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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     東村山 ふるさと昔語り はじめに
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-6-23 7:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り はじめに
はじめに

 このシリーズは

 「東村山郷土研究会」による冊子「東村山 ふるさと昔語り」から、発行者のご了解を得て抜粋させていただいたものです。
 この研究会では、すでに「東村山のあゆみ」など、数冊の冊子を出版しておられますが、今回の「東村山 ふるさと昔語り」は、昭和52年から60年にかけて収録なさった座談会の記録とのことです。

 東京都 東村山市の位置


編集者
投稿日時: 2007-6-23 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その1
 空襲 (1)

 秋津の古老に聞く

 『南秋津への空襲』

○戦争の時の話になるが、昭和二十年四月二日、下組 (しもぐみ) にB29《米国ボーイング社の大型爆撃機》が落ちてな。B29は一機撃墜されたがその時、民家が一軒焼け、二十三戸が破壊され三名亡くなった。本当にひどかった。
○いま平和観音(※)があるあたりにB29が落ち、翌日、骨を拾いに行って、薦《こも=荒く織った蓆》にくるんで花見堂にいけて(埋めて)おいたが、終戦になってから、アメリカからきた人に喜んでもらった。

 ※供養の観音様…B29は小俣家(秋津町1-4)の畑に墜落。三十五年に亡くなられた権次郎氏が「敵兵でも丁重に葬らねば」と十一人の米兵を供養し、遺品はアメリカに渡した。
 この地には戦没供養と人類の永久平和を願って平和観音様が建立されている。除幕式には、アメリカ側の遺族や関係者が多数参列。日米間外交にも貢献したことになった。

○今、地蔵堂の墓地に供養塔が建ててあって、戦災でなくなった方のお名前があります。
○防空訓練《空襲に備える訓練》もずいぶんやりましたね。群長さんが焼夷弾《高熱 発火で総てを焼き払う爆弾》が落ちてきたら掴み出せなんて言っていたが、本物を見たらそんなことじゃないね。本当に恐ろしいものだ。竹槍を組織したりして、全くの笑い話みたいだね。


 戦没者供養のために建てられた平和観音(立河充子氏 提供)












 西宿の古老に聞く

 『B29の来襲』

○あの戦争のときの空襲のことだが。爆弾は西宿辺りとしては、保生園の前の田んぼに一発落ち
たね。二十年の一月九日昼過ぎだった。保生園のあの川(後川)のとこだけんど、爆弾が東村山
に一番最初に落ちたのがこの空襲じゃないのかね。その後は四月かな。久米川地区に。これは何軒かが爆破され、南秋津にはB29が落っこちた。
○その一月の時だね。向こうからB29が二機来たんだよ。見ているうちに目本の小型機が続いて落ちたんだ。突っこんだんだね。あれは小平あたりの上空じゃなかったかな。それで小平の前の原に落ちたんだ。もう一機のB29は真上を通ったんだ。その時に撃った機関銃のケースが裏の畑に落ちててね。俺、拾ってきて記念にしておいたけど、どこかへいっちゃたね。
○小平に落ちた時、向こうの兵隊がばらばらに落ちてきてね。十何人と言われているね。方々の畑なんかに落ちたんだから。機体もばらばらにね。
○体あたりした小型機の飛行士は立川の航空隊にいたんだってね。まあ、とにかく空襲は嫌だっ
た。空襲警報なんてぞっとしたね。東村山で空襲警報のサイレンが鳴ったのは昭和十七年の四月
が最初だってね。終戦まで随分とあったけどな。
まあ、空襲は嫌たった。

※空襲警報…敵の爆撃機が発見されると警戒警報を発令し、更に接近すると空襲警報を発令して爆撃に備えた。東京に初めて空襲警報が発令されたのは昭和十九年十一月一目であった。
(『東村山市史』通史編下)
編集者
投稿日時: 2007-6-24 8:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その2
 空襲 (2)

