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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部
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編集者
投稿日時: 2008-10-1 8:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・21
 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・1

 巣鴨拘置所の住人となって一か月半。倉西中尉は毎日、欠かさず日誌を書きつづけてきたが、入所以来の惨めな狭い独房に別れを告げて広い雑居房に転居した日から、新しい生活の記録が始まった。その日は昭和二十一年(一九四六)一月十九日。
この項は、中尉の巣鴨獄中日誌「その3」 である。

 十九日は、よく晴れた土曜日だった。突然、他の房へ移るように指示され、汚れた下着や妻が差し入れてくれた心づくしの冬の衣類など、僅かな荷物をまとめて看守のMP《=米国陸軍憲兵隊》に見守られながら移ったのが 「2C-9号室」。

 「(中略)畳ハ八畳敷イテアルガ二間半四方、一月十九日。即十二畳半ノ間ダ。
今迄居タ1C-17ニ比シテ広イコト。シカモ此ノ広イ間ニ一人ダ。六名居ル室モアルノニ、何故カ僕ハ只一人ダ。布団モ毛布モ六名分置イテアルノニ。僕ハ真崎 (註・甚三郎) 大将ラト一緒ニ移ッテ来タガ、何デモ一度訊問ヲ受ケタ者ハ此ノ棟へ移サレルラシイ。
 向フ側ニハ梨本宮様ガ一室二三人デ居ラレル。東條大将モソノ隣室ニ居ル。畑大将ハ荒木大将、西尾大将ラト僕ノ側ダ。土肥原大将ハ木成卜同室ダ。二階ニハ村田所長 (註・大阪捕虜収容所、大佐) 峰本、野須軍医ラモ居ル。近ク裁判ニカカル津田傭人モ窓カラ見エタ。
 此処ハ前ノ処卜違ヒスチームガ入ッテ居ル。広イ室ダガ電気ガ非常ニ闇イ。殆ンド文字モ見エナイ。読物モ皆返シテ来タノデ何モセズ茫然《ぼうぜん》トシテ居ル」

部屋替えによって、皇族や陸軍大将など、かつて見たこともない雲上の人たちと同じ棟の房につながれ、身近に姿を見ることの驚きがにじんでいる。日本軍の最高中枢部にいた人たち、日本の運命を左右した人たちと、下級・応召将校だった自分が、いっしょに 〝戦犯″容疑で追及されていることへの疑問と憤りも、走るペンに溢れている。
 その広い雑居房の一人住まいも、たった一日で終った。翌二十日には、「市川」という沖縄から帰還した一等兵が一人、同室者として入房、共同生活が始まった。 「(中略) 長野県人だと言ふ。話相手が出来た。終戦後琉球の小島に渡り農家で働いていたが、七名一団となって内地へ帰るべく舟に乗り島伝ひに航行中、米国軍艦に発見され佐世保に連行された。佐世保より陸路東京へ。東京駅より直ちに巣鴨へ送られたといふ。二人になって時間の経過も早い」

編集者
投稿日時: 2008-10-3 8:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・22
 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・2

 ここ二、三日、暖かくしのぎやすい。夜も熟睡でき、凍傷もかなりよくなったと記しているが、大阪捕虜収容所長、村田大佐(前述)ら、捕虜収容所関係者の行動と容疑者としての不安が再び誌上に見えはじめた。

 二十二日には村田大佐が取り調べを受けた。そして二十三日の日誌は次のように述べている。
 「(中略)午後、村田大佐、木成准尉、吉田衛生兵卜肩ヲ並べテ散歩。(中略)村田大佐モ前途ニ就キ悲観的言辞ヲ漏レ居ラル。ツマリ、ポツダム宣言ニ捕虜虐待者ノ厳罰トイフ二項明記セラルコト、軍事裁判ナルコト、連合国々民ノ輿論《よろん》等ヨリ考へテ厳罰主義ナルコトハ容易ニ判断サルル。
又、現在迄ニ終了セル三名、判決ヲ見ルモ明瞭ニシテ疑フベキ余地ナシトノ意見ナリ」
 吉田衛生兵とは私も多奈川の病棟で一緒に働いた。捕虜にもやさしい親切な人だった。どうして戦犯容疑にかかったのか理解に苦しむ。恐らく、無罪になると確信するものの、気の毒でたまらない。やりきれない思いでいっぱいだ。

