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     イレギュラー虜囚記(その2)
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あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-8 22:02
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
イレギュラー虜囚記(その2)
   とうとう部隊を離れて通訳稼業へ

 一服していると、前方から何か騒ぎが移ってくる。ロスの兵隊が、時計、万年筆、シガレットケース、皮製品など金目のものを日本兵から巻き上げているらしい。
寝台車から田中隊長が戻ってきて、輸送本部へ来いという。行ってみると車の中程に佐官《さかん=将校の内大佐中佐少佐級の人》が五、六人いる。

「やあ、君はロシヤ語がうまいそうだね。まあ坐り給え」といやに愛想がいい。隊長の話では、最初我々の合流を嫌がっていたが、ロシヤ語の分かる者がいると知って直ぐ承諾したとか。現金なものだ。

車内は上級将校と女、子供ばかり。のべつにソ連兵が入ってきて、長靴を寄こせの、図嚢《ずのう=地図などを入れる皮製のカバン》だ、時計だと奪いに来る。自動小銃や剣付き狙撃銃を突きつける。
しかたなく自分が出て、「そんな事をすると本部(シタープ)へ報告するぞ、向うへ行け」と追っ払う。びっくりしたような顔をする奴、ぐずぐず言う奴などさまざまだが、何も取らずに次の車輌に移る。

中には「ニッポンバンザイ、両手を上げて降参したろ、何を文句言うか」と捨てぜりふで行く奴もいる。あちこちの車輌から通訳さん来て下さいと喧しい。いちいち聞いていたらラチが開かぬ。

停車場司令部へ行って頭のツルリと禿げた人の良さそうな少佐をつかまえ、状況を訴えて取締りを頼む。彼は「なに、そんな悪い兵隊がいるのか。そりゃいかん。君、そんなのがいたら俺の所へ引っ張って来てくれ。厳しく処罰するから」と言う。

「冗談じゃない。自分は日本軍の将校ですぜ。ロシヤの兵隊を捕まえられますか」「いやいや、何でもない。連れてきてくれ」と、この少佐め、うまく逃げて兵隊の掻払いを黙認する気だ。

 列車は、朝から止っているが、ソ連側から何の指示もないとのこと。昨夜の近歩一《近衛歩兵第一連隊》はどこかへ移動したらしい。青木中佐の命令でときどき司令部に指示を求めに行くが、「すぐだ」と言うだけでさっぱり要領を得ぬ。随分呑気な軍隊もあるものだ。

 午後三時すぎ、やっと恰幅の良い大佐が馬に乗って来て、全員下車して被服、糧秣を降ろせと言う。入れ代わりに精悼な顔付の大尉が来て、積み卸し司令の少佐の代理だ、米は米、被服は被服と類別せよとテキパキ指示を出す。

 被服梱包の中には、結構将校行李《将校用の私物身の回り品を入れる行李》が多い。蓋が明いて、細君のらしい派手な着物がこぼれている。

 二時間で積卸し完了。トラックへの積載要員三百名を残し、他は駅から六粁の吉林師道大学のラーゲリに入ることになった。
自分は、日ソ両方から通訳さん、ベレヴォッチク《通訳》とあちこちへ引っ張り回されて大忙し。我が小隊も出発することになった。

ソ軍の積み卸し司令は昨夜見かけたアバタ面のカラヴァーエフという大男。誠に口喧しく、かつ歩き、かつ怒鳴り、寸時も止まるところ知らず、なかなかこの大将に付いて回るのは骨が折れる。

「小隊が出発するから一緒に行く」と言ったら、「いや、お前は我々と一緒だ」ときた。えらい事になった、こんなのに捉まったらどうなるかと心配していると、少佐は気配を察したか、「なに、通化《つうか=中国吉林省西南の都市》から毎日二本列車が入る。それが済んだら万事終りだ」と言う。致し方なく承諾。

これで、本隊から千切れ、自分の小隊からも千切れて、到頭一人ぼっちになってしまった。

 カラヴァエフ少佐、精悼な大尉のプーシキン(註=目付役のゲペウ《ソ連代表部警視庁》だったかも知れぬ)に青木中佐と副官、自分の五人が積み卸し本部だ。カラヴァの動くところ必ずその後について回ることになった。

何軒目かの貨車でひょっこり牡丹江教育隊時代の中里候補生に出会い、夏上衣をもらった。これでやっと将校らしく格好がつく。階級章がないと軍属通訳と間違えられる。

 夕暮れになって夕立があった。米俵のシートの下で雨宿り。カラヴァが「雨の降る日は酒を飲むのがいいな」と笑う。サケ、フムフムと青木少佐が愛想顔を作るが、ぎこちなくて哀れに見える。カラヴァの尻について回る自分も哀れだ。

 夜に入って、スチエードベーカー《米国製トラック》が三十両到着し山のような物資の徹夜輸送開始。眩いばかりのヘッドライト、落着いた力強いエンジンの響き、外国の近代的軍隊の感が強い。前車輪も起動式になっているのには驚いた。

米国からの援助物資は相当なものらしい。ソ連兵の缶詰まで米国製だ。ツションカ(牛缶)と大きくロシア文字が出ており、星条旗が描かれイリノイ州と印刷されている。
                          (つづく)


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-8 22:08
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
   吉 林 駅  二十年八月下旬

 日本軍の集結は、八月下旬、ほぼ完了。各隊は、師道大学のラーゲリ《捕虜収容所》ヘ。後は、何本もあるプラットホームに山のように残された食糧、被服等の物資搬出作業のみ。自然に、ソ軍の将校や兵隊と親しくなり、話が弾む。

 先ず最初は、独ソ戦に参加したのが彼らのご自慢で、従軍記章や叙勲証明書を見せる。続いて、カチューシャ《ソ連製多連装ロケット発射機》には驚いたろうの、赤軍の戦車、大砲はどうだの、飛行機は素晴らしいだろうのと得意満面。感心して見せると相好を崩して喜ぶ。

何処でロシヤ語を習ったかと必ず訊く。インスティチュートだと言うと、例外なくオゥ~と驚いて顔を見直す。
十数年教育を受けた人間が、下級将校でいるのが不思議な様子。このあたりが兵隊クラス。

セルジャント(下士官)になると少々程度が上って、モスクワで宴会のつもりのドイツ軍が、赤軍に叩かれてベルリンで葬式をやった、日本はスターリングラードの陥落を待ってウラルでシペリヤを二分する計画だったが、ソ連に刃向う奴は皆日独のように撲り倒される。

「ビトヴア オーゼロハサン」「ビトヴア ハルヒンゴール」でコテンパンにやられたろと、張鼓峯事件やノモンハン事件を持ち出す。五年以内に米ソ戦が始まるが、米軍など物の数ではないと力んでいる。