 秋津の古老に聞く

 空  襲

O秋津方面は空襲がひどかったな。昭和二十年の四月二日は忘れられないな。B29がやってきて。一機が撃墜されたわな。くるくると回りながら落下してくるんだ。小俣権太郎さん(秋津町1-4)の前の畑に落ちてね。あん時(あの時)は民家一戸が焼け二十三戸が破壊されたんだから。米兵は十一人乗っていたんだ。米兵の死体をとりあげ、それを花見堂の共同基地に埋めたんだからね。
○家の庭には手と足が落ちたんですよ。
○小俣さんのところでは三十五年七月にアメリカ兵の戦没《戦争で亡くなった人》供養をして、墜落したところに平和観音像を建ててね。アメリカの方から感謝されたね。
Oそれから四月二十四日の朝、B29の編隊《二機以上の飛行機がある形になって飛行する様》の(※)空襲があってね。柳瀬橋のところの肥沼武比古さん(秋津町3-21)辺りがひどかった。爆弾で橋付近一帯二十数戸が吹さとばされ、武比古さんの庭に死者が並びきれなかった。五十数人とかいったね。みんな爆撃でやられたんだから。怪我人も多く、全くひどかった。悲惨なものよ。
O敵機が錫《すず=注》のようなひらひらした長いものをたくさん撒いたな。久米川の方も大分爆撃にあって死者三人とか、怪我人も多かったといわれる。毎日毎日空襲警報でな。アメリカが宣伝のビラをまいたな。
○とにかくこんな悲惨なことは二度とあってほしくないね。

 (※)「東村山の空襲」参照

米軍機が各地にまいたビラ
内地決戦という軍部の勇ましいかけ声をよそに国民は連日の空襲に追われっづけ絶望していた。アメリカ軍機は各地に戦意そう失のビラを投下した。



注1.
銀白色の固体金属で 有史以来知られる金属 延性 展性に富み スズ泊等に用いられる



編集者
投稿日時: 2007-6-25 7:28
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その3
 空襲(3)

 久米川の古老に聞く

 爆撃の戦禍《せんか=戦いによる被害》

○四十年前のあの戦争。日本全土が空襲に遭いましたがこの辺も度々B29がね。久米川にご承
知のように爆弾が落ちてね。うちなんか、えらいことになりましたよ。私なんか、えら(たくさん)畑をやっていたが、爆弾が落ちて何もかもいっべんにふっとんじゃってね。終戦の年の四月だね。
空襲が続いてね。全くひどかったな。
Oこの辺で爆撃で亡くなったのは桜井喜三さんの長女であの若いおていちゃんと、家じゃ二人(榎本孫一さんの奥さんとお父さん)そして小林さんという人と町田伝八さんと五人だね。
O四月二日の未明。そのときは当間隼人さんの奥さん、おばあちゃんだね。家なんかは四月二目の空襲でね。二目には焼夷弾が落ちてね。で町田さんところに落ちて火事になっちゃってね。それから井戸水を汲もうと思ったら井戸に爆弾が落っこってて、汲めなくなっちゃったんです。
Oあん時じゃないの、あの秋津に落っこたのは、二目と二十四日にね。四月二日の時には敵機が1機墜落してね。小俣さんの所だね。時限爆弾《一定の時間経過後爆発する爆弾》を積んでありやがって、次々に爆裂して庭前の所に直径二十メートルもの大穴が掘られ、米兵の遺体が散乱し、すごかったね。現在、そこのところに供養と平和祈願として小俣さんが観音様を祀《まつ》ってあるがね(秋津町1-4)。
O私の家なんかへ落ちたのは瞬発っていうもの。当たればすぐ跳ねるやつ。それから焼夷弾のときのは時限爆弾。それがあの町田さんの屋敷へ落っこたんだからね。

**********************************************************
 「参考」 私の日記から  立河光子(たちかわみつこ)

 四月二十四目 B29の二編隊が行き過ぎるころ、北の空が真赤な土煙りだった。すぐ後続部隊が来る。お腹の底までしみこむようなあの爆弾の音、忘れられない音だ。農家らしく屋根の藁か?・真っ黒になって雪みたいに降っている。電波をさえぎる錫のビラ《注1》も百ぐらい、次から次から落ちてくる。今日は一番きもをつぶした。
**********************************************************

