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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     『肉声史』 戦争を語る
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-8-12 7:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (11)
 「富士山を見て祖国帰国を実感」

 逗子市 磯崎セツ子(大正11《1922》年生)

 (あらすじ)

 昭和19年8月、会社勤めで製図手だった私は、連日の学徒出陣に矢もたてもたまらず、丁度募集のあった軍属の試験を受けた。採用が決まり、軍用船で釜山《プサン》港に上陸。1週間後、遼陽《りょうよう=中国遼寧省の都市》に到着した。 陸軍行政本部南満陸軍造兵廠に入隊。工務課に製図手として配属された。この部隊は科学部隊で爆薬、砲弾などを作って前線に送る任務だった。米軍のB29《=爆撃機》が頭上を通る時、高射砲《=飛行機を射撃するのにもちいる》部隊が配置されていてもこちらから撃つことはできない。部隊そのものが火薬庫なので自爆する恐れがあったからである。前線基地やレイテ島玉砕《ぎょくさい=名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと》で作業がストップし、防空壕掘りなどをして苛立《いらだ》つ日々を送った。そのうち吉林派遣の命令があったが、国境付近の不穏な空気で出発を見合わせた。間もなくソ連軍が攻めてきた。吉林の先発隊は全滅。終戦で武装解除。私達女子寮の者はそれぞれ文官武官の家に預けられ、短髪に男物の服を着て外出禁止。しかし、進駐《=軍隊が他国の領土に進軍してとどまっている》して来た責任将校に分別があり、事なきを得た。
 6月27日 東北保安司令長官部より退去命令が出て、一般市民と共に遼陽《りょうよう》日本人居留民として引き揚げた。帰国の途中で同僚が亡くなり、故国を目の前にして残念と泣いた。博多港に着き「りんごの唄」を聞いてそこで日本は変わった事を感じ、富士山を見て帰国を実感した。終戦から60年、戦争を知らない人が増えている今、話さればと思った。国の為に皆一生懸命だった。この体験談は昭和という激動の時代を必死に生きた証《あかし》だ。

(お話を聞いて)

 磯崎さんのお話をお聞きして、私も戦争中、杉並区荻窪の中島飛行機製作所の近くに住でいましたので、たびたび爆弾投下の恐ろしさを知っていますが、この度のお話は私の体験したものとは比較にならないほどの御苦労をなさって来たお話でした。
 お国のために女の子が技能職の軍属として志願されたのは、あの時代のことではありますが積極的な方だと思いました。それにしてもよくお父様がお許しになったなと感じます。男の子が居ないからお前いってお国のお投に立ってこいとお考えになられたのだと思います。その後敗戦という思いもかけない事態になり、現地の混乱の中をよくぞご無事にお帰りになれたものだと思います。
 ソ連軍、八路軍、国府軍と入れ替わり立ち代りの支配者の変化、お話を聞いていても残酷な行為に息が詰まる思いがしました。
 そのような中をやっとの思いつ帰国の途に着かれたのですが、その途中でもさまざまな御苦労があったわけです。
 やっと日本に向かう帰国船に乗ることが出来ました。しかしゆっくり足を延ばして横になるスペースもない波の荒い玄界灘で、永い間一緒に苦労してきた友人が亡くなってしまいました。その悲しみはお話の時には涙を流してお話になり私も、もらい泣きをしてしまいました。
 博多に到着してもすぐに上陸出来たわけではなかった。でも上陸して宿舎で聞いたリンゴの歌は、ああやっと日本に帰って来られたのだと、安堵《あんど》を感じたようです。
 帰郷の途中大垣駅で駅員さんたちから接待され車窓から見た富士山の姿に涙を流されました。秋葉原からの総武線で労働者風の方から声をかけられコッペパンを頂いた心の暖まるお話もありました。
 お孫さんが小学生のとき、学校で戦争は悪いことだと教えられ、戦争中のおばちゃんが外地で戦争に協力した話は、もう一生涯するわけにはいかないもの、と思っていましたが、今こうして話を聞いて頂きよかったと申しておりました。昭和の激動の時代に若い女性であろうともお国のためにと命を賭けて海外に雄飛《ゆうひ=勢い盛んに勇ましく活動する》した話は残しておきたいものです。
                      
 (聞き手 林 恵子 大正13年生)

編集者
投稿日時: 2007-8-13 6:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (12)
 「言葉失くし泣くことも忘れた私」

