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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     「戦争を語り継ぐ」 (雨森康男)
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-3-9 8:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「戦争を語り継ぐ」 (雨森康男)
はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものをご遺族のご了承を得て転載させていただいたものです。
 
 ・タイトルにあります「お応えします」というのは、パソコン通信は会議室形式(掲示板のようなもの)をとっているため、書き込みに対して読んだ方から質問などが寄せられます。それに対する回答という意味です。

 ・タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。
編集者
投稿日時: 2007-3-9 8:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「なぜ戦争を書くのか」など (雨森康男)
自己紹介 93/08/31 22:10

 僕の簡単な経歴はパソコン通信10月号(9月18日発売)に掲載されますのでここでは触れません、復員以来ずっとアウトサイダーとして生きて来ましたから常識社会とは全く違った世界を歩き回ってました。市役所の臨時雇・電鉄会社の孫請《=下うけ仕事のそのしたうけ》の人夫・色物劇場の看板描き・ストリップ小屋の客引き・香具師《こうぐし=注1》のサクラ・興業師の先乗り・中学校の教師・カメラ店の店員・化粧品のセールス・自動車教習所の指導員・報道写真家・トラックの運転手・喫茶店・絵の教室…etc…。
 金が出来ればふらっと旅に出る、金がなくなればまた何処かで働く、仕事と言うのはあくまでも生きる手段で目的でも生きがいでも無かった。復員して渋谷の焼跡に立ったとき、僕は二度と何かのために生きようとはすまいと決心した。
植民地で生まれ育った僕には、親戚も友人もいない、その時僕の手にあったのは靴下一足の米と、缶詰2ケ、未払いの給与300円、それだけ。
 でも僕の生きざまがどうであれ、サラワティ島《注2》で全滅した兵士達の無念を、その声なき声は誰かが語り続けてゆかなければならない。これは生き残った者の義務ではないだろうかと思っています。

 注1 香具師=縁日など人の集まる所に露店を出し、興行や物売りを業としている人。てきや。
 注2 サラワティ島=ニューギニア島の北西部 この文の下方にサラテイのことも含め詳しく述べられております。

 ”悪魔”の サラテイ


なぜ戦争を書くのか  93/09/10 08:30

 今日まで何編かの記録をここに書いてきました、このフォーラムの方々はきっといったいこの男は何を考えてこんな事を書いてるのだ?と疑問を持たれているのではないかと思います。僕は自己紹介にも書いたように、戦後ずーっと完璧なまでのアウトサイダーとして生きてきました。その僕が戦争を記録すると言うのは僕の生き様とは全く無関係に、今もなおかの地に集骨されることなく屍《しかばね》を晒《さらし》している幾千幾万の英霊の、声なき声を、その叫びを、誰かが代わって伝えるのが僕に与えられた義務だと思ったからです。
 戦場には悲惨ばかりではなく、友情もあり、憎しみもあり、美しい物もあり、そして目をそむけたくなるような悲劇もあります。僕は戦場の全部を見てきた訳ではありませんから、ひたすら自分の知る範囲でここに記録してゆきます。
 どうか僕の意を汲んで頂いて、書かれたものの感想なり批判なりをお寄せ下さい

 サラテイ


お応えします  93/09/14 21:18

 自分では皆さんのコメントを読んだりプリントアウトできず、随分失礼をしました、友人の好意でやつと読むことが出来ましたのでご連絡します。
 さて、ペンギンさんの疑問サラワティ島ですが、ニューギニアの西、今のインドネシア領の西イリアンにソロン(この前飛行機が墜落して日本人2人が亡くなった所)から船で2時間ほど西に行った所にある島です、ここはウエブスターの百科辞典にも出ています、なぜか、ここはサゴ椰子の原産地で、世界三大瘴れい《しょうれい=機構・風土のために起こる伝染性の熱病・風土病》の地として有名だからです。因みにサラワティとはインドネシア語で悪魔と言う事です。山頭火《さんとうか=俳人自由律の句を詠む》の事はいずれペンギンさんとゆっくりお話しましょう。
 カッコウさん、パソコン通信の発売日は18日です、僕が間違って言ったのかも知れません、訂正します。予想に反し意外と穏やかな話しとのご感想ですが、日本の能楽や俳諧は序・破・急の展開を基本とします、その内破になり急になつてゆきます、ご期待を。
 さがみのさん、丁寧なご挨拶、痛み入ります、どこまで書けるか、これはもう僕の人生哲学とは全然関係の無い僕の義務のようなものです、パソコンはまだ旨くないのでぼつぼつ書いてゆきますから宜しく。


★朝鮮と僕  93/09/22 12:12

 いや驚きました、SETTONさん良く調べましたね、雨森芳州は中央公論社から「雨森芳州」の表題で新書が出ています。もっといいのは、もし滋賀県にでも
 行くことがありましたら、伊香郡の雨森村に雨森芳州記念館がありますから、そこへ行くときっと面白い発見がありますよ、北陸自動車道の木之元インターを降りて尋ねるとすぐ判ります。
芳州も医者の子として生まれましたが、僕も親父は医者でした。そして僕は朝鮮生まれの朝鮮育ち、芳州は朝鮮使の接待役で朝鮮語と中国語を良く話せた、言わば当時の第一級の外交官でした。なんとなくご先祖との因縁を感じます。
 僕は「暁の民」と言う原稿用紙500枚の小説を書きました、舞台は終戦直後の北朝鮮ですASAHIネットの人たちには読んで貰いましたが、皆さんの批評はとてもいいので、僕のライフワークのような物が評価されて喜んでいます。機会があったら出版したいものです。           

 サラテイ


僕の写真展  93/09/26 08:23

 9月18日から一週間、僕が昔銀座のニコンサロンでやった写真展の回顧展《かいこてん》を北海道の夕張市美術館でやってます。お近くの方はどうぞご覧になって下さい。
 テーマは東村山市のハンセン氏病患者を収容している「全生園」です。その後同じハンセン氏病患者だけで生活している韓国の「希望村」に行って、約1ケ月そこで一緒に生活しながら撮影をしましたが、これはアメリカの新聞社の依頼でしたのでフイルムが手元にありません、そしてそれを最後に写真家を辞めました。
 それからSETONさんはどこから情報を入手されたのか判りませんが、よくご存知で、確かに僕の妻は僕より27年下です。この年齢差だと見合い結婚じゃないのはお察しの通りです、でも22年も一緒に暮らしていると、年齢差なんか全く感じませんね、まあ普通の夫婦ですよ。えっ?何処で知り合ったのかって…、例のごとくふらふらっとシルクロード(ロシア領)の旅に出た時逢ったのです。
 どっちが口説いたかって? 50才の僕が23の娘を口説くはずないでしよう、人生色々あります、今日は日曜日、天気は上々、妻とオートバイでデイ・ツーリングに出かけます、妻もむろんオートバイに乗ります、2台でお出かけです。
編集者
投稿日時: 2007-3-9 9:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
慰安婦よし子 (雨森康男)
 慰安婦よし子 (1) 93/09/02 22:01

