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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり>
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編集者
投稿日時: 2006-9-24 21:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり>
 
 この記録は、故長谷川 信六氏の「朝鮮生まれの引揚者の雑記」の一部で、ご遺族のご了解のもと転載させていただくものです。

 転載に当たっては、極力「原文に忠実」にさせていただいたつもりですが「77頁に記載の通り」などの表現は、ウェブサイトとはなじまないので、変更させていただきました。



編集者
投稿日時: 2006-9-25 8:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その1
(1)

   平壌中学校
     大正十三年~昭和四年 (一九二四~一九二九)
                     平成元年六月一日起草

   平成元年《1989年》五月二十日に「井上貞勝」名の手紙がきた。
   すぐには誰かわからなかったが、平壌《ピョンヤン》中学校の同期生で、
   同期会を開きたいので、皆の健康状態を知りたいとの
   事だった。早速同意の返事と共に旧闊《きゅうかつ=久しぶりの便り》
   手紙を書いた。
   これをきっかけに中学の時を思いだしてみる。

 平壌《=ピョンヤン》には小学校は山手、若松の二校があって私は山手だった。
 内地人の中等学校は男子の中学が一つと農業学校とがあり、師範学校はもっと後になって出来たと思う。他に内地人の高等女学校が公立と私立と各一つあった。朝鮮人のための初等教育は普通学校があり、中等教育は官立の高等普通学校と女子高等普通学校とが各一つ、朝鮮人経営の中等学校一、米人経営の男子、女子中等学校各一あった。

 専門学校は米人経営のが一つ、これは朝鮮人のためのもので・昭和四年に医学専門学校の前身、内鮮共学の道立医学講習所が出来るまでは男女とも内地人の上の学校はなかった。このため私の長姉は東京の実践女学校に、次姉も東京の日本女子大学校に進学している。

 中学の選抜試験は二人に一人位の競争率だったようだ。六年の時担任の先生が若松に負けないようにといわれて、夏、冬の休みに十人余りと先生のお宅に勉強に行った。入学後も親しい仲間だった。
 大正の末のころは全鮮の中学校の数は少なく、入学時は総督府立(註)で地元以外からの生徒は寄宿舎に入りクラスの四分の一位はいたと思う。在学中に地方にも多く新設され、中学校は道立になった。平壌中学の創立は大正三年(一九一四)で総督府立京城中学平壤分校として発足し私は大正十三年の第十回卒業になる。


 一九一〇年 日韓併合で寺内正毅韓国統監が、天皇直属の朝鮮総督に任ぜられた。オランダ、フランスの植民地もそうだがイギリスがインドなどに総督をおいたのと同じなのだろう。初めの頃の総督は軍隊を動かす権限まであり、総督府には政務総監とは別に警務総監部があって、悪評高い憲兵政治の中心とされている。大正八年(一九一九)までは文官《武官以外の官吏の総称》も官等級別の制服に剣をさげていた。

 台湾には日清《にっしん》戦争後、台湾総督府が置かれ、すでに文官の総督が任命されていたが、朝鮮の総督は陸軍大将が二代続き、三代目は海軍大将、大正八年に文官任命の制度が出来たが実際は敗戦まで陸軍大将が続いた。

 大正八年に三.一独立連動、所謂《いわゆる》万歳騒動が起こる。私は小学校に入ってるのだがはつきりした記憶はない。其の後海軍大将の斉藤実にかわり政策の変更が始まる。文官は平服を着るようになり、医療、教育の普及から、病院、学校も増え、慈恵病院や中等学校は道立に移管された。憲兵の権限が民間に及ばなくなったのは大改革なのだろうが身近には何もわからなかった。政策転換後の総督府は文官の政務総監を頂点に財務、殖産《産業を盛んにする》、法務、学務、警務局などの中央官庁と十三の道知事が居り、道は内地の県に当たり、府、邑《むら》、面が市、町、村にあたる。道以下には議会が有るが総督府には議会はない。
 
軍隊は朝鮮軍司令官がいて二個師団と国境警備隊があり、平壌《ピヨンヤン》には旅団《=軍隊の構成単位のひとつ、聯隊の上 師団のした》司令部と歩兵第七十七聯隊、飛行第五聯隊とがあった。         
註 終り。


(2)

 中学校での思い出は余り無い。校庭に化石林(中世代の裸子植物《らししょくぶつ=種子植物を二大別したひとつ》)があり、まだ博物館がなかつたので校舎の一室には楽浪《らくろう》の古墳から発掘された鏡の類が沢山展示されており、その他貴重な収集と聞いている。
 
平壌には太古の箕子朝鮮につながる伝説の「箕子の井戸」や、「箕子廟」がある。歴史では漢の楽浪郡(BC一〇八-AD三一三)、高句麗(BC一-AD六六八)の主要な地で欒浪郡治址、衛満朝鮮、王剣城にあたる。在学中も調査は続いていて多くの発見が報ぜられていた。大正十二年に世に出た「孝文廟の銅鍾」は大論争を起こしている貴重な資料と聞いたが、これは遺跡に興味を持った平中の生徒が見つけたものだった。

 歴史と地理とに興味をもって、この道に入れたらと思つたこともあった。城大には今西龍、藤田亮策、小田省吾教授がおられた。担任の地理の先生から、初心のまま医学をやって生活の土台を決めるのが先だ、やりたいなら考古学は趣味でもやれると言われた。古代史にはそのごも興味を持ち、かなり本は読んだ。

 戦後ゆとりが出来てから、インカやトルコ、エジプトに行こうと思うのはこの名残だろう。しかし単に興味を持っているだけで学問としての熱意はない。肝腎の支那、朝鮮、ことに今はピョンヤンと呼ばれる平壌には行く気にはなれないままでいる。(コノコトニ就イテハ別こ記ス)

 平中は一学級はクラスが二つ。教室の席順は成績順で、クラスも上から一、二組に分けられる。すれすれの者は学年毎に組がかわり、席順もかわる。この事が生徒にどんな影響を与えたかは気がつかずに過ごしてしまったが、二つの組は解け合っていて、何か有れば同期の団結でぶつかっていた。
 
 ストライキをした時は四年生全員が一つになっていた。私は主動者でなかったし何が原因でストライキに入ったのか思い出せない、一人で教官室に呼ばれたのを憶えているが、ストの説明になにを話したか記憶にない。ストは一日で終り処罰者はなかった。四年の時に、五年生から呼び出されて鉄拳制裁《てっけんせいさい》を受ける順送りの春の年中行事に、全員で反駁《はんばく=他からうけた攻撃に対して逆に論じかえす》したのではなかったかと思う。

 又これもどういういきさつからか分らぬが、土曜日の午後から全員総掛かりで教室の床と教壇、柱、窓、ドアーなどを雑巾とたわしとで真っ白になるまで磨き上げたことがあった。暫くはこの教室にはいる時には先生にも履物を脱いでもらった。

 今でいう進学校で多くが上級学校に進み、四年修了で内地の高校に三、四人は入っているが激しい試験勉強の風潮は印象にないし、スポーツも盛んだった。

 野球はほかに中学がないので社会人との試合ばかりだった。社会人との定期戦には色々な応援歌があり、全校挙げての大応援団が編成される、私は応援だけ。私たちのクラスの選手はついに甲子園に出られなかったが、明大に入って東京六大学リーグで活躍したのがいた。卒業した年に初めて朝鮮代表になり念願を果たし、その後も何回か甲子園に行っている。このころは関東州、満州代表には大連商業などが強く、大連から毎年甲子園に出ていて、その帰り途に平壌《ピョンヤン》により練習試合をしてくれていた。

 私は陸上競技部にはいり中距離を練習していた。別に早く走れたこともなく、三年の時競技中に転んで左の股関節を脱臼《だっきゅう》して一時歩かれなくなり、以後運動やめてしまった。本当の脱臼ではなかったのだろうが、これは今でも歩き始めに筋がつってくる。

