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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ)
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編集者
投稿日時: 2008-7-15 7:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・11 (林ひろたけ)
 朝鮮人が日本人学校に転校してきた・3

 四年生になると教育勅語と天皇歴代一二四代の暗唱があった。もちろん三年生の私たちはこれから覚えることになっていたのでまったくおぼえていなかった。しかし、椙山君と新井君はふたりとももうすっかりおぼえていた。修身の時間に新井君が教育勅語を暗唱してみせた。つづいてそれに負けじと椙山君が天皇陛下一二四代の暗唱を 「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく」 とはじめて、いつ終るかわからないほど続いて 「孝明、明治、大正、今上陛下」 と暗唱しおわったとき先生は 「よくできました」 といったがすこしおかしな顔をした。多分よく覚えていると感心しているのだと思った。
 四年生でもまだ覚えていないのに二人とも三年生で全部暗唱できた。順ちゃんも洋武もひとつも覚えていなかったので、先生も暗唱などできないことを分かり切っていたのか指名しなかった。
 ある時、順ちゃんと私は先生のところによばれた。先生は 「椙山君も新井君も同級生が百名もいる普通学校で一番できる子だから算数は君たちも負けると思っていたが、国語まで半島人にまけるの」といって漢字のテストを返してくれた。その頃一年生ではカタカナを習い、二年生になってひらがなを習い、漢字を習うのは二年生の終りごろからだった。漢字の試験も三年生になってはじまった。
 椙山君も新井君も百点だったが、順ちゃんが九五点、洋武は八十点だった。「武ちゃんは自分の字もかけないの。太平洋の洋の字がまちがっている」。洋の字の羊の方に先生は赤インクで大きく一本線をいれて 「半島人に負けるなって」 と自分のことのようにくやしがった。正直いって私も悔しかった。「日本人は一等国民、朝鮮人は四等国民。だから日本人は朝鮮人よりえらいんだ」とくり返し教えられていた。いくら普通学校で成績が良くても日本人なのに朝鮮人に負けることは耐えられなかった。
 新井君や椙山君と仲良くなって聞いた話しでは、二人とも、三才の時から塾に行って、漢文と日本語を勉強していたことを知った。これでは日本人の子供が成績で負けてもしかたないなと思った。末永先生が考えてたのと違って、新井君も椙山君も漢字や歴史はものすごくよくできたけれど、算数は順ちゃんや洋武の方ができがよかった。
 あるとき 「大きくなったら」 という授業があった。「ぼくは大きくなったら海軍兵学校いって手柄をたてて、海軍大将になります」。私は元気よく答えた。学校に上がるまでわが家にあった数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章つけて剣下げて。お馬にのってハイドードー」 という歌があった。そして軍人になるのなら海軍に行くことにしていた。めった誉められることない洋武だったが、このときばかりは 「しっかり勉強して海軍兵学校に合格してください」 とほめられた。順ちゃんは 「ぼくは大学にはいって博士になります」 と答えた。先生はにこにこしていた。椙山君は 「満州軍官学校にいって満州国大将になります。」 と答えた。新井君は「平壌医専にいってキム先生のようなお医者さんになります」 と答えた。先生は 「キン先生でしょう」 といいなおして注意した。新井君はお医者さん希望だった。順安にはキリスト教の病院が撤収になった後、唯一のお医者さんが 「金医院」 を経営している金先生だった。当時の朝鮮では伝染病が周期的に住民を襲っていた。洋武が学校に上がる前年の夏、林家の兄弟は次々にパラチフスにかかった。ちょうど浪人して夏休みで朝鮮に帰っていた俊雄を先頭にパラチフスのため、座敷には、枕を並べて寝込むことになった。幼少だった洋武の病状はもっとも重く長く寝込んだことがあった。金先生は毎日のように通ってくれて兄弟たちの病気を治してくれた。洋武は扁桃腺も弱く毎年冬になると扁桃腺をやいてもらいに通った。兄和雄は肺結核の療護を自宅でしていたので、やはり金先生のお世話になった。いつもにこにこしていてやさしい先生だった。ただ日本人からはお金をたくさん取るんだとハナがときどき笑っていた。その先生は金という姓にこだわっていたようだった。
 ハナも 「金先生も下に山とか田とかつけてくれるといいのにね」 といったことがある。朝鮮人に日本名を名乗ることが強要されて、金という姓の多い朝鮮の人は下に山とか田とかつけて金山とか金田と名乗る朝鮮人がおおかった。日本名に変えない金先生には日本人社会では批判があったようだった。朝鮮読みではキムといい、日本読みではキン先生だった。その金先生も昭和一九年を過ぎると星という字を下につけて金星医院となのった。金星医院になってからも日本人は読みにくかったのだろうか、キンセイ先生とはいわずにキン先生といった。
 椙山君も新井君も漢字とか歴史とかとてもよくできた。つづり方ではまだ私たちが習っていない漢字もどんどん使った。「僕」 という漢字を使っていた。椙山君はかけっこも早く私もかけっこでときどき椙山君にまけることがあった。そんなとき、順ちゃんは「ぼくのお父さんは椙山君や新井君たちが転入してきたとき、朝鮮人だからといって馬鹿にしてはいけないよ。立派なお友達だからといわれたんだ」 とそっと教えてくれた。
 大人たちの思惑にもかかわらず、私たちはすぐ仲よくなったし、またけんかもした。
 あるとき、新井君と椙山君がけんかをした。原因はなにかよくわからなかった。二人とも朝鮮語をまじえてけんかをしていた。その時、新井君が「それなら警察にいこう」といった。椙山君はみるみる萎えてこの一言が最後のとどめになった。これには順ちゃんも洋武もびっくりした。朝鮮人の子供達には警察と言うととても恐ろしいところだった。子供達が「警察にいこう」というのは最後の脅しだった。日本人の子供にとって警察は身内みたいなもので恐ろしい存在でもなかったし、警察署長さんは日本人で洋武たちは小さな時からよく警察署にお使いに行かされて、ついでに遊んできた。まだ、学校に上がる前、お使いで警察署にいき、おまわりさんの椅子にすわっていたら、若い朝鮮人の青年たちが数人縄で数珠つなぎになって警察に連れてこられた。
 「あいつら、神社の前でお辞儀をしなかった。だから署長さんから叱ってもらうんだ」 と朝鮮人のお巡りさんが教えてくれた。警察では署長さんは日本人だったが、朝鮮人のお巡りさんのほうが多かった。裏の道場の方から悲鳴が聞こえてきた。朝鮮人の若者達が鞭で殴られていたようだった。朝鮮には苔刑というのがあって天皇陛下に従わない人達は懲らしめに苔刑が繰り返し行われていた。朝鮮人にとって警察はとても怖い存在だった。それからも椙山君や新井君とけんかになったとき、「警察に行こう」 といわれるたびに 「いいよ」 と答えた。その脅しの効果がなくなると悔しそうにしていた。
 順ちゃんと洋武たちは、新井君の家にも椙山君の家にも遊びにいった。新井君の家は順安の一番南の方にありすこし遠かった。家でもまったく日本風でお母さんも上手な日本語を話した。しかし、家は朝鮮風で、林家が住んでいる館北里の朝鮮家屋とは全く違って大きな家だった。屋根は瓦葺で瓦の間に白い漆喰をはさみ、軒が大きくそっくり返ったいる伝統的な朝鮮風の家屋だった。そしてカギ状の建屋に部屋がたくさんあって中庭もある立派な家だった。新井君の家にはおじいさんがいた。おじいさんはあごに白いひげをたくわえ白い服をきて机に向かっていた。部屋のなかには漢字ばかりある難しそうな本が一メートルもの高さにも平積みしてあった。おじいさんは「よく来てくれたね」と歓迎してくれたが、洋武たちには近寄りがたかった。中はオンドルと板の間と子供部屋もあり林家より大きな家だった。板の間には椅子と机があって、まだ珍しかった洋風の部屋もあった。和雄兄さんは「あれが朝鮮の典型的なヤンバンの家なんだろうね」と新井君の家のことを評した。
 椙山君の家は、砂金会社の社宅の一軒をオンドル付に改造して面長公舎にしていた家だった。
 その社宅はわが家から順安神社をはさんで反対側の山の中腹にあったが、砂金会社でも所長さんなどえらい人が住む社宅に並んでいた。椙山君の家はおかあさんも日本語はたどたどしかったが、私たちが遊びに行くと家でも日本語で話していた。兄弟もどちらかというと朝鮮風だった。
 順ちゃんと遊びにいったとき、お母さんから「ご飯たべたか」と聞かれたので二人とも「まだです」と正直にこたえた。椙山君の家は、砂金会社にお父さんが勤めていた渋井さんの家のとなりだった。そこで「義子ちゃんも呼んでコイ」とお母さんが梅山君に言って、三人で昼ご飯をいただくことになった。子どもたちが食事をするということで椙山君の兄と姉はオンドルから追い出された。あとでハナから叱られたのだが、「朝鮮人はあいさつのかわりに『ご飯たべましたか』ときくのだよ。朝鮮の人はご飯が食べられない人が多いのでそう聞くのが一番親しみを示すことになるの」 と説明をされた。
 「うちは朝鮮風にやります」。おかあさんは朝鮮風に立膝ですわり、真鍮のサバリ (お椀) に白いご飯をついだ。お皿もお箸も黄金色に輝く真鍮製だった。お母さんが何か朝鮮語で椙山君にいって、椙山君だけ瀬戸物の茶碗だった。「真鍮のサバリは供出で出してしまったんだ。それで、真鍮のほうがお客さん用にとってあるのを使っているんだ」 と椙山君が自分の茶碗が瀬戸物であるを説明した。真鍮のサバリを朝鮮人達が使っていることは知っていた。しかし、それで食べるのは初めてだった。戦争が始まると金属類の供出が繰り返された。林家でも金属類の供出にとりくんでいた。朝鮮人の家庭では、通常真鍮製の黄金色の茶碗、皿箸や匙を使っていて、大変きれいなもので私も一度それで食べてみたかった。金属類の供出には、どこの朝鮮人の家庭にある真鍮の食器がねらわれていた。
 真っ赤な朝鮮漬けとワカメの入ったお汁だった。そして、椙山君が先に食べて見せたのだが、タンチユジャンという唐辛子の味噌をチシャにくるんでおかずにした。椙山君は上手にくるんだが、日本人の子供たちはくるむだけで大騒ぎだった。そして、椙山君の家の漬物は林家の漬け物とは味が違っていて、ものすごくからかったがおいしかった。義子さんはときどき椙山君の家に行くらしく家族の人にもなれていた。私たちは椙山君の家がすっかり気に入って、食事は遠慮したがそれからもしばしば遊びにいくことになった。
 椙山君の兄弟は多かった。そのなかに 「鮮鉄」 (朝鮮鉄道) の鉄道員になって平壌のに出ている二十才前のお兄さんがいた。お兄さんは私たちともよく遊んでくれた。遊ぶといっても、機関車がどうして動くのかとか、なぜタブレット (鉄道用具) が必要なのかなど鉄道の話をきくのが楽しみだった。
 いつだったかお給料の話が出て 「朝鮮人の助役の方が日本人の切符切りより給料が少ない。」と話していた。私にはそれがどんな意味があるかわからなかった。日本人はもともと朝鮮にいた人にも、朝鮮の会社や鉄道や役所につとめると 「在鮮手当」 が六割ほどついて朝鮮人の倍以上に給料が高くなってしまうということを話していたのだった。林家は自営業の農家だったからあまり関心はなかったが、「日本人だから給料が高くても当然」 だと思って聞いていた。しかし、椙山君はなんどもお兄さんに 「なぜ。どうして」 と聞きなおしていた。
編集者
投稿日時: 2008-7-16 7:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・12 (林ひろたけ)
 朝鮮人が日本人学校に転校してきた・4