しかし、どの戦車も、砲塔にクラッチ板の予備を数枚ブラ下げているようでは心許ない。自慢のカチューシャ砲も搭載車輌は全てアメリカのスチエードベーカー。兵食《兵隊の食料》の中心は米国の豚缶ではどうだか。

 吉林方面は、沿海州《ロシア極東日本海に面したプリモリスキー地方》から侵入した部隊が多く、彼らはケーニヒスペルグ(註=現ロシア領カリユーングラード)を攻略して、さあ、次はベルリンと思っていたら、貨車に詰め込まれて遥々極東まで来た。訳の分からぬうちに八月八日の夜、命令をもらって満洲に進撃したということで、ドイツに対するような敵愾心は殆んど持っていない。

大抵の兵隊がケーニヒスペルグ攻略記念章を持っているところを見ると、どうやらソ連はメダル製造だけは素早いようだ。兵隊を褒める最良の手段か。

 綏芬河《すいふんかわ=ロシア沿海州との中国の国境の町》に入った部隊は、日本軍国境守備隊の糧秣、被服の量に驚いたらしい。トラックで一週間かかって運び出しても運び切れなかったとか。
進撃途上の日本軍倉庫で酒や缶詰を腹一杯飲み食いしたが、日本軍の兵器の少なさと貧弱さにこれまた吃驚したらしい。

 赤軍の兵、下士官は総じて幼稚、無学だが、将校の中には眞当な者もいる。日本軍は携帯天幕の控え杙《くい》まで持たせるのか。木の枝で間に合うだろう。それより良い兵器を持たねばと笑った将校がいたが、彼の攻略予定地囲を見ると、我が方の配置が一目瞭然。四、五月に内地防衛で移動した師団名まで記入されていてがっくりした。

 ソ連軍の連中と付き合っていると段々、我が陸軍の形式主義が目につき出した。第一、戦闘には役に立たない軍刀やゴボウ剣を常時プラ下げていたこと。
だん袋《布製の大きな袋》に穴を開け、袖を縫い付けただけのルパシカ《ロシア民族衣装》型軍服と、丁寧な仕立ての五つボタンの軍服。縫製の手数は五倍は違う。信玄袋《旅行用の手提袋》に負い紐を付けただけの背嚢《はいのう=背負いカバン》と毛皮で被われた箱型背嚢。

日本の輜重隊にも、帯のように長い布製の背負袋があり、斜(はす)に肩から掛けて胸元で結ぶという甚だ不格好なものだが、何でもぶち込めるし、馬の鞍や輜重車の端に括り付けることが出来て便利だった。

作戦要務令《注》の第一条かに、「軍ノ主トスルトコロハ戦闘ナリ。諸事戦闘ヲ以テ旨トスヘシ」とか書いてあったようだが、どうも我が国の軍隊は剣付き鉄砲を担いだ観兵式用軍隊だったらしい。

 ソ連の兵器は実戦向きだ。自動小銃(アフトマット)の銃身は、旋盤で削り出した筋がそのまま。照星は針金を輪切りにしてチョンとくっつけただけ。中には斜め切りのもある。狙い定めて射つわけではないから、これでよし。弾丸は将校の拳銃と共通になっており、有効射程二百米。

目標を狙うのは、一ヶ分隊に二、三人いる狙撃兵。銃は日本の三八式と同じ元込め五発。焼き肉用の串みたいな折り畳み式銃剣が取り付けてある。親しくなると、自動小銃や拳銃を自由に射たせてくれる。
いいところを見せようと、拳銃を顔に近付けて狙い射ちをしたら、空薬莢が真上に飛びだ出しオデコにコツン。血が出た。

薬莢は斜め右にハネ出すものだが、真上の方が工作し易く、故障が少ないのかも知れぬ。こんなことをやっているうちに、先方も段々本音を洩らすようになる。

関東軍の兵隊は完全武装で一日70粁歩くと教えられて、角でも生えているのかと思ったぜとか、五月の赤の広場での対独戦勝パレードでは、銃口にグリスを詰め込まされたと片目をつぶって、ニヤツと笑ったのもいた。

 カラバエフ少佐の補佐官で、例のキビキビしたプーシキン大尉が言う「あそこで働いている日本兵を見よ。何と軍紀厳正で逞しい兵隊達だ。それに比べて赤軍の兵隊は全く駄目。どうしてこんな立派な兵隊に兵器を与えなかったのか。

現代戦は技術戦(テクニカ)だ。テクニカの無い軍隊は兵員を揃えても戦力にはならぬ。先ず空軍で叩く、次に砲兵、戦車で叩き、迫撃砲と重機で火点を潰す。然る後、無人の野を歩兵が行く。これが戦闘だ」と。

当方声無し。「独乙軍はどうだ」「独乙軍は体格も良いしなかなか強い。ただし、強いのは飛行機、戦車、砲兵が揃っていて、調子良く進撃している間だけで、勝ちに乗じては実に強いが、いったん押され気味になると全く脆い。
主兵器がやられると忽ち降伏する部隊が続出する。戦闘教令に無い状況が生じると、すぐ混乱を起す。

その点、赤軍は臨機応変、大いに戦った。独乙軍に比べると日本兵は問題なく強い。最後まで頑張る。惜しい軍隊だった」とベ夕ぼめ。ただし、戦車に対する肉迫攻撃は無謀だと顔をしかめる。

その後いろいろな将校や兵隊とも話したが、スメルニキ(特攻)は無駄な人殺しだ、スメルニキに出れば遺族に金が支払われるのかと訊く奴もいた。ソ連では死刑囚を使ったことがあるらしい。

 八月も終りに近付くと殆んど用件はない。有馬兵長が運ちゃんに金を握らせてスチユードベーカーで駅へ来た。ラーゲリでは将校と兵、下士官は完全に分離され、糧秣等の物資は一括して倉庫に保管するので、私物も何もあったものではない。

食糧は一日二回、粥だけだから、ラーゲリ行きは成るべく遅らせて、ここでうんと食っておくのがよいと恐るべき情報を持って来た。

駅では食糧山積、食べ放題、ゼンザイ、ボタ併、カツレツと豪華版で、演芸会もやって呑気なもの。日本人の居留民にも、歩哨(チョサボイ)に隠れて食糧を分けてやるが、荷車も使えず、担いで行くわけにもいかず、大した分量にはならぬ。
夜間は発見されると間違いなく射殺。何とも気の毒なことだ。

                           (つづく)

注 帝国陸軍において 陣中勤務や諸兵科の戦闘について訓練方式  等を示した 軍令


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-9 14:38
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
 9月1日、

最終集結列車到着。関東軍研究部という部隊もいる。
聞けば、関東軍司令部は八月十一日、通化に移動、航空軍司令部は翌日関東州《注》へ撤退、我が隊の新京本部もこれと行動を共にしたらしい。第一線はほったらかしとは恐れ入った。午後には最終部隊もラーゲリヘ行き、日本人は自分だけ。

