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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部
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編集者
投稿日時: 2008-9-19 8:26
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・11
 収容所長の巣鴨メモ・4

 以上の締めくくりとして、倉西中尉が戦時中の敵兵捕虜に対し〝人間としての対応″を誠意をもって行ってきた理由を次のように記している。
 「(自分の履歴は、専門学校時代にアメリカ人女性英語教師に英語を学び、二十余年間、中等学校英語教師として教壇に立ち、英米書を通じ英米の国民性、風俗習慣を理解してきたと前置きして)

捕虜収容所分所長トナリテモ通訳ヲ通ゼズ直接会話シ意志疎通モ充分ニシテ、自分トシテハ対米英戦争ハ講和ニナルコトアルモ米英ガ屈服スルガ如キハ絶対ナシト結論シ居り…」と断言。
 つづいて「故ニ終戦後ニ於ケル捕虜交換等ノ場合ヲ考慮シ捕虜ニ対スル時ハ常ニ日本人ヲ代表セル外交官タルヲ自認。応召後二ケ年捕虜ノ為ニ盡シ真ニ捕虜ノ為ニ心血ヲ傾注セリトノ自信アリ」とくに「斯クスルコトガ君国ニ忠ナル所以ナリト信ジ居リタリ」と強調している。これを補足するように「多奈川分所に於テ余ノ指揮下ニアリシ捕虜ノ将校ノ大部分、下士官兵の或者ハ余ノ彼等ニ対スル誠心誠意の努力ヲ多トスル者ナルコトヲ確信ス」
と明記している。
 
以上のような経歴と思考から常に捕虜を守る義務の遂行に心を砕いてきたという倉西中尉。

 結論として「即チ捕虜ニ対スル軍上層部ノ無理解卜捕虜使用者一般民衆(中尉は民衆の全部をそうだといっているのではないことは、平素の行動、雑談の中で明らかだった) ノ不認識卜敵慨心トノ中ニ在リテ終始、捕虜ヲ保護シソノ生命ヲ防護シ来レル余ガ今、捕虜ニ虐待ヲ加ヘタルモノトシテ戦争犯罪容疑者ノ一人トシテ刑務所ニ拘留セラルルコトハ、全ク意外トスルトコロニシテ、又最モ遺憾トスル所ナリ」
と記述。矛盾への相剋(そうこく)と苦悩を浮きぽりにしつつ、憤りをこめて結びのことばとしている。

 蛇足だが、私は収容所勤務中、既述のような考えと行動を押し通した倉西中尉の方針に沿って、忠実に責務を果たしたと確信している。他の一部の職員から「分所長の私的スパイではないか」と陰口をいわれたほど、私の好意は分所長の指示と方針に忠実だった。いま友情を燃やす旧捕虜の人たちとの再会を熱望する気持ちが湧くのも、かつての忠実で誠意に満ちた行動があったからこそだ、と本当に嬉しく思っている。
 倉西分所長はまた、私の恩師であり、私を弟子とみなして職務の上でも捕虜たちの宣撫《せんぶ=注1》、保護苦情処理の役目をさせたのだと推測。忠実に〝先生″の意を体して行動した。それが結果として私の人間教育にもなって、戦後の戦犯容疑になるような行為もせずに職務を全うし、摘虜と友情をつづけることができるものだと信じている。


注1  宣撫=占領政策の目的・方法などを知らせて、人心を安定させること。
編集者
投稿日時: 2008-9-20 8:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・12
 これが巣鴨戦犯プリズンだ

 捕虜収容所長の獄中日誌(その1)・1

 大阪捕虜収容所多奈川分所長、倉西春次郎中尉が終戦後、巣鴨の獄舎に収容された五か月間のさまざまな辛い思い出、初の体験を日記に残している。後編はその「獄中日誌」でこの項は「その1」 である。
 「十二月四日 火曜日 小雨 19・30旅館(慣行社第一別館)を出る。大竹所長、長原大尉(付添)と僕と三名、20・32名古屋発東京行に乗車、Whiskyの為か良く眠る」
 日誌は、終戦の昭和二十年(一九四五)十二月五日、巣鴨拘置所に収容された日から書き始めた。
 文初の「十二月四日」となっているのは、翌五日、拘置所に入って記したものでこの日の欄外に「昭和二十年十二月五日巣鴨刑務所独房にて此の日誌を書き始める」とある。十二月四日は、GHQの呼び出しで巣鴨に向かった日だった。

 「五日 水曜日 晴 05・30東京駅着。(中略)…(第一復員省=元陸軍省=に寄り、大阪捕虜収容所長、村田大佐ら数人と準備されたバスで巣鴨拘置所へ)。玄関脇の室にて約三十分待たさる間、昼食の〝ト一口ク豆″〝ミンチ″を摂《と》る。14・30漸く呼び入れられ所持品検査。リックサック、トランク底迄覆《くつが》へし検査。全裸体にされポケットの中等隈なく検査。金は七百円余り所持し居たるを六百五十円取られ、六十円余り財布に残す。刃物、安全剃刀《かみそり》の刃迄リュックサックと共に預らる。其他全紐《ひも》類、カラーも引上げ。裸に紫色のガウン一枚渡され、之を着て身体検査、注射、種痘をやらる。バンドを取られし為ズボンずり下りて困るので引上げつつ、バラバラにされたる手持品を抱えて監房に連れて行かる。三階17号なり。三畳間、ドアと対して窓、天井より電灯一、机上にも畳にも埃白く溜り居る。机上に布団二、毛布一、タオル一、インクスタンド、ペン、便箋、封筒二 (American・Red・Crossと朱書せる洋封筒、陸軍と印刷された和封筒)」