 僕たちの中隊に転属者3名を出せと命令が来た、人事係曹長が選んだ3名は、前科3犯のHと被差別部落出身のM、それに思想犯と見なされていた僕の3名だった。
 転属何名を出せと命令が来ると、優秀な兵士は絶対に出さない、一番始末に困るのから放り出す、これは何処でも同じ事、まあ体のいいトランプのババ抜きである。
 始末に困ると言ってもこれは当時の社会の偏見に基ずく故の無い差別です。転属先は満州の牡丹江、厳冬一月の事です。召集されて未だ6ケ月、一つ星の新兵、一度でも軍隊に行った事のある人なら、星一つで転属になった奴の惨めさはよく判るでしよう。 転属してすぐ星が二つになったけれど、初年兵に変わりはない、徹底的にしごかれ、その場にぶっ倒れて仕舞いたいほど眠りたかった。
 3ケ月は外出も無い、そしてやっと始めての外出が許された朝、外出点呼が終っていよいよ営門を出る時召集兵のN上等兵が僕に声をかけた。
 「おい、おまえ何処に行くんだ」
 「はあー、映画を観に行きます」と僕は答えた、これは嘘ではなく、ゆっくり眠りたかったら映画館が一番だぜ、と言う古兵に教わったからだ、
 「映画?まだ始まっちゃいないぜ、いいとこへ連れてってやるからついて来い」N上等兵は中隊一の助平と言われてる奴、彼の言ういいとこが何処なのか凡そ《およそ》の見当はつく、かと言ってもしいやだなんて言おうものならどんな事になるか、僕は渋々N上等兵の後に付いて行った。彼の連れて行ったのは案の定ピーヤだったピーヤって判りますね、兵隊は慰安婦の居る家をそう呼んだ。(つゞく)
                           サラテイ

 慰安婦よし子(2) 93/09/03 12:29

 『こいつにいい子を世話してやれ』N上等兵は千代子と言う相方に言った、いやも応もない、こうなったら成行きに委《まか》せるしかない、それで僕は『ハムン出身の子が居たらその子にしてくれ』と頼んだ、
 『ハムン?』千代子は妙な顔をして奥へ行った、ハムンと言うのは僕が4才から大学に入るまで住んでいた北朝鮮の街だ、待つほどもなく千代子が女の子を連れて戻ってきた。
 その子の部屋は猫しか通れないような小さな窓がある4畳半くらいのオンドル部屋で、薄っぺらな布団が敷いてあった。雀斑《そばかす》の丸っこい顔、少し上向きの可愛いらしい鼻、泣いているような潤《うる》んだ瞳、その子はろくに僕の顔も見ないでブラウすのボタンを外し始めた、
 『チョコム カマイカラヤ(ちょっと待って)』と僕は言った、その子は脱ぎかけたブラウスを胸に抱き、蒼白になった顔を始めて僕に見せ、『タンシム ヌグヤ!(あんた 何者!)』と叫んだ、僕は女の怒りに満ちた顔を見た時、何が彼女をこんなに怒らせたか、直ぐに察した、当時日本軍に志願兵として朝鮮の若者が参加していた、彼女は僕をてっきりそんな志願兵の一人で、同胞である自分を侮辱《ぶじょく》しに来たと思ったのだ。
  『ナガラヤ!(出て行け!)』女が再び叫んだ、『待ってくれ…』僕は立ちすくんでいる女を座らせ、N上等兵に無理やり連れられて来てからのいきさつを話した、『俺は君と寝ようとは思っていない、頼むから時間までここで眠らせてくれ』半信半疑《はんしんはんぎ》で身を固くしていた女も、やっと事情を呑込んだらしく、『判ったわ、時間になったら起こして上げる』と言って部屋を出て行った。

 そんな事があってから、僕は外出すると真っ先に慰安所に行って眠った。女は店では日本名をよし子と名乗っていた、本名はキム・ヨンジャ、これを愛称で呼ぶとヨンスガァとなる。
 よし子はぼつぼつ身の上話をするようになった。幼い時に母親を亡くし、残された弟妹と、結核を病んだ呑んだくれの父親を抱え、16才のよし子が紡績会社で働く僅《わず》か30銭の日給では、この一家を支えてゆくのはとても出来ない、「満州で働けば今の5倍の賃金が貰える、支度金も15円出そう」と言う言葉に騙《だま》され、その男に犯された上慰安所に売り飛ばされた。
 それから2年身も心もずたずたになって、『それでも未だ生きている自分が恨《うら》めしい…』とよし子は哭《な》いた。僕にどんな慰めの言葉があるだろう、でもよし子は言った、『あんたと故郷の話が出来るだけでもいい…』と、僕は一度もよし子と寝てはいない、その時のよし子は僕にはまるで妹のような存在だった。   (つゞく)


 慰安婦よし子(3) 93/09/05 09:34

 僕は字が上手だと言う事で(無論他の兵隊に比べて)時々事務室のガリ版《=謄写版》書きに使役に使われた、その時もそんな使役に行っていた、ふと見ると曹長のデスクに郵便物が積んである、僕は入隊以来、僕宛の郵便物は必ず検閲を受ける事になっていた。しかも隊長室に呼ばれ、隊長の前で声を上げて読まなければならない、その上訳の判らない精神訓話を聞かされ、やっと解放される。  
 僕はそれが厭で、郵便物の中から自分宛の手紙を見つけ、そっとポケットにしまった。
 夕食の食缶あげから帰った僕に、班長が隊長室に行けと言う、厭いや》な予感がして渋々隊長室に行くと、そこには隊長と人事係曹長が居た。
  『手紙を出せ』僕は曹長にポケットの手紙を渡した、曹長の拳《こぶし》が僕の頬に飛び、僕の躯《からだ》はドアまですっ飛んだ、倒れている僕の躯を曹長の革のスリッパが襲った『その手紙を読んでみろ』 手紙は弟からのものだった、手紙の上に僕の鼻血がポタポタ落ちる、手紙の内容は、特高警察が僕の蔵書を総て押収していったと言うものだつた、「大事にしていたプドウキンもエイゼンシュタインも持って行かれた」としてあった。
  『貴様はアカか』 隊長が憎々し気に吐き出すように言って、曹長に僕を3日間の営倉に処するよう命じた。
 営倉が何か知らない人もいると思います、早く言えば留置場です。営倉入りをする時は、襟の階級章をはぎ取られ、ボタンは総て取られ、袴下の紐も切られ、朝から夜まで板張りの床に正座していなければならない。少しでも姿勢を崩すと、見張りの衛兵《=番兵》に殴られた。牡丹江の冬はマイナス30度、営倉の中に暖房などありはしない、たつた2枚の毛布でマイナス20度の寒気に堪えなければならないとても眠る事など出来はしない。
  営倉入りして2日目僕は一日早く出された、妙だなと思ったらなんのことはない通称自殺部隊と呼ばれている「海上機動第2旅団」への転属だった。
 無論僕一人ではなく、聯隊から数十人が転属になった。転属者は特別に外出を許されて街に出て行った、残されたのは僕だけ、牡丹江《=牡丹江中流に臨む工業都市》に未練はないけれど、よし子にだけは”さよなら”を言いたかった。思い余った僕は小隊長のK小尉に外出を頼みに行くと、小尉は自分の権限であっさり許可してくれた。
  僕はよし子の居る慰安所に飛んで行った、転属と聞いてよし子は声を上げて哭いた、僕はそんなよし子に言うべき言葉もなかった、特別許可の時間は僅か1時間だ、長居は出来ない、僕は”さよなら”を言って直立不動の姿勢でよし子に軍隊式の敬礼をしたね、よし子は僕の胸に縋《すが》って叫んだ、『オディエカッソト アンチュゴヨ(何処へ行っても死なないで!)。
編集者
投稿日時: 2007-3-9 9:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
雷 撃 (雨森康男)
 雷 撃 (1)  93/09/07 14:30