 その翌二十四日には、梨本宮の散歩姿を初めて見た印象を中心に記述している。 「(中略)午後の運動時ニ梨本宮様ガ出ラレタ。今日ハジメテ拝スルコトガ出来夕。御写真デ拝スルノト又、昭和七年ノ大演習ノ時、講評場トナッタ堺中デ拝シタノト全ク同ジ。立派ナ御髭腹ヲ突キ出ス様ニサレタ立派ナ御姿勢。無帽デ毛髪ノ全クナイ御頭ハ実ニ麗ハシ。コンナ刑務所ニ来て居ラレテモ犯スベカラザル威厳卜悠容迫ラザル御態度。国民服ヲキチント着用シテ他ノ者卜同様:前後左右ニ徘徊サレル。南大将卜話サル。東條大将ハ此ノ二、三日散歩ニ出テ来ナイ」

 二十五日の日誌-かつての上官だった大佐の態度を非難し、警戒の必要を訴え〝死ぬか生きるかの瀬戸際に狸おやじの陰険な術策に陥ってなるものか″と強調。戦犯裁判という特異な舞台で繰り広げられる、容疑者となった旧軍人たちのそれぞれの葛藤が生々しく描かれている。
 「(中略)00大佐(註、何故か匿名)には警戒を要する。2Cへ来たころは散歩もー緒に出来るので親しい、なつかしい気持がしてこちらから側へ寄り、よく話しかけた。だが向ふでは冷淡で尊大、何だか冷水を浴せられた感じだ。昨年四月此の〝おやじ″に熱湯を飲まされた記憶が甦《よみがえ》って来る。
今度も僕や下士官、軍属に罪をきせて己の罪を逃れようとする魂胆が、あの陰険な相貌《そうぼう=かおかたち》に現はれて居る。〝二十もある分所だから一々覚えて居らん″と言った言葉には、平気で再び善良な俺や弱い下士官、軍属を陥《おとしい》れ、自らは免れようとする悪どい陰謀が見える。
 今度は死ぬか生きるかだ。あの狸おやぢの術策にかかってなるものか。用心が肝要だ。こんな所へ来てさへ大将其の他の将軍連に御機嫌とりをして僕等の言ふことは歯牙にもかけぬ態度、僕等の存在すら認めない冷酷な態度を持ってゐる。しかし僕と木成や吉田の話には吃《きっ》と聞耳を立てるあたり、とても油断ならぬ腹黒い狸おやぢだ。
 三階と一階とで二ケ月振りに視線が合って何度もなつかしさうに微笑を送り、頭を下げて話し度さうにもどかしさうな視線を投げてくれた00中佐 (註、誰か明瞭でない) と較《くら》べ白と黒、天と地の相違だ。
 「(前略)今度は命にかかはる。訊問でも裁判に於ても堂々と真実を述べ、部下を救ってやらう。峰本も大分、苦しんゐる様だ。こちらは虚偽、作り言を言ふのではない。(後略)」

 二十七日から三十日にかけての日誌には、新聞報道で知ったとして、室蘭捕虜収容分所長が絞首刑判決を受けたこと。この分所長に対し、収容中に死んだ捕虜の父親がイギリス本国から〝必ず死刑にせよ″〝刑執行前に本人を蹴《け》ったり打ったりせよ″と電報が要求したことを検事が法廷で披露したこと。こうした模様の裁判は 〝復讐″ ではないかという感想などが縷々、述べられている。また隣室へA級戦犯容疑の広田弘毅氏が入居、村田大佐と同室になった、とも述べている。