 スケート。 冬期には体操の時間はスケートの練習が正課になり、冬の初めには田圃《たんぼ》で、真冬に大同江が凍るとリンクのほか広々とした川の上、下流を自由に滑り回った。リンク造りも授業の中だった。晋段通学に履いている革靴のかかとに座金でスケートを固定し、ただ滑るだけで競技はしなかった。フィギャースケートなどは見たこともない。体操の先生が代わったとき、校庭でホッケーの練習をしたことがあるが、冬になってアイスホッケーをした記憶はない。この時アイスホッケーを始めていたら平中の名は朝鮮スポーツ界の歴史に残ったことだろう。

 大正七年   (一九一八) 小学校入学 米騒動
   八年 三.一独立運動  斉藤総督就任
   九年 琿春《こんしゅん》事件  
  十二年 関東大震災
  十三年 中学校入学   米、 排日移民法成立
  十四年 治安維持法   広東国民政府成立
  十五年 六.一 万歳連動  労働農良党  日本労働党 社会民衆党結成 蒋介石北伐《しょうかいせきほくばつ》開始
 昭和二年 金融恐慌《きんゆうきょうこう》 山東出兵 ジュネーブ軍縮会議
  三年  第一回普通選挙  三.一五事件  済南事件  張作霖《ちょうさくりん=中国の軍人政治家》爆死事件
   四年  中学校卒業    四.一六事件  光州事件
   五年  金解禁  ロンドン軍縮会議  浜口首相狙撃《そげき》  台湾 霧社事件《むしゃじけん=植民地圧制に対する武装蜂起》
   六年  七月  満州万宝山事件  九月  柳条溝事件  満州事変

 中学在学中の内外の情勢は多端であったが、私が専ら興味を持っていたのは支那の内戦だった。
 東北三省(満州) 張作霖 張作相 呉舜陛。 山東 張昌相。
 江蘇 浙江 安徽 孫伝芳。 武漢 河南、湖北、直隷 呉楓孚。
 山西の閻錫山のほか李景林。馮玉祥も有力な軍閥だつたし広西、広東等の頭目もいたのだろうが、今はごっちゃになり名前も出てこない。まだこの位は記憶にあるのを善しとすべきか。
 小学校の終りころから、中学にいる間、関連のある新聞記事は手当り次第切り抜いて何冊ものスクラップブックをつくつた。家は内地の新聞と京城日報と土地の平壌毎日の三紙を取っていた。平壌毎日には、支那問題に関心の深い記者がいたようで解説がよく載っていた。

 支那の本をよく読んでいたので地理、歴史の興味は今も続いている。蒋介石の北伐がすすみ日本軍が参戦し、張作森《ちょうさくりん》が満州に引つ込む頃には興味を無くしてスクラップブック作りも止めてしまった。入学試験が余暇を無くしたのだろう。

 小説もよく読んだ。父の本棚にあった黒岩涙香《くろいわるいこう=新聞記者、文学者》の、ああ無情(レ・ミゼラブル)巌窟王《がんくつおう》(モンテ・クリスト)、三銃士の類、村上浪六《=小説家》の旗本や市井の無法者、徳富蘆花《とくとみろか=小説家》の自然と人生、想い出の記、死の蔭に は繰り返し読んだし、一九二七年(昭和二年)に亡くなった時は本屋に行き巡礼紀行を見つけて買ってかえった。(巡礼紀行は絶版かと思っていたが先日何処かの文庫本発行の広告を見受けた)未来小説「金星旅行」は当時有名なイギリスの作家だが名を思い出せぬ。谷崎精二の訳本も読んだが、室伏高信のエッセイ集と箕作元八(六?)のナポレオン史とは熟読した。

 昭和元年(一九二六)以後は円本時代と言われ(註)、翌昭和二年には岩波文庫、次いで改造文庫も発刊され始めた。父が大衆文学全集を取っていたのて毎月配本されるのを欠かさず続んでいた。江見水陰の八が岳の魔人、吉川英治の鳴門秘帳などを憶えている。猿飛佐助《さるとびさすけ》、霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》、山中鹿之介の立川文庫はもう卒業していたのだろうか。中学生向きの現代世界文学全集を買ってもらい毎月の配本が楽しみだった。「三等水兵マーチン」を、憶えている。アランポー、モーリス.ルブラン物もよく読んだ。

 講談社の雑誌「キング」は一九二四年、中学入学の年に創刊号が出ている。
    註
   一九二六  現代日本文学全集 改造社
         世界大衆文学全集 改造社
   一九二七  世界文学全集   新潮社  現代大衆文学全集 平凡社
         明治大正文学全集 春陽堂  探偵小説全集   春陽堂
   以下戯曲、近代劇、世界大思想、随筆、小学生、児童文学全集等が次々
   に出て、一九三一年までには二百種以上になったという。


(3)

 学業
 本を読むのと数字の計算とが好きだったので、国漢、算数の成績は余り人にまけなかったが、一番の苦手は図画でこれは先生はどうにもならなかったようだ。五年になり用器画の時間に同じ図画の先生から 用器画ならば良いかと思ったがこれも駄目なんだなと言われた。

 国漢は赤壁の賦《せきへきのふ》、唐詩撰や論語、日本外史、太平記、平家物語など何かと好きでよく暗誦《あんしょう》していた。代数、幾何《きか》も教科書よりずっと前を独りで進んでいた。併《しか》し五年で、Sin、Cosになってからはそうはいかなかったようだ。英語は得意とは言えなくても何時当てられても困ることはなかった。

 スポーツを止めてからは定期に学校と家とを往復するだけのことで、友達とは小説本の借り貸しの付き合しくらいになった。本の好きな真面目な中学生だったのだろう。三省堂だかの大日本百科大辞典があるので、下調べはよくやって、尚分からぬ所を質問すると答えの貰えない先生もおられた。

 同期生
 京城では医専、工高、高商に同期生がいるので一年遅れてまた付き合うようになったが、深い付き合いになった者はいない。卒業後も、引き揚げ後も殆《ほとん》ど、誰にも会っていない。もう何人も残ってはいまい。
 
 同窓会名簿をみると第十回卒業の同期生は八十二人いたのが最近はつきりわかっているのは、生存十九人、死亡三十人になっている。お互いの姉、妹と兄、弟ぐるみの付き合いで親しくした小学校からの二人。一人は京都帝大をでて検事になり一頃横浜に検事正でいたが会わずじまいになった。も一人も京大をでたが左翼運動にはいり敗戦後は、北朝鮮日本人技術者部会の部長になって平壌で日本人技術者の世話?をしていた。私が正式引き揚げで元山の収容所にいるときに訪ねてきた。朝鮮復興のため残ってくれないかと言う、彼の真意を聞くことなしに別れたが、この後なんとかの罪でシベリアに連れて行かれたという。この二人も今はいない。

(4)

 予科入学試験
 朝鮮には内鮮共学の上級学校は公立の高等工業、高等商業、高等農林学校,法学、医学専門学校、私立の薬学、歯科医学専門学がそれぞれ一校と、法文学部、医学部のある帝国大学とその予科とがあった。私の中学卒業の年(一九二九)に平壤、大邱《たいきゅう》に(その後成興、光州)医専、もっと遅く京城に鉱専、女子医専が開設された。当時の内地の高等学校は中学四年修了で受験できたが、朝鮮では大学予科、専門学校、高等工業学校等みな五年卒業が受験資格だった。内地の大学に行きたい者は、四年でも五年卒業でも内地の高校を受けられたので、クラスの何人かは(四人?)四年で出ていった。

 私は迷うことなしに京城大学医学部にいくと決め、内地の大学に入るつもりはなかったので中学を卒業して予科を受験した。落ちることは考えに無かったのが不合格だった。自惚《うぬぼ》れの実力知らずだとの反省もなく、翌年もここしか受けなかった。浪人の一年間は中学の物理教室に机をもらい、受験料目だけ五年生の教室に講義を聴きにいかしてもらつた。父と校長と物理の先生との話合いで特別の計らいをして戴いたのだろう、前例のないことだつた。
 
 幸い二年目には合格したが、もしこの時も失敗していたらどうなった事かと、今でもぞつとなる。それ以上の浪人は出来ないから、医学に進むのなら三回目には予科だけでなく医専も受けることになろう。京城医専は予科に劣らぬ難関だし受かったとしても先に入った同期生は三年生になる、平壌医専にしても同じこと、卒業の年に予科の理科の合格者は零だったが・京城医専には四、五人、平壌医専には十人以上が入っていた。

