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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     東京っ子の戦中・戦後 その1 (けんすけ)
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-7-5 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その1 (けんすけ)
 はじめに

 このシリーズは、けんすけさんが、mixi に書かれたものを、ご本人のご了解をいただいて転載するものです。
 なお、(返信)とありますのは、元発言に対する他の方の質問などに対する、けんすけさんの返信です。


 鉛筆

 みなさんがまだ生まれていなかった、昭和30年ごろのお話です。(えっ、生まれてた?)

 横浜線沿線、矢部と相模原の間に広大な米軍の基地がありました。
 この基地の中に米軍と契約して土木機械などを修理する相模工業(SAGAMI ENGINEERING WORKS)という会社があり、わたしはそこのPROPERTY DIVISION(資産課とでもいうのでしょうか)に勤めていました。

 広い事務所の中に、資材を管理するカードやファイルを扱う事務員やタイピストの机が並び、全員同じほうを向いて仕事をしていました。

 ある日、鉛筆を1本拾いました。軍支給の黄色の鉛筆で、3分の2ぐらい使ってあり、ナイフで丁寧に削ってありました。
 6角の軸の一部、塗装を削って女性の名前が書いてありました。

 この女性の席はわたしのところとは大分離れており、仕事上直接関係していないため、口を利いたことはありませんでしたが、名前が書いてあるので彼女の席まで持っていって渡しました。彼女は大変喜んで、お礼にと云って新しい鉛筆をくれました。
 ここでわたしのいたずら心がおき、自分の席に戻ると、先ほど拾ったものよりもっと短い自分の鉛筆に、同じようにして彼女の名前を入れ、「またあったよ」と彼女の席に行って見せました。
 唖然《あぜん》とした彼女は「さっきは心から感謝のつもりでお礼に上げたのに」とたしなめられてしまいました。

 新しい鉛筆か、爆笑を期待したわたしは悄気《しょげ》て、自分の席に戻りました。


(返信1)
 わたしの頃は小刀でしたね。うちが木工関係だったから、親父が研《と》いでくれた。
 アルミの延長サックは今目の前の鉛筆にも使ってるけど、錆《さ》びちゃってるね。

 彼女、年上ってことは無いでしょう。そんなに怒ってるようでもなかった。ただはじめに本当に感謝して新品の鉛筆をお礼にあげたのに、と茶化されたのが意表をついてたんでしょうね。

(返信2)
 ボールペンはコピーをとる時に使われていて、一般には鉛筆でした。これを持って歩くと必ず失くすのですね。わたしなんか鉛筆に横に溝をつけて、細い紐でベルトに縛っていました。これが急に立ち上がったりするとぶら下がりましてね。
 ズボンのポケットに入れても、胸のポケットに入れても、結構邪魔になりました。


編集者
投稿日時: 2007-7-6 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その2 (けんすけ)
 設計室
 
 前回の“鉛筆”でみなさんの生まれる前の話です。と書いたら生まれていたと言う方が居られたので、話を10年さかのぼらせてもらいます。

 昭和19年(1944)9月、東京府中にあった日本小型飛行機製作所に就職しました。
 7月にはサイパン島も玉砕《ぎょくさい》して、戦局は悪化の一路をたどっていました。学生たちは学校に行かずに、動員されて工場で軍需品の生産に従事していました。

 でもまだ、東京の空襲が始まる前でしたから、何となくのんびりとはしていました。
 
 飛行機好きのわたしは、先に勤めていた姉の、交際相手の青年の勧めで、就職を決めました。

 工場は府中刑務所の南にあって、4棟の工場、事務所、寮、食堂があり、木製飛行機を作っていました。

 わたしが勤務したのは技術部設計課、設計室の半分は、現図を描くための膝《ひざ》ぐらいの高さの広いステージ。

 半分は真ん中にテーブルを挟んで製図台が2列、一番後ろに技術部長の男爵、宮原旭さん、隣が姉の交際相手、その前がわたし。正規の従業員は製図、現図あわせて12名。

 朝7時半から夕6時半までの勤務でしたが、9時ごろになると千歳中学の生徒と、岩佐女学校の生徒が十人位ずつ手伝いに来ました。設計室の中は急に賑やかになります。
 女学校の監督は、生徒に“お杉婆さん”とあだ名を付けられていた女の先生。この監督が、「男の子と一緒に仕事をさせないように」と注文をつける。
 ところが彼女たち、お杉婆さんが入ってくると、わざと男の子のそばに寄ってくる。

 4時だか5時だかに生徒たちが引き上げてしまうと、室内が火が消えたよう。

 空襲が始まるようになってから、この生徒たちを見なくなったがいつから居なくなったか、記憶にない。

 戦後この女生徒と遇ったのは、府中の本屋六社堂でのポンキョウさん、実家が調布の牧場だとのことで、わざわざ義兄と訪ねていったら、「何しに来たの」と言われた持丸さん、府中本町あたりを歩いていてばったり遇って分倍河原まで一緒に歩いたクリちゃん(この人の姓は思い出せない)。彼女は小学校の先生になっていた。

 高知で先生になったタノさんが出てきたとき、神田の友達のうちで歓迎会をしようと呼んだ、名古屋さん、内藤さん。
 指名でわたしが飯田橋の駅まで迎えに出た。しばらくぶりで会った彼女たちはまぶしかった。

 そのタノさんと訪ねていった川崎さん。
 後年妻と府中の親戚に行った時、実家の前で子供と遊んでいた瀧島さん。気づいたけどお互い声もかけず通り過ぎてしまった。

 この人達の姓名は(クリちゃんを除いて)覚えているが、残念ながら男子の千歳中学の生徒の名前は思い出せません。


(返信1)

