@





       
ENGLISH
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
メイン
   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     『肉声史』 戦争を語る
投稿するにはまず登録を

スレッド表示 | 新しいものから 前のトピック | 次のトピック | 下へ
投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-9-12 8:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (31)
 「神風は存在しない」
                 
 伊勢原市 鈴木 正子(大正12《1923》年生)

 (あらすじ)

 昭和18年専門学校の終わり、20歳頃に太平洋戦争が始まった。 「神風」という言葉が流行っていた。思い出すのは小学校3年の修身の時間。礼儀や作法の教育がされる。そこで愛国心を植えつけられていった。それは見事だった。教育勅語《注》を全暗記、軍国主義が浸透した。子供心に「国の為に尽《つ》くしたい」と愛国心に燃えた。天皇陛下の写真が学校や会社の目立つところに収めてあった。陛下は神様と同じだった。戦争が始まると家の金物を供出した。満州事変後、「産めよ増やせよ」で子供12人産んだ人は表彰された。人口が増えてきたら満州開拓団へとやらされた。行った人は痩《や》せた土地で大変だった。コーリャン《=中国語、中国産のモロコシ》位しか作れなかったらしい。
 そのうち戦果の放送や報道も少なくなり、国民もおかしいなと思い始めた。
 B29《アメリカの大型爆撃機》が高い空を飛ぶようになってきた。雨が降ってきたと思うと、焼夷弾《しょういだん》が落とされる。雨じゃなくて油だった。「何か国の為に」と女学校卒業後に日赤を受験して合格した。衛生教育を受けて豊橋の陸軍病院に配属された。終戦間際には敵の飛行機が低く飛ぶようになった。パンパンと機関銃で撃ってくる。防空壕に入る時の惨めさは忘れない。
 終戦の玉音《ぎょくおん=天皇の声》放送を聴いて「神風は存在しない」と知った。戦前戦中の「国民一致」は徹底していた。見事だった。新生活に向けて、戦後国民皆に一人当たり10円が支給された。
 人間は生まれてきたからには楽しく過ごせるようにしなければならない。一人一人が幸せにならないといけない。

 (お話を聞いて)

 鈴木様より、戦時中の話を聞かせていただいたとき、懐かしい思いがした。もちろん自分自身は戦争を知らないから、体験を思ってではなく話を聞くことが懐かしかったのである。私は戦争体験世代にとって孫の世代である。それでも幼いころは、祖父から戦時中の話を書かされたし、学校では毎年必ず戦争体験を振り返る行事があった。だから今回のインタビューで聞いた話は、全く新鮮な話というわけではなかった。しかし、懐かしいと感じるほど長い間、このような話にじっくり触れる機会が無かったように思う。
 インタビューの前、鈴木さんは話す出来事の年代を整理されようとするが、なかなか正確な年を思い出せずに難儀されていた。しかしいざ話が始まると、出来事を非常に詳細に覚えておられ、今も脳裏に情景が焼きついているという話し振りであった。実際に焼夷弾が降る様子、陸軍病院で戦闘機から機関銃で攻撃を受けたときの話などは、聞いている側にもその映像が見えるようであった。
 鈴木さんの話から感じれたのは、暗い戦時中にも、人々の生活や日常の交流があったのだということ。凄まじい体験の中、決して暗いだけの時代ではない。戦争に対して、特殊な教育によって特殊になってしまった人々の出来事のようなイメージが少なからずあった。しかし話を聞いていると、そこに生きていた人々は、むしろ人間関係が希薄になっている今の世代よりも、ある面で人間らしい関係がある。自由がなく、従った時代であるが、励ましあい、互いに助け合った時代でもあった。再び来てはならない時代ではあるが、生きるということを学ばせた時代でもあったのだろう。
 話の終わりに、鈴木様が今の世代に伝えたかったことは命の尊さだった。鈴木さんの世代は戦争をそれを通して学んだ。私達は戦争を繰り返して学ぶわけには行かない。しかし、体験者に耳を傾けることで、彼女達が学んだレッスンを受けることができる。

 (聞き手 坂井圭介 昭和53《1978》年生)

注 教育勅語=明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語 
編集者
投稿日時: 2007-9-13 7:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (32)
 「体全体血しぶきに 恐ろしや落下傘爆弾」

 寒川町 金子 直則(大正7《1918》年生)

 (あらすじ)