 平壌医専は卒業の年に医学講習所として第一期の生徒募集をし、中学の先生も受験を勧めて大勢が受験し合格しているが、私は予科進学しか考えなかった。
 思い上がった己の身知らずが、見向きもしかった所に尻尾《しっぽ》下げて来たのかと言われることになる。
 二年目も失敗していたら三年目には医専はやめて、高等農林学校を受けていたのではなかろうか。文科系にいくつもりはなかった。
 中学の時、医学に向かう方針を決めた事に就いては別に記す。
           
 平成元年七月二十三日記

編集者
投稿日時: 2006-9-25 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その2
(1)

  京城帝国大学予科
  昭和五年四月~七年三月 (一九三〇~一九三二)
  昭和五年四月予科入学

筑波館
 この年の入学試験は受験生宛にきた案内の「筑波館」に泊まってた。
 筑波館は老夫婦が学生相手にやっている下宿屋で、黄金町四丁目に在り大学、商工、高商、医専、薬専に歩いて通える。春休みで学生が帰省して空いた部屋に、受験生を泊めていた。泊めた受験生から何人合格者をだすかが毎年の老主人の関心事で、熱心に世話をしてくれ、十余人の同宿受験生と共に合格祈願に朝鮮神宮に参拝に連れていかれた。
 予科《=旧制高等学校に相当する課程》に入学したのはこの内の二人、支那山東省青島からきた橋爪と私とだけだつた。京城駅で同じ京義線(京城《ソウル》―義州《ウィジュ》―奉天《中国瀋陽シンヨウの旧名》)に乗って帰るとき、清涼里《チョンヤンニ》での再会を約して別れたのが実現し、学生寮「進修寮」で一緒になった。

 平壤《ピョンヤン》中学からは理科合格は現役で渡辺が一人、私の同期生は私一人だけだった。 地元の京城《ソウル》龍山中学は断然多く、地方都市からは釜山、大田、群山、大邱、平壌等の三、四人止まりだった。平中は理科文科を併せて毎年四、五人が入学していたのにこの年は四人、前年は文科の一人だけだった。

(2)

進修寮
 大学予科は京城《ソウル》の郊外四キロ余りの所に在り、東大門からの電車の終点。京元線(京城--元山)清涼里駅に近い。進修寮は予科構内の校舎の近く松林の間にあり中、北寮の二階建て二棟に食堂・娯楽室(卓球台のある広場と、新聞雑誌、ラジオ、蓄音器《=レコードプレィヤー》、将棋《しょうぎ》、碁盤《ごばん》を置いた畳敷の間)、大きな風呂場、読書室があり、南寮はまだ建っていなかった。全寮制ではなく寮生は八十人位、文科の寮生は少なかったので、それだけ貴重な理、文科生間のつき合いは後々まで残った。

 予科は当時二学年制で、一学年の理科は医学進学のみの八十人、文科は法科系四十人と文科系四十との八十人だった。昭和八年に予科は三年制になり、大学には十三年に理工学部が加えられた。           
       
 # 一年 中寮階下玄関脇の部屋。
 机と椅子とが六っずつ並んでいる部屋と、ドアを間にベッドが六台置いてある隣の部屋とに寮生が六人、文科と理科の二年生に新入の一年生四人が一緒だった。
 新潟師範《=師範学校》を出て小学校教員から転身してきた三、四歳は上だが若々しいスポーツ青年山田。福岡県田川郡からきた童顔、朴訥《ぼくとつ=素朴で飾り気のない》な松村。釜山《プサン》中学の秀才高丸の四人でみな同じ理科だった。
 同室の理科二年生は松島さん。スポーツはせず酒も飲まず、ストームにも滅多に、しか参加しない何をしているか分からぬような細身の方だったが、面倒見がよく勉強の事色々教えてもらった。二年後に学部在学中、金剛山《クムガン山》の紅葉の中で心中死をとげ、相手は普通の娘さんと聞いた。全く突然の報せでただ驚くばかりだった。

 同室の文科二年生は川崎さん。大人っぽい小太りの人、スポーツはやらず(私とは娯楽室で卓球をよくやった)、校内の文芸委員をしていて、寮内では俳句の集りをやっていた寮の新聞雑誌の読み場に、雑誌戦旗や文芸戦線(?)やプロレタリア文学の本を提供していた。
 同室の私達にも、他の寮生にも同志を作る運動はしなかったようだ。理科二年の寮生一人が仲間になって学部に入ってから反帝同盟の実際運動に加わり、退学処分になっている。(朝鮮人の独立連動につながる従来の左翼結社とは異なり、反帝同盟は内鮮人合同の反戦運動として注目された)。昭和六年九月満州事変が起こり、朝鮮軍の一部が満州に出動した時の反戦ビラがきっかけになり、大学関係では学部十三人予科六人が検挙きれ、そのうちに内地人は六人いた。多くは後に復学したようだが、
川崎さんは学部に入ってからいなくなりその後の消息は知らない。

 予科生は、白線二條の帽子と、朴歯《ほうば》の高下駄にマントが象徴《しょうちょう》の姿だが、私はマントを持たず、義兄赤井のオーバーコートを貰って持っていた。
川崎さんは自分のマントを着ずに私と取り替えて外出していた。

 ♯ 二年 中寮の階下 東の角部屋。
 理科二年生の三人に、理科の新一年生三人とが同室になった。新寮生の一人は支那color=CC9900]《しな=中国》[/color]天津からきた朝鮮人で後になって知ったが、朝鮮人は寮に入ると親日家とされて仲間外れにされるそうで、入寮者は極めて稀《まれ》な事だつた。
李約伯、彼はなまりもなく習慣も、全く違和感なしに他と同じに接していた。ただ外での寮のコンパの時などに女中らが、朝鮮人?と問い質《ただ》すのでこちらが嫌な思いをした。学部に入った後早く亡くなったが明るく、才気あり運動もやっていた惜しい好青年だった。
 あと二人は鮮内から来ているが、その内一人は一人息子のボンボン、親元離れて羽根を延ばしすぎたようで、もう一人と一緒に揃って落第した。
二年生とて勉強に励《はげ》んだのでもないが三人とも無事学部に進んだのに、同室の一年生三人の内二人まで落第させたのは先輩として恥ずかしいことだった。
 この一人は、お母きんから息子を頼むと言はれていた。立正会に誘うこともせずお互い好きなようにしているうち気が付いたら、カフェーの女給にうつつを抜かしていて後の祭り。二人とも遅れて学部に進んだが一人は早世《そうせい=若くして亡くなる》し、一人は敗戦時大学の助教授になっていた。引揚げ後は会っていない。
 学部に入るのに試験勉強は要らないこともあったろう、皆それぞれが好きなことをして二年間を過ごしたと思うが、予科の進級はなかなか厳しかった。病気の者もいたが、毎年七、八人は上から降りてき、同じ位が後に残きれた。


(3)

# 寮生活
 寮の生活は人それぞれだが勝手な外泊は誰もしなかった。終電車に間に合はない時は一里(四キロ)の道を歩いて帰った。別に門限はなく、仲間と一緒にわざと遅く帰り、真夜中のストーム《=寄宿舎で歌を高唱して練り歩く》をかける常連もいた。
 運動は寮の草野球とポール投げくらい。スケートはよくやったが、予科も本科もスケート部のレベルは高く、全国のインターハイ、インターカレッジに参加し優勝した年でもあり、私の出る幕ではなかった。
 本はよく読んだ。社会科学なるものに初めて触れ、雑誌中央公論と、改造とはよく分からぬながら読む毎に新しい世界に目を開く思いをした。河上肇《かわかみはじめ=経済学者》の第二貧乏物語、高畠素之《たかはたもとゆき=社会思想家》の資本論解説、猪股津南雄《いのまたつなお》の経済学解説書など熟読し、一方後に書く立正会と、エスペラントに就いても予習復習を後にしての熱心さだった。勉強はほどほどにやっていたつもりだったが、R.H.プライスさんのラテン語では二学期に落第点を取っ
て慌てたことがある。                    
 