編集者
投稿日時: 2008-10-4 9:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・23

 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・3

 「一月三十一日 木曜日 晴 (中略) A級裁判は三月一日頃開始と新聞に出てゐる。総選挙は三月三十一日に決まる由。
 夕食前 (大物の一人) 安藤紀三郎氏入室、同室となる。今日迄3B-24に居たと云ふ。今日も調べを受けて直ちに僕等の2C-9に移らされた。調べを受けた米国将校から貰ったと言ふキャメルか何かを喫《す》ってゐる。
僕はもう煙草がとっくに切れ安藤氏のうまさうな口つきを見るとたまらなくなり、眼をそらすが、安藤氏は一向にお構ひなくそのパッケージを見せびらかせ乍ら喫ってゐる。軍人のくせに思ひやりのない老人だ。二、三本分けてくれるのが当然だらう。高官の人々に通有《注1》のdelicacyが欠けてゐる。
其の他の点では落着いた柔か味のあるよい人らしい。氏の経歴の詳細は知らぬが陸軍中将で内務大臣か何か大臣をやり大政翼賛会《注2》等にも関係した重要なpostに在った人だったことは判ってゐる。
 三人同室となり (中略) 寝る時随分窮屈な思いだ。五尺六寸一分の大男が六尺四方の区に寝る事が如何に窮屈なことよ。MPが安藤氏の荷物と夕食を運んで来たが、氏は既に夕食を済し居られ、要らぬとのことで市川と二人で御馳走になる」

 二月一日の日誌は、安藤氏と話し合った内容が中心。
 その中で、近衛公の自殺、東條大将の巣鴨入所前の自殺未遂について安藤氏が 「生命を自分で断つよりも欲しがっている者に与えることだ。それが新生日本のためであり、みんなが自殺すると誰が責任者としてマッカーサーに説明するのか。遂に天皇を責任者として突き出すことになるではないか」 と強調したこと。
 さらに倉西中尉が、近衛公の自殺の前後、東條大将が巣鴨でも自殺未遂を図ったと話したのに対し「東條はまだ悟り切れぬのかな」と安藤氏が答えたこと。「捕虜収容所にいた日本軍関係者は実に気の毒だ」という安藤氏のことばを感慨深げに聞いたと記している。

注1 通有(つうゆう)=同類のものに共通して備わっていること

注2 大政翼賛会=昭和15年(1940)近衛文麿(このえふみまろ)らが中心となり新体制運動推進のために結成した官製組織。全政党が解散し、これに加わった。同20年6月、国民義勇隊へ発展的解消。大辞泉より
編集者
投稿日時: 2008-10-8 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・24
 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・4

 日誌は次のようにつづいている。
 「安藤氏の意見は 〝結局、陸軍省の上に立つ者が不親切だったのだらう″ ということだた。
 僕も此の点、無理解と無認識は痛感してゐる。話は結局、米国の輿論《よろん》に訴へる為、日本から米国に渡る婦人が出ないと駄目だといふ意見だ。〝支那は其の点、宋美齢
《注1》等が今度の戦争で大手柄を立てましたね″という僕の意見に大賛成だった。今此の巣鴨には満洲事変以後の日本の指導者が全部拘留されてゐるのだから、此の大戦争、及大戦中の日本のリーダー達の意見、感想聞けたらと思ふ。これから折りにふれ聞いて見度い」
 二日から四日までは、イギリスの進駐軍が呉に到着、ソ連、中華民国は日本占領に加入しないと新聞で知ったこと。隣室に最後までいたB29爆撃機のアメリカ兵関係で上海の軍事裁判にかけられた人が夕食後、上海へ連行されたこと、などと簡単に記述。
 五日の日誌には突然、厳重な室内と所持品検査があったとある。
 「(中略)散歩中、東條大将ガ訊問カラ帰ッテ来タノヲ見タガ、顔ニモ活気ガナク、猫背デ沈鬱《ちんうつ》ナ表情ダッタ。感無量ダッタ」
 とも記している。太平洋戦争を通して〝日本″の歴史を動転させたかつての最高指導者の姿に、中尉は〝感無量″という以外にことばもなかったのだろう。
 怒りと哀れと無力感、焦燥感-囚われの身となった中尉自身のこの思いは、終戦直後の日本の姿そのものだったのである。