ソ側は、カラバも、プーシキン、フラットキン、マーシャまで居なくなって、ジャンギヤバン《フランスの映画俳優》に似た中年の少尉一人。あとは残存物資の警戒兵が少々。少尉は、これからもっと腹の立つことがあるよと教えてくれた。
                    
 昼すぎ、カラバエフがジープで駅に来た。駐屯地司令部へ行こうと言う。丁度そこへ、褌一つで後ろ手に縛られ、顔から血を流している日本人が三人、ソ連兵に連行されて来た。

吉林市内で満人の掠奪騒ぎがあり、日本人の住宅街を襲っている満人の首魁の一人が拳銃を取り出す際誤って自分の手を射ち、それを日本人が射ったとソ連兵に訴えたので捕らえられた。拳銃は無いが、弾を持っていたので連れて来られたと言う。

調べてみると、弾箱には25発きっちり納まっており、使った形跡はない。カラバに話して、とにかく現場に行くことにする。

カラバと自分がジープ、日本人とソ連兵一ヶ分隊がトラックで続く。
初めて見る吉林市街はなかなか美しい。第二松花江のプロムナードに青々とした並木が茂り、一寸したドライブ気分。駅の北方の日本人街に入ると、道路脇に邦人の男女子供約70人が一塊りになって座っており、歩哨が一人護衛している。

住宅街では三百人程の満人が、屋根といわず、物置といわず、黒山のように集って掠奪の真っ最中。瓦や屋根板を剥ぐ者、畳を担いでいる奴、ちゃぶ台と水屋の引出しを持ってヨチヨチ出てくるテン足の女、座布団を抱えて走り出す小孩(ショウハイ)、ワイワイキャーキャーと喧嘩腰で奪い合っている。

ソ連兵も二人だけでは処置なしの体。カラバはヨッブトヴオユとばかり、分隊全員に支那人を追い払えと命じ、住宅街へ踏み込んだ。どの家もすっかり掠奪されており、一軒の家の中に日本人の男性六人が滅多打ちにされて血の海の中で絶命していた。

我々の怒りも爆発し、少佐は手頃な鉄棒、自分は軍刀の峯打ちで手当たり次第満人を撲りつけ蹴り飛ばし大暴れしたが、相手は大人数、抵抗はしないが、蝿と同じで埒があかぬ。到頭カラバは射撃を命じた。

自動小銃を空に向けて脅し、きかなければ脚を射つ。射たれた脚を屋根から垂らして訴えている奴をカラバはムズとつかんで引きずり落し、傷の上を蹴り上げる。「奮戦」約20分、一応日本人街から追い出したが、まだ遠巻きにして此方を眺めている。
何故日本の将校が混っているのか不思議そうな顔付き。

 我々が道路上の邦人の処へ出て来た時、手に繍帯を巻いた満人がそれを見せに来た。カラバは力一杯そいつを撲り倒した。
治安維持会の満警《満州国警察官》がノコノコ現れたので、カラバは二度とやらせたらお前は死刑だと怒鳴りつける。
通訳してやると吃驚したような顔で満人どもを追い立てる。八百長じみて信用できぬ。

 道路上の婦人が「このロシヤと日本の軍人さんに有難うを言いましょぅ」と呼びかけ、全員から最敬礼された。カラバは手にした鉄棒を満人の群にぶん投げた。子供達が兵隊さんと寄ってくるが何にもしてやれない。

 再び駅に戻る。軍人家族の女、子供が取り残されて心細げ。カラバがトラックを仕立てて婦女子収容所へ送り出した。

 カラバとコメンダトウーラへ行く。司令部は第二スンガリーに面した吉林省公署の堂々たるビル。

閣下に会わせてやるとカラバが二階の一室のドアを叩く。元の応接室らしく、日本軍の中将、少将、少佐、准尉、当番の上等兵と、上衣を脱いだ年配の人の計六人。
我々が吉林駅で大慌てで調達した味噌樽が廊下に並んでいた。

                          (つづく)

注 1905年日露戦争後 ポーツマス条約によりロシアから租借地を  引き継いだ 旅順 大連地域の呼び名


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-9 14:44
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
  ソ連軍駐屯地司令部(コメンダトゥーラ) 二十年九月上旬~中旬

 この部屋に居た将校は、通化の125師団長今利中将、旅団《りょだん=陸軍の編成単位で連隊の上 師団の下の規模》長の後藤少将、副官大東少佐、宮野通訳官等であった。今利中将が「我々は陛下の命令で停戦したのだから、内地へ帰還しても、捕虜の罪で軍法会議に附される心配は無い」と説明するので、この人達はこんなことを心配していたのかと少々驚いた。

 カラバエフが、司令部副官のスタリッキー大尉に引き合せ、当分一緒に居れという。部屋は今利閣下の隣り、元の警務課の大部屋。

衝立で仕切ってあり、子供々々した赤軍の当番兵がいる。なかなか親切で、使い走りはしてくれる、夜は机の上に毛布を広げて床をとってくれ、本人は椅子の上で窮屈そうに寝ている。

スタリッキーは30歳前後、粋なロヒゲを生やし、「現代の英雄」のペチョーリン《19世紀ロシア文学作品の主人公》もかくやと思わせる好男子。戦傷で少し足を引摺っているが、これがまた様になる。

 仕事は別にない。ときどき連行されてくる日本兵や避難民の事情調査ぐらいなもの。兵隊の中には、所属部隊名はおろか、通称号も知らないのがいる。関東軍も余程慌てて頭数を揃えたようだ。

 のんびりと結構なことだが、丁度窓の上にスピーカーがあり、朝早くから「ヴニマーニエ ヴニマーニュ ガヴァリット ギーリン」と怒鳴るや、大音響で終日音楽放送。隣りの今利中将も大弱りだった。

飯は、朝昼晩夜と一日四回、スタリッキーのジープで駅前の三陽ホテルのグリルに行く。ここが司令部の将校クラブになっており、若い中尉が責任者で、他はすべて元の従業員。朝のテーブルには各人に煙草三箱ずつが揃えてある。ビスケット、トマトは食べ放題。

給仕は日本娘三人と白系一人。まだ軍刀を下げた将校がいると頼もしがられ、朝食時は禁止らしいビールも出してくれる。赤軍の男女将校と会食だが、自分一人味噌汁と茄子の浅漬を賞味する。

ビール欲しさに他の将校が朝食に誘うが、スタリッキーが離さない。初めて食堂に行った時、日本娘のズボン(モンペ《裾を足首で縛った労働用の袴》)をスカートに替えるよう説得してくれと頼まれ、嫌々申し入れたら、翌日皆スカートに替えていた。
白系のニーナや女将校はさっばり人気が無く、日本娘は大もて。中でもミドリさんという身体つきのしっかりした娘は引っ張りだこだった。