万葉集、伊藤左千夫、釈迢空《しゃくちょうくう=折口信夫の号》の和歌もよく読んでいたが、自分で詠むようになったのは学部に入ってからになる(コレハ大学ノ時二記ス)。文学書は教室での近藤教授の堤中納言物語《つつみちゅうなごんものがたり》、ただ教授の耶斎志異の講義に興味を持ったが読んだのは古典ではなく当時のプロレタリア文学が多かった。徳永直の 太陽のない街、小林多喜二の 蟹工船は今もよく読まれているようだが、藤森成吉、江口渙、平林タイ子、葉山嘉樹などの名を思い出す。野上弥生子の小説は中央公論で読んだ。一年の時一学期から煙草を喫《の》み始めた、部屋の二年生二人がのむのを、真似してみたのがきっかけ。生徒の殆どは未成年だが教室の隣には喫煙室があった。お酒はコンパには付き物だが一口飲んで真っ赤になるので飲まずに過ごした。飲めぬ者に無理強いする風習はなかった(酒、煙草、ニ就イテハ別ニ記ス)。

♯ 炊事部
 寮は自治制で、互選で寮務、寮風、運動、文芸、炊事部等の委員を分担した。
 種々な「寮規則」は作られていたのだろうが、別段拘束《こうそく》を感じた事はなかった。寮務は寮生の代表、統括を受持ち、寮風部は規律、秩序、防火等の係りで点灯消灯、外出簿の記載等は皆がきっちり守っていた。私は二年
間炊事部委員をした。
 炊事部委員が何人いたか忘れた、代表は食糧倉庫の鍵をもち、住み込みの夫婦と炊事員とを監督指示していた。寮生二年目は同期の稲留が世故《せこ=世間づきあいの様々なことがら》に長《た》けていて万事取り仕切ってくれたので、私は苦労することなしだった。
 毎月の献立は品目、材料、価段の書いてあるカードから選んで作ればよかった。食費は幾らだったのか。土曜日の夕食は外出者が多いので、一番安い野菜の煮物にし、記念日のご馳走に苦心したことのほかは忘れた。朝は寝坊して遅く行っても飯は残っており、炊事部への文句は余り無かったと思う。

#チャンパン
 外出簿にはホンマチ、スパチーレンゲーエン=京城の銀座通「本町散歩」と書いて外出、帰りに清涼里《チョンヤンニ》駅前のチャンリョウで三銭?のチャンパンを夜食に買って来る。スリチビ(朝鮮居酒屋)もあってマッカリ(どぶろく)
をひっかけるものもいたようだ。
 「チャンリヨウ」とは、チャイナーのリヨウリ屋からきた名だが支那料理屋(今は中華料理店)とは違う。表が間口二間位、一間のガラスの引戸の薄ぐらい店・土間に机が一つ、椅子が二、三個ありすぐが台所で何時も火の絶えない竈《かまど》がある。
 主は大きな躰《からだ》の満州人か、山東省からの支那人、→人でやっていて朝鮮語も日本語も喋《しゃべ》らない。清涼里
《チョンヤンニ》でよく行った店は割にキレイで、二階もあり支那蕎麦《ラーメン》を食べるときには上にあがった。二部屋あって椅子が二つとテーブルとがおいてある。他にどんな物を作るのか食べたことはない。
 「チャンパン」はチャイナーのパンのことだろうがパンとは違う。軽く発酵させたメリケン粉をといて、長い柄のさきに付いた二枚の向き合った鉄板の片方に流し込む。蓋をして燃え盛っている竈《かまど》に差し込む。頃を見て引出し、もう片方の鉄盤にメリケン粉を流し入れ黒砂糖を一つまみ落とし 蓋をして再び竃の申に差し込む 
 出来上りは竈から出して蓋を開き 机に切りそろえて置してある新聞紙の上に落とす 直径十七、八センチの円盤は焦《こ》げ目が入っていて、香ばしい匂い、熱くてすぐには手に持てない。新聞ガミの上に置いたまま まん中を摘むと黒い蜜がくつついて上皮が剥《は》がれて来る、上手に食べないとこの蜜でヤケドをしかねない。寮に持って帰るときは新聞ガミに包んだ。
 平成元年エジプトに行ったとき中程のミニアだったかアシユートだつたかで似たようなのを食べた。中には黒砂糖の蜜はなく冷たかった。これを焼く竈も見たが丸く土で囲んであり炎は見えない。

 ♯ 運動会
  秋の予科運動会には寮を開放して各々の部屋が独自の展示物、飾りものに工夫を凝《こ》らした。二年の時に私たちの部屋では、「コクサンアイヨウ」と張り出して、四斗樽《よんとだる=72リットル》を重ねて飾り、稲と杯とをあしらったものをだした。
当時の宇垣総督のかかげる「自力更生 国産愛用」の標語をとったものだった。
 運動会のタロンボオドリも寮生の時の舞台だった。 腰蓑、首飾り、足輪、頭に冠りを着け、眼と口の回りを白く縁どった他は墨で全身を塗りつぶす。弓矢、投げ槍、楯《たて》を持って、ジンジロゲヤ ジンジロゲ ホーイツラッパノ ツエツーー(唄ノ文句ハコンナダツタトオモウ)と怒鳴《どな》りながり輪になって踊る。練習はしていたがそう念入りにやった記憶はない。
墨を洗い落とす時には風呂場は大騒ぎだった。

 ♯ ストーム
 部屋のコンパや何や、かにやの仲間連れが本町に出て一杯入っていると――入っていなくても 鮮銀前広場(朝鮮銀行、京城郵便局、京城三越ニ囲マレタ本町入口、一番ノ盛リ場)で、予科踊りの乱舞、放歌《=大きな声であたりかまわず歌う》を広げていた。町行く人は結構回りを囲んで見てくれたものだ。この勢いの流れが寮に戻ると、廊下一杯に高足駄《たかげた》踏み鳴らし、大声挙げてのストームが真夜中に突然始まる。ストームは何がきっかけでもよい。中 北寮の一、二階を一回りするころには初めの三、四人が十数人になり全員が眼を覚まされる。
クラス会、部のコンパ、試験の終った日いろいろなグループが始めるので、毎晩続いたり、一晩に何回か始まるのも珍しくない。

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投稿日時: 2006-9-25 9:07
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その3
(1)

 当時の映画 (吉村冬彦全集第十三巻より)
  昭和五年
 何が彼女をさうさせたか。四人の悪魔。チャップリンのサーカス。キートン。
 ロイド。父の罪 エミール・ヤニングス。ヴオルガ。
 Biasting Excavater (自然の破壊).Turksib ソヴィエット。
 Manslaughter パラマウント。 Love among the Millionaires クララボウ。
 西部戦線異常無し.アジアの嵐.暁の偵察,海淋の巨人 Moby Dick バリモア。
 Feetfinger  ロイド。 月世界の女。
   昭和六年
 「キートンのエキストラ」。
 Warner Bross. Ham & Eggs at the Front‥Across the Atrantic‥
 Across the the World. With Mr.and Mrs. Martin Jonson。.
 略奪者 クーパ.接吻 ガルボ.モンテカルロ.放浪船.海魔.リリオム. 潜航艇C.一号。
モロッコ。
 「海の動物」.「森の動物」.「木材から紙になるまで」.ソノホカ。
 トムソーヤの冒険 クーガン.
 家鴨《あひる》の死.春(ソヴィエット).「世界のメロディ」.「魔法の時計j.喰人島.
 白魔 モジューヒン。Marion. 狼火 パーセルメル.
 Taming of Shrew ダグラス.嘆きの天使 スタンバーク.全線.
 松葉かんざし.街のルンペン. モンテカルロ.
 巴里の屋根の下. 愉快な武士道. 街の紳士.

  七年
 大飛行船.籠《かご》の娘.新女性線.(4月)大地に立つ.上陸第一歩.銀座の柳.
(5月)自由を我等に.

