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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     『肉声史』 戦争を語る
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-10-3 6:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (51)
足柄上ブロック

 「防空壕の中、ひとり怯《おび》えて」

  南足柄市 銀持 和子(大正14《1925》年生)

 (あらすじ)

 大東亜戦争《=太平洋戦争》開戦時は学生だったので、挺身隊《ていしんたい=勤労奉仕団体》として軍の仕事をしていた。その後、富士フイルムに就職,業務部資材課に配属され、材料許可のため国の各省に並んだ。その並んでいる最中に空襲警報で避難、また改めて並び直した。
 空襲が激しくなり、妹は福島へ学童疎開《=空襲を避けるため都会の児童を安全な地域に移動させた》し母と弟は長野へ、父と私は家に残った。食べ物がなく困った。父は警防団として町を見回っていた。私は母の着物を持って埼玉の農家へ食料と交換に行った。お米はなかったが、さつま芋や小豆《あずき》には換えてもらえた。帰りには警官隊のいない一駅先まで歩いた。
 さらに空襲が激しくなって各家に防空壕《=爆撃から身を守るため地中に掘った穴ぐら》を掘ることになり、畳を上げて一人用の防空壕を掘った。夜は灯火管制で薄暗い中、父が見回りに出てしまうと、私は防空壕の中、一人でおびえていた。そして東京大空襲。急襲だったので私は会社にいて、防空壕で真っ赤な空を見上げていた。家も焼かれ、焼け野原になった。 2、3日は煙が燻っていた。南千住の伯父達が隅田川に逃げたと聞いたが、未だに消息はわからない。私は小田原勤務になり、父は残ると言ったので一人で小田原へ。その後終戦。10月頃家族が家に帰った。戦時中は食べることが幸せだと思っていた。生きがいだった。会社帰りに上野の地下で雑炊を食べて帰った。1杯5銭位だったと思う。今の500円位かな。それでも沢山並んでいた。
 戦争が終わって一番ホッとしたのは、電気が点いて明るくなったこと。進駐軍《=他国に進軍してそこにとどまっている軍隊》が来て社会がガラッと変わった。

 (お話を聞いて)

 祖母の話を聞いて、今は何処《どこ》に行っても色々な食べ物がある、いつ爆弾が落とされるという恐怖が無い今現在、このことが六十年前にあったとは教科書、TV、映画などで知っていただけでした。身近な祖母の話を聞いて、背筋がゾットする思いをしました・・・身内が亡くなったり、毎日恐怖がつきまとったり、食べ物が無かったり、今を生きている私では、絶対に耐えられない生活だと思いました。前線だけが戦争じゃないんだなって、話しを聞いて思いました。戦争の話を聞いて、どれだけ大変な思い・・・どれだけ辛い思いをしたのか心にしみました、でも戦争未体験者の私はどうしても理解は出来ませんでした・・・祖母の話し方、話している時の顔を見ていると、その当時の人々の気持ちになれたような実感がありました。
 録音後、祖母は何度も「辛かった・・・」と、ため息を吐きながら何度も言っていました、いつも明るく元気な祖母が、僕が今まで見たことの無いような悲しい顔に一瞬なったのが、とても印象深かったです。戦争が起こらないように世界中の人々が手を握り合う時代が来ることを祈っていきたいと強く思いました。
 また、祖母のような戦争経験者の体験を次の世代にも話してあげたいと思っています。
 その当時の思いを心の奥底にしまい、いつも明るく元気な祖母をいつまでも大切にしていきたいと思いました。       

 (聞き手 剣持 允樹 昭和54《1979》年11月生)

編集者
投稿日時: 2007-10-4 6:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る(52)
食べることさえ出来れば毎日が続く」