 空襲の話はこの次に気が向いたら書きます。

 国民学校(今の小学校)卒業した子供たちが、日本中から集められて方々の工場で働いていました。
 男子寮と女子寮があって、わたしの姉は女子寮の寮長をやっていました。わたしも始めは寮にいたんですが、当時の寮は娯楽設備も何も無く、あまりにも冷たい感じなので、姉の彼が借りてる部屋に同居させてもらいました。


(返信2)

 日の永い間、9月までだったかな、6時半まで強制残業でした。

 工場を拡張すると云って、政府から補助金をもらって、雨の漏るような欠陥工場を建てかけてありました。その工場はついに完成しないで終戦になりました。
 いつの時代でも欲の深い奴は居るものです。

 うちの婿さんも、19年生まれです。

(返信3)

 わたしが在籍した1年足らずの間に、まず大物では零式輸送機(DC3)の主翼の木製化、新司令部偵察機の尾翼の木製化、エンテのグライダーK-16の製作と試験飛行、97重の尾翼の木製化。あと終戦近くでは、ケ号?とかいう防御用の特殊砲弾みたいなもの。

 要するにアルミの不足を補おうとしたんだね。

 当時、シナベニヤにいきなり現図を描いて工場に持っていって製作を始めるから、図面係は、スケール《=物の長さや角度を測る目盛りをつけた器具》を持って現物を計って図面にしていた。現場の職人に違ってますか?なんて云われて返事に困っていた。


(返信4)

 試作工場で、零式輸送機の主翼を製作中、裏返しにする必要があり、三叉《さんまた》存知でしょうか、丸太を3本三脚のように立て、上部にチェーンブロックを取り付けたもの。建築現場などで重いものを持ち上げるのに使った)を使って作業中に落としてしまったことがあります。

 時の日本の工場の設備の貧困なこと。これでアメリカと戦ったのです。


(返信5)

 戦争の始まる前、アメリカの新鋭機が続々発表になりました。P-36,P-38,P-39,P-40,P-43.
 皆最高時速640キロを誇っていました。
 日本は秘密主義ですから写真すら発表されません。
 われわれ航空マニアはやきもきしてました。

 ゼロ戦の写真を始めてみたのは、開戦の年の10月号“空”という雑誌でした。引っ込み脚の戦闘機らしき飛行機の編隊。日本にもこんな機体があるんだ、と思いました。

 日本は、精神力、精神力とこれに頼りすぎたんでしょうね。物資の少ない国でやむを得なかったのかもしれません。


(返信6)

 模型飛行機なら一人で出来ますが、実物の飛行機はそうはいきません。

 終戦直後、整備兵が一生懸命戦闘機を磨いてたんだって。
 おい、どうしたんだって聞いたら、「隊長がこの機体をくれるといいました」って答えたそうです。
 その後どうしたって?又聞きだからそのあとは知りません。

 手は器用だと思っています。でも美を美と感じる感性に欠けています。部屋の中を飾ろうなんて考えたこともありません。
 6尺《=約180センチ》の壁にカレンダーが1部だけ掛かっています。


(返信7)

 川西ですか、飛行機の話になると止《と》まんなくなりますけど、いいですか。
川西は戦後新明和工業となり、義兄が勤めました。そこから出向社員として日本航空機製造で、YS11の開発に従事しました。という私的な話はこっちに置いて、、、

 川西は大型の飛行艇《=水面で離着水できるようにした飛行機》を作っていました。4発の97式飛行艇。南海のチモール島への定期便に使われました。「南海の花束」という映画も出来ました。
 その後は2式大艇というやはり4発の大型飛行艇が、南方で輸送に活躍しました。

 戦局が急を告げてくると、じかに敵と戦うには戦闘機を作らなければいけないということになり、紫電という海軍の戦闘機を作り、それを改造して紫電改を作りました。戦争後期の日本海軍を代表する優秀な戦闘機です。

 親戚のお姉さんは多分この紫電か、紫電改の製造に従事したのでしょう。


(返信8)

 日本の悪かったことは、物資不足はやむを得ぬとして、人命を大切にしなかったことでしょう。1銭5厘のはがきでいくらでも召集できると思ったのでしょう。
 熟練したパイロットはたやすく補充《ほじゅう》は出来ません。

 多くの人が母艦と命をともにしました。

 日本海軍では大艦巨砲主義が幅を利かしていました。
 ハワイ、マレイ沖で航空機が華々《はなばな》しい戦果を挙げ、アメリカは航空機に目覚めたのに、日本は目が覚めませんでした。
 それがミッドウェイの海戦《=ミッドウェイ沖で行われた海戦で日本軍の優勢が覆されて以後アメリカ優位と変わる》にあらわれたと思います。

編集者
投稿日時: 2007-7-7 10:28
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その3 (けんすけ)
 家が無い(1)

 昭和19年11月1日、府中の下宿から馬喰町《ばくろちょう》の我が家に帰り、神田通りを歩いていると、警戒警報からすぐに空襲警報が鳴り響いた。見上げると高い空にきれいな形の飛行機が1機飛んでいた。これがわたしがB-29《米国の爆撃機》を見た初めである。

 あわてて道端に掘ってある防空壕に入った。しばらくじっとしていたが何事も起こらなかった。
 
 サイパンから帝都に初めて姿を現したB-29、東京を偵察に来たらしい。

 11月24日に東京初空襲。これから連日のように空襲が続くようになった。
 正月の三ヶ日は空襲が無かった。警戒を兼ねて出社し、設計室で図面を描いた。

 富士山上空で東に旋回し、東京に向かうB-29の通り道、でも府中が空襲されることは無く、飛行機好きのわれわれは、編隊で頭上を飛ぶB-29を見ていた。日本の迎撃機らしい機影がぴかりと光って見えたが、編隊は崩すことなく飛行機雲をひいて飛んでいた。

 昭和20年2月25日は雪が降っていた。空襲警報で、設計室前に掘ってある防空壕に避難した。
 当時常に空腹だった皆の話題は食い物だった。“どこそこのあれがうまかった”“どこそこでは全部食べきるとタダになった”なんていう話が弾んだ。