  八年 
 二月 ひとで マン. 貝殻と僧 ジェルメール・デュラック夫人.
 Bring 'em back Alive。 巴里ー伯林《パリーベルリン》三月 Juille.ルネクレール.
 人生謳歌《おうか》
 五月 密林の王者(マンガ). 十月 モナリザの失踪《しっそう》.恋の凱歌《がいか》
以上は私たちの学生の頃に寅彦が見た映画である。
 このリストは昭和六十一年の卒業五十周年記念に全会員から原稿を集めて記念文集を発刊した時、当時を思い出すきっかけ、手がかりにもと、たまたまこの時配本になつた寅彦全集第十三巻から書きうつして会員に配ったものである。
 この中で京城《ソウル》で上映されたのはどのくらいあつたか。鐘路《チョンロ》朝鮮町に外人の観客が多い洋画館があり、内地人町にも若草劇場があり、その後明治座ができた時には、開館記念の ボレロを観にいった覚えがある。デイトリッヒとか、グレタ・ガルボ、エミール・ヤニングス。間諜《かんちょう=スパイ》Ⅹ29(27?)。外人部隊、嘆きの天使、パリ祭などを観たのは何時ごろか覚えていない。
 これには挙げられていないが、初めての日本語トーキー「戻り橋」や「マダムと女房」を見たのは予科の時だったと思う。


(2)

 立正会と津田先生
 津田 栄先生は予科の化学教授で、「立正会」リッショウカイを主催しておられた。何がきっかけだったのかは全く思い出せぬが一年の時からこの会に参加した。日蓮を信仰していた訳ではなく、津田先生の人柄に引かれたのと、仏教の話に興味を持っていての事だったと思う。
 広い意味の宗教ではあろうが、既成宗教とは全く異なった「日蓮主義」を標榜《ひょうぼう=主義主張を公然とあらわすこと》した法華経、日蓮上人の研究会で 岩波文庫の日蓮聖人御遺文集を教本とし、毎週一回、放課後に校内の集会所で講義があった。文科の者も加わっていたが理科の生徒が多く、二十人位はいた。私達一年の仲間五、六人は先生のお宅にも始終お伺いしお話を聞きに行っていた。
 会は大学学生と予科生徒が主体で、日曜に会の集会に行くと先輩達が出ていて、ここでは社会問題の話が多かった。夏休、春休みには集会所に合宿をして研究会、討論会に参加していた。大学卒業生のほか社会人が参加して、後には緑旗連盟、緑旗開館もでき学外での活動をするようになってきた。
 姉崎正治、田中智学、山川知応など当代の日蓮学者の系統で、政治的には田中養正、里美岸雄(「天皇とプロレタリアート」の本を書いていた)に近かったかも知れない。マルクス、ヘーゲルに対する「円融弁証法」と名付けた史観の話は哲学科の先輩からきいた。国柱会々館では石原莞爾《いしわらかんじ》とか駒田ナニガシとかの軍人たちの名が日蓮主義者として身近に話されていた。後の事だが京大滝川事件に対する意見、討論もあった。
 しかし先生は「正しいものは強くなければならない」とよく言われていたが、政治にかんする話を聞いた覚えはない。学部に入り、卒業、更に就職後牡は一層立正会に遠のいたが津田門下としては変らず、十六年に結婚したとき朝鮮ホテルでの披露宴は先生ご夫妻に媒酌人になつて戴いた。年譜《=個人一代の履歴を年代順に記した》を見ると先生に初めてお会いしたのは先生三十五歳の時、媒酌人をお願いしたのは四十六歳のときであつた。
 先生は翌年の十七年に安部能成《あべよししげ》先生が第一高等学校の校長になり城大を去られたとき、同行して一高にかわられた。戦後にお会いしたときは清泉女子大に出ておられ、御自宅に「化学教育研究所」を設け、全国の学校教師に実験教育の場を提供しておられた。一高時代は戦時中の生徒主事、それも全国高校の筆頭主事として、化学教育のことは何も出来ぬ立場を辛抱されたと奥様から伺つた。

 以下は 「私の歩んだ理科教育の道」 中村、林、有川 編

 昭和五十七年 大日本図書株式会社発行 による先生の経歴
 大正五年(一九一六)第一高等学校二部乙類卒業、九年東京帝国大学理学部化学科卒業。同年慶応大学予科教授、十一年同大学医学部講師兼任。
 十三年(一九二四)京城大学予科教授。
 昭和二年ドイツ留学中、化学研究の途中で 学問の研究か教育の研究か と考えられたときに、「学問の研究」から「教育の研究」に転ずる決心をされた。
 予科化学教授のとき昭和五年からは十二年間朝鮮総督府視学委員として全鮮の小中学校をまわられている。
 戦後は二十二年に一高を辞任され、東京都日比谷高校に二十六年まで、以後は病臥《びょうが》される三十二年まで清泉女学院高等学校で高校生への「化学授業の実験」を続けられた。一方では、二十五年に清泉女子大の教授になり、同時にお茶の水女子大、東京理科大、学習院大の講師として「化学教育法の講義」を持たれた。
 大正十四年(一九二五) 「高等無機化学」を発刊されたのを初めとして、「高等学校の化学」、「中学生の理科」、「小学校の理科」等の著作がある。三十二年以後の病臥中も執筆を続け「化学通論」、「基礎無機化学」 の改訂版は昭和三十四、三十五年に、「化学実験法」の改訂版は没年《=死んだときの年》に出版された。
 理科教育センターが設立された翌年、三十六年(一九六一)に六十五歳でなくなられた。                               
 
 以上。

 いつも直接お話をうかがえたのは予科の二年間だったが学部に入った後も、会にはよく出ていた。立正会では、社会のあり方、医のあり方について私なりに感じる事があったと思うが、日蓮の教えを宗教として身にしみて感じたことは無い。
 今も父の後を受けて法事、墓参りは真言宗のお寺でし、高野山にもお詣りに行ったが、仏教に帰依《きえ》してのことではない。


(3)

 講義 
 予科の入学試験は内地人は中学校五年、朝鮮人は高等普通学校五年卒業が受験資格で内鮮人同じ試験を受けた。古文、英文、漢文の解釈や作文の文法問題では、どぅしても朝鮮人が不利なので、色々の非難はあり、朝鮮人の入学に制限を加えているとの風評《=うわさ》もあつたと言う。私の同期生の金君は平壤高等普通学校から只-人入学したが、「予科は平高普からは取らない」と生徒間に噂される程、今までの入学者は少なかつたと言っていた。
 初代予科部長は「最初より内地人並びに朝鮮人の区別をなさず、入学試験の如きも全く同一の標準をもっておこなった。-ー高等普通学校の増加と学力の向上で、朝鮮人の入学者は年と共に増加するであろう」と話しておられる。事実年と共に朝鮮人の入学者はふえている。
 大学卒業生の内鮮人別の数は別に記す。

  昭和五年の入学試験は 文科  志願者  三五九  入学者  七二
             理科  〃    六八五   〃   七一
 同期七十一人の内鮮別は分からぬ。原級に残されたのが九人いて一学年は八十人。A.B組四十人ずつの編制だつた。学部卒業の時には六十六人に減っていて、そのうちの十二人が朝鮮人だつた。

 予科の講義が内地の高校と違ったのは、必須科目に一年の図画、二年のラテン語があり、第二外国語のドイツ語は一、二年とも週に十時間あつたことだつた。
 図画は小、中学校以来の大の苦手、授業は胸像のデッサン、石井や佐々木に輪郭を書いてもらい、それをなぞつて提出していた。
 独逸語《ドイツ語》の先生は黒田、尾島、紅露、尹、斉藤とおられた。尹泰東先生は唯一人の朝鮮人の職員で、同じ東大独文の出身なのに後輩の斉藤先生とは違って教授ではなく講師だつた。気持ちの良い方で私たちはよくお宅に遊びに行っていた。京城《ソウル》の両班(ヤンパン)の家柄ではなかろうか、塀に囲まれた幾棟もの家のある邸宅で、奥さんもきれいな日本語で話しておられた。
 先生のお話では哲学の講義をする事になつていたのが、独逸語を持つ事になつたと言っておられた。予科の記録には何故か 朝鮮語講師 とある。懐かしい方だが予科には長くはおられず、その後は知らない。
 独逸語会話講師に J.フスさんがおられた。この方はなぜか フスと皆が呼び捨てにする。Hess で Fussではないと自分の足を叩《たた》いて発音するが生徒はなかなか正確な発音が出来なかった。私に Wangen Rot (赤いほっぺた)と渾名《あだな》を付けてくれた。
 外国人講師でも英語、羅甸語《ラテン語》の R,H,ブライスさんは、「傭外国人教師」で学者(ロンドン大学出身)として見られていたのに、{フス}は「講師」で学歴のないバイオリン引きとされていたのだろう。{ブライスさん}は後に学習院の英文学教授になられた。皇太子の先生になった方である。
 私がラテン語で落第点をとったのは、英語が聞き取れず講義が理解できなかったせいもあったろう。数学の講義もさっぱり理解できなかった。微積分の話を教室のゴミ入れのカゴを手に持って熱心に説明されるのだがさっぱり分からず、講義は聞かずに自分で参考書を見て理解した。この二つは「勉強は教室で講義を聞いておれば、大体理解できる」というわけにはいかなかった。
 教科書のない講義はどうも駄目だったようで、最近まで[教科書を何故か買い損なって持っておらず]、試験にうろたえる夢をよくみていた。 以上

