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     戦争の思い出をのこす (LIPTONE) <一部英訳あり>
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編集者
投稿日時: 2007-3-4 20:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
戦争の思い出をのこす (LIPTONE) <一部英訳あり>
 
 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、ご遺族のご了承を得て転載しております。

 ・タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。

編集者
投稿日時: 2007-3-16 15:26
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『奇遇』 (LIPTONE)
 『奇遇』 93/08/11 13:13

 『奇遇』 93/08/11 13:13

 『困った時にはバタビアの「海軍武官府」と連絡すればよい』とだめ押しの言葉を後に、私の双発機《=2個のエンジンを持つ飛行機》はセレベス島マカッサル空港を飛び立った。 
 昭和20《=1945》年8月初旬の朝9時、ジャワ島スラバヤ空港へ向けて約2時間を超低空で出発した。

 『窓側座席の者は、対敵監視を! 眼鏡所有者は窓がわの監視員にメガネを貸すこと。いかなる機影も見逃すな! 以上 機長』

 19年暮れまでに入港する筈《はず》の御用船2便とも、途中撃沈されたので現地では各種の品不足が生じ、このままでは日常業務の遂行が困難になってきた。 
 不足を告げる品物は、主として通信機器の部品で真空管、トランス、継電器の他多種多様の特殊部品だ。我々は19年12月8日の現地マカッサルに於《お》ける第1回大詔奉載日《たいしょうほうたいび=宣戦布告の詔書発行日》には、現地調達《げんちちょうたつ=その地で品物を整える》したラジオ受信機の部品を使って製作したAアンプ《増幅器》やBアンプを用いて、日本本土(NHK)と交歓放送に成功したが、それでも20年4月には市中に点在する有線式ラジオ放送塔の保守も侭《まま》ならぬ様になって来た。 
 海軍宣撫班《せんぶはん=住民の人心を安定させる任務の班》では、(日本軍が)占領している地域の原住民の人心安定のためには万難を排しても良質の有線ラジオ放送を続ける様に我々に圧力を掛けて来た。

 民政府通信課を通して、海軍の通信課と機関課を説得した結果スラバヤの101海軍根拠地へむかう軍用機に便乗出来る事になり台湾銀行マカッサル支店から、手の切れる様な新品軍票《ぐんぴょう=軍が通貨の代用として使用する手形》をトランク一杯に詰め込んでジャワ島へ買い出しに出張する事になったので有る。

 途中敵機との遭遇もなく、午前10時40分にはスラバヤ空港に無事着陸。 
 早速ティガ・ロダ(三輪車)でコタ(市街)に入りホテル・シンパンに宿をとる。昭和12~13《=1937-38》年当時私がスラバヤに居た時から知り合いの、中国系商人で不動産屋をしている店を訪ねて行った。私の父が可愛がっていた「チゥエン」さんが出て来て険《け》わしい顔つきで暫らく私を観察し、ホッとした顔に直おって握手した。 
 太平洋戦争《=第2次世界大戦のうち東南アジア・太平洋方面での戦争》が起こって《1941年》から、暫らくは、本国へ引き揚げるオランダ人の土地や家の物件が沢山あって、店は忙しかったが、今はジャワ本土全部の不動産が日本軍に押さえられて仕事が無くなり困っている・・・ことを知った。

 緊急度に応じて分類された買付け物件のリストを示し、協力を求めた。コミッション《手数料》は買い取り価格の8%支払いは軍票でCODと決定した。 
 ただし、入手の難しい自動車は50%になった。
 バタビア(今のジャカルタ)での買付けは、チゥエンの親戚《しんせき》が荒物《あらもの=雑貨》屋をやっているが、同じコミッションで喜んで協力できる事を知った。この親戚は、バタビアとバンドンに店を持っており、チゥエンよりも活発に仕事をしている様子であった。 
 バンドンの店には数少ないアマチュア無線のハム《=通信する人》をやっている男が居て、非常に役にたった。

 チゥエンの息子の提案で、私の好きな中華料理を食べに行く事になり、到着第一夜はホテル外で食事をすることになった。
 接待料理はマカッサルでは味わえぬ美味しさだった。

 タンバ・バヤン通りの中国人が経営する料理店には手書きの日本語のメニューがあるが値段が書き入れて無い。支払いはチゥエンがするので気に留めて居なかったがチゥエンの話しに依ると、ほぼ10日置きに値上げをせざるを得ないので、値段をブランクにしてある・・・とのこと。 
 急加速度のインフレーションに見舞われているのだった。 
 食事は素晴らしいものだった。 腹一杯になってティガ・ロダにのってホテルへ戻った。
 名前は忘れてしまったが、現地陸軍の安酒を飲んだ。
 冷水のシャワーを浴びて持参した浴衣《ゆかた》に着替え、ベッドに倒れ込んだ時は真夜中を過ぎていた。

 最優先調達物品については、チゥエンに下駄を預けた《げたをあずけた=すべての処理をを相手に頼んだ》ので安心して、ゆっくり寝ていたが、ふと思い出して101根拠地の松尾大尉と連絡する事にした。

 まばゅい朝だ。 洗面を済ませると朝食も取らずに波止場の方へ行った。  
 タンジョン・ペラ(銀の波止場)一帯は日本海軍の根拠地になっていて、松尾大尉は水雷戦隊副隊長としてタンジョン・イタム(黒い波止場)の蓄電池工廠《こうしょう=工場》の事務室にいた。
 彼は逓信省《=郵政省の前身》の技官《ぎかん=技師》から召集を受けて戦地に来た方で、今回の私の任務を側面から援助してくれる事になっている。

 スラバヤ市東端の此の工廠では海軍の兵士は勿論《もちろん》、軍属《ぐんぞく=軍に所属する軍人でない文官や技官等》や多くの現地住民を使って内火艇《ないかてい=シリンダー内で燃焼したエネルギーによって走る小型の船》の発動機や発電機の修理や整備をしているのだった。既に102根拠地から彼の属する101根拠地に連絡があり、私の訪問を待ち受けていたのだった。
 松尾大尉と私のコンビですることは、かって連戦連勝の陸軍がジャワ島を西から東へ進駐《しんちゅう=進軍した地に留まる》(その後ニューギニア?へ転戦)した時、彼等が発見し、接収《=強制的に受け収める》・封鎖した数多くの敵財産の中に、多くの自動車があり、「<何々部隊長>の許可無くして現状の変更を禁ず」とか、「……移動厳禁」などと貼紙された車を、こっそり海軍地区の(タンジョン・ペラ)へ持ち去り、機を見て、何かの便でセレベス島のマカッサル市に運び込む事が、二人に課せられた任務である。

 私はその他にも各種資材の入手をしなければならなかったが、松尾大尉と一緒にする仕事は、言い替えると「カー泥棒」そのもので、圧倒的に人数の多い陸軍さんの占領地区での車泥棒は大変困難なのである。余程旨くやらないと直ぐ「陸さん《=陸軍》」の目に止まってしまう。
 軍人や軍属でない私が、「…厳禁」の貼紙《はりがみ》を無視して憲兵《けんぺい=軍事警察の兵》に逮捕されたら、殺されなくても「かたわ」にされてしまうであろう。

 スラバヤ動物園に近いダルモ住宅街からダルモ・カリ(ダルモ川)にかけてオランダ人の高級住宅があり、その北側の丘陵斜面に日本が造営した対戦国人の収容所がある。 
 松尾大尉が派遣した調査員の報告によると、ダルモには、直ぐ道路に面した車庫に入ったままの車が4~5台あるとのこと。
 車庫の扉は十文字に打ち付けた封印のつもりの板材に、日本語で「禁移動」と書かれているものや扉の無い開けっ放しの車庫に、「○○部隊接収品」と書いた紙片が張り付けられた車もある。目視による判定では、すべて状態は良好らしい。 
 しかし長期間放置されているので、タイヤ・チューブ、バッテリー、オイル、ガソリン、冷却水を用意しなければならぬ。
 車種とその年度別に、取り替え用品を揃えるのに3日間かかり切りだった。車の部品関係で、チゥエンの応援も求めた。
  
 大がかりな車泥棒の準備をする舞台裏は転手こ舞い《てんてこまい》なのだ。

 錨《いかり》マーク付き1桁《けた》番号のナンバープレートと将校旗も用意した。 
 チゥエンはスラバヤ市からマラン市にかけて点在する自動車の修理工場を回って、取り替え用のスパーク・プラッグや交換ランプなどを集めてくれた。

 車泥棒の日が来た。 
 青色三角旗(尉官のマーク)を付けた松尾大尉の乗用車を先頭に、人員輸送の為の乗用車2台、海軍工作車1台合計4台の泥棒の一団が夕暮れのスラバヤ市内をタンジョン・ペラからダルモの高級住宅街に向かって出発した。

 大尉の車に同乗した私は、万一憲兵に捕まった時の言葉を考えながら、緊張のため足がガタガタしていた。

 偵察員が目星を付けた家の前に4台の車を打ち合わせ通りに、少しづつ重複させ道路に添って一直線にとめて、通行人からは家側では何が始まっているのか分からぬ様に努めた。

 もし陸軍の連中が覗《のぞ》き見したら・・・もし憲兵が来たら・・・

 気の小さい私には命が縮まる思いの1時間が過ぎた頃、調子の良いエンジンの音が車庫から聞こえてきた。次ぎに短く鋭い警報機の大きな音がした。音が大きいのでハッとした時蘇《よみがえ》った車はヘッドライトをパッと点灯して車庫から静かに出てきた。

 なんと、「錨マーク」の2号車のピカピカのプレートが付いて、車の前には佐官級を示す「赤三角旗」がちゃ~んと翻《ひるがえ》って居る。

 2号車を先頭に松尾大尉の車がしんがりで全車フルスピードで皓煌《こうこう》とライトをつけてタンジョン・ペラまで戻ってきた。 
 ここは陸軍でも勝手に立ち入り出来ない「治外法権」地区なのだ。
 やっと安心して、参加した将兵一同と共にビールで乾杯した。

 更に3台の車を手に入れなければならない。おなじダルモ地区から陸軍が差し押さえた車を戴《いただ》く事にした。 
 この暴挙を遂行したのはその翌日の夕方であった。 
 出動人員も、車両数もほぼ2倍の大編成「車ドロ」だった。私は都合でこの第2次出動には加わらなかったが、大成功だった。 蓄電池工廠の庭に、ピカピカの乗用車4台が整然と並んでいるのを見た時思わず「ヤッタ!」と叫んだ。

 チゥエンの買付け部隊による収穫は上々で、「要緊急」資材は着々と蓄電池工廠に届けられてくる。
 電報通信社(?)のチャータ便がマカッサルへ飛ぶとの情報を得たので、ラジオ放送関係の緊急を要する部品を託した。 
 車は既に確保済みで、艦船の便が有れば1台づつでも送り出せることの伝言をもついでに依頼しておいた。

 チゥエンから、資金切れになったとの通知をうけたので百万ギルダーの追加金を渡した。こんどは、服地や時計やタイプライター謄写版《とうしゃばん=孔版、ガリ版》、医薬品、たばこ、酒などの不急品の買付けを行う。同じ品を追加注文すると、たった一日の違いで既に値上がりしている。
 次第に買付けが「買い占め」の様子になって行くのが恐い様に跳《は》ね返ってくる。
 列車でバタビアへ行く。 海軍武官府の前田大佐(終戦の時、トランクに一杯の手持ちの現金(軍票)が底を突いてきたので、夜行ソ連モスクワで日本大使をしていた前田閣下の弟にあたる人)に相談して、軍票で100万ギルダーを貰《もら》い受けた。このためバタビアに4日間も滞在させられた。

 やっと調達出来た軍票を盗難に合わぬ様、最大の注意をして、バタビアを出発しバンドン市へ来た。

 バンドンにやって来たのは2つの理由があった。それはチゥエンの親戚《しんせき》に委託した買付けの進捗状態《しんちょくじょうたい=進み具合》を調べる事と、郊外山間部で長波送信アンテナを建設している会社(国際電気通信株式会社)の先輩に出会って見たいと思ったからである。

 先ずホテル・サボイに宿泊することにして大切な軍票を入れたバッグをホテルに預けた。  
 ホテルには陸軍上等兵と陸軍々属が居て多くの現地人を指揮していた。沢山な陸軍々人がホテルに出入りしている。彼らは敬礼されたり敬礼したり、誠に落ち着かぬ風情、どう言う訳か砂糖に群がる蟻《あり》の様に見えた。