 満洲の旅順港を出た輸送船は一旦門司に立ち寄り、いよいよ日本を後にした、門司の山々が満開の桜に包まれていた。輸送船は普通船団を組むのだが、僕たちの船は独航船だった。護衛艦もないたった一隻の航行、敵の潜水艦にとって絶好の獲物じゃないか、僕は右舷に据えられた20ミリ機関砲の横に寝る事にした、とても奈落《ならく=地獄》のような船底で寝る気がしなかった。
 目的地が何処なのか一兵卒には知らされていないが、兵隊達の間にはシンガポールだと言う噂が流れていた。僕はてっきり船は真っすぐシンガポールに向かっていると思っていたが、どんな命令が出ているのか、舟山列島に寄ったかと思うとセレベスに寄ったり、3週間も海の上をふらついたあげく、フイリッピンのスル海を南に航行して行った。
 その夜も僕は機関砲の横で寝た、南十字星の輝く空に月が出ていた、その月が雲に隠れようとしている、僕は眠りに入る一瞬、月が雲に隠れたらヤバイな…と思ってすーっと眠ったその時、どーんと腹に響く轟音《ごうおん》が響き、船が急速に左に傾いた、ふらふらっと起き上がった僕は、次の瞬間100頓《とん》もある水柱が崩れる海水に甲板に叩き《たたき》付けられた。
 やっと起き上がった僕は、20ミリ機関砲にしがみつき、月が出てきらきら輝いている海面に向けて撃鉄《げきてつ=うちがね》を引いた、撃ち出された弾は緑色の曳光《えいこう=弾道のわかる光》を引き、海面に当たって跳弾《ちょうだん》となって空に弧を描いた。


 雷 撃(2) 93/09/08 07:22

 無論潜水艦の姿も見えず、例え見えたにしてもこんな20ミリ砲弾ではかすり傷一つ付けられない、撃ったのはただの威嚇《いかく》でしかない。
 敵の魚雷は左舷に大穴を空け、第一船倉と第二船倉が水浸しになり、船は辛うじて舳先《へさき》から一メートルを海上残し、持ち上がった船尾のスクリュウが半分水面に出て不規則な回転をしていた。
 ガックンガックンと振動させながらやっと5ノットの速度で走る船は、一回目の雷撃を加えた潜水艦にとってはおいちい獲物だ、雷撃の時に慌てて海に飛び込んだ4・5人はそのままにして、船は必死に逃げた。甲板は敵艦を環視する兵隊で埋まった、この真っ昼間果して敵は二度目の攻撃をして来るだろうか…と、ふと思った時、「魚雷だっ!」と誰かが叫んだ、確かに魚雷だ、約3000メートルの距離に白い航跡を引いた魚雷が扇を広げるような形で3本40ノット位の早さで真っ直ぐに向かって来る、船の上では逃げようが無い、あゝゝゝゝゝと言う間に魚雷は迫って来る、その時船長は取り舵一杯に90度に転回させ、魚雷《=魚形水雷の略》に向けて進んだ、船は二本目と三本目の魚雷の間をすり抜けて進んだ、ほんの一瞬の出来事だった。
 始めの雷撃の時知らせに駆けつけた駆逐艦《注》2隻が魚雷が発射された海面に爆雷を放り込むと、潜水艦が浮上してきた、駆逐艦の15センチ砲が火を噴き、潜水艦は炎上し、真っ黒な煙を上げて沈没した。


注 駆逐艦=ミサイルや魚雷・爆雷などを搭載する比較的小型の快速艦
編集者
投稿日時: 2007-3-10 8:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
ロザリーナ (雨森康男)
 ロザリーナ(1) 93/09/09 10:45

 雷撃を受けた船は、そこから一番近いフィリッピンのミンダナオ港に命からがら逃げ込んだ。僕たちの中隊は港から4・5キロ入った飛行場の近くに駐屯《=軍隊がある土地にとどまること》し、我々を迎えに来る軍艦を待った。 飛行場の周囲に駐屯している部隊からは、港の司令部まで毎日命令受領の伝令が出ていた、むろん僕の中隊からも伝令が出ていた駐屯地から港に行く道の半分が椰子《やし》林を抜ける一本道で、ここで港から帰隊する伝令がしばしばゲリラに襲われた。
 日本軍がフィリッピンを占領したと言ってもそれは海岸線からほんの2キロ位を支配しているだけで、そこから先はアメリカ軍の将校に指揮されたゲリラに押えられていた。大本営の言う「勘定作戦」とはこの事を言うのだ。
 ゲリラは当然命令文書を持った兵隊を狙《ねら》う、それも白昼堂々と襲って来る。この種の任務は大抵の場合下士官か、下士官勤務の兵長あたりと相場は決まっているのに、なぜか僕にそのお鉢が回ってきた。冗談じゃない、それでなくったっていつも割を食ってる一等兵、今度は一番危険な任務を押し付けられた。と言って反抗は出来ない、仕方なくびくびくもので命令受領に出かけた。
 行きはよいよい帰りは怖いこの道の途中に、ポツンと一軒のコーヒを飲ませる店があった、無類のコーヒー好きの僕は司令部からの帰り道に必ずこの店に寄ることにしていた。店と言ってもニッパ椰子の葉を葺《ふ》いただけの小屋で、16・7の娘が一人店番をしていた。コーヒーを注文すると、娘はテーブルにコーヒーカップをガチャンと投げ出すように置いて、カウンターの向こうから白い目で僕を見ていた。
 フィリッピン人に日本兵が嫌われているのは、ここに上陸した時から聞かされていたから、別に娘の態度にも驚きはしなかった。僕はコーヒーを飲み終ると、石川伍長から借りてきた南部式拳銃の弾倉に弾を篭《こ》め、安全装置を外して拳銃を右手に、店から駐屯地に向かった。
 それから3日ほど経ったある日、僕は初めて娘に声をかけてみた、『What’s your name?』コーヒーカップを投げ出してくるっとカウンターに歩きかけた娘が、驚いたような表情で振り返った、娘は僕に向かって立ち、しげしげと僕を見つめた、『Can you speak English?』フィリッピン人にとって日本兵は鬼である、その鬼が英語を喋《しゃべ》った、娘にとってこれは思いもかけないことなのだ。
 店には客は僕一人、娘は僕のテーブルに座って不思議なものでも見るように僕を観察していた、娘は名前をロザリーナと言った、この広大な椰子林は彼女の父親の所有で、椰子のコプラから椰子油を取る工場も経営していると言った。ローザの英語は酷《ひど》いスペイン訛《なま》りがあって参った、でもそれに慣れると会話はスムースに進んだ、要するにFをPに発音し、語尾のerをエルと言えばいい、フィリッピンはピリッピン、ヒフティはピプティ、フアーザーはパーゼルと言う具合いだ。
 それからはローザの店に寄るのが楽しみで、ゲリラの怖さもなんとなく平気になっていた。ある日例のごとくローザとお喋りをして、拳銃に弾を篭めていると、ローザが急に笑い出した、『Never minde』ローザはそう言ってまたひとしきり笑った、僕はその時やっとローザの笑いが判った、そうだったのか、僕もローザと一緒に笑いだしていた。