 戦争では2回負傷している。1回目は昭和15、16年頃、身に着けていた軍人手帳に弾が当たったので助かった。
 新婚2ケ月だったので知らせに来た父も言い出しにくかったようだ。6月17日甲府連隊に集合し、21日いよいよ明日出発だと剣、テント、布鞄が支給されたが、銃は渡されなかった。皆家族に電報を打ち、22日甲府駅へ。ホームに多くの家族が見送りに来ていたが、私の家族は来なかった。電報が間に合わなかったと後日聞いた。列車が故郷の茅ヶ崎駅に近づいた時、甲府駅で妻に渡せなかった不要の衣類等の風呂敷包みに住所を書いたメモをつけて、踏み切り番の人に投げた。すると拾ってくれたので安心した。
 博多港から釜山へ。ある時、将校試験があって「将校になったら先頭で戦ってすぐ死ぬんじゃないか」と白紙で出したら、「貴様らどういう考えだ」と軍曹にしこたま殴られた。
 内心終戦が分った。中国・洞庭湖の岸辺で、敵機は見るが日本の飛行機は見なかったから。戦死や負傷した兵の不要になった銃が送られてくるのを毎日待っていた。8月に入って、のんびりと褌《ふんどし》干しをしていたら、たくさんの敵機が飛来、私達が伏せていた側に落下傘爆弾が落ちて破片が私の右腕に刺さった。棒で殴られたような刺激で全身血しぶきだった。私の後ろの戦友は即死。私は野戦病院へ運ばれた。中国で陸軍病院を転々とし、内地へ向かうため釜山へ。あの傷で未だに右腕はダメだ。

 (お話を聞いて)

 金子直則さんより体験記を聞かせていただきました。
 なにより驚いたことは、あの恐ろしい中、どんな思いで記録をつづられていられたのかと思うと、とても複雑な思いで胸が痛みました。それが体験日記となって後世へ伝えていけたら、平和の大切さを少しでもわかって頂けるのではないでしょうか。 ちょうど私の親世代の方などで子供の頃、両親から聞いた話なども思い出しました。ご自分のすぐのところに爆弾が落とされたことが一番恐ろしかったと。
 それもたびたびで戦死者や負傷者が沢山出てしまい、破片がご自分の腕に刺さってしまった事や、胸に入れていた軍隊手帳に命を助けられたこともあったそうです。お持ちいただいた手帳には、白く破れているところがありました。そこに弾があたったとのことでした。そんな体験を何度となくされる。
 私には考えられないことばかりで、戦争は悲惨で言葉に表すことができないぐらいです。そして半世紀以上たった今、私自身が戦争の爪痕《つめあと》を思い知ることとなりました。それは、平成14年秋のことでした。寒川町で相模縦貫道の工事中、毒ガスが見つかったことです。ビール瓶に入った白い液体でした。その場所は旧相模海軍工廠《海軍こうしょう=軍に直属し兵器弾薬を作る工場》の跡地で戦争中に毒ガス兵器が密かに製造されていたようです。イペリットという、吸い込むと呼吸困難に陥り、死にも至る恐れもあるという猛毒だそうです。60年もたった今、身につまされる現実の恐ろしさを知ったのです。住民の不安との対応、対策にたまたま主人が携わっていたこともあって、毎日東奔西走《とうほんせいそう》している姿を目の前にして並々ならぬ事の重大さを感じておりました。たった1本のビール瓶がもたらした戦争の物凄さ、恐ろしさでした。 戦争の体験こそありませんが、二度と絶対に戦争は起こしてはいけないのだと心の底から痛感したのでした。そして二度と起こさないためにも、若い人達へ体験記を伝えて頂きたいと思っております。    

 (聞き手 福岡逸子 昭和24《1949》年生)
編集者
投稿日時: 2007-9-14 7:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (33)
 「悲しかった弟のような初年兵の死」

 大磯町 宮代 竹次郎(大正8《1919》年生)

 (あらすじ)

 トランクに身の回りの物入れて、赤紙《あかがみ=軍の召集令状》に備えていた。軍需工場で飛行機のエンジンを作っていたので、召集が来てもすぐ出かけられるようにしていた。中支部隊の無線通信員だと判断して、現役で負傷した前の部隊よりは楽かなと思った。東京の8部隊へ入隊し、診察してくれた軍医が、偶然徴兵検査してくれた人だった。 「みぞおち貫通の傷でよく帰ってきたな。必ず国で面倒みる。心配するな」と言ってくれた。
 8部隊には私を含め兵長が6人いた。誰も戦地経験なく、傷痍軍人だった私に皆気を使ってくれた。起床ラッパにも「いいから寝てろ」下士官も「いいよ、寝てろ」。演習にも勤務にも出ず、食事は持ってきてくれる。下へも置かない扱いだった。現役では昭和14《1939》年から17年まで3年半シナ《支那=中国》へ行って、満期で帰ってきた。怖いというより もうお終いかなと思ったのは、敵が近くの部落に入ったというので、軽武装で行ったら敵が多く、包囲されそうになった時。戦死した兵と負傷兵を引きずってコーリャン《もろこし》畑に逃げ込んで助かった。敵との戦いは気が立っているから怖くないが、夜突然呼び出されて捕虜を処刑しろと言われた時は慌てた。戦友が死んだことは悲しかった。その兵の思い出話をしながら、二晩中交代で死体を焼く。頭と腹がなかなか焼けない。自分に付いていた弟みたいな初年兵が死んだ時も悲しかった。シナから帰って列車が大磯を通る時は嬉しかった。今の若い男には靖国《神社》参拝等で気持ちを凛々《りり》しく持ってほしい。