 チゥエンの親戚が集めていた通信機器の中には、オランダ製の真空管(殆ど《ほとんど》フィリップス製)の良非を試験するテスターや、オランダ語で書かれた分厚い真空管規格書などもあった。
 マカッサルで一生懸命探して居たものである。イーストマン・コダックの熱帯用ッキングした写真フィルム、精製キニーネ(医薬品)、腕時計、タイプライター、タイプライターリボンやカーボン紙、裁縫ミシン真っ白な厚手の洋服生地などなど牛車に一杯集められていた。
 これらの物資は5日後にはスラバヤに到着する予定とのこと。

 途中2回の検問を通過し、大きく広がった谷間に辿《たど》り着いた。立派な木柱が何本も林立し、無数の支線が谷を跨《また》いでいる。
 日本海軍の対艦通信アンテナの建設現場だ。 仲々壮大な眺めで、戦争最中異国の地でこの様な大きい建設の出来る日本の実力を心から嬉《うれ》しく誇りに思った。

 先輩の鵜飼技師と手がちぎれる程の握手をして、無事を喜び合つた。時間と距離の関係で、二人で食事するチャンスがないので、帰国したら新宿の例の店でゆっくり一杯・・と言うことで別れた。

 次の日の夜行列車でスマラン経由スラバヤに向かった。スラバヤ駅に着いてホテル・シンパンへドッカル(馬車)で行く。荷物は幸いに盗難にも合わず、紛失した物もなかった。 
 ただ堅い座席に7~8時間腰掛けたままだったので睡眠不足も手伝っていささか疲労した。また機関車は石炭では無く、薪《たきぎ》を燃やしているので時々煙が目に入り涙がでる始末。汗と涙で汚れた顔を早く洗いたかった。
   
 全ての荷物を自室へ運ばせて、上半身裸になって顔を洗っていると、ドアーをノックして日本語がきこえた。 
 私が記載した宿帳を持って上等兵が戸口に立っている。
 『生年月日と住所が違うが、姓名が似ていて、本籍が同じ人がもう一人宿泊している。 この記載事項に相違ないか?』と宿帳を広げて私に示す。不審に思って話を聞くと一昨々日一泊したマドラ州長官の姓名が「萩谷正雄」で本籍が「京都府宮津」、私の名前は「萩谷正隆」で本籍は全くおなじ。
 ホテルでは調べるために私の部屋を訪れたがフロントにキーを預けたままの連続外泊。マドラ州長のほうは絶対本物・・・という訳で「不審者」として憲兵隊へ通報した。 
 私がホテルに戻るのを待っていたのだ。  

 マドラ州長官は私の親父なのだ!

 『すべて正直に記載しました。 身分は証明書のとおりです』と答えて、今度は逆に尋ねた。
 『マドラ州の長官といわれましたネ。私の父に間違いありません。 連絡のほうほうは?』

 マドラの1番が州事務所、2番が長官々邸、3番が警備隊と言うのが電話番号であった。 
 これは実際の話しである。
 今ごろ、この様なことを言うと、何処《どこ》かのカステラの宣伝をして居るようであるから不思議なことだ。

 正午少し前に2名の憲兵がきて、「調べる事がある。スラバヤ憲兵隊へ連行する」と、有無を言わさずダルマ(ミニカー)に乗せられてホテル・シンパンをでた。さすが手錠は掛けられていないが後ろから腰のベルトをガッチリ握られている。

 憲兵隊の事務所には、顔見知りの小林さんが陸軍大尉の服装でつっ立つていた。私と小林さんは殆ど同時に「あっ!」と叫んだ。
 憲兵大尉はわたしを引っ張ってきた兵を部屋から追い出して、『やっぱり萩谷のボッチャンじゃないの!それは何の服装ですか、海軍地区の何処にいるのですか、スラバヤへ何しに来たのですか』と矢継ぎ早の質問だ。
 自動車泥棒の件は伏せておいて、海軍の不足資材を探し回っている。手助けして欲しい。などと心臓強く話してみた。

 小林さんは、答えずに、机の上の書類篭《かご》からタブロイド版《273×406ミリ》の新聞の様な印刷物を取り出して、私にも見える様にして読み始めた。

 《近時、本島外から制限を超過する軍票を持ち込み、民政並びに戦略物資を買い占める者がいる。このため不要に物価を釣り上げ民心安定を妨げるにいたった・・・》と。

 これは「陸軍官報」とよぶ週間情報紙で、間違いなく私のことを書いている。 
 「速やかに検挙せよ」との言葉も続いている。

 『悪い事は言わぬ。一日も早くジャワを出て行きなさい。全島の憲兵が動きだしますョ。お父さんに出会ったら直ぐセレベスへ引上げるんだな。 お父さんに会えるようにして上げよう・・・』
 小林憲兵大尉から電話機を受け取ると父の声がする。嬉しくて余り喋る《しゃべる》ことも出来なかったが・・・父は今夕マドラ島を出て深夜には同じホテル・シンパンに着くだろう・・・とのこと。

 ジャワ島全部のホテル支配人(軍属)を割り当てたのは父で、多くの軍属の中からホテル業者や宿屋の経営者が指名されたことを後日聞き知った。

 寝ないで父の到着をまった。・・・フロントから父の電話だ!
 
 「お久しぶり」も変だし「お元気ですか」も分かり切ったことでおかしい・・・何と言って電話に出れば良いのか、瞬間頭の中がカーッと熱くなったが、とっさに
 『スラマット・ダタン!(よくぞいらっしゃいました!)』と現地の言葉で会話が始まった。
 間もなく父の大きい部屋へ通されて、(二人共)もう一度夜の食事をする事になった。 食堂は駄目なので、ルームサービスとなる。
 ホテルのマネジャーから贈物のワインが届いた。父子再会を祝ってマネジャー自身が栓を抜いてグラスに注いでくれた
編集者
投稿日時: 2007-3-17 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
『ジャゴン』 (LIPTONE)
 『ジャゴン』 93/08/11 13:15
  
 「ジャゴン」とはインドネシア語で「唐もろこし」のことであり、米や麦と同じく大切な主食の一つである。

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 この物語りは昭和19年8月初旬の出来事である。

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 警戒警報が発令されて約1時間たつ。 在マカッサル民政府通信課長の本間司政官(軍属)から電話で桟橋《さんばし》に横着けの巡洋艦「多摩」と102根拠地の海軍司令部間の連絡電話線がどこかで切断されているので至急修復せよ・・・本間課長の車が破損したので、出来たら民政府へ来て課長を私の車で桟橋迄つれていってほしい・・・との要請がはいった。

 トラックと自転車とリャカーの修理班が桟橋へ出て行くのを見定めてから、真木総務部長の乗用車(ビュゥイック)を借りて民政府へ出かけた。 
 真木部長は我々「国際電気通信株式会社」の社員で、戦時中の戦地では「一般邦人」と呼ばれていた。
 「軍人」、「軍属」、「軍馬」、「軍犬」、「軍鳩《ぐんきゅう=伝書ばと》」の次ぎに「一般邦人」と言うのが当時の「えらい順」であった。

 軍属の課長を乗せるので、私のトラックでは失礼に当たるとの理由で真木部長の車で迎えに行った訳である。 
 ちなみに真木部長は引き揚げ一番船で日本へ帰り、後に羽村の 「国際電気株式会社」の社長となられた方である。 
 ついでに・・・本間司政官は現地から引き揚げて、熊本の電波管理局長を拝命された方。

 警戒警報下の街は人通りが幾分少ないが、防空壕《ぼうくうごう=空襲の被害を避ける穴や構築物》付近は人が集まっている。 
 人溜り《ひとだまり》を横目で見ながら街中を抜けて波止場の通りに出た。 
 この時「空襲警報」が発令され、高角砲や高射機銃の発射音も聞こえた。 
 大きい立樹の葉陰にビュゥイックを置いて、波止場の倉庫街を桟橋方向へ駆け足で・・・

 二人とも、まっ白な防暑服に白ヘルメット。3~4百メート走って土嚢《どのう=土を入れた袋》で築いた防空壕へたどり着いた。 
 壕の入口まで溢《あふ》れるほどの満員で、とても我々が這い入る透き間もない。
 50~60メートル先には折から入港していた巡洋艦多摩が接岸したままで、猛烈な対空射撃を続けている。
 大きい砲が発射されると、地上の我々のヘルメットがブルブル振動する。

 ラッパが鳴った。 
 巡洋艦から聞こえてくる。 
 砲撃音の中で号令が(拡声器で)する。 
 砲煙の方向、高い高い空中に敵機が20機ほどチラチラ見える。 
 進行方向は肉眼では掴《つか》めない。
 オヤッ! 砲撃音が急に散漫になった。 
 スピーカーの声がやや明瞭になった。鉢巻の水兵が2~3名チラホラみえた。
 『○○番砲命中! 全艦撃方止メ! 万歳三唱!』
 本当だ。遥かに高い青空に一本の煙りが弧を描いている。
 煙は垂直に下がり始めている。
 『撃方始め!』の号令が終わらぬうちにドン・バリバリッと物凄い《ものすごい》対空砲火が再開された。    

 腹の底から伝わってくる砲音を聞きながら「死ぬか生きるか」の戦いのマッ最中に、全砲を停止して万歳三唱なんて出来るものではない。余程自信があるか、肝っ玉が大きいのか、或は馬鹿なのか・・兎に角《とにかく》、あきれてしまった。 
 同時に帝国海軍の力強さを感じブルブルっと身振るいした。

 本間課長と私が次の命中を願いながら真夏の高い空を見つめていると、頭上からレンガの破片と火薬の臭いがする白粉がバラバラ落ちてきた。
 ヘルメットや肩に当たって地面に落下した。白粉から煙りがでている。 今度はビーンと言う音がして10メートル先のレンガ壁に弾が当たって壁を壊した。 
 続いてもう一発至近弾着!
 『オイ君、危ない! 逃げよう!・・・』本間課長が私の腕を掴んで砲音の中で叫んだ。  
 赤レンガの壁に沿って、来た道を急いで「歩いて」戻りはじめた。心の中では、全力疾走したいのだがプライド(?)が無理に歩かせた。
 「課長殿、走って下さい!」と言いたかった。 
 ところが、これが命拾いになったのだ!
 
 道路の右前方に閃光《せんこう=きらめく光》が見え、爆風にふっ飛ばされて息が止まっている自分に気がついた。 
 死ぬのか・・? と思いながら静かに呼吸をしてみた。
 おぉ息ができる。
 死んでいないのだ。助かった!
 傍らを見たが本間課長が居ない。
 少し遠くを見ると課長が居て立ち上がろうとしている。
 よく見ると腰の刀が無い様だ。 
 無理をして大声で課長に呼びかけて見た。『お怪我は・・・?』と。
 自分の声が分からない・・・何も聞こえない。
 課長も同じか?
 1分も経ったろうか、次第に聴覚を取り戻して居る事が分かった。人の声がする。走る足音も聞こえる。 
 艦砲射撃のすさまじい音も聞こえる。 
 人のうなる声も混じっている。 
 「おーい!」と私を呼ぶ本間課長の大きい声で「耳鳴り」が直った。

 波止場の穀物倉庫に爆弾が落ちたのだ。 
 たぶん軍艦を狙《ねら》ったのが反《はず》れたのだろう。 
 赤レンガ二階建ての大きくて頑丈な此の建物に一発当たったのだ。 
 後で行った調査で判明したが、この直撃で屋根と外壁の一部がふっ飛び、この倉庫に避難していた原住民の労務者(苦力)の一群が倉庫の穀物と一緒に弾き飛ばされてしまったのだ。 
 倉庫内では20名の原住民が爆死したのだ。

 軍刀を腰に着けながら近寄った本間課長は『(電話線の)修復は(空襲)警報解除後に行う』、『すぐ(民政府へ)引き返す!』と私に向かって「もったい振って」命令した。 
 もうもうたる塵挨《じんあい=ちり、ほこり》と悲鳴と砲音と「敵機の爆音」のなかで了解の気持ちを示す敬礼をした。
 今度は二人とも走った。乗り捨てたビュゥイックの処まで・・

 ガッと何かゞ足に纏《まと》い付いて、半長靴《はんちょうか》が脱げそうになり、私は倒れそうになって手をついた。  
 「うぅん・・・」うなり声だ。
 手に触れたものは未だ温かい人間の上半身の肉塊で、血と挨《ほこり》と黄色のブツブツした物が付着している。
 上半身には首や頭が付いているが片方の目玉が無い。 
 顔面一杯にブツブツだ! 
 オ化けの顔だ! 
 顔一面に「ジャゴン」が血に染まって付着しているではないか! 
 あぁ、誰がこんな酷い事をさせるのか ??!!
編集者
投稿日時: 2007-3-18 9:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
敗戦の技師(1) (LIPTONE)
 敗戦の技師(1)93/08/11 13:18

 『廃戦・排戦・背戦・敗戦の技術者』(その1)