 南足柄市 内田 一夫(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 昭和19[年に兵隊検査を受け、翌年2月に川崎溝口《みぞのくち》東部62部隊に入隊した。20歳だった。この頃から戦争が激しくなり、内地でも毎日空襲でB29《=米軍爆撃機》による偵察爆撃が続いた。南方で食料補給なく苦戦とか、玉砕《ぎょくさい=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬ》というニュースを時々聞くようになった。内地では昭和19年9月頃から学童疎開が始まり、私達の部落にも川崎から約60名位が公民館やお寺に疎開してきた。親元を離れた幼い子供の為に入隊前の日々を使おうと、世話を手伝った。
 子供達に見送られての入隊となった。溝口は歩兵部隊で、出てきた食事が赤飯だと思ったらコーリャン《=モロコシの一種》だったのには驚いた。終戦までの約7ケ月間コーリャンを食べ続けた。
 終戦後、駐屯地《ある土地にとどまる》が変わって初めて麦飯を食べられた。誰一人不満を漏《も》らさず食えることができればいいのだと毎日生活していた。溝口は編成部隊で、県内から集められた兵が編成されていた。本土防衛の任務だった。私の入隊時でも装備がなく水筒と雑嚢《ざつのう=肩から掛ける布製のかばん》だけだったが、5、6月に入った兵は身に着ける物は何もなかった。編成の点呼中、郷里の人達が入ってきた。
 小学6年時の先生も中にいて懐かしかった。終戦後は補助憲兵として東京へ。
 高輪女学校に駐留し、大船の捕虜収容所と北白川邸の警護を担当。収容所にはアメリカ軍の飛行機から落下傘で救援物資が落とされた。缶詰が主だった。それを見て、10年も20年も進んだ国と戦争していたのだとびっくりした。その後、板橋の兵器廠《兵器の購入・保管・支給・修理などを行う機関》で外国のMP《エムピー=米国陸軍憲兵隊》と一緒に兵器の残務整理をした。昭和20年10月に任務が終わり、兵隊から解放された。

編集者
投稿日時: 2007-10-5 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る(53)
「7歳の女の子の戦争」

 中井町 賀美マサ子(昭和13《1938》年生)

 昭和20《1945》年7月16日の夜、平塚が空襲に遭《あ》った。私は7歳だった。平塚には軍事工場が2ヶ所、大磯にも高射砲の基地があったので兵隊や兵舎がたくさんだった。私達は兵舎へ慰問によく行かされ、歌や踊りで兵隊さんが喜んでくれたのを覚えている。
 7月16日夜11時32分に爆弾の1発目が落とされた。その後、平塚の方面を見たら「熱い熱い」と人の悲鳴でびっくりした。川には人が大勢入っていた。私は靴がぶかぶかだったので裸足《=はだし》で逃げていた。 兵舎に来て逃げ惑った。どこへ逃げていいか分からなかったが、小さいからと防空壕に入れてもらえた。ところがその防空壕が爆弾の直撃を受けた。
 兄が私の手を取って引きずり上げたが、ショックで逃げることができず、ズルズルと這いずって畑の中を逃げ、大きな木の下に入った。ふと手を見ると、リュックに入っていたはずの父の位牌を持っていた。私は父の顔も知らないが「ああ、父が助けてくれた」と涙が出た。
 17日の明け方自宅を探しに行くと、すぐに見つかった。周りは焼け野原で、私の家だけ一軒ポッンと残っていた。叔母が逃げて来た。2歳の子供に自分の唾を飲ませながら逃げて来たが、子供は死んでいた。昭和20年8月15日の前日、私は大切な祖父を亡くした。具合の悪いのに逃げ回って疲れが出たのだと思う。もう戦争は沢山。ラジオの「警戒警報発令」を聞くと、もうああいう思いはしたくない。おじは特攻隊《注1》で21歳で亡くなった。3人も身内を亡くした。もう嫌だ。

 
 「悲しい戦争 だが 作る喜びを知る」
 
 中井町 相原栄吉(昭和6《1931》年生)

 (あらすじ)

 私は満州事変の始まった日に生まれたと親から聞いた。私達の世代は大変な時代に直面した。私は小学生だったので、戦争の原因は知らなかったが、悲しい戦争だったと思う。
 私が小学5年の時、戦争がだんだん激しくなり、東京、横浜、川崎と空襲の被害が大きくなった。私達の村にも横浜の生麦小学校から50人の集団疎開《注2》があり、迎えに行ったのを覚えている。疎開先での生活は大変だったと聞いた。昭和19年8月10日から約1年、時々親が来て供達を励ましていた。私達の学校でも教科書はなく、読み書きそろばんの授業だった。学習の中で農地を開墾《かいこん=山野を切り開いて農耕できる田畑にすること》した。草取り、肥料、管理が大変だった。11月の収穫が楽しみで、荒廃した地だったが、良いさつま芋が取れた。収穫した芋は学校へ運び、女子生徒が洗ってふかした。学校で初めての給食だった。全校生徒で楽しく食べた。腹八分だったが皆で喜んだ。この時学んだ共同精神の大切さ、作る喜び等は今でも人生の糧《かて=精神・生活の活力の源泉》になっている。
 家庭では、庭の隅に防空壕を作り、手伝った。姉が2人いたが、川崎と座間の軍需工場に徴用《注3》されていた。飼育していた農馬が徴用され、馬との別れもあった。大変な戦争で、初めは勝っていたがだんだん負け戦になっていった。内地が戦場になるのかと思うと悲しくなり、これからどうなるのかと思った。これからの世代には絶対戦争がないことを望む。