(お話を聞いて)

 臨時の取材者として、私も、戦時中、内地での食糧難や、空襲などの体験者の一人でもあります。
 宮代さんには、以前から色々と戦地や、内地でのお話を伺ってはいましたが、今回取材での、細やかな中身のお話は、初めてでした。特に印象に残ったことは、①とても悲しかったこと。すごく、②うれしかった事。でした。
 ①は、親しかった戦友が戦死され、葬るために、マキで火葬するという話。数人で交換で焼くのだが、頭と腹の部分が焼けにくく、棒で返しながらするんだけど、と。

 ②は、内地へ帰って来たとき、列車が故郷の小田原駅に臨時停車、じっとしておれない心境の語り等。何より、「家族や親友への思う心」「絆」。今の私達も大切な、「心」を改めて感じた。
 
 (聞き手 梅田喜代志 昭和8《1933》年生)

編集者
投稿日時: 2007-9-16 7:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (34)
 「最前線 思わず祈る 千人針《せんにんばり 注1》

 大磯町 橋本 嘉雄(大正5《1916》年生)

 (あらすじ)

 まずシナ《支那》事変の話から。昭和12年9月に中国大陸へ。シナの道路悪く、泥だらけになりながら無灯火の中行軍した。デング《蚊によって媒介されるウイルス性の熱帯伝染病》熱にかかり入院中、内地からの慰問袋《いもんぶくろ=注2》が嬉しかった。
中身は缶詰が主。戦後、慰問袋が縁で結婚したという話も聞いた。退院後、4、5日かけて一人で隊に戻った。心細かった。昭和14年7月に北京を出て帰国し、原隊に戻った。敵の装備が悪かったからシナ事変は勝ち戦だった。
 次は大東亜戦争。昭和16年7月に動員、8月に満州に向けて出発した。東満の国境近くで天幕生活。私は暗号班長だった。軍の暗号を受け取って解読した。「南下を続けろ」という電文で台湾の高雄へ。12月8日の開戦は船の上で知った。輸送船団約20隻に護衛艦が両側について台湾出発。24日フィリピン上陸。隣の船が上陸間際に魚雷を受けて轟沈《ごうちん=雷撃を受けた艦船が瞬時に沈没する》した。上陸後はマニラに抜ける敵を追撃。私達の部隊は露営《=野外に陣営を張る》で、夜は道にごろ寝だった。蚊帳を被って南十字星を眺めて内地を思った。30日には本隊が作戦の主力部隊となり、不眠不休で作戦命令の暗号を解読した。翌1月4~7日の戦闘は、野砲弾が数メートル先に着弾して戦死者が続出、馬が血を噴く中、解読作業に励んだ。この時ばかりは腹に巻いた千人針に祈った。
 敵はバタン半島に逃げ込み、それを追い詰めるのだが、敵は演習地だったので地形をよく知っていた。簡単に落とせると思っていた軍の作戦ミスだった。総攻撃で勝った。敵は2万人程いたが、バタンからマニラまで徒歩で行進した。これが「バタンの死の行進《注3》」として戦後、責任者が処罰された。

 (お話を聞いて)