 昼寝から目を覚まし、冷たいシャワーを浴びていると、いつもより早く午後の作業の連絡電話が入ってきた。
 パンツを履いて電話に出ると、当番の連絡下仕官から、16時から、空中線(アンテナ)作業について緊急打ち合わせたいことがある。 司令部通信室へ出頭せよ・・・とのこと。

 司令部とは、当時のセレベス島マカッサル市へ、ボルネオからやって来た豪州《=オーストラリア》軍と入れ替わりに上陸してきた英印《=イギリス領インド》軍の〈クマオン〉地域占領軍部隊司令部の事である。200名程の小部隊で、当時我々(国際電気通信株式会社)技術者がみて、かなり貧弱な通信機しか持っていなかった。
 熱帯地方特有の空電(カミナリなどによる雑音電波)と元来貧弱な装備のため、当時の昭南島《=シンガポール》或は更に遠くインド本国との無線通信がなかなか思うように出来なかったらしい。

 16時キッカリに通信室へ行くと、技術准尉《じゅんい=准士官》と2~3名の下士官達が私の来るのを待っていた。日本の神戸市にしばらく住んでいたと言うこの准尉から、『これから、君に話す事は他言してはならぬ。じつは、ここ1~2日特に雑音が激しくて、反復・確認のため通信作業が、進捗《しんちょく=物事がはかどる》しない。 まともなアンテナを設立すれば状態が改善されるかも知れない。 
 これは、ただ1冊の参考書(手引書)だが
 アンテナの張り方が図入りで説明されている。 
 出来るなら、今夜このようなアンテナを立ててしまい度い。 
 問題はアンテナ線を張る方向である。 磁石や地図は有るが、星座はない。
 また、周波数がおなじで、一つのアンテナでマウントバッテンの司令部(インド)と、昭南島(いまのシンガポール)の2方向に通信したい。作業兵なら、下仕官付きで10名位なら都合つく。 どうだ、やれるか?』 と丁寧に頼まれた。

 知人に帝国海軍の掌通信が居るが、彼に「方角」の事を尋ねてよいものかどうか一寸と迷ったが意を決して尋ねてみた。

 帝国海軍でもスラバヤ(ジャワ島)の他に昭南島とのネット(通信網)を持っていたので事は思ったよりも簡単に済んだ。
 兵器引き渡しの際、アンテナやトーチカなどの地上施設は、すでに最初にやって来た豪(オーストラリア)軍に見取図と共に引き渡し済み・・・・とのことを掌通信長から知り得たので英印軍情報部がアンテナ設備図面を捜し出すことになった。

 目的の図面が入手出来たのは夜明け少し前であった。「星」を観測する必要がなくなったので、夜が完全に明けても差し支えなく、そこで一先ず睡眠を取ることにした。コーヒーで腹がジャブジャブだったが、蚊よけのクリームを顔面、首回り、手等に塗り付けて直ぐ机の上で眠って仕舞った。

 寝苦しいので向きを変えたら眼鏡が押されて鼻筋が痛くて、目が覚めた。 
 天井灯の形が違うので自室で無いことがすぐに分かった。英印軍の通信室に居る事に気付いたのはその直後で、これから司令部裏にある日本軍が造った通信壕で空中線工事を始めなければならないのだ・・・と意識も正常に戻った。 
 微かに睡眠不足を感じたが、「きのうの敵」の為に協力しなければならないと言う一種の責任感を覚えたのか、意外に元気な夜明けだった。

 トイレから室へ戻ると、例の神戸に居たことのある准尉と彼の当番兵がやって来た。彼らは徹夜のまま一睡もしていなかった。
 『オ早う。今から30分したら、送信壕の方へ行く。作業兵4名と下仕官1名が待って居る筈《はず》。現場で作業の説明と打ち合わせが終わったら朝食のため食堂へ案内する。それまでここを離れぬ様に。 取り敢《あ》えずこれでも飲んで・・・』と当番兵の手から取り上げた水筒にいれたコーヒーを渡してくれた。

 英語の話せぬ通信兵が手真似で「電話に出る様に」合図するので彼の机に行って電話に出ると、准尉からだ。作業兵も、准尉もこれから2時間休憩に入る。休憩後朝食を済ませてから送信壕の方へ行って、説明や打ち合わせを始める、以上。 との要旨だった。

 2時間もあるので、自分のキャンプ(マカッサル終戦連絡事務所)に戻る事の許可を貰い、車側に、郵便切手大の「日の丸」を描いた司令部貸与のフィアットに乗ってキャンプへ飛んで帰った。
 念のため、もう一度、無線工学ポケットブックの空中線(アンテナ)整合(マッチング)の頁を読み返したり、キャンプで少し時間遅れの朝食を済ませて通信室へ取って帰した。

 間もなく空中線作業の説明・打ち合わせがはじまるから・・と迎えの連絡兵が来た。この通信室から徒歩3分の所に送信壕が、更に徒歩3分行った所の広場に沢山の木柱があり、アンテナやフイダーの支柱群であった。
 送・受信壕を含めてこんな場所に多くのアンテナ施設があることは全然知らなかった。元日本海軍第102根拠地司令部の中庭に柱の森があったなんて・・・

 英印軍が入手した引き渡し書類は英文で、タイプライターで書かれていた。
 かなり分厚い書類で、中には発電気や蓄電池、受信器類の手書きスケッチもあった。 
 あの終戦のドサクサの大混乱の裡《うら》で、誰がいつこの様な(戦に負けた場合の)用意をしていたのか悲しさと驚きに胸が痛かった。
 准尉と下仕官はピンとした英文書類を私はやゃクシャクシャの日本語の書類をもち、大地を黒板代わりにして、説明を始めた。
 下仕官は英語の説明をインド語に通訳して部下に長々と説明した。 
 暫くするとアメリカ製ジープが線材料や絶縁碍子《がいし=絶縁器具》や工具などをトレーラーに入れて届けて来た。

 下仕官の命令一下、アッと言う間にトレーラヘから荷物が降ろされて、工具が分配された。 材料の点検が終わるといよいよ私の出番が来た。 
 半ばボロボロになった青焼き《=青写真》の配線図を辿《たど》りながら、昭南島方面へ指向した空中線へのフイーダを見つけ出した。  
 平行2線式のもので、地上3メートルぐらいの高さで、指向性アンテナに接続されている。  
 送信波長が日本軍の使用波長と異なるので調整が必要であった。  
 英印軍のほうが波長が短いので既存のアンテナ素子を短くして、其《そ》の分途中に碍子をいれてピーンと張り直した。
 10インチの計算尺《=物差し型の計算機、スライドルール》を使って短縮すべき長さを算出した。すべての作業は敗戦国の一技師が指示し、(中間にインド語への通訳付き)地域占領軍の兵を駆使(?)して遂行されたのだ。

 一応完成したところで休憩する。  
 イギリス製の送信機からフィーダ端への接続が終わった時、自分も休憩した。  
 我々が休憩している間に実際に送信電波を試験発射した。
 シンガポールから「受信状態」に関する折り返しの報告を待ち受けた。

 任務から解放された兵士達が、三々五々集まって来出した。
 がやがや騒がしくなりかけた時、一瞬静かになった。情報部(らしい?)の将校と通信の准尉が足早にやってきて、准尉が私を指差しながら何か将校に告げ口をした。
 将校がキッとなったのが良く分かった。私の体中に悪い予感がよぎり頭の中が冷たくなった。
   
 “私は全通信の責任将校で、中尉である。 
 只今受けた報告によると、当方の通信電波の状態は非常に改善され、相手方での受信は(メリット)5乃至4だと言うことである。貴方《あなた》の協力に感謝する・・・”を聞いて、今引いて行った血液が正常に戻った。
 特に意味が有る訳でも無いのに、何だかこの中尉に敬礼し度い気持ちになった。同時に心の底で、それとなく〈やましい〉気もした。「へつらい」の敬礼なのか、それとも人間として極く自然の行為と言えるのか・・?
   
 さて、昭南方向のアンテナ工事に成功したところで昼食になって、この将校が仕官食堂(と言っても板張りのギシギシ音がする薄暗い部屋)へ誘ってくれた。 
 舌がちぎれる様にピリピリ辛い、まっ黒なカレーライスと(今思えば)ヨーグルトとバナナとお茶のランチだった。まっ白いテーブルナフキンが目に痛かった。
 中尉は無口で食べている自分に向かって盛んにカレーライスの説明をしてくれたが、インドの地方名が次々に出て来て退屈した。 
 彼は何を考え乍《なが》ら、この敗戦国の男をもてなして居るのだろうか?

 『午前中の作業結果が満足なものだったので、同様な方法で本国向けアンテナの建設を午後行う。要員は午前中と同じだが材料は・・・』などの話しも出た。

 退屈な昼食が済んだ。 
 私は中尉を残して暗い食堂を出た。
 勝手に司令部内を歩いても良いのか。とがめられるのでは?
 心配し乍ら来た道を通って現場へ戻った。小型のドラム缶に金属コップを4~5個引っかけて置いてある。 
 中を覗《のぞ》いて見ると紅茶が入っていた。 
 靴下に紅茶の葉を詰めたものが2個投げ込まれていたが少しも不潔と言う感じがしない。
 むしろ、臨機応変の頭の良さに敬服した。 
 兵の一人が無言で紅茶をすくって目のまえに持って来てくれた。 
 砂糖は無かったが温かい心とミルクがあった。

 熱帯の太陽が照り付くこの空中線広場の事を「アンテナ・ヤード」と彼らは呼んでいた。 
 だいぶん渋い紅茶を飲んだが眠たくてたまらない。 
 昼寝の時間は有るのかなあ・・あれば良いが・・と、満腹も手伝ってぼんやりしていた。 
 暫らくすると兵士達が靴を脱ぎ始めた。 
 しめたっ! 昼寝の時間なのだ!

 戦に負けても大日ッ本帝国の技師である。奏任官《そうにんかん=官吏の身分の一、3等高等官》待遇の者がこんな軒先で寝ころんで昼寝ができるかッ!  
 キャンプに帰って少し休んで、また戻って来る時間は有るのだが・・・
 やせ我慢を張って、しばらく座して目を開けていた。

 遂に文字通り不眠不休(時々やすんだが)で頑張った。午後の作業はインド本国と直接通信する為のアンテナ造りである。午前中の作業で要領が掴《つか》めているので、通訳時間も短く、兵士の動きも活発で、跡片ずけを含めて、ほぼ2時間で作業は終了した。

 空中線作業のため特別に編成した分隊は解散になったが自分の身柄はまだ解放されない。 
 定時の通信時刻になるまで、通信室で時間待ちをする事になった。通信准尉もやって来た。
 准尉の語るところに依れば、明日から[現地部隊報]とでも称するガリ版新聞を出す・・・との事。 
 シンガポールとの連絡がスムーズになり各種のニュースが得られる様になったからだった。

 室の一郭《いっかく=一隅》からざわめき声が聞こえた。准尉がサッと立ち上がって声の方へ行った。 彼は、すぐ引き返して来て、嬉《うれ》しそうに、『届いた! シンガポール程良くはないが今迄届かなかった
当方からの無線通信が上陸以来初めて届いた。 
 アンテナは成功したのだ。 
 あとは、異なった時刻のテストだけ・・・』と言った。
     
 交代要員が入ってきて、今まで居た通信兵が出て行く。
 私の傍を通って行く兵士の一人が私に向かって拝む様に手を合わせた。
 すると、次の兵士も同じ様に手を合わせて通り過ぎた。
 「どう言う意味だろう?」、「私も手を合わせ返す必要があるのでは・・・」、「彼らは日本人に好意を示しているのだ!」、「それとも私の身に何かが起きるので・・・」と考え始めた。

 大分時間が経った。近くの兵員食堂から食器を配列する音が聞こえて来る。やがて夕食の臭い(香りではない)もして来る事だろう。
 早く自由な身にして欲しい。  
 粗末でも自分のキャンプにかえって、下帯一丁になり度い。 
 「もう帰っても宜しいか?」と誰に尋ねれば良いのか? 
 こんな事言い出すと叱《しか》られるのでは・・
 とにかく、体は疲れているし眠たいのだ。 帰り度い。
 こんな時准尉に電話がはいった。
 『そこに居る日本人の技術者を連れてこい。』 と中尉から掛かって来たらしい。 
 准尉は交換台の横を通ってドアーに近付きながら、手招きで私を呼んでいる。
 何だか急いで居る様子だ。
 足早に通信室を出て、番兵の立っている階段を上がって二階へ。
 上がった所のドアー解放の小部屋に入ると准尉は中尉に敬礼し静かに私を突き出した。 
 自分もこの中尉に敬礼すべきものか一瞬迷よったが、結局敬礼はしなかった。 
 しかし、直立不動の姿勢をとった様に覚えている。
 大体「帽子も被らずに挙手」は不格好だ。
編集者
投稿日時: 2007-3-19 8:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
敗戦の技師(2) (LIPTONE)
 戦の技師(2)93/08/11 13:21
   