 「(二月七日、中略)名古屋の収容所織田参謀カラー月二十日付ノ来信。次々卜拘禁サレ残務続ケルガ困り居ル由。安藤氏ヨリ真崎大将ニ貸シテアッタPearl Buckノ〝TheGoodEarth 大地″借リテ読ム」
 所内の生活は、必要な物がないので知恵が役に立つ。「マッチの配給が行われなくなってタバコが喫えない。アメリカ製の太軸マッチ一本を縦に割って二本にして使う。ペン先を利用すればすぐ割れた。うまくやれば四本にして使える」とある 
(二月八日)。
 運動時間の散歩はかつての部下といっしょにするが、その部下から「僕の裁判時には所長殿、よい証言を頼みますよ」といわれ「君は大丈夫だ」と答えた時の部下の嬉しそうな表情を書いている (同八日)。部下思いの中尉の一面がうかがえる。
 九日には、逃亡捕虜タイラー事件で参考調書をとられ、詳細にわたって供述、サインを終ってどうにかこの事件の尋問を終了、ホッとしたと記録。「次に来るものは裁判だが恐るるに足りぬ。神は真理に味方してくれるだらう」と、幾分、楽観した見通しを。
 しかし、相当しつこく尋問されたようで十日の日誌は訊問で疲れ興奮して昨夜は殆んど眠れず。眠ってもすぐ眼覚め、夜中以後、朝まで一睡もできず。陳述を反省、その結果を想像、家族の生活のことを思い、一層疲れた」 つづけて 「昼食時、峰本と合い不安を訴える彼に〝心配するな″ といった声を側の真崎大将が耳にし〝捕虜収容所関係の人は気の毒だ″と九州弁で答えられた。僕は〝峰本は、二人の弟が戦死、母親一人を残してここに来ている〟というと大将は涙し、手で眼を拭はれた。僕も眼頭が熱くなり泣いた。(中略)今日の新聞では九州の小出石衛生兵の裁判は僅かに二時間四十分で懲役十年の判決とある。またトルーマン大統領に上訴していた山下泰文大将の件は棄却され、マッカーサー元帥の命令で死刑の執行が決定ともある」と記している。

注1 宋美齢(そうびれい)=1901~2003]中国の政治家。広東(カントン)省海南島
の人。蒋介石(しょうかいせき)夫人。1927年結婚以来、国民政府立法委員をはじめ
要職を歴任。出典・大辞泉
編集者
投稿日時: 2008-10-9 8:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・25
 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・5

 二月十一日の旧紀元節-「所内で挙式。全員各房の前に整列して、荒木大将の音頭で皇居遥拝《ようはい=へだたつた所から拝む》、君が代斉唱、天皇陛下万才を三唱した」とくに「荒木大将はモーニングを着用して指揮される」 戦犯容疑で戦勝国に囚われ、所内でこの種の祝賀式を陸軍最高幹部の音頭で行ったこと自体、アメリカ軍の政策的な寛大さが読みとれる。遂に旧軍人たちの乱れぬ魂の発露に驚かされ、一面ではその心情に悲哀感さえ感じられ、何ともやるせない。

 十二、十三日の日誌には、梨本宮が隣室の八号室に移送され、福井県の捕虜収容所に勤めていた軍属と雑居生活が始まったこと。さらに食事時間には皆と同じように茶わんを手に並んでいること。そして「この2C棟の東側には西尾大将、鹿子木博士、広田広毅、安藤紀三郎、梨本宮殿下、畑俊六元帥、土肥原大将、西側には南大将、海軍の豊田副武大将、東條大将が。2Bには戸侯爵、酒井伯爵、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁、その他顔も知らぬ一級の名士が扉を並べて居られる。偉感である。大戦中、大戦前の日本の指導者が殆んどここに集ってゐる。彼等の間に捕虜収容所関係の吾々大佐以下軍属に至る末輩が居る。奇観である」 また 「宮殿下と共に入浴。殿下も同様二十分間に洗顔、髭剃《ひげそ》り、身体を洗はれる。之もアメリカのDemocracyの現れだろうか」 と寸評も。
 「二月十四日 木曜日 晴 昨日の新聞から。本間雅暗中将が比島軍事裁判で銃殺判決。銃殺は軍人として名誉なる刑であること。本間中将が米側取扱に判決言渡し前、謝辞を述べたこと。米国大審院は上訴を却下したことを報ず。山下泰文は絞首刑だったが本間中将は銃殺、大審院却下は同じ。却下に二人の判事が反対したことも同様で二判事の意見が出ている。
 その一人フランク・マーフィー判事-本間裁判の如きものが米国憲法の高尚な精神で行はれないなら、吾々は正義への主張を放棄するか、復讐心に満ちた血の粛清という低水準へ堕落するに等しい。余は之に加担出来ない。沈黙の黙認さへもなし得ない。山下大将、本間中将の処刑は正当な法の過程を経ずに一連の法制的私刑への道を開くものだ。
 又、マーフィー、ラットレッヂ両判事-マニラ裁判は強制的自供と群衆的反感を証拠に使ふことを許した、と抗議してゐる。
 午前の散歩中、横浜法廷の経験者より横浜刑務所の法廷の事情聴く。本田は部下の残虐行為の責任者として二十年の重労働。
 僕も第二回訊問で、タイラーが入倉中或は逮捕時に余の部下が殴打つしたとすれば一決して重大な事でなくタイラー死因が他にあることは明らかだがー余は分所長として責任を負ふと答え署名した。しかし、部下にその行為があったとすれば余の意志と命令に反す。余は再三この種の行為なき様訓戒したと陳述した。果して余の裁判は有罪か無罪か。此の点のみにて二、三日余の脳裡を来往する。九州の坂本大尉の裁判罪状項目のうち〝二十年四月ルーズヴュルト大統領死亡祝賀式に出席強要″とある。安藤閣下訊問受く」