 「戦争体験」を聞く機会はこれまで多くあり、さいわいにもさまざまな立場からの体験をきいてきたが「体験を引き継ぐ」ことの難しさを今改めて感じている。私の父の今日の肉声史の多くは父も述べているように「勝ち戦でのまた本部での戦争体験であり」、最前線でのまた負け戦での過酷な体験とはかなり異なる。さらに私の妻の父母たちの沖縄住民のように戦場のなかで逃げまどった悲惨さとも異なる。
 ただ、そうした立場でも、戦争の渦中にあったがゆえに不慣れな土地での風土病で野戦病院《=戦場の後方に設け戦線の傷病兵を収容治療する》に取り残された苦痛と不安、敵味方入り乱れ銃弾飛び交う恐怖のもとで千人針を頼み綱と祈ったこと、たまたま生き延びた安堵感などこれまであまり話さなかった当時の体験の肉声を多くきく機会となった。本人にとって思い出したくない体験であり、今の言葉で言えばPTSD症候群といえる死に直面した恐怖体験は、消化し話せるまでには長き時間を要したであろう。東京大空襲後の線路を歩いて秋葉原に向かったときに見た横たわる焼け焦げた死体の累々《るいるい=重なり合うさま》とした情景もつい最近になって話しはじめた。
 では取材者として何を引き継ぐのか。父は最期に要は仲良くし悲惨な戦争にいたらないようにすることと述べた。私の関心もあり第二の人生として世界のとりわけアジアの人と交流することに情熱を傾けたいと考えている。勿論今とこれからを仲良くしたいからである。だがその際に過去のことにほうかむりすることはできない。戦争に巻き込まれた人々には父が「戦争体験」を忘れることができないように、また私のように次世代に引き継がれているからである。
 引き継ぐということは、「戦争体験」をききながら想像し思いを、めぐらすことだと考えている。父のはなしを聞きながら、たまたま砲弾で父の隣で死んだ人の思いを想像し、「敵」であった人の家族のことを考え、戦争に巻き込まれた住民の暮らしに思いをはせていた。
 こうした過去の上で、私そして出会うであろう外国の友とこれからの仲良くする道を探ることにしたい。
               
 (聞き手 橋本進司 昭和23《1948》年生)

注1 千人針=一片の布に千人の女が赤糸で、ひと針づつ縫って縫玉を作り出生兵の武運長久を願い送ったもの

注2 慰問袋=兵士を慰めるために娯楽物や日用品を入れて内地から送ったもの。


注3 バタン、死の行軍=捕虜(病人も多かったが)の護送を徒歩で移動せざるを得ない状態で犠牲者が多数でた

編集者
投稿日時: 2007-9-17 8:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (35)
 「疎開先 ご飯がお粥《かゆ》に お湯粥に」

 二宮町 佐藤 敬子(昭和8《1933》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年8月15日、私は学童疎開で岡山県高梁市《たかはし市》にいた。
 お寺で終戦の重大放送聴いた。雑音で内容が分らなかったが、宿舎に帰ると敗戦したと分り、皆わあわあと泣き出した。国民学校の6年生だった。当時私は兵庫県芦屋市に住んでいて、小学校でも縁故疎開《えんこそかい=親戚などに疎開》か集団疎開で避難しなさいということになった。「太郎は父の故郷へ、花子は母の故郷へ」と歌われていた。私はすでに父を亡くし、兄も疎開していたので、母との2人暮らしだった。両親の故郷は無かったので、集団疎開することになった。
 まるで修学旅行に行くかのように、大きなリュックでいそいそと出かけた。最期の別れになるかもしれないなどとは考えず、夜汽車に乗って岡山へ。荒れた寺が疎開先だった。そこへ3~5年生と6年1組の女子が寝泊りした。私の6年2組は寺から少し離れた金光教教会の2階へ。1階には金光教の塩谷先生ご一家が住んでいた。私達が到着すると、熟れた梅の実を甘く煮てご馳走してくれた。嬉しかった。勉強は塩谷先生に見てもらい、食事はお寺へ。 お風呂は週に2回位銭湯に行った。洗濯は近くの川で自分で洗った。お寺には寮母さんがいて、小さい子達の面倒をみていた。6年女子にはお手伝いがあった。おこげやゆでジャガイモなどのおやつもあった。ご飯は次第におかゆになり、それもだんだん薄くなっていった。
 父はシナ事変へ出征した。そこで結核患って帰国、病気が悪化して亡くなった。父はどんなに心残りだったろう。また、全国に父の顔を見ずに育った人はどれほどいるだろう。一部の人の利益の為に庶民が犠牲になるのはこりごり。

 (お話を聞いて)

 佐藤敬子さんの話を聞いて・・・この「肉声史戦争を語る」事業がきっかけで聞き手となりましたが、偶然にも佐藤さんが住んでいた芦屋市の隣西宮市で私は生まれ育ちました。
 私が生まれる前に祖父母は亡くなっていたので、戦争に関する話を身近で聞くことはありませんでした。そして、今こうして生活をしていることが当たり前でいましたが、今から十数年前昭和から平成へと時代が変わった終戦記念日を前に、戦争を語り継ごうとまとめられたとき佐藤さんのお気持ちを考えると胸がつまりました。また私が生まれ育った近くでのお話に引き込まれ、情景が目に浮かぶようでした。
 私はどこかでひとごとのように思っていた戦争でしたが、もし佐藤さんのように自分自身が同じ体験をしたらどうだっただろうかと考えさせられました。食べる物もない、医学も進んでない、お父さんを亡くしたからと思うと胸がしめつけられました。このテープ収録に関わる佐藤さんの寂しそうな表情もとても印象に残りました。今までは漠然ととらえていた戦争を今回のことがきっかけで考える時間を与えていただきました。そして、多くの方々の命を土台の上に今私たちが生かされている、そのことを忘れてはいけないと強く思いました。
       
