つだってくれました。この菜園でトマトやサツマイモ、その他の野菜を植え、おかげで貴重な栄養をとることができたのです」

 一九四一年六月にオレゴン州立大学工学部を卒業したブロードウォーター中尉は、予備役将校として数か月後には、それまで知り、愛し、体験したものとはまったく異質な国・日本と交戦、捕虜生活を余儀なくされた。収容所では日本人がみせる敵意、かずかずの障壁があったが、倉西中尉ら人間味あふれる人びともいたおかげで、こうした困難を乗り越えられる、と信じることができた。こうして時が経っていった。そのうちに日本語も断片的に覚え、ひそかに収容所に持ち込まれる日本の新聞が少しばかり理解できるようになった。生きることの大切さと自信も、日ごとにわいてきた。

 やがて戦争は終った。戦後、彼は同じように捕虜生活を経験した親友の元アメリカ陸軍将校の誘いでコカコーラに入社した。コカコーラに入ってからは、戦時中の体験地、フィリピンや日本を訪れ、最後には戦い終った新しい日本はもちろん、全世界に販路を持つ同社の経営責任者の一人になった。日本人と接する機会がふえ、日本人を知るにつれ、彼の日本人に対する尊敬と称讃《しょうさん》の念はいっそう増していった。そして強調した。「第二次世界大戦が始まる前に、もっと多くのアメリカ人がもっと多くの日本文化を理解していたなら、少くとも過誤のいくつかは防げたはずだ」
 彼は「日本文化」を独自の観察眼で理論づけている。孔子の思想は典型的に東洋的なものであり、聖アウグスティヌスの思想は西洋的なものの典型であるとして「この両巨人は、それぞれの今日の文化の基盤を築いた筆者であり、師である」と指摘。「東洋的なものの範疇《はんちゅう注1》に入る日本人は直観によって行動する傾向があり、西洋人は理性と論理にもとづいて行動する傾向が一般的だ」と分析している。聖アウグスティヌスをはじめ、カトリック教会の教父たちのほとんどは、人間を〝精神的な支えを必要とする創造物″とみなしてきた。だが孔子は〝人間の心の中には平和と秩序と人間性が生来、備わっている″とみた。だから「われわれ西洋人は、心の中に卑小《ひしょう注2》なもう一人の人間が宿っているとして、物ごとの決定に当たっては理性と論理に頼らねばならないのです。しかし、孔子的な立ち場で人間は生来、善良だとする場合には、他のどんな支えも不必要で、直観によって行動するということが容意に理解できます」この論法による洞察で、彼は日本人の行動様式を分析し、理解している。
 〝日本式経営″についても、この思考・行動様式が根本にあるとみる。つまり、孔子的な物の考え方は「性善説によってまだ最善を尽くす余地ありと、完全をめざして努力する人間は、その努力によってより優れた仕事が実現できるわけである」たとえば、労使双方とも合点がいかない場合、双方がベストを尽くしていないという認識をもてば、問題は容意に解決するだろう。「人間は完全な域に至らせ得る存在」とみれば、経営側は労働側を完全な域に達するよう労働させ得る。だからクォリティ・コントロール方式が日本で功を奏するのである。

 一方、アメリカでは、たとえ経営側が何をなすべきかわかっていても、それを労働側に知られたら労働側はその息の根をとめようと躍起になるだろうという。つまり、個人的見解による仮説として〝性悪説″をとっている。東洋的な視点に立つ日本と、西洋的な視点に立つアメリカの思考様式の違いが、双方の経営術、文化の違いにあらわれているというわけである。

 かっては敵であり、摘虜となり、ビジネスマンとなり、いまよき友であるブロードウオーター氏。いまはジョージア州の日米協会専務理事として、アトランタを中心に在住の日本人が日本国内で生活するのと同じように快適な暮らしができるよう、最善を尽くして奔走《ほんそう》する毎日である。四十年以上も昔、日本陸軍の倉西中尉の、通訳を通して話したロングフェローの引用のことばは、そのごの氏の心に、歩んだ道程に大きな影響を与え、すばらしいプラスとなった。
 「日本人は恐ろしくよく働く。そして恐ろしく良き兵士たちです」「私はいつも日本人の讃仰者でした」氏の体験と思索の結論は、ロングフェローの「時の砂の上につけた足跡」をじっくり読めば、うなづけるに違いない。
 《私(小林)のもっとも親しい友の一人、ブロードウオーターさんの洞察深い物の見方、考え方、そしてうるわしい日本人観、あふれる友情。心の底にジーンと響き、さわやかな彼の印象が、鮮やかに蘇《よみがえ》ってくる》

注1 範疇=同じような性質のものが含まれる範囲

注2 卑小=取るに足らない
編集者
投稿日時: 2008-11-3 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・40
 恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・1