注1 特攻隊=第二次大戦で、旧日本陸海軍が体当たり戦法のために、特別に編制した部隊。爆装して敵艦に体当たりした航空特攻と、特殊潜航艇や人間魚雷などの海上特攻とがあった。

注2 集団疎開=集団で疎開すること。第二次大戦中の学童疎開を言うことが多い

注3 徴用=戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること
編集者
投稿日時: 2007-10-6 8:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る(54)
「国民服着てゲートル巻いて戦闘帽で勤労奉仕」

 中井町 大野英雄(昭和5《1930》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年12月8日の開戦時、私は平塚に住んでいて、国民学校6年の12歳だった。
 地図を広げ、大きな国相手で勝てるかなと心配した。開戦後、学校では空き地でさつま芋や南瓜《かぼちゃ》作りと農作業が増え、勉強の時間が減った。体力増強には力を入れていて体を鍛える授業が増えた。学校の周りに農家が沢山あり、勤労奉仕として手伝いに行った。学業はそっちのけだった。その後、中学へ入っても授業時間は削減され、教練《=軍事教練のこと》がほとんどで鉄砲や機関銃の操作を習った。服装も学帽が廃止となり、戦闘帽《=略式の軍帽カーキ色の帽子》に。国民服を着てゲートル《=革・ズック・ラシャなどで作った洋風の脚絆(きゃはん)》を巻いて通学した。 先輩には挙手礼をという軍人と同じ教育を受けた。ラジオでは玉砕《ぎょくさい=全力で戦い、名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》のニュースが流れ出し、学徒動員令《注1》が法律で発せられた。私は平塚の軍需工場で働くことになった。飛行機のプロペラを製作したが、素人なので良い物ができず、検査で合格するのがほとんどなかった。工場の給食がだんだん悪くなり、昼にお椀《わん》一杯の雑炊《ぞうすい》だったことも。
 15、6歳の食べ盛りには到底足りなかった。我慢しての生活。家庭でも食糧事情は悪かった。自宅も強制疎開《注2》となり、取り壊された。壊した柱や梁《はり》を牛馬力で、現在住んでいる中井町に毎日運んだ。両親が病弱だったので、16歳の私がほとんどやった。昭和20年7月10日、ついに平塚も大空襲を受け、学校や会社も焼けた。学校の片付けに通っていると、ダグラスP51が機銃掃射《機関銃の銃口を動かし、敵をなぎ払うように射撃する》してくる。よく生きていたと思う。疎開先で玉音放送《=天皇が終戦の詔書を読んだラジオ放送》を聞き落胆したことは一生忘れない。 
 戦争は人命も財産も全て失う。2度としてはいけない。

注1 学徒動員=日中戦争以後、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。昭和13年(1938)年間数日の勤労奉仕が実施されて以来、戦況の悪化につれて動員体制が強化され、同19年(1944)には通年動員となった。

注2 強制疎開=空襲や火災などの被害を少なくするため、建造物や人などを強制的に比較的安全な他の地域へ移動させること。

編集者
投稿日時: 2007-10-7 9:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (55)
 「討伐は軍服でなく中国服で」

 中井町 植木孟夫(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 小学校入学の年に満州事変《=日本の中国東北部への侵略戦争》、卒業年にシナ事変《=日中戦争に対する日本側の呼称》、その4年後には大東亜戦争《太平洋戦争》と、私達の少年時代は挙国一致で戦争に勝つ為に努力していた。昭和19《1944》年12月1日東部63部隊に入隊。私達は最後の外地要員として北シナ派遣となり釜山へ。列車で北上し、3042部隊第1中隊へ。3ケ月の厳しい軍隊生活。夜間訓練もあり、歩哨《ほしょう=警戒、監視の任務》にも立った。
 一期の検閲も終わり、ホッとしていたら戦場に出ることになった。各地の分遣隊の応援に行き、負傷者を病院に送った。その後は討伐へ行くことになり、軍服を着ずにシナ服に着替えて出発。 行く先の集落には、中国共産党の民兵が多く、いつ襲撃を受けるか分からない危険な地域だった。遂に攻撃を受け、交戦して進撃して行った。食事等は現地調達。翌朝の朝食を夕方に作っておき、朝3時に起床して進撃した。負傷者や戦死者も出て、死体は火葬し遺骨で持って行った。6月26日に私は地雷を踏んで負傷し、担架で野戦病院《=戦場の後方に設置し、傷病兵を収容して治療をする》に運ばれた。手当てを受けて北シナの病院に入院。 院内で終戦を迎え、10月には退院したが、帰る隊がなかったので病院の警備隊として毎日歩哨に立った。時には八路軍《はちろ軍=中国共産党軍》が来て、八路軍に来ないかと誘われることもあった。私は傷が完治していなかったので、早目に帰ることになった。12月初めに病院を出て、青島に向かって15日間野宿をしながら歩いて行った。港で引き上げ船を待ち、30日に米軍の船が来て、昭和21年1月1日佐世保に到着。2日に復員列車に乗って帰路に着いた。これからは平和で住みよい日本であってほしい。