 ロザリーナ(2) 93/09/14 10:28

 日本軍はフィリッピンを占領したと言っても、それは海岸線からほんの2・3キロを押さえているに過ぎない、そこから先は米軍の将校に指揮されたゲリラの勢力範囲だ、大本営はこれを「勘定作戦」と呼んだ。
 僕は命令受領に出てそれまで一度もゲリラに遭遇した事は無かった、これは偶然だろうか?そこまで考えた時ローザが笑い出した理由がはっきり判った、それで僕もついローザにつられて笑ってしまった。街の人たちとゲリラはいわば表と裏お互いつうつうなのだ、日本軍の動向は市民を通じてゲリラに筒抜けと言う訳けだった。僕は拳銃をケースに戻し、ローザにウインクした、ローザも1・2度うなずいて片目をつむって見せた。
 そんな事があってからローザとは急速に仲良くなった、ローザの父親はスペイン人、母親は福建省出身の中国人、ローザは髪も瞳も黒く、一見東洋人に似ているが、貌立ち《かおだち》はヨーロッパに近かった。ロザリーナ・キュネノーラ、これが彼女のフルネームです。
 ある時ローザに映画を観に行かないかと誘われた、このザンボアンガには映画館が一軒あって、週末にだけ映画が上映されていた。映画館と言ってもローマの円形劇場をうんと小さくしたような屋根もない建物で、布を張っただけのスクリーンが風にはためいている、と言った風情の劇場で、それでも週末になると、腕を組んだカップルが三々五々集まって来た。むろん屋根が無いからマチネーなんて気の利いた興行は出来ない、上映は専ら夜だけ、一等兵の僕に夜間外出など出来っこないからそれは諦めた。
 ザンボアンガで待機すること約2ケ月、突然我々の乗る軍艦「厳島」が入港して来た。中隊の乗艦がすぐに始まった、ローザに別れを告げる暇《ひま》もない。「おい、雨森、貴様彼女に逢いたいだろう、今夜俺と一緒に来い」小隊長の須藤少尉が声をかけてくれた、彼にも別れを言う人がいる、少尉は僕を自転車の後ろに乗せて病院に走った、「貴様はこの自転車に乗って行け、一時間経ったら戻れ」僕は自転車に飛び乗ってローザの家目指してペダルを漕《こ》いだ。「何処に行くの」ローザは不安な顔で尋ねた、軍艦の行き先はむろん軍事機密だ、でも僕はニューギニアだとはつきり言った、「NO!」ローザは激しく首を振って叫んだ、「そんな所に行ったらあなたは死ぬ、私と一緒に逃げて、ゲリラの所に行けば助かるわ、逃げて!」僕は迷った、逃げれば僕は助かるだろう、でも、そのために親兄弟は「逃亡兵」の家族と言う汚名を着せられて、どんなに辛い思いをするか…、しかしこんな考え方がローザに理解出来ようはずもない、「家族が…どうして?」と首をかしげるローザに説明のしようもなく、別れを言った、ローザは僕にここの住所を書いた紙を渡し、もし生きて帰ったらきっと手紙を頂戴と言って泣いた。
 僕はたまらずに表に駆出して自転車に跨《またが》った、「MEMORI COME BACK TO ME!」
 裸足《はだし》で飛び出し、叫んでいるローザを振り切って僕は泪《なみだ》を堪えペダルを踏んだ。


編集者
投稿日時: 2007-3-11 8:05
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
地獄への道 (雨森康男)
 地獄への道(1) 93/09/15 08:16

 ザンボアンガを出港した一万トンの敷設艦厳島は真直ぐビアク島に向かった。海上機動部隊と言うのは、軍艦に乗った陸軍の事を言う。当時3っの部隊があって第一機動部隊はその時既にアッツ島で全滅、やがて第三機動部隊も中部太平洋で玉砕、残ったのが我々第二機動部隊、通称「巡」部隊と呼ばれた独立旅団です。
 我々の最初の任務は、未だ日米両軍とも占領していないビアク島の占領だった、僕たちはそこを占拠して橋頭堡《きょうとうほ=注1》を確保し、後続の友軍が到着するとまた次の作戦に向かう、最も危険な任務を背負った部隊、つまり自殺部隊の名の由来である。
 さて、ビアク島に向かったものの、我々より米軍の方が先に占領していて、ブルトーザーであっと言う間に飛行場を作った米軍は、我々を餌食にしょうと襲って来た。護衛の駆逐艦が250キロ爆弾で真二つになって轟沈《ごうちん=注2》し、我々はやっとの思いでソロン港に逃げ込んだ。
 僕らは港を見おろす丘に高射機関砲を据《す》え、ほっと一息入れた時、米軍のB25爆撃機が怒涛《どとう》のように襲って来た。超低空で港の上空に進入するB25に、僕はほとんど水平に近い射角で撃った、砲の眼鏡を覗《のぞ》いてもとても敵機を捉《とら》える事は出来ない、そうなったら概略照準で撃つしか無い両腕で抱えるほどの狭い港は、敵機の爆撃で、まるで煮え沸《た》ぎる鍋《なべ》のようになって、何隻かの輸送船が次々に沈没していった。
 それはあっと言う間の事だった、厳島はいち早く出港していて難を逃れたが我々の食料を積んだ船は海の藻屑《もくず》と消えてしまった。
 これが僕たちの飢餓《きが》の始まりだった。


