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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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編集者
投稿日時: 2007-1-10 19:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その3
 蔵は大部分が米倉であった。小作人たちが夥《おびただ》しい年貢米《ねんぐまい》を荷車に載せて運び込むので、街道から米倉まで続く石畳には今でも未だ轍の跡《わだちのあと=道に残った車輪の跡》がハッキリと残っている。その米俵を表門の傍らにある「取立場」という検査所に入れ、俵を箆《へら》でグサッと突き刺して米粒の質を調べるのであるが、合格した良い米は玄関の前にある「十番」という、ここだけ白壁の大きな蔵に納められた。広い蔵の中に整然と堆《うずたか》く積まれた俵の山の間を、ここでもまた三匹の子猫がよく飛び回って遊んだものである。

 蔵はまた、砦《とりで=要塞》の役目も兼ねていた。江戸時代に農民一揆が起こるとまず狙《ねら》われるのが、年貢米を納めた神津家の米倉だった。だから、母屋のほうにはいざという時は何時でも持ち出せるよう、長押《なげし=日本建築で柱と柱をつなぐ横木》に刺股《さすまた=木製の棒に金具をつけ人を押さえる江戸時代の武器》などが掛けてあり、それは今でも置いてある。

 それでも、天明四《1784》年には農民一揆に襲われ、大被害を蒙《こうむ》っている。この年、浅間山の大噴火があり、その火山灰が天高く舞い上がって太陽の光を遮《さえぎ》ったために気候が寒冷化し、全国的な大凶作となった。ことに上州は降灰のための大被害にあった。もともと畑作地帯の多い上州では信州米に依存していたのであるが、凶作のため飢饉《ききん》に迫られた上州の民衆は一揆となって内山峠を越えて、通路の神津家を真っ先に襲った。土蔵から米俵を担ぎ出して大掛かりな炊き出しをさせた上、略奪と破壊をほしいままにした。
編集者
投稿日時: 2007-1-9 19:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その2
 志賀は標高七百十メートルで、軽井沢と同じくらいの高さである。夏は涼しくて過ごしやすいが、冬の寒さは厳しく尋常一様《じんじょういちよう=普通、ひととおり》ではなかった。家が広く廊下が長いので雨戸を毎日開け閉《た》てするわけにはいかない。長く家を使わない時は沢山の雨戸を閉めたままであるが、普段は開け放しである。各部屋とも障子《しょうじ=間仕切り用建具》だけで火鉢《ひばち=炭火を入れる火おけ》を置くほか暖房はないので、零下何度という戸外と同じ温度の中では、炬燵《こたつ》の上で硯《すずり》を磨《す》っていても墨は黒くならない。白く凍ってしまって字が書けない。万年筆もインクが凍ってしまうので使えない。だから冬は鉛筆で手紙を書いていた。

 私にはすぐ近い親戚《しんせき》に耕ちゃん、重ちゃんという本当に仲の良い幼友達がいた。志賀にいる間中は三匹の猫のようにじゃれあって遊んでいたが、三人の一番の楽しみは広いトタン屋根の上で遊ぶことだった。食堂の窓の外に生えている桐の木を伝わってよじ登り、緩い勾配《こうばい=傾斜》の広い屋根の上を駆け回っては下の大人達から怒鳴られていた。

 小学生になってからは、三人でよく「一番」と呼ばれる蔵の周りで遊んだ。茶の間の北側で中庭の真中にあるこの蔵から、足軽《あしがる=最下位の武士、雑兵》用の甲冑《かっちゅう=よろい、かぶと》を三人で持ち出して着たりした。もちろんガブガブであるが、耕ちゃんが着て立っている写真が残っている。その耕ちゃん、重ちゃんが二人とももうこの世にいない。寂しい限りである。