 この将校クラブに、ときどき子供達れの日本人らしい夫婦が来る。女は三十過ぎの一寸した美人で、亭主は少し若い。三人ともロシヤ語で話し合っている。妙な奴もいるものだが、向うもこっちに話しかけない。
その後、カラバと彼らの家に行ったが、堂々たる邸宅で、豪勢な応接間には赤軍将校の出入りが絶えない。浦塩《ウラジオストク》帰りのアカ《共産主義者》というところか。

 今利中将らの食事も、毎回グリルから赤軍の兵隊が運ぶ。閣下は一歩も外へ出られないので、君は大したものだと冷やかされた。

 九月上旬、朝から玄関で軍楽隊が演奏を始めた。スタリッキーは「ソ連のお祭りだが、君らにとってもお祭りだ」という。この日はソ連の対日戦勝記念日で、日本人民解放の祝すべき日だそうだ。

夜、スターリンの放送があるので司令部の将校全員がスタリッキーの部屋に集まった。自分はラジオの一番前に座らされた。澄んだオルゴールの響が伝わって、やがてスターリン《ソビエト連邦共和国総書記》の演説が始まる。
太いが、案外柔らかい声だ。含み声なので言葉のアヤが聞き取り難い。

日本が降伏して、東西の二大戦争根源地が覆滅《ふくめつ=完全に滅びる》したこと、日露戦争、シベリヤ侵入、オーゼロハサン、ハルヒンゴルの戦い、独ソ戦中の満洲の兵力増強等を挙げ、ソ連はこれで日本との間で清算すべきものを清算した。今後は、ドイツファシズム、日本帝国主義を破摧した民主諸国が栄えるであろうというような主旨で約15分。南樺太、千島を取り返したことに触れていたから、スターリンは日露戦争の仇討ちをしたつもりでいる。

 放送が終って将校連がどうだと訊くので、スターリンのロシヤ語はサッパリ分からんと返答しておいたが、彼らも別段追求してこなかった。一同ジープを連ねてグリルヘ。今日はウオッカ、ウィスキー、ビール何でもある。
少々朦朧としてきたところで、ジープでスンガリー《松花江》の向う岸へ疾走。日本軍司令部の建物に着く。

一階の講堂跡では、軍楽隊の演奏で男女将校がガタガタとダンスの真最中。スタリッキーがお前も踊れという。馬鹿にするな、こんな日に騒げるかと、軍刀を抱いた儘壁際のベンチで眠ってしまった。

無理に飲んだアルコールで腹工合が悪くなり、厠に入っていると女将校二人がバタンバタンと隣の厠に入るなりドドーツと大放水。軍隊の便槽は素通しだからその壮大なこと。思わず尻を上げてしまい、これでは戦争に敗けるわと思った。

何時頃か、スタリッキーに揺り起こされたら他に誰もいなかった。フラットキンやマーシャが自分の傍で何か言っていたようだがと思いつつ、夜風を切って司令部へ帰る。
スタリッキーと肩を組んで階段を上ろうとしたが、うまくゆかぬ。そのうちに二人ともむかついて、踊り場の便所でゲロゲロ吐いた。翌日は二人とも毛布を被って一日中ゴロゴロ。

 師団参謀のサローキン中佐というのがときどき現れて、日本や皇室に悪態をつくので、こちらも負けずに「俺達は陛下の命令で戦争をやめた。若し命令があれば拳固(クラコム)でも戦うぞ」とやると、中佐は「ヒロヒトミカドが何だ。彼が神様なら何故敗けた」

「インペラートル《皇帝》は神じゃない。日本人の団結の核だ。天皇が無くなれば日本人全員がハラキリだ!」と少々大袈裟に言い返す。
「何たる封建思想。何たる野蛮(ワルワリズム)!」と中佐は蔑むように笑う。こんな問答は大抵の将校とやった。言うことは双方いつも同じ。どちらも面白半分。

 自分がテーブルを叩いて赤軍将校と渡り合っているのを隣室の今利閣下が聞いて、「我々は老人で、もう役に立たぬが、君は未だ若い。腹の立つことは抑えて、つまらぬ問題を起すでない」と心配してくれる。
こっちも赤軍将校との芝居がかった平行論議がアホらしくなってきて、素直に感心したような顔をしていたら、お前はずるいぞと文句をつけられた。

 司令部では、毎日将校連と雑談するほかは、カラバ少佐とジープで市内巡視をして邦人の面倒を見たり、司令部に抑留されている満軍将官(八名)の通訳をしたりしていたが、何時の間にか今利中将一行もハバロフスク《ロシア極東地方の中心でハバロフスク地方の都市》へ送られてしまい、退屈になってきた。
スタリッキーが「お前、これからどうする」と呑気なことを言う。

冗談じゃない、どうするこうするはそっちのこと。内地へ帰してくれるわけではなし、といってお払い箱で放り出されたら食うに困る。
日本軍のいるところへ行きたいと言っていたら、ラーゲリで通訳が必要になった。スタリッキーに好きな時間に出かけろと言われて軍刀を引き渡し、当番兵と二人、今利閣下にもらったトランクをぶら下げて街をプラプラ散歩しながら師道大学へ行く。

満人の露店はソ連兵で大賑わい。吉林神社の社殿が柱を根元から切られて逆様にひっくり返っている。盛装の美人が尻もちをついた恰好。
当番兵に腕時計をやり、スタリッキーに銀のシガレットケースをことづける。
                            (つづく)


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-9 14:48
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
  ラーゲリ生活の始まり  二十年九月中旬~下旬

 ラーゲリの師道大学《吉林市にあった日本国立の師範学校》 は吉林市の西部にあり、門を入った正面の本館がソ連軍本部、右の三階建が日本軍将校宿舎、左手の大講堂が駅から運ばれた糧秣被服倉庫、その向うの並木道を隔てて下士官、兵の宿舎、更に向うの師道大学にも兵隊が充満している。

 将校宿舎は大佐から大尉までが三階、中少尉が二階で、将校団長は吉田大佐。日本側連絡将校が門田参謀。副官は甲が少佐、乙が大尉、丙が少尉、当番兵は廊下で寝て、准尉が当番長。自分は一応甲副官付になった。

三階は机を寝台代りにし、二人に一人の当番兵が付く。二階はコンクリ床で、頭を壁に向けてザコ寝。当番兵は五人に一人。飯上げの世話をしてくれる。自分は歩兵275連隊の利根川中尉(註=伊藤清久の葬儀に参列してくれた)、鈴木中尉、年配の松村通訳官等のグループに入った。