 このあと入所第一日日の行動が詳述されている。「三時より体操とふれて来る。室の前に並ぶ。体操と言ってもビルディングの間の空地をグルグル歩くのみ。廻っておる中、峰本軍曹、竹中大尉其他大捕(大阪捕虜収容所のこと) の人々に逢ひ話しながら歩く。二階の窓より網の「中から荒木中尉、野須軍医等大捕の人々を覗きてうなづき合ふ。完全にPrisonerになり居る自分及旧知の人々を発見す。峰本によると階下には荒木大将、小磯大将、白鳥大使等も我々と同一監房に居らるる由。峰本は実によき話相手なり。17・30夕食。MPはChowと称してドアを開けて廻る。机上の丼茶碗《どんぶりちゃわん》と木碗《もくわん》と箸《はし》とを持ってドアの外に並び貰いに行く。飯とマカロニーとコーヒー1碗なり。各自室で食ふ。食後、食器を洗いに行く。鉄肋骨状の間から見える一階の伊藤、市川軍曹に話しかけて居るとMP来りて背を叩きNO・Talkingと叱る。夕食後机にもたれて日誌を書いて居ると心身共に疲れがわかる。二畳の狭い所に布団を敷き寝る。布団短く足冷え寝つかれず。注射の為か腕痛く頭も痛く熱出た様ですぐ眼覚める。夢ばかり見る」

 収容されて早々、旧軍首脳部の将軍連中とまったく同じ生活が始まったことに、世の様変わりを痛感した感想も見られる
編集者
投稿日時: 2008-9-21 9:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・13
 捕虜収容所長の獄中日誌(その1)・2

 「六日 木曜日 晴 (中略)…起きて掃除するが、白い挨が掃いても掃いても出る。昨日全ての衣類にふりかけられた殺虫粉だろう。朝食は馬鈴薯を潰《つぶ》したもの、Plumの砂糖漬け、固いパン一個、Cheese一片とcoffee一碗。便所腰掛けてするのは気持が悪い。扉の覗《のぞ》き穴から峰本が〝所長殿何うですか?″と言ってくれるが、所長殿と言はれ自分のことの様に思へない。(中略)午後の散歩で荒木大将、小磯大将、白鳥大使、葛生黒龍会長といった大物が大中尉や雇傭《こよう》人と並んでトボトボ歩いゐる姿を見た。皆カクシャクたるもので背も曲らず。
 荒木大将はピンとカイゼル髭を寒風にさらし、小磯大将はステッキを振り、葛生氏は白髪白髭を靡《なび》かせつつ悠々と歩くところは偉観である。流石だと思ふ。今日の新聞では梨本宮殿下の拘留期限延長願もマッカーサー司令部に於て却下され、巣鴨に来られて我々と同じ生活を送られるという由。畏《おそ》れ多いことだ。
 又今日のNippon Times には各捕虜収容所の所長、副官の出頭延期願も許されずとある。Lieuenan-Taijiro・Kuranishi of the Nagoya POW Campとして僕の氏名迄掲載。思へば僕もNotable Suspected War Crimin alになったものだ。General ArakiやGeneral Koiso、Ambasador Shiratori 等の名士と同様の生活を送るとは、全く夢想だにしなかった。戦争といふものは殊に敗戦といふものは大変化をもたらすものだ。英字新聞と日本の新聞をMPに頼み、支給してくれることになった。
 独房のみじめな暮らしと同時に、戸外運動の隙《すき》を利用して情報を得たいと、他の人のことばに耳を傾ける〝必死の孤独な戦い″が、始まった。

 「七日 金曜日 晴 10・00頃入浴があった。十人宛並んで行ふ。Bathは五つあり一つの浴槽へ二人宛入る。許された時間は二十分。その間に一週間分のアカを落し髭《ひげ》を剃り(剃刀《かみそり》はMPが貸してくれる) フンドシを洗濯。僕は大捕副官森本大尉と一緒に入ったが二人共肥った大男だから狭い浴室で困った。此処でも又囚人になったと云ふ感をさせられた」
 そして室に帰ってからの様子。「靴下とハンカチを洗濯。まだ汚れたフンドシと靴下があるが干す場所なく古新聞にくるみ戸棚といふか机の下に突込んである。風呂で大急ぎで洗った褌《ふんどし》と独房で洗ったハンカチ、靴下も随分苦労して干す場所を考えた。囚人を容れる為に作った此の室は物を懸ける所は一つもない。一本の針も一本の紐も見当らぬ。己むを得ず窓の鉄網に鉛筆とペン軸を差し込み之に引懸けたのである。所が風通しはなく日も当たらぬので乾くのに時間がかかる。午前中の洗濯物ハンカチが今(19・30分)漸く乾きかけた。靴下は二、三日かかろう。之が乾けば戸棚に突込んである褌、その他は今着ているシャツ、次は袴下《こした=ズボン下》という風に毎日少し宛洗濯しようと思ふ」