O爆弾くらって人手はなくなるし、百姓の道具、脱穀機だとか、唐箕《とうみ=注2》、鍬、何にもなくなっちゃってね。
○お宅の奥さん、大怪我をしちゃってね。その時即死ではなかったんですか。
○隣家の人がリヤカーに乗せて、駅の所の佐野医院(野口町一丁目)へ連れていってくれたが、ここじゃどうしようもなくって、応急の包帯ぐらいしてね。新井さんに行ってくれといわれ、すぐ新井病院(所沢市)へ曳いて行ったというわけでね。
それからやがて一時間ぐらいしたら、いま息をひきとったなんてね。その時にこんなことがあったんですよ。新井病院へ医療費の払いを申出たら健康保険出してあるかっていうんですよ。冗談じゃない、家がふっとんじゃってハガキー枚ぐらいの保険証が出せるわけがねえじゃないの。健康保険っていうのをやっていたわけだがね。それで東村山の町役場へ連絡して入っているかないか聞いて、と言ったんですが駄目だって。出してないから一般治療費だっていうわけ。まあ、しょうがないから払ったけど、あの当時、小池町長(※)だったが、肝心な時に使えねえものは保険に入る必要もないって、私しゃ幾年も保険を休んだんですよ。

 ※小池町長:小池喜八。明治四十三年、三十歳で化成小学校長に着任、化成小学校を府中小学校と並ぶ北多摩の中心校に盛り上げ、大規模校(一時は一九九三名)の経営に手腕を発揮した。青年教育にも力を入れ、北多摩連合青年団長も務めた。昭和十七年九月から二十一年十一月まで町長。

○緊急の時だけに大変でしたね。ところであの時分は何かあると新井病院だったね。盲腸だ、
怪我だとかね。


「参考」 東村山の空襲

昭和二十年一月九日 B29 保生園前北川付近に爆撃投下、人的破害なし。
昭和二十年四月二日 久米川・大俗方面 B29の爆撃で数棟破壊される。
  ・南秋津一棟焼失、二三戸破壊、死者三名
  ・大岱では死者二名、家屋の被害は記録がないため不明。
  ※B29一枚撃墜さる(米兵死者一一名)。
昭和二十年四月四目 東村山も空襲を受けたが人的被害なし。
昭和二十年四月二十四目 南秋津・野口・久米川B29による爆撃。
  ・南秋津には約一〇発の爆弾投下され四〇戸全壊、火災発生、死者三五名、負傷者二五
   名。
  ・久米川に爆弾二個投下、民家三戸全壊、死者六名。
  ・野口の役場付近に爆弾一個投下、民家三戸全壊。

※ 町役場では、二十四日の被害を最終的に全体で死者四六名、負傷者二五名と記録している。


 八坂付近の古老に聞く

 九道の辻とその周辺

○辻近く(現在のブリジストンエ場敷地内)には、戦争中、板橋兵器廠の分廠があり、自動車・戦車が山林の中に隠されていたため、アメリカ空軍機の爆撃の目標となって、付近には相当量の爆弾が落とされ、死亡者も出たり、また西武国分寺線の線路のレールが長いままに宙に飛ぶなどの被害があった。

注1.
電波を遮るため 飛行機から撒くスグ片で 電探欺瞞紙と呼ばれ
現在でも 軍事用に使用されている
注2.
塵や籾殻などを選別する 農機具
編集者
投稿日時: 2007-6-26 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その4
 戦争の周辺

 久米川の古老に聞く

 陸軍の演習

○その鷹の道がね、雨でも降ると雨で掘られちゃって、肝心の人間の通るところもなくなっちまうんですよ。御成橋があんな状態だったから。兵隊が演習に来た時があったでしょう。鷹の道は困っちゃってね。丸木じゃ、歩兵なら通れるけど野砲なんか通ることができない。大正元年(一丸一二)秋に川越や飯能方面に大演習があったけど、それより後の、昭和二年十一月、この辺一帯で陸軍演習があって、各農家へ二人か三人ぐらい兵隊が泊まっただがね。
○そんでもって、男の子らは、兵隊の後をくっついちゃって、兵隊が進むその先へ、その先へついていって、帰りにはもう腹はへるし、疲れて帰って来るだからね。
○その演習の時に秩父宮殿下がお出でになって、久米川辻の当間要作さん、元年さんの家にお泊まりになってね。お付きの将校も泊まったったんですね。そしてその時、うちみたいなところに泊まったのは下士官かな。
○野際、江戸道と久米川中はほとんど、ちょっと広い農家では二、三人割りあてとなって、兵隊が泊まったんだね。
○その当間さんところには、秩父官付の武官からの、演習も無事終わったし、お世話になったという礼状があるというがね。
Oこのころの戸数というと野際組は三十七戸、野行は三十戸たったね