 『従来より(インド)本国からの通信はトラブル無しに受信出来たが、マカッサルからの送信メッセージはどうしても直接先方へ届かないので、シンガポール中継で送信して居た。 
 司令部方針として今しがた、本国との通信を、も早中継無しで直接交信する事に決定したばかりである。
 この喜びを君に伝え度くて今迄待たせた。
 これは高級な鶏肉の缶詰めである。君のキャンプに居る人たちにも食べさせて上げなさい。』と言うのが中尉の用件だった。

 大きな重い缶詰め(1斗缶)を当番兵が持って、私の車まで送ってくれた。 
 車が動き出すと当番兵は私に敬礼してくれた。彼の目は誠実真剣であった。 
 私は矯《た》めらわず答礼した。

 キヤンプに帰り着くと早速賄い《まかない》当番を呼んで、誇らしげに御土産を渡した。 
 終戦連絡事務所長(陸軍中佐)が草履ばきで私の部屋にやって来て、『お前の帰りが遅れる事の電話をうけた。』、『ご苦労っ!』とだけ。 
 鶏肉缶の事は、まだ知らないらしい。

   ………………………………………………………………

 『技師殿。起床時刻でありますっ!』と言う不寝番の大声で目を覚ました。 
 山の収容所から来て所長の指揮下にある陸軍25名と海軍25名の短期派遣作業班は既に中庭へ集まってラジオ体操の隊形を作っている。 
 今日も焼け付く様な熱帯の朝である。

 連絡簿に所要事項を記入して、朝の食事をとる。衝い立《ついたて》の向う側には50名強の兵が朝からチキンの豪華食事をしている。
 『おぉーい! うまいだろう! その鶏肉はこの俺《おれ》が取って来たのだぞー!』と恩に着せ、自慢したい気持ちだった。
 『おい! お前の戦利品か?・・・』と所長もご機嫌である。

 車を裏庭に回して久しぶりの洗車をした。 
 アッと言う間に乾いてしまう。
 愛車とまでは行かないが、豪州軍から貸与された車で、左右両ドアーに2cmX2.5cmの日の丸が画がいてある。
 初めはもう少し大きな日の丸だったが、原住民の子供達から石を投げつけられるので、目立たぬ様に小さくした。 
 御蔭《おかげ》で投石される事が無くなった。 
 金属スポークの付いた細身のタイヤーが特徴で、前進4段の軽快車。 
 フィアット製で当時はニュールック。

 午前8時、本日の作業予定表が回って来た。 
 カーボン複写で手書きの一枚もの。
 回覧形式で、見終わったら捺印《なついん》することになっている。 
 捺印しながら念を入れて、もう一度見直したが私は何もする事が無い。 
 占めたっ、海水浴と洗濯と昼寝と読書が出来る!

 正午ジャストに英印軍司令部から、「出て来て昼食をせよ」と電話が入った。 
 大急ぎで服装を整え、洗い立ての車で司令部へ急行した。 
 電話の主通信准尉が待って居た。すぐ、床が鳴る食堂へ案内された。 
 この准尉よりもっと位が上の将校が10名近くも食事していた。 
 昨日出会った通信の責任者の中尉は居なかった。

 『これが第1号の新聞だ。 君の事も出ている。』 
 こう言いながら准尉が1枚の紙を渡してくれた。 
 A4版より少し縦長の紙の片面にタイプライターで記したガリ版の新聞(様)のもので、准尉が指さした所に、私の事がちょっと出ていた。
   
 《戦争捕虜の指示でアンテナが完成す》の記事。
 一日本人が英印軍(クマオン部隊)の命令を受け、戦勝兵に技術上の指示を与えて遠距離アンテナを完成する・・・と言う意味の記事だった。
 気を付けて探したが私の名前は見当たらなかった。
 私の胸には司令部がくれた葉書半分大の名札がいつも下がっているのに・・・名前が出ていないので心の内では少々不満であったが、准尉の手前、大変珍しい事件ですネ・・良く出来た記事です。。。と褒《ほ》めておいた。

 中佐はじめ連絡事務所の面々に見せて自慢話しが出来るのでこのガリ版新聞が欲しくなったので、思い切って『一部下さい』と言ってみた。 
 准尉は『どうぞ』と、すんなり応じた。

 昼食が済んで、准尉と二人でアンテナ・ヤードへ来てみた。
 『お前は日本の何処から来たのか? 私は子供のころ、神戸に6ケ月いた。そのころ父は・・・』などと話し出した。
 なんでも父は洋服生地を売る商売をしていたらしい。母の話は出なかった。
 『国には妻が2年近く私の帰還をまっている・・・早く国へ帰り度い。 
 お前はいつ日本へ帰ることが出来る見込みか?』と。

 『引き揚げ船が来たら一番船で日本へ帰れる様にしてやると説得されている。 既に5番船が日本へ向かったが、豪軍司令部が自分を英印軍に引き渡し、英印軍が私を拘束している・・・』

 思い切ってハッキリ返事をした。 
 英印軍が自分を拘束している‥‥と言い切ったが、言い過ぎでは無かったか?

 6番目の引き揚げ船が近く入港する・・との情報が入った。
 山(全日本人が収容され、農園などを作り自活している所)にはもう婦女子は居ないし、私の様な「民間人」も既に引き揚げて軍属と軍人しか居ない。 
 例によって、第6次帰還人員計画書作りで暫く連絡事務所が忙しくなる。
 戦争犯罪(とは思わなかったが)容疑者の(裁判の)予審で「白」と決定した者や、前回病気で乗船出来なかったが快復して、長期の船旅に耐える様になった者を優先帰国させる事にした。第7次は、ニューギニャのマノクワリから1ケ月後にマカッサル港へ来るが、多分この第7番船が当地最後の便となる見込みであり、第7番の船は、病院船なので、今回の6次便に一人でも多く乗船させるべく、英印軍情報部と連絡が更に活発になった。 
 乗船者全員の指揮者の決定、小隊、分隊、班の編成など名簿が次々に完成する。ローマ字で、名前や生年月日を深夜までタイプする。 
 いくら探しても自分の名前がない。半泣きの気持ち。
 望郷の気持ちで胸が一杯になる。 
 あと1ケ月待てば、最終船なので、その病院船で帰国出来る事は確実なのだが・・・1ケ月はとても長く思えた。 
 事務が手に付かない・・男の気持ちなのだ。
 
 そもそも上司が『ご苦労だが、市内に留まって、連絡所に勤務して貰いたい。其の代わり、第1番船で日本へ帰れる様になる。』と言った言葉を信じてマカッサル市の終戦連絡事務所に最初から勤務しているのだ。 
 こんな事を言った上司は自分に何も言わないで第2番船で引き揚げている。
 彼はそれまで山でのんびり暮らしていたのだ。
 私が日本へ帰ったら、出会って「いや味」を言ってやろう!

 いつしか第6次の引き揚げ船を見送ってほぼ1ケ月経過した或日、蘭印《らんいん》(オランダ領インド)政府機関のNICAがマカッサルへ上陸して来た。
 NICAとは蘭印民政府とでも言うものである。
 国際電気通信株式会社が現地に設立した無線受信所、同送信所、電報電話局、修理工場、通信機材倉庫等などを英印軍からこのNICAへ引き渡しを行う事が始まったので私の躯《からだ》が幾つあっても足りない程忙しくなった。 
 測定器の取り扱い説明書が日本語なので「英文に翻訳せよ」とNICAから要求がでた。十数冊の説明書なので、7次の最終引き揚げ船に乗れなくなると大変だと感じた。とにかく、1日に1冊をやっつけても船に乗れなくなる。

 NICAの作業が忙しくなったので、英印軍の呼び出しに応じられない事がしばしば生じ始めた。 
 軍事優先なのか英印軍の仕事はNICAに優先する・・ことの通知を英印軍情報部から受けた。
 山からの短期派遣作業班はNICAの仕事を始めていたが、これも、英印軍の為の作業だけに限定された旨の通知も受けた。

 [アレッ! 英・蘭が仲たがいしている・・・]と直ぐ気がついた。
 英印軍のジープによるパトロールが激しくなった。

 英印軍を経てNICAから私の乗っているフィアットを返還する様要求が有った。何でも、この車は元オランダ人の個人所有のものだったと言う訳で私から取り上げる事になったのである。
 フィアットを自分に貸してくれたのは英印軍の情報司令部で車に日の丸を付ける事を認めたのも英印軍だった。NICAと英印軍とのあいだで、オランダ人財産の扱いに関して、どの様な話合いが出来ているのか分からないが、即刻返還しなければならなくなって、日の丸のマークを削り落として英印軍の情報部まで、この車の最後のドライブをした。 
 情報部のパーキンク・ロットに到着すると、2~3人の兵が居て、「車を此所《ここ》へ・・・」と相図している。
 言われた場所にゆっくり止まって、フィアットから降り立った。 
 兵士達はただちに、車体番号や機関番号などを確認したが、足回りとかエンジンの調子、車体の傷等には一切無頓着《むとんちゃく》。 
 工具やスペアタイヤの不足にも全然関係ない様子。 
 暫く待っていると、3階の情報部入口の受け付け(と言うよりも監視)へ案内された。
 当司令部の将校のサイン入り「受渡し証明書」の領収書に私のサインをさせられた。フィアットの返還に関係が無い書類が有ったので、良く読んでみると《豪州軍が使用していた米国製ジープを貸し出す》意味のものであった。 

 パーキング・ロットに戻るとフィアットは良く手入れされたジープと入れ替わっていた。
 洗い立てで、シートが濡《ぬ》れていた。
   
 豪州軍が沢山陸揚げした軍用車の中で見つけた小型の自動車だったが、実際に運転したのはテニスコートの整備作業をした時だ。
 豪州軍の将兵が使うので、荒れ果てたテニスコートの手入れをするために、重い石製のローラーに綱をつけて10名ほどの日本兵が「わっしょ、わっしょ」と引き回して地均し《じならし》をしていたが、この石ローラーをジープで牽引《けんいん》する仕事を命令された時である。

 数名の日本作業兵を「重り」の代わりにジープに満載して、ギヤーを「ローのロー」に入れ、コートを(のろのろ)走り回ったことを思い出す。
 『技師殿、これはなかなか宜しいでありますっ!』と胡麻《ごま》を摺《す》る兵が居て、いや~な感じがした事も思い出される。
 彼はただ、車に乗っていればいいので、疲れないし汗も余り出なくて済む。
 この様な兵は、車から降ろして、草刈などをさせてやろうかと言う気持ちがした。
 結局作業後この兵にジープの水洗をさせた。

 さて、新たに貸与されたジープに乗ってキャンプに帰り着くと、非番の兵が車を取り巻いて、「何と言う名前の車か?」とか、この「転把(てんぱ、ハンドルの事)が左側に有る」などと珍しがっている。 
 2~3人づつ交代に乗せて、キャンプの中庭を走って「物知り」である事を示す。 
 これも私の「虚栄の行為」か?