 つづいて「今日の散歩は昨日と場所が違ひ一つ棟を越えた(こんな棟がいくつあるのか知らぬが)向ふの空地で行はれた。多奈川の重井雇員も収容されていた。その窓下を通る度に一つづつ問ふて行く。始めは〝オゝ″と云ふ丈け。次は〝何日に来たか″その次は〝高木通訳はまだか?〟等と尋ねて行く。〝村田大佐は此の棟に居られるか″と尋ねると〝居られる、此の前の室だ〟と云ふ答。之にて一緒に来た所長達は此の棟の一階に居た事が判った。今日まで何処へ連れて行かれたか疑問だったのだ。まだ聞き度い事があるが既に時間が来てぐるぐる廻りは終り遂に尋ねられなかった。次から次へと此の刑務所は戦争犯罪人で賑はふことだろう。今日MPに歯磨粉を呉れと頼んで置いたら正直にライオン歯磨の紙袋を持って来てくれた。斯ういふことは几帳面である。便所には困る。腰掛けてするのは何うも思ふ様に出ない。
 何うも此処の生活は調子が悪い。英字新聞や家から持って来た Gone with the wind を読んだり隣室から借りる日本の新聞を見て居る中に時間が経つ。寒さも今は我慢出来るが、何と云ってもわびしい生活だ。食事以外は一杯の茶も飲めない。早く帰り家族と一緒に暮し度い。手紙の続きは明日書くことにして今日は之で寝よう。今八時」英語教師らしく目付け、天候などを英語で記すことも多かった。太平洋戦争開始から四年目の十二月八日の日誌はこうだ。「Dec・8th Surday Fine after-Cludy,Chilly 朝食後、doorの所で煙草を吸っていると向ひの橋本が〝何日迄かかると思ひますか〃と尋ねる。隣の西本曹長は〝昨日の新聞では戦犯が米国へ送られると書いてあった〃と言ふ。何日帰れるものやら全然見当がつかぬ。六日に書き始めた妻、ミネ子、兄に話す積りの手紙を刻明に書き足す。Lifeに自殺し損じた血まみれ白シャツで横はって居る東條大将の大写の写真や、栗栖、野村両大使がHull国務長官と並んで歩く大写真が Pearl Harbour の大見出しで載つている。今日は曇っていて手足がしびれるように冷い。独房は憂鬱だ。早く何とか解決がつけばよいと思ふ」


編集者
投稿日時: 2008-9-22 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・14
 捕虜収容所長の獄中日誌(その1)・3

 十二月九日には、収容されて初めて相当枚数の手紙、妻宛七枚、長女宛二枚、実兄宛五枚、友人宛二枚、計十六枚を一括、妻宛に出した。また、この日の新聞で山下泰文・大将がマニラ軍事裁判で紋首刑判決を受けたことを知り「山下大将自身、手を下したこともなく部下の将兵がやった残虐行為を見逃したというのだ」と特記している。捕虜収容所長として自分の立場に思いを馳せた不安がにじんでいるようだ。
 さらにマッカーサーの顧問格で首席検事到着の記事掲載あり。愈々裁判が始まるらしい。此の棟の各階からも毎日数名宛、召喚され取調を受けて居る。やがて僕にも順番が廻って来るだろう。大森収容所に居た東條大将等も此処へ移って来たらしい。何とか早く解決して欲しいものだ」とあり。戦犯容疑者として無実を誓う倉西中尉の痛恨の心情が手にとるようだ。

 この心情は十二月十一日の日誌でいっそう深刻に表現されている。「今日で此処へ来て一週間になる。手が凍へる。何ういふカドで逮捕されたか。何ういふ裁判を受けるのか。何ういふ判決を言渡され何ういふ結果になるのか全然判らぬ。不安が前途をおほい、心は暗澹《あんたん》たるものである。夜七時、何処かで監守のMPが口笛を吹いており鋭くこだまするのみ。森閑《しんかん》としてゐる。これ程淋しいことはない。(以下略)」
 さらにつづく。「一体自分は処刑になるとしたら刑期を終へて出た時何うして妻子を養へばよいのか。入監中、家族は毎月給与を受けられぬとすれば、僅《わず》かの貯金を生活費に宛てるしか方法はない。鳴呼《ああ》、敗戦。世界戦史にかつて見ざる敗戦。何故日本は戦争をしたのか。軍閥や官僚の好戦熱に煽《あお》られ、或は日本が戦はねばならぬ動かし得ない理由があったのか。判らぬ。唯召集で軍服を着、命ぜられるままに捕虜収容所の分所長として捕虜管理に当ってきた。陸軍大将や大使と同様に取扱はれる覚えはないのだ。捕虜管理には苦労した。捕虜や連合軍、マッカーサー、或はその家族から感謝されこそすれ、捕虜虐待者として拘置され裁判される理由は毛頭見出せぬ」
 独房の森閑とした淋しさ漂うなかで中尉は未来への恐怖と、過去の正義感あふれる人道行為が交錯して、憤りと正当な怒りが束縛された環境によって半ば愚痴ともなって爆発したのだ。
 その胸のうち…さぞ無念だったろう。

 十二月十三日には、ニッポンタイムス紙で梨本宮が前日、A級戦犯として巣鴨拘置所に拘留されたことを知ったと記している。「(中略)Prince Nashimo was brought to the prison by a representative of the Liaison Office. Dressed in a Japanese army Overcoat and cap, the mustached prince seemed resigned to his imprisonment.(中略)同紙は又安藤紀三郎、笹川良一等も巣鴨に拘引された事、及び本間雅暗中将が昨日、巣鴨を出て厚木飛行場からマニラに向った (同地で裁判のため) と報ず」
 同十五日の日誌。「今日の新聞には愈々十二月十七日から横浜で裁判されるとある。捕虜虐待の為に告発された五名の名あり。此の五名は夫々捕虜の一名を虐待死に至らしめたと調書に出て居る。一体自分は如何なる理由で容疑者となったのか。そして何の位のrankingなのか。早く知りたい。此の五名とも部下の残虐行為を黙認したのが告発の理由の一に数えられている。…(中略) 昨晩、東條大将は自殺を図ったが未遂に終ったと、浅川が覗穴から知らせてくれた。big news である。今日も便通なし」 とある。