 「つらい軍隊生活、思い出すは母の顔」

 大井町 匿名(昭和3《1928》年生)

 (あらすじ)

 志願兵《=みずから志願して隊に入る》として愛知の第3岡崎海軍航空隊へ。ここは実施部隊で艦上攻撃機が飛び立ったが、敵機の数の方が多く、味方の飛行機が少なかったので、空襲となると飛行機をかくまう方が早かった。 この頃は練習生で一番下の階級、数えの18歳だった。200人が4つの分隊に分かれていて同期生は800人だった。第1、第2が教育部隊で、私のいた第3が実戦部隊だった。敵機は名古屋の工場を爆撃した帰りに、私らの航空隊の上空を通過し、残っている爆弾を皆落としていった。爆弾が落ちた後は直径約10m、深さ5m程の穴が開いていた。P51の空襲で兵舎をやられた。大きな飛行機だった。
 悔しかったことは、太いバットで尻を殴られたこと。気絶した私にタライの水をかけて、目覚めて立つとまた殴る。痛くて、夜仰向けで寝れなかった。
 悲しかったことは全て。とにかく家に帰りたくて、便所でよく泣いていた。航空隊だったから食べ物は良よかった。ささやかな喜びは、家からの手紙。検閲を通った物だったが嬉しかった。楽しみば食事だけ。16人1班で、班は年齢の順に1~6班まで編成された。私のいた1班が一番年上で、6班は昭和6年生まれ位。
 考えるのは母親のことばかり。岡崎で教育停止になり、第一線につけと言われて横須賀の工作学校へ転勤した。そこで配置する所がなく、お寺へ駐留していた時に終戦。ところがその後また沼津の工作学校へ。昭和20年の年末に解散。退職金が当時のお金で20万5000円出た。


(お話を聞いて)

 人間というものは、心に深く刻まれた事柄を何年経っても鮮明に記憶に残すものである。
事実、今回伺ったお話の様子は、戦後60年以上も経過しているにも関わらず。つい昨日の事のように語られた。
 特に印象に残ったのは、親の反対を押し切り志願兵として、わずか17歳で出兵した様である。現代の若者では考えられない事だろう。
 当時の赴任先での辛い体験。少しでも重量を減らす為に残りの爆弾を落下させながら間近に迫るP-51やB-29戦闘機に、悔しい気持ちを胸に抱きながら防空壕へと逃げ込む様子は悲惨で、日々緊迫感、恐怖感に襲われる日常を送っていたのだな、と思うと言葉が出なかった。
 また、辛い状況でのささやかな楽しみである食事や家族との手紙のやり取りも厳しく制限されていた。そんな中で、「早く家に帰りたい。」という気持ちを押し殺し、“国の為に”と耐え続けた精神は計り知ることができない。
 「戦争は、国と国とのケンカで、そこには必ず勝ち負けがある。戦争なんてやるもんじゃない。」とおっしゃった。私達の世代では漠然と“戦争はやってはいけない事”と思ってはいたが、実際に体験した方の悲惨な状況を伺うと、改めてその言葉がずっしりと重く感じる。
 現代社会では、近隣諸国の軍拡や核開発などが問題視される中、今回の“嫌でも鮮明に記憶に残る戦争”の貴重な体験談を伺い、改めて若い世代へ受け継いでいかなければならない、忘れてはならない事だと痛感した。

 (聞き手 匿名 昭和37《1962》年生)

編集者
投稿日時: 2007-10-8 10:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (56)
 「米兵の顔見えた艦載機の空襲」

 松田町 山岸 浪子(大正11《1922》年生)

 (あらすじ)