 入学者の内鮮別を見ると
 昭和十七年十月現在学部在学者
        内地入   朝鮮人   計   朝鮮人の割合
  法文学部  一三六   一〇〇  二三六  四二、三%
   法学科   九二    七四  一六六  四四、五
   哲学科   一七    一一   二八
   史学科   一〇     六   一六
   文学科   一七     九   二六
  医学部   一五四   一〇二  二五六  三九、八
  理工学部  一三二    九六  二二八  四二、一
   計    四二二   二九三  七二〇  四一、四
 
 卒業者昭和一七年までの総計
   法学部   内     鮮
        五七二   三八七  九五九  四〇、三
   医学部
        六四七   二四〇  八八七  二七、〇

 
 
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投稿日時: 2006-10-18 8:18
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その4
大学時代
     昭和七《1932》年四月~十一年三月

 昭和七年四月に父は東京に移住した。
明治三十八年以来の朝鮮、明治四十五年以来の平壌《ピョンヤン》を去ると共に、官吏を辞任し以後は全くの隠棲生活《いんせいせいかつ=世俗をのがれて閑居する》にはいった。
 この時の家族は父五十七歳、母四十七、進二十一(大学一年)、光子十八、昭十六(中学四年)、幸子六(小学一年)、典子四歳の七人で長女総子、次女保子は結婚して東京と平壌とに住んでいる。
 東京を永住の地として杉並区和田本町に新築の家を買ったのは退職金を当てたのだろうが、収入は恩給だけだった事と思われる。この後の父の手記は謡の稽古《けいこ》、食べ歩きと旅行の記事など晴耕雨読《=田園に閑居する自適の生活》の生活が記されている。
 父母ともに理財の心がなかったのは確かだが、このころの経済事情は何も分からない。

♯一 学資
 学部に進み寮を出たので学資は当然増えたはずだが幾ら送って貰っていたか覚えていない。三学年になる前と思うが父から軍の委託学生《= 軍が学費を支給して教育をたのみまかせる》にならぬかと言われた。
学費は軽くなるが卒業後は軍医にならねばならないので、なんとしてもこのままで続けさせて頂くようお願いした。光子の嫁入りの支度、昭の進学と物いりの時だから家計は苦しかったのではなかろうか。
 下宿を代わり、家庭教師のアルバイトをして依託学生にはならずに卒業したが在学中お金に困ったような記憶はない。
 卒業した後はすぐ就職せねばならぬと思っていたが、幸い家からの仕送り無しに研究室に残ることが出来たので、家への送金は二年半あとからになった。

 # 二  筑波館
 四月初め、一家は大勢の人の見送りを受けて平壌《ピョンヤン》を発ち内地に向かう。途中、私は一人京城《ソウル》駅でおりた。皆は朝鮮を去ったが、姉が平壌に残っているのが心強かった。
 下宿は入学試験を受けたとき泊まった筑波館に、その時一緒だった橋爪と六畳の部屋に同居した。春休みはすぐに平壌《ピョンヤン》に帰り、探すのは面倒と彼と一緒になったのか、一人では淋しかったのか、筑波館の老主人の勧めを断れなかったのか。
 橋爪はヴァイオリンをやっていて、予科のときから音楽部に熱中し、学部になると一層忙しく動いていた。大学の管弦楽団が改編成され、交響曲の学外公演の演奏会にまで発展し、昭和九年第十回演奏会にはベートーベンの第八、十年の第十回演奏会には第五交響曲の指揮をとった。
 寮の時から仲間を誘いヴァイオリンを仕込んでいたが、私には音楽の筋が無いとみたか、部のマネージャをやらぬかと言ってきた。音楽よりももっとその能力は無いので勘弁して貰った。
 私は立正会と雑誌「碧空」のことで、彼は音楽のことで別々の生活をしていて、お互いに干渉し合うことはなく、仲良く学部基礎の二年間を同室で過ごした。

 # 三  行潦(こうろう)にはたづみ
 この短歌の会が何時どうしたことから始まったか知らない。
 医学部の大沢勝薬理、小川蕃外科、中村両造整形外科教授の三人と一年の学生(佐々木、粕谷、芦田、高橋、泉川と私)六人がメンバーだった。
微生物学の中村三教授がみえられることもあったが、仲間?六人は変わらなかった。卒業の年に後の学生に継続を頼んだが、いつかなくなってしまった。
 六人の中で高橋は予科ではなく、二高から東北大文学部独文を卒業して城大にきた。マンドリンでは既に一家をなし、自分のタカハシ・アンサンブルを主催し、専門誌に音楽評論など書いている。後にはパリのギターコンクールの審査員になったりしている、なかなかの積極家。兄さんが京城《ソウル》で先生をしており、前の城大総長志賀潔先生の甥《おい 》で顔も広く押しも強かった。かれと大沢先生との間で話が始まり決まったのだと思う(大沢教授については別に記す)。

 粕谷と佐々木とは予科進修寮の仲間、共に文才熱情あり、歌会にも積極的だった。芦田、泉川とは予科B組の仲間、一時短歌の会に入っていた事があったという。
 私がどんな事から入ったのか覚えていない。粕谷は私が歌の本を読んでいるのを知っていたのでこの辺りで話が起こり、高橋が引き込んだのだろう。佐々木とは最も親しくつき合っていたので彼が入るならと、仲間入りしたのかもしれない。
 後に記す同人雑誌「碧空」には行潦の仲間は皆入っていて、これは粕谷が主宰。行潦は高橋が世話役だった。佐々木、粕谷、高橋とどれもみな個性の強い連中だったが、どちらも四年間よく続いたと思う。

 行潦(こうろう)のリーダーは大沢教授で歌詠みの経歴もあり、この名も初めから決まっていたようだ。月に一回の集まりに歌稿は、先生手持ちの手漉《てすき》きの鮮苔紙にタイプで印刷し、行潦 と草書で先生手書きの表紙をつけた立派な小冊子が配られた。
 大概は土曜日の午後、構内の大学食堂二階が会場だったが、教授の自宅や街中のこともあった。本町の西洋料理店、青木堂とかボアグラとかはどこも一流店だったのに、会費が負担になったような覚えはない。

 両造先生は登山家で歌の批評も厳しかった。小川先生は私らと同じ初心者だったようだ。今にして振り返ると、小川、大沢両先生は一八九〇年生まれの東大同期生、両造先生はその三、四年先輩で、どなたも四十歳過ぎ、まだ五十にはなっていらっしゃらなかった。会を重ねるうちに歌稿で誰のか分かるようになってくる。学年が進むにつれて先生の講義を聞き、試験を受けることになる。「試験でひどく搾《しぼ》られて、ウイコン(ウイーダーコンメン=再試験)と言われた日の夜の会で当の先生からその日の歌を大いに褒められた」思い出を語る者もいる。先生の歌も学生たちが散々な批評をし、遠慮のない和やかな集まりだった。
 詠まれた歌の記憶は殆どない。この時の歌稿は誰も残していない。「碧空」が発表誌だったが、これも残っていない。

   たまりては消え 消えきえてはたまるにはたづみ
      そのときときに美しきかな          高橋 功
               初会の時の祝いの歌として記憶にある)

   なんというふこの暖かさ
      長崎の二月あかるく桃さきにけり       大沢 勝
              (朝鮮の二月しか知らず驚きの感慨だった)