 翌十六日からは新聞が見られなくなって、時間を過すのに困るようす、寒さのやりきれなさなどが、切々と述べられている。十七日の日誌には、底冷えを訴え、えり巻をしオーバーを着用、敷ぶとんの半分を椅子兼用の便器にかけ、半分を延ばして掛けぶとんを二つ折りにして敷き、その上に座って毛布をひざにかける。掛けぶとんの余った端を毛布の上からひざにのせ、片手を毛布に突っ込み、片手で本を持ち読書するという、苦心の防寒風景の描写も。「それでも手が冷え、今朝指が凍傷にかかっているのを知り手袋をはめて本を読む」とある。「寒くて仕方がない時はすぐ寝る。MPが消灯すると眠くないのに眠り、寒くてすぐ眠が覚める。それに空腹にはまいる。食ってしまえばすでに空腹となっている。飢えが如何に苦しいのかわかる」 ともある。


編集者
投稿日時: 2008-9-23 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・15
 捕虜収容所長の獄中日誌(その1)・4

 十九日には 「岡田少尉が漏らしてくれた」 として
 ▽近衛公の青酸カリ自殺
 ▽戦犯容疑収監者の給与がマッカーサー指令で差し止めになったこと
 ▽銀行預金も引き出せないこと
 ▽十二月十五日以後支給された給与は返却を指示されたこと
 ▽木戸候、大館・東京市長、鮎川義介各氏が同じ棟の地階に収監されたことなどを記載。  
 「僕の心は暗澹《あんたん》たらざるを得ない。終戦以来、情報局長等が収監者家族には応召者と同様、留守宅渡しで給与を支給し、萬一の場合は戦死者と同じく扱ふ、と云って居たことは単に宣伝、気休めだったのか。家族が飢え死にする。考へると肌に粟を生ずる。みどりは兄宅へ行っても兄嫁が快く迎えまい。一年位は貯へで食へるがそれから後は?」-悲惨な思いだけが中尉の脳裡をよぎるのは当然だったろう。
 捕虜に対して良心の限り行動した中尉。いまこの拘置所で受ける諸々の処置が〝かつて捕虜を擁護《ようご》してきた者への対応なのか″と嘆き、怒る文字には涙する思いだ。

 「十二月二十日 木曜日 晴
 手がしびれる様に冷たい。夕食はうどんが丼に三分の一しかない。やりきれぬ。空腹の辛さ。我々は捕虜にもっと食はせた。食はせる為にどの様に苦労したか。捕虜に食を与へ衣を与へ少しでも楽にとしてやる為に、そして生命を完うして故国へ帰してやる為、二年間休日もなく努力し続け聞き続けて来た。その結果が今日の有様だ。一体自分の何処が戦争犯罪人だ。捕虜の虐待とは反対に擁護者ではないか。(中略)…敗戦、勝てば官軍敗くれば賊。正に其の通りだ。
 いや誰も怨《うら》むまい。たゞ運命に黙々として忍従するのみ。アメリカ兵は笛を吹き大声で談笑ふざけ散らしている。(以下略)」
 こうした空気の中でも、看守のMPに従って各独房の破損個所を聞いてまわる労役をした。
 その看守はよく肥えた二十歳くらいの若い一等兵。つねに口笛を吹き、「ナイスー、ゲイシガール」と独りごとをいう男。だがそんな男でも仕事には厳格で、例えばインクがないと被収容者が訴えても、インクスタンドに少しでもインクが残っていると注ぐことを許さない。「一見呑気に見えても自分のdutyには忠実だ。上官が見て居ても、居なくてもその態度は変らない。恐らくこの調子でB29の上でも口笛を吹きながら忠実に日本を爆撃したのかも知れぬ。面白い国民だ。恐るべき国民だ。彼等が日本人の様にシャチコバッテ居るのを見たことがない」と、鋭い観察記も。

 収監されてすでに二十日が経った。十二月二十五日はクリスマス。二十四日のイブから当日にかけて拘置所内はアメリカ兵の歌声、喧騒《けんそう》がつづいたが、眠れないうえに寒さと極端な空腹で、その声は「地獄の鬼どもの声の如く耳につく」「経って行く一刻一刻を、散歩で踏みしめる一歩一歩を、此の苦しみ、此の残虐を脳裏に深く刻みつけて置こう」
 「空腹にこたへて踏める凍土かな」
 「凍土を歩む将軍遅れ勝ち」
 「凍傷を凝《じっ》っと観《み》入ってひもじさよ」


編集者
投稿日時: 2008-9-25 7:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・16
 捕虜収容所長の獄中日誌(その1)・5

 十二月も終りごろには、手の凍傷がだんだんとひどくなって、かゆく痛く、眠れない日がつづく。このころ、一週間前に出したはずの家族への手紙が「多すぎる」とつき返され、あらためて紙数を少くして出すという、泣くに泣けない情ないハプニングもあった。こんなことも重なって、折りにふれ、捕虜の為に真面目に努力したのに、罪人としてあらゆる自由を束縛し、家族を飢餓に追ひやって見殺しにするとは、何ういふ《う》ことか。戦争とは何か。一体誰が責任を負ふべきか。この点を深く考へて見ねばならない」と記す。
 「寒燈《注1》や泣かんとすれど涙滑《すべる》る」