 松田町に住んでいたが、毎日空襲だった。朝8時になると警戒警報のサイレンが鳴り、少し経つと空襲警報に。防空壕に入って解除を待った。勤労奉仕で松の根掘りに行った。松根油を作る為だった。相模湾に敵が上陸した時に備えて、松田山に防空壕掘りの手伝いにも行った。山の頂上まで2時間歩いて、厚い板を担いで死にもの狂いで運んだ。
 国防婦人会のたすきを掛けて出征兵士の見送りもした。山へ供出のさつま芋を掘りに行った時、敵の艦載機《=空母につまれた飛行機》が地面すれすれの低空飛行で飛んできて、米兵の顔が見えた。恐ろしくて生きた心地がしなかった。山には木がなく、地面に張り付いてじっとしていた。困ったことは、食料のなかったこと。さつま芋の種芋、鶏が食べるふすま《小麦をひいて残る皮のくず》や油を絞った残りの油かすなどを食べた。よく生きていたと思う。楽しい思い出はなかったが、しいて言うなら軍事郵便の「戦地よりの便り」で私達もがんばらねばと思った。隣近所は、どんな物でも分け合って、お互い助け合って生きてきた。 皆仲良く一つにまとまり、銃後《=戦場の後方で、》の守りをした。今とは違って、核家族とか孤独死等聞かなかった。どこの家でも7、8人の大家族で、子供も働き手の一員としてよく家の手伝いをした。終戦は敗戦だったので複雑だった。今日から明かりつけて安心して眠れると思うと嬉しかった。私達に青春はなかった。よくここまで、食べる物もなく栄養等考えたこともなく、気力で夢中で生きてきたと思う。戦争は二度と繰り返してはいけない。


 「残したいこと それは世界の平和」

 松田町 尾嶋 久和(大正11《1922》年生)

 (あらすじ)

 赤紙が来た時は教育召集だったが、とうとう私にも来たかという感じだった。昭和19年4月1日から満州へ。そこからソ満国境、中支《=中国大陸の中部》の広州へ行って、また満州に帰って来た。
 その後、今のアフガニスタン北方200km位のソ連のカラカンダ地区へ行った。軍隊では通信兵で、電信の授受《=受け渡し》を練習し、沖縄とのやりとりをした。
 ソ連では労働作業した。恐ろしかったのは、広州で班長の遺骨を持って上海に行った帰りにP51に襲われたことと、ソ連に入って移動のたびにどこへ連れて行かれるのかわからなかったこと。辛かったことは、ソ連での寒い冬の作業。
 嬉しかったのは、内地へ帰れると船に乗れたことと、内地の舞鶴港の山々を見た時。帰国した時は、とうとう無事に帰れたという思いのみだった。戦地での生死を越えての苦労を二度と若い世代に残したくない。残すのは世界平和だと思う。


(お話を聞いて)

 戦争体験者である尾島さん(男性)と山岸さん(女性)のお二人にお話を伺いました。
 実は、こんなに身近で戦争体験者のお話を伺うのは初めてのことで、少し緊張しました。
 インタビューを始める前に、戦争当時の雑談をしていました。実際に外地に出向いた尾島さんは、「100キロの荷物を長時間担がされたこと」、「燃料を敵から盗みにいったこと」、「病気になったこと」、「さみしかったこと」などを話されていました。国内に残った山岸さんは、戦争に行った夫の帰りを、子供の世話、仕事をしながら必死に待っていたそうです。しかしながら「2年で帰ってくるからそれまで待っててくれ」と言い残されたまま今でも帰ってこないよと笑いながらも涙を浮かべていました。そんな雑談にこそ、当時を必死に生きた体験者の苦労や思い出がたくさん詰まっていると感じました。
 インタビューは、あまりに堅苦しくて私も含めて硬い感じで終了しました。でも、私にとっては、本当に貴重な体験となりました。山岸さんは「幸せだと感じることがある?」と私に聞きました。私は突然の質問に無言になってしまい、「特に最近はないかな‥・。」と答えました。山岸さんは続けて「今の時代は何でも手に入るし、何でも食べれる。だから毎日が幸せで、本当に幸せだと感じることがないんだよ。」とはっきり言いました。そして「戦争時代は食べ物がない。もちろんお金はない。そしていつ死ぬかもわからない。そんな中で子供を育てながら自分も生き抜くには、たすけあって、たすけあって、一生懸命何でも耐えること。そうでなきや生き残れない時代だったんだよ。加えて、旦那がいない家庭で、自分が死ねば子供は全員死んでしまうよ。」私は、そんな時代に生きぬいた人だからこそ、強くて、優しい、そして我慢強い人間になれたのに違いないと感じました。今の私のつらいことなど本当にささいなことで、我慢できないからといって投げ出すことの出来ない戦争時代を考えると改めてゾッとします。
 最後に山岸さんは、インタビューの最後の戦争を知らない人へのメッセージで次のように言い残しました。「あの悲惨な戦争は私たちだけで十分。決して孫やその次の世代にも絶対に経験させてはなりません。私も平和を祈念しながら残りの余生を過ごします」と。お二人は、「戦争を思い出すのも本当はいやなんだよ」と涙ながらに語ります。私たち戦争を知らない世代ができること、それはこの戦争体験者のお話が録音されたテープを次の世代にそして次の世代がまたその次の世代に語り継いでいくことだと強く感じました。