松村老は大阪外語の出身で、一日中芸者遊びの話ばかりしている。吉林駅で、満洲製鉄の帽子を被ったオヤジが、朝鮮人參をサイダー瓶に入れて、不老不死、エネルギーの素とか言って我々にもロスケにも飲ませていたのがこの人であった。

彼らがラーゲリに入った時、将校が集められて、赤軍の大尉から、「大キイ地図、小サイ地図、軍刀、メガネ、写真機出シナサイ。今日カラアナタ達ハ、ホリョデス」とやられ、何だ捕虜とは、約束が違うと騒いだが、処置なしと諦めたとか。

門田参謀に頼まれて二人で収容所長に会い、軍刀は私物で官給品ではないので返却され度いと申し入れたが、温厚な所長から、赤軍の兵隊は子供ばかりだから、諸君の軍刀が怖くて発砲でもしたら大変。当分預かっておくと、体よくいなされた。

ロスケ《ロシア人(軽蔑の呼び名)》というか、ソ連というか、戦に勝ったら、官物だろうが私物だろうが、底の底まで掻っ払い、生き残った男は奴隷、女は慰みものにするという中世のヨーロッパかモンゴルの伝統?を保っているとは夢にも思わず呑気なことであった。

 間もなく、日本軍各兵科将校から編成、戦術、教育訓練要領等を聞き取る調査が始まった。自分はこのために司令部から移されたらしい。東外《東京外語専門学校-》や大外《大阪外語専門学校》、天理《天理外語専門学校》の連中も居たようだが、ヒヤリングが駄目だし、マーシャ等の力では手に負えない。
といって、当方もキチンと軍事露語など話せないが、八杉や松田の辞書を彼女に借りて間に合わせた。

午前午後三時間ずつ、中隊長、連隊長クラスからの聞き取りがあって苦労した。125師団砲兵隊に四一山砲《口径41センチの大砲》二門、弾薬千四百発しかなかったのには、ソ側も自分も開いた口が塞がらなかった。
最もうるさかったのはガス兵教育、フラルキ《中国吉林省チチハルの郊外にある町》の化兵《化学兵器の教育をする集団》教育隊のことを根掘り葉掘り訊いていた。

 三階の田中隊長と相談して、関東軍研究部(対ソ連軍無線傍受隊)の渡辺少佐とも口裏を合わせ、特情関係は方向探知までとし、暗号解読は伏せることにした。さらに隊長、有馬兵長とは同部隊であることも秘匿した。
これは、二年後まで親友のように付き合ったスプルネンコ大尉の忠告による。

彼と話をしていて無線傍受、暗号解読は何処の近代的軍隊でも当然行っていることだという自分の主張に対し、彼はそれはそうだが、ダモイ《帰国》が遅くなるから絶対に口外するなと真剣な面持ち。
おかげで「スパイ活動25年の刑」など馬鹿バカしい判決は受けないで済んだ。海林《牡丹江の西にある街》飛行場大隊通信小隊長ということにした。

 聞き取り調査を受ける将校以外の者は毎日、することがない。食糧も、ソ側が理解して充分配給してくれるし、(本来日本軍の物だ。ロスケも一緒に食っている)バレーをやったり、駆け足したりしている。

だんだん軍紀なるものが緩んで、髪を伸ばし始めた少尉が、陸士出《陸軍士官学校出身》の少佐と大喧嘩を始めたり、将校団本部からの日日命令に「敬礼の厳正」が出て中少尉に反感を持たれたりした。

三階の連中は屋上で、当番兵は廊下で、毎朝軍人勅諭を奉唱していたが、二階は知らん顔。噂では、天皇が退位されて皇太子が即位、秩父宮が摂政になられて元号は大新と改まったという。

尤もらしい元号なので、暫くの間、大新元年九月×日「日日命令」などとやっていた。
アッツ島の山崎部隊長《アッツ島守備隊長で戦死した》が米軍の捕虜になっていたとか、杉野兵曹長《注》が生きているというのもあった。 

                            (つづく)

注 日露戦争時 旅順港閉鎖を目的に商船を港の出入り口に沈めた  時 戦死と認定された海軍軍人


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あんみつ姫

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投稿日時: 2007-12-9 14:51
登録日: 2004-2-15
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Re: イレギュラー虜囚記(その2)
 日曜日になると、マーシャがワンピース型軍服をブラウス、スカートに着替えて、用も無いのに二階の部屋に現れる。女は女、紅一点の趣があり注目を集めた。

こっちも用もないのに顔を寄せてヒソヒソ話をして見せる。愉快な塩崎中尉が大切に持っていたホワイトローズの香水瓶で…とけしかけられたが、結局は缶詰と交換して皆に笑われた。

ソ連の兵隊に言わせると、軍隊にいる女は全て淫売《いんばい=色を売る》で、将校同士、兵隊同士で然るべく遊んでいる。女将校は夜間兵隊に近寄らないとか。軍隊の女を、ペ・ペ・ジェ(パホッドナヤ ポレバヤジェナー(野戦一夜妻))というそうな。

除隊しても、軍隊経験のある娘は絶対に嫁に貰わんと頑張っている。「女軍人の胸の勲章は、男に対する凄腕に与えられたるものなり」だと。

 フラットキン少尉は、マーシャと同じくモスクワの東洋大学の出身で、片山潜の娘ヤス女史に日本語を習い、女史の家で親子井をご馳走になつたとか。日本語がアカデミックで語彙《ごい=言葉の種類》が少ない。

ハルビンの洋服屋タイプの空軍大尉は日本語が上手と自慢だが、よく分からない表現も多く、こっちに文句をつける。志賀直哉の「暗夜行路」を抱えているのは御愛嬌だ。

彼が「アナタ達ハ今日カラ捕虜デス」とやった本人らしく、その際「大佐、中佐、少佐、大尉ドノハ一歩前へ、中少尉ハ回レ右」と号令するので、中少尉連中は、何だ呼び捨てかと思ったとか。ソ連軍では中少尉は日本の下士官並みだ。

中尉の階級に、上級中尉というのがあるが、これも使い易くする方便か。尤もソ軍の中少尉の程度は平均して日本軍の下士官以下だ。

 外部からは、ほぼ毎日避難民や満人の治安維持会にだまされた地方人が連れられてくる。一つのグループに伊藤清久が地方人になりすまして入っていた。
吉林の地方人は逃亡兵にされて連れられてくるらしく、家族持ちも多いので下士官、兵宿舎から毎夜脱走者が出、自動小銃の音が絶えない。維持会から説明事項があるので集まれと言われ、下駄履きのま連行された人もいる。
                           
 九月中旬から労働大隊の編成が始まった。古参中尉をコンバートに据え、副官、主計、軍医、中隊長、小隊長要員として20人の中少尉を当てる。将校、兵隊とも各部隊からばらばらに集めて千人の大隊を作る。