 十二月二十八日には「一番に裁判を受けた五人の中、東京の軍属に遂に終身懲役の判決あり。
 此の判決は現在此処に拘置されて居る者の心を可成り暗くした。僕は心を暗くすることはないのだが。それでも理由もなく心を暗くする。此処に来てからはたまらなく妻の緑と娘ミネ子の二人の事が想はれる」と。

 「十二月二十九日 土曜日 晴 (中略)…今日此の階の小林といふ通訳に多奈川で撮影した所員の写真を示し、同通訳が多奈川に居たか否かを尋ねたとの由。察するに小林一雄が僕の為に特別弁護人に立つと言って呉れた事は塔本先生から僕の入所前に聞いてゐた。其の事に関連して同姓の小林通訳を呼んで聞いたのだろう‥・(以下略)」
 さらにつづけて「とにかく何か自分を調査してゐるとすれば裁判も近く、釈放も間近い気に誘はれる。(中略)…獄中では読書以外にPleasureもRecreationもない」三十日の日誌には、〝古嶋中尉〃の死刑求刑を知り、温厚、君子の如き彼の求刑を聞いて驚いたようすがうかがえる。そして「捕虜虐待関係の戦犯裁判には我々の常識では判断が出来ない。…(中略)然し自分には罪に値する何があるか。俺は厳然と言ひ放たう。捕虜を防護して休みもなかったことを、具体的にあくまでも強調する積りだ。…(中略)祈る思ひで返却された妻子への手紙を出す。手紙一本は之ほど重大な家族と自分をつなぐ唯一の血管である」と結んでいる。

 大晦日。十二月も三十一日となった。「此の三階へも新しい人が次々とやって来ては、何日とはなく何処かへ移って行く。一部峰本軍曹の如く二階や一階へ移った丈の者もあり。判決を受けた者もある。(中略)…求刑や判決を観ると前途は楽観を許さぬ。残った者は夫々に想像を逞うして暗黒の前途に一縷の光明を求めんとしてゐる。皆家に親あり妻子あり。歴史的な昭和二十年を獄中に送り、明日は新しき昭和二十一年。一九四六年を獄中に迎へるべく運命づけられた数百名は夫々独房の中に感慨を深くしてゐる。(以下略)」
 「(中略)…肉身の情、恩愛の絆、生への執着、簡単には断ち切れぬ。しかも己の罪の全然無いと信じる僕等の場合に於てをや。  我々以外に罪ある者は幾らもある。‥・鳴呼《ああ》一九四五年、世界戦史の前例無き敗戦。日本歴史始まって以来の国辱の年は、幾百幾千萬の民を衣食住なき悲惨の底に突き落し、罪なき者を絶海の孤島に置去りにし、大陸の山奥に彷徨せしめ、獄中に呻吟せしめて暮れんとはする。噂くに涙なく、呼ぶに声なく、只黙として運命の神の命にのみ従ふ」
 「大歳の壁に対坐し身じろかず」
 「歳末や送らん術《すべ》なき憤り」  「ゆく年や誰にともなき憤り」
 「寂しさに妻子の名をも呼びて見つ」
 「瞼なる妻子の姿 年暮る」 結びの歌である。
 何ともならぬ身の怒りの中に、焦燥と不安、淋しさにひたすら妻子を思い、一縷(いちる)の光を求めつづける獄中の倉西中尉。いや獄中につながれ、罪なきと神に誓った人びと一戦争とその悲惨さをつくづく考えさせられる。

注 寒灯かんとう=季語 寒い夜のともしび

編集者
投稿日時: 2008-9-26 8:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・17
 捕虜収容所長の獄中日誌(その2)・1

 倉西中尉の巣鴨・獄中日誌「その2」は終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)元旦から始まる。
 「ゲッタップ(起きろ)」「レッツゴー(行こう)」-新年とはいえ、いつものようにアメリカ看守衛兵のカン高い声と各房の扉を叩いてまわる騒々しさで朝が明けた。同僚の収監者のなかには独房を順番にまわり、なかには箒(ほうき)を持って来てくれる者もいる。「朝食前に新年の拝礼式がある。掃除を急いでくれ」といずれも親切に知らせてくれる。「今日は元旦、年が明けたんだなあ」と感慨にふける間もなく、歯ブラシをくわえたまま、三畳の独房を掃除し、顔を洗い、大急ぎで扉の外に出た。
 会う人ごとに互いに「新年おめでとう」とあいつさつを交わす。なかには三階にある六十余の独房を一つ一つまわって新年のあいさつをする人もいる。「橋本」や「西本」は、いつもとは違う背広姿。〝自分″だけは入房した時と同じ垢のついた薄汚れの軍服姿のまま。しかし、こうしたあらたまった服装やことばのやりとりの一つ一つに「ここにも新年の新たな気分がただよって、いつもとはひと味違う朝を感じた」と記している。

 「昭和二十一年一月一日 火曜日 快晴 (中略)屋上へ通じる階段を盛んに人が上って行くので、屋上へ行くのを許されたのかと人々に従って上って行った。〝富士が見える/〟といふ声が次々に起る。
 狭い階段を上って窓から西南方を見た。見える、見える。富士が暁の日光を浴びてくっきりと真白な姿を箱根辺りの山脈の上に浮き上らせてゐる。箱根連山まではむごたらしい東京の焼跡である。所々に煙突や鉄筋コンクリートのビルの一部が聳え立ってゐるのみで他は焼跡の瓦礫《がれき》の堆積《たいせき》が見渡す限り広がってゐる。
 元旦の富士、獄窓に観る富士、累々《=つらなりつづく》たる大東京の焼跡の荒野の果に白妙の《しろたえの注1》麗姿を現はした富士。実に国破れて山河あり。人間の世の有為転変《ういてんぺん注2》を他所に悠久の自然は千古不変である。神々しいその麗容。日本は破れた。然し乍ら美しき日本の土-自然は永久に敗れない、否、大自然に勝敗はない。人の世の悲喜哀楽、幸不幸、生死盛衰、興亡を外所に、無限の過去より無窮《=かぎりのない》の未来に連なるもの之大自然である」一気にペンを走らせている。