 三年生の初冬に朝学校に出ると 「今日は英霊《えいれい=注》を迎えに行きます。英霊は椙山君の叔父さんです」と先生からいわれた。椙山君は朝から学校がお休みだった。
 順安では 「英霊が帰ってくる」 ことはそれまでなかった。朝鮮人は普通兵隊には行かなかった。
 一方日本人でお父さんが出征すると家族は内地に帰っていった。
 椙山君の叔父さんというのは、満州の軍官学校にすすみ満州軍の将校だった。支那戦線(中国戦線) で名誉の戦死をされた英霊だった。軍官学校は満州にあり、日本の士官学校と同じ系列の学校だった。和雄兄さんも結核にならなければ、幼年学校から士官学校に行くか、それとも軍官学校に進むつもりだったようだった。「満州は五族協和だ」 とよくいっていた。「満州国は、大和民族、朝鮮民族、満州民族、蒙古民族、漢民族の五つの民族がいっしょに国を作っているんだ。軍官学校には日本人だけだけでなく、朝鮮人も蒙古人も入っている」。和雄はよくそう言って教えてくれていた。椙山君のお父さんの一番下の弟が、軍官学校から日本軍の将校になって支那戦線(中国戦線) で戦死したことを先生が教室で説明した。学校あげて順安駅に出迎えに出た。
 駅前にはすでに父晋司が普通学校の青年学校の生徒を率いて駅前広場の駅舎の前にいた。次ぎ
に日本人国民学校の生徒が並んだ。国防婦人会のたすきをかけてハナもそして日本人が並んだ。それに続いて普通学校の生徒達がずっとならんだ。
 「捧げ銃(つつ)!」晋司が大きな声をあげた。サーベルを抜いて、顔の前に上げて右下にサッートと開いた。木銃をもった青年学校の生徒達が銃を顔の前にまっすぐにもちあげた。普通学校の子供たちの 「海ゆかば」 の合唱がはじまった。
 椙山君のお父さんで面長さんが、朝鮮の民族衣装をつけて白い布に包まれた骨牌を抱くようにしてたち、そのあとに梅山君のお兄さんや親族の人達が二十名くらい従った。そのなかに学生服を着た梶山君もいた。
 洋武にとって椙山君がうらやましかった。一族から戦死者を出すことは名誉なことだと教えられていた。林家では晋司も招集されたが、戦死しないで帰ってきていた。俊雄兄さんも高等学校から海軍飛行予備学生に志願したが、健康上の都合で飛行学校には入れなかった。和雄兄さんも幼年学校に体格検査で入学できなかった。「林家は名誉の戦死者はでないのかな」 と残念だった。
 昭和十九年の正月だった。わが家に順ちゃんと椙山君と新井君が集まってオンドルの上で少年倶楽部の付録にあった双六遊びをしていた。
 大東亜戦争がすすみフィリッピンやビルマなど大東亜共栄圏で欧米の勢力が追放されて次々に「独立」 した。東京で大東亜共栄圏の首相会議が盛大に開かれた。双六は、満州、中国 (汪精衛政権) フィリッピン、タイ、ビルマ、インド、日本の七人の首相がそろうと 「あがり」 になった。勝負がつきそうになった頃、椙山君が 「この双六には朝鮮がない」 といいだした。そばで遊びを見ていた和雄兄さんは 「馬鹿なこというな。朝鮮は大日本帝国なんだ。内鮮一体というじやないか。一億一心総突撃というだろう。一億人には日本人だけでなく半島人もはいっているんだ。」とかってなく恐ろしい顔をして怒鳴った。そういえば内鮮一体という言葉があちこちに広がっていた。朝鮮人も兵隊さんに行けるようになった。そして朝鮮人もどんどん官吏に登用されるようになった。 「朝鮮がない」 といった椙山君の気持ちをわからなかっただけでなく、少し馬鹿にした。

注:優れた人の魂
編集者
投稿日時: 2008-7-17 7:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・13 (林ひろたけ)

 「皇国を喰らう」

 戦争が激しくなっていよいよ本土決戦だなどいう声が繰り返され始めていた。
 ある夕食の時、由美が「お母さん、踏み絵ってな一に」と聞いた。
 「踏み絵って、さあ。徳川幕府の頃、キリシタンご禁制で、キリシタンを改宗させるために、お上がキリストの像をふませて改宗を迫ったことじゃないかしら。キリシタンはキリストの像をふむのをやらなかったり、ためらったりするでしょう。そこでキリシタンかどうか判断したのよ。」
 由美は納得しない顔で「そうじやないのよ。恵子ちゃんがいっていたが、最近順安でヨボたちを集めてキリストの像をふませたのよ」
 「ヨボなどいってはいけません。半島人といいなさい。朝鮮人たちはヨボといわれるのいやがるのよ。まあ、まあそんなこと知らなかった。お父さんほんと。徳川時代の話かと思った」。
 晋司は正面から答えなかった。「この間、村田君がいっていたが順安は神社参拝の成績が悪い。何とかならないかといっていたね。順安は耶蘇教の影響が強くて参拝の成績がよくないらしい」。父は相変わらず晩酌をやりながらいった。村田君とは順安の警察署長だった。「まあそれで」ハナは納得したようだった。わが家の毎月八日の神社参拝は父をのぞいて、順安神社参拝を続けていた。ただ、いつの間にか、朝鮮人の一隊が「武運長久」とか「撃ちてし止まん」とか幟りをたて神社参拝にくるようになった。たいていの場合、日本人婦人会が参拝する時間にはもう帰り始めていたが、人数は数百人と婦人会とは比較にならないほど大勢だった。そして、戦争が激しくなるといっそうその参加者は増えていた。和雄は参拝には普通参加しなかった。そして 「朝鮮人たちは参拝すれば配給物資が多くなるのでああして参拝しているので、本当に神社をあがめているわけでないんだよ」など解説していた。そのたびに由美は「兄さん。ずるい。自分で参拝しないので人の悪口をいう」と反発していた。実際の朝鮮人の参拝者はだんだん熱気がこもっているように子どもの目にも映るようになっていた。
 ハナは、内地に帰えることをあきらめてから時々晋司に抵抗するようになっていた。
 「私ね。そんなことしてほんとうにお国のために役に立つのかしら。と思うのよ。この間も共同井戸の前の家の夫(フ)さんのお父さんがきていっていたが、あそこの息子さんが神社の前でおシッコしたからといって警察でものすごく殴られたというのよ。あの子少し知恵遅れでしょう。それに朝鮮人が手鼻をかんだり立ち小便するのは当たり前のことでしょう」。夫さんの息子さんとは近所の林家の小作人の朝鮮人家庭のお兄ちゃんだった。息子さんの本当の名前はしらなかった。私より五つほど年上だが、学校にはいかなかった。そしてわが家の杏やらスモモを取りにくる常連のひとりだった。
 「朝鮮人はあれ皇国を喰らうっていうだって。」ハナの言葉にも晋司は答えなかった。
 戦争になって配給が主力になると順安の定期市は廃止されていた。オマニたちが山のように野菜を積んで売り出す光景もなくなっていた。配給が順安でも行われ始めていた。しかし、わが家は物不足はいなめなかったが、それでも深刻な物不足ではなかった。林家ではりんご園の空き地にチョットした野菜を栽培していた。それでも野菜の調達のためにハナは、洋武を連れて時々「支那人(中国人)の農場」に出かけた。その農場は順安駅のすぐ北側の平地にあって、順安駅が丸ごと見えた。一町歩ほどの土地が野菜の種類によってきちんと整地され草一本生えていなかった。畑の中に小さな家があってそこに中国人の夫婦が住んでいた。私たちが訪ねるときはいつも夫婦で畑にでていた。家のそばには柵のない井戸があってその井戸から水をくんでは天秤で運んでは畑に水をまいていた。日本人の主婦たちは「支那人の農場」といって清潔感にあふれる農場を利用していた。
 その中国人夫婦はハナには特に親しみを見せていた。万宝山事件のとき朝鮮人の群衆におそわれて家に火がつけられ燃えてしまっていた。その上、夫婦とも激しく朝鮮人たちから殴られた。
 警察の紹介もあって四~五日わが家が匿ったことがあった。朝鮮人がいきり立っているので、比較的大きな家の日本人家庭の林家が紹介されたのだった。ハナが訪ねていくと土間に片膝をついてあいさつをした。夫婦は、特におじさんは、ほとんどものをいわなかった。「かわいそうに。あのとき少しここがおかしくなったらしい」とハナは頭を指していった。「でもお金の計算はまちがわないのよ」 といって笑った。
 万宝山事件とは、洋武の生まれる前、満州事変が始まる以前の昭和五年(一九三一年)満州で起きた事件だった。新京(現長春市)の郊外で朝鮮人移民の開拓農民と中国人が水路をめぐつて激しく対立し暴力事件になっていた。それを朝鮮の新聞や報道機関は、中国人の横暴と激しく非難して反中国を扇動した。朝鮮各地にあった中国人街では、朝鮮人の中国人襲撃が行われ最初警察もとりしまらず、そのため全朝鮮で百名をこえる死者が出た。とくに平壌では激しかった。順安でもこの「支那人の農場」が朝鮮人の襲撃の対象だった。林家は満州から移住して日がたっていなかったし、日本人の家庭ということもあって、この中国人一家を匿まったのだった。順安にはこの中国人のほか数名の中国人がいた。それに白系ロシア人(ロシヤ革命から逃げてきたロシヤ人) の家庭も数軒あった。
 定期市がなくなってからは、ハナはよく訪ねるようになったし、洋武もしばしばお使いに行かされていた。物不足が顕著になりだしてもこの農場では、林家に売り惜しみすることはなかった。晋司は支那人(中国人)の農場にハナが出入りすることをあまり喜ばなかった。「あれは支那のスパイではないかと心配している。順安駅のすぐ側で鉄道の動きをスパイしているらしい」とどこからかの情報を伝えていた。
 九月にはイタリヤが連合軍に降伏したことが伝えられた。朝礼の時、小島校長先生は「イタリヤは日本やドイツなどとの約束を破って降伏してしまった。約束破りは一番よくないことだ。日本とドイツは鬼畜米英に勝つまでたたかいはやめられない」と講話を繰り返した。子ども達は約束を守らないと 「イタリヤみたいだ」というようになった。