 翌日、神田に住む友人が自分の家のほうの様子を見に行って、日本橋のほうは空襲で一面焼けていると教えてくれた。どうも我が家のほうもやられたらしい。

 28日に給料をもらってからうちへ帰った。最寄の浅草橋の駅は焼けていて、降りることは出来るが乗ることは出来ない。それでもホームの外壁は焼け残っていた。
 外に出て浅草橋の交差点に出ると、その先は一面の焼け野原だった。我が家の方角に急いだ。暗い焼け跡のあちこちでちらちらと火が燃えている。誰かが焚き火《たきび》をしているなと、そばによって見ると誰もいない。暗い中で火だけが燃えているのは気味の悪いものだ。

 我が家のあった場所に着いた。家が無い。一面の焼け野原。空襲の時に持ち出すと言っていたリュックサックのやけ残りを見た時は、ひょっとすると一家全滅かと思った。
 人影の無い焼け跡では聞くことも出来ないので下宿に帰ることにした。
 浅草橋の駅は焼けていて営業していないから、焼け跡の暗い道を神田の駅まで歩いた。焼けた残骸《ざんがい 》のビルが、ところどころ黒い影を写していた。

 下宿に戻ってさぁどうしようと考えた。空襲にあったら世話になると云って、荷物を疎開させていた相模原の親戚に行っているかもしれない、そこを先ず訪ねてみよう。

 翌日会社に顔を出し、事情を説明して休みをもらい、食堂でおにぎりを作ってもらって相模原の親戚に向かった。駅から約1時間歩いて着いたが変わった様子は無い。おばさんに事情を説明し、来ていないことを聞いて、それじゃ母親の生まれ故郷の小田急線秦野《はだの》の田舎《いなか》かもしれない、そっちに回ってみようと、町田の駅に出て小田急に乗ろうと思ったが、駅のホームは被災者であふれるばかり、とても電車に乗れる状態ではなかった。

 いったん下宿に帰って、翌日もう一度我が家の焼け跡へ行ってみた。やはり焼け出された近所の奥さんが焼け跡に来ていた。うちの人達はどうしましたと聞くと、人形町の待合に避難したと言う。一応全員無事だということはわかった。

 翌日また相模原へ。駅を降り親戚への道に向かって線路を渡ろうとした踏切で、家族にばったり逢った。焼ける前に持ち出した品物を預けた家に取りに行くと言う。
 皆の無事を見て安心し、わたしは会社に戻った。

 いつまでも親戚に厄介になっているわけには行かない。一家が住むために、姉の彼が会社に交渉してくれて、社宅を借りることになった。会社から約10分、北側に畑をはさんだかなたに少年院の見える一郭《いっかく=一つの囲いの中の地域》に2軒長屋11棟22軒が建っていた。その一番奥の一棟の半分を借りた。隣とは壁一枚、6畳と3畳の家に、父、母、兄、姉2人にわたしの6人で住むことになった。

編集者
投稿日時: 2007-7-8 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ)
東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ)
(返信1)

 夜、焼け跡に着いた時は、家族全員絶望かと悪いほうへ考えました。
 あくる日親戚のうちへ行った時、青い顔をして元気が無かったとか、後に聞きました。

 その翌日、焼け跡で遇った近所の人から、全員無事と聞いた時は、本当にほっとしました。

 でもあの踏切で、実際に元気な顔を見た嬉しさは忘れられません。

(返信2)

 わたし自体は恐い思いをしていないのです。よく機銃掃射《=機関銃で敵をなぎはらうように射撃する》で狙《ねら》われて、逃げ回ったと言う話は聞きますが、そういう経験は全く無いです。

 下宿から我が家に帰って、夜空襲なんかあっても、自分のうちに直接被害が無いようなら、空から落ちてくる焼夷弾《しょういだん》のカーテンはきれいでした。

 工場が機銃掃射を受けた時、わたしは健民修練所と言うところで訓練を受けていました。これもまた別に書きたいですね。
 ここのほうがこわかった。

(返信3)

 メロウ伝承館なんかを読むと、すごい恐い戦争体験が載ってますね。
 ああいうのを読むと、わたしの体験はのんきだったと思います。
 わたしの日記を見て、「戦争ってそんなもんじゃない」と思ってる方もいるかも知れません。

(返信4)

 工場の隣は府中の刑務所でした。囚人も飛行機の部品を作っているらしく、塀の出入り口のそばに、ジュラルミン《=合金。軽量で強度が大きいため、飛行機・建築などの材料にする》の加工した削りかすが積んでありました。

 ある日飛燕《ひえん=旧日本陸軍の戦闘機》が刑務所の上で旋回を繰り返していました。
 囚人への激励に来たのでした。

 隣の飛行機工場では、国卒の生徒を動員しても生産は上がらず。戦争に間に合ったと言う話は聞きませんでした。

 飛燕がB29《米、爆撃機》に馬乗りになったと言う話は聴きました。
 日本橋三越のホールには実物の飛燕が飾ってありました。

(返信5)

 わたし自身はあまり悲惨な体験をしていません。同じ焼け出されでも直接自分でない、よそから見てるような話もいいんじゃないかと思いました。

 原爆被災者を始め、悲惨な話はたくさん書かれています。避けようとする人もいるでしょう。であまり悲惨でないわたしの体験談を書きました。

(返信6)

 まだまだ世界は平和とは縁遠いです。
 戦乱の絶えなかったヨーロッパが一つになりました。
世界が一つの連邦《注1》になる、というわけにはいかないのでしょうか。
 東西ドイツが一つになったように、韓国、北朝鮮が一つになればよいと願っています。

(返信7)

 昭和20年に徴兵《=国家が国民を強制的に兵役につかせる》検査を受けました。
 その年から、甲種、第1乙種、第2乙種に加えて第3乙種が出来ました。一人でも多く兵隊にしたかったのでしょう。
 わたしはその第3乙種でした。