 逗子市 小菅 イネ(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

 昭和20年、私は22歳で洋裁の勉強をしていてデザイナーになるのが夢たった。高価なミシンも買ってもらい夢に燃えていた。5月29目の朝9時少し前、父も妹も出かけていて私一人だった。いつもは朝にはなかった警戒警報がすぐに空襲警報に変わり、飛行機の轟音《=ごうおん》がした。外に出てみたらすぐ近くに低く飛行機が飛んでいて、乗っている人の顔も見えた。と同時に近所に焼夷弾《しょういだん》が落とされた。夕焼けのように真っ赤に燃えていた。小学校に避難したら、海岸に逃げろ。  
 海は隠れるところがなかった。小さな船にすがって身を隠していたが、砂浜にブスブスと爆弾が刺さった。じっとしていられなくて、リュックも捨てて海の中へ歩いて入った。次から次へと飛行機が飛んで行き、パラパラと爆弾を落としているのが見えた。とても長い時間に感じた。攻撃が去ったサイレンで我に返った。海から上がったら、町が全部燃えていた。周りにも人はいたと思うが、一人ぼっちになってしまった気がした。怖くて仕方ないはずなのに、当たり前の様に死体を見て小学校へ行った。
 そこでやっと大勢の人がいることに気づいた。講堂の隅でじっとボーっとしていた。動く気力もなかった。 しばらくして家を見に行ったら何もかもなくなっていて、ミシンが倒れていた。あんなに大切だったのに、それをさわりもしなかった。父と妹が帰ってきて、3人で泣いた。それから小学校で過ごしたが、皆無言で、私は言葉が出なくなっていた。涙も出なかった。

 (お話を聞いて)

 小菅さんはゆめクラブ逗子の広報紙3号の戦後60年寄稿特集に「思い出のリュックサック」一私の命と引き替えにーと題して投稿されております。今回は横浜空襲の様子をもう少し、くわしくお話して頂くようにお願いしたわけです。

 家で友人が来るのを待っていた昭和20年5月29目の午前9時前に空襲警報は鳴ったのでした。外に出て何気なく空を見上げると見慣れない飛行機が超低空飛空で銭湯の真上から私にむかってくるように通り過ぎると近くの家に焼夷弾が落ち一面火の海になった。
 家の中に飛び込んだ、すごく静寂で落ち着いて鴨居《かもい》にかかっていた両陛下のお写真を見た事を覚えていました。
 海へ逃げろ!との声で海岸へ行き小船の陰に隠れていたが大勢の人々が集まってきて危険だったので海の中へ入り首まで浸って、次から次へとやってくるB29《=爆撃機》を見て横浜の市街地を見ていたわけです。
 空襲も終わり一人小学校へ向かう途中、小学生が全身火傷を負って苦しんでいるのを見たり、逃げ後れた人が走る姿のまま亡くなっているのを見ながら焼け残った講堂へ行った。
講堂の隅で一人呆然として死体が搬入されるのを見たり負傷者の救護を見ていたと言っています。
 焼け跡の自宅に戻り愛着のあるミシンがぽつんと転がっているのを見ていると午後の三時ごろかお父さんが駆けつけ、やがて残りの工場に挺身隊で働きに出ていた姉さんも帰ってきて父娘3人淡々の再会、「生きているだけでいい」という父親、聞いていて私も目頭が熱くなりました。
 母親と弟たちが疎開している宮城県へ向かう途中、大岡川でハシケに乗って溺死《でき死》者を引き上げているのを見ても刺激を感じず黙々と歩いていたとのこと。ただ疎開先に伺うバスの中で、焼け出された父娘3人の惨めな姿をシゲシゲと見つめる田舎の人のつめたい目を恨めしく思いましたと嘆いていました。

 (聞き手 清田 喜六 昭和6《1931》年生)

編集者
投稿日時: 2007-8-14 7:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (13)
 「とにかく戦争は不自由な生活です」

 三浦市 佐藤 和子(昭和7《1932》年生)

 (あらすじ)