 ジープで引っ張るトレーラーはいらないか、必要なら情報部へ来いと親切な電話が掛かってきた。 
 特に必要とも思わぬので、丁寧に断わった。 
入れ替わり又電話が入り、「豪州軍が残して行ったラジオ受信機が2ダースほどある。
 電池をつないで見たが全部故障らしい。何とかして、数台を聞こえる様にして欲しい」と例の通信中尉が私の腕を過剰評価して依頼して来た。
   
 通信室の一角にラジオと乾電池がキチッと積み上げられていて、側には英印軍が使う通信機補修用の工具箱が置いてあった。
 『お前のキャンプへ持ち帰って修理しても宜しい』と言うことなので、若干の屑線《くずせん》を含めて工具箱もラジオも電池も全部持帰ることにした。 
 一度に運ぶには荷物が多い過ぎたので2回に分けて運ぼうとしたら『誰かトレーラー付きジープで運んでやれ』と中尉が言うと、数人の兵士が我を争って運びたい・・・と手を挙げた。

 キャンプに運び込まれたラジオを調べてみると、4球式2バンドの短波受信機だった。
 既に誰かがいらい回して、あちこち故障している厄介《やっかい》なものばかり。 
 回路試験器や信号発振器が必要なので、英印軍からNICAへ掛け合って、元我々が運営して居た受信所に有る筈の測定器を借り出す様中尉に頼んだ。 
 使い慣れた日本製の測定器でこれらの取り扱い説明書の英訳を頼まれた事がある。
 『NICAが承諾した。お前達が一番良く知っている所だから、このスリップを持って受信所でいるものを借り受けると良い』『機材が大きいか重たければ通信兵を付けてやろう』と非常に親切に言ってくれた。 
 壊れ安いが、余り大きくないし、目方も大した事は無いから、自分で借りて運ぶ事にして、スリップだけ貰つて行った。
編集者
投稿日時: 2007-3-20 9:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
敗戦の技師(3) (LIPTONE)
 敗戦の技師(3)93/08/11 13:24

 受信所にはNICAから派遣されたオランダ人の技師が待っていた。いきなり『コンニチワ』と日本語で先方から挨拶《あいさつ》された。
 この技師は、捕虜として日本へ送られて、山口県か広島県の捕虜収容所に数カ月いた。 
 『その時の収容所長は、ショーゴ・アマリ(甘利・しょー吾)と呼ぶゼントルマンの技師だった。』と話してくれた。終戦後しばらくして、電波管理局長を勤めた方だ。

 英印軍の指示により日本の通信機材の取り扱い説明書の翻訳はしなくて宜しい・・・のだが、実はこのオランダ人技師に数頁のものを英語で要約《ようやく=文章などの要点を取りまとめる》する事を頼まれてしまった。 
 目的の測定器と共に、チョコレート1箱を貰って、まっすぐキャンプへ帰った。

 日本ひいきの英印軍兵士には好意を感じ、NICAは何だか陰険な気持ちがして嫌いだが、このオランダ人には友情らしきものを感じた。 
 多忙だが、2~3日で英文要約を届ける約束をした。

 チョコレートを貰った手前、遅れてはならぬ・・・と、翻訳を始めた。 
 取り扱い説明書は、太平洋戦争勃発《ぼっぱつ=突然起る》直後に編集されたものであるが、当時の言葉で言えば「敵国語」に当たる英語の技術専門用語が次から次ぎに出てきた。 
 使い慣れた単語が多く、辞書(和英辞典は所持出来たが、英和辞典は駄目)を引く頻度《ひんど=繰り返す度合い》はあまり多くなかった。
 遂に1台のラジオも修理しないで、終日英訳を行い、深夜音を立てながら、英印軍から借り受けのタイプライターとペーパーを使って内緒でNICAの仕事をした。 
 出来上がれば英印軍のジープで、英印軍支給のガソリンを使ってチョコレートをくれたオランダ人技師に翻訳したものを届けに行く訳だ。

 こんな行動は、人間関係の善意がさせたのか、チョコレートが贈収賄関係を起こさせたのか・・・  自分は悪いことをしているのか、自分は卑怯《ひきょう》な技術者なのだろうか・・・ それとも一般にありふれた極普通の人間のする自然な行いなのだろうか・・・?

 今はNICAの物となった受信所へ立ち寄って翻訳書類を手渡してから、英印軍の通信室へ何食わぬ顔をして入って入った。
 今朝早く通信室から連絡電話があって、戦時中「マカッサル研究所」があったフォート・ロッテルダムの倉庫(豪州軍が占拠していた)で、オーストラリア赤十字からの慰問品梱包《こんぽう=荷包み》が発見され、其の中に交換用のラジオ真空管や、スイッチ類の小物部品が沢山あった。 
 ラジオ修理に必要な物あれば、何でも勝手にこの箱から取りだしてよろしい・・・と言う内容の電話だった。
 『何か役に立つ物はないか?自由に持って行って宜しい。』と言われたが、実のところ、ラジオの方はまだしっかり調べていないのだ。  
 『修理に要する部品を予知することは難しい。共通の修理部品として、抵抗器やコンデンサーは良く使うから、取り敢えず、R・Cキットボックスを貰って行きたい・・・』と准尉に答えるのが精一杯だった。

 修理の出来たラジオ5台を重もそうな格好で通信室へ運び込んだ。
 『修理出来た分をその都度届ける。』と電話しておいたので通信の中尉や情報部の将校まで部屋へやってきた。
 通信室なので、アンテナやアースはお手のもの。新しい電池を接続し、他のスピーカーの音量をさげ、こちらのラジオの音を大にして ダイアルを極めて静かに回し進めると、音楽が飛び込んだ。
 英語が達者な下仕官が、親指で「日本の技術者はりっぱだ」と示し、無言でうなづいていた。  
 准尉や中尉や情報部の将校はなにも喋《しゃべ》らなかった。
 草緑色のラジオの箱に赤い赤十字のマークが誇らしげに艶光しているのが印象的だった。

 6台のラジオを潰《つぶ》して部品を回収し、これに赤十字の部品を加えて、合計18台の修理をおえた。余分、或は不用になった部品とか工具類一切を英印軍へ返納し、試験器や発振器は堂々とジープにのせてNICA受信所へかえしてきた。

 英印軍から新しい指令が来た。 山の収容所から、定期交代でやってくる陸・海軍の短期派遣作業班は、今後不要とのこと。
 防空壕の埋め戻し、連合軍の爆撃で壊れたままの構造物の撤去、道路や公園の清掃等を敗戦国兵士が毎日「進駐部隊の指令」で行っていた。今まで、トアン・ブッサール(御主人様)として、原住民にかしづかれて居たオーラン・ニッポン(日本の人)が、原住民が見守るなかで、バケッ、ほうき、スコップなどを使って無言の作業に従事していた。 
 作業現場まで、節度ある隊伍《たいご=隊列》堂々の行進と指揮者の命令一下、キビキビした行動などは、熱帯的怠惰のなかで育った原住民にとって、合点が行かぬ事で有ったろう。 
 逆に作業兵達は「負けても健在だぞ!」、「何が恥しいものか!」の気持ちを統制ある団体行動で訴えて居るのだろう。

 最早やホウキを担いだ作業日本兵の行進を見ることも無くなるのだ。 
 私の一番嫌いな仕事は、作業班へその日の作業予定を伝達したり、指示内容が不明瞭なものがあると、詳細説明を司令部に要求する事でまるで司令部の「犬」のような役目に見られていた。
 もうすぐ、こんな嫌な事も無くなるわけだ。
 後で聞いた話であるが日本の作業兵が居なくなって代わりにNICAの日雇い人夫が清掃を始めるそうだ。 
 入れ替わり立ち代わり、山から交代でマカッサルのキャンプに来た作業兵のみなさん肉体的にも精神的にも大変ご苦労さまでした。

 このころ、戦に負けた大本営から天皇陛下の使者(陸軍の中将だったとおぼえている)が海軍の102根拠地であった此のマカッサルに飛来した時の事である。 
 僅か《わずか》数時間の短い来島であったが、山やその他の捕虜収容キャンプから、日本へ帰らずに、残留中の陸海空の佐官以上の軍人と勅任官《ちょくにんかん=高等官の一つ、1等、2等高等官》以上の軍属が私の居る終戦連絡事務所に集められ、陛下《へいか=天皇》の御言葉と、日本政府の終戦への対処や、当面の方針などの訓辞と説明がなされた。
 丸腰の第一種軍装軍人達が直立して涙を流して静聴した。
 連絡所長から『たった一人の「一般邦人」だ。最前列の左端に立て』と言われ、とっさに我らの制服にはネクタイが要るので、なんとかしなければ・・・と思った。 
 木綿の白靴下を墨汁で染めてネクタイ代わりに締めた事や、汗のためネクタイの墨が衣服をよごして仕舞った事など、平和な現在すべて懐かしく思い出される。

 英印軍司令部から私個人に電話で出頭命令があった。 
 所長の補佐官兼通訳の有田小尉が受けた電話で、もしかすると君は第7便では、日本へ帰れないかも・・・と心配して出頭目的を明かしてくれた。いつもザックバランな電話指令が、今少し様子がちがう。
 「何かあるぞ・・・」、「いつもと様子がちがう・・・」色々な場合を考え乍ら《ながら》、ジープで司令部へでかけた。   

 間違って通信室へ行ったら、「ここではない」といわれ、3階の情報部へ連れていかれた。 
 軍服の初対面の英印軍将校と背広の背の高い白人の男が受け付けにやってきた。
 『この方はNICAの連絡将校だ。近く最終の日本向け船舶が入港し、PW(戦争捕虜)を全部送り出す。 
 船は直行しても、日本到着まで2週間かかる。 
 連合軍の人員輸送機なら、遅くても2日で東京へ着く。
 船をやめて飛行機で帰れ。 
 船が出航したら、NICAの事務所勤務となる。どちらにするかを考えたり、準備をする時間はあと2日間しかない。何か質問は・・・』と軍服のほうが一方的にしゃべる。
   
 わたしをNICAに引き渡して英印軍はシンガポール経由でインド本国へ凱旋《がいせん》する。最終船は、あと2~3日したら入港する。
私を、後日飛行機で日本へ送り届ける。 
 いつ飛行機に乗れるのかは今ここでは分からない。 10分ぐらいの会話で得られた内容である。

 階段を1階まで降りた所で通信准尉に出会った。 彼の部隊は近日中に引き上げる・・君達の(引き揚げ)船は早ければ明後日午後マカッサルにやって来る。君の方が先に(セレベス島を)離島する訳だョ・・・と、語りかけてきた。 
 「飛行機の便よりも、島を出て日本へ向かうのは一日でも早い方が良い」と決心したのはこの直後で、ジープに乗った時は早くも下船して懐かしい故国の大地に立った姿を想像していた。 
 決心したら、気分壮快になった。

 有田小尉と終戦連絡事務所長が何か相談して居る所へ入って情報部で分かった事項を報告した。 我らの中佐と小尉が英印軍から知らされた内容は極限られたもので、私の方がも少し詳しい情報だった。 
 何れ《いずれ》にしろ最終船への乗船者名簿提出の命令はまだ英印軍から来ていない。 
 しかし事務所では第6次船が出航すると直ちに乗船予定者の名簿を作り始めていたので、いつ名簿の提出命令がきても短時間で対応出来る態勢にあった。       

 私はNICAのために最終船をも見送るのは嫌だった。この最終船に乗って、とにかく一日も早く日本へ帰りたい。こんな気持になると、も早や一切の仕事が手につかない。男が望郷の気持を抑へ切れないでイライラしだした。 
 しかし、なにはともあれ、英印軍に、自分の(最終便で帰る)決心を報告しなければならない。

 連絡所長の了解を得て、有田小尉が私の帰国希望を情報部へ伝えた。 
 その返事は『それは良い。この旨NICAへ通知する』『司令部でも、そう有って欲しいと思っていた。』..であった。
 
 自分が最終船で帰国したい事に就いて、現地では最高の力を持つ英印軍が了解してくれたので、安心と望郷の交錯《こうさく=入り混じる》した気持ちでぐっすり眠った。 
 作業班はすべて山のキャンプへ引き揚げたので連絡事務所の人員は最小限になり、不寝番は廃止され、当番兵を含めて7人になってしまった。
 事務所内に時計は1個だけ。 振子式柱時計が事務室の壁に引っかけてある。 
 個人の腕時計は、万年筆等と共に一番はじめに上陸して来た豪州軍のならず者達に巻き上げられてしまっている。

 毎日、定時ならびに臨時に司令部通信室へ電話してポンポン時計の時刻を合わせている。
 寝坊しない様に、フト目が覚める度に事務室の時計を見に来る事になったのは、不寝番を廃止してからである。 
 起床時刻が近付いた事を知った者が、まだ眠っている人を起こすようになった。
 賄い《まかない》当番が起床するのもこの時になってしまった。

 歯ブラシをくわえたまま、まだ良く寝ている者を起こして回った。午前3時ごろ目があいて、その後眠れなかった。 
 起床時刻になるのを待ちかまえて、皆を起こして回った訳である。

 今朝一番の入電は、乗船者名簿とその隊の編成表などを今夕情報部へ提出すること、山の戦争捕虜収容所に居る病人を下山させて、連絡所に収容すること。この移動は明後日に完了すること。
 山の日本軍医は病人と一緒に行動し、医者及び病人のリストを用意しておくこと。 
 私物荷物は一人2個までゞ、自分で持ち運ぶことができること。 
 移動人員の概算数を今夕までに報告せよ。
 病院車1両と十分な台数のトラックを派遣してやる・・など

 昼前に、所長が司令部へ呼び出されたので、ジープで送り込んだ時、通信の中尉が私を見つけてジープまでやって来た。足でタイヤを蹴《け》りながら『引き揚げるンだってネ。 
 もう一度食事する時間はあるか?』と誘ってくれたが・・・とてもそんな時間は無い。

 午後5時山から事務応援の一団が到着。其の中に軍医も一人下見に来ていた。 
 応援要員は所長の指揮下に入り作業分担の設定が終わると遅い夕食になる。 
 作業班が居なくなってから久しぶりに賑《にぎ》やかな連絡所に戻った。 
 軍医の話しでは、明日午前中に衛生班が到着するとのこと。


編集者
投稿日時: 2007-3-21 8:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
敗戦の技師(4) (LIPTONE)
 敗戦の技師(4)93/08/11 13:26
 