 わたしと同年の若者は、6月ごろ入隊して行きました。内地勤務で敵の上陸に備えての訓練です。

 8月に終戦になって、1日も早く帰りたかったようです。
 わたしはついに兵隊に行きませんでした。
 ですから話に聞くひどい訓練も受けませんでした。

 日記に、続いて終戦の頃の話を書こうとして、下書きを書いたりしてレスが遅くなりました。失礼しました。

(返信8)

 この前の世界大戦のとき朝鮮(その時は一つだった)は日本の支配下にありました。
 ソ連は共産主義で世界中の労働者を支配して赤化《=共産主義化する》しようとたくらんでいました。それに米英など自由の国は反発していました。
 大きく分けると、枢軸国《すうじくこく=友好協同の関係》(日独伊)と自由の国(英米その他)ソ連と3っに分かれていました。
 戦前いろいろの駆け引きはありましたが、枢軸国と、米英ソの戦いとなり、ご存知のように米英ソが勝ちました。

 戦争が終わると、もともと思想の違う米英とソ連が、戦後の世界支配で対立しました。
 そのため、ドイツは東西に分裂され、朝鮮は南北に分裂されました。日本も危うく分裂支配されるところでした。

 中国は共産党の支配になりましたが、後にソ連が崩壊し、ソ連の支配下にあった東ヨーロッパが解放され、東西ドイツも一つになりました。

 ソ連は崩壊しましたが、共産化された中国が北朝鮮の後押しをしたために朝鮮は未だに南北に分かれたままです。

 いずれはドイツのように統一されるのでしょうが、キムという男が反抗しています。自分の地位が危ないからです。悪あがきをしています。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国という長い名前です)と言う国がなくなってしまうのが恐いのでしょう。

 中国も北朝鮮が無くなり、朝鮮半島全体が自由の側につくのは好ましくないと思っているでしょう。

 長くなりました。理解の一助になれば幸いです。

(返信9)

 戦争の話は難しいです。あまりにむごたらしいのは敬遠されるし、あまりにのんきすぎるのは、実際修羅場《しゅらば=戦乱や闘争で悲惨をきわめている場所》をくぐってきた人には物足りないでしょう。

(返信10)

 B29をきれいだと認めてくれた人がいた。
 遠くから見ている限り、夜間空襲はきれいでした。
 ただその時、地上では生死をわける闘いが行われていたのですね。戦争は人間の感情を変えてしまいます。感覚が麻痺《まひ》してしまうのでしょうか。その修羅場を思いやる気持ちもなくしていました。

(返信11)

 マッカーサー《注2》がソ連の主張を強引に退けたようですよ。
 ご存知のようにソ連は日ソ不可侵条約《=互いに相手国を侵略しないことを定めた条約》を一方的に破棄し、少しでも日本の領地に侵攻しようと、15日を過ぎても攻撃を続けたのです。

 スターリン《注3》が北海道占領を主張したけれど、アメリカが拒否したとか。

(返信12)

 お父様が、戦争の本当の悲惨さを話せなかった気持ちもわかるように思います。
 その苦しかったことを忘れたいと言う気持ちもあったのでしょう。本当に悲惨な体験をした方は話したがらないのかもしれません。

(返信13)

★ 日本の迎撃機《げいげきき=攻めて来る相手を迎え撃つ飛行機》はよっぽど気をつけて見なければ、見えませんでした。
 護衛機も見えなかったです。日本の防衛体制を甘く見て、護衛無しじゃないかと思いました。実際はわかりません。きらっと光らなければ見えませんでしたから。

(返信14)

 おじいちゃんは兵隊に行ったのですか。それともわたしと同じように、戦争の時代を経験したということですか。

 あの頃子供たちは、集団疎開で苦労したようです。
 戦争は、女や子供がむごい目に遭います。非戦闘員を殺す、こんなことがあっていいのでしょうか。

 イラクからイランへ、不穏《ふおん》な空気を感じます。いつになったら、世界は平和になるのでしょう。

(返信15)

 あの時代、兵隊に行かなかったのは大変幸運です。
 もう少し戦争が長引けば、或いは米軍が本土上陸をしたら、わたしも兵隊に取られたでしょう。

(返信16)

 戦争はわたしの体験した、ついこの間あったのです。
 風化させてはいけないのでしょうが、
 本当のつらさを味わった人は、あまり語りたがらないようです。

注1 連邦=複数の州または国家が結合し、全体を包括する一つの国家として形成されたもの。内政には相互に独立性の高い自治的権能を有し、外交・軍事には連合して一主権を構成する


注2 マッカーサー=戦後、日本占領連合国軍最高司令官として日本に駐在

注3 スターリン=ソ連の政治化・ロシア革命ではレーニンを助けて活躍
編集者
投稿日時: 2007-7-9 6:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その5 (けんすけ)
 
 たけのこ生活

 社宅住まいになったため、会社には姉2人とわたしが勤めることになった。
 母は食糧調達のため近くのお百姓さんを回ったり、生まれ故郷の家に食糧を分けてもらいに行った。たいがいわたしが一緒だった。田舎に行けば腹いっぱい食べられた。

 家が焼ける前、母が保管していた米が、家と一緒に焼けてしまったことを、姉たちは非常に悔しがった。「どうせ焼いちゃうんなら、食べちゃえば良かった」

 少しでも食糧を得ようと、庭はもとより、空き地という空き地には、食べられるものを何でも植えた。狭い庭が陸稲《おかぼ=畑でつくる稲》と、とうもろこしで一杯だったのを覚えている。とうもろこしは実がまばらだった。

 疎開してあったものなどの品物は、殆ど食料に換えた。着るものを売ったりして生活を支えたことを“たけのこ生活”と言った。
 農家では、闇《やみ=法律に違反して取引される》で食糧を売って得たお札が1尺(約30センチ)になると1尺祝いをやったと言う話もあった。母の田舎でも、食糧と交換で得た着物をまるで自慢そうに母に見せていた。