 私はシナ事変《=日中戦争にたいする日本側の呼称》と満州事変《注1》の間に生まれた。尋常高等小学校《注2》1年生の時に紀元2600年で、歌にも歌われ、夜、提灯《ちょうちん》行列で大勢の人がお祝いをした。福島で生まれたが、不景気で父の仕事がなく小学校2年生に入る前に横浜に引っ越してきた。
 昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まり、「欲しがりません、勝つまでは」で女性はパーマネント禁止、食料は配給制で米は食べられず、衣類も衣料切符制《注3》となった。学校は国民学校となり、上級生は勤労動員《=勤労目的のために人を集中する》として働きに出ていたので、私達が学校で雑炊《ぞうすい》を作った。講堂の脇の倉庫が炊事場となり、大きなカマドが作られ、大鍋に米、野菜、豚肉を入れて作った。
 豚は学校で残飯をやって飼育していた。学校の窓ガラスには紙で×印が貼られた。昭和19年8月に入って学童疎開《注4》が始まった。

 私は自分が生まれた母の生家に一人で縁故疎開した。疎開先は大百姓だったので農作業の手伝いをした。姪をおぶって授業受けたこともあった。学校菜園に肥料をやる途中、飛行機の編隊が飛んできた。友人が「B29だ。早く隠れて」。体の震えが止まらなかった。町に軍需工場があって、落下傘の部品を作っていたと聞いた。爆弾が落とされ、夜まで煙が高く上っていた。

 昭和20年の東京大空襲で横浜の家族は父と姉を残して福島へ。その後の横浜大空襲で家は焼け、父と姉は着の身着のまま帰ってきた。8月15日、玉音放送《=天皇が国民に対しての放送》を皆で聞いた。戦争は辛い思い出しかない。体験者は一言でもいいから次世代に語り継ぐべきだと思う。

 (お話を聞いて)

 今回、戦争体験のお話をうかがうことになり思うことは、戦後60年を過ぎ、悲惨な状況であったときのことが、だんだんと風化しつつあると言う事です。メディアは、そのときだけで終わってしまいます。とても残念なことです。戦争がいかに残酷なことかを、身をもって体験された方が実際に語っていかれる事はすばらしいごとだと思います。
 21世紀になった今でも、世界では、「テロ」《注5》が起こり、平気で核兵器が作り出されています。戦争の恐ろしさは、日本が一番わかっているはず。生きるために口々をすごす子供時代は、戦後生まれの私たちには想像もつきませんが、二度と同じ過ちを起させないこと、そして今一度、一人一人が、人への思いやり、命の大切さを知る事が必要なのではないでしょうか。

 (聞き手 佐藤美代子 昭和37年生)

注1 満州事変=1931年9月鉄道爆破事件を契機とする日本の中国との戦争翌32年には満州国を樹立、後日中戦争へと進む

注2 尋常高等小学校=旧制の小学校で尋常小学校と高等小学校を併置した学校

注3 衣料切符=配給制度のもとで衣類を買うために必要な切符


注4 学童疎開=太平洋戦争末期に戦争の災禍を防ぐために大都市の児童を農山村地域に集団または個人的に移動した。

注5 テロリズム=政治目的のために暴力あるいはその脅威に訴える
編集者
投稿日時: 2007-8-16 7:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (14)
「戦は人の性格を変えていく」

 三浦市 大井 作雄(大正11《1922》年生)

 (あらすじ)

 現役で志願した。戦争が始まってすぐだったし、横須賀の海軍工廠《こうしょう》にいたので、お国のためにと当たり前のように志願した。  
 17、8歳だった。当時6歳上の兄が兵隊へ行って戻ってきていたので、兄も「行って来い」といった。まず部隊に入って、東京に3ヶ月いて満州へ。昭和17年4月から翌年の2月まで満州で、その後旅順《りょじゅん=中国大連市の港湾都市》に約10ヶ月。それからハルピン《=中国黒龍江省の省都》に帰ってきて、大隊がロシアと満州の国境に行っていたので、すぐ追いかけて行った。私は歩兵部隊で、うちの中隊は小、中隊長とも士官候補生で第一線部隊だった。
 3月までそこにいて、またハルピンに帰って来て私は違う部隊に移った。昭和19年7月に宮古島《沖縄》へ。その後は宮古島の警備。フィリピンから沖縄作戦に変わる時、すごい数の敵機が来た。その合い間に艦砲射撃《=船に備えた大砲から撃つ》を受けた。それがイギリスの艦隊だった。
 戦場で亡くなった人は、艦砲射撃で撃たれた人か腸チフス等だと思う。天皇陛下の為に死ぬんだと言う気持ちだった。アメリカの船に乗って大島が見えた時、内地に帰って来たと嬉しかった。兵隊に行って感じることは、兵隊に行く前におとなしい人間は軍隊に行って悪くなる。逆に、行く前に悪い人間は行っておとなしくなる。極端な例だけど精神的にそうなるのかもしれない。辛いとか恐怖とか悲しいという気持ちはあまりなかった。お国のためにとそれだけだった。今でも天皇陛下のために死ぬ気持ちは多分に持っている。体を丈夫にして一生勉強。第一は健康だと思う。