団結を警戒したソ連の方針で、抑留中は、半年か一年単位で分割、合併を繰り返す。吉林では201大隊から始まり、211大隊まで編成し、毎日一ヶ大隊ずつ出発した。行先は一切不明。甲211大隊は豊満発電設備解体作業に出た。

残ったのは大部分大尉以上の三階の住人達。何もする事がなく、専門分野の講座を開いたり、歩哨に連れられて買物に出たり、スンガリーで水浴などしていた。
我々のように前線にいた者と違って、十円紙幣を下も向けないほど腹に巻いた奴や、師団主計長のS大尉のように、公金を隠しながら師団の者に分配せぬと非難されているのもいる。
しかし、日本円の力は翌年春には消滅し、通用するのは50銭銀貨だけになってしまった。

 通化病院長の軍医中佐が、例の通訳大尉のモノモライを一日で治療して絶大の信頼を得、淋病患者が殺到した。警備隊長の大尉も罹病し、自慢のヒゲを剃り落としたのはお笑いだった。満洲駐屯のソ連軍を経てソ連国内に流入した病毒は彪大なものだろう。

 九月末、先に豊満に出た甲211大隊に通訳が不足し、伊藤と二人で行くことになつた。豊満ダムは世界有数の人造湖で、満州電業自一慢の大発電所が九分通り完成していたが、ソ側はそれを解体して本国へ送り出すつもりである。吉林市の南西約20粁の山中のラーゲリに夜9時すぎ到着、ダムのゴウゴウたる水音が響く。

                           (つづく)


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あんみつ姫

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投稿日時: 2007-12-9 14:56
登録日: 2004-2-15
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投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
  豊満発電設備解体、コーカサスヘ 二十年九月未~十一月六日

 発電所には、ウエスチングハウス、AEG、日立の発電機が八基据えられており、ダム高約90米、第二松花江を堰き止めるこのダムが崩壊すれば、吉林市は僅か二分で水没するという巨大なもの。
従業員の豊満村もあり、将来は国立公園になる予定だった風光明媚な処。

作業は、岩崎中尉の209、加藤中尉の211計二千名で昼夜兼行、午前八時から午後八時までの一日12時間労働。ただし、人員受渡しの点呼が、五人縦列をラス、ドヴア《1,2》と数えてゆくのだから大変。小一時間はかかる。作業終了で帰隊した時も同じ。間違えるとラスからやり直し。これにはホトホト閉口した。

負傷、病欠は各大隊50名までというソビエト式にも困った。作業現場で要領よく休ませるのが当方の主任務となった。二言目には射殺するぞと怒鳴る作業指揮のソ軍工兵隊将校と喧嘩腰の交渉。こっちも負けずに射つなら射て、俺達は奴隷じゃないぞとやり返す、考えてみれば危いことではあった。

 技術的な指揮は佐官の技術将校がやるが、歩哨の話では、豊満作業だけに選抜された民間人とのこと。道理で物腰が柔らかい。解体発電設備は六基、大型変圧器も含め、ウェスチング《米国ウエスチング社》と日立の製品を選んだ。

発電機の基礎はエヤーハンマー、ドリルぐらいではどうにもならず放棄となった。解体した部品は、毎日100人を派遣している製材所で作った木箱に容れる。

無蓋貨車一輌に一ヶ乃至二ヶの超大型木箱。腹に「前線からの贈物(パダーロク オット フロンタ)「満州の勝利品(トロフェィ マンジューリ)」「赤軍万才(スラバ クラスノイ アールミー)」等と書いてあり、一輌に一人ずつ輸送警戒兵が上乗りして毎朝出発。輸送した満鉄の機関車、貨車はソ連へ行ったきり帰って来ないらしい。

最終段階では、走った跡のレール、枕木も剥がして持ち去ったとか。シベリヤ《ロシア連邦東部シベリア地方》をドイツと二分して、この発電所の電力を使うつもりだったろうが、コーカサスで我々を照らしてくれるぜと憎まれ口を利く奴もいた。

 機材のほか、電業の技術者も半強制でコーカサスへ連れ去られた。発電所長は久我という腰の低い、いつも我々にご苦労様でございますと会釈してゆく小柄の人。赤軍歩哨連もバリシャヤ ガラバー大した頭脳の人と畏敬《いけい=恐れ敬う》の眼差しで見ている。

中将待遇の由。奥さんには四輪馬車が当てがわれ、少佐が護衛に同乗。乗り降りにうやうやしく手を差し伸べるので奥さん大弱り。ソ連へ送る久我家の家財は、二米立方の木箱がNo1からNo9まであった。

 当方の仕事は、千人の現場引渡しに立ち合うほかは、悶着がなければ作業交替まで大した用はない。歩哨長の中尉と現場を一わたり見回ったら、あとは機械工場や製材所の事務室で駄べっているだけ。

女をどうして手にいれて、どうしたかを得意気にしゃべるのをフンフンと聞く。いつだったか、中隊長の大尉の巡視があり、その場に居合わせたトロプキン、カブルイギンと三人、直立不動の姿勢で、こつてり絞られた。日ソの兵隊が苦労して働いているのに、若い将校が何をしておるのかというわけ。

 怖い中隊長の目をかすめて、立入り禁止の満人バザール《参加者を限定しない商店街》へもときどき足を伸ばす。散髪中に巡察が現われて、トロプキン中尉と一目散で逃げたこともあった。

バザールには、蜂蜜や豚肉、綿布など何でもある。英国のウエストミンスターという高級煙草が山積みされて一箱15円だった。満洲国建国以来持ち続けていたらしく、少々カビ臭い。どうやら日本人は、孫悟空よろしく、支那人の掌の上で暴れていたに過ぎなかったのか。

 製材所責任者の大尉が歯痛を起し、日本人の歯科医院に同行した。若い奥さんは、よく口の回る大阪弁の人で、紅茶を出して遊んで行けと勧める。ソ連兵が金歯好きで注文殺到の由。前歯にべッタリ金を被せてもらい、丸で獅子舞のお獅子のようだ。

金の手持ちが少くなってきたとか。道理でソ連兵が日本兵の金歯を欲しがるはずだ。金歯を外して売ってくれとせがむ。夫婦は開業出来るならソ連へ行ってもよいと言っていた。

                          (つづく)


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あんみつ姫

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投稿日時: 2007-12-9 14:59
登録日: 2004-2-15
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投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
 製材所には、白系《はくけい=注1》の中年女が通訳として電業村に通って来る。夫はソ軍の徴用でムーリン《牡丹江北東の町》 にいるが、冬物を送ってやる許可が出ないとこぼしていた。

発電所には、警備員など以前から白系が働いていたので通訳の出来るのもいるが、ぞんざいな口の利き方をすると日本兵が怒っている。
日本人が彼らにそんな口調で話していたからだろう。白系の警備主任は銃殺されたとか。