 
 夕食後所長がタイプライターで記された「返還物件リスト」を見せてくれた。
 司令部で受け取ったメモである。ジープ、タイプライター、停電灯、電話機などすべて英印軍から貸与されたもの。 
 机、書類棚、椅子《いす》などNICAに属する物はリストになかった。
 
 所長のメモに記載されたものは、いずれも最後の最後に返還するもので有るが、忘れない様に事務室の壁に落書してから個室へ戻って寝た。 
 久しぶりに不寝番が廊下を通って行く足音がした。
 
 不寝番の申し継ぎ事項に自分を起こす件が無かったので誰も声をかけてくれなかったが、元気な点呼の号令や番号呼称の大声で目がさめた。  
 焼け付く様な暑い朝だ。 
 連絡事務所は引き揚げの話しで賑やかな朝食だった。 
 食事が済むと全員中庭に集合。
 所長の話しが終わって解散すると私は司令部へ出て行った。

 通信室へ到着し、電線などの材料と工具箱を3/4トン車に兵とともに積載して、タンジョン(波止場)へ向かった。車中聞いた話によると、入出船舶の監視所と桟橋事務所間の電話線が何者かによって盗まれた。
 我々は其の電話線の架線をおこなう・・・と。

 現場に着いて被害状況をしらべると、日本海軍が架け直した「銅線」の電話2回路が約2kmの区間に亙《わた》って奇麗に持って行かれている。 
 幸いに、背の低い電話柱、腕木、碍子《がいし》、柱の支線などは被害無し。私が調査のため、梯子《はしご》を掛けようとした木柱の上部に手のひら大の鉄片が突き刺さっていた。 
 爆弾の破片であることが一目でわかった。潮風でドス黒く酸化していた。
 この鉄片は電話の工事に関係無いが、柱上安全ベルトを確かめて、ややフラフラする柱を登り、丹念に鉄片を引き抜いた。抜けるまでに10分か20分かかったと思う。

 英印軍通信兵達は、トラックの上から、細い鋼鉄線に被服をかけた茶色の電話線4本を「繰り出し台」から送り出し、要領良く展線をおこなった。電柱に梯子をかけ、電話線を腕木の上に乗せ、線を碍子に縛り付ける。約70本の柱上作業が済んだのは正午少し過ぎた時である。
 トラックで監視所へ兵を送り、我々は桟橋事務所に居て、監視所からの電話呼び出しをまった。呼び出し、通話共に良好だった。ちょうど午後1時腹ペコで司令部へ帰って来た。

 熱帯の太陽に照らされ、強い潮風に晒《さら》される場所にこの様な細い鉄線を使う事は我々の常識では考えられないのだが・・・通信兵達は任務遂行の満足感でニコニコしながらメスホールへはいって行った。通信の中尉が私を例の薄暗い食堂へ連れて行ってくれた。
 私が間もなく波止場から戻るので、食べないで待って居てくれたのだ。
 彼が別れるまでにもう一度食事を共に・・・と言ったことを思い出した。 
 テーブルナフキンの白さには感動しなかったが、この中尉の人間性に心をうたれた。
 いつの日か、日本から礼状を出そう。 
 『あなたの、本国のメールアドレスを教えて下さい・・・』と頼んだ。気持ち良く、手帳を破って太い鉛筆でサッと書いてくれた。

 この薄暗い食堂で准尉や通信の責任者である中尉にご馳走になったが、もう此所《ここ》も見納めになる訳だ。日本海軍は戦時中この部屋を何に使っていたのだろうか・・・。
 食事をしながら『波止場で張った電話線はすぐ駄目になる』と忠告すると『君の船が岸壁を離れるまで耐えれば十分。後はNICAがなんとかする。現在港湾施設は我が軍が面倒を見ている。   
 しかし、施設の電気や水道はNICAの行政下になった。桟橋に接岸した引き揚げ船に水や食糧や船の燃料を供給したり、引き揚げ者を乗船させるのは我が軍の任務になっている。NICAは船に積み込む野菜に就いては協力的であるが・・・』と語ってくれる。
 どうもNICAとはあまりシックリ行ってないようだ。

 昼食を終わり、礼を述べて椅子から立ち上がると、中尉は傍へ寄ってきて握手を求め「元気で日本へ帰り着く様に・・・」と。 給仕の兵が私に向かい手を合わせてくれた。戦争捕虜にそんな値打があるのか・・・? 
 昼寝の時間で静かな中庭へ出て来たら、日本の衛生兵が英印軍の軍服に着替え、赤十字の腕章をはめている最中だった。
 彼らの足元にはボロボロの軍靴《ぐんか》や、今脱ぎ捨てたばかりの海軍や陸軍の、少し傷んだ軍服がまとめてあった。
 これから散髪をするそうだ。その後英印軍々医による健康診断(身体検査)を受けてから連絡事務所へ帰る・・と、初めて見る衛生下仕官が語った。

 司令部では次から次の雑用で多忙を極めたが、夕飯より大分早く事務所にもどって、壁の落書メモを見る。軍医が細かい英文の印刷物を持って来て、有田小尉と私に翻訳をしてくれ・・という。
 いま考えれば「抗性物質のズルフォン剤」の説明書であったが、全然分からない専門語がやたらに現れる。 
 上等の英和辞典が欲しい! ドイツ語なら多少軍医に分かるのだが。 
 『非常に良い素晴らしい薬だ。しかし、投与を誤るとあぶない・・・』と英印軍の軍医の注意があった(我々には)問題の新薬のことだった。  

 急いで夕飯を済まし、1時間ほど仕事をして、やっと英印軍に提出する書類が完成した。多少のミスタイプや文法間違いを発見したが、所長の決断でそのまま渡す事にして、有田小尉が情報部へ持参した。
 提出書類の方は良かったが、有田小尉が情報部に居る時「今度引き揚げる日本人の中に、原住民から自転車を強奪した者が居る。
 逮捕してNICAへ引き渡せ」と言う陳情があった。
 有田小尉から情報を聞いて、これは大変、面倒な事になる。
 もし英印軍司令部から言って来たらどうするか・・・? 
 良くないニュースに頭を抱えた。困った事だ!全員一刻も早く乗船して脱出しなければ・・・。  
 深夜に及んでも名案は浮かばなかった
 本当にどうしようか・・・ 床に入っても眠れない。
 夜が明けた。 
 朝一番のビッグ・ニュース!
 『マカッサルへ進駐して来た英印軍は、その上陸直後からの敗戦国の人と物の処理、現地の保安を任務としている。 
 我が軍の上陸以前の「直接戦闘に関係の無い」事項は残念ながら、取り上げない。』。。。。涙がでる様な英印軍の処置であった。

 本当に自転車を略奪した奴が居たのだろうか ?  
 借りただけで、返すのを忘れたか、返す暇が無かったのでは・・? 
 朝食は心の中で英印軍の厚意に感謝と安堵《あんど》を感じながら、元気を取り戻どした連中の朗らかな話し声で賑やかだった。 
 もう一つニュースが飛び込んだ。  
 ニューギニアのマノクワリから病人達を乗せた船が無電で入港許可をもとめてきた・・・と言うもの。

 流石《さすが》のニッポンの事務所もやや混乱気味になってきた。指令部からは機関銃の様に電話が掛かってくるし、半ズボンの伝令が出たり入ったり・・・食堂は、まるで24時間営業。  
 中庭の照明灯増設の特急工事が始まった。 
 一番広い部屋を事務室にしていたが間もなく到着する病院車にタイミングを合わせて、什器《じゅうき=家具、道具》を位置変えする。 
 直ちに窓磨きや床掃除(モップかけ)がつづく。 
 衛生兵がバケッの水をリレーして、便所と、それに続く廊下を洗い出す。

 英印軍司令部へ返還する品物のリストを事務室の壁に落書して置いたが、消されてしまった。たしか、ジープ、タイプライター停電灯、電話機だったことを再確認する。
 所長、軍医、副官、技師の個室の名札を廃して部屋番号に改める。 
 裏庭の海岸に面する垣根の近くに、臨時かわや(トイレ)が造られた。

 病院車が到着。英印軍の赤十字マークの兵が担架を持って来たが病人は元気(?)に歩いて連絡所の元事務室へ進んで行った。
 大きな文字で部隊名と個人名を書いた病人の私物袋は衛生兵が運び入れていた。
 全部で6名の病人だった。 
 日本軍の、「塩酸キニーネ」で直らぬ熱帯性マラリヤの重病患者が一人目立つた。
 病院車を運転して来た衛生下仕官に「ありがとう」を言って話し掛けてみた。 
 山のキャンプに居る日本人は20キロメートルの道を徒歩で引き揚げ船が待っている桟橋まで来る。ただし、荷物は英印軍のトラックで船側の岸壁まで「無料輸送」だ・・・と笑いながら山の様子を語ってくれた。

 私はいつの間に何を食べたのか昼食を済ませて、所長を乗せ情報部へ。引き揚げ船と情報部との交信で、入港は夕刻になり接岸は明朝になる。 
 船はLST(鋲《びょう》を使わない、溶接造船)。 
 桟橋広場では、英印軍による点呼、NICAによる持物検査が行われる。
 山の捕虜収容所からの乗船者は明朝8時に桟橋到着のこと。
 乗船は正午までに完了する予定である。マノクワリから乗船した日本の軍医中将が日本に到着するまでの指揮官で、船長に協力する。マカッサル連絡所長は「日本語」の名簿を桟橋事務所へ持参し、そこで軍医中将に申告。その予定時刻は午前8時とする。
 タイプされた2ページの申し渡し書を、ゆっくり読み上げたのち、この情報部将校は握手を求めて来た。
 我々は握手して、敬礼して司令部を出た。  
 司令部の時計は現地時間の3時だった。

 いよいよ明日乗船出来るのだ! 万歳! 遂に生きて故国へ帰れることになったのだ! 
 大日っ本帝国臣民として一応の責務を全うしたのだ!  
 どうした事だろう、「戦死や病死」した日本人の事に思いを馳せる気が起こらない。 
 薄情もの、冷血漢、非国民と罵《ののし》りたい者は罵れ。
 自分は見事に国のため命を惜しまず奉公して来たのだ!。 
 運が良くて死ななかったのだ! 
 戦には負けたが躯《からだ》は勝ち残ったのだ! 
 日本に帰っても少しも恥しい事は無いのだ!
 勿論《もちろん》戦病死の方々のご冥福《めいふく》を祈る正常精神は持っている。

 午後4時半、約200名が2食分を携行で、深夜山を出発し朝食を済ませて7時頃桟橋広場到着見込み・・・との伝令連絡を受け、この旨折り返し司令部へ通報した。  
 夜間行軍となるので、「たいまつ」使用の許可を貰《もら》わねばならない。 
 間もなく有田小尉に電話がはいり「ジープ3台の発電車と別に2台のジープで護衛する。このジープ小隊は午後10時司令部を出る。山で誰と出会えばよいか。言葉の分かる者は居るか?」と情報部からの話。
 山には英語なら何とか分かる者が居るので「言葉は大丈夫」と情報部へ伝える。 
 敵性語を解する事をふせて居た学士様は山に沢山いるのだ。 
 英語は分かってもドイツ語を知らぬ奴は非国民だなんて誰が言い出したのか! 
 英語の分かる自分が大きくみえた。

 現地最後の夕食だ。病院車から降ろした荷物の中に、も早や山では余分となる「山印の味噌《みそ》」の手土産があった。
 餅《もち》も若干あったし、多分「山製」と思われる竹筒入り地酒も少し有った。
 沢山有った食器も不足する程数多くのご馳走《ちそう》で、立派な晩餐《ばんさん》だった。明日の朝食が終われば、もう炊事の必要が無くなる。
 昼食は船上でとる事になるのだ。
   
 午後7時、今までなら司令部との連絡業務を終わる時刻だが英印軍も我々と同じ様に興奮(?)しているのか、引っ切り無しに細々と連絡してくる。 
 引き揚げ船は暗くなったので沖泊となる。
 司令部から数名の要員がNICAの要員を伴って引き揚げ船に向かった。
 山のキャンプに、引き揚げを聞きつけた原住民が押し掛けてきた。
 警備の英印軍が一旦は阻止したが、別れの差入れ物を持参した事が判明して、3時から4時まで面会を許した。 
 今日マカッサル市の警察権は消防機関と共にNICAへ移ったこと・・・まるで共同通信社の新聞ニュースを受けている様だ。

 10時丁度、発電車とエスコートのジープ5台が司令部出発との連絡が入る。
 11時全車山のキャンプ着。キャンプでは盛んに塵《ちり》を焼却している。
 大型軍用トラック2台に引き揚げ者の荷物を満載した。
 これらのトラックは朝6時に山を出発する。山に着いたジープ分隊からのラジオをその都度電話してくれる。