(お話を聞いて)

 17歳で希望して戦地に出向いた大井さんのお話をうかがいました。 持参された軍隊手帳を何度も読み返し、非常に正確な時系列の中で熱い思いを聞かせて頂きました。
 満州や旅順、ロシアなど多彩な外地での体験談は、学校や教科書では教えてはくれないものであり、リアリティ一がありました。聞き手の私が、戦争の体験として恐ろしかったこと今辛かったことなどを尋ねると、大井さんは、別段何も無かったように話されました。
 すべては国のため、天皇のために行ったことであり、辛かったこと今悲しかったことは無いとおっしやっていました。その確固たる熱い信念に、私は正直驚いてしまいました。私はインタビュアーとして大井さんのお話しを聞きその感想や印象を書くことさえ、おこがましく感じてしまいました。
 大井さんは静かに、まるで他人事のように私に語ってくれました
さんも今の若者には様々なメッセージを送りたいとは思いますが、多くは語りませんでした。ただ健康で多くのことを若者には学んで欲しいと言っていたことが、非常に印象的でした。
                        
(聞き手 若月宏治 昭和48年生)

編集者
投稿日時: 2007-8-17 7:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (15)
 「戦地で見る月、故郷への想い」

 三浦市 小林 三郎(大正8《1916》年生まれ)

 (あらすじ)〕

 陸軍の自動車隊で中国東北部に行く。弾を打ち合うということはなかった。自動車隊は薬、食料、日用品を運搬する。道路は敵の妨害で穴があき、車のスプリングは折れるなど大変であった。 約3年間働いた。水の中で車がエンコし、また、坂道でブレーキが効かず生きた心地がしなかったこともある。たまの楽しみは連隊本部での演芸会。相撲の興行もあった。歩哨《ほしょう》に立ち月を見る時、故郷の父母を思い出していた。
 一時日本に帰り、再びトラック諸島へ。国のためならという気持ちが常にあった。さらにパラオ《=北西太平洋.ミクロネシアにある》に。ここでは、連日空襲。その時、危機一髪で命が肋かったこともあった。その後運よく帰国。自分の命を救ったのは、自分だけよければよいという気持ちでなく共存共栄の精神があっだからこそと思っている。

 (お話を聞いて)

  私の祖父も戦争で徴集《=強制的に人をあつめる》されましたが、内地に勤務をしてさほど空襲にもあわなかったと間いていましたが、小林さんのお話はまさに、命がけでした。中国大陸で輸送部隊にいた際の険しい行程と過酷な任務。トラック《=西太平洋、ミクロネシアにある》諸島やパラオで紙一重の差で命を拾った事。
 軍機の激しい空襲や機銃掃射、潜水艦の魚雷《=魚型水雷の略》攻撃など、私には映画の世界のできごとであったことを、実際に60年以上前に体験し生死の狭間《はざま》で戦い生き残った方が日の前にいることが、驚きでした。戦後60年がたち、戦時中のお話をうかがう機会、今後ますます難しくなる中、戦争中の恐ろしさを生の声で聞くことができたことは本当に貴重な体験でした。戦争のない日常が当たり前であった私には、今の世の中がどれだけ幸せな世界であったことかと考えるきっかけとなりました。それもこれも、小林さんのような方々が懸命に生きたからこそ今の日本が掴《つか》み得た平和なのだと感じました。
 最後に小林さんは、戦争を知らない私達世代に、「自分の幸ばかりを考えず、人のことを思いやる気持ちを大切に・・・」というお話をされました。一人一人が、その気持ちを持つ事がこの国のために生きた方々に報いる事と感じました。

 聞き手  福田 正雄 (昭和44年生)

編集者
投稿日時: 2007-8-18 7:26
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (16)
 「お国のために常に死の覚悟」