 八坂付近の古老に聞く

○正視寺の庭では、徴兵検査(※)に合格し、翌年入営する人の予習教育が行われたもので、清瀬、小平、犬和、東村山の四か村連合で訓練をしました。

  ※徴兵検査…男子は二十歳になれば兵役に服す
   義務があり、軍の検査を受けた


 飛行機

 秋津の古老に聞く

 所沢街道

O戦時中、所沢の飛行場へ、中島製作所から飛行機の胴体など大きな荷車を積んで馬や牛で運ぶんだが、その坂が大変なものだったから、新道を作って真っ直ぐにしたんだな。それが新道の坂だ。
 旧所沢街道は空堀の方から浜の台へ、比留間信春さん(秋津町3-4)の西側を通って柳瀬の橋を経て、そこから曲ってタッチュード坂から所沢へぬけたんだな。旧坂は牛車などで登ったり曲ったりで、それこそ大変だったんだ。

  ※中島飛行機製作所…実業家中島知久平が大正六
   年、現、武蔵野市に設置した一大飛行機工場。重
   要施設ということで昭和十九年十一月以降、頻繁
   にB29編隊の爆撃を受けた


 秋津の古老に聞く

 飛行場見物

○わたしが高等二年《注》の時に所沢に飛行場ができた。うちの親戚の者が飛行場の入場券があるから、明日早く行くので、というので、朝早く起き、仕度をして一緒に見に行った。飛行機を見るのは葦の茎で編んだ例の葦簾張りの中ですよ。「ただ今、飛行機が出てきました。出てきました。」といった調子でね。
 格納庫から出てきたが、見ていると、いくらかあがって飛んだが、まあ-いくらでもなかったな。
風が吹くと今日は駄目ですなんてことがあった。パイロットは徳川大尉といった。
○大正半ば、陸軍航空学校ができたが、所沢の街も兵隊さんが往来したな。
O昭和十年ごろまでかな、もっとかな、桜の花の咲くとき飛行学校内をみせてくれたな。所沢の街には「飛行機せんべい」も売っていた。

注.
当時は小学校では尋常科6年間(義務教育)高等科2年間(自由入学)の制度があった

編集者
投稿日時: 2007-6-27 6:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その5
 多摩湖の古老に聞く

 貯水池

○貯水池は、村山と山口の両方で、昭和九年までかかった。
 上山口と上地と下地と三つで、村山の上堰堤《えんてい=堤防》と下堰堤とが、大正三年起工式があったと記憶している。完成は、大正十四年であった。(注)

 「参考」 
 貯水池工事…大正五年(1916)五月二十三日着工、六月四日地鎮祭、大正十二年七月上貯水池が完成、昭和二年(一九二七)三月下貯水池完成(『東村山市史』通史下)。

○私は、大正七年の八月から工事に従事した。起工式は、大正五年であった。大正七年八月、その時の日給は、四十五銭だった。
O貯水池を造るのに、一番思い出すのは補助道七号線で、ここが砂利道であった時、粘土を今の第三保育園(多摩湖町1-23)、野口町のこっちに粘土が出て、馬にトロッコをつけた「馬トロ」といって、馬が二台ずつトロッコを連結して、その粘土を線路道を歩いて引っ張った。それでこの道を広くした。