編集者
投稿日時: 2008-7-18 8:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・14 (林ひろたけ)
 
 栗本鐵工所の疎開

 砂金会社が縮小したり、お父さんが出征して家族が内地に帰ったりして、国民学校の子供が少なくなって二十名を割るほど少なくなっていた。
 ところが三年生の後半の昭和十九年おわりごろ、大阪からぞろぞろと転校生があった。国民学校の子ども達は倍以上になって四十名をこえていた。順安砂金会社は、金の採集をやめにして規模を縮小して、工場や社宅などの施設がいっさい栗本鐵工所という大阪の会社に売り払ってしった。砂金会社の社宅を栗本鐵工所に売り渡したので、林家の京義国道の反対側で、順安神社の麓にあたるところに数軒の社宅を作り砂金会社の社宅も移ってきていた。椙山君の家はその一軒を面長公舎にしていたものだった。砂金会社の移転が進むなか、栗本鐵工所の工場が大阪から疎開しはじめていた。駅前にあった砂金会社のクラブも社宅も栗本鐵工所のものになった。普通江の川岸にあった工場も朝鮮人向けの社宅も栗本繊工所のものになった。職員の家族はクラブの順安駅の前の社宅に入り、職工の家族は普通江の川沿いの工場に並んだ朝鮮人向けの社宅に入った。
 栗本鐵工所が疎開してくる前の年の昭和十八年、北朝鮮では激しい洪水に見舞われた。北朝鮮の気候は旱魃か大雨の被害か一年おきにくりかえす激しい気候だった。その洪水の時、普通江があふれて、どろどろの水が河をこえ京義本線の線路のところまでひろがり、砂金会社の普通江沿いの社宅は床上浸水になった。夜中、その社宅の子ども達が、晋司や和雄の背に負ぶわれて何家族も林家に避難してきて一夜を過ごしたことがあった。それを機にその社宅は使われていなかったが、栗本鐵工所がくることになって修理して再び使われるようになっていた。ただ職員の子弟は少なかった。戦争が激しくなっていたので家族を内地に置いてきた家庭も多かった。しかし、職工は家族ぐるみで順安に移ってきていた。
 三年生には転校生はいなかったが、全部で二十数名転校してきて学校はにぎやかになっていた。
 大阪からきたこどもたちはたくましかった。それまで順安日本人国民学校にはないタイプの子が多かった。学校には大阪弁が幅をきかせるようになった。
 順安では九州とか中国・四国とか西日本の出身者が多かった。しかし、言葉は標準語で話し合われた。家庭でも方言を使う家はいなかった。それだけに大阪弁は新鮮な響きを感じた。今までいた子ども達も大阪弁を真似て話すようになった。
 大阪から来る関釜連絡船の中で、救命具を体につけて何度も避難訓練があったと話をしていた。
 関釜連絡船は、崑崙丸(こんろん丸)がアメリカの潜水艦に沈没させられてから昼間に運行されるようになり駆逐艦が護衛についていたことも教えられた。大阪より朝鮮のほうが白いご飯が食べられることや「お父さんのお給料が倍以上になったんだ」と嬉しそうに話していた。
 「大阪から栗本鐵工所の子供たちがはいってきて国民学校の柄が悪くなった」などいう大人たちも多かった。しかし、私たちにとって別の世界からきたようなこの子達と遊ぶことは楽しかった。
 なかでも一年上の四年生の寺山美智雄君は、元気もよかったし悪いことも平気でした。下級生の人気のまとになった。寺山君は普通江の側の職工住宅から通ってきていた。大阪の友達のおかげでパッチン(メンコ)という遊びをおぼえた。それまでは全体として動きの少ない遊びが多かったが軍艦ごっこや鬼ごっこや缶けりなど放課後も遅くまで遊ぶことができた。「パーマネントに火がついてあっという間に焼けちゃった。パーマネントはやめましょう」などの歌も覚えた。
 たくさんの標語が繰り返されていた。「欲しがりません。勝つまでは」 「贅沢は敵だ」というのは戦争が始まってすぐだされた。戦争が末期になると「撃ちてし止まん」 (勝つまではたたかい続けよう)とか、「一億総突撃」など覚えきれないくらい標語が出た。そして、街角にも、標語が張り出されるようになった。女性の髪のパーマネントは贅沢の印だった。
 栗本鐵工所が順安に疎開になって、会社の人たちも私の家に遊びに来るようになった。栗本鐵工所の人たちは前から順安にいて在郷軍人会長でもあり有力者でもある林家に、当番でも決めたように交代でやってきた。そしてお酒を飲んでは帰っていった。「いや、お宅での酒が一番おいしい」などハナを喜ばせていた。栗本鐵工所の所長の花田さんは、陸軍中尉で中国戦線で負傷をした傷痍軍人だった。足を負傷したといってかなり足を引きずって歩いた。京都帝国大学を出ているそうだと父は、息子が京大に行っているせいもあって他の人とは違った親しみをみせてお客扱いをしていた。増山さんもよくやってきた。増山さんも中国戦線へ伍長で出征して実際に戦線で戦ってきた人だった。早速、在郷軍人会の会計をしているらしく帳簿を持って晋司に報告に来ていた。
 増山さんに「戦争の話をして」と頼んだ。増山さんの話は上手だったし、面白かった。家族みんなで聞いては楽しんでいた。増山さんは大阪弁で、いかに日本軍が強いかすごいかを繰り返しして聞かせた。「俺たちは和歌山の連隊だった。大阪の連隊は、また負けましたか。八連隊とってあんまり強くなかった」。私は日本軍にも強い軍隊と弱い軍隊があるんだなと興味をそそられた。増山さんは砲兵だった。「砲兵が敵に狙われて砲手がばったり倒れた。その時、小隊長はえらかったですな。普通は「おいどうしたか」とすぐ起こしに行くのに、小隊長は「砲手交代。打ち方つづけ」と号令をかけてそれから「おい。どうしたか」と抱きかかえたですな」。増山さんは、隊長の心得を説教したかったようだった。
 「戦死するとき天皇陛下万歳というの」。私は聞いた。「もちろん万歳するが」と口を閉じた。それから、「急に敵の弾が飛んできてばったりというときにはそうもいっておれない」。私はみんながみんな「天皇陛下万歳」といって死ぬわけでないようだとおもった。晋司も戦場の経験はあった。しかし、戦争の話をめったにしたことはなかった。増山さんは「ここだけの話だけど。」とよく言った。「いま、日本軍にはあっと驚くような秘密兵器があってそれが出動すると、アメリカなどいっぺんにふっとんでしまう。ただ、秘密兵器だから使うときには必ず勝たないといけないから簡単にはだせないんだ」。
 私は、ちょうど神風が吹いたようにいま、日本軍は勝つ準備をしているんだなと信じた。
 昭和二〇年の冬は寒い冬だった。和雄兄さんは寒暖計を見ては「今日も零下二十度をこえた」と大きなニュースのようにつたえた。朝鮮では雪はあまり降らなかった。しかし気温は零下十度や十五度にはなった。街中が凍りつき普通江にも厚い氷が張りその上でスケートやそり遊びが出来た。しかし、零下二十度を超えることは珍しかった。朝鮮の冬の気候は母が「三寒四温というがほんとうに言葉どおりよ」といっていた。三日寒い日がつづいて四日比較的暖かい日がつづく。それをくりかえしながら、寒さが厳しくなっていくことをさしていた。しかし、その冬は三寒四温ではなかった。寒い日が続いた。戦争中はいっさいの気象情報はなかったがその冬が異常な寒さであったことはわかった。便所の中が凍り付いてウンチがだんだん高く盛りあがって、その冬はとりわけ高くなり、雪隠のすぐ側まで届くこともあった。直径二〇センチにもなったわが家のりんごの木の半分ほどが立ち木のままつぎつぎに凍って割れていた。
 「今朝、順安駅で朝鮮人の物乞いが二人はど凍死したそうだ」。晋司はこともなげにいった。ハナは「まあ、可哀想に。今年は物乞いが多くて困っているのよ」とつづけた。京義国道沿いの林家には二、三日おきに物乞いがきた。物乞いたちは日本語はほとんどしやべれないので、ただパカチの鉢をだすか、頭を下げて物乞いをした。ハナは一銭か二銭を与えたり残りのご飯など差し出していた。寒さの厳しさと戦争での物不足が深刻になっていた。
 「今年はりんごは食べられないな。あまりよい年でないようだ」。父がそういったが冬の寒さだけでないたいへんな事態が進行していることを感じさせていた。
 フィリッピンで日本の敗色が濃くなり、サイパンから飛び立った米軍機がつぎつぎ日本本土に空襲をくりかえしていた。ハナが「アメリカはデマ・ビラを飛行機からまいているそうよ。『東京、大阪みな焼けた。花の京都と奈良はこの次だ』と書いてあるそうよ」と憤慨していた。ラジオでは「リスボンハツドゥメイ」という報道がさかんにされた。洋武は、このリスボン発同盟というのが嫌いだった。それは日本には不利な報道ばかりだったからだ。ヨーロッパ戦線ではドイツがどんどん押されて後退していることが伝えられていた。
 和雄は「ポルトガルは中立国でリスボンはその首都。同盟というのは新聞社がいっしよになった新聞社で外国のニュースを伝えてくるのだ」と説明した。
 神風特攻隊の話が新聞やラジオでもくり返し報道された。ほんとは「シンプウ特攻隊」と読むことになっていたが、みんなは「カミカゼ」とよんだ。最初の特攻隊の「敷島隊」の話はなんどもきかされた。「敷島の大和心を人間えば朝日に匂う山桜かな」という和歌から命名された敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊などがつぎつぎに飛び立って行った。そのうちに隊の名前も報道されなくなった。特攻隊で戦死した軍神は二階級特進するということもくりかえし強調された。時々、軍艦マーチがなって、特攻隊の戦果が報道された。神風特攻隊のことが繰り返されるたびに 「きっと日本には神風が吹いて、ミニッツやマッカサーなど吹き飛ばしてくれる」 という必勝の信念が子供心にも醸《かもし=注》し出された。校庭には少年飛行兵になるために人が中に入ってくるくるまわるサークルのような用具が持ちこまれ、五年生以上の男の子は体操の時間にはくるくるまわる練習をした。
 昭和二十年の三月、晋司は将校の服を着て軍帽をかぶりサーベルをつって京城まで出張した。
 父のいでたちは久しぶりに見るきりりとした軍服姿で頼もしかった。朝鮮のすべての在郷軍人会の会長会議が開かれた。晋司は三日ほど留守にしたが、帰宅してからも口数はすくなかった。和雄兄さんとちょうど春休みで寄宿舎から帰ってきていた典雄兄さんを相手に戦況がきびしいことを伝えていた。「今年中には本土決戦で戦争は終わるかも知れない。」 など少し声を落として話をしていた。
 四年生になって五月ドイツが敗北した。あれほど繰り返し宣伝していたヒットラーが自殺してドイツが無条件降伏をしたことをラジオが報じていた。この時には、軍艦マーチも海ゆかばも鳴らなかった。イタリアが負けた時 「裏切り者のイタリア人」 といっていたが、ドイツが負けても誰もそんなことは言わなかった。六月には沖縄で一般人も巻き込んだ戦いが繰り返されていた。小島校長先生は米軍と竹やりで戦っている沖縄の子供たちの話をしていた。
 ラジオでも、十五才の海軍少年兵が、船が敵に沈められ海に浮かびながら最後には「天皇陛下万歳」と勇ましく戦死した物語を流していた。
 「ぼくたちもあと五年たったら、お国のために天皇陛下万歳と叫んで戦死しましょうね」と末永先生は話した。ある日、順ちゃんは、学校からの帰り道で「武ちゃんは海兵をでて手柄をたてて名誉の戦死をするんだろう。そうしたら、海軍大将にはなれないのじゃないか」。このむづかしい質問に私は答えられなかった。いづれにせよ早く大人になり、大人になったら兵隊さんか特攻隊になり名誉の戦死をすることが子供達の夢であり目標だった。