 三浦市 川野 猛弘(大正15《1926》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年に尋常高等小学校《=旧制の高等小学校》卒業後、鶴見《横浜市》の東芝に就職して通学しながら働いていた。学校実習で作業中に鉄の破片で目を切り、左目が見えなくなった。それで兵隊検査は落とされ、戦争には行けなかった。
 勤めから帰ったら、地元の警防団《=空襲に備えるため消防と防護団を統合した団体》で消防や交通整理等をしていた。警報が鳴ったら警防団の詰め所へ駆けつけた。昼間、空襲警報が鳴ると火の見櫓で見張りをした。そうすると艦載機が火の見櫓目指して撃ってくる。夜の空襲が真っ暗で一番恐かった。遺体を消防車に乗せられるだけ乗せて、お寺まで運んだこともあった。警戒警報の時に火事が出て、早く消さないとそこが狙《ねら》われるからと慌てた。精一杯やらねばという気持ちといつどこで何かあっても対処するのだということは心がけていた。奉公《ほうこう》する気持ちとでも言うのかな。国のためやらねばと常に思っていた。
 生活は、隣組で助け合って暮らしていた。青年団で娯楽もあった。終戦間際の配給は芋の粉やふすま《=小麦を引いたときに残るかわくず》等。勤務先の徴用で来た農家の人が、工場の食券を売って小遣い稼ぎをしていた。私はそれを買って足りない食糧を補充していた。戦後の方が配給も滞《とどこお》って食べ物がなかった。だから地方へ買出しに行った。昼は捕まるから、夜ラッシュアワーに紛れて帰ってきた。
 勤め先が爆撃受けて栃木へ引越ししたので、横浜へ切符を買いに行ったら重大ニュースがあるから12時以降にしか売れないと駅員に言われた。終戦の玉音放送だった。結局切符は売ってもらえず鶴見まで歩いで帰った。今は教育が変わった。切迫感がない。そして物を大事にして欲しい。

 (お話を聞いて)

 戦争については、家族や親族の体験を小さいころから聞いて育った。親族は、今なお心に深い傷を受けており、それを背負って生きている姿を目の当たりにしてきた。そのため、今回の戦争の体験談をインタビューするに当たってはどのくらいご本人に聞いて良いのか悩むところがあったが、質問したことに対しては、辛い経験にもかかわらずお話してくださったことについて、感謝したい。
 お話の中で、一番印象深かったのは、「戦争を知らない世代は、ものを大切にしない。」というところだった。海外では、戦争が続いているが、日本人のほとんどは「他の国のこと」として考えているように感じられ、また、物が溢《あふ》れるほど豊かにはなっているが、物や他人を大切にする心は、戦時中の方々のほうが豊かであったに違いない。
 私たちは、多くの方々が命を懸けて追ってくれた戦争の無い時代を過ごしている事を忘れてはならない。そして、貴重な戦争の体験談を、これからも多くの人が聞く機会があるように願う。 
                   
 聞き手 匿名(昭和47年生)

編集者
投稿日時: 2007-8-19 6:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (17)
 「勝ち組はお風呂、負け組みはランニング」

 葉山町 戸田 康治(大正14《1925》年生)

 (あらすじ)

 昭和18年、海軍第6期予備練習生の願書を親にも相談せず提出し、品川の海軍経理学校で受験。 10月頃合格通知が届き、翌年の1月11日に追浜《横須賀市》海軍航空隊に入隊するように記載されていた。 親に話すと「時節柄、やむを得ない」と追浜まで送ってくれた。私は48分隊10班の次長を命じられた。班には他に10人いて、全部で12班あった。 48分隊は134名の兵と12名の下士官、隊長1名だった。棒倒し訓練があり、負けた班は飛行場1周、勝った班は風呂へ。また寝るためのハンモックを使った競争もあった。カッター訓練はお尻の皮が剥《む》ける厳しい訓練だった。5月には辻堂海岸《神奈川県》演習実施。2泊3目の演習で、空砲を使用して実践さながらだった。辻堂から追浜までの20kmを走って帰り、遅れると営門が閉められた。その後隊長より1等下士官を命じられ、兵2名を連れて厚木302航空隊へ。7、8名の兵と2名の下士官で、飛行機の電機周りの整備が主な作業だった。そこでは皆各自の感覚だけで調整していてバラつきが出ていた。 
 そこで、国産電機の製作所に出張してサーチャーという金属板を持ち帰り、誰が調整しても同じ状態になった。
 終戦となり、補機室を閉め、全員退出準備にかかった。私は東京・神田にある亡き父の電気工事店に帰った。大手町の旧安田銀行本店復旧工事も手伝い、毎目真っ黒になって仕事した。
 2ヵ月後には営業室が使用できるようになった。後にその縁で銀行に就職した。


 「水上特攻隊 終戦 命助かる」

 葉山町 斎藤 宏壽(大正14年生)