 元日に獄窓から眺めた富士に、中尉は「時空を超越したー神にも非ず、真理にも非ずー偉いある物の存在を感得した」と述べている。さらに 「戦争に敗れた日本だが日本そのものは滅びたのではない。富士が厳として聳える限り日本は厳として存在すると感じた」とも。敗戦で打ちひしがれた日本の国そのものはまだ生きつづけており、〝生命の喜び″と〝未来への勇気″を富士山が与えてくれたことに感謝したい気持ちだったのだろう。獄窓から眺めた富士の絵をペン書きしているのが印象的だ。
 この日のペンはまだまだつづく。「廻礼に廻ろうか何うしようかと遅疑してゐる所へ真崎(甚三郎) 大将が自ら頭を下げて 〝新年御目出度う″ と廻礼に来て下さったのには恐縮した。
 富士を見た後、式のため廊下の両側蛇腹を隔てて二列に整列した。と小林といふ善通寺の何処かの通訳(二、三日前、多奈川の小林一雄通訳と間違へられて取調を受けた通訳)が、借越ですが私が音頭をとりますからとか、何とか云って変に講釈交りに宮城遥拝、黙祷をやる。何故、真崎閣下か誰かにやって貰はないのかと思ひ、遅れて入所して来てから出しゃ張り通しの此の短躯の通訳に反感を持ち多少不平だった。と蛇腹を通して見る二階では小磯 (国昭)大将が太い腹の底から出る落着いた声で式を主宰し、厳粛な拝賀式をやって居る。三階の者も皆沈黙して二階の有様を見てゐる。僕等も真崎閣下に主宰して貰へばよかったのにと異口同音に云ひ合った。後で閣下から一言挨拶か訓示でもして貰ひ度かった」とある。

 元旦の朝食メニューは、餅三切れ、大根、白菜に鮪 (マグロ)一片の入った雑煮、煮つけの鯛一尾、ゴボウ、ニンジンの煮しめ、白菜の漬けもの、ミカン五個。
 「なかなか立派で豪奢な献立。マッカーサーもよく気をきかしたものだ。之丈けの物を集めるには相当骨が折れた事と思ふ。一人当り二十円はかかっただらう。鯛も大きな物で地方で買ふと五十円はかかるかも知れない。刑務所で之丈けの正月祝膳につけるのは有難かった。後からコーヒ1杯、平常最も八釜しいので皆から嫌はれてゐる看守も今朝は文句も云はぬ。先刻から朝食前後まで約二時間、扉の外で皆の顔を見乍ら小言ではあるが話が出来る事も有難い」
 そして「クリスマスの翌日辺りから-火を入れたストーブ---一階にあってその煙突が二、三階の蛇腹から天井へ抜けてゐる---の御蔭で廊下も余り寒くない。いつも不平顔の我々も今日は皆満足さうな顔。斯ういふ事では米人はなかなか気がきいてゐると言ふか抜け目がないといふか、外交家といふか、実にうまいものと思ふ。我々も捕虜を取扱ふ時此の心構えが少し足りなかった様に思ふ。大いに学ぶべき点だ」と卒直な感想と反省も。
 しかし、軍事裁判の進んでいる拘置所の陰鬱《いんうつ》さは同じだった。「この日も二階の野須軍医(大阪捕虜収容所勤務。逃亡捕虜タイラー事件に登場)が〝倉西さーん″と再三、呼び、何やらいい始め、毎日のしつこさだけにナマ返事をした。余程、多奈川の事が気になると見える。(中略)峰本は峰本で二、三日前の訊問以来、血相を変へ盛に二階から僕を呼び訴へてゐる。今になって騒いでも仕方ない。僕は僕として言ふべき事を堂々と申立てるまでだ」
 一方、以前入浴した時に火傷(やけど)したヒジが化膿しアメリカ軍医に、指の凍傷とともに治療を受けたこと。運動時間に大阪捕虜収容所長の村田大佐が裁判のため(証人に立つためか?)房を出たこと、などを記録。「新しい年になり、今年は良い事もあるだろう。暁方に見た富士が未来光明を象徴する如く脳裏に刻みつけられた」と結んでいる。

注1 白妙の=麗姿(うるわしい姿)にかけた枕詞
注2 有為転変=仏語 常に移り変わっていくはかないものである


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投稿日時: 2008-9-27 8:20
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捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・18
 捕虜収容所長の獄中日誌(その2)・2

