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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     食糧難時代 (3) (不虻) その1
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-4-2 8:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
食糧難時代 (3) (不虻) その1
 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。

 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、投稿者のご了承を得て転載させていただいているものです。 
 当時、「メロウフォーラム」では、テーマを設けて「臨時会議室」を開設し共通のテーマで戦中・戦後の記憶などを語り合ったもので、この投稿も、その臨時会議室の一つである「食糧難時代」の一部分です。

 ・ タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。

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 米の配給制実施 97/07/20 11:45

 ちょっと捜し物があって、昨年の受信ログを見ていたら、丁度昨年の今頃、私もこの追憶博物館で「小・中学時代の思い出」を盛んにアップしていました。そんなことから思いついて、今回のテーマでも2,3書かせて戴きたくなりました。

 戦前と言っても既に日本は昭和12年から日中戦争に突入していましたが、次第に物資が不足しだしました。それで一部の生活必需品の配給制は13年3月から実施され始めましたが、本当に食糧難を実感させたのは、16年4月からの「米穀配給通帳」による米の家庭配給制度が実施されてからです。当時の日本人は平均して1人1日5合以上の米を食していましたが、配給では平均して1人2合3勺になってしまったのです。

 府県によって多少違いはあったようですが、東京府では配給は甲、乙、丙の3種に分かれ、甲は学生やサラリーマンなどの一般人で330㌘(2.3合)(しかし61才以上の老人は300㌘)、乙は普通増量を受ける労働者で男女に分かれますが、350㌘(2.7合)、丙は特別な増量を受ける労働者で男570㌘(4合)女420㌘(2.9合)と言うような調子でした。
 日本人の食糧難、空腹感はこのときから始まったと言って良いでしょう。

 私は、16年4月に大学へ入り、九段の靖国神社の裏のMさんの家に下宿しましたが、幸いなことにMさんは直ぐ近くの電車通りの向こう側で食堂を経営しており、下宿人は3食ともその食堂へ食事に行っていました。その食堂は下宿人に限り、こっそり米を乙並みに盛ってくれました。

 嫌な時代でしたね。煙草も「お一人様、一函《ひとはこ》限り」といって、空箱引き替えに一函しか買えませんでした。子供用のドロップやキャラメルやお菓子が配給制になったのもこの頃です。臨戦食糧増産協議会という機関が、桑の残り葉、大根葉、甘藷の蔓《=さつまいものつる》、蚕蛹《さんよう=蚕のさなぎ》、鰯《いわし》などの食料化を推奨したりしていました。蛹は何人かの方が書いておられましたが、食料にするのは、一度油を搾《しぼ》ってから滓《かす》を食べるのでした。

 終戦の頃には、日本人が餓死寸前にまで追いつめられていたのは確かです。
 長々と書いてしまい、ごめんなさい。

編集者
投稿日時: 2007-4-3 7:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
食糧難時代 (3) (不虻) その2
 終戦当時のM高校生の食事内容 97/07/23 15:28

 今回は、最近届いた母校の同窓会報最近号に「終戦当時の高校生の食事内容」が発表されていたので、著者の御了解を得てその一部を紹介してみます。

 昭和20年8月1日~14日までの某工場に動員されていた高校生(17~21才)の献立表です。
 
  主食は1日330㌘(米240㌘,大豆90㌘)
  8月1日 朝飯(みそ汁の内容) わかめ
       昼食         みそづけ
       夕食         ひじき飯、漬け菜
    2日 朝飯(〃)      キャベツ 
       昼食         みそづけ
       夕食         乾燥野菜の煮付け
    3日 朝飯         わかめ
       昼食         みそづけ
       夕食         キュウリもみ、薬(わかふらぴん)
 以下は省略しますが大体こんなものです。他の多少の副食物を適宜に推定してエネルギーを計算すると3日は1300カロリー。動物性の食品は2週間のうち1回鰊《にしん》が登場しただけとのことでした。
 当時の一般の労働者には飢餓と超国家主義的《=極端に国家をすべてに優先する》圧力とが日毎に募り、ほとんどの人が良心も勤労意欲も喪失し、気力なき生活に陥っていたとこの著者(某栄養短大教授)は書いています。   
   

 海軍時代のみっともない思い出 97/07/25 13:12

 みなさん こんにちは。

 食糧難の思い出と言えば、私たちの年配ではどうしても戦争と軍隊の想い出話になってしまいます。こんなお話をするのもどうかと思いましたが、もう仲間の生き残りもどんどん少なくなっていますので、………若い方には興味無いかも知れませんが、話して置きたくなりました。

 昭和18年9月、私達は大学を2年半で無理矢理に追い出され、陸、海いずれかの軍役に就きましたが、私は海軍を選び、海軍経理学校に入りました。同期生が7百余名の大所帯ですから、築地の本校には入れず、品川に急遽《=あわたたしく急いで》新設したバラック《=粗末な家屋》作りの分校に居住していました。