 トロプキンと作業場を歩いていたら、師道大学のフラットキンが現れて通訳してくれと言う。素晴らしい乗用車で中将が来ている。帽子の顎紐も星章、肩章も全て金モール、紺のズボンの脇に真っ赤な太い線、少々チンドン屋気味だが、体格が堂々としているので様になる。日本の将官だったら、さしずめ猿回しの猿だ。

美女もー緒で日本語が上手。ラーゲリで将校団の手紙を検閲しているが、文字が読み辛いので要訳してくれとのこと。ラーゲリで将校団に家郷通信が許可されたが、動向調査に使われただけらしい。

フラットキンの話では、女は中将の情婦で、亭主は東京で服屋を開いていたことがあるらしい。諜報活動でもしていたか。

 驚いたことに、幕舎へ帰ったら自分が山田関東軍司令官の息子になっていた。幾ら否定しても信用しない。作業係のヤコブレフ少尉が、山田閣下の息子だのに名前を変えているのは何故だと言うし、グルジャ系《中国ウイグル自治区出身》と思われる警備隊長の少佐も、閣下の息子を何故作業に出したかと加藤大隊長に詰め寄ったらしい。噂が消えるのに丸一週間かかった。

警備隊長の少佐はチェの発音がテに聞こえるが、部下には厳しく、我々には親切であった。噂以来彼とも親しくなり、一緒に飯を食ったり、衛兵の教練を見たり、少佐のすすめで、ソ連兵に日本軍の「突撃ニ進メ」《注2》の発進要領を披露したりした。

いつか、政治部将校《注3》がスターリンの顔ビラを一抱え持って来て、全幕舎に貼れという。日本人には関係ないとやり合っているところへ少佐が来あわせて、それはやめよと一言で政治部将校を追い返した。余程戦功のある人らしい。

一方、作業係の頭が薄くて少尉のヤコブレフにコキ使われている中尉は「間もなく東京から迎えの列車が来るぞ」というし、この間戦車で東京へ行ってきただの、木造建築は石造よりも文化が低いとか、ドイツは各家にラジオがあったが、ロシヤには各部屋にあると自慢するのもいた。

入ソ後クヴアルチーラ式生活を見て成程と思った。日本女性の写真を沢山集めて高峰秀子に感心し、日本の女は世界一、次がロシヤ、三番はポーランドと言うので、ドイツはと聞いたら、ドイツの女はなっとらん(ツィニャー)だと。

 昼夜兼行の作業で発電設備は全てロシヤへ運び去られたが、これで仕事は終わらない。棟を連ねた倉庫から部品、碍子、セメント、釘、針金、ウェスその他すっからかんに運び出す。

物品ゼロになると、プラットホームまでの運搬用トロッコ列車、そのレール、積込みクレーンまでロシヤ行き。ターピーズ(大鼻)のロスケ奴と満人の怒ること。物資が無くなったので全て終了と思ったが、とんでもない。
次は、倉庫の屋根のトタン、窓ガラスの梱包、外柵の有刺鉄線の巻き取り。果ては外灯の電球、笠まで。
                             (つづく)

注1 ロシアが共産革命の時これを嫌って国外に移住したロシア人
注2 陸軍歩兵操典2編1章に予令(準備)にて右手を以って木被  (小銃の木の部分)の所を確実に握り 銃口を上にして銃を提   げ 動令(始め)で早駆けにて前進する
注3 主に共産系国において 軍隊が政府の政治原則を逸脱しない  よう監視のために派遣する将校


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あんみつ姫

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投稿日時: 2007-12-13 15:57
登録日: 2004-2-15
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投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
   図們(トゥーメン)を経て琿春へ

 丁度その頃、突然検査があって、ナイフ、爪切り、鋏まで取上げられた。栄光ある赤軍が捕虜日本軍の鋏が怖いのかと皮肉ったら昨日、十粁程向うに日本軍が現れ、ソ連兵が大分刺殺されたという。勇ましいのがいるものだ。内心快哉を叫ぶ。

 十月未、ヤコブレフ少尉が吉林へ味噌受領に行くから一緒に来いという。前日歩哨に誤射されて両脚貫通の男二人と患者一人を連れてスチュドベーカーで出発。運転は日本人。吉林の街外れの旧満軍病院に引渡し、師道大学へ。

将校団はもういない。
満州人造石油会社の社員、赤ん坊もいれた家族約80人がいた。内地に帰ると言っていたが、ソ連は入ソさせて人造石油関係の仕事に就かせる予定のようだった。別の教室棟に満軍40人と、殆んど地方人の抑留者が50人ほどいる。自分が此処の責任者にされた。211大隊ともお別れだと思った。

 棟の半分は少佐を長とする満軍《満州国の軍人》。彼らは我々が豊満へ行く前から居たが、今は半分に減っている。抑留者はやはり吉林在住の地方人で、警察官が多い。将校室と称する部屋に、日系の満軍大佐を長として満軍関係の日本人将校六人と、日本軍軍医が二人居る。

最初は何故自分を長とするのかと思ったが、夜になって分かった。抑留者は吉林に家族のある人で軍人でもないのに満人の手でソ連側に引渡されたのだから、四六時中逃亡の機会を窺っている。夜中は建物の周囲に煌々と電灯を点け、四隅に歩哨が立つ。就寝中でも消灯は許されない。

 逃亡者はヒューズを切って五、六人一斉に逃げる。電灯がバッと消えると、歩哨は外から室内に盲射《めくらうち》ちで自動小銃をぶち込む。真暗な中を青い光がパチパチと壁で光る。ヒューズを入れるまでシャワーのように射ち放し。危いことこの上なし。
爾後、電気が消えたら寝台代りの机から飛び下りて床に伏せる要領を覚えた。照明が回復した時は脱走劇は終り。

将校室からも一人逃げた。中年の満軍中尉で、毎日綿入れリュックを縫っていた。頭に被って弾除けにするというので冗談だと思っていたら到頭逃げた。自分が毎朝、逃亡者の件で所長から怒鳴られて苦労しているのを知り乍らひどい奴だと思ったが、逃げた以上無事を祈るのみ。

最も下手だったのは、朝の歩哨交替引継ぎ中を見澄まして逃げ出した連中で、上香山班の歩哨に追い詰められて二人射殺された。交替中は歩哨の数が二倍になることを計算しなかったのか。

所長が、日本人か支那人が調べて証拠を持って来いという。一粁ぐらい先の畑の中で20米ほど離れて二人転っている。一人は左耳にポカリと大穴が開き脳漿が流れ出し、もう一人は左半身上から下まで蜂の巣状にポツポツと黒い穴。自動小銃の弾は、あまり貫通はしないようだ。生暖かくて白眼、鼻汁の死体を転がしてポケットを探るのはいい気持ではない。家族のことも思いやられる。