 「赤壁の家」の屋敷が今のような構えに整えられたのは、祖先の時代からは大分たってからだろうと思うが、母屋から南西に張り出している「御殿」と呼ばれる部屋は、元禄十五《1702》年に建築されたものであるという。この建物の柱には、ところどころ木を嵌《は》め込んだ跡があるが、これは百姓一揆《ひゃくしょういっき=農民のさまざまの闘争、暴動》に襲われたとき傷つけられ傷跡を修復したものである。

 母屋の西側は広い畑に面しており、その真中に位置して父が気に入っていた書斎の窓からは、天気が良いと正面の遥か《はるか》彼方《かなた》に日本アルプスの山並みを望むことが出来る。山が好きで日本山岳会会員だったという長兄が、戦後私が海軍から持ち帰った艦橋用の大型双眼鏡で、ここから何時までも長い間アルプスを眺めていた姿が目に残っている。この西側のほか屋敷の南北東三方はガッシリと粗い赤壁で固められた蔵で囲まれていた。
編集者
投稿日時: 2007-1-9 9:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その1
 本編は、すでに「大正生まれの戦前・戦中記」をご投稿いただいている、神津康雄氏の著書「随処に主となる」の一部を著者のご了承を得て転載させていただくものです。

1. 私の生家「赤壁の家」その1

 長野県は、日本列島の真中にある。中部地方の中心で群馬、埼玉、山梨、岐阜、富山、静岡、愛知、新潟の八県に東西南北を囲まれ、面積は北海道、岩手、福島両県に次いで全国第四位である。山岳地帯が多いので人口は十六位で、日本の屋根と呼ばれている。

 私はその長野県の一番北東の端で群馬県に接する佐久市、昔は北佐久郡であった志賀村で大正八《1919》年二月二十七日、父猛、母てうの六男として生まれた。兄弟は十人だったがいま生き残っているのは、私一人だけである。

 私の生まれた家は、「赤壁の家」とか「赤壁御殿」という名で呼ばれ、三百年以上を経た家屋敷が今もそのまま志賀の地にひっそりと建っているが、実際にこの家で生まれた一族としては、私が十人兄弟中最後の一人になってしまったわけである。
 それで兎《と》にも角にも、まずは自分が生まれ育った生家「赤壁の家」の由緒を辿《たど》ることから、記述を始めていくことにしたいと思う。

 「赤壁の家」の神津家は、長野県の名家の一つに数えられていた。然し、父の代になってから昭和四《1929》年、アメリカのニューヨーク・ウォール街で起こった世界大恐慌《せかいだいきょうこう=1929年、アメリカの株大暴落で始まった最悪の経済状態》の波が目本にも押し寄せ、その煽《あお》りを受けて日本の銀行は三分の一が潰《つぶ》れ、父の経営する信濃銀行も倒産して、神津家もまた破産同様となり、田畑山林などの資産を皆売り払ってしまったが、家屋敷だけは未だ昔通りに残っているのである。屋敷の部屋は三十二室あり、私はその真中にある「お部屋」と呼ばれる座敷で生まれた。

 私が生まれて最初の記憶として残っているのは、大正十二《1923》年九月一日の関東大震災である。四歳七ヵ月のときだった。「お部屋」のすぐ上にある二階で、母達が布団の手入れをしているのを傍で見ていた時、グラグラッときた。母はすぐ私を背負って梯子段《はしごだん》を駆け降りた。中の間から六畳を通り越して廊下の向こうにある池の傍らに飛び降りると、杉の木の下に立った。揺れが止まってから玄関の前にある植え込みに移り、夕方まで余震の収まるのを待ったが、あの大地震は遠く信州の山の中にまでこんな震動を伝えていたのである。

 その頃、父は志賀銀行という名の銀行が合併により次第に大きくなり、信濃銀行となって本店を上田に移したので、私も六歳の時から上田市鷹匠《たかじょう》町の新居に連れて行かれ、幼稚園、小学校から中学二年の一学期までをこの家で過ごした。だから志賀と上田の間は頻繁に往復することになったが、夏、冬、などの休みのときは志賀の家で暮らすことが多かった。
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