 私自身の歌も忘れてしまった。思い出せるもの三、四。

   この朝餉《あさげ》 七草かゆをはらからは 寿ぎいなむ。
      吾は いひはみつ              進

   七草のかゆを好みて をしたまふ 父を思ひぬ。
      いひ はみ あれば

   人あらぬ夜更けの街は 焼き栗の にほひほのかにただようごとし

   道はたの をくらき灯 人ありて
      栗買へといふ その声寒し

   いくはくの銭にならむか 灯のもとに
      躰かがめて 栗 売る人は

 いま記憶に残るものをあげたが、当時の表現とは違っているだろう。初
めは釈迢空《しゃくちょうくう=折口信夫の号》の真似をして間に句読点を入れて出していた(上の様だったかは分からぬ)。
 短歌、俳句、漢詩に興味を持っていたのでいろいろ読んではいた。歌集は釈迢空と伊藤左千夫のを好んで読んだが、まともに先生について勉強したわけではない。二人ともたまたま本屋にあったから買ってきただけの事。
 卒業の後はいつか 行潦 はなくなって私の歌詠みも止めになった。

 平成元年十一月十五日これを書いていて思えば、行潦 の会員は高橋、泉川と私の三人になった。仲間では戦争中佐々木が一番早くフィリピンで戦死した。


# 五  碧空
 医学部一年のときに仲間ができて雑誌「碧空」を始め、卒業するまで発行した。何号まで続けたのか忘れたが、最終号は卒業の年、昭和十一年の一月か二月かだった。この時の編集当番として、編集後記に廃刊の言葉は私が書いた。
 一年の学生粕谷、佐々木、近藤、芦田、槙、高橋、細川、丹羽、泉川、進の十人がメンバー。粕谷が筆頭で高橋がそれに並ぶ。この二人が揃わなかったら 碧空 はなかったろう。
 私が入ったのは粕谷、佐々木の勧誘だったろう。 碧空 結成のいきさつは知らず、いつの間にか仲間に入っていたような気がする。他の連中も似たような事だったようだ。粕谷、慎、丹羽はスポーツをしていたが、他はスポーツは苦手の者ばかり。槙は唯一の朝鮮人だが彼も「なぜ自分が会員
になれたのか分からぬ」と言っている。丹羽と一緒の京城中学のつながりだったろうか。

 A6判、表紙は粕谷の構図で、左上の赤い 碧空 は安倍能成先生の筆。
高橋が東北大で小宮豊隆先生に師事していたつながりだったろうか。粕谷と高橋とがお願いに行った。原稿も頂いている。
 二か月に一回くらいの発行で内容は小説、詩、エッセイ、短歌などいろいろ、各自勝手に書いており、行潦例会の歌はこれに掲載された。編集は二人一組の当番持ち回りで、編集当番は原稿集めから印刷、校正まで自分なりの趣向でその号を仕上げる。広告は喫茶店、本屋が主だったが沢山取
れたときは本も豪勢になった。
 
 経費は同人の会費と行潦の三教授にお願いした寄付(行潦発表の見返り?)とが定収入で、広告取り、印刷屋との交渉は当番の腕、本の売れ行きは同人のなりゆきだった。京城一の本屋、本町の大坂屋号書店にも置かせて貰った。学生は一人月二円位出していたのではなかったか。当番のとき先生方に二円戴きに行ったと思う。一部が十銭だったか。卒業をまえに最後の刊行は赤字にならずに終わっている。
 「碧空」は一冊も残っていない。高橋、細川は卒業してすぐに内地に帰ったので、あるいはと思ったが、二人とも戦地に行き、帰国した時には無くなっていたという。
 内容は覚えていない。近藤はエッセイを書いていた。槙、細川は小説、佐々木、粕谷は詩や歌、芦田、泉川、丹羽、高橋は短文を多く書いていたのではなかったかと思う。
 私は芦生記の連想文、ジャン・コクトーの読後感、芥川の「朱儒《しゅじゅ》の言葉」に誘発された言葉など書いたが、内容は思い出せない。幾つか詩のような
ものもつくった。

    電線にひっかかった凧を 雨は 地面にたたき落とそうとした
      風は 街の向こうに吹き飛ばそうとした
    凧は 残された糸にしっかりとしがみついた
      子供たちは きっと迎えにきてくれる
    ある夜 凧の残骸が 地に落ちた
      雨もなく 風もなく 月は 子供たちの部屋も照らしていた

      (コレモ当時ノトハ、違ッテイルダロウ。良クナッテイルノカ
       悪クナッテイルノカワカラヌガ、思イ出スママニ書イテオク。) 


 # 六
 学部の四年間、初め二年は黄金町の下宿に橋爪と同居していたが、三年になり臨床が始まるのを機に、それぞれ大学に近い東祟町の下宿に移った。
今度は二階、三間の素人下宿で大学先輩の医局員がいた。私の六畳の部屋は北側で冬は寒かった。暖房は火鉢だけ。朝起きると机のインキが凍っている。
 アルバイトの家庭教師は三年生の中学生の家で二か年つづけた。住宅地、奨忠壇《チャンチュンダン》の家の広い座敷で、時間になるとお母さんがお茶とお菓子とを持って現れる。誠に静かな家庭だった印象がある。冬の間も暖かな部屋だった。

 何時、誰から言い出したかこれも分からぬが、教科書なしの講義はプリントを作ことになった。ノートをしっかりとっている者のを照らし合わせながら原稿をつくり、皆が分担して病理、眼科、内科など、いくつかの講義録を完成した。病理学の小杉教授は何時も原稿無しで講義を進められた
が、ノートをとり易いきちんと文章になるような立派な講義だったのが印象に残る。
 私はこの時も原稿作りには協力したが、立正会も 碧空 も常に人の後を追っかけてついて行くことしかやっていない。自伝を書いていて、中学以来尻馬に乗っているばかりで、創意工夫の才能は全く駄目だなと自覚するばかりである。

編集者
投稿日時: 2006-10-18 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その5
京城《ソウル》  城津《ソンジン》
                昭和十一年 ~ 二十年
                   63・1・8 起筆
 1.岩井内科
 2.高周波工場医務室
 3.高周波病院 医局員のこと

1  城大岩井内科と田中丸病院

 十一年 (1936) 三月、卒業式の前から岩井内科教室にでていた。ここは学内で一番教室員が多く、この年はクラスからは十二人、学外からも四、五人入り、ノイヘレン(新入局者)は十五人をこえていた。新医局員の多くは半年から二年くらいの間に就職して教室を出て行くので、数はだんだん少なくなるが次の四月にはまたふくれあがる。
 当時の流れは、基礎の大学院に入学し、二年を終えて研究所などに就職する者、臨床《=病室にのぞんで》教室にはいる者もいるが、大概はすぐ臨床教室に籍をおいた。入局後まもなしに兵役につく者、就職する者、何年も腰をすえて助手、講師になる者やいろいろだが、一、二年いて就職し、二、三年間学資を蓄《たくわ》えて戻り、学位論文の仕事にかかる例が多かった。
 私は卒業すぐに就職せねばならぬと思ってはいたが、父の厄介にならずに済めば出来るだけ医局で勉強をしたいので、岩井教授にアルバイトの口をお願いしていた。
 入局後まもなく教授は田中丸病院を世話してくださった。院長は大正の末に総督府病院内科(大学付属病院の前身)に東大からきた方で、京城《ソウル》の私立病院ではここだけが伝染病の病室を持っていた。
 私の仕事は夕方本院に行って入院患者の回診をするのがおもで、たまには外来患者を診ることもある。その後は龍山《ヨンサン》駅前の分院に行ってここで寝泊りをする。分院には夜の患者さんが来ることは殆《ほとん》どない。
 朝食を分院でとり電車で大学に行き、夕方車が迎えにきて本院に行く。ここで夕食をして車で分院に送ってもらう。日曜日の留守番をするときもあり、ここでは副院長と呼ばれるが仕事らしい仕事はない。それでいて暖房費も何も要らぬ住居があり、食事がつき、しかも手当てをもらっていて、医局での勉強には何も制限を受けなかった。