 (あらすじ)

 戦争末期、本土防衛本土決戦が叫ばれる時、私も召集令状を受け取った。学業を半ばにして肉親との別れは残念だった。船舶工兵として入隊し、厳しい軍隊生活が始まった。人権も自由もなく、空腹と喉《のど》の渇きには本当に苦しめられた。第一線部隊に配属され、本土防衛の任に当たった。任務は水上特攻で、舟艇に爆薬を積んで敵の艦船に体当たりすることだった。
 昭和20[年7月27目、隊長より呼び出され、8月17目に出撃との命令を受ける。死は覚悟していたが、その夜はさすがに眠れなかった。毎朝、起床の度に死が一日一日と近づく。
 8月2日面会が許された。夜の明けるのが待ち遠しかった。午後4時、隊長より面会に際しての諸注意を受ける。「最後の面会となるが、死は絶対に口にしてはならない。自分が大切にしている物を渡せば、親は理解する」とのことだった。母の元へと駆け足で行く。本当に嬉しかった。母はただただ笑顔で迎えてくれた。隊長の言われた通り、形見の品を渡したが母は笑顔を絶やさない。後に母は、すぐに分かったが涙を流すわけにもいかず、笑顔で別れたと言っていた。
 8月15目、終戦になり命が肋かった。本当に嬉しかった。 30日に復員し、営門《=陣営、兵営の門》を出た時の解放感は忘れられない。栄養失調の下痢にその後も半年間苦しめられた。昭和22年に兄の戦死が確認された。兄の戦死したニューギニアでは、遺体がまだそのままになっていた。軍隊生活は死ぬ以上の苦しみだったが、味わった人でないと分からない。自分の子や孫にはあの苦しみを味わわせたくない。

編集者
投稿日時: 2007-8-20 8:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (18)
 湘南ブロック

 「戦時はつらく、戦後なおつらく」
 
 平塚市 見留 豊(昭和11《1936》年生)

 (あらすじ)

 昭和18年国民学校に入学した。 19年には空襲が激しくなり、建物疎開といって、空襲時に延焼を防ぐため強制的に建物を壊した。横浜の自宅も建物疎開で壊され、平塚へ疎開してきた。兄は学校の都合上、横浜の叔母の家に残ったが昭和20年の横浜大空襲で、防空壕の中で焼け死んだ。 17歳だった。同年7月の平塚の大空襲は空が真っ赤だった。私か疎開している所は市街から10km位離れていたが、翌朝も灰が飛んできた。敵の艦載機の補助タンクが落ちていたのを駐在さんが警備していた。またある時は、敵機が通信妨害のために錫《すず=金属元素》を落としていた。晴れた日はキラキラしてきれいだった。終戦で大人の言うことがガラッと変わった。教科書の軍国主義の部分は墨で消して使った。学校には奉安殿《ほうあんでん=注1》があって、天皇陛下の御真影が収められていたが、それも戦後は埋められた。二宮金次郎の像もいけないと言われた。戦後サイレンの音を聞くと、空襲警報思い出してドキッとした。
 戦時中も食糧不足だったが、戦後、兵が復員したら口数が増えてますます悪くなった。男の人は辞書の紙に蓬《よもぎ=キク科の多年草》を刻んで巻いてタバコの代わりにした。皆工夫して食糧調達した。今では想像つかない生活だった。日本人特有の癖「精神力」のみの戦いだった。母が畑を借りて作物を作っていた。畑まで重たいリヤカー《和製語=物を運ぶための動力元のない二輪車》を運ぶのが大変だった。今は自由にやりたいことができて恵まれている。若い人は戦争の怖さを知らないが、平和をいつまでも維持して欲しい。


 「平塚空襲 煙くすぶる中家さがし」

 平塚市 鈴木主悦(大正15《1926》年生)

 (あらすじ)