 翌十五日の記録-早く出所、解放され一家のために働きたいこと。十五歳までは純真で、十五歳-二十五歳は母の死で動揺期、根なし草だったこと。四十歳までは波乱、煩悶《=なやみ苦しむ》、生死の境地に立った時代。四十歳以後こそ生涯でもっとも意義あるも
のにしたいと強調。そして〝無罪釈放だ〃と神に誓って叫ぶ声を記している。鳴海分所で起きたワゴナー逃亡事件で被告の岡田少尉の弁護人から訊問を受けたこと。大牟田分所長福原大尉に〝絞首刑判決あり〟などと記している。


編集者
投稿日時: 2008-10-10 8:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・26
 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・6

 十六日の日誌に私のことを記しているのには驚いた。「(中略)二月三日の朝日新聞大阪版の右上角に写真入で小林一雄通訳の記事が出ている。多奈川収容所の通訳として捕虜の為に自費で書物を買ふなど盡したと言ふ。堺市中向陽町の国際物産会社金岡出張所長の彼に手紙で連絡しやう。上京して僕のために米検事団の招請に応じ証言したと出てゐる」 恩師で上司だった中尉は、私の人生の師であり、無実の容疑をぜひとも晴らしたい一心だった。

 十七日には、新円発行、食糧供出に強権発動の等急〝勅命″の出たこと。妻子に計四百円しか預金支出ができず〝生活できるだろうか″などと不安をのぞかせる文字も。
 捕虜収容所多奈川分所の関係者の軍事裁判が行われることは、英文ニッポン・タイムズを読んで知ったという中尉。二十日の日誌に 「今日のThe Nippon Times は多奈川分所五名の同裁判の件を報じている」 と、その英文を転記している。逃亡捕虜タイラー一等兵 (アメリカ陸軍) を虐待死亡させたというもの。峰本善成軍曹や民間人ら五人がその罪状で横浜軍事法廷で合同裁判を受けるというもの。

 翌二十一日にはこれに関連して次のように記している。「分所長の僕を放っておくとは何ういふことか。僕を起訴しない積りかとも思はれる。証人に立つだけならよいのだが。それにしても此の五名の殴打でタイラーが死亡したとしているのは、野須軍医や村田大佐がすっかり事実を曲げて罪をなすりつけてゐる結果だ。彼等の其の後の言動、第二回の検事訊問でも判る。五名が可愛そうだ。昨夜安藤氏に此の事を云ふと 事実を判然とさせねばならない。無実の罪に問われるとなれば五名が可愛そうだ″との意見。僕も証人に立てば事実を陳述し五名の嫌疑を晴らさう。分所長として僕の責任だ。人間の責務だ。敢く迄も戟ふ」
 巣鴨住まいに慣れてきたのか、同じように囚れの身となっている高位高官、かつての日本および日本軍の指導者たちの性格などを書き残す余猶(よゆう)も出てきたようだ。