注:つくり出す
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投稿日時: 2008-7-19 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・15(林ひろたけ)
 汝臣民くさかろう・1

 戦争がたいへんになると学校もなんとなしに落ち着かなくなっていた。とくに大阪からきた子ども達は騒々しかった。寺山君もあいかわらずだれとでも仲良く元気に遊んでいた。
 寺山君は順ちゃんや洋武をつかまえて三人で肩を組み「これは誰にも言うなよ。こんなこといったら死ぬほどおこられるよ。でもほんとなんだ。おまえたち知っているか。天皇陛下だってウンチもするし、おしっこもするんだぞ」。
 これは私たちにとって驚天動地《きょうてんどうち=注》のたいへんな知識だった。「天皇陛下は神様だ」 と教えられていた。神様がウンチもおしっこもするのかな。そしてなんでも母や兄達に聞くくせだった洋武も、それだけは聞いてはいけないことのように思った。しかし、神様でもやはりおしっこもウンチもするのがほんとうのような気がしてきた。
 五月になると、さすがの林家も忙しかった。家の周りのリンゴの花はいつもの年の半分も咲かなかった。その年の冬の寒さでリンゴの木が凍り割れてしまったせいだった。晋司もハナも、小作人が徴用にとられて、「人手不足で田植えができない」 というそこのオマ二 (母) の要望で田植えの手伝いに出かけていった。
 そんな田植えがつづく六月の日の長い夕方、私は普通江沿いの栗本鐵工所の職工社宅に遊びに出かけた。いつものように数人の子ども達とかんけり遊びをした。鬼になっているこどもが、隠れている子どもをすべて探し出すまで最初にみつけられた子ども達に一瞬の退屈があった。順安の子ども達はそんなとき小学唱歌など口すさんだ。
 その社宅では私より年下の子が 「たんたんたぬきの金玉は、風にゆられてぶらぶら」 と歌い出した。そして 「えいっ!」 というと大きなおならをした。
 「朕は思わず庇をフッタ。汝臣民くさかろう」 とつづけた。隠れていた洋武はあまりにも面白かったので大きな声で笑った。「武ちゃんみつけた」 と鬼にされてしまった。
 洋武はこの変え文句が面白かった。翌日の授業中にそーつと順ちゃんに教えた。末永先生は一年生の方で教えていた。順ちゃんが「なんっていったの」と聞きなおしたので思わず大きな声で教えた。ちょうど校長先生が後ろに回ってきた時だった。
 「林!なんっていった。もう一回言ってみろ」。校長先生は持っていた竹の棒で洋武を激しく殴りつけた。先生の形相はすごかった。「天皇陛下の悪口を言うと不敬罪だぞ」。先生は真っ青になって激しく声を震わせていた。先生が本気で怒っていることは子供にもよくわかった。
 その翌日、父と母が学校に呼ばれた。順ちゃんの家はお父さんの結核が悪くなっていて、お母さんだけが呼ばれた。校長先生は「言うのもはばかれるようなことを二人で話していた。みんなでご真影にあやまりなさい」。みんなでご真影(天皇の写真)に頭を下げた。
 家に帰ると、晋司は「お前なんといったんだ。だれからおそわったのか」と拳骨を二つも三つも殴りつけてきた。洋武はそれが大阪の子ども達だとはなぜか言えなかった。ハナは「怒らないから、いったいなんていったの。校長先生は言うのもはばかられるというだけでわからないの」と洋武にきいた。
 「朕は思わず屁をふった。汝臣民くさかろうと順ちゃんにおしえたの」とハナに報告した。和雄兄さんは「わはは。中学でも悪いのはそんなこと言ってたぜ」と笑った。晋司もハナの顔も笑いをかみ殺しているようにみえた。「戦地では兵隊さんが銃後のために戦っているときにそんなことをいっては。大阪の子から教わったのだろうが」といって母も厳しく叱った。
 しかし、それだけではおわらなかった。校長先生は「自分の教え子がこんな不敬なことをいうのだから進退伺いを出すことになった」 と晋司に相談にきた。
 晋司は「校長先生は学校が火事のとき、ご真影と教育勅語だけは死んでも守ることになっているんだ。ご真影を火事でなくしてしまった校長先生は何人も自害されたんだよ。その天皇陛下の不敬にあたることをいったら校長先生だけでなく、わしも怒るぞ」とそれがどんなに重大なことかを説明した。ハナは少しおろおろしていた。 「中村先生は視学になられたのだから、中村先生に相談にいったら」と晋司に持ちかけていた。「平壌に行って相談してくるか」と真剣そうに答えていた。
 さすがの洋武もすっかりしよげていた。「これはたいへんなことになった」 と不安でおちつかなかった。