 大学の時に兵隊検査。昭和20年8月25日に入隊予定だった。兵隊に行かなくても学徒動員《注2》で働かされた。旧制中学5年時に綾瀬飛行場に防空壕を掘りに行った。小学校の講堂に寝泊りして、朝トラックによって軍歌を歌いながら現場へ向かった。そこからは零戦《ゼロせん=日本海軍の主力戦闘機》、月光、雷電等の飛行機が離陸して行く。時々墜落現場を見た。予科練《=海軍飛行予科練習生の略》に憧《あこがれ》れていたが現実を目の当たりにして嫌だった。そこは待遇が良く、食べ物が良かった。その後、藤沢の螺子《ねじ》工場へ。銃弾を作らされた。 B29が来て、私は炉の担当で明るかったからここを目がけて撃ってくる。大きな防空壕があってそこへ逃げ込んだ。戦争のお陰じやないが、友達ができたことは嬉しかった。藤沢の工場の寮にいた時、親友に召集が来て、彼の実家の三浦半島まで見送りに行った。その日は平塚が空襲だというのに灯りも消さず夜中に送別会をしていた。飛んでいる飛行機が敵機だと気づき、山へ逃げたら平塚の町が真っ赤だった。
 翌日横須賀駅まで行ったら、電車が走っていたので会社に帰った。すでに私にも召集令状来ていたから、家に帰して下さいと頼んで帰宅した。平塚は滅茶苦茶だった。焼け残った神社を目安に、煙がくすぶっている中、家を探して歩いた。自宅と親兄弟は無事だった。
 終戦になって1ヶ月後、大学から出て来いと知らせが届いた。教育はガラッと変わった。
 その後小学校の教師になった。人間として大切なことは平和で心豊かで人間味溢《あふ》れる社会を作ることだと思う。

注1 奉安殿=教育勅語謄本等を奉安するために学校の敷地内に作られた施設


注2 学徒動員=太平洋戦争下における労働力不足を補うため学生・生徒に対して強制された勤労動員

編集者
投稿日時: 2007-8-21 7:30
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (19)
 「石炭の山に隠れて難を逃る」

 平塚市 笠原八十郎(大正5《1916》年生)

 (あらすじ)

 昭和13年に22歳で金沢第9師団へ入隊。私は輜重兵《しちょうへい=軍需品の輸送・補給にあたる兵》だった。訓練は厳しく、裸馬に乗せられて尻の皮が剥《む》けた。消灯後、腫《は》れた尻を雪で冷やした。馬の世話、軍刀、靴の手入れで、少しでも不備かあると怒られる。ある時、雪の中練習して帰ると馬の蹄鉄が無い。探しても無くて、しこたま怒られた。同郷の上等兵がとりなしてくれて肋かった。 6ヶ月後、中国の漢ロヘ。配属は露州団第11輸送監視隊。仕事は師団司令部の輸送と警備だった。昭和15年10月に帰国。翌年2月会社に復職。転勤で上海へ。上海の日本租界には10万人の日本人が住んでいた。戦争に突入したが平穏だった。昭和17年秋、安徽省に出張で行き、工場の2階に泊まった。壁に弾の音がして外へ出てみたら真っ赤に燃えていた。
何か何だか分らず、大きな中国人達がじっと私を見ている中、通訳
が石炭へもぐれと言うので、朝まで隠れていた。日本の守備隊が掃
《そうとうせん=敵をすっかり払い除く》戦に出た後狙《ねら》われたらしい。結婚の為に18年帰国したが、すぐ戻った。昭和20年7月には上海の工場が爆撃された。終戦で現地の従業員が給料と退職金をくれと押しかけて来て私は3日間拘束された。その後も自宅まで押しかけられ怖かった。 
 それから約40家族が集められてキャンプの集中生活に入った。
 情報もなくいつ帰れるか分らなかったが、半年後の3月に帰国し
た。当時は愛国心が強かった。海外でも皆自国を背負っていた。軍
隊の苦労に耐えられたらどんなことでも乗り越えられる。


 (お話を聞いて)

 3人の方にお話を聞かせていただきましたが、どなたもどんな状
況に遭っても“前向きに生きる”、常に未来にしっかり気持ちを向
けて生きてこられたご様子をうかがわせて頂いて元気をいただきま
した。お話の最後に戦争を知らない世代へのメッセージをお願いし
たところ、まとめてしまうのはもったいないそ江ぞ江の熱い思いを
いただきましたので、下記に記させていただきます。

 (笠原さんのお話を聞いて)

 まず、最初の笠原様のお話を間いていて、私白身も今も世界で起
きている戦争に無関心あったことを思い知らされました。軍隊に入
り初年兵時代に

 一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし 
 一、軍人は礼儀を正しくすべし
 一、軍人は武勇を重んずべし 
 一、軍人は信義を重んずべし 
 一、軍人は質素を旨とすべし