 ○ 廻田境(注)の所、学校(第四中学校)のある所、田口喜十郎さんのとこの向こう側(多摩湖町1-23あたりから東側)は、みんな掘った。

 ※ 廻田境・・・野口町と多摩湖町・廻田町の境。

○ミキといって、一番土の下のところの粘土つちは、非常に良い、その粘土に砂利を混ぜて、これを巻き上げて、今の堤防の芯に入れて、これをローラーで積み上げて、一尺(一尺は約三〇センチ)厚めに積み上げたものだ。俗に粘土コンクリー卜と言った。
○日当、四十五銭がほとんどで、五十銭はよく働く人。
○当時、景気が悪くて、農家の人も仕事が少なかった。久米川の人にきくと貯水池の仕事は賃金がよいものだから人があふれてしまうので、五時には起きて出かけたと。
○そのころ、酒は一升、二十銭ぐらいだった。
○私は、大正九年(1920)、日給一円六十銭、十一年には一円八十銭となった(注)

 ※ 話した人は現場で責任を持だされて仕事をしていた。

  軽便鉄道は、東村山の駅からどこまであったのですか。
○駅から出て、鷹の道を通って、清水のトンネルを通って、堤防の下に取水塔があるでしょ、そこを出て、上堰堤の所まで。
 今は清水(東大和市)に移転したが、宅部(ここでは下宅部のこと)と同じ米川神社があって、軽便鉄道はその前を通って、ずうっと田んぼの南側を通り、セメント倉庫があり、そこで、その先の上堰堤を築きあげた。次に下となった。

○「ワッセン」の所で、今でも「ワッセン」と言っている。
O堰堤の土を運ぶのに、下の方には、北側の方の土を取って運び、南側から土を運ぶのには、堰堤の高みの方から運ぶ線が高いので、「上っ線」と言ったのが、いつか「ウワセン」「ワッセン」になったようだ。
○淀橋の(注)浄水場は、東村山に移された。

 ※浄水場跡地・・・新宿西口のビル街と新宿中央公園になった。

 村山貯水池堤防工事 切り崩した土をトロッコに盛る。(細淵源治氏 提供)





編集者
投稿日時: 2007-6-28 7:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その6
○村山(貯水池)ができた時、境(武蔵野市関前)の浄水場ができて、村山の水は境に入った。大堀を通ったのは、一部は境に入って、あとは三鷹の駅を通って、和田堀浄水場(杉並区)の方へ入って、今埋め立てられた昔の淀橋の水道道路に入った。
○ここ(多摩湖町一1-17、消防詰所)の下を通っているのは、「伏せ越し」といって、山口から来た水が、一度山の上へ上がって、ここで下がって、田んぼのところで平らになって、また清水さんの所(多摩湖町2-12)で上がってというふうに追ってある(サイフォン方式という)。
○十二段の段の滝(下貯水池の放水路)はきれいだった。
O貯水地のできる前は、洪水《こうずい=河川から水が堤防を越え溢れ出す》の心配があった。堤防がないので、この辺の田んぼは、一面水になった。
○二瀬川も貯水池ができる前は、増水に悩まされた。柳瀬川と合流する所(久米川町5-19付近)で水があふれた。

○六月の田植えの時も、向こう(上宅部)も田でしょ、こっち(下宅部)も田でしょ。足袋がなんぼ流されてきたか、こっち(宅部川・北川)は石川の続きでしょ。
○こっち(多摩湖町三・四丁目)が川北で、こっち(多摩湖町一・二丁目)が川南で、この北川にかかっているのは木橋でしょ。私たちが子どものころは、橋がみんな流されてしまう。
O戦争中に、あの堤防をアメリカ軍に爆撃されては大変と、土手に見せかけるため強固にかさ上げした。