注:天地が動くほど驚く
編集者
投稿日時: 2008-7-20 10:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・16 (林ひろたけ)
 汝臣民くさかろう・2

 また、先生から怒られるのかなと思いながら学校に行った翌日、思わないことがおこった。校長先生に召集礼状がきて出征《注4》する事になっていた。朝礼の時「おめでとうございます。校長先生にも晴れて召集礼状がきました」 と末永先生が紹介した。
 「私も出征しお国を守るためにお役に立つことになりました」と校長先生は挨拶した。事態はすっかり変わって、結局この間題はうやむやになってしまった。
 先生は弱弱しい奥さんとまだ学校に上がっていない小さな二人の子どもがいた。その家族を置いて出征していった。もう小島先生は四〇才をこえていたし、中村先生みたいに健康そうではなかった。晋司のところに挨拶に来て 「私のようなものに軍隊が勤まるでしょうか」 と不安そうに聞いていた。
 小島校長先生が招集されたが、あとの校長先生はこなかった。校長先生の家族はそのまま官舎にいた。末永先生は一年生から六年生まで一人で受け持つことになった。また、そのころから日本人墓地近くの山にいって松の根を掘りにいく勤労奉仕《注1》が増えていた。松の根から松根油をとり飛行機の燃料にするのだということで毎日のように松の根を掘りに行くことになった。
 学校はまともに授業は行われず、子供たちは勝手に遊んだりふざけていたりした。椙山君や新井君も四年生になると、時々朝鮮語を学校でも使うようになった。先生は 「朝鮮語を使うことはいけません」 と厳しかった。しかし、子供たちはお互いにとがめるようなことはしなかった。寺山君などは朝鮮語を面白がって 「これは朝鮮語でなんというのか」 など聞いたりした。オモ二(母) とかアポジ (父) とか簡単な単語を聞いては面白がっていた。また、二人ともあいかわらず成績はよかったが、前のような模範生でなくなって、順ちゃんや洋武といたずらをして遊ぶことが多くなった。私たちも漢字の試験は二人に勝てなかったが、算数は私たちの方が成績がよかった。「君達は二年生のとき、一年がかりで九九を覚えたんだものね」 といいながら末永先生はそれだけは安心したらしかった。
 順ちゃんのところの恵子さんは平壌高女に進学して寄宿舎にいき、由美姉さんも美代子姉さんも六年生になっていた。その年の六年生は二人だけだった。
 順安の日本人社会の親達は尋常小学校卒業の農民が多かったが、子供たちには高学歴志向だった。日本人の子弟は国民学校をでるとほとんどが、男は平壌一中か平壌師範に進み、女も平壌高女にすすむのが常識だった。わが家の両親をふくめて 「私達は学歴がなかったので苦労したが、教育だけはつけさせてやりたい。そうでなければ朝鮮にきたかいがない」など話していた。
 平壌第一中学校は、特別なエリートの朝鮮人をのぞいて日本人の子弟が中心の中学校だった。
 平壌二中(平壌高等普通学校。昭和十五年まではそう呼ばれたが「内鮮一体」の方針で第二中学校と改名された)は朝鮮人だけの中学校だった。そして、平壌師範と商業学校と工業学校は、朝鮮人も日本人もいっしょの学校だった。日本人にとってそれらの学校は難しい学校ではなかったが、朝鮮人にとっては難関の学校だった。順安の日本人の子ども達のほとんどがさらに専門学校や高等学校にすすんだ。当時、全国的には専門学校以上に進むことができた子供たちは同世代の三%だったという時代に、順安にいる日本人達の進学熱はかなり高いものだった。陸軍士官学校や海軍兵学校とともに、京城帝国大学とか関東州にある旅順工業大学とか満州国新京にある建国大学とかの上級学校に進み、そうした大学があこがれの学校だった。ちょうど内地に居る兄俊雄が松本高等学校から京都帝国大学の電気工学科に進んだので父も母もたいへん自慢だった。順安の日本人社会の子弟には粟野さんの次男は、熊本の第五高等学校にすすんだり、羽野さんのお兄さんも京城師範に進んだ。
 そのころ、中学校も女学校も学科の入学試験はなくなっていた。そして、通信簿と教練とか鉄棒とかの体力検査だけが入学試験だった。由美姉さんや美代子姉さんも入学試験が控えていたが、末永先生は二人の鉄棒の練習を見たり体操をなおしたりして来年の受験に備えていた。そうした受験準備だけは先生も一生懸命にとりくんだけど他の子供達は放置されていた。
 朝鮮では空襲はほとんどなかったが、それでもアメリカの爆撃機B二九が空高く飛行雲を長々引いて飛んでいった。ただ、沖縄で玉砕が伝えられた六月になるとグラマン機が飛んできて京義本線を走っていた客車列車を機銃掃射《注2》で襲い、かなりの被害がでたなど噂がひろがった。和雄兄さんが「アメリカの航空母艦が黄海までのさばっている」など解説した。
 七月になってまもなく、兄和雄にも海軍から海兵団《注3》に召集状がきて、朝鮮半島の南端にある海軍基地、鎮海に出征《注4》することになった。
 「おめでとうございます」といわれると晋司は「和雄は結核でお国の役にはたたないと思っていたが、やっとお国の役に立って名誉なことだ」と言っていた。
 ハナは出征する和雄に「お国にささげた体だから病気だけは気をつけて、敵をやっつけてね。いってきますなどいわずにみんなにも 『行きます』 というのよ」 など話していた。
 そのころ 「出征する時は二度と帰ってくることを考えるな。行って来ますなどいってはならない。行きます。というのが出征兵士の挨拶だ」 といわれていた。
 「本土決戦だからどこにいても同じことだけど卑怯なことだけはだめよ」。ハナはあくまで軍国の母だった。
 戦争が始まった時のように家中で 「天皇陛下万歳。大日本帝国の勝利万歳。和雄の出征万歳」を晋司の音頭で叫んだ。戦争がはじまったころは、出征兵士を送り出す時は、順安の日本人がみんな駅に集まって送り出すなど盛大な見送りをしていた。しかし、和雄が出征するころには見送りもできるだけ密かにするようになっていた。敵に知られないようということだった。だから由美と洋武が学校にいっていた間に、和雄は、両親だけの見送りで出征していった。洋武は 「やっとわが家にも出征兵士が生まれた」 と誇らしい気分で和雄を見送った。晋司は、その夜独り言のように 「ひ弱な小島先生や病気の和雄を連れて行くようだと日本もそうとうにたいへんだな」 と酒をのみながらつぶやいた。
 七月になっても夏休みはなかった。ただ、学校の授業は一時間だけであとは運動場の隅を掘り起こして畠にしてかぼちゃやサツマイモなどが植えられた。四年生以上の子供たちは野菜作りにせいを出すか、松根油 (しょうこん油) のための松の根ほりにいかされた。
 戦争の雰囲気はだんだん厳しくなって、ラジオは軍艦マーチはほとんどきかれずに「海ゆかば」が多くなっていた。「海ゆかば」は玉砕《注5》したニュースのとき鳴らされた。
 戦争が始まって定期市は禁止されて閉鎖になっていた。それでも順安の日本人社会では食料事情はそんなに悪いわけでなかった。大阪からきた子供たちも家族も「ここでは白いご飯がたべられる」 と満足していた。
 八月になった。六日に広島に特殊爆弾が落ちて大きな被害があったと報じられた。兄たちが居なかったのでそれがどんな意味を持つかはわからなかったが「原子爆弾」だということも伝えられ始めていた。洋武も四年生になって、新聞もほとんど読むことが出きるようになり恐ろしい父に聞くことはなかった。
 九日になるとラジオがソ連が宣戦布告《注6》をして満州に攻め込んできたと報じ始めていた。同時に、朝鮮の成鏡北道のソ連との国境線でもソ連軍が攻めてきて、海からも攻撃が始まったことが報じられた。朝鮮の北東地方の日本人には避難命令が出されて南の方に避難が開始されていた。ソ連との国境の警備隊が玉砕したことも伝えられた。朝鮮に居る日本人にとって「同じ朝鮮で戦争が始まった」ことに深刻な心配があった。ハナは「戦争がここまできたらどうしよう」と心配した。
 「ソ連との国境の成鏡北道の日本人たちは避難を始めたようだ。一億総玉砕で沖縄のように国民総がかりでたたかう以外ない」と晋司は言っていた。私も「いよいよ総突撃。少国民として闘わないと行けない」 と覚悟を決めたようにつぶやいていた。
 九日の夜、長崎にも原子爆弾がおとされて大きな被害がでたとラジオが伝えていた。十日の朝、菊村さんの小母さんがわが家にやってきた。晋司が軍服を着て出かける時だった。「ご主人の具合はどう」 と父はきいたが 「ええ」 というだけだった。
 「林さん、長崎に特殊爆弾が落ちたそうだけどなにか詳しいことを知ってますか」。小母さんはその方が気がかりのようだった。「長崎の母が心配で」 と小母さんは言葉少なだった。「広島に落ちたのと同じ奴らしいが、多分みんな疎開しているから大丈夫ですよ。それに白い服を着ていれば大丈夫というじやありませんか」。晋司の説明に納得しない顔で帰っていった。
 十一日は土曜日だった。朝、学校に出たとき末永先生が子供たちを一つの教室に集めた。
 「今日から学校はお休みです。満州にソ連が攻めてきたので満州からたくさんの人が避難してきます。机の中に自分のものを置かないように全部家に持って帰ってください」。とてもきつい感じで、なにかたいへんなことが起こったように感じた。すぐその後、今度は先生でなく、戦闘帽に国民服を着た見知らぬ小父さん達が数人きて 「早くかえれ」 といいながら机やいすをどんどん片付けてしまった。
 職員室も教室もそれに雨天体操場も机や椅子がきれいに片付けられて小父さん達は出ていった。校長先生の官舎には、もう避難してくる最初の家族が入り出していた。
 この日が順安日本人国民学校の閉校の日になった。しかし、私たちはその日が学校の最後だとは誰も気づかなかった。
 ソ連が満州や朝鮮の北東部につぎつぎに入ってくる様子は、ラジオや新聞で伝えられ、とくに朝鮮北東部のソ連と満州の国境の「勇基」とか「羅清」とかの都市での激戦が伝えら、日本軍の劣勢がラジオでもわかった。そこにいる日本人達が避難をはじめていることも報じられた。いよいよ一億総決戦という感じが日々高まっていた。