編集者
投稿日時: 2008-10-11 8:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・27
捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・7

 二十二日の日誌をめくってみた。
 「(中略)此の棟に元帥、大将は十名近く居るが真崎大将が最も魅力に富んでいる。佐賀人-素朴さ、人なつっこい変化あり。それでゐて毅然《きぜん》たる所あり。参謀次長時代、青年将校から信頼されたのも故ある哉。他の大将達は自分の生地を蔽《おお》ってゐる虚飾あり。荒木大将、畑元帥、西尾大将、土肥原大将皆然りである。
 (中略)向ひ側の東條、豊田海軍大将、南朝鮮総督等は時々窓から見える丈で、其の性格等をつかむことは出来ぬ。隣室の梨本宮殿下は流石に御行儀よい。布団も丁寧に積み重ね室はいっも片付いてゐる。非常に明朗だ。太い飾り気のない声で誰とでも話される。僕も二、三回話しかけられた。朝、箒を持って廊下を歩いてゐると〝此の箒は米国製ですか〟と尋《たず》ねられる様な風である。昨日数名が不起訴で出所したと聞く」
 このほか、梨本宮が看守にかけあって収容者全員の入浴時間が以前より長くなったこと、殿下は食事に関してもよく意見を述べられたこと、などの記述もみられる。

 「二月二十四日 寒冷 本日の毎日新聞に依ると山下奉文大将は遂に二十三日、絞首刑の処刑執行された由。安藤氏日く〝山下は偉い男だった。立派な人だった。惜しい人を殺した〟と。
此の獄窓にあり将軍連の感懐や如何。山下大将処刑の様子は新聞所載UP特派員ウィルソン氏によって報道されてゐる。
 軍装を差止められた大将は米陸軍のカーキ色シャツとズボン、緑の帽子を被《かぶ》り、悠々として絞首台十三段のステップを上った。頭巾でスッポリ顔を隠し首の廻りに綱輪をかけられてゐる。
 此の綱は午前三時過 (日本時間午前四時二分) 引かれた。処刑に先立ち〝何か云ふことは″との間に大将は〝日本の平和を念願する。天皇陛下の万歳と弥栄《いやさか=ますます栄える》を祈り奉る″と述べた。これが彼の最後の言葉だった。彼は強烈な照明の下に通訳一名、僧侶一名に伴はれて絞首台上に運ばれた。死刑執行に先だち次の声明を残した。
 余は軍人としての生涯を通じ最善を盡したこと固く信じてゐる。余は死刑に処せられたことに対し神の前に何ら恥づることはない」

 ところで、巣鴨拘置所の住人も、多数が顔見知りとなり、期間も長びいてくると、気の合った人、利害得失の違いからそれぞれ〝徒党″のようなグループができてきたらしい。食生活にそんな結果が影響を与えて、不満がくすぶったありさまが描かれている。
 「二月二十五日(月)晴 朝定刻六時になっても Jailor は錠も外さず電燈もつけない。七時になっても扉は閉ぢたままだ。二階や一階は既に飯を分配してゐるのに三階の Jailor 顔も見せぬ。八時頃漸く来た。掃除を後廻しにして飯だ。ところが起床後二時間して漸く貰った分配食は団子三個、汁はない。冷えてしまってゐる。昨夕食後正に十五時間の断食だ。そして団子が三つ。やり切れぬ。

編集者
投稿日時: 2008-10-12 8:08
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・28