 という軍人勅諭《天皇の下した告喩、勅語とは異なる》や歩兵操典《そうてん=戦闘原則及び法則を規定した教則書》など暗記するのに消灯ラッパが鳴るとベッドの毛布をかぶって、懐中電気で一心不乱に読み暗記したこと、また、夕食の時、勅語を覚えていない者の食事は後回しだったこと。そして、入隊6ヶ月後に中支那派遣軍の漢口輸送司令部、湯原中将の第12輸送監視隊(将校8名、下士官34名、兵40
名の82名の編成)に配属され、長沙作戦参加、15年10月召集解除。金沢連隊に入った同期生の殆んどは支那事変、日米戦争と二度の従軍、戦後消息音信絶えてない・・・

という軍隊での生活、その後の上海で九死に一生を得たこと、結婚
後乳飲み子を抱えての引き上げ船の中での生活など、今から60年
も前の話とは思えない、つい昨日あったことのようなお話ぶりに話
はつきませんでした。
 メッセージとして、戦争とは関孫なく国を愛する心”「愛国心」
を特って欲しいと言われました。その言葉に込められた思いをしっ
かりと受け止め伝えて生きたいと思います。

編集者
投稿日時: 2007-8-22 7:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『肉声史』 戦争を語る (20)
 (鈴木さんのお話を聞いて)

 学徒動員時代に平塚大空襲を目のあたりにした鈴木様からは、中学校の校長先生だったとき卒業生に向けたメッセージがある。
 「頭の働きを良くする原動力は身体の健康である。頭がどんなに良くても身体が弱くては、頭を十分に働かせることは出来ません。健康のために身体を鍛えておくことです。皆さんは学校を出てから、社会人となり21世紀に活躍する皆さんです。そのとき学校で鍛えた体力、知力、精神力を持って世の中のために役立つ人になってください。人間として大切なことは、平和で心豊かな人間味あふれる社会を作り出すことだと思います。この願いを実現するために各自が自分の力に応じて努力していくことが大事です。理想は常に高く持って、しかも一歩一歩自分の足元をしっかり見つめて進もう。」と。


 (三留さんのお話を聞いて)

 縁故《=親戚など》疎開で横浜から平塚にこられて10歳で終戦を迎えた三留様からは、“私の昭和20年「戦時下の日常生活」ということで、「60年前、日本人はいままでは想像もつかない日々を送っていた」のフレーズは、平成17年の1年間、NHK・BSテレビ[あの日・昭和20年の記憶]の冒頭のナレーションそのものであった。
 「当時国民学校3年生の私にとって昭和20年は激動の年であった。前年に横浜市西区から現在地(当時は中郡大根村)に疎開したが、20年に入ると登下校の通学路約1、5キロこは、数箇所に防空壕が設けられた。出征兵士には、集落総出で村の神社武運長久や戦勝祈願の旗行列で壮行《=盛大に送り出す》し、出征の都度繰り返されたのである。夜間は、室内の灯かりが外に漏れないよう、裸電球《=笠のない電球》を黒布で覆《おお》う灯火管制がしかれ、不自由な生活を余儀なくされた。米軍機による空襲は激しさを増し5月29日の横浜大空襲で、兄は学業半ばの17歳で亡くなった。7月16日の夜間には、10キロ程離れた平塚市街地が空襲に遭い、夕空特有のフアンタスティックな茜《あかね》色ではなく、市街地方向が不気味な紅蓮色《=燃える炎の色》で夜空を焦がしていた。時に米軍機は、不用になった燃料補助タンクを投棄し田畑に落下した不気味な物体を遠巻きに眺め、強烈かガソリンの臭気を始めて嗅《か》いだものだった。物量に勝り国力の遠いが勝敗の分岐点《=わかれめ》であり、所詮《しょせん》、精神力・神頼みではダメであることは、終戦後数年を経て知ることとなった。昨年は戦後60年の節目を向かえ、マスメディアは、その特集で賑わったが、昭和20年を知るものには、時の流れの早さに驚きを覚えるとともに、改めて、平和の大切さを痛感した。」とのお話であった。
 戦争とは不幸もたくさんつれてきます。戦争を経験していない世代でも映画や本などで戦争は知っています。しかし、本当に命のやり取りが、日常生活の中まで関わってくるという事を直接お話を頂いて少しは分かったように思います。私の父からも母からも今までこうして真剣に戦争に関する話を聞いたことがありませんでした。つらい話を胸の中に押し込めて、今日の日本を支えてくださった人々への感謝を忘れず、風化することの内容にいろいろな形で語り継いでいかなくてはと心に誓いました。
                           
 聞き手後藤陽子(昭和33《1958》年生)

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