 (聞き手 清水 栄子 昭和38《1963》年生)
編集者
投稿日時: 2007-9-18 7:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (36)
 「トンネルを掘り備える、アメリカ兵上陸」
                   
 二宮町 柳川 賢二(大正4《1915》年生)

 (あらすじ)

 私は満州事変《=注》の5年後に満州へ砲兵として行った。昭和11年4月に世田谷を出て宇品《うじな=広島県》から乗船、大連からチチハルへ。すでに戦闘はなかったが、そこで毎日訓練した。翌年12月に北孫呉へ移動。 アムール川の国境で対岸がソ連領という土地柄、いつでも戦争できるように警備に当たっていた。マイナス35度の土地だった。 昭和13年には軍縮で師団の編成が変わり、3月に名古屋で第15師団の編成、私は砲兵21連隊に。8月には上海へ渡った。玄界灘で大台風に遭い、危ない目にあった。上海から南京へ。蒋介石《しょうかいせき》の幹部候補生養成の学校の警備に当たった。昭和14年12月に南京から帰国。4年間の現役で戦闘経験はない。再び満州で大演習すると昭和16年に砲兵28師団としてハルビンに召集された。そこは日露戦争時のレンガ作りの兵舎だった。
 昭和18年大東亜《=太平洋》戦争に突入した。昭和19年チチハルへ部隊が移住、8月にはチチハルから宮古島《=沖縄県》へ。多くの軍隊が宮古島に集まってきた。さつま芋が主食だったが、食糧はなかった。芋の葉を煮て、米が少し浮いている状態の食事が、飯食1杯で3人の3食分だった。小高い丘に松林があり、トンネルを掘ってアメリカ軍の上陸に備えた。昭和20年3月に硫黄島《いおう島=鹿児島県大隈諸島》が落ちてから、日曜以外毎日爆撃があった。
 終戦は9月半ばに知った。10月にはアメリカ軍の作業援助へ行き、大量のブルドーザーを見て、竹やりで戦えと言っていた政府に不信感を募らせた。捕虜まで入れて9年5ケ月、3つの戦争に参加して感じたことは、政治不信感。独立国家として軍事力持つことも必要だという信念も持っている。

 (お話を聞いて)

 柳川賢二さんのお話を聞いて・・・「よくきたね」と快く受け入れて頂き、90歳というご高齢にもかかわらず、お元気で力強くお話をして下さいました。
 年月日も克明に記憶され、いつどこで何があったのか話される姿に、ただ驚くばかりでした。忘れたいはずの戦争と思っていたのは間違いだったのかもしれません。忘れたくても忘れられない体験は約一時間という時間では足らないものでした。そこには地図や写真などの資料も用意されていて、戦争を二度と起こしてはいけないという思いが力強く感じました。
 戦争の話を身近で聞くことの出来なかった私とって、とても貴重な時間となりました。
 と同時にこの貴重な体験を残していかなければいけないと思いました。

 (聞き手 清水栄子 昭和38《1955》年生)

注 満州事変=1931年鉄道爆破事件を契機し後日中戦争へ発展する
 
編集者
投稿日時: 2007-9-19 6:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (37)
 (神奈川)県央ブロック

 「戦闘機 雷電をつくっていた」

 厚木市 花上 友彦(昭和5《1930》年生)

 (あらすじ)