 セレベス島最後の夜が明けた。 
 星明りだけで連絡所の周囲はまだ暗い。 
 連絡所要員は殆ど《ほとんど》熟睡出来なかった様だ。 
 大部屋では昨夜10時の消灯時刻は無期延期となってしまった様だ。
 全部の電灯をつけっ放しで、あっちやこっちで、日本へ持ち帰る私物を出したり、入れたり、眺めたり。 
 我々個室組みでも電灯がついたり消えたり。
編集者
投稿日時: 2007-3-22 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
敗戦の技師(5) (LIPTONE)
 敗戦の技師(5) 93/08/11 13:28

 広い臨時病室では、ちゃんと並んだキャンバス・ベッドの間を裸足《はだし》で(スリッパは音をたてる)歩いている元気(?)な病人がいた。 
 少し涼しい空気を深呼吸しながら連絡所内を一巡して自分の部屋へもどる。
 午前5時所長が気を効かせて全員を強引に起床させる。
 直ぐ中庭に集合させ、所長としては多分最後の挨拶《あいさつ》的な訓辞を涙と共に行った。 
 今朝はラジオ体操は無く、海岸側の臨時増設便所の埋め立てをする。
 いつもより少し早い最後の朝食を済ませると直ちに日本製の調理器具、あらゆる食器等を洗い直して整頓《せいとん》する。  
 中庭では、不用文書類や燃やす事の出来る私物やガラクタに油をかけて燃やし始めた。
 嬉しくて楽しい煙りだった。

 引き揚げ船が接岸完了し、これから給水を始める。 
 桟橋の事務所では、下船した軍医中将とマカッサル終戦連絡事務所長とが出会っている・・・との英印軍司令部からの電話連絡有り。
 これが最後の連絡電話となる。   
 手回し式野戦電話機2セットの電話線を取り外し、忘れない内に・・・とジープに乗せる。
 6個の停電灯、2台のタイプライターなど司令部へ返還するものをすべてジープに積み込んだ。
 
 病院車と2.5トンのトラックがきて、病人、軍医、衛生兵及び応援に来ている者達の個人荷物を乗せて桟橋へ向かった。
 事務所要員全部は服装検査、大声の点呼の後、有田小尉指揮下、手ぶらで桟橋広場へ出発した。 
 印軍の通信兵がやって来て、電話線の撤去を始めた。 
 何の事はない、自分だけほこりっぽい事務所から動けないで居る。
 事務所の外周には申し訳的な鉄条網が張られているが、その外には、物見高い原住民が沢山集まって覗く様にしている。 
 連中の眼が自分に集中している様にも思える。
 情報部から自分だけに足止めの命令(要請)が来ているのだ。
見物人の目の前で、ジープのエンジンを噴《ふ》かせたり止めたりしている苛《いら》立った自分が良く分かった。 
 NICAが私を引き留め度い(らしい)のだ。 
 丁度正午になってしまった。 
 引き揚げ者は既に乗船をしている筈だ。 
 置いてけ放りにされたら大変だ!

 MPの腕章を付けた2名の兵がジープでふっ飛んで来た。
 『早く其の車などを司令部へ返してくれ。 
 情報部では待つている。』との伝令だ。 
 とんぼ帰りのMPのジープと同時に指令部へ入る。
 私物袋だけ取り出してジープと、それに積んだ返還物件を待ち受けていた将校に指で示めそうとしたら、その前に「OK」が出ていた。
 すぐMPのジープに乗り換えると、ワーッと言う声。

 ざわめきの声は司令部の兵達で、3~4名の通信兵が靴を履きながらジープに乗せられた私の所へ駆け足でやってくる。
 2階の窓から2~3名の兵が、上半身裸で、草色の毛布を振ったり窓枠を叩《たた》いて私に(別れの)合図を送ってくれた。 
 MPのジープが発車する直前の瞬間の出来事で、私は、とっさに、白墨《はくぼく》で汚れを隠した白いヘルメットを大きく振った。  
 MPは私に「・・・サー」と言う敬語(?)を付けてくれた。波止場に近付くと、英印軍の車両とNICAの乗用車の群れが目に止まった。 
 桟橋広場には日本人の姿は無い。 
 私を乗せたジープに向かって見覚えのある情報部の将校が大きく手を振り回して「ここへ来い」と呼んでいる。
 そこは、乗船する為に残された1本のタラップの地上位置であった。
 将校の他にNICAの高級職員(らしい)や、白人の警官らしい男が立っている。
 無言でジープのMPに片手で拝む格好をして車を飛び降りる。

 『持ち物を全部ここへ置け。 帽子を取り、服を脱げ。靴も靴下も、シャツも「おしめ(ふんどし)」も全部脱ぎ捨てよ!』ポケットから、私の事が書いてある部隊新聞と、通信中尉のインドの住所を記した紙片を持ち帰る事の許可を(悔しいが)哀願したが聞き入れられなかった。
 「ノー」と言いはなって威張ったオランダ人の職員をブン殴ってやりたい気持ちがして躯が震えた。

 距離は有ったが、沢山な人々の見守るなかで本当の素っ裸になった。
 頭から薬液の噴霧を受けた後、シャツ、パンツ、ズボン、靴下、靴、上着、帽子と順に英印軍の服装を身につける。

 『行ってもよし』と、オランダの田舎者アクセント丸だしの英語でどなって、私の背中をグイと突き放す。タラップの下から上にむかって指差し、「早く登れ」と顎《あご》で命令する。
 オーイ、完全な手ぶらだ。
 他の乗船者は検査をうけて、2個までの私物袋を持ち帰る事が出来たのに、自分は「な~んにも」持ち帰れない。 
 差別待遇に腹がたつ。残念。悔しい。空袋も無い。

 「おめでとう」、「早くあがってこ~い」と甲板から白衣の連中の声がする中を半ベソをかきながらタラップを駆け足で登る。
 登り詰めたところに船の事務員(?)が机の前で私を待つていた。 
 下を見ると、もうタラップが引き上げられつつあった。
 船上は戦場の様に騒がしくなった。笛がなる。ドラがなる。汽笛が鳴る。 
 突然桟橋事務所辺りからバリバリッとカービン銃の音がする 
 良くみると、10名ほどの英印軍の兵隊が、空へ向かって発砲し、他の兵達は軍帽をちぎれるほど振っている。

 気が付くと、我らのLST船には大きい日章旗が翻《ひるがえ》り、滑るように、桟橋を離れていった。 訳も無く涙があふれた。
編集者
投稿日時: 2007-3-23 8:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
引き上げ(1) (LIPTONE)
 引き上げ(1)93/08/11 13:31

 『紀州・田辺港へ引き揚げ』

 「あの稜線《りょうせん=山の尾根》と、燈台の様子では、今四国沖から紀伊半島へ向かって進行中らしい」海軍将校の服装に草履ばきの終戦中佐が私の方へ向き直って説明してくれた。
 我々を乗せた引き揚げ船は夜が明けたばかりの本土近海を、サアッと言う波音を立てながら、一ケ月を越える長い退屈な航海を終へ様としている事が分かった。 
 まだ完全に夜が明けていないので時々見える灯火が民家の灯か或は漁船の灯火か見分けがつかないがこのLST船が作る波の白さは鮮やかである。
  
 ニューギニア島のマノクワリから傷病兵を乗せ、セレベス島のマカッサルから最後の敗戦国将兵を積んで日本へ引き揚げて来た船で、間もなく夢に見た母国の港に入って行く。

 軍医中将と船長の指揮の元、戦に負けたとは言え、又ぼろ服を纏《まと》っているとは言え、一糸乱れぬ統制ある長い船旅を終えようとしているのだ。

 起床の笛がまだない。しかし、蚕棚《かいこだな=蚕の棚のように幾段にもベットを設置すること》の〈あちこち〉で小声がする。 
 船窓付近では数名の兵達が交互に窓から外を覗いている。

 引き揚げ船内では、非軍人・非軍属の「一般邦人」は私たった一人で、陸軍軍医大佐、海軍主計少佐(澄田)、陸軍大尉(二俣)の特班に加えて貰っていた。 
 囲碁は大佐、オークションブリッジ(トランプ)は澄田少佐、将棋は二俣大尉がつよく私はいつも負役だった。
 8~10名で1班を編成していたが、特(別)班は4名で一つの班になっていた。

 お汁粉や風呂水は夫々《それぞれ》他の班の2人分を胡麻化《ごまか》し通せた。
 起床の笛には関係無く、好きな時起きい出て甲板を散歩出来た。

 私の記憶では、澄田少佐は福島県の「吾妻村」出身で英語が達者な大柄なハンサム・ボーイ。
 二俣大尉は陸軍仕官学校卒のごつごつした顔つきと手足の大きな、通信隊(?)の「心優しい」将校で神奈川県人。
 帰国後、横浜の電気店に居られた筈。
 澄田少佐は、外務省か大蔵省勤務になられた…との風の便り。
 軍医大佐は某帝国大学の医学部の学部長(?)で、博士さん。
 この博士さんの名前がどうしても思い出せないが、もし存命なら、80才か85才になって居られる筈。囲碁は初段とか・・・

 来る日も、来る日も蒸し暑くて気違いになりそうな毎日を囲碁や将棋のトーナメントでまぎらわしたり、身の上話しや自慢話しで長い長い時間を稼いだり、石鹸《せっけん》無しの、海水だけで洗濯をしたり、レコード音楽の盆踊りに参加したり、餅つき(と)汁粉大会に飛び入りして「時」を忘れる事に勤めた毎日だった。

 起床の笛の音がスピーカーから流れた。 
 船内はにわかに騒々しくなった。甲板も人の行き来で、次第に忙しくなる。
 小型掃海艇が接舷《せつげん=船べりを着ける》した。いつの間にか、降ろされたタラップを駆け足で誰かが登ってきた。 
 気が付いたら船足がおちている。船が作る波は小さくなって波の音も殆ど《ほとんど》しなくなっている。

 傷病の将兵を除き全員が上甲板に整列した。
 各人に「身上調査書(英文と日本文併書)」が配られ、其の場で記入が始まった。
 乗船に先駆けて、手渡されている「引き揚げ者証明書」の人定番号を調査書に転記する。・・・・・私には引き揚げ者証明書は無いのだ・・・・調査書の番号欄に〈none〉と書き入れて置く。

 朝食が少し遅れた。 
 船の両舷《りょうげん=両方のふなべり》に陸地が見える。 
 水路の先に同型のLST船が岸壁から遠く一隻停泊している。バリバリッと爆音がしてヘリコプターが頭上でゆっくり旋回して立ち去った。

 停泊しているLSTが汽笛をならした。我々の船も応答した。
 再び全員の半数が甲板に集合した。今度は各自私物袋持参だ。
 船内全部に上陸に関する説明と注意、輸送指揮官(軍医中将)の訓辞と船長の短い挨拶がスピーカーで流された。
 船長の挨拶は『全乗員の統制ある行動に感謝する。船は和歌山県の「田辺」と言う港につく。 
 すべての持ち物と身体の消毒が、アメリカの進駐軍《しんちゅうぐん=日本占領のための軍隊》監視のもとに行われる。
 消毒プールを通過したら船長の管轄《かんかつ=支配》から田辺町長の管轄になる。長生きして日本復興に尽くそう。』と言うものだった。
 
 暫く聞かなかった「君ケ世」と「蛍の光」のメロデイーだけが繰り返して船内放送された。

 「ばんざ~い」の声や、戦死した友の名をアリッタケの大声で陸に向かって叫んでいる将校もいる。
 私が乗船して経験した初めての、騒然とした〈音の世界〉となっていた。
 誰もが〈黙って居られない〉気持なのだろう。
 船員に脱帽敬礼して、お礼を述べる者が居た。
 しかし、キビキビした動作の船員たちは無口だった。 
 我々の引き揚げ船は、見事に岸壁にピタリと接岸した。
 船に上がってくる者は居るが、未だ下船する者はいない。

 アメリカ黒人兵が沢山軍用トラックで岸壁に到着した。
 ジープでやって来たのは日本人で、多分通訳だろう。3~4名だった。
 もう一本のタラップが船の後部近くに架けられる(船から降ろしたのではない)と岸壁に赤十字の腕章をつけた一群が現れた。
 担架で数名が下船をはじめた。航海中、無念の病死をした者の遺品をもった衛生兵もタラップを降りていった。
 十数名の戦友らしい者達が「遺品」に敬礼していた。
 肩を借りて下船する白衣の勇士の列が暫らく続いた。