二人とも良民証を持っていたが、ソ軍はこれを民間人の証明とは見ていない。あくまで脱走日本兵扱いだ。それが証拠に、ソ軍所長は、戦友を捨てて、逃げるような男の遺髪など保存する必要なし、死体は捨てておけと取りつく島もない。逃亡騒ぎが連日続くので歩哨連中も激しく当たってくる。
満軍の方も同じで、夕方20人の作業に出て半分しか帰って来なかった。満軍も抑留される理由がないと不平満々。

ソ側に出す嘆願書を翻訳してくれと隊長の少佐に頼まれた。日本語の上手な若い上品な男だ。所長室で開けてみたら、日本の罪悪を書き連ね、我々をその桎梏《しっこく=束縛》下から開放してくれた赤軍に感謝する。ついては今の抑留からも解放して欲しいと赤軍への阿諛《あゆ=へつらい》と日本の罵倒《ばとう=ののしり》で一杯。概略を説明して「日本軍の将校として、これは翻訳出来ない」と断った。所長も了解してくれた。

                          (つづく)


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あんみつ姫

あんみつ姫
投稿日時: 2007-12-13 16:00
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: イレギュラー虜囚記(その2)
 十一月六日、やっと移動命令が出た。吉林駅へ行くという。師道大学の本部前で整列していたら、久我所長夫妻の馬車が来た。奥さんは豊満ダムでもロシヤ人の間で評判の美人だったので、将校連がワッと馬車をとり巻く。我々はその前をゴソゴソと前進。ダムから来る211大隊と合流すると知り一安心。

三時間ほど経って、豊満から列車が入った。客車を二段にしている。大隊本部と再会を喜ぶ。入ソしたと思っていた由。我々の120人と、製紙工場からの約50人が合流、ヤコブレフが次の責任者ヒリモーノフ中尉に引継ぎ。引継いだあとは、うるさいヤコブが何にも言わなくなつて知らん顔。

56才のスタリークと呼ばれていたロシヤ語の上手な広瀬翁は、家が吉林にあるからとソ側将校それぞれに握手してスタコラ帰って行った。ソ側も何も言わなかった。老人は利用価値なしか。ヒリモーノフは若く小柄で、人の良い男。助手のハダコフ軍曹も当番のエレソフ伍長も典型的素朴ロシヤ人。病人は吉林の病院に残すことになり、吉林出身の者は仮病を使って大分残った。

 各車に車長として日本将校一人、歩哨二人が付く。加藤大隊長、大山副官、林軍医、当番、伊藤晴久、自分の六人はヒリモーノフらソ軍収容所関係者の車輌に同乗。ポータブルで押収レコードをかけている。ハダコフは「覗かれた花嫁」がお気に入り。

10日間の列車行軍中、ある軍曹は用便以外は一度も立たず、寝そべったまま、武勇伝ヤアネクドートを兵隊に聞かせていた。輸送指揮官は赤ら顔の上級中尉で、これも中々の好人物。十一月の寒空に、無蓋車のシートにくるまり、馬と共に寝起きしている。副官の八字眉の中尉がよくウオツカを振舞ってくれた。

他の車輌には師道大学での顔身知りが沢山いる。アバタのフョードロフ軍曹が吉林に日本人の愛人を残しており、ラブレターの翻訳を頼まれた。何とも甘い内容だが、最後に、「一緒に帰国して妻にするつもりだが、今のところ支那人、朝鮮人はよいが、日本人は許されないので待っててくれ」と。この手で、敗戦に打ちひしがれた日本婦人が大分だまされたのではないか。

 客車のほかに糧秣貨車が八輌付いている。二週間後には乗船するので、主計をきめて必要なだけ食べよという好条件。出発して一時間後、汽笛と共に急停車、逃亡者だ。カープでスピードの落ちた地点を見計って吉林在住者が飛び下りたらしい。十数名が四方に散って走り、歩哨が追跡する。満人がつかまえて金にしようと追いかける。自動小銃が鳴り四名は射殺。一名が捕まった。

 加藤大隊長と二人土手に登る。輸送指揮官が怒って、拳銃を加藤隊長に渡し、この兵隊を射殺しろと言う。隊長は困って髭を撫ぜている。自分はカラバエフを思い出し、隊長には、大声でビンタを取って下さい。兵隊には派手にひっくり返れと教えた。両方とも「死ぬ覚悟はあるか!」「はい、死にます…」と必死の演技。ソ連将校連はドギモを抜かれたらしく「今回だけは将校の良心に免じて許してやる」ということで納った。

 吉林から完全に離れると逃亡はなくなった。炊サンの関係上大きな駅では一晩止まることがある。千人に対し米俵18俵も分配するから食い切れぬ。これが後で大いに苦労する原因になるとは思わなかった。七日目頃図們《ともん=吉林省南部の中朝こ国境の街》へ着く。初めて駅前に出て各事毎に炊サンする。

驚いたことに、邦人の女や子供、赤ん坊を背ぶった人が、首から小さい箱をぶら下げて、スシや手巻煙草を売りに来ている。男は召集され、食べ物も無くなったので、不定期に来る列車に一箱十円の煙草などを売って何とか凌いでいる。

女は大抵ロスケに強姦され、若い娘は髪を刈って男になった。満洲にいる日本人は皆同じ。この冬をどう越していいのやら、貴方達は帰国するらしいが、出来たら兵隊さんのポケットに入ってでも帰りたいと泣く。植民地での敗戦は内地人には一寸想像がつかないだろう。

 輸送指揮官の中尉や下士官連が図們病院へ行くのに付き合う。病気はもちろん満洲でもらったもの。さすがに彼らも真剣だ。病院は省立で、医師、看護婦は全て日本人。病院に来ていた日本人のおばさんがスシを呉れた。商売用と思うと気の毒で喉に通らぬ。

帰途、カフェーのような処へ立ち寄った。厚化粧した日本女性が五、六人居て、ロシヤ人の相手をしている。入って行くと、軍服や階級章を懐かしがって取り巻き、どんな事があっても階級章を外すななどと口々に言う。

彼女らは駅に兵隊さんがいると知って、店を空にして出て来た。久し振りに華やかな姿を見て皆大騒ぎだ。髪を切って一緒に行きたいなどと言い出す。お互い先のことは皆目分からぬ。食糧の心配が無いだけでも我々軍人は恵まれているのか。

 十一月十七日朝、琿春《こんしゅん=吉林省南部中朝ロ国境の街》着。最初、みんなソ連の港街に着いたと思った。吉林出発の際、師道大学ラーゲリの所長の中佐が、二週間ほど国境に滞在の後、諸君らは帰国すると言明したことを思い出し、希望を持ち直す。琿春は四年前の夏、学院の勤労奉仕で働いた所だ。
                           (つづく)


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あんみつ姫

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