 四日には、拘留後初めて妻子の手紙を受け取った。「肉声を聞く様で嬉しい」「要領を得ないものだが兎に角身体丈けは達者で母子二人で淋しく暮してゐる様が髣髴《ほうふつ》と覗はれる」と、残した家族からの待望の手紙を見てホッとし、小踊りする喜びようが手にとるようだ。また、この日久しぶりに年末から新年にかけての新聞が配達され、寝るまで眼を釘づけにしてすみからすみまで読んだ。近衛公自殺の顛末《てんまつ》、歳末風景、強盗殺人など凶悪犯罪が横行している巷、占領軍の明るいクリスマス風景、闇市の盛況-など。インフレと食糧難で社会が不安と混乱の渦中にあることも知った。「永らく世と絶縁されて居た堰《せき》が切って落され溜ってゐた水が流れ出す様に息もつかずに読んだ」
 そして「危機に立つ日本の姿は史上例を見ない深刻悲惨なもの。独逸《ドイツ》、伊大利《イタリヤ》と日本は同じように悲惨の極にあり、僕も其の悲惨のどん底に居る者の一代表者である」と記している。自分自身を真剣に見つめ、独房につながれた悲しみと惨めさに耐える姿を浮き彫りにしている。

 六日の日誌-新聞で〝好ましからざる人物″の公職追放をマッカーサー司令部が指令したとを知った、とある。なかでも戦犯はその筆頭で、自分も釈放か無罪にならない限り現職(教師)で生きていけないと心痛。それでも無罪を確信している、とペンを走らせている。
 最後に「しかし万一の場合を考え
 (一)郷里で兄から田畠を分与して貰ひ農業に従事
 (ニ)英語を武器に都会で就職
 (三)縁故を辿《たど》り会社就職を考える外はない。何とかなるだろうか、前途は暗澹《あんたん》たるものだ。独房でくよくよして居ると気が狂って了ふ」。悲痛な思いが伝わってくるようだ。

 「七日月曜日寒気厳し米軍の監守は我々を呼ぶのにHey!と呼ぶ。軽蔑《けいべつ》した言葉だ。情ない気持になる。(中略)捕虜虐待の戦犯裁判報道が米国流に写真つきで大きく新聞に載っている。社会輿論も昂ってゐるらしいが、裁判や判決に対して心の中で批判してゐても紙上には現はれてゐない。ただ土屋(注、中尉の同僚か)に同情的な投書が読者に見えてゐる。〝只管上官の命令のままに行動した土屋をああいふ破目に陥《おとし》れ、命令を下した軍上層部は何ら救済方法を加へて居ない″といふ日本軍の支配層、職業軍人への非難である。此の点我々分所長以下の戦犯容疑者にとっても同様だ。(中略)このままでは家族は見殺しだ。同じ戦犯容疑者でも戦争惹起《じゃっき》、推進、敵味方何百萬を殺傷したAB級戦犯人と、吾々命令のままに動いたC級戦犯(捕虜管理に周囲の無理解と敵意の渦中で人道的に処した)とは、比較にならぬ相違がある。此の相違への一般国民の理解の欠如は実に無念」

 八日には「横浜の軍事裁判で由利中尉に絞首刑判決と新聞報道、又何をか言はん。(中略)今日は米陸軍長官パッターソン氏、当拘置所を巡視。廊下を十数名がぞろぞろ通って行った。覗き穴から見ると写真機を掲げた者等が通って行った。マッカーサー元帥も来たのか何うか判らなかった」


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投稿日時: 2008-9-28 8:01
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投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・19
 捕虜収容所長の獄中日誌(その2)・3

 逃亡捕虜タイラー事件の第一回尋問は十一日に行われた。この日の日誌は次のように述べている。いつか、いつかと半ば恐怖の心で待っていた尋問だった。
 「(中略)本日初めて訊問。九時半MPに後方より監視され訊問《じんもん》室に入る。此処は独房と対照的にスチームにて春の如く曖い。訊問要点及返答次の如し。

 間〝何日カラ何日マデ多奈川分所長デアッタカ〃
 答〝一九四三年八月十八日ヨリ一九四五年二月初迄〃
 間〝羽間少尉トハ何日交代シタカ〃
 答〝一九四三年八月十八デアッタ〃
 間〝所長トナッテ間モナク逃走事件ガアッタダラウ〃
 之ヨリ、タイラー逃走事件ヲ中心トシテ逃走ノ次第等ハホンノ形式的ナ質問ダケ。其後ノ処置ニツキ詳細ナル質問アリ。
 余ハ堺ノ自宅ニテ八月二十八日(一九四三年)朝八時頃、峰本、市場ヨリノ報告デ大阪本所ニ至リ吏二伏見ノ所長二会ヒ報告。夕刻六、七時頃多奈川分所二帰リシ事、多分峰本卜共二帰リタル様記憶。多奈川二帰リシ時ハ本所副官金田大尉ガ既二来所、本人訊問、実地検証等ヲ済セ、タイラーハ既二宮倉二入り居夕事。分所二帰着後直チニ営倉二行キテタイラーヲ見夕事、後タイラーヲ事務室二呼ビ訊問セリ。更二夜分所出ル前タイラーノ状態ヲ見二行キシ事。分所ヲ辞スル際タイラーニ手ヲ加ヘザル様厳命セル事。タイラーガトラックニテ分所ヲ去リシハ二十九日早朝ナリシヤ三十日早朝ナリシヤ記憶明カナラズ事。其ノ時トラックニ野須軍医、川原傭人居リシ事。自分ハトラックニ上リタイラーヲ見シガ、彼ノ意気消沈シアリ。傷痕ナシ。血モ流シテ居ラズ。金田大尉ノ指示デ彼ノ食事ヲ与へ、営倉鍵ハ営兵司令官ガ所持、峰本ハ営兵司令官ナラザリシ事 (後略)。
 (中略)タイラーヲ殴打セルモノナキヤトノ間ニ、捕縛セシ時或ハ殴打セルヤモ知レズ等ノ事ハ捕虜将校ヨリ聞キシ事。マタ「通訳ガヨリ殴ルトイフ事、市場ガ将校ヲ殴ッタ事ヲ聞クト答フ。Tハ会社側二話シヤメサセヤウカト思ッタガ食糧金銭等ノ寄付等、会社側ノ援助ヲサスノニ必要ナ人間デアルノデ、Tニハ注意シソノママニシタ事等ヲ答ヘタ。約二時間、十一時半終ル」
と締めくくっている。覚書(既述)と同じ内容を丁寧に答え、厳しい最初の尋問をきり抜けた様子がわかる。