 地獄への道(2) 93/09/19 07:43

 ビアク作戦に失敗し、海軍にも見放されたた我々の部隊を、急きょソロンから更に西の、陸軍の飛行場のあるサラワティ島の警備に振り向けた。
 大発船で約2時間、一人頭2袋の乾パンを渡され、我々はこの島に放り出された。
 体のいい島流しだ、陸揚げされたのは兵器・弾薬だけ、おまけにここから出て行こうにも、一隻の船さえ無い。
 サラワティ…インドネシア語の「悪魔」と名付けられた孤島はそれこそ鳥も通わぬ、花一つ咲かない死の島、パプア人の姿さえ無かった。
 我々が上陸した時、3機のゼロ戦がいた、誘導路には双発の一式戦闘機もいた、それがなんとなくあたふたと飛び去って行った直後、米軍の四発のコンソリ爆撃機が編隊で襲って来た。なんと落として行く爆弾は総て一トン爆弾だ、こいつは凄い、飛行場にはばかばかと25メートルもの大穴が空き、飛行場沿いの誘導路とジャングルは数10メートルの炎に包まれた。
 飛行場は何の遮蔽《しゃへい=さえぎる役目をする》物もない、上からは丸見えだ、敵機の高度5000メートル、我々の20ミリ機関砲の有効射程距離は2500メートル、はなっから勝負にならない、僕は砲から離れて交通壕に伏せて目と耳を押え、襲撃の終わるのを待った。
 我々の守るべき飛行場は穴だらけのただの砂っ原にすぎない、穴を埋めるブルトーザー一つ無い我々はただの島流しの集団になってしまったのだ。
 大本営のなんと愚かな用兵よ、結果的に4000の墓場を作った事になった。
 敵は我々の姿がある限りしつこく襲って来るだろう、旅団長は高射砲と高射機関砲隊の陣地を残し、全部隊にジャングルへの退去を命じた。いよいよ地獄の三丁目への旅立ちである。

注1 橋頭堡=上陸地点を確保し、その後の作戦の足場とする
注2 轟沈=爆撃などを受けて瞬時に沈没すること
        
編集者
投稿日時: 2007-3-12 8:30
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
死神 (雨森康男)
 死神(1) 93/09/21 16:48

 僕たちがジャングルに入る頃島は雨期に入った、霧のような雨がジャングルを包み、しとしとと降り続いた。湿地からやや高い場所に木を切り出して小屋を建てる、屋根は木の葉で葺《ふ》き、高床には木の枝を並べ毛布を敷き、そこに寝た。
 ジャングルに入ると同時に兵隊達はマラリアに冒されていった、40度の高熱が続き、熱が去ると猛烈な寒気に襲われる、かてて加えて飢餓で弱った体は抵抗力もないままにばたばたと死んでいった。
 風土病《=その地方特有の病気》はマラリアだけではない、慢性のアメーバー赤痢、南方潰瘍《かいよう》、兵隊達が言う黒水病、これは強烈な黄疸《おうだん》病で、白眼の部分や排泄《はいせつ》物が真茶色になり、脳神経を冒され、罹病《りびょう=病気にかかる》して一週間と持たずに気が狂って死ぬ。次がこれも病名の判らない奇妙な病い、先ず摂取した水分が全く排泄しなくなり、汗さえ止まってしまう、水分が出ないから体全体がむくみ、横になって寝ると水分が胸に上がって呼吸が苦しいから、皆上半身を起こした格好で寝る、すると今度は水が下半身に溜《たま》り、キンタマがまるで風船のように膨らむ。南方潰瘍は始め小さなできものが化膿《かのう》し、崩れた傷口が次第に広がってゆく出来る場所は足のすね、しまいには骨が見えるような穴が開く、今度はそこへツエツエ蝿《はい》がやって来て卵を生みつける、やがて蛆《うじ》が傷口を這い回る、その痛いことったらない。
 宿舎の中はそんな病人がまるで腐った魚を並べたように横になっている。死人が出ても埋葬も出来ない、3日もすると死体は鼻や耳から糸のような血が流れ、腐臭があたりを漂う。「健康者集まれ」の命令が出る、健康者と言ってもどうやら自分の体だけは動かせる者だ、いよいよ埋葬だ、吐瀉《としゃ=吐くことと下痢をすること》物と排泄物と膿だらけの毛布に死体諸ともくるんで4・5人がかりで湿地を引きずって行く。埋葬する場所に来ると穴を掘る、4・50センチも掘ると水が湧き出る、そこへ死体を横にして泥のような土を掛ける、やっと埋葬が終わってほっとする間もなく、今埋葬したばかりの上に仲間の一人がばったり仆れる《たおれる》、「もう一つ穴を掘れ」。


 死神(2)石川伍長の死  93/09/22 14:03

 こんな状況の中でも米軍機は定期的にやって来て、爆弾を落し30分間機銃掃射をしては帰って行った。もしその時機関砲の応戦する音がしないと、すぐに旅団長から「機関砲隊は何をしている」と文句が出た。僕たちは仕方なくきっかり9時にやって来るP40様をお迎えに、飛行場の誘導路近くに設営された陣地に出て行った。
 情けない事に、我が中隊長は腹が痛いのケツが痛いのと言って、決して一緒には来なかった、指揮するのは第三小隊長の須藤少尉、その後に続くのが本間伍長と石川伍長、それに僕の総勢たったの4名。
 20ミリ高射機関砲(海軍では50ミリ以下は砲とは言わない)は6人で操作する、中隊は3門の機関砲があるから、本来なら18人の人員が必要なのに、1門を一人で操作しなければならない。
 僕はジャングルの梢すれすれに襲撃して来るP40に照準器無しで射ちまくった、20発入りの弾倉はすぐに射ち尽くしてしまう、照準器を操作する者も、弾倉交換をする者もいない、僕は20発を射ってしまうと砲から離れ、交通壕に隠れた。機関砲を射つのは、P40を落とすと言うより、旅団長を満足させるためにやってるようなもの、例えここでP40の1機を落したからって命を賭けるほどの事もない。
 石川伍長の砲はまだ射っている、やがてその音も聞こえなくなった、30分、P40が飛び去って行くと、須藤少尉が点呼の名を呼ぶ、しかし石川伍長の返事が無い、僕は不吉な予感がして20メートル離れた石川伍長の所に走った。
 石川伍長は砲座の下に斜め横になり倒れていた、顔には団扇《うちわ》ほどもある木の葉がかぶさっている、木の葉を取ってみると、顔に僅かばかりの血が飛んでおり、顔はまるで眠っているように穏やかな表情だった。何処をやられたのだろうと頭を持ち上げてみると、後頭部に拳《こぶし》大の穴が開き、鉄帽に白い脳味噌が流れ出ていた即死である。他の2人も駆けつけてきた、手の施しようもない、僕は脳の入った鉄帽を持って近くを流れる小川で洗った、鉄帽を離れた脳は、川の中間を浮くでもなく沈むでもなく、ふわふわと流れて行った。僕はそれをぼんやり見送りながら、「脳って…比重は水と同じなんだなー」と、まるで関係のない事を考えてた。
 石川伍長、この人は忘れられない人だ、僕は彼が部下を殴《なぐ》って居るところを一度も見たことがない、思いやりがあり、それでいて勇気があり、無口で行動力がある男だった。フィリッピンで命令受領に行く僕に、拳銃を貸してくれたのも彼だった。後にも先にも戦死したのは石川伍長ただ一人だ。