 捕虜収容所長の獄中日誌 (その3)・8

 近頃、給与が悪くなった。それに分配が悪い。分配係が固定して了ひ、顔を見て飯を盛る。
 同盟条約の様なものを結んで戦線を結束し三度三度特別配食を受けてゐる一団が出来た。嘆かはしい。最も大切な問題で皆も気付いてゐるのだらうが云ひ出す人も居ない。
 刑務所生活も一つの社会だ。こんな特殊な社会でさへ社会悪は直ぐ芽生える。其の悪の根本を為すものは利己主義である。斯うした利己主義を強引に傍弱無人に振舞ふ連中は収容所の軍属か警察の特高(抑留民収容所から来た人)だった人達である。(後略)」
 中尉の日誌はここで終り「明日より別冊に託す」と付け加えられている。中尉の一人娘、新井ミネ子さんに探してもらったが、残念ながら見つからなかった。しかし中尉は、悶々《もんもん》の獄中生活約五か月を経て二十一年(一九四六)五月に、容疑なしとして不起訴となり、待望の釈放となった。恐らく、無実の罪で長期の懲役刑判決を受けた多奈川分所の元部下たちに心を痛めながら出所したこと。予想したとはいえ、不起訴となってある日突然の釈放命令に驚くやら、嬉しいやら…さまざまな思いを胸に巣鴨をあとにしたことなど。そして二月以後、釈放までの高官たちの様子、暮らしぶり、心の軌跡《=たどって来た跡》等が、見たまま、感じたまま、聞いたまま、ビビッドに記されていることだろう。
 中尉は出所後、元通り堺中学に復職、英語教師として戦後の子弟教育に情熱を傾け、妻子と仲むつまじい暮らしに戻られた。まずは〝めでたし、めでたし" だが四十三年(一九六八)、六十九歳で亡くなられた。

 獄中で中尉が作った詩歌が、日誌の一部に記されているので紹介しよう。

 「瞼なる妻子の姿 年暮る」 
 「ゆく年や 誰にともなき憤り」
 「大義の壁に対座し 身じろかず」
 「空腹にこたへて踏める凍土かな」  
 「凍土を歩む将軍 遅れ勝ち」
 「凍傷を凝っと観入りて ひもじさよ」  
 「寒燈や 泣かんとすれど涙潤《うる》る」
 「寂しさに 妻子をも呼びて見つ」


編集者
投稿日時: 2008-10-14 8:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・29

 また所内でみんなと一緒に作り歌ったであろう歌の一節も。
   
 《巣鴨行進曲》
   一、苦しい務の軍隊をやっと逃れて
     故郷へ帰りて休む閑もなく
     今は巣鴨の篭《かご》の鳥
   二、閉じ込められた三畳は 黄色い壁に鉄格子
     便所に腰かけ飯を食ひ
     終れば蓋開けクソをする
   三、ガチャリバタンと音がすれや、出るに出られぬ篭の鳥
     外でも出よかと窓押せば
     黄色い土に高い壁
   四、不意にドア開くその時は こわいMPのおっさんに
     連れて行かれた調室
     長い調べの針の山
   五、泣きの涙でもぐり込む 薄い布団のわびしさよ
     夢でも彼女に会ってても
     さめりやはかない鉄格子
   六、退屈まぎれに絵だけ見る 雑誌の「ライフ」も楽しいが
     肉体美人に刺激され
     若い身体をもて余す
   七、ゾロゾロボコボコ列をつくり OKの号令で動き出す
     すき腹かかへて飯貰ひ
     来て見りや今朝もダンゴ汁
   八、楽しい散歩の時間には 空を迎げば白い雲
     故郷に連なる青い空
     飛んで行きたや鳥の様に
   九、週に二回の入浴も 定められたる二十分
     きれないレザーで髭を剃る
     母ちゃん聞けば泣くだろう
   十、早や日は落ちて夜となる 鉄格子の其の中で
     嫌な男と共々に
     泣く泣く眠る夜の長さ
  十一、皆さん元気でやりませう 必ず良い日が参ります
     歌でも歌って 朗らかに
     クヨクヨせずにのんびりと

《巣鴨小唄》
 一、今日も散歩か三三五五と
     巣鴨の庭にも春風吹いて
    青い芽がふきゃ故郷の山を
     又も瞼に思い出す
 二、暗い電気で手紙を書いて
     妻よ丈夫か達者でいるか
    せがれしつかに留守していろよ
     晴れて又逢うその日まで
 三、可愛い子供よ巣鴨の父は
     御国の為に尊い犠牲
    いつかは輝く正義の光
     泣かずに辛棒して待ってろよ
 四、窓を開ければ星条旗見える
     偽善の印に春風浴びる
    正義の人を獄舎につなぎ
     あとで世界の笑ひ草
 五、正義人道に名前をかりて
     心憎いは合法的に
    復讐裁判 残虐行為
     今に見ていろ神がある
 六、さぞや今頃は故郷の家ぢゃ
     妻子さびしく陰膳《かげぜん》すえて
    巣鴨の空に両手を合せ
     父さん帰れと祈るだろう
 七、空を迎げば流るる雲に
     遠い故郷を心にしのぶ
    恋しなつかし山々越えて
     夢で妻子を想ひ出す
編集者
投稿日時: 2008-10-15 8:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・30
 思い出対談
   覚えなき戦犯の汚名に泣いた旧日本軍人と・1