注1:勤労をもって奉仕活動を行なう事 勤労奉仕活動のことでほぼ無償を前提に活動する国家事業への協力
注2:航空機から機銃で地上物を射撃する
注3:海軍の初年兵を訓練する施設
注4:軍隊に加わって戦地に行くこと
注5:玉が美しく砕けるように 名誉や忠義を重んじて潔く死ぬ
注6:紛争当事国に戦意がある事を公式に宣言表明する
編集者
投稿日時: 2008-7-21 7:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・17 (林ひろたけ)
 
 第二章 日本人強制収容所

 その日の昼 八月十五日と終戦前後・1

 八月十五日の朝、林家は落ち着かない雰囲気と緊張がただよっていた。朝から空は晴れわたり暑い日差しが照りつけ、せみの声が特別にうるさかった。晋司は半ズボン姿だったが「今日の昼にはラジオで重大ニュースがある」と立ったり座ったりしていた。ハナはいつもと違って簡単服といっていたワンピースを着ていた。ハナは通常は和服だったが、夏場には涼しいからといってワンピースを着ることがあった。晋司もハナも落ち着かない様子が子どもの目にもはっきりしていた。
 昼のニュースの時間、晋司はラジオを抱きかかえるようにしてラジオを聞いていた。重々しい声がラジオから流れていたが、子供たちには何のことかわからなかった。
 晋司はラジオが終わると「負けた。日本は無条件降伏だ。今のは玉音放送だ」と吐き出すように言ったきりだった。玉音放送《注1》というのもはじめて聞いた言葉だった。天皇陛下が直接ラジオで放送したらしかった。
 ハナは、昼の食事に手をつけないで涙をだして泣いていた。由美は「戦争に負けたの」といったきり大きな声を出して泣いていた。洋武はひとりだけ昼ご飯を食べていた。
 「こんな時よく食べられるね」と由美が怒っていた。しかし、洋武も悲しくなった。校長先生が「アメリカというのは有色人種を奴隷にする国だ。戦争に負けたらみんな奴隷になって親子ばらばらにされて売り飛ばされてしまう」といっていたことを思い出し、アメリカの黒人のように一生奴隷で過ごさないと思うと悲しくなって泣けてきた。「奴隷になったら、りんご泥棒した時、額にリンゴ泥棒と塩酸で焼きをいれられた朝鮮人の子供がいたように子供たちも塩酸かなにかで焼きを入れられるのか」と思った。
 「戦争に負けたら女、子どもは惨めだ。戦争には負けたくない」。晋司は自分の軍隊時代を思い返すようによくそう言っていた。どんなに惨めになるかわからなかったが、それでも負けると大変なことはわかった。
 「これからどうなるのでしょう」。ハナが聞いた。父も自信なさそうに「朝鮮の北部にはソ連軍が入ってくるようだ」と答えていた。
 洋武は「学校に忘れ物をとりにいく」と家をでた。「学校には満州からのお客さんがいっぱいきているのだし、今日みたいな日には、行ってはいけません」という静止にもかかわらず逃げ出すように家をでた。
 せみの声がやけに大きく聞こえていた。家から百メートルほどいくと共同の井戸が道端にあり、いつもは朝鮮人のおばさん達が水を汲んだり洗濯をしたりしていた。井戸はかなり深くつるべから井戸水をくみあげるためにいつも行列が出来ていて、黒い素焼きの水瓶が一杯になると朝鮮のオマニ(お母さん)達が頭に水がめを載せて腰をふりふり運んでいくのが日常だった。しかし、そこには誰もいなかった。朝鮮人の部落は妙に静かだった。晴れわたった空にB二九爆撃機が三機飛行雲を引いて飛んでいた。いつもよりはるかに低空を飛び大きく見えた。しかし、空襲警報はならなかった。
 学校に行くまでに汗をびっしょりかいた。学校はたいへんだった。
 「満州からのお客さん」とハナが呼んでいた避難民の人達でいっぱいだった。運動場には大きな釜が据えられて炊事がされていた。鉄棒とろくぼくの間にはたくさんの綱が引かれ洗濯物がいっぱい干してあった。そこもたくさんの人がいるにもかかわらず静かだった。
 校舎の中には入れなかった。裏に回った。もしかしたら校長先生の官舎に末永先生が居るのではないかと思ったからだった。しかし、そこにも避難民の女の人達でいっぱいだった。学校と官舎の間の庭には井戸のポンプがあった。いつもギイコギイコとポンプをおして水をくみ上げるだが、その日には水甕《かめ》に新しい水がいっぱいみたされていた。洋武はそこの柄杓で水を飲むと汗がさらに出てきてびっしょりになった。
 炊事場では真夏というのにお湯が沸いていた。そして座敷ではおばさんたちの騒ぐ声がしていた。ふすまの隙間から女の人の大きなお腹だけが裸で見えた。お腹の上にタオルがたたんで置いてあった。「もう少しよ。もう少しよ。がんばるのよ」という声がしていた。明らかにお産まじかなお母さんのお腹だった。満州から避難してきたお母さんのお産だった。「この子どこの子。だめよここは子供のくるところでないのよ」とエプロン姿のおばさんにしかられて洋武は学校を離れた。あのお母さんの赤ちゃんが産まれたかどうか洋武にはわからなかった。学校のあまりにも変わりように洋武は驚いていた。
 その足で椙山君の家に行った。普通なら順ちゃんの家に行くところだったが、五月ごろからお父さんの病気結核が再発して「うつるといけないから、順ちゃんと遊ぶのはいいが家にいっては行けない」 ことになっていた。椙山君のおばさんは、洋武の顔をみると朝鮮語で椙山君を呼んだ。いつもは日本語を使っていたのに奇異な感じがした。家中がわいわいしてにぎやかな感じだった。椙山君の家のオンドルには、お兄さんたちが日の丸を広げて赤丸のところを半分ほどS字状に墨で塗りつぶしていた。日の丸がなにか汚されていくようで洋武にはたまらなかった。今の韓国旗には丸のまわりに四つの掛りがついているが、そのときの韓国の旗は日の丸を墨で塗りつぶしただけのものだった。オンドルは普通、油紙を床に貼り付けてあった。だから、濡れたものでもよくオンドルに放置してあった。日の丸の旗の赤い部分が半分はどS字状に巴に墨で塗られて、ぬれた日の丸の旗がオンドルの上にだらしなく広がっていた。
 椙山君は 「ああして半分墨で塗ると朝鮮の旗になるんだ。韓国というんだよ。ぼくもいままで椙山といっていたが、今日からヤンというのだ」 といって砂の上に 「梁」 の一字を書いた。朝鮮人が日本の姓を名乗っていることについては知っていた。しかし、敗戦のその日に本来の姓を興奮気味に打ち明けられたことにたとえないような驚きを感じた。さらに椙山君は 「新井君も本当の名前は朴と書いてバクというんだ」 と教えてくれた。椙山君の家がいつもとちがって居心地が悪かったので早々に引き揚げようとした。
 椙山君の家を出ると隣の渋井義子さんから 「武ちゃん」 と呼びとめられた。渋井さんは洋武が椙山君の家から出てくるのを待っていたようだった。
 「椙山君の家の人はお兄さん達が、日本が負けたのに家中で万歳・マンセイといっているのよ」「あの人達、ほんとうは非国民よ」 と声をかけてきた。洋武には衝撃的だった。面長さんは入学式や卒業式にでて、挨拶をするえらい人だった。「その面長さん一家がどうして日の丸を墨で汚して、日本が負けたのに万歳を叫ぶのだろう。非国民なんだろう」。わからなかった。

注1:天皇自ら放送される事
編集者
投稿日時: 2008-7-22 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・18 (林ひろたけ)
 その日の昼 八月十五日と終戦前後・2