 (聞き手 神谷亜美 平成2《1990》年生)
編集者
投稿日時: 2007-10-9 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (57)
「戦時の事務仕事 悲喜こもごも」

  松田町 北村 重輝(大正10《1921》年生)

 (あらすじ)

 私は戦争には行かず、銃後《=戦場の後方で》の守りで昭和19年6月から松田国民勤労動員所に奉職していた。生産工場の人員を確保する仕事で、大部分の男性が戦争に行ったので、人手を揃えるのに大変な苦労があった。
 鉄砲の弾、軍用の飛行機等を作る生産従業員は欠かせないもので、それを徴用《=国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせる》として動員をかけた。徴兵の赤紙に対して、黒紙で呼び出した。女子挺身隊《=太平洋戦争時の女子勤労動員組織》、奉国隊も同様。仕事の好き嫌い等個人的なことは考慮せず、専ら軍用の生産に従事させる従業員を確保した。南足柄郡にフイルムの会社があった。そこへ若干20歳過ぎの私が、知事の代理で訓示を読むことになり一人で出張した。 初めての体験で足が震えたが、俺の背中には日の丸がついていると思ったら震えも止まった。私が勤務していた動員署の職員は男5人女11人だった。常に緊張した状況で仕事していた。当時、勤労奉仕は多く行われた。中学生、尋常小学校の高等科の生徒等は農家へ。物々交換も盛んに行われた。
 都会の人が着物等を農家で食べ物と交換した。徴用で一人の男性を送ったが、東京から先はどこへ送られたかはこちらもわからない。敗戦後、背中に赤ん坊、手には3、4歳の女の子を連れた女性が「うちの父ちゃんどこへ行ったんでしょう」とその男性を訪ねて来た。
 私も答えようがなく、女性と一緒に涙した思い出がある。また、松田にマッカーサー《=戦後、日本占領連合軍最高司令官》が上陸して来ると聞き、どうなるかと思ったが、役所に来て私が通訳した。緊張の連続の数ヶ月だった。


 (お話を聞いて)

 私の今までの「戦争」というもののイメージは零戦や戦艦大和、空襲や原爆といったものであり、少し遠い世界の事のように思っていました。しかし今回戦争体験者のお話を聴き、戦争は非常に身近な出来事であったと知りました。
 私は戦争体験者の話を聞き、特に二つのことか強く印象に残りました。一つ目は、今日初めて知った言葉である「銃後の守り」です。最初私は女子挺身隊となった人々や出征しなかった男の人たちなどは強制的に働かされ、嫌々ながらも国の為に作業していたのだと思っていました。しかし話を聞き、また当時の状況を考えると、兵隊となって戦っていたのは自分の夫や父や兄弟だった訳です。肉親を少しでも助け、守るために工場では働くことが出来たのではないかと思え、またそう考えると戦っていた兵隊達も非常に心強かったのではないかと思いました。
 二つ目は戦争を体験していない世代へのメッセージとして読まれた詩です。戦争を体験した世代がどのような気持ちで日本を作ってきたのかという事がよくわかりました。特に、「日本を立て直す」という精神が日本の高度成長を支えたのだと深く感じました。この詩は他にも今の日本人に対する大切な何かを教えてくれている気がします。
 今回のこの体験で、戦時中の日本はどのように必死だったのか、また、どのような悲しみがあったのか知ることが出来ました。
 今も世界中に戦争中の地域や戦争の爪跡に苦しめられている人々がいます。
 今までは他人事のように感じていた戦争などの映像も、実は身近に同じような体験をした人がいる。
これを知ることができ、本当に良かったと思います。次は、この「肉声史戦争」を聞いた私たち世代が平和を築き、維持していこうと強く思いました。

 (聞き手 北村重浩 昭和63《1988》年生)


編集者
投稿日時: 2007-10-10 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (58)
「潜水艦に撃沈され筏に掴まり12時間」

 山北町 関 徳松(大正11《1922》年生)

 (あらすじ)

