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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     【空襲東京引き揚げ】 90歳を過ぎたKT
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編集者
投稿日時: 2007-9-5 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
【空襲東京引き揚げ】 90歳を過ぎたKT
昭和19《1944》年4月に結婚したが、住まいは麹町《こうじまち=千代田区》にある親戚の家の離れ家で、この家には10ヶ月住んだが、東京の中心部だけあって配給の食料品は質的には最高級品だと妻は感心していた。
 しかし、量的にも種類も不足して苦しい食生活が続き、偶然夜道で拾った大根葉1枚を味噌汁の貴重な実にするという情けない状態だった。

 昭和20年になると空襲は日ごとに激しくなった。
 ある日敵機が1機頭上を通り大きな爆弾を落としたが、それは初めヒュルヒュルという小さな音で、すぐシューシューの中音になり、やがてゴーゴーの轟音になった。
 思わず首を縮め身体も伏せたが、音はスーっと消えたように無くなった。
 それは幸運にも、100メートル先に落ちた不発弾だった。
 その後の経験で、焼夷弾《しょういだん=火炎や高熱によって人や物などを殺傷・破壊する爆弾》の落下音はザーザーと砂を掃《は》くような音であることを知った。

 3月10日の東京江東区の大空襲は一晩に10万人の死者が出たほど猛烈で、研究所も急に新潟に移転することになった。
 そこで私も3月末福岡に帰ることが許されたが、手荷物1個出すにも毎朝近くの四谷駅まで担いで行って並び、3日目にやっと受け付けてもらったという風で、厳しい制限をかい潜《くぐ》っての旅行は本当に苦しかった。
 背中に背負ったのは日常生活用品のみで、持ち帰れずに置いてきた衣料品その他の平時《=普段》なら価値ある荷物は5月の東京山の手の大空襲で全部消失してしまった。

 6月には福岡も空襲に会い、私の家は免れたが、妻の実家は丸焼けになった。
 やがて私は転任が決まり、皆が生き別れを覚悟しながら、慌しく準備を進めたのである。

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