 厚木中学2年の4月から翌年(昭和20年)8月まで、自宅から自転車、相鉄線と乗り継ぎ相模大塚に通うことになる。
 当時女学校(現厚木東高校)の女生徒も日本光学に学徒としてレンズの研磨工として動員させられていた。自分ももう少し生まれるのが早ければ戦地に行っていただろう。
 とにかく通うのが大変で、特に冬の寒さの中自転車で駅までいくつらさはなかった。無論、道も舗装されてはいない。工場には女工さんもいて、簡単な給食がでた。仕事はジュラルミンを万力で挟み、ヤスリでみがく作業であった。何を作っていたのかは、後で航空機「雷電」の部品の一部であったことがわかった。この飛行機はB29の迎撃用の飛行機で部品は別の場所に搬送され数十機の雷電が作られたらしい。P51(米国の戦闘機)が低空飛行で飛来したこともあった。昭和19年は特に寒くて、出勤する前に母が水桶の氷を割って朝の仕度をしていたことを思い出す。幸い食事は足りていた。
 工場勤めで「オシャカになる」(全然使い物にならなくなってしまうこと)という言葉を知った。勉強は殆んどできず、「欲しがりません勝までは」とか「撃ちてし止まん」などの標語が使われていて、このような状況下で不満はなく、まして戦争が早く終わればいいなどという気持ちはまったくなかった。友達でも志願していった人もいた。小学校のときに紀元2600年(昭和15)のお祝いがあった記憶がある。
 工場の中には防空壕があったが利用したことはない。当時軍需工場の疎開ということがあり、厚木の荻野が谷の戸《=谷の入り口》であったため上空から見つけにくいということで火薬廠《しょう》が疎開してきたことがあった。今でもその跡は残っている。付近の家では、将校の寝泊りのため宿舎として提供させられたそうだが、結局、軍需工場は疎開が完了する前に終戦になってしまった。終戦は夏休みの時で蝉がやかましく鳴いていた記憶があり、先行きの不安を感じたものである。

 (お話を聞いて)

 花上さんは、終戦の一年前、旧制中学から学業を離れ報国の動員学徒として座間町(現座間市)の海軍工廠への通勤を余儀なくされた。作業は、海軍戦闘機「雷電」の部品製作。
 この部品が戦闘機のものであることを知ったのは後のことであった。朝日の昇らぬうちに厚木から自転車と電車を乗り継ぎ通う、きつい毎日だった。仕事はきつくても、そのことには何も抵抗なく、このことが,国にとって極めて当たり前のことだと信じており、
したがって終戦となったときには先行きの不安を感じたとおっしゃるのだった。人間の心理、特に大衆心理は時には大きな力となる。それがプラスに作用すれば幸いだが、戦争はまったく逆の作用である。花上さんは当時はまだ学生であったから、幸いにして敵と直接交戦したことはないが、後で振り返れば、学生でありながら、学べないという辛さがあったのだではなかろうか。お話を伺っている途中、奥様も時々お話に加わり、戦死された戦地のお兄様から家族に宛てた多くの貴重な手紙を見せていただいた。その最後のお手紙には、「返信無用」の覚悟の一通があった・・・。
 花上さんは、戦後、教師として教壇に立ち現在は、自然観察会などでその指導にあたっておられる。戦後60年を経て、ご自分の体験を語るとき、静かに「戦争は絶対してはならぬ」とおっしゃった。               

 (聞き手 県老連事務局)
編集者
投稿日時: 2007-9-20 7:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (38)
 「まさに九死に一生」

 大和市 久世 菊雄 (大正7《1918》年生)

 (あらすじ)

 22歳で入隊,甲種合格は誇らしかった。兄も工兵隊であった。新兵は夜9時まで勉強。
 イロハニホヘトを早く書く練習を不思議に思ったが、後で、通信文を早く書く練習と分った。サイパンに船団8艘《そう》で行くが4艘がやられてしまった。戦友を助ける間も無く逃げ帰った。その後本土決戦のため伊豆七島の新島に行く。結局終戦までいた。
 外地にも無線電信教育隊としていっていたこともある。敵機は一日1回偵察に来る。あるとき海面すれすれに敵機が襲ってきて機銃掃射し200キロ爆弾を落としていった。そのために乗っていた船が垂直に立ってしまい、船長室にとじこめられた。ガラス窓を壊し外に何とか出た。九死に一生であった。そんな時でも思うのは部下のことばかりであった。
 その後は、日本本土への空襲が始まり三宅島上空に戦闘機B29《アメリカの大型爆撃機》が100機も編隊を組んで東京のほうへ向かっていくのを見る。内地の家族が心配でしょうがなかったものだ。