 学校を半年早めて昭和17年9月に卒業し、10月1日には軍隊に入隊,日本の国を守る為に頑張ろうという気持ちだった。私は航空教育隊航空士官学校で、飛行機の整備を勉強した。18年に福生《ふっさ=東京都》の飛行学校で重爆撃機のエンジンを解体し、清掃点検してまた組み立てた。自分達で整備した飛行機をテスト飛行して、エンジンが立派に始動し安全に飛行できたことが誇りだった。
 19年4月28日飛行第52戦隊が編成され、私もそこへ。4枚プロペラの「疾風」《はやて=太平洋戦争時の日本陸軍の戦闘機》があった。5月7日に北九州へ転進、そこで訓練した。7月と8月にB29《=米軍の爆撃機》を2機撃墜し、捕虜となったアメリカ兵が日本より質素な服だったので、敵も苦労しているなと思った。10月8日に門司港から高雄を経てマニラへ。途中のバリンタン海峡で敵の潜水艦に攻撃され乗っていた「大博丸」は大破。海へ飛び込んで、救助されるまで筏《いかだ》につかまって12時間位浮いていた。鮫がいる海で、鮫よけの長い赤棒が筏に絡まって溺死《できし》した兵もいた。11月5日に到着し、整備に多忙を極めた。
 やがて飛行機もなくなり、北進撤退命令が出た。20年1月12日、約200名の隊員が北進開始。夜間のみ行進し、疲労の限界で助けられながら何とか歩いた。食料もなくなり、現地の人からとうもろこしをもらった。
 約400kmの行軍で2月3日に到着。18日には台湾へ。台湾は別天地だった。その後、内地への帰還命令が出て、4月に調布《=東京都の市》へ。そこではほとんど待機で、8月の終戦を迎えた。


 (お話を聞いて)

 今回、関さんの戦争体験を聞かせて頂いたが、戦争という非常体制の中では、日本国民全員が勝利のために、たとえ妻や子供がいたとしても、それらをかなぐり捨ててまで軍隊に入り、国に対して貢献しなければいけない時代があったことが、私の感覚から考えると、とても不思議なことのように思う。
 今の時代、自分やその周りの人や物を、第一に考えることが当たり前の世界において、私は果たして国のために家族や趣味等、ありとあらゆることをかなぐり捨ててまで、国の起こした戦争に加担することができるかどうか考えさせられた。
 また、軍隊の人が乗る戦闘用の飛行機を組み立てることに、誇りを持って作業に取り組んでいたというお話を聞かせていただいたが、現在、会社員の私が誇りを持って仕事をしているかといったら、果たして自分がそこまで意識して仕事をしているだろうかと考えさせられた。そのように思っている中で、飛行機を組み立てる作業の話を生き生きとした口調で話している関さんを見ていて、生きていることが息苦しそうな時代の中で、とても強く生きてこられたのだなあと思った。
 最後に、戦争を知らない人へのメッセージの中で、関さんから、戦争の無い平和な世界はとても素晴らしいものだ。しかし、その平和を守るためにはどうしたらいいか、日本で、世界で考えてみる必要があるのではないか、という言葉を頂いた。今、日本はとても平和な世界を形成しているが、ほかの国を見ると、そうでは無い国がたくさんある。戦争を起こしている国もある中で、いかに日本は、そして世界は平和を守っていくのか、これからの将来を考えさせられるお話を聞けて、・とても有意義な時間を過ごせたと思う。

 (聞き手 西川也桃 昭和51《1976》年生)
編集者
投稿日時: 2007-10-11 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (59)
「終戦後にもあった戦争」
 
 山北町   関  貢 (大正9《1920》年生)

 (あらすじ)

 赤紙が来たときはいよいよ来たかと思う。軍服を着たときは恐ろしさと不安があった。
 衛生兵として入営。新兵は辛く、先輩は神様であった。軍律は厳しく、しかし誇りはもっていた。南方の島で艦砲射撃を受けるがそれは凄まじいものであった。
 終戦は8月25日に知る。負けたと分っていたがその後3ケ月戦争が続いた。結果、英国の捕虜となる。そこでは、衛生隊を作らされ戦後の復興作業をやらされた。インドネシアの独立運動が始まり日本人は殺されるなどとのうわさを聞く。約2000人の敵兵に包囲され、味方は500人。援軍を求めるが無駄。部隊長は武器を与え命を守れというような状況であった。終戦から帰国まで2年間は空白の時間。帰国し、働いている人を見て、俺たちは日本人だと実感した


 (お話を聞いて)