 ここでの話です。外出時に姉の家から貰ってきた蜜柑を下のベッドの戦友と分け合い、毛布の下でこっそり食べたのですが、蜜柑の皮が惜しくて捨てられず、丸かじりにして食べたことが強く印象に残っています。学校といえども軍隊ですから、多少は食料の量も多かったと思うのですが、それでも空腹感は酷《ひど》かったのですね。

 またカッター《注1》の遠漕訓練の日、昭和19年1月19日のことでした。内火艇《注2》に指揮官や教官が乗り、我々は18隻のカッターに分乗して品川を出発、一路南へ南へと漕ぎ上げて行きました。隊列は水雷戦隊並列単縦陣、快晴に恵まれ、波もなく、満点のカッター気分でした。総指揮内火艇からは「陣形見事ナリ」の手旗信号も送られて来たりしました。

 2時間後、羽田飛行場付近に上陸、穴守稲荷神社付近で烹炊《ほうすい=煮たきする》。鹿児島汁《注3》と飯盒《はんごう=注4》で炊き立ての飯に舌鼓を打ち、食後の休憩時間を利用して、みんなで町へ進出。

 飲食店で更にカレーライスを食べ、満腹して戻ったのです。しかし、帰ってみてびっくり。留守中に「非常呼集」がかかり、各班とも点々と欠員をおいて整列していました。しまったと思った時はもう遅かったのでした。………それまでの品位と自負が一朝にして食欲に敗れ去ったのでした。勿論大目玉をくい、帰途は波も出て肉体的に苦しく、精神的には更に苦しく悩みながら戻りました。

 食糧難というとこんな事も苦々しい、しかし懐かしくもある思い出の一つです。

注1 カッター=ヨットの一種。一本マストで船首の長い小帆船
注2 内火艇=内燃機関(ガソリン機関・ジーセ゜゛ル機関等)によって走る小艇
注3 鹿児島汁=さといも等根菜に鳥手羽肉、にんにく酒味噌で味付けした具たくさん汁
注4 飯盒=野外で煮炊(た)きするための炊飯具。もと日本の軍隊で開発され、今は登山・キャンプなどで使用される
編集者
投稿日時: 2007-4-4 7:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
食糧難時代 (3) (不虻) その2
 終戦後の闇市のことなど 97/08/07 09:27

 昭和20年、終戦になってから日本の食糧難は一段と悪化したように思います。一つには昭和20年の米作が40年ぶりの大凶作で、米が前年より40%も少ない3290万石しか収穫できず、また外地にいた数百万の日本人が帰還し始めたことにあります。昭和21年2月には「一千万人餓死説」流れ始めました。食糧難にからんだ殺人事件や強盗事件が続発しました。米よこせ運動が起こり、遂に米よこせデモ隊が宮中にまで押し入ったりしました。

 私は、20年の12月から目黒の友人の家に転がり込んで、虎ノ門にある元の職場へ復帰しましたが、ともかく凄い時代でした。目黒から新橋までの省線電車(今のJRのこと)は窓ガラスなど殆《ほとん》どなく、ぎゅうぎゅう詰め。新橋駅前から虎ノ門にかけての闇市。配給ではそんな物は絶対にないのに、イカの姿煮などがいい匂いをさせて売っていました。特に夕方の帰りには思わず生唾が出る程でしたが、それが10円………当時の私の月給が150円の頃です。(日記には自嘲《じちょう》的にラッキーストライクわずか4箱分の月給と書いてありました)10円はまさに高根の花でした。 

 東京地方裁判所で食糧のヤミ売買関係を担当していた山口さんという裁判官がヤミを一切拒否して餓死したのは昭和22年10月のことで、この話は余りにも有名なので聞いたことはあると思いますが、もっと前、昭和20年10月に、東京高等学校のドイツ語教授、亀尾さん御夫妻がヤミ価格に追いつけずに相次いで、栄養失調で亡くなっています。配給のみでは必要最低カロリーの半分(1200カロリー)しか賄《まかな》えなかったとのことです。そんな状況ですから、1千万人とは言いませんが多くの方が栄養失調で倒れたと思います。

 当時の日本人を餓死から救ったのは、何処からともなく出てくるヤミ物資とララ物資《注1》というアジア救済連盟からの救援物資とガリオア資金《注2》による食糧援助だったのです。あの頃国民学校で給食を食べた人はララ物資を食べていたのです。

 なんだか嫌に堅い話になってしまい、ご免なさい。

 あの頃の想い出話としては、家に帰ってからの日課の一つが虱《しらみ=食われると激しいかゆみがあり、発疹チフス・回帰熱などの感染症を媒介する》取りの話もありますが、食糧問題とはかけ離れますので止めます。ともかく酷い時代でした。

注1 ララ物資=ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体の提供していた日本向けの援助物資のこと。

注2 ガリオア資金=アメリカによる占領地域救済政府資金のこと。

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