東京大空襲

 3月10日の東京大空襲は、甲州街道で見ていた。東京方面が真赤に焼け、火事の火に照らされながら、B-29が低空攻撃をしていた。

 大空襲の何日後だったか、両国橋を被災者が大勢深川方面から神田方面に歩いていた。焼けた衣服を身にまとい、綿だけになったふとんで子を負ぶい、川に向かって手鼻をかむ、そんな 人達がぞろぞろと橋を渡ってくる。
 通学に毎日渡っていた両国橋に、昼間あれほどの大勢の人が歩いているのを始めてみた。

 家が焼ける寸前に、持ち出した物を預けたところもすべて焼けてしまった。防空壕代わりに使ったらしい地下の物置から、焼けた瀬戸物などを回収した。赤紫に変色した茶碗は戦後も長い間使われた。

 預けた中に姉の着物があったらしい。垂直の鉄の梯子で降りたわたしに、天井の1メートルぐらいの出入り口から顔を覘《のぞ》かせた姉が「その隅に置いたの」と必死になって指図する。だがそこはすべて灰だった。和服に対する女の執念を見た感じがした。

  
編集者
投稿日時: 2007-7-10 7:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その6 (けんすけ)
 (返信1)

 お米屋さんをやってられたのですか、企業整備というのがあって多くの商店は商売をやめました。扱う商品もありませんしね。

 深川に住んでいた義祖母さん、よく助かりましたね。いろいろ悲惨な話は聞きましたが、死んだ馬の肉を食べたというのは、始めて聞きました。

 (返信2)

 広島、長崎出身者は差別されたようですね。原爆被害による体調はあとであらわれるなどと言われましたから。

 大いに怒ってください。そして二度と間違った方向に国を、いや世界を暴走させないように、冷静に導く努力をしてください。

(返信3)

 ここまでレスをつけてきて、はたと指が止まりました。ここだけ飛ばしてしまおうか。とも思いましたが、あの時代に生きた一人として、当時の心境を語るのも義務かと思い返しました。

 時代に流れがあります。第1次大戦(日本は連合国側についた)シベリヤ出兵、5.15事件《=昭和金融恐慌の引き金》、2.26事件《=クーデター未遂事件》、満州事変《=広東軍(日本陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破からはじまる》、満州国建国、支那事変、政党の崩壊、国際連盟脱退《=1933年日本・ドイツが国際連盟を脱退》。順序はめちゃくちゃです、思い出すままに書きました。

 この1連の軍部の強化。これに歯止めがかけられなかった。
 大衆は“愚”です。長いものに巻かれます。

 もちろんこれに反対した人もいます。でも憲兵と言う強力な組織の前に無力でした。

 満州国皇帝の始めての日本訪問の時、わたしは9歳、手製の満州国国旗を作ってお祝いしました。

 支那事変が勃発《ぼっぱつ》した時、わたしは11歳、赫々《かっかく=ひかり輝く》たる戦果に日の丸を振りちょうちん行列をしました。

 ハワイ急襲は15歳の時、万歳を叫びました。

 天皇陛下のために死ねるかと聞かれれば、死ねると答えたでしょう。

 この話は、わたしより年配の方に譲りたいです。

(返信4)

 戦争は非道です。哀れみを感じたら爆弾は落とせないでしょう。いかに爆撃の効果を上げるか、これが搭乗員の任務でしょう。

(返信5)

 畑泥棒で思い出しました。会社の構内に広い畑がありました。
(多分、今あなたが住んでるあたり、かな。)
 一面のジャガイモ畑で、或る晩、家族の多いわたしの親しい友人がそっと盗み掘りをしました。運悪く同じ従業員の女性に見つかりました。彼は掘ったジャガイモを少し持って彼女に黙ってくれと頼みに行きました。彼女は断りましたが当然誰にも洩《も》らしませんでした、わたしを除いては。

(返信6)

 お姉さままだお若かったでしょうし、うんとお洒落《おしゃれ》されたかったでしょう。戦争さえなければ。と思います。
 配給があったなどといいますが、実際は一人一人の方が必死に食べ物を確保して生き延びてこられたのですね。国は庶民を守ってなんかくれない。そう思います。

(返信7)

 わたしが19だったから、姉は22ですね。この年(戦争中)に結婚しました。
 配給はたしかにありました。けれど量が少ない上に、高粱《コーリャン=中国で栽培されるモロコシの一種》とか豆粕《=大豆から油を絞ったかす》が混ざっていました。

 戦後の話ですが、配給以外の食糧を断って餓死した判事がいました。

(返信8)

 戦争中と戦後の記憶がごっちゃになってしまいました。
 食糧難の頃、お百姓さんが羨《うらや》ましくもあり、憎くもありました。

(返信9)

  あの戦時下、丸帯一本は貴重だったでしょうね。
それが娘さんに受け継がれて。いつまでも戦争の話とともに大事にしたいですね。

(返信10)

 あなたの話、空襲の時の逃げ惑った話だけでもすごい経験だと思ったら、その後も人並みはずれた苦労をしてるんだ。
 そうか、お父さんが亡くなったから、お母さんは再婚、子供たちはばらばらになってしまった。
 つらい経験を乗り越えてこられたんだ。再婚後のお父さんがいい人でよかったね。

 今のあなたに暗さが全然見られないのは、再婚後のお2人が幸せだったせいなんだろうね。
 で、その後離れ離れになったお姉さんたちとはどうしてるんだろう。

 あなたの姉弟は若いうちに苦労という苦労を経験し、今は幸せなんじゃないかな。よそから見ての勝手な感想だけれど。

編集者
投稿日時: 2007-7-11 7:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その7 (けんすけ)
訂正