 ラジオは鈴木内閣は総辞職して、宮家出身の東久遷宮が総理大臣になったことを報じた。その夜、阿南陸軍大臣が 「天皇陛下に申し訳ない。一死を以って大罪を謝し奉る」 と割腹自害をしたニュースを伝えた。特攻隊の生みの親といわれた大西中将も自刃された。杉山元帥は夫婦で自害したことを伝えていた。新しいニュースがあるたびに我が家は陰鬱《いんうつ=注》なムードになった。
 「東条さんはいつ自害されるのでしょうね」。ハナはだれに言うとも独り言をいった。東条英機首相は大戦開始時の総理大臣だった。ハナはシンガポールが陥落した時にも、マニラが占領された時にも「東条さんがさぞ喜ばれているでしょうね」といって東条首相をたいへん尊敬していた。その東条さんはきっと自害されると思いこんでいたようだった。晋司は、その夜、ハナや家族の心配をよそに、激しく酒を飲んでいた。晋司の酒は激しく飲むとハナヘの暴力がつきまとった。
 しかし、その時は時々大きなため息をつきながらひたすら飲みつづけた。暴力はなかった。父晋司はそれから七五歳で死ぬまでアルコール依存から解放されることはなかった。
 次ぎの日も晴れていた。空に雲のない時、末永先生は「これが日本晴れというんですよ」と教えていたが、からりと乾いた朝鮮の空は文字通り日本晴れだった。
 洋武は家内の緊張感に耐えられなかったのだろう。じつとしていることのできない子でもあった。「今日は絶対に外に出てはいけません」というハナの禁足令にもかかわらず、午後、友達のところに出かけた。
 村田君の家に足を運んだ。村田君は洋武より一年上で寺山君達と同学年だった。そして栗本鐵工所の人たちが転校してきたあと、転校してきていた。お父さんは警察署長だった。面事務所と警察署が並んでいて、それぞれ官舎が裏にあった。その村田君の家はもう誰も居なかった。家中があわてて居なくなったように玄関の隣の部屋にあるオルガンもふたがあいたまま放置されていた。たんすも棚が空けたままなっていた。いつもいっしょに遊んでいた飼い犬の「雄太」がさびしそうにワンワンとほえていた。郵便局の配達をする朝鮮人の青年が「村田さんは昨夜トラックがきて荷物を運んでいったよ。戦争に負けたから先に逃げたんだよ」と少し朝鮮なまりで教えてくれた。私はよくいっしょに遊んだ「雄太」の鎖をはずしてやった。朝鮮人は犬を食べる習慣があった。雄太が食べられないように祈る思いだった。
 その警察署にはもう朝鮮人がいっぱいだった。そしてわが家にも出入りした青年たちが次々に警察に集まってきていた。留置場から釈放された人もいた。それを迎えにきた人もいたようだった。面事務所などともちがって警察署はごった返していた。
 「しかたないな」。洋武はその足で寺山君の家にむかった。寺山君の家は順安の街を横切って普通江沿いの栗本鐵工所の社宅にあった。昨日と違い街には人通りが多くなっていた。朝鮮語がいっもよりにぎやかだった。日本人の子が歩くとオマ二たちがふりかえる感じがした。寺山君の家は誰もいなかった。社宅の入り口の守衛の朝鮮人が「日本人はみんな会社に集まっている」といっていた。私は仕方なく普通江の側で一人で遊んだ。川の色はいつものようにどろどろした黄色だった。オマニ達がいつものように川岸で洗濯していた。川が黄色くても白い朝鮮服を砧でたたきながらなんども川の水にさらしていた。その側で子供たちが泳いでいた。私たちもそうだったが子供たちは泳ぐ時は、水泳パンツなどなくて素っ裸だった。寺山君の家の人は夕方まで帰ってこなかった。物足りない思いで洋武は家に帰った。
 洋武が家に帰ると門にハナが出ていた。そして洋武の姿をみるといきなり激しく殴りつけてた。「あれほど外にいってはいけないといったのに。いまね、朝鮮の人がきて日本人は外出してはいけないといってきたのよ。生命財産は保障できないといってきたのよ。お前は死にたいのか」。
 いつもはやさしいハナには有無を言わせない恐ろしさがあった。「生命財産」という言葉は洋武にとっても、多分ハナにとっても初めての言葉だった。しかしそれが何を意味するか国民学校四年生の洋武にもすぐわかった。
 ハナは、洋武がでたまま帰らないのを心配してずっーと門前で待っていた。そこへ朝鮮人の青年が「日本人の外出禁止」を伝えにきたという。
 由美がお使いから帰ってきた。「オマニたちが共同井戸の周りで蛍の光を歌っていたよ」とハナに報告した。「戦争が終わって、もうだれか転勤でもするのでしょうかね」。ハナはそうつぶやいた。
 一七日の夕方だった。何やら国道が騒がしかった。トラックに青年たちが鈴なりに乗って、日本軍の小銃をもち大きな声で二種類の歌を歌って通っていった。その一つは「蛍の光」の曲を朝鮮語で歌ったものだった。どうも転勤のための「蛍の光」ではなかった。はるかに行進曲風だった。節目に「マンセイ」 (万歳)ということだけわかった。
 わが家は順安の街の北はずれにあった。トラックはわが家を過ぎて砂金会社の広場で向きをかえて、また街の中に入っていった。わが家の前では青年たちがひときわ大きな声を張り上げていたようだった。それから数日間この騒ぎは毎日続いた。
 蛍の光の曲(スコットランド民謡)に合わせて歌う愛国歌は、朝鮮全土で歌われたらしい。朝鮮で終戦を迎えた日本人の多くの人が、この 「蛍の光」 のことを印象深くふれている。日支配下では歌うことが禁止されていた。
 日本語訳は次ぎのようなものだった。現在、韓国の国歌と曲は違うが内容はほぼ同じものだっ
た。
  東海の水 白頭の山/ かわき尽きるまで 神まもりたまいてわが国万歳/
  無窮花(むかんが) 三千里 華麗 江山/ 大韓人の大韓国へ とわに安かれ
  (最後の二行はリフレイン)
  (*歌の解説 「東海」 とは朝鮮の東の海、つまり日本流にいうと日本海。三千里とは朝鮮の里程で一里は日本の十里。朝鮮半島の南北の距離を示す。無窮花はむくげ。韓国の国の花。朝鮮では「錦繍江山三千里」といって美しい織物のような川と山をたたえる美称として三千里を使う。朝鮮の国の姿をこの詞はすべて表現しているように思える。)
 その一八日の夜遅くだった。国道の騒ぎが広がった。朝鮮人の行き来が激しくなるとハナが「火事らしい」といって門まで出た。東の方の順安神社のあたりにあかあかと炎が見えた。そして 「順安神社が焼き討ちされたと朝鮮人が言っているよ」 といって帰ってきた。晋司とハナもひどく憤慨していた。神社が焼かれるなど世も末だと感じた。しかし、どうにもならなかった。
 その翌々日だった。「兵隊さんがクラブに来ているので子供たちは集まるように」 という連絡を受けて栗本鐵工所のクラブに集まった。兵隊さんは二十名くらいいた。きちんと軍服を着て整列した兵隊さんばかり見てきたがこのときには違っていた。兵隊さんは年輩の人が多かった。小銃とか牛芳剣とかは一箇所にまとめられていた。そして夏のシャツをだらしなく着て、中には裸でパンツ一枚の人もいた。兵隊さんは碁とか将棋をしていた。寺山君や順ちゃんもいたがあつまった十名ほどの子供たちも、すぐけんかになってわあわあ騒いでしまっていた。クラブは柔道と剣道ができるほどの広さがあったが、そこを運動場のように駆け回って遊んだだけで帰ってきた。
 この兵隊さんは四日ほど順安に駐留していていなくなった。
 ずっと後になって、当時の朝鮮の混乱の反映だったことを知った。八月一六日、朝鮮総督府の容認のもとに呂運亭(植民地当時の独立運動家) を中心に京城(ソウル) に建国準備会ができて早速ラジオをとおして朝鮮語で演説をした。独立のために準備をしよう。政治犯は解放された。住民の安全のために建国準備会は責任を持つ、という演説だった。私が警察署でみた留置所の解放と保安隊のひとが「日本人の夜間外出禁止令」を伝えにきたのは、建国準備会の方向での動きだった。ところがこうした建国準備会の動きは総督府によってすぐ取り消されて、もう一度日本軍が治安と保安に取り組むことになった。全朝鮮の各地に軍隊の小部隊が派遣された。しかし、北朝鮮ではソ連軍の進駐がはやく、その軍隊もそれぞれ原隊に復帰させられた。順安に派遣された二十名ほどの兵隊さんたちもこの総督府の指令に基づいていたのだろう。
 平壌一中の寄宿舎にいっていた典雄兄さんが平壌から歩いて帰ってきたのは二十日を過ぎていた。もう汽車の切符がとれなかった。典雄兄さんは、平壌一中にはいって寄宿舎生活で栄養失調になり一年休学をしていたから中学五年生の最上級生だった。

注:うっとおしい
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投稿日時: 2008-7-23 8:02
登録日: 2004-2-3
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・19 (林ひろたけ)