 死神(3) 93/09/24 08:37

 僕たちの中隊は7人を残して全滅した。どうした事かお客さん(P40)もぱったり来なくなった、そんなある日久し振りに飛行機の爆音がした、すわ敵襲と緊張したが、敵さんはビラを撒《ま》いて飛び去って行った。ビラには天皇の名において戦争は終わった、日本軍はジャングルを出て速やかに降伏せよ、としてあった。
 中隊長は、これは米軍の謀略《=あざむくはかりごと》だ、と言ってビラを破り捨てた、旅団司令部との電話線も断線していて確認の方法も無い。雨期が終わったのか晴れる日が多くなった或日、隊長は監視要員として僕一人を残し、他の5人を連れてジャングルを出て海岸へ行ってしまった。
 宿舎には戦病死した者の兵器や衣類が残っている、泥棒などいるはずもないジャングルに監視要員など必要もない、その時殆ど歩くことも出来ない僕を連れて行こうなんて誰も考えていなかったのだ。
 ましてただの兵卒は僕一人後は将校と下士官、僕を背負ってまで連れて行こうなんて思った者は一人もいなくて当り前、要するにほって置けば死ぬ、それで解決なのだ。
 僕は相変わらずマラリアと慢性アメーバー赤痢と潰瘍、そして飢餓《きが》の世界に呻ぎん《しんぎん=苦しみうごめく》していた。高熱と衰弱で意識すら定かではなかった、その内にしばしば幻覚を見るようになった、音一つないジャングルの暗黒に、死神がじっと僕を見つめている、髑髏《されこうべ》の姿に黒いマント、手には大きな草刈鎌《くさかりがま》を持っている、確かに物語の中に出て来る死神だ。
 もし本当に死神がいるのなら、そんな姿である筈はない、これは俺の幻覚だとは思いながら、それでも僕は恐怖に肌が粟《あわ》立った。


 死神(4) 93/09/27 11:25

 このままジャングルに居たら死ぬのは時間の問題だ、そう思った僕は歩行の訓練から始めた。先ず木を切って松葉杖を作った、それを左の脇の下に挟《はさ》んだ時、僕は激しい痛みに思わず悲鳴を上げた、左上はく部の弾傷が激痛に襲われたのだ。
 高射機関砲は砲座に座り、右手で撃鉄を握り、左手で砲身を上下する転把を操作する、P40を射っているとき、やけに転把を握った手がぬるぬるする、汗だと思ってひょいっと見ると、なんと左の腕が血だらけになっている。何時やられたのか全然気付かなかった、左上はくの肉がえぐられている、針一本刺しても痛いのに、しびれはあつても痛みは感じなかった。その傷はいつまでも治らない、やがて化膿し撃たれた時の何倍かの痛みと発熱に苦しんだ。
 僕は歩行訓練を兼ねて食料を捜した、口に入りそうな物ならなんでも食べた、木の芽草の根、それさえ口に出来ない時は革のベルトをくちゃくちゃと噛《か》んだ。
 夜の訪れは恐ろしい、漆黒の闇《しっこくのやみ=漆をぬったように真っ黒な闇》なのに死神の姿ははっきり見えるのだ。一晩一晩死神と僕の距離が狭まってくる。
 ある朝目覚めると眼の前に死神が立って僕をじっと見つめている、僕は恐怖に声も上げられない、全身が震え、一瞬死を覚悟した。
 「死ぬのが怖いか」死神がそう言ったように聞こえた、僕は答えも出来ずに死神を睨《にら》んでいた、
 「人間誰でも死ぬ、お前もな、ふゝゝゝゝ」
 「俺は今死にたくない」僕は蚊の鳴くような声で答えた、
 「それじゃあ明日か?それとも明後日か? 百年後かふゝゝゝゝ」
 死神の姿がフッと消えた、でもあの不気味な嗤い《わらい=あざけり笑うこと》だけは何時までも耳に残った。

 死神(5) 93/09/28 08:23

 誰も話す相手もいない沈黙、幾日も幾日も風の音すら無い長い長い沈黙、耳を澄ましても耳鳴りの音しか聞こえない沈黙、今にも気の狂いだしそうな沈黙の世界、その恐怖にたまらず僕は独り言を暗闇に投げる、しかし木霊《こだま》さえ返って来ない。
 僕はいつか死神の来るのを心待ちするようになった。僕は死神と会話をする事でいくらかでも心が慰められていたのだ。死の使者を僕はどんなに待ち望んだか、「はゝゝゝゝ」
 僕の告白を聞いて死神はしゃれこうべの歯をカチカチ鳴らして嗤った、「俺の来るのを待っている奴が居たとはな、俺は死の使者で人殺しではない、お前が死にたくて俺を待っているのならお門違いだ」
 「ではなぜ僕の所にやって来るんだ」
 「なぜかって?おいおいここは俺の島だ、そこへのこのこやって来たのはお前たちの方だ、馬鹿な戦争で迷惑したのは俺だぜ、文句があるならとっとと島から出て行ってもらおうか」
 確かに招かざる客は僕たちの方だ、僕だってとっととこの島からおさらばしたい、マラリアの高熱が出ると僕は幻覚を見、聞こえない声を聞いた、高熱が続き遂に発狂して死んだ本間伍長の惨めな最後をふっと思い出す。自分の排泄物を両手でかき混ぜ、それを顔に塗りたくってげらげら笑い、終いには真っ茶色のものを吐いて、泡を吹いて息を引き取っていった。
 僕は潰瘍の傷口に這回るツエツエ蝿の蛆をつまんで取りながら、暗さを増して来るジャングルの闇に眼を向け、死神を待った。


 死神(6) 93/09/30 23:12

 マラリアの発作が起きると40度の高熱が続き、それが治まると今度は猛烈な悪寒《おかん》に襲われる。頭は錯乱《さくらん》状態になり、夜なのか昼なのか、何日経ったのか、生きているのか、死んでいるの幻聴と幻覚を繰り返す内に、心は発狂寸前まで追い詰められる。
 なんとか生き残るにはジャングルから出なければならない、僕は手作りの松葉杖を頼りに再び歩行の練習を始めた。そして夜が訪れると死神もやって来た、『お前は何を信じて生きている』と憎々し気に言う、『俺が何を信じようと信じまいと大きなお世話だ、俺は貴様以外なら何でも信じてやる、例え悪魔だろうな』、死神はふゝゝゝゝゝと低く嗤う、『お前は愚か者だ、死ぐらい確実なものがあるか、お前の信じているものは総て幻さ、形あるものは滅《ほろ》ぶ、肉体も滅ぶ、その肉体に寄生しているものも、その肉体の醸し出す想念もみんな幻よ、神さえもな』『それじゃあ貴様も幻じゃあないか』
 『はゝゝゝゝ、やっと判ったようだな、むろん幻よ、貴様の想念が産んだ幻よ、貴様は自分の創り出した幻を見ているのさ』
死神はそう言い残してふっと消えた。
 確かにその頃の僕は人間の善意も、愛も、理想も、泪も信じていた。それを信じなくて人間は何を信じ生きてゆくのだ…と思い込んでいた。
 今それが僕の中で音を立てて崩れてゆく、僕は眼の前が真っ暗になり、なぜか泪が後から後から流れていった。しかし価値観の180度の転換はむしろ爽《さわ》やかでさえあった、泪が出尽くしたその夜、僕は珍しくぐっすり眠った。
 僕はその時始めて学生時代にはどうしても理解出来なかったニーチェの『善とは人間にとって一種の精神的病(やまい)である』と言う意味を理解することが出来た。
編集者
投稿日時: 2007-3-13 8:22
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
さらばジャングル (雨森康男)
 さらばジャングル(1) 93/10/05 09:42