○強制ではないが、堰堤が切れたら大変と疎開の話も出た。私の家は一段高い所にあったが
今三幸タクシーに勤めている浅見さんだけが疎開しなくてよいと言われ、あとは疎開しろと言われた。
○今まで何十年と本家と言ってきたその本家が、「どこへ行って(疎開)しまうんだべえか」と思って、果てしもない苦労をしたものだ。
○二瀬川(久米川町五丁目)で一軒疎開した。役場に行っていた榎本さんという人だ。
○うちの方では、大事なものだけ一段高い所に穴を掘って、防空壕掘って、大事なものを埋めた。
○貯水池ができて恩恵というと、まあ、大水が出なくてよくなったことぐらいかな。それと工事中に働かしてもらって、お金をもらって生活したのが良かったというくらい。
○百姓としては、今この貯水池の水をみなもらい受けた。
○宅部(多摩湖町)の六町五反の田へ水を引くのは、今の宅部川(北川)の日向橋というのがあるが、そこへ堰《い=水量調節の為流れをせき止める堰》を作って、そこで水を溜めて、渇水の時には田へ水を引くようにした。田持ちの人は、みんなで人夫に出た。
 この堰を作ったら、貯水工事がやりにくいという話があって、これを払ってくれれば、替わりに今の宅部貯水池(やけちよ)を作ってやるからということで、それならよいということになって、この堰をオッパラっちゃった(取り払った)。
○門前池というのが、三光院の所(下の貯水塔あたり)にあった。
○堤防の所、その前には田と桑園で三反ぐらいあった。「今日は門前の所の桑を採ってくる」とか「今日は門前の草むしりをする」と言った。
○あの池は田んぼに使った。



編集者
投稿日時: 2007-6-29 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その7
 多磨全生園(1)

 川島盛昇氏に聞く

 川島氏は大正七年(1918)~昭和三十三年(1958)まで全生園に勤務、看護科長などを務められた。

 全生病院設置反対騒擾事件

 昔かららい病として恐れられ、最近はハンセン病《注》と呼ばれ、全国十三か所ある病院の草分け的存在となったのが多磨全生園である。
 明治四十年にできた「らい予防法」に基づき、療養所が東京府荏原郡目黒村に建設されようとしたが、村民の反対に遭い、田無、清瀬と三転し、ついにはこの東村山に飛び火してきた。その時に起きたのがこの事件であった。
 土地は大岱原と呼ばれ、家は一軒もなく、土地はやせており、追い剥ぎの出るようなこの地、東村山村大字南秋津字開発に白羽の矢が立ったのが、明治四十二年二月。
 土地は坪当たり(一坪=3.3平方メートル)一円八十銭で買い上げられたと言われ、一部地主の巨額の利益が風評にさらされる結果となった。
 周りの農民は、一銭の得にもならず、それどころか、恐ろしい病気が隣に引っ越してくる。移ったら(伝染したら)大変だ。農作物は売れなくなるだろう……ということで騒ぎ始めた。久米川宇野行(現久米川町一町目)の住人だけでなく、久留米村字下里の住民もこれに加わり、寺などに集まり、対策を練ること幾十回。死活をかけたこれだけの反対があるのに、何故か村議会は療養所の位置変更の請願《こい願う》を無視し、それどころか「病院設置を全会一致で喜んで可決」してしまった。久留米村では全会一致で設置に反対の決議をしているのに。この違いはたぶん多額の金が動いたのではないか……と想像されるが、詳しいことは定かでない。今もって、この件に関しては「野行」の人は黙して語らずという。
 そういう農民の反対運動が起きている中の、二月二十七日に東京府内務部長堀伝次氏・慰廃園代表(※)和田秀豊氏などが、立川伊兵衛村長に案内されて来た。その一行に鍬・天秤・梶棒などを持って襲いかかったのである。堀内務部長は血まみれになり、高橋庶務課長は倒れて人事不省に、立川村長は腕を折られたという。和田園主は当時の金で十五円あげるから助けてくれと言ったところ、「俺たちは金のためにやっているのではない」と一蹴されたという。そして空堀の中を逃げぬき、所沢警察に通報。急を聞き、駆けつけた所沢及び田無の警察によって、今で言う公務執行妨害で逮捕されたのは八十数人に上ったという。

  (※)和田秀豊氏・:目黒村に開園した好善社の慰廃園病院理事長、宣教師。

 そして、即八王子刑務所に送られ、その反対派の人々のいなくなったところで突貫工事に入り、事件から七ケ月後の九月二十八日には全生園の開院式まで行われたという。何という早業か。