 大阪・多奈川、兵庫・生野の両捕虜収容所で管理・運営を担当した軍曹、峰本善成さんとの戦後の出会いについては、すでに述べた。つい最近、会った際、七十二歳とは思えない元気な姿に驚いたほどだった。久しぶりの対面に、あの収容所勤務時代のこと、最近のようすなど、時の経つのを忘れて話し合った。
                ◇
 小林 本当にお元気そうで何よりです。以前よりも調子がよいように見受けられますね。
 峰本 おかげで元気です。いまはくよくよすることもなく、ノンビリできるからでしょうなナ。あなたと話すたびに思い出すのは、あの捕虜収容所時代と、私が戦争犯罪人の汚名、いわれなき罪名で服役させられたことです。あの戦犯問題については、そのご当時のアメリカ兵捕虜からも、誤った裁判だったこと、私がそんな罪刑を課せられるようなことをする人間でなかったことを証言する手紙をくれたことなどで、無実が証明されたと信じています。そんなとこから、心のわだかりも吹っきれて精神的に落ち着いた状態でおれる。だから健康体で暮らせるんでしょうな。(笑い)

 《すでに述べたように、峰本さんは、多奈川の捕虜収容所に勤務中、アメリカ兵の脱走捕虜を捕え、他の下級日本兵が、営倉に入れたその捕虜を殴打する事件があった。その際、連絡をうけて現場に行き、管理責任者として殴打を制止してその場をおさめたにもかかわらず、卒先して捕虜を虐待したとして、終戦と同時にGHQから戦犯容疑者に指名された。C級戦犯として軍事法廷で懲役十五年の刑を受け、結局、三年の服役後、釈放された。終始、いわれなきこととして無実を主張したが聞き入れられなかった。そのご、同収容所にいたアメリカ軍将校が「誤った裁判で無実の峰本氏にいわれなき罪刑を課した。あなたはそんな人ではなく、終始、捕虜に寛容だった」との証言を記した手紙を送ってきた》

 小林 そうでしょう。戦犯という重荷、それも身に覚えがないと主張したにもかかわらず、一方的な捕虜の証言だけで処断されたんですから…すぐに処断され、服役も終ったあととはいえ、無実、誤った軍事裁判だったという〝遅過ぎた証言″が届いた時の喜びは、何にも例えようがないほどだったと思いますよ。健康も回復、体調がよくなった原因が理解できますね。
 峰本 まったくその通り…刑務所内では当然、悶々(もんもん) の日を送りましたが、釈放されてからも、何となく釈然としない、暗い思いで過ごす日々がつづきました。家族らの慰めのことばにどうにか支えられていた状態がしばらくはつづきました。つい最近まで、アメリカなどへ旅行をするためのパスポートを申請しても許可されないんじゃないかと、錯覚するほどでした(真剣な表情で)。それだけ私にはショックだったんです。戦争は酷なものだと、つくづく思いますね。
 小林 峰本さんの一例でもわかるように、あの裁判、軍事裁判は偏重した見方に支配された部分が多かったといわれている。私も勝者が敗戦国を処断した裁判の一面があったと思います。とくにB、C級戦犯の裁き方には、法廷での一方的証言や限られた意見が重視され、全部とはいえないまでも、かなり事実認定がお粗末だったように思えてなりません。峰本さんのように戦後、半世紀近くなったとはいえ〝誤った裁判だった〟という証言が寄せられた。しかも、当時、被告だった人と対立していた〝敵国〃だった人から寄せられた証言ですね。あの戦争裁判の一面を歴史が証明し、語ってくれたんですね。
 戦争は酷なものですが、戦いが終ったあとの、裁判処理の仕方は敵、味方ともにさらに悲しい。
 あんな歴史は二度とごめんです。
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