 死神が僕を迎えに来たのではないと判って、元気の出た僕は再び歩行練習を始めた。
 そんなある日突然海岸に出て行った松岡軍曹がやって来た、「生きていたのか…」 軍曹はまじまじと僕を見て驚いた表情で言った、生きていたのかとはご挨拶だ、軍曹は中隊長に命じられて僕の生死を確かめに来たのだ「どうだ、歩けるか」、僕は歩けますと答えてチラッと軍曹の腰に吊《つる》してあるピストルを見た、もし僕が歩けるような状態でなかったら、僕を射殺してジャングルに埋め、「奴は死んでいました」と報告すればいい、或は隊長にそう命令されてきたのかも知れない。  
 歩行練習をしていて本当に良かったと思った。
 僕たちの中隊長はそんな男だった。衛生兵の持っている薬品は総て隊長の管理下に置き、兵隊がどんなに苦しんでいても、絶対に薬も注射も与えなかった、戦闘になると指揮は須藤少尉に任せ、自分は病気と言って寝ていた。隊長と須藤少尉はひどく折り合いが合わなかった、自然ザンボアンガ以来須藤少尉と仲のいい僕は隊長に嫌われていた、須藤少尉の死んでしまったいま僕の味方は誰もいない。
 僕は松岡軍曹の後についてジャングルを海岸に向かった、雨は降っていないが雨合羽《かっぱ》を頭から被《かぶ》った、雨は降らなくてもヒルが降ってくる、ジャングルのヒルは凄い、シャツの上からでも血を吸いにくる、血を吸うだけ吸うと親指ほどの太さになる、そしてその傷口から潰瘍になるのだ。ヒルは30センチくらいなら体をバネにして飛びついてくる、体中ヒルに取り付かれありったけの血を吸われる。
 僕たちはやっとの思いでジャングルを抜け出た。


 さらばジャングル(2) 93/10/09 10:21

 ジャングルの湿地を抜けた僕の足が乾いた砂を捉えた、振り返る僕の眼にジャングルの昏《くら》い道がぽっかり口を開けているのが見える、そこにはもう死神の姿は無い、「死神さんサヨナラ、戦友たちよサヨナラ」、僕は心にそう呟《つぶや》いて先を行く軍曹の後を追った。
 戦争は終わっていた、その頃ここはオランダの植民地だったので、オランダ兵(インドネシア人の下士官)がやって来て武装解除をし、監視兵も置かずにさっさと引き上げて行った。
 視兵を置かなくても島全体が捕虜収容所みたいなもの、海の孤島からは翼でもない限り逃げようが無い。それにオランダはドイツに侵略され、亡命政府がロンドンにある謂《いわば敗戦国の状態、とても捕虜を養うだけの力は無かった。
 彼らは食料は自給自足せよと言って、狩猟のための小銃3挺とさつま芋の苗を残して引き上げて行った。
 海岸には太陽が燦々《さんさん》と輝き、海には魚が跳《は》ね、襲って来る飛行機も飢餓も死神も無かった。軍用の綿の靴下をほどいた糸で網を作り魚を捕り、畑を耕してさつま芋の苗を植え、マングロープの木に登って泳いでいるボラの鼻先に弾をぶち込んで、ひっくり返ったボラを捕まえる、ドラム缶を縦に切ってその中に海水を入れマングロープの枝を燃やして塩を採取した。
 まるでロビンソンクルーソのような毎日が続いた。戦争に負けて日本軍も解体され、当然僕たちを規制する階級もなくなっているはずなのに、オランダは捕虜《ほりょ》の掌握を容易にするために、復員船に乗船するまでは階級を温存する事を命じた。
 その時点で僕はやはり一等兵であり隊長は相変わらず僕を指揮する命令者に変わりはなかった。
 こんな奇妙なロビンソンクルーソの前にフライデーよろしく現地のパプア人が時々現れた、僕たちは彼らの全身にはびこっている疥癬《かいせん=伝染性の皮膚病》に薬を塗ってやった、薬と言っても何もないから、固形インクを水に溶かして塗る、不思議とこれが利くんですね、彼らは喜んで、薬のお礼だと言って魚を持ってきてくれた、なんとその中にジュゴン(人魚)の肉まであるのには驚いた。


 さらばジャングル(3) 93/10/12 05:41

 ある日パプアの人がジュゴン漁に連れて行ってくれた、ジュゴンを見つけると、カヌー5隻で遠巻にし、櫂《かい》で水面を叩き大声でジュゴンを海岸に追い込んで捕まえるのだ、僕は殺すところではとても見ておれなくて、鼈甲《べっこう》の肉だけをもらって帰った、ところがなんとこの鼈甲の肉たるや固くて煮ても焼いても食べられない、彼らはなんのまじないか知らないが、肉と一番上等な甲羅を取り、後はそっくり海岸の木の枝に吊した。
 この島はサゴ椰子の原産地、ウエブスター百科辞典にも出ている、だからサゴ澱粉《でんぷん》は豊富にある。僕たちはカヌーで川を遡《さかのぼ》り澱粉を採取に行く、湿地の中に聳《そび》えている椰子は、地上から1メートルの高さまで20センチもある刺《とげ》がびっしり生えている、この刺をうっかり踏もうものなら靴底まで貫く。斧で伐り倒し表面の硬い皮を剥《は》ぐと、中はポコポコした澱粉が一杯詰まっている、それを斧の頭で細かく叩いて川の水で漉《こ》すと立派な澱粉が採れる、それを椰子の葉で作った筒に入れて作業は終わる、この澱粉でうどんやパンを作って食べる。
 伐り倒したサゴ椰子の木に20日ばかり経って見に行くと、皮を剥《は》いでない中にサゴ虫の幼虫が這回っている、この親指ほどもある虫こそ第一のご馳走、生きたまま口に入れて食べる、皮は相当ひきが強いけれど、それを噛み破ると中からバターを溶かしたようなどろっとした液が流れ出る、その美味しいこと、これが一番の贅沢《ぜいたく》だった。
 そうこうしている内にいよいよ復員船の来るソロンへ行く時が来た。迎えの発動機船に乗り島を離れる時、僕はどうしても後ろを振り返る事が出来なかった戦友たちの一人一人の顔が浮かび、僕はボロボロ泪《なみだ》を流し心で詫《わ》びた。

                           サラテイ

編集者
投稿日時: 2007-3-14 9:08
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
消えた軍隊 (雨森康男)
 消えた軍隊 93/10/13 09:39