 先日の“東京大空襲”の記事に大変な記憶違いのあったことを、その後調べてわかりました。

 「たけのこ生活」という言葉は、終戦の翌年のようです。
 戦時中は政府(軍部)の力が強く、闇で品物の取引が行われたのは、戦後のように思われます。
 60年も前のことを記憶だけで書く恐さを知りました。
 続いて終戦の事を書く気力が萎《な》えました。

 以上謹んでお詫びします。


(返信1)

 ここまでくればもうすぐ終戦です。広島、長崎の原爆の恐さも、沖縄戦の悲惨な状況も、川向こうの火事ぐらいにしか感じなかった、わたしの戦争体験が、書き残す価値があるのだろうかと、疑問に思っています。

(返信2)

 今になって思うと、サイパン島で捕虜になり、米本土まで連れてゆかれて、収容所生活を送った従兄が、帰国してから話してくれた捕虜生活も、もっと良く聞いとけば良かったと思います。

 この話、記憶を元に少し書いてみようかな。

(返信3)

 戦後の方かと思ったら、戦争を知っておられるのですね。丁度育ち盛りの頃戦争だったのかな。
 食糧不足は戦時中より戦後のほうが苦労したように思います。

(返信4)

 経験談を、どこまでどう書いていいか判断に迷います。

 例えば男には徴兵検査というのがありました。
 検査官の前で真っ裸になり、前の性病検査。四つんばいになってお尻の穴まで調べられた。こんなの書いていいんでしょうか。


 第3乙種合格

 健民修練所
 
 京王線高幡不動の裏山に日の丸兵舎があった。そもそもは満州開拓団の訓練施設であったが、昭和20年1月の徴兵検査で、第3乙になった者の訓練のためその1棟が使われた。

 前年までは、甲種、第1乙種、第2乙種までが兵役があり、あと丙種以下だったが、この年から第3乙種が出来た。わたしはその第3乙だった。
 
 日の丸兵舎は丸い建物で、周りが高くなって畳が敷いてあり、中央は土間だった。

 他の棟には家族連れの開拓団の人が訓練していた。訓練が終われば満州に渡るという。
 事実われわれがいるうちに、バンザイに送られて満州に発った。あと4ヶ月で終戦という頃である。
 あの時期に満州に渡って、どんな苦労をしたか気になるところである。

 体力に劣る若者を、兵役に堪えられる体に鍛えようというので、体操、家畜の世話、畑の作業などで毎日を送った。
 東京空襲は相変わらず続き、東京に家のある人は家が気になり、指導者に訴えて結局全員一泊帰宅が許された。「早く焼けちゃったほうが気楽でいいぞ」と罹災者《りさいしゃ=災害(空襲)にあった人》のわたしは言っていた。

 ある日の体育の訓練で、俵を担《かつ》いで懸命に走っていると「近藤さん頑張ってー」と黄色い声。設計室の女学生が2.3人、わたしの姉の彼に連れられて様子を見に来たらしい。これには参った。

 若者が自由を奪われた団体生活で気がすさんでいたか、集団暴行事件もおきた。一人のちょっと動作の遅い男が、ある夜みんなに顔を殴られるという目にあった。わたしもやられるかとびくびくしていた。
 朝礼の時、顔をばんばんに膨らました彼も並んでいた。指導者は気が付いたはずだが何も言わなかった。良くある出来事なのかもしれない。
 この頃かな、沖縄の米軍が全滅したというデマが飛んだ。

 約1ヶ月の訓練で帰宅を許された。5月5日の府中のお祭りはたしか実行されたと思う。
 6月、7月と設計室の人達が招集されていった。そのたびに送別会が開かれた。


(返信1)

 戦時中に若いものの体力をつける目的で、「体力章検定」があって、100m走、2000m走、幅跳び、高飛び、手榴弾《しゅりゅうだん》投げ、懸垂、重量運搬等がありました。
 100mは16秒、その他全部基準があって、それを目標に訓練しました。重量運搬は何キロだか忘れましたが、担いで50メートル駆けるのでした。もちろん米俵ではありません。

(返信2)

 思い出したくない方もたくさんおられるでしょう。だんだんと体験者がいなくなり、今のうちに書き残して欲しいという人もいます。
 わたしはひきこもりで、他に日記に書くこともないから書いています。

(返信3)

 “家がない”“東京大空襲”と続けて、いきなり終戦にしようと思ったのですが、あまり世の中に知られていないわたしの体験を書くのも意義があるかと思いました。

(返信4)

 徴兵検査が確か1年早まったと思います。
 わたしと同年で、入隊して行った人達は、終戦後軍隊からいろいろのものをもらって帰ってきました。
 「どうも、餞別《=別れる人へのはなむけ》泥棒になってしまいました」なんて云って。

(返信5)

 少年時代から軍国主義の中に育ったので、そういう教育を受けて成長しました。
 今でいう成人式の前に戦争が終わりました。

 あの時代のことを一言で言えば、“いつも腹が減っていた”でしょうか。

編集者
投稿日時: 2007-7-12 10:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その8 (けんすけ)
終戦

 空襲によって焼け出され、府中にあった木製飛行機製作会社の、2軒長屋《ながや=細長い家を二軒に仕切った》の社宅の片方に親子兄弟6人で住むことになった。6畳と3畳に6人はいかにも狭かった。
 新聞は無く、ラジオは壁一重隣のうちのが聞こえていた。

 上の姉が結婚して家を出て行き、近所のアパートの部屋を借りた。相手は近衛師団陸軍主計少尉。戦争中で式も挙げなかった。

 8月6日、9日の原爆投下もこれといって大きく報道がされたわけでなく、いつもの空襲ぐらいに思っていた。ただ姉は義兄から原爆の惨状を聞いていて「警報がなったら卑怯《ひきょう》といわれようとなんといわれようと防空壕に隠れろ」と言われていたようだ。