 「参考」
  判決言い渡しのあとの裁判長の訓戒…「被告人一同は何れも立派な農民なり。偶々療養所問題起こり、之に反対せしは犯罪ならねど、官吏に抗議し傷害を加へたるため法律上の責任を免れざるに至れり。今無罪となった者及び刑の執行猶予を受けた者は将来農業に励んで、再び法律に触れぬようにすると共に、入獄と定まった者の家事を助けられたし」(第二沢『東村山市史』、昭和四十六年刊)731ページ参照。

注.
癩菌の感染により起こる 慢性伝染病
編集者
投稿日時: 2007-7-2 7:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
東村山 ふるさと昔語り その7
 
 開院後いろいろ

 できた当時は、東京府・埼玉・千葉∴御奈川・新潟・群馬・茨城・栃木・愛知・静岡・山梨・長野各県の(十三府県の)経費負担で経営される病院であったが、昭和十七年に国立病院となった。
 当初は、強制収容に近い状態で入院させており。中には浮浪者・麻薬中毒患者等も含まれていた。
 土地の人でも正月・盆でないと米の飯は食べられなかった時代であり、面会人はあまりなかった。
 近所には東京見物と言いながら、身内の患者に食べさせてくれと、はるばる新潟から米を背負って来た面会人もあったという。東京見物とは表向きで、らい病院の面会は、家人にも内緒であったのであろう。
 戦争中はI日にらっきょう二個、梅干くらいのおかずしかなく、また包帯もなく着物を裂いてその代わりとし、医者もいず、薬もなくて毎日のように川島さんは医者の代理をしたこともあったという。

 全生国病院事務所と治療所 (明治42年ごろ)  (市川家提供、ふるさと歴史館蔵)

 時代の流れと共に、忌み嫌われていた全生園も、医者のあまりないころに周りの人々の面倒までみた院長光田医師の努力や、大正十五年から始まった農産物品評会に昭和二年に近村からも出品を募り、交流し、開院三ケ月から始まった「二輪加」《にわか=即興的な(俄)》芝居上演が発展し、全生座歌舞伎などによって上地の人々にも親しまれるように変わっていった。

 娯楽のなかった大正当時、年二回ほど東村山に来る旅回りの芝居は、木戸銭が五銭もしたが、人院していた歌舞伎役者が指導した全生歌舞伎は、春秋二回無料であったので、二日間で二千から三千人の観客が外部から押し寄せたという。特に実の親子が名乗れない「阿波の鳴門」の「どんどろ大師前の場」では、患者さんたちは我が子、我が母を思い出し、号泣し、いつも大当たりをとった演題であったと言われる。
 変わった話では、柳瀬村の城(現所沢市内)の「へんじょう大尽」の活か伝わっている。
 らい病の乞食を物置においてやり、面倒を見てやった、へんじょうさんの嫁さんに、乞食が死ぬ間際に「何か食べたいものはないか」ときかれ、「何も食べたいものはないが、あねさんのチチが飲みたい」と言ったところ、「チチを飲むなんて、わけないじゃないか」といって飲ませてやったという。すると、その乞食は「実は自分は大阪の鴻池(財閥) の若旦那だが……」と言って、寝床の下に置いてあった当時(大正?)の金で何万円もの全をくれて死んだという。この金て土地を買ったりして、へんじょうさんは、大尽と言われるようになった。今でも所沢にいると言われる。
 嘘か真か知らないが、心温まる話である。

 「参考」 全生園のことは、全生園で発行されている「多磨」 1967年七月号に川島氏が「多磨全生園創立前後の思い出」を書かれている他、多磨全生園患者自治会編の「倶会一処」、全国ハンセン病患者協議会編の「全患協運動史」(共に一光社から出版)に詳しい。


 野行・野際の古老に聞く

 多磨全生園

 東村山の歴史の中で大事なものに多磨全生園のことがある。今年創立七十周年を迎えた。同園の誘致は明治四十二年である。当時村会の有力者が坪九十銭で用地を買収し、東京府には一円八十銭で売ったという。久米川の農家は全生園の方に土地を持っている人が多く、そのやり方に憤慨して「病院が設置されると、大量の病菌で付近の農作物は売れなくなり、百姓はだめになる」という理由で反対した。東京府の役人が現地に来た時、暴動化して怪我をさせてしまったという。