 無限に広い海原だけを見馴れた目には、岸壁の風景が余りにもザワ付き混雑している様に感じられた。
 安堵感も手伝ってボンヤリ地上の動きを眺めていたら、残る半分の兵員が甲板に上がって来て整列、点呼が始まった。
 同時に前部と中央のタラップから荷物を持った引揚兵士達が下船を開始した。 
 重そうな荷物を一つか二つ下げたり担いだりして、用心深く一歩一歩降りて行く。
 私達特班グループは、どんな都合でそのまま別れ離れになるか知れないので、一応お世話になった御礼と日本再建の言葉を交わして解散した。

 私の持ち物は皆無に近い。
 乗船直前に素っ裸にされ何も持たないで最後の乗船者としてタラップを駆け上がったのだ。
 船に乗ってから、随分お粗末な、手拭《てぬぐい》、「ふんどし」、歯ブラシ、ランニングシャツ、ねずみ色のちり紙等を支給された。 
 荷物はこれだけで、片方の手の平に乗ってしまう身の軽さだ! 
 船内では唯一人の「非軍人非軍属」の「一般邦人」なので班と無関係な「ひとりポッチ」の私は、他班の継ぎ目に割り込んで好きな時に下船が出来るのだ。

 マカッサルから乗船した人々や、終戦連絡事務所の要員の列に続いてタラップを降りた。先ほどまで、甲板であれほど騒いでいたのに、一言も喋《しゃべ》らず黙々と降りて行く。
 万感胸に迫って来るものが有るのだろう。
 タラップを降り切ると、清潔な服を着た日本人の通訳と米兵が待ち受けて、一人一人から記入済みの「身上書」を取り上げ、代わりに紐の付いたセルロイドの様なカードを手渡している。

 通訳と私の顔を見比べながら、米兵が『荷物はこれだけか?』とあざ笑う。「イエース。ザッツ・オール アンド ノーモアー」なかば焼けくそで、反射的に出た返事だった。
 私の身上書には引き揚げ者の人定番号の代わりに「none」しか書いてない。
 これが見つかって、米軍と通訳と私の3人で暫らく言い合いが続いたが結局カードをくれないで此所を通過する。
  
 この辺から列の順番は乱れて(?)、早い者が先…になった。汗くさい黒人兵の人垣に添って進む。 
 間もなく行くと学校の雨天体操場らしい所に入ってハッとする。 
 モンペ《袴の形に似た衣服、戦時中の女性の服装》にエプロン姿の「大和撫子《やまとなでしこ=日本の女性のこと》」多数が我々を待ち受けているのだ。 
 我々の持ち物にセルロイド・カードと同じ番号の荷札を付けて一時預かってくれるのだ。彼女たちは笑顔で迎えてくれたが「ご苦労様でした」以外はなにも話さない。 
 我々は順番が来ると、撫子《なでしこ》の面前で着ている物を全部脱いで消毒薬の風呂場へ進む。
 ほぼ20名単位で入浴する。

 湯舟の傍らにはカービン銃《=自動小銃》を脇にした米兵がニャニャしながら裸の群れを眺めている。 
 ブザーが鳴ると次の浴槽に移る。 
 次のブザーで最後の浴槽を出ると、消火ホースからの水を前後左右から浴びせられた。
 濡《ぬ》れた躯《からだ》を拭《ぬぐ》うタオルなんて気の効いた物は無い。

 真夏の潮風で天然乾燥(?)するしかない。
 消毒釜《しょうどくがま》から取り出した我々の衣服や持ち物を、広げて冷ましたり、同じ番号の衣服と持ち物を一緒にする作業で彼女達は多忙だ。
 運の良い男は、まだ躯が濡れているのに自分の番号の山を発見しているが、付きの悪い男は(私も…)天然乾燥完了後も未だ撫子の立ち働いて居る中を物色する始末。
  
 それでも私の衣服は見つかったが、惜しいとも思わぬが荷物が見あたらない。 
 私が預けた「おば様」が熱い衣服や荷物に囲まれた中を汗ダク になって番号無しの小荷物を探し出してくれた。 
 折角要領良く入浴の順番を早めたのに、これで大分遅れた。

 衣服を纏い、荷物を持って、「矢印」に従って体操場を出ると赤十字のシャツを着た米兵と日本人が居て、セルロイドのカードにスタンプを捺《お》してくれる。
 『消毒完了・上陸許可』のスタンプだ。
 誰もが入浴の最中でも紐輪《ひもわ》を首に架けて大切に持ち歩いたカードなのだ。 
 処《ところ》が私にはこのカードが無い。下船した時タラップ下でくれなかったのだ。
 「何? カードを貰わなかった?」「そんなことは無い。必ず(身上書と)交換に受け取った筈だ!」「無ければ証明印が押せない」「えぇ? 引き揚げ者の証明書が無い?」押し問答が続く。  
 とうとうこの日本人は私を列外に押し出した。困った。 
 私は遂に「カードをくれないで、行けッと言ったのはタラップ下の米兵なのだ。
 嘘《うそ》か本当か確認してくれ!」と英語で叫んだ。

 赤十字の腕章を付けた米兵がニコッと笑って、傍らの日本人を宥《なだ》める様に「OK!其のスタンプを貸せ」と。 
 次に私に向かって「オデコをだせ!」と命令するや否や、私の前額部に問題の捺印《なついん》をして、「それ行け・・・」と顎《あご》で教えてくれた。
 慌てた日本人はその後どうしたか知らない。  

 これで立派に帰国出来た事になる。 
 廊下を通って破れたガラス窓の教室(汚い黒板がある)では、便せん数枚、封筒2本、郵便切手、はがき5枚が貰えた。
 私の指さすオデコのスタンプを確認して渡してくれた。 
 「まだ数ケ所で物品が支給されるから・・・」これでは汗をかいても額を拭く訳にはいかない。
 この部屋を出た廊下で「たすき」をかけた女性が、切手付きの絵葉書と削った消しゴム付き鉛筆を渡してくれた。
 次の教室で食器(日本陸軍の飯ごうとフオーク)をくれた。貰うものを貰ってこの教室を出ると、長い廊下を通って別棟の校舎へ行く。
 忘れものか落し物で廊下を逆行する者もいて若干混雑
している。
 初めての教室で食券や汽車・電車乗車券の請求書、寝る場所を図示したものや、色々な説明や注意書きのガリ版印刷物を貰い受けけて、校庭に出る。 
 食券は10食分、汽車電車は2目的地まで。
 これだけ貰ったので、もう額のスタンプを拭っても良い事になったのでヤレヤレと言う気持ちになった。

 大きなテントを張っているとは言え、夏の昼の校庭は非常に暑い。
 しかしどうした訳か、南方から引き揚げて来た我々にはそれ程に感じない。 
 日本へ「着いた」と言う喜びと、「帰郷」への期待で気持が張り切っているからか・・ それとも熱帯馴れの果てか?

 麦飯と小豆の赤飯、野菜の味噌汁、梅干しの煮物、沢庵《たくあん=漬物》など、日本上陸後初めての食事は実に旨かった。 
 しかし赤飯のお替わりはニッコリ笑った顔で優しく断わられた。其の代わり白い手で番茶を注いでくれた。 
 日本は食糧難だ・・・と知ってドキリとした。
編集者
投稿日時: 2007-3-24 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
引き上げ(2) (LIPTONE)
 引き上げ(2)93/08/11 13:33

 食事のテントを出ると次の者が入って食事を摂《と》る。貰った案内図面と校舎の配列を見比べて、休憩室、便所、身の上相談室、医務室、寝所、事務室などの有り場所を確認する。 
 帰郷の切符を貰うには、申請書に必要事項を書き込まなければならないが、切符と見舞金の支給を受ける時に、戦地で貰った引き揚げ者証明書を田辺町役場にわたし、引き替えに日本政府機関発行の「引き揚げ者証明」を受ける事になっている。が、引き揚げ船に乗る時点で一切の書類をNICA(蘭領インド民政府)に取り上げられた自分である。
  
 早速「身の上相談」室を訪れた。 お茶を戴《いただ》きながら事情を説明した。 
 引き揚げ援護局の係り官と、田辺町の事務員が応接して来れた結果、処理決定は早くて明日午前中に、遅くて同夜になるとの返事を貰って室を出た。

 校庭のテントに電灯がともり、か~ん・か~んと鐘が鳴って全員が早い夕食に集まる。 
 拡声器を通じて「大切な諸注意がある」との予告が有ったので比較的静かな食事であった。
 食事半ばで、スピーカーからゆっくり落ち着いた声で「日本国内人心の様子。衣食住の現状。交通機関の話し。インフレと物価の現況説明。電報電話の話し・・・など約2時間に亙《わた》って分かり易く説明があった。 
 話が進むに連れて、静寂さが募り、やがて咳《せき》一つ聞こえなくなった。 
 時々薮蚊《やぶか》を叩く《たたく》く音がするだけになった。

 食糧の買いだし、強盗殺人の急増など、敗戦の実感が強烈に襲いかかる。
 明朝このテント食堂で、帰郷先との連絡方法などの詳細説明があり、その後で、追加支給品を渡す・・・とのアナウンスがあって、やっと我にかえった。 

 帰国第一夜だ。陸軍毛布を1枚づつ与えられて、吊す《つるす》「蚊や」無しで教室の床の上にゴロ寝だ。私物が紛失したり、営内盗難にかからぬ様各自の責任管理の元で眠る事になった。 
 電灯は廊下の裸電球が燈《とも》っているだけ。 
 猛烈な「いびき」と「放ひ」の初夜だ。

 烏《からす》と鴎《かもめ》の鳴き声で眼を覚ます。
 すでに、畳《たた》んだ毛布に正座している男もいた。
 朝食迄の時間がとても長く感じられた。食券の枚数を数えたり、荷物を縛り直したり。
 しかし相互の会話は殆どない。
 鐘が鳴って校庭のテントに集まる。 
 薩摩芋《さつまいも》の味噌汁は素晴らしく、塩梅やあを海苔《のり》が美味しかった。 
 北海道(カラフトなし)東北、関東・・・九州及び「その他」地区別に帰省先を分けて故郷と連絡する手段の解説が昼まで続いた。
 話の途中でテントをでて、「身の上相談」室へ行く。 
 書類はまだであったが、「今回の輸送指揮官と、船長と、田辺町長3名の連名で、引き揚げ者である旨の証明書を作成中・・・」とのこと。
 「正午に受領に来い」と言う返事を貰って再びテントへ入る。
帰郷要領の説明が正午直前で終了した。 
 婦人会(?)の厚意による洗濯ものが出来上がってきた。午前中に(アイロン無しの)出来上がっていたらしいが正午から順次引き渡しを行うそうだ。
 私は身の上相談へいって、証明書をおし戴ただいて来た。
 これが無いと切符もお金もタバコも(私は吸わないが)追加支給品も貰らえないのだ。

 寝室に当てた教室に敷き詰めていた「畳」《たたみ》は我々の船が入港する前に取り払われて、小屋に保管してあったが「不潔」との理由で焼き捨てる様米軍衛生隊から指令がでた。 
 我々引き揚げ者が応援して、田辺町職員と一緒に、テントから一番離れた校庭の隅で燃やした。 
 畳みには白い薬粉が懸かっていたことを思い出す。
 飛び入り作業等で遅れたが、追加支給品の受領が始まった。
 軍靴、方向の無い木綿靴下、軍用毛布、水筒、革帯《=ベルト》、タバコ、マッチ、蝋燭《ろうそく》、仁丹《じんたん=薬》、ちり紙、縫針、縫糸、甘味品、征露丸《せいろがん=薬》 など多数の品々の配給があって、夕方の電灯が点燈するまで続いた。
 押し戴いた「証明書」のお蔭で、無事全部貰う事が出来た。
 午後2時過ぎに(無料で)打った電報の返事はどんなに早くても明日の昼過ぎになる事が分かったので、頭を空白にして2枚の毛布を敷いて人より早く眠ってしまった。

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 すっかり熟睡した夜が明けた。 
 娯楽室を覗いたが朝早いのでだれもいない。大きい日本の地図 (戦前の物)が掲示されていたが地図の諸所方々《しょしょほうぼう》に鉛筆や釘《くぎ》(?)で印(しるし)が付いている。多分引き揚げの先輩達が付けたマークだろう。
 子供の漫画本が4~5冊チャンと重ねて置いてある。 
 夏草花の「いけばな」も枯れずにならべてあった。
 午後4時、心配していたら、援護局事務所から呼び出しのアナウンスがあった。「電報着信あり、受け取りに来い」と言うもの。
  『ホンセキチ ニ カエリ ハハ ト デアエ」 カイシャ』万歳。母は東京を離れて京都府の本籍にいるのだ!涙が・・・
早速事務所にスッ飛んで郷里までの片道切符の申請をした。
 切符と現金200円が交付された。増えた荷物を再度まとめ直した。
 明日は、大変お世話になった此所も『引き揚げ』だ!


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