 8月14日、明日正午に天皇陛下の放送があると知らされた。

 15日正午に事務所の前に全員集まった。ラジオから玉音《=天皇の声》放送が流れた。雑音のせいもあるが意味がよくわからない。その後の解説で日本が負けたと知った。
 放送を聞いた後、1番最初にしたことは、食堂に行って飯を食うことだった。

 工場の事務室で「戦争終わった。下駄でも作るか」と云っている製造部長の声が聞こえた。

 設計室の隣に植えてある梅林に入って、座り込んで泣いた。姉の彼がそばに黙って座っていた。

 その晩、電灯の覆《おお》いがはずされた。これからは空襲でびくびくしないでいいんだ、とつくづく思った。

 翌日から、図面や書類の整理と焼却が始まった。書類をリアカー《=鉄パイプでできた二輪の荷車、人が引いたりした》で広い空き地まで運んで燃やした。暑い日で越中ふんどし一つで燃してるやつがいた。近所の東芝や日本精工でもさかんに燃していた。熱と風にあおられて燃えカスが飛んできた。


(返信1)

 みなさん、コメントをありがとうございます。

 終戦の時わたしは“19歳”だったということをもう1度申し上げたい。
 日本は神国で天皇陛下は現人神《あらひとがみ=生きている神様》だという偏った教育を受けた一人の少年だったのです。

(返信2)

 真夏の暑い日の下で、山のように積んだ図面を燃している、ふんどし姿の友達の逞《たくま》しい体を思い出します。
 これですべてが終わったんだと思いました。

 後で考えるとあんな図面、秘密でもなんでもなかったと思います。

(返信3)

 家に新聞もラジオも無かったから、どこからあの情報が入ったか良く覚えていないんですが、天皇陛下の言葉なんて聞いたことも無かったから、国民に対する励ましの言葉でも放送されるんじゃないかと思ってました。

 貴重な資料も大分焼かれてしまったようですね。後で考えるとおしいことをしましたね。
 わたしの工場じゃそんなものは無かったと思います。

(返信4)

 悔しくて泣いたと思います。でもそれ以上にほっとしたのでしょう。
 でも「これから下駄《げた》でも作るか」という声には反感を持ちました。

(返信5)

 夜は暗黒の世界でしたから、明かりがつけられることは嬉しかったです。

 戦争中より戦後の食糧不足はひどかったです。

(返信6)

 そういう難しいことはわたしに聞かないで、、

 天皇陛下の言葉は、はっきり云ってなんだかわかりませんでした。あの独特な調子での勅語の棒読みでしたから。

 そのあとアナウンサーが読み、解説が加えられて始めて戦争に負けたと知りました。

 東京が焼け野原になり、戦局はますます悪くなってゆくのはわかっていましたから、負けているのは知っていても、実際に負けたとなると悔しかったです。

 梅林に座り込んで泣きました。そばに義兄(まだなってなかった)が黙ったまま座っていました。
 十何年もそう教育されてきた日本の終末でしたからね。

 これは何十年もあとのことですが、同じ会社の中で重役の一人が短波放送を聞いていて、すべて知っていたという話しです。

(返信7)

 終戦直後、狂ったように飛び回っている日本の戦闘機がありました。敗戦を認めたくない操縦士がいたのでしょう。

(返信8)

 わたしも聞いた時わからなかったですよ。

 あの晩の電気をつけた明るさは本当に良かったですね。

編集者
投稿日時: 2007-7-13 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その9 (けんすけ)
 ふるさと 東京

 東京と言っては広すぎるので、わたしが生まれ育った、旧日本橋区馬喰町界隈《ばくろちょうかいわい=馬喰町あたり》と、子供の行動範囲で覚えていることを書きます。

 我が家の向かいは神田区で、お互いの小学校を貶《けな》して囃《はやし》し立てました。「○○学校いい学校、上がってみたら、ぼろ学校」

 わたしの小学校は、両国橋近く、道1つ向こうは隅田川でした。花火の時は屋上が解放され、椅子なども置いてあって、仕掛け花火が良く見えました。ただ、屋上に上がる階段のところしか電気がついてなく、3階建ての校舎は気味悪く、ちょっと恐かったです。
 校門の前に消防自動車が1台止まっていました。

 馬喰町(ばくろちょう)は、問屋街横山町に隣接し、衣料品問屋と、地方発送のための梱包《こんぽう》材料店が多かったように思います。
 店を広く使うため、風呂のある家は殆ど無くて、お湯に行きました。近所の商店の小僧さんや、中には倶利伽羅紋紋《くりからもんもん=刺青をした人》のおじさんなんかもいました。
 夏は小学校のプール通いで、ふんどし跡がくっきり残った子供たちのいい遊び場になっていました。

 そばに川があって鞍掛橋《=竜閑川(堀割り)に掛かる橋・昭和25年に埋め立て完了 竜閑川消滅》という橋があり、大伝馬町、小伝馬町と馬に関係のある名が多いのは江戸時代からの名残りでしょう。 町内に宿屋も2軒ありました。
 小伝馬町の牢獄跡は十思小学校《じっし小学校》で、隣家の子はこの小学校に通っていました。

 鞍掛橋の隣の橋、竹森橋は家の前の通りでした。夏は橋の上はもち竿を持った子供たちで一杯。竿は欄干《らんかん》から下の水面に向かって下ろされ、ギンヤンマが橋と橋の間を行ったり来たりするのを狙っていました。とんぼが橋を掠めて空へ上る瞬間に、竿が一斉に揺らされます。夏の裏通りの橋は通り抜けるのに苦労するほど、子供があふれていました。

 竹森神社という小さな神社があり、二の日と七の日だったか、 縁日が出ました。古本や、塗り絵や、お好み焼きや、えんどう豆を炒ってる店など、子供の喜びそうな店が並びました。この道とTの字に、川に沿って植木屋さんが並んでいました。