 野口・本町の古老に聞く

 本 町

○明治から昭和初期までは、大部分が農耕地であり、商店としては拓銀前の現在の東原商店(本町2-17)の場所にヘイキさんという団子屋がただ一軒ありました。
○駅の東側には、患者専用のプラットホームと家があり、全生園に入院のための特別列車で輸送されてきた人が下車。家は小休止のために使い、そこから人力車で病院に運ばれました。


西宿の古老に聞く

○多磨全生園ができたとき、みんな一揆《いっき=徒党を組んで武装蜂起する》というか大騒ぎだったんでね。立川伊兵衛さんが村長の時ね。癩、ハンセン病というか。あの時分は大分、反対があってね。近くの山のくず掃きの、くず葉の中に村長さんが隠れたりしてね。あれ、川村らが親父をかくまったとか。「そういうのが来なかったか」ときかれ、「見なかった、そんなのはいねえよ」とかくまったという話だね。
O村長さんの家やなんか石が投げこまれたらしいね。筵旗《むしろばた》をおっ立って反対派の連中なんかが警察へね。野行の人なんかね。
○ありゃ、合同して設けたじゃないのかね。まあ、反対もあったけどやはり、病院ができちゃってね。それで東村山駅近くの仲さんの家の向こうに患者さんの一時収容舎があって、専用車で降りて一旦休んですぐ人力車で入院したんでね。もう、何年も前の遠い過去だね。



編集者
投稿日時: 2007-7-3 8:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
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東村山 ふるさと昔語り その8
 青年団

 野口の古老に聞く

 青年団の活動

○青年団のことだが野口辺りは青年団の元祖ともいえると思うのだが。八坂神往を中心として青年団の活動が野□地区で盛んだった。
O八坂神社に対する信仰を、神輿《みこし》を担ぐということで、青年が主体にならなければなかった。
○それから、青年団活動の一つとして、大正十三年二月、雅楽《ががく=注》を導入し修得することになりました。総員十三名、うち代表二名で発足、楽器は土地の有志の寄付金により購入しました。
O雅楽を教える人は所沢の三芳さん(神明社社掌・三芳武磨氏)、下新井の三上さん(熊野神社社掌・三上嘉智氏)、それから入間川の青田さん(八幡神社社掌・青田義雄氏) の三名の神官の方にお願いしました。
 はじめ二週間ぐらいは毎日、午後七時から十時ごろまで練習しました。川越線の最終が十時半でしたのでそれに乗り遅れないよう、ぎりぎりの時間まで指導していただきました。
 現在で七代目になるかな。
 また「(※)浦安の舞」は。(※)皇紀二千六百年の昭和十五年に平和祈願の舞として導入、女子によって修得されました。府中の大国魂神社に習いに行って十一月十五目八坂神社での式典に舞われました。
 ※浦安の舞…市指定の無形民俗文化財。
浦安の舞の歌詞は、昭和天皇の御歌。
「天地の神にぞ析る朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を」
 ※皇紀・・・『日本書紀』の紀年にもとづき、神武天皇即位の年を元年と定めた日本紀元。それによれば、西暦二〇〇〇年は日本紀元二六六〇年にあたる。


 西宿の古老に聞く

 青年団活動

○青年団になる前、女子は「処女会」という会で活動していました。
 私どもが若い時は男女が話をしても何だかんだと言われるような気がした。婚約するまで口を利かなかったもんだ。
「昔の恋愛結婚は」ってきかれても恋愛なんてもんじゃない。「なれあい」「くっつきあい」などと言ったもんか。


 野行・野際の古老に聞く

 青年団活動

 青年団活動は大変盛んで、十六歳から三十歳までが団員で、大正七、八年から十年ころが一番盛んであった。当時軍国調の訓練などを受けたが、それとは別に奉仕活動や運動(スポーツ)の合宿などもやり、郡下の青年団体育大会に出場したりした。久米川には団員が三百人もいた。こうして盛んだった青年団活動も戦後だんだん低調となり(全国的傾向)、それに取って代わり、婦人活動が盛んになって現在に至っている。

注.
奈良時代に 中国 朝鮮より渡来した音楽
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