 「死体を被って難逃れ」

 大和市 大矢 東さん(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 18歳で1年繰り上げ召集された。昭和18年に兄が戦死していたので兄の仇をとるぞと、召集は悲しいというより男としての喜びを感じた。満州国とソ連の国境、東寧という町で6ケ月の軍隊教育を受けた。昭和19年6月頃のことだった。さらに下士官候補の学校へ入り、丸1年で部隊復帰すると同時に戦闘になった。
 5月には内地防備に部隊の3分の2が帰国し、1000人程が残った。 戦死は覚悟の上で5分でも10分でも食い止めろと、私を含む35人が敵を迎え撃つようにと命令された。8月8日午前2時ソ連は降伏を求めたが、応じなかったら24時間後に攻撃してきた。迫撃砲1門を30発程撃ったら敵に見破られて撃てなくなった。10m先に敵、組み合った時もあった。「生きる、死ぬ」は考えなかった。
 勝つことのみ。天皇陛下の為なんて考える暇ない。20日には慰問袋を持てるだけ持って歩兵の蛸壷で敵を待ち構えた。そこへ古年兵がビールと酒持ってきた。私は空腹に飲んだから酔て、眠ってしまった。気がついたら膝まで土に埋まっていた。相当な人数が通り過ぎて土が落ちてきて、激戦があったらしい。本当にひどい話ばかりで、今も話したくない位。夜中の襲撃は何回もあった。動くと銃剣で刺されるので、死体をおぶって難を逃れた。
 24日に約30人で陣地脱出した。それから翌年の5月20日まで終戦知らず、山の密林地帯を逃げながら戦闘を続けた。30人の仲間は、戦死や凍傷、自決、途中で置いてきたりで最後には4人になっていた。蛙、蝮《まむし》、鼠《ねずみ》と何でも食べた。草だけで2ケ月生きていたこともあった。昭和21年の8月末に帰国した。

 (お話を聞いて)

 戦争体験を力強く、時には坦々と、人ごとのように話される大矢さん、きのうの出来事のように60年前を生々しく言葉にされる大矢さん。私も、身内や親戚で同じような体験談を日本昔話のように聞いて育ち少しは知っているつもりでいましたが、あにはからんや、爆撃の音や、砂ぼこり、生臭い空気を五感に感じ、ぐいぐいと重く、暗い戦場へ引き込まれてしまいました。
 昭和20年8月、ソ連と満州の国境、第一国境備隊37名、「戦死を覚悟」で死闘の末、生存者4名の内の一人になり、その後終戦を知らず戦闘を繰り返しながら、飢えと寒さの酷寒地をさ迷い、翌21年9月に日本へ帰還、「本当は言いたくないんだよ」と。地獄のような話はしたくないと時折口にされつつも、よどみなく話をしてくださいました。
 あの大東亜戦争は「一体なんだったのだろう」と思うと、ただただ情けなく思えてならないと話す姿に、うなずく以外言葉をかけられない。胸がつまり無性に腹が立っていた。戦争体験が私の財産だという大矢さん、戦争で散った戦友の思いが自分を生かしてくれているのだと、命がけの体験がその後の生き方を大きく変えたと話す口調は81才の老人でなく、前向きに社会のためにと力を込めて話す21歳の若者の語りでした。「戦争はあってはならないもの」、「戦争は絶対してはいけないよ」大矢さんの云われる通り、世界の万人が平和を願っていてもおろかな人類は、戦いを止めようとしない。
 テープ終了後も、話はつきなかった。今回聞き手としての役目は不十分なものでしたが、日が経つにつれ、あたりまえのように生きていけることに感謝と、胸をえぐられた感情を風化させることなく、今度は私がこの体験談を一人でも多くの人に語れたらと思っています。「真の平和を」子や孫に語り継ぎたい。  

 (聞き手 徳田信子 昭和24《1949》年生)
編集者
投稿日時: 2007-9-21 6:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (39)
 「終戦直前 ソ連侵攻」

 大和市 高橋 義雄(大正12《1923》年生)

 (あらすじ)

 徴兵《ちょうへい》によって20歳に検査を受けて入隊。満州部隊要員として孫呉《そんご》へ行き、対ソ連戦に備えての演習訓練を受けた。国境近くだったので一般地域よりも厳しかったと思う。特に雪の上でのほふく前進が辛かった。本隊の多くは南方へ行ったが、私たちはハルビンで3ケ月訓練して、砲兵不足の為に部隊を編成してノモンハンへ行った。ソ連との戦いになった時、国境の山の中腹に大砲を据えて、敵の戦車や大砲を撃破する任務だった。ソ連は中立不可侵条約を一方的に破棄して、150万ともいわれる軍隊が一斉に攻めてきた。こちらは陣地構築中で、大砲も郊外においてあったので苦戦した。
 もう国境で食い止めるのは不可能だと関東軍からの退去命令で新彊《しんきょう=中国北西端にある主要地域》へ集まることになった。ところがソ連軍が610mまで迫っていた。食い止めなければ7000人の師団が全滅だと連隊長直々「絶対戦車を壊してこい」と任務を命令された。戦車2台が迫ってきていたが7門くらいの大砲が命中して戦車は退却した。約2年満州にいたが移動が多く、家に手紙を出すことはできたが受け取れなかった。
 楽しい思い出は、現地の人を連れて1ケ月程国境調査をしたこと。山の稜線《りょうせん=尾根》を目安に国境を調査したが、目的はソ連戦でどのくらい水が不足するかを調べることだった。この時の現地人との交流が唯一の思い出となった。8月27日の夜まで戦闘して、翌日飛行機から撒《ま》かれたビラで終戦を知った。昨日までの生きるか死ぬかの戦いから一変「ああ命があった」。でもすぐに「これからどうなるのか」と思った。
編集者
投稿日時: 2007-9-22 7:08
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (40)
 「四人四色の戦争があった」