 夏は縁日に向かう駒下駄《こまげた》の音が賑やかでした。
 縁日はたくさんありました。六毘沙、九毘沙など、それぞれ6の日と9の日の毘沙門天《びしゃもんてん=七福神のひとつ》の縁日で、こういう縁日があちこちにありました。人形町の水天宮《=安産・水難よけの神》の縁日などは昼間からたくさんの露店が並びました。
 五目並べなど面白がって見ていました。「2手で四三の勝ち」なんて、入れ替わり来て同じところで間違えては金を取られている大人に、なんてバカやってんだろうと見ていました。

 柳橋《やなぎばし》から始まる神田川の土手に神田松竹(通称ドテチク)という映画館があり、2本立て3本立て興行をやっていました。遅く 行くと割引があり、よく連れてってもらいました。
 他にもちょっと歩けば、映画館が2軒あり、子供たちが連れ立ってエノケンの映画を見たりしました。行く道で馬車の荷台にそっと飛び乗ったりして、見つかって怒られて飛び降り、気が付かなければ又飛び乗ったりしてました。

 子供たちの遊び場は道でした。三角ベースをしたり、駆逐戦艦《くちくせんかん=戦争ごっこ》をしたりしました。ベーゴマもやりました。
 模型飛行機も飛ばしましたが、狭いところで建物の壁にぶつかって、紙がすぐに破れてしまいました。それでも広い公園などはありませんでした。

編集者
投稿日時: 2007-7-14 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東京っ子の戦中・戦後 その10 (けんすけ)
(返信1)

 模型飛行機は子供の遊びだったんです。
 今の子はやりませんが。

(返信2)

 東海道を品川から入ってきて、博労《ばくろう=牛馬の売買の仲介をする人》が馬を休めたので、博労町だったようです。馬から鞍《くら》を外して掛けたので鞍掛橋。
 区名など、古いことを良くご存知ですね。

(返信3)

 縁日は好きでした。一ヶ月のうち縁日がないのは2.3日じゃなかったかな。そろばんの塾に行かないで、縁日に行ってたらばれて怒られました。

(返信4)

 裏通りは車は少なかったですよ。もちろん舗装されていました。で、わたしは土を知らないで成長しました。
 もう一つ、わたしの子供の頃からうちに電話がありました。
 交換手を呼び出して、相手の番号とこちらの番号を告げました。
 うちの番号が「浪花の4913」でしたが、交換手が「浪花の4913番ですね」と念を押しました。
 ヨンセンキュウヒャクジュウサンというと
 ヨンセンキュウヒャクジュウバンと間違えるからと注意されました。
 学校の先生は4に9たすの13と云ってました。

(返信5)

 模型飛行機は夜店で完成したのを並べて売ってました。
 舟も作りましたが、水上を走るのに興味がなく、潜水艦ばかり作っていました。銭湯の(この言葉知りませんでした)大きな湯船で走らせました。
 銭湯には結構大きくなるまで母親に連れて行かれました。
 今考えるともうすでに女の人の体に興味を持ち始めていました。多分法律の年齢制限を越えていたかも・・・

(返信6)

 この頃は“けんちゃん”でした。
 わたしのうちが材木やで向かいの角(竹森橋のそば)に自転車屋があり、ここにも“けんちゃん”がいました。わたしより年下でした。この子がわたしを呼ぶのに、「材木やのけんちゃん」といってました。

 電話は木の箱で正面に送話用のラッパ、左側に受話器がフック?見たいなものに引っかかっていて、これをはずすと掛かるようになってたようです。右側には何のためかハンドルが付いていました。これグルグル廻すと掛かったのかなぁ、忘れました。

 あかとんぼはたくさんいました。表通りのビルの壁にびっしり。捕まえようという気を起こさせないほどいっぱいでした。

(返信7)

 うちの末の孫娘、美容師の卵だけれど、「馬喰町行ってきたよ」とこの間言ってました。何を買いに行ったか詳しく聞きませんでしたが・・・

(返信8)

 「東京生まれにふるさとはないと思ってる」って書いたら、生まれた土地がふるさとだと言われました。
 たしかにこうして書いてみると東京もふるさとですね。

(返信8)

 子供はたくさんいましたよ。わたしの小学校は、1学年3クラス、6年までで18クラス。わたしのクラスは64名でした。
 今じゃ考えられませんね。
 しかも赤組(女級)青組(合級)白組(男級)とあって、合級は男女半々でした。あの時代に男女共学を実施していたのはここだけじゃないでしょうか。

 わたしの学校にはプールはありませんでした。十思小学校のプールを借りていました。希望者は夏休み中。午前、午後で男女入れ替わりでした。男の子は白いふんどしで、先ずふんどしの締め方から習いました。
 プールから上がった後、ふんどしを肋木《ろくぼく》に引っ掛けて絞りました。

(返信9)

 わたしの小学生時代は昭和8年から14年までです。
 あなたよりちょっと古いようです。
 プールがあるうちとはすごいです。わたしのうちの周りは商家ばっかりでした。
 酒問屋の友達のうちへ、何人かの友達で行ったのですが、子供部屋があって、押入れの中におもちゃが一杯ありました。
 このお母さん教育熱心で、参観日でもないのに一人後ろで授業を見ていることがありました。

(返信10)

 昭和10年から15.6年まででしょうか。14年には小学校卒業して、両国橋を渡って本所の学校に通いました。
 そして、下校途中に安田庭園の池に落ちました。

 今手許に幅76センチほどの“東京市千代田尋常小学校平面図”という母校の立派な図面があるのですが、
 中央に正面からの写真があって、1階、2階、3階の間取り図、屋上運動場、と 新築工事概要、教室その他各室一覧表、建設費、設計概要など表になっています。

 それによると創立は明治9年10月28日になっています。
 この建物自体は昭和4年1月5日起工、12月20日竣工《しゅんこう=落成》です。
 わたしの在学中に、60周年のお祝いがあって、学校正面のレリーフの文鎮《ぶんちん》をもらいました

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