 今回、関さんから戦争体験を聞かせて頂いた。まず印象に残ったのは、昭和20年8月15日終戦を迎えた後も、なおイギリス軍の捕虜になって、インドネシアの独立を阻止するための連合国側の戦争に加担させられたという話しを聞いたことだ。そのために、やっと日本に帰ってこられたのは終戦の2年後だったということも聞かされた。その話を聞いた時、戦争に勝った国は戦争に負けた国に対して何をやっても許されるのだなあと率直に思った。戦争に勝つためには手段を選ばない戦勝国のやり方に対してとても憤りを覚えた。
 もう一つ、関さんのお話で印象に残ったのは、「日本国の軍隊は、軍律という厳しい軍隊の規則に従って、日本人としての自信と誇りを持っことを養ってきた。日本人として国のためにどう戦地に赴くか、国を守るために死ぬことは光栄なことで、そのためにはどういうふうに敵に向かって体当たりをするかを徹底的に叩《たた》き込まれた。」と話されたことだ。戦時中は日本人であるという自信や誇りについて、それがたとえ戦争に加担し悪い方向に進んでいたとしても、確かに存在してたと、関さんの話しを聞いて見て取ることができた。
 しかし今現在、日本人にとって自信や誇りというのは一体どこにあるのだろう、私は率直に、今の日本人にとっての自信や誇りというのは一体なんなのだろうと考えさせられた。昔の日本にあって今の日本には無いもの、それは他の国と比べて日本人として誇れるものは何か、はっきり言えるのかそうでないのかということではないか思う。私たちのような戦後生まれの世代で、日本人としての誇りとはいった何かはっきりと述べられる方はそんなに多くないと思う。私は関さんの話を聞いて、日本人の誇りとは何なのか、改めて考えてみたいと思った。  

 (聞き手  西川 也桃 昭和51《1976》年生)
編集者
投稿日時: 2007-10-12 7:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (60)
 「外地での少年期 遊び相手は犬とロバ」

 山北町 相原 俊夫(昭和4《1929》年生)

 (あらすじ)

 私は戦前戦中と外地で少年期を過ごした。昭和8年4歳の時、おじに連れられ熱河省《=中国北部》凌源駅に着いた。その後、現地の大和旅館の子供として育った。旅館には一個中隊が常駐していた。夜中に馬賊《=略奪などを行った騎馬の武装集団》が攻めてきて、町内での撃ち合いになることもあった。おじは銃を持って出かけ、残った者は黒い服を着て屋根の上に避難した。町の周りには土塀があり、大きな門が東西南北にあった。夕方になると門が閉められ人の出入りできない。宿泊客は兵隊が多く、夜中に弁当何百個と作って届ける手伝いもした。私の遊び相手は、犬や荷物を運んできた商人のロバ。冬期には凍結した川でスケートを楽しんだ。
 小学校では日本人と韓国人が共に日本の教育を受けていた。全校で20人程度だった。昭和17年官立旅順中学校へ入学。当時、旅順は日本国だった。しばらくして学徒動員《=労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させた》として鉄鋼工場へ派遣された。昭和19年からは海の官署で勤務。大連警察署からの派遣で旅順・大連間の絶壁の上に24時間体制で5、6人で勤務していた。終戦日はこの官署で迎えた。奉天に帰り、日本人は市内の中心にある映画館に集まって根城《ねじろ=行動の根拠とする場所》にした。
 8月20日から治安が悪化し郊外の日本人宅が強奪、火災に遭った。男性は私一人だったので夜警に立ち、屋上で監視した。8月末に奉天にソ連軍が侵入。路上で婦女子が襲われ始め、丸坊主にして男性服を着ないと外出できなくなった。八路軍《はちろ軍=抗日戦争期に活動した中国共産党軍 後に人民解放軍となる》が入ってからは治安が少しよくなった。昭和21年2月頃から日本人の帰国が始まった。私は10月の最終貨車に乗り、船を3日待って帰国した。満州の山に木は生えていないので、山の木を見てびっくりした。


 (お話を聞いて)

 おじいちゃんの話を聞いて、改めて戦争の恐ろしさ、むごさを知ることができました。
 戦争のテレビ等で見たりしてたので戦争のひどさは知っていました。しかしお話を聞いていると戦争について話すおじいちゃんの一言ひとことが重く胸にのしかかってきました。
 「銃を頭に突きつけられたこともあったよ。」という言葉に私はとても驚きました。戦争時代には死と隣合わせの生活。今ではそんなことなどまったく考えられません。平穏に生活ができるのが当たり前な時代です。私達がこの平和な時代で生活できることはとてもすばらしいことだと思います。
 戦争は人間たちの醜《みにく》い欲望からでてきた争いです。人間が人間を殺し、やさしさ、平和、尊厳を消し去り、別れ、苦しみ、憎しみを生み出します。そして関係のない人々もまき込まれ、最終的に被害を受けるのは、かよわい女、子どもばかりです。おじいちゃんもその内の一人として被害を受け苦しい生活だったと思います。そんなおじいちゃんが一生懸命語ってお話を胸に刻みお話をしてくれたおじいちゃんにとても感謝しています。
 私は、おじいちゃんの話を多くの人に広め戦争のむごさを知ってもらい二度と戦争が起きないようにしてほしいです。

 (聞き手 磯田 真紀 平成2《1990》年生)
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