 ”悪魔の島”サラワティ島から脱出した部隊は2年振りにソロンに戻って来た、ここで復員船を待つのだ。
 僕はかって機関砲の陣地だった丘に登り、遥《はる》か北の空を見た。あの懐かしい北斗星が、水平線すれすれにまるで海水を汲むように輝やき、びっしり空を埋めた星々が燦《きら》めく、その中に一際美しい南十字星が僕を見下ろしている。
 なんと言う平和、なんと言う静けさ、僕はこの平和な星の許に瞑《ねむ》る多くの戦友を思い、泪が後から後から流れ出た。
 そんなある日、東のジャングルから突然まるで幽鬼《ゆうき=幽霊》のような兵士が3人ふらふらと現れた。
 今から僕が書くのは、ソロンの北東のマヌカリからここを目指して道なき道を
辿《たど》って来た彼らの物語を、彼らに代わって書きます、なぜか…この3人の内2人は到着して3日目に死に、残る1人は復員船に乗ってから瞑目《めいもく=安らかに死亡》した。もう彼らの壮絶《そうぜつ=きわめて勇ましく激しい》な「死の行軍」を語る者は一人もいないのです。
 マヌカリからソロンへは、3000メートルのクォーカ山を挟んで直線で約250キロ、当然山越えは出来ないから迂回《うかい》しなければならない。そうすると実距離は400キロ近い、なぜマヌカリからソロンを目指したか、それは西イリアン地区の日本軍は、復員船の来るソロンに来なければ帰国出来ないからです。
 彼らの部隊は命令の不徹底さから、完全軍装でマヌカリから行軍を開始した。なんと言う無謀、密林の道なき道を400キロ、完全軍装で踏破しようとは…これはもう自殺行為としか言い様が無い。それに兵隊達は飢餓と疫病《=悪性の伝染病》で衰弱しきっている、行軍を開始したとたんに3000人の兵士はばたばたと殪《たお》れていった。
 「歩いていると兵隊が倒れているんです、そいつを跨《また》いで行こうにも軍装が重くて跨げないんです、仕方が無いから死体の手前で一つ一つ軍装を解いて向こう側に運び、今度はまた一つ一つ身に付けて歩きます、暫く行くとまた死体です、手の届く限り草一本無く、口の回りを泥だらけにして死んでいるんです、倒れても即死した訳ではないから、泥まで食って生きていたんです。
 そこでまた軍装を解いて向こう側に運び、やっと死体を跨いで行くのです。わき道に回ってもいようなものですが、もうジャングルを伐り開いて行く体力もないし、下手に横道に入ろうものなら、何億年もの間に出来た腐葉土《ふようど》の底無し沼に呑まれてしまうのがおちです。
 そんなことで先頭と最後尾では一週間の行程の違いがありました、360キロに3000人の死体、120メートルに一人の計算ですね」その兵隊の内2人は復員船に乗ることもなく死に、あとの一人は復員船の中で日本を目前にして死んで行った、こうして一ケ連隊が消えた。

  サラテイ
編集者
投稿日時: 2007-3-15 8:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
帰還 (雨森康男)
 帰還(1)93/10/15 14:36

 昭和21年5月18日待ちに待った復員船がやって来た。乗船が始まると、オランダ軍の身体検査と所持品が調べられる、書類に類する物は小さな手帳でも取り上げられた。
 僕が陸軍の通信用紙に克明に記録した日記も無論没収された、今もあの記録があったらと残念に思う。そればかりではない、彼らは兵隊達の持っている時計から万年筆まで奪った、将校達は腕に5ッも6ッも時計を巻いている、要するにこれは戦利品の積もりなのだ、それでも僕達はとにかく生きて帰れるだけ幸せだった。
 全員が乗船すると船はすぐに出港した、僕は甲板の手摺《てすり》にもたれ次第に遠ざかって行くニューギニア大陸に心の中で「さよなら」を言いながら、ボロボロと泪を流していた。
 「諸君!君達が戦争に負けたお陰で、日本は今たいへんな食料難である、従ってこの船にも充分な食料が無い、食事は朝と夜の2回乾パンを支給する」。
 船長の宣言通り、一回の食事は乾パン5・6粒と塩水のようなスープ、それだけだった、それでも僕達は我慢した、「君達が戦争に負けたお陰で」と言われれば返す言葉も無い、生きて帰れる…食事に文句を言う筋合いでは無い、みんなそう思ってじっと耐えた。
 日本に後3・4日となった頃からあちこちで私刑が始まった、復員船に乗るまで統制のために維持されていた旧軍隊の階級も、乗船すると襟の階級章が外され、ここに一切の身分上の差別がなくなった。
 階級を笠にやりたい放題をやってきた将校、下士官達に兵隊の復讐が始まったのだ、あれほどそっくり返って威張っていた上官達は、土下座をして涙を流して謝っていた。
船員に聞こえないように低いそしてドスの利いた怒声が響き、肉を打つビシッビシッと言う音が聞こえる。
 「君達は何をしている、すぐに止め給え、日本人の恥だぞ」船のサーチライトがリンチの場所を照らし出し、船長のマイクの声が飛んだ、僕は「日本人の恥だ」と言った船長の言葉を、日本の港に入った時、そのまま船長に叩き付けてやりたい出来事が待っていた。


 帰還(2) 93/10/16 13:59

 昭和21年5月27日、復員船は9日間の航海を終えて名古屋港に入港した。下船は28日と言うことで、その夜は船中泊だ。何もすることもなく、僕達が甲板に出て港の明りを懐かしく見ていた時、数隻の艀《はしけ》が本船に横付けになり、本船から何やら荷物を下ろしている、時間はもう真夜中、こんな時間に仲士が仕事をする筈も無い、何か犯罪の匂いがする。兵隊達はその時やつと艀に下ろしているのが大量の食料だと気付いた。
 船員達は僕達に1日12・3粒の乾パンを与え、余剰の食料を横流しして莫大《ばくだい》な利益を上げていたのだ。
 「日本人の恥だ!」と偉そうに怒鳴っていた船長も当然グルだ、「お前達が戦争に負けて日本人は食べる物もなくて困っている」と船長は言った。僕は腹が立つより情けなく、暗闇に消えて行く艀を見送っていた。
 下船すると僕達に靴下一足分の米と缶詰2ケ、それに未払いの給与300円と故郷までの汽車のキップが渡され放り出された。
 後で聞いた話だと、復員兵には新品の軍服と靴、それに毛布が支給されたと言う、むろん僕はそんな物は全く貰《もら》ってはいない、これも担当者が僕達が知らないのを良いことに横流ししたのだ。 
僕はボロボロになった軍服に、底革がパックリ口を開けた靴を履いて東京行きの復員列車に乗った。
 各駅停車の復員列車はやっと品川に着いた、僕はここで下車して山手線で恵比寿《えびす》駅に降りた、駅の周辺はことごとく焼野原、不思議なもので、こうなるといったい自分の住んでいたのが何処なのか見当もつかない。どうやら捜し当てた家は、石の門を残して完全に焼け落ちていた。
 僕には日本に故郷は無い、行くべき当ても無い、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる僕にだれ一人振り向く者もいない。僕はトボトボと歩き始めた、「お前は何処へ行く?」。僕のアウトサイダー人生がその時始まった。

                           サラテイ
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