 昭和五十九年(一九八四)七月二十七日。この日も私には忘れがたい一日となった。私が本格的に捕虜収容所時代の〝旧交復活″運動を始めて以来、初めてアメリカの捕虜だった人と会うことができた日だからである。その人は、コカ・コーラの元副社長、いまはアメリカ・ジョージア州日米協会専務理事として活躍中のロバート・J・ブロードウォーターさん(再会当時六五)=ROBERT・J・BROADWATER=。十七年(一九四二)、フィリピンで日本軍の捕虜となり、あの、「バターン死の行進」を生き残り、日本へ移送されて終戦の二十年八月十五日まで大阪・多奈川、兵庫・生野の両捕虜収容所で暮らした。当時、二十七歳くらい、日本軍との連絡担当の青年将校で陸軍中尉。親日的だった。
 
 彼と会うことになったのは、彼が収容所時代に敵、味方の国境を越えて親切にしてもらい、あらゆる捕虜から慕われていた「収容所長」を捜しているとのラジオ・ニュースを「収容所長」の遺族が聞いたのがきっかけだった。その前後の事情はすでに述べた通りだ。
 この日午後、私は東京都港区のホテル・オークラで彼と会った。彼の宿泊先である。七月八日に東京都内で開かれた同協会総会に一行二十八人とともに参加した。総会の終ったあとも「ぜひ年来の希望である収容所長クラニシさんを捜し当てたい。再会したい」と単身、滞在して、手をつくしていたところだった。「クラニシ」さんとは、多奈川の収容所長をしていた倉西泰次郎・陸軍中尉のことだった。
 ところが、その倉西中尉はすでに亡くなっており、私はそのことを知っていた。ラジオ・ニュースを聞いた倉西未亡人、緑さん (七三) と娘のミネ子さん (五〇) からの知らせに私は驚いた。懐しいブロード・ウォーターさんが来日して懸命に「クラニシ」さんを捜していることに感激もした。「ぜひ力になろう」「旧友にぜひ会おう」-私はすぐ知人のいるサンケイ新聞社を通じて、今回の収容所長捜しにひと役買っている東京・TBSテレビ放送と連絡をとった。その結果、ブロード・ウォーターさんと会うことを決めたうえで、大阪・堺市の倉西さん宅を訪ねた。未亡人と会い「できれば、いっしょに上京しようと思って…」と誘ったが、老齢で心身ともに弱っておられ、上京は不可能だった。
 しかし、未亡人も娘のミネ子さんもブロード・ウォーターさんと私の再会を通じて、倉西中尉の消息を知らせることのできるのを大変、喜び、仏前に報告したあと、軍服姿の写真などの遺品を取り出して倉西中尉を偲《しの》び、ブロードウォーターさんに渡してほしいとの依頼をうけた。未亡人は、とくに手づくりの大きな美しい「手まり」の飾り二個を彼にプレゼントしてほしいと託された。私はこれらを持って七月二十六日、独りで上京、ホテル・オークラに宿泊した。

 敵方の捕虜からも慕われていた倉西先生は、旧広島高等師範学校(現広島大学教育学部)を中退、旧中等教員検定試験に合格して、陸軍に召集される日まで旧堺中学(現三国丘高校)で英語の教師だった。柔道も高段者で、大柄な文武両道に秀でた尊敬すべき先生だった。私も同中学で教えてもらい、英語を通じて英語圏の文化のすばらしさ、日本文化との違いなどを教示していただいた。旧制神戸高商への入学、捕虜収容所への勤務、すべて「倉西先生」との推薦と指示をいただいた。私にとっては〝人生の師〃でもあった。その先生も終戦後は一時、捕虜虐待の戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘留されたが、容疑が晴れ、すぐ釈放されて再び旧堺中学で教壇に立っていた。

 緑さんは武人の妻らしく、物静かに話した。「夫は昭和四十三年(一九六八)十一月に病いで亡くなりました。当時六十九歳でしたが、アメリカの捕虜のことなど収容所の話はよく聞かされました。ブロードウォーターさんの名前もしばしば耳にしました。戦犯の疑いをかけられた時には、捕虜の人たちの証言で起訴を免れたと嬉しそうでした。巣鴨からは半年もしないうちに帰ってきました。いま生きておれば、どんなに喜んだことか…もう少し早く吉報がもらえれば、夫もブロードウォーターさんも、恐らく関係者のみなさんも、笑いながらお会いできたでしょう。でも、ブロードウォーターさんのご尽力には心から感謝し、仏前に報告させていただきます。いつまでもお元気で日米親善にご活躍されますよう、お伝えください」その表情は、亡夫の戦時中の行為が敵方からも賞讃され〝人の道〃にはずれていなかったことを証言する〝アメリカの旧友″のいることを知って、明るかった。その緑さんも昭和六十年(一九八五)に病没し、いまはその一人娘の新井ミネ子さんが、大阪市西区で両親の面影を慕いながら元気に暮らしている。

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