 その日の昼 八月十五日と終戦前後・3

 二二日の昼頃、林家の前は異常な雰囲気になってきた。朝鮮人が白い朝鮮服をきて、あの日の丸を半分墨で塗りつぶした韓国の小旗と真っ赤な旗をもってわが家の前の京義国道にぞろぞろと出てきた。八月十五日以後、林家の門は昼夜問わず閉められたままだった。ハナはさらに玄関や家の鍵も閉めて「絶対に出てはいけません」と家の中にいるように命じた。突如として「ウラーウラー」 (ロシヤ語で万歳)という歓声とばんばんという鉄砲の音にあわせて国道はあわただしくなった。怖さもあった。しかし、何が起こったかも知りたかった。洋武は台所から抜け出し、地下室の屋根に登り板塀の隙間から外をそっとのぞいた。ソ連兵がトラックに満載されてゆっくりとしたスピードで次々と前の国道を通っていた。トラックは何台も何台もゆっくり走っていった。雨の降らない朝鮮の砂利道路はものすごい砂煙を上げるが、そのときは砂塵が煙のようになって国道の向こう側が見えないはどだった。
 しばらくすると戦車が入ってきた。それは日本軍の戦車とは比較にならない、今まで見たこともない大きな戦車だった。国道の道いっぱいに広がって、砲塔を左右にゆすりながら、ゆっくりと国道も狭いとかんじられるほどいっぱいだった。砲塔が左右にむきを変えた時、正面に戦車の大砲が向けられた。洋武はもうだめだと思った。しかし、次には戦車の砲塔は向こうの方を向いてほっとした。 戦車は泥だらけだった。しかも草や緑の木の枝などで迷彩がはどこされ、戦場の現場から駆けつけた様子が感んじられた。砲塔からソ連兵が体をだし、戦車の上に数人の兵隊が銃をもって乗っていた。ウラー・マンセイという声が響くほどに、彼らはその小銃を高く掲げた。銃は今まで見たことも、また写真や戦争の絵にも載っていない奇妙な銃だった。筒のうえに丸いお盆が載っているような形だった。
 戦車は大小十輌をこえていた。戦車が通るたびに「マンセイ。ウラー」の声が広がった。戦車の轟音はそれからもしばらく続いた。
 あとで兄典雄は「あれはソ連の自動小銃だ。丸い盆のところに弾倉になっていて、一回引き金を引くと数十発一度にでてくる。銃の筒が下を向いていて取るといっしよにバッバッツと弾が出てくるのだ。真っ赤な旗はソ連の国旗だ。ウラーというのはソ連の万歳だ」などと教えてくれた。
 典雄はどこから仕入れてきたか正確な知識を家族に披露していた。
 昨日まで日の丸をもち、「大日本帝国万歳」 といっていた人達がソ連兵に向かってウラーを叫ぶことに私はなにか納得のいかないものを感じていた。何もかも一八〇度かわっていた。
 その夜、夕食の時、由美が晋司に聞いた。
 「お父さん。ロシヤって共産主義の国なんでしょう。共産主義ってどんなこと」。ハナも典雄も私も聞き耳を立てた。「働かざる者食うべからずだよ。それに天皇陛下を打倒せよとか、私有財産はみんな否定するんだ」。晋司の共産主義もあやふやだった。軍隊時代に受けた教育の知識の切れ端が伝えられた。「私有財産の否定って。うちの財産も没収されるでしょうか」 とハナが聞いた。「わからない。戦争に負けるとなにもかもおしまいだ」。会話はそれでおしまいだった。しかし、事態が大きく代わり始めていることを痛感せざるを得なかった。
編集者
投稿日時: 2008-7-24 8:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・20 (林ひろたけ)

  武器探しそして略奪・1

 終戦になってすぐの時だった。ハナは晋司に 「郵便局から千円いや二千円ほどおろして、電報為替で俊雄のところに送って。何があるかわからないから」と頼んでいた。晋司は乗り気でなかった。 「二千円は多すぎる。そんなにばたばたすることはない」。ハナは激しく反発していた。「こんな時こそすばやくやってやらないと」。千円のお金は月給百円に時代だったから、通常ならいくら大学に入っているからといっても大きすぎる金ではあった。しかし、ハナは必死に頼んでいた。晋司は郵便局で二千円を送ったが電報為替にはしなかった。この金は引揚後わかったことだが、俊雄のところには届かなかった。このことは 「男の人は肝心のときに役にたたないのだから」とあとあとまでハナが晋司を非難する材料になった。
 日本人には夜間は外出禁止になっていたが昼間はまだ街に出ていくことができた。
 両親は金融組合や郵便局に行き貯金をあるだけおろしに行っていた。しかし、林家の貯金の金額のうちほんのわずかな金額しか貯金は戻ってこなかった。「郵便局や金融組合には現金を出し渋るのよ」 とハナはそう嘆いていた。もちろん子供にはどのくらいお金があるのかわからなかったが、典雄もハナといっしょに毎日くりかえし貯金をおろしに行っていた。
 洋武は学校もなく家に一人でじっとしている状況になった。すっかり仲良くなった寺山君の家に明るいうちは遊びに言った。寺山君の家は栗本鐵工所の普通江の社宅だった。そこはいつも日本人の子供たちがいてにぎやかに遊んでいた。社宅の前には京義本線が通っていた。京義本線を通る列車はどの客車も人で一杯であふれるようになっていた。なかには貨物の屋上にも乗っていた。その中でも兵隊さんが貨物に乗せられて北に向かっていた。貨車は暑さもあって開け放され兵隊さんが乗っている貨車が北に向かって走っていた。
 子供たちはいつものように 「兵隊さん万歳」 と両手を挙げた
 洋武は、兄に 「北に向かって兵隊さんたちが貨車に乗っていったよ」 と報告した。兄は暗い顔をした。「武装解除になって捕虜で連れて行かれるんだ。要塞の建設でも使われるとみんな殺されるんだ」。洋武は晋司の顔を見た。晋司は黙って唇をかみ締めていた。
 戦争が終わって朝鮮人の職場の移動も激しくなった。転勤になったとか、自分の家に帰るとかお別れのあいさつにくる朝鮮人の若者も多かった。晋司は、酒飲みではあったが朝鮮人の若者は大切にしたらしい。若者たちは丁寧に頭を下げて別れていった。
 そんな頃、「保安隊です。武器があったら出してください」。数名の朝鮮人の青年がやってきた。
 みると安田さんが隊長だった。
 「わあ安田さんだ」 と洋武は叫んだ。
 「コウタイホというんだ」 と安田さんはすこし怖そうに洋武に言った。
 安田さんとはわが家では久しぶりだった。その安田さんは、朝鮮人の間で組織されたばかりの保安隊の隊長になっていた。はじめはおだやかな調子で武器の引渡しを晋司に迫っていた。晋司も前の使用人に対する態度で横柄だった。ピストルが二挺、サーベルが一本、それに日本刀が三本が出されていた。サーベルはいつも父が腰につって出かけたし、日本刀は和雄がときどきだしては粉をたたきつけて手入れをしていたので何本あるか知っていた。しかし、ピストルが林家にあることを知ったのは初めてだった。ピストルのうち一挺は短銑だった。しかし、安田さんはそれでは少ないもっとあるはずだ。とねばった。はじめは対等に付き合っていたが、そのうちに晋司は座敷に座らせられ、安田さんは椅子に腰掛けて何か激しく怒鳴っていた。晋司が「安田君」というと「俺は安田でない。日本読みでもコウタイホ(洪泰保)というんだ」と声を荒げた。
 そして結局、武器を探すといって家宅捜査が始まった。
 その時、安田さんは朝鮮語で部下になにか命じていた。洋武は「安田さんも朝鮮語で話すの」とつい尋ねた。
 「洋武君、日本は負けて朝鮮は独立するんだ。独立すれば自分の国の言葉で話すのが当然だよ」。
 もう、以前のように武ちゃんとは言わなかった。ハナがあわてたように洋武を安田さんから遠ざけた。
 保安隊の人達によって、軍とつくものは全部集められた。軍靴、軍帽、軍の靴下、洋武のおもちゃの鉄兜まで。そして、郵便局や金融組合から下ろしてきた現金が次々にだされて全部集められた。百円札が積み上げられた。
 ハナが悲鳴を上げた。ハナは畳に頭を摩り付けながら「これは私たちの生活費、これ以上金融組合もだせないといっているの。何とかして残して」と頼みこんだ。安田さんは「保安隊の軍資金がない。そのために全部もらっていく。日本軍は無条件降伏をしたのだ。在郷軍人会の会長も日本軍だ。あなた方の生命は保障するが財産まで保障できかねる」と怒鳴りつけ始めた。軍刀と小銃をハナの前に突きつけた。百円札一枚を残して、五千円をこえるお金が全部もって行かれてしまった。当時一ケ月の給料が百円の人は高給取だった。
 晋司もハナも呆然としていた。まったくお金がなくなってしまったのだ。
 その後も保安隊が繰り返しきて「金を出せ」と迫ったが、もう林家にはお金がなかった。しかも郵便局も金融組合も閉鎖になって、貯金はおろすことができなくなった。
 保安隊は代わり番こにやってきた。保安隊は小銃を持ち、軍刀を持っていた。そのもち方がおかしいので父は「こう持つのだよ」と教える一幕もあった。
 林家は朝鮮人部落の中にあった。そのために保安隊が来るたびに朝鮮人がぞろぞろついてきて台所などに入り込んで、欲しいものをもっていった。略奪が始まったのだ。林家が朝鮮人部落のなかにあったことと、在郷軍人会長宅でもあったので順安の日本人の家庭のなかでも、わが家への略奪はもっとも激しかった。
 日本人への圧力が強まる中で「夜間外出禁止の中、酒を飲んで町を歩いていた」という理由で父は保安隊に連れて行かれた。その時も酒を飲んでいた。二時間ぐらいたって、わが家に引き取るようにという連絡があった。中学生の典雄が、保安隊の屯所、それは前の警察署であったが一人で出向いていった。夜おそく帰ってきたのは典雄一人だった。典雄は泣きながらハナに報告していた。晋司は酔っ払って警察に収容されていた。そうとうに飲んで意識がないほどだった。典雄の前で朝鮮人の若者から繰り返しバケツで水をかけられていた。「日本人はいばっていても、このざまだ。そういってくり返し水をかけるんだ。お父さんもぐでんぐでんで『安田でてこい』など言うから、ますますみんなおこらせて」。
 典雄は体は小さかった。子供のような中学生だった典雄の悔し泣きは洋武には忘れられない衝撃だった。「戦争に負ければみじめね」とハナも怒りをこめた顔でつぶやいていた。
 晋司は翌日顔を大きく腫らしてまだぬれたままの姿でしょんぼりと帰ってきた。殴りあげられて顔を腫らしていることは明らかだった。
 順安での日本人として、在郷軍人会会長としての権威も面子も完全に崩壊していくことが子どもの洋武にも感じられた。
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