 海老名市 芝崎秋夫(大正15《1926》年生)
        水島喜代治(昭和5《1930》年生)
        鹿茸愛子(大正12《1923》年生)
        桜井嘉代(大正12《1923》年生)

 (あらすじ)

芝崎 
 昭和20年に3ケ月ほど東京の近衛3連隊にいて、終戦時天皇の録音版のやりとりの現場に参加した。府中で訓練を受けた。飛行機の操作は簡単だった。横浜の焼け跡の整理に、根岸の競馬場や県民修練場に行った。作業中にグラマンが来て、すごい音だった。

水島 
 国民学校の卒業式が終わらないうちに、14歳で神奈川県立修練農場に召集された。
 知事からの命令書(白紙)拒否できない。当時の食事はご飯の中に大豆を入れたもので、米1、麦7、後は雑穀や芋の葉など。昭和18年に国家総動員法《注1》ができた。
 神奈川県は食糧赤字県だった。そこで満州の公主嶺に神奈川県の農場を作った。私達はそこで働く要員だった。入ると「少年農兵隊」に任命される。卒業して修了証をもらうとまた「公主食糧増産要員」という召集時の名称に戻る。14、5歳を半強制的に労働させた首謀者が戦犯を恐れて別称で集め解散させたのだと思う。
 満州は6ケ月交代。私達は2期生で昭和20年3月に入った。農家の体の丈夫な次男坊が主体だった。昭和18、9年、中学2年の頃、少年兵に志願できた。上から学校へ「志願兵を何人出せ」と割り当てがあったのだと思う。先生から志願を勧められたが父親が頑として行かせなかった。だからこそ今ここにいる。当時は、志願しなければ炭鉱か軍需工場へと言われていた。教育は怖い。
 「欲しがりません勝つまでは」とか、負けていても「神風が吹く」。苦しい時は「戦地の兵隊さんを思え」だった。皆で集まると当時の活動場所は懐かしい。団体活動だから協調性が必要だった。当時泣いた所だけれど懐かしい。先輩が苦しみながら、戦後復興の努力をして我慢してくれた。先人の努力の上に今があることを自覚してほしい。

鹿茸 
 高等女学校卒業前に日本電気に実習生として入社。6ケ月間タイピスト学校へ通ってジャワ無線機器に応募で入り、インドネシアへ。そこでやがて従業員になる現地の子供に日本語の指導をしていた。
 南方に行った昭和19年はすでに負け戦になりつつあった。終戦後赤十字条約《注2》のもと、着の身着のまま帰国した。インドネシアへ向かう際、乗船命令が遅れて1年近く門司で足止めされた。その間にインドネシア語を勉強して、行ってから役に立った。シンガポールに着いたら原色がきれいでびっくりした。
 終戦前日、海軍大尉に白い絹の落下傘で袴《はかま》縫ってくれと言われた。帰国時は、短刀持って何かあったらこれで死ぬ覚悟で帰ってきた。帰国の船の上でデマが飛んで、横浜も全滅だと聞いた。途中船で亡くなった方がいて、水葬した。船が3回ボーッと回った。 ジャワの人はとても親切にしてくれた。外地へ行って初めて「日本の旗いいな」と思った。生きている裏側には犠牲になった人がいたということを忘れずにいてほしい。

桜井 
 横須賀に住んでいたので、軍港があるからすぐに空襲があるだろうと思っていたが、軍港があるからこそ大丈夫だったようだ。主人が戦艦大和に乗っていて、やられた時に「もうだめだろう」と周りから言われたが私は気にしなかった。アメリカ上陸に備えてみんな田舎へ疎開したから隣組がいなかった。主人は戦艦大和278人の生き残りの一人だった。私達が疎開する寸前に会えた。甲板にいたから助かったらしい。命落とした人と紙一重だったそうだ。


注1 国家総動員法=日中戦争に際し人的および物的資源を統制し運用する権限を政府に与えた

注2 赤十字条約=1864年ジュネーブで締結された赤十字にたいする国際条約 

« 1 2 3 (4) 5 6 7 8 »
スレッド表示 | 新しいものから 前のトピック | 次のトピック | トップ

投稿するにはまず登録を