 「一月十二日 土曜日 晴 寒気強し 朝水道凍って水出ない。新聞が、昨日、古嶋君終身懲役の判決言渡を受くと報ず。判決を聞いて落涙してゐたと出てゐる。古嶋君の胸中察するに余りあり。古嶋君の妻君も法廷傍聴席に来て居たらしい。夫人は感動の色を現はさなかったと出てゐる。恐らく茫然として為す所を知らなかったのであらう。裁判の最後の二日には必死になって無罪を主張し検事の痛烈な論告に抗弁したらしいが、会社側、地方-船津町長等の証言も彼自身の証言も何等効を奏せず、遂に終身刑判決となったとある。之で昨年十二月十七日以後行はれた三つの捕虜虐待軍事裁判で、第一、土屋(東部軍)は終身苦役、第二、由利(九州)は絞首刑、第三、古嶋(東海)は終身懲役と決ったわけである。明日出すべき緑、ミネ子宛手紙を書く」
 捕虜収容所関係者の戦犯裁判は、短期間に相次いで判決を終り、予想外に厳しい結果だったこと。さらに拘留後の自分は一回だけの公判前尋問を受けてまったく放置されたかっこうであること。これらの状況から中尉の心をますます不安に駆りたてていくようすが手にとるようにわかる。〝独房の戦犯心理″-それも神に誓って身に覚えがないと確信する罪状容疑でつながれた中尉だけに、憤りと不安、情なさが複雑に入り交り、狂いそうな気分の獄窓生活に耐えている姿が瞼に浮かぶようだ。


編集者
投稿日時: 2008-9-30 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・20
 捕虜収容所長の獄中日誌(その2)・4

 十三日の日誌には「数名の者は既に釈放され帰って行きしとの事、羨《うらや》ましき限りなり。三食共代用食にて空腹。幣原内閣は改造に決した由 伝ふ」とある。ここでも独房生活のいたたまれない焦燥感がにじみ出ている。〝仁の人″と捕虜からも慕われていた中尉だっただけに、余計に気の毒だ。
 そんな環境と心理状態の拘置所暮らしだけに、家族から待望の差し入れの小包が初めて手もとに届いた時の嬉しさは格別だった。

 「一月十四日 月曜日 晴 毛布と靴下、足袋到着。待つこと久しき小包である。MPが見覚えのある赤い木綿の風呂敷包を持って扉を開けて立った時は流石に嬉しかった。早速布団の上に敷いて折り曲げて膝に掛け座って見た。暖かった。柔かった。夜も之で暖かく眠れる。寒さの為眼を覚すことも少なくなる。ぢっと座って思はず泣けて来た。靴下も昨日洗濯した時踵の所に穴があいてゐたので困ったと思ってゐたら、今日送って来た。しかもスキー用の厚い毛の奴。誠に有難い」

 翌十五日の日誌には、待望の送られてきた毛布にくるまって寝た 〝昨晩″ は、初めて熟睡できたと記録。「一枚の毛布でこんなにも違ふものかと思った。嬉しかった」 とある。
 さらにつづけて 「今日此の棟の各階から各十名宛第二号舎へ移転した。移転の理由ははっきり判らぬが大体、訊問された者は移って行くらしい。二階に居た野須軍医や羽間中尉も移って行った。僕も一回訊問が済んだから今度あたり移されるのだと思ふ」

 「一月十六日 水曜日 晴 (中略) 十一日に一回訊問があった切り、後でまたやると言はれたきり今日まで何ともない。気懸りだ。(中略)僕の次に調べられた広島の森といふ人は大分あせって居る様だ。夜も眠れないと言って飯を残して捨ててゐるのを見た。勿体ない事をする人だと思った。僕なんか食っても食っても空腹で困るのに。
 煙草が欠乏して来た。金鵄は二十一本残ってゐる。節煙して之丈は最後迄残さうと思ふが自信は持てない。先週火曜日に入浴してから丸一週間垢を落さぬので身体が汚れて来た。襦袢《ジュバン=肌着》等の洗濯せねばならぬが、入浴した時でないとやる気にならぬ。凍傷が快くならぬ。右手が左よりも悪い。五本の指が腫れ上って温まると痛がゆくてたまらぬ」

 十七日には、新聞で北海道・室蘭の平手分所長の裁判が始まったこと、九州・大牟田の福原分所長の裁判が開始されることを知った、と記述。「昨日と今日、夕食に吊柿をくれた。甘かった」とある。

 その翌十八日の日誌。「新聞に依れば津田傭人、次の裁判に廻る由。余も証人として立つ事と思はる。分所長、峰本、市場等の下士官を措きて津田が最初に裁判さるるは如何なる理由にや。解し難し」 テンポの早い戦犯裁判の進行の中で、日ごとにつのる〝わが身の不安″と〝旧部下への気遣い〟がにじみ出ている。壁と天井と鉄柵の小さな窓と対座する独房の暮らしが、いつまでつづくことか。〝恩師〟でもあり〝上司″でもあった中尉の、温顔にひそむ苦悩が伝わってくる。

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