 私は第七回の卒業で、入局したときの先輩には東大と慶応、京城医専の方がおり、城大卒業生の最古参は二回生で二人いた。一回生は道立病院に出ていかれた後だった。
 教室員は入局後二年間は先輩の一人に二、三人ずつ割り当てられ、其の指導で入院患者を二、三人受け持つ。三年目からは Ober Arzt (上医・指導医)となって入院患者五、六人から十人くらいの責任担当医になり、後輩の指導をすることになる。私も入局三年目に後輩三人を預かった。教授から研究テーマを出された、「胃液の細胞診」。これは某先輩が途中でやめたテーマだとあとから聞いた。
 このころには三回生以上の先輩はいなくなったし、同期の者も少なくなって忙しい毎日だった。文献調べと細胞学の勉強を始めたが、あまり興味を持っていないテーマなのではかどらず、研究らしい仕事もせずに医局を出てしまった。(アルバイトについては後に記す)。
 また三年目からは副手手当てをもらうようになった。どのくらいだったのか思い出せないが、家に仕送りをする程ではない。就職のときにモーニングコートを着て挨拶回りをするしきたりだったが、この服は自分でつくったから余り使わずに貯めていたのだろう。分院、教室、本院の間を電車と自動車とで回っているので使い道もなかったのだろう。昼飯の学生弁当十五銭(?)を大学弁当二十五銭(?)にしたかもしれない。
 教室によって教室員の少ないところでは、入るとすぐ有給副手になるし、或は正規の職員である助手にもなるが、医局《医師が控えている》員の多いところでは、なかなか、なれない。副手《=大学で助手の下の位置》の手当ては僅《わず》かだが、助手ならば正規の俸給《=勤労者に対する給与》を受けながら勉強が出来た。

 大学には内科学は三講座有り、学生への講義は次のようだった。

 第一内科  (岩井) 伝染病 呼吸器
 第二    (伊藤) 消化器 内分泌 代謝
 第三    (篠崎) 循環器 神経

 一番の大所帯は一内で、二内が一番少なかった。医局員が少ないと逆に多くの患者を診ることが出来るからとニ内に入った者もいたが、このプロフェッサーはそっくりかえる感じで講義もよく欠講になり、こちらも講義に出ないことが多かったし、私には親しめない遠い存在だった。(後に書くことになるが二十八年に、この方が院長をしている霞が浦国立病院に勤めることになったが、次の年から内科の臨床を私に任せた後は一切診療に口を出されなかった)。

 三内の教授は一番若く、講義は活発で理路整然としており、研究室の仕事はここが最も盛んだった。クラスからは五人入ったが、ここも自分の性に合わないと感じていた。
 第一内科の岩井教授は、学生の時に、ポリクリ(外来患者診察)の丁寧な診察ぶりと理輪的な臨床講義とを好ましく思って、この先生に師事することに決めていた。
 先生はまだ大学が開設される前の大正九年に、志賀潔先生に同行して慶応大学の助教授から朝鮮総督府病院にこられ、京城医専の教授を兼ねておられた。昭和三年に総督府病院は大学付属病院になり医学部教授になられた。昭和五年に第一回生が入局し以後毎年医局員は増えて学部一番の五、六十人になっていた。
 父の次兄細野に、内科を選んだことを話した。伯父が内科学会の役員をしており、亦岩井家は古くからの友人であることを知った。先生は婿養子《=養子縁組によって婿となった》に行かれたので細野をよく知っておられ、これがコネになったかどうかは分らぬが、よい条件のお世話を戴いたと思っている。大変に叱られた事があるが、これは別に記す。

 十一年に私が入局したときの城大出の医局員は前に記した二回生2のほか三回 2、四回3、五回4、六回3人、これに新入生が加わり城大出だけでも二十五人を越していた。十三年の秋に私は医局を出たが、この時に同期の者は三人に減っている。大概が二、三年の予定で簡易保険診療所や工場、鉱山の診療所に出て行き、その後研究室に戻り論文のアルバイトにかかっている。
 中には私のように敗戦の時まで勤めを続け、あるいは召集を受けて敗戦になった者もいる。


2 城津《ソンジン》高周波工場    白石先生

 十三年1938の秋に教授からこの工場の診療所に行くように言われた。眼科の早野教授からのお話で、先生と東大同期の城津の鉄道病院長、白石深蔵先生から工場診療所の内科医の紹介を頼まれになったとのことだった。創立草創《=創立したばかりの》の製鋼工場で操業の一方拡張工事を続けていて医務室は三、四年先には総合病院になる予定だとの事だった。その後白石先生が京城に出てこられ、早野先生の部屋でお会いして、行くことに決まった。総合病院になるときに外国留学をさせてもらう事になっていた。

 日本高周波重工業株式会社は昭和十二年の創立で本社は京城に在り、社長は朝鮮殖産銀行頭取の有賀さん、工場長は専務の高橋省三さん。技師長も総務部長も四十台の若手で幹部も従業員も若い者が多い。
 工場は東京の北品川と富山の魚津とにもあるが、今建設中の威鏡《ハムギョン》北道、城津《ソンジン》邑 双浦《ソウホ》のが最大の工場で、高周波電撃《げき》法という特殊な方法で鉄鉱石から鋼鉄・特殊鋼を一貫作業で造る。この製鉄法は前から特許になっていたのを、事業家高橋さんが取り上げ殖産銀行を動かして会社を設立し、豊富な水力電気、鉱石、石炭・港の好条件が揃った城津《ソンジン》が工場地に選ばれたと言う。軍需工業として緊急な拡張工事が続けられている。
 城津《ソンジン》は昔からの港町で、大韓帝国が鎖国《=国が外国との通商や交易を禁止》をといたときに開港した港の一つであった。京城《ソウル》を夜九時すぎの急行に乗って次の日の昼、三時頃についた。当時の汽車で東京~下関くらいの距離になろうか。私が行ったときはまだ城津邑《ソンジンむら》(町)だったがいつか城津府(市)になった。人口は三、四万?。 工場はこの港町から峠を越えて一里(四キロ)余りはなれた双浦の海岸にあり、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう=金属を加熱し打ち延ばしてねばり強さをあたえる》等等の工場は日夜二十四時間仕事を続けていた。

 私が赴任したときは社宅が足らなくて翌年まで、城津の旅館から双浦に通っていた。医務室は工場内にあって、以前から鉄道病院の女医さんが看護婦を連れて通っていたが、私が行ってからも引続き勤めて外科を診てくれるので、私は内科を診ていた。もともと内科を診る約束だったがやむを得ず小児科を診たことがあった(コノコトハ後ニ記ルス)。外科は翌年城大から安藤君がきて女医さんと交代した。

 白石先生は明治の未に東京大学佐藤外科教室から朝鮮の日本人「民団」の時代に派遣され、そのままここから移る事なく診療生活を続けておられる方と聞いた。先生からは「東大から島流しをきれた俊寛《=平家討伐を謀って密告され鬼界島にながされた》の心境を伺ったことがある。少しここより北にある吉州にも同じような方がいらっしゃったが御名前は忘れた。

 先生は初めから会社の医務の顧問になっておられ、病院設立の時には院長の推薦もなさった。総督府鉄道局の病院長を委託されていて、官選の道会議員(県会議員)を永年長年なっているが一度も発言したことはないと言っておられた。世間的な名誉や金銭には全く恬淡《てんたん=ものごとに執着しない》とした方だった。早野教授と同期ならばまだ六十前のはず、泰然《=動じない》とした老大家だが人力車で気軽に往診もなさっていた。お酒がお好きで、二日酔いの日は頭に鉢巻して休診、町の人は皆知っていて何も言わない。
 小柄で控え目な奥様と御嬢様が二人おられた。も一人の上の方は内地に嫁がれていて私は知らない。城津には学校がないので元山の女学校を出たお二人が家におられた。お嬢さんはいつも喜んで迎えて下さったと思う。私はしょっちゅう行っていたし、安藤君が来てからもよく行っては、お二人の手作りをご馳走になっていた。先生は碁を打たれるが独学だと言われる。私は駄目だが安藤君は勝負になるようだった。シーズン中は六大学野球のラジオ放送をよく聞いていらした。

 私が結婚し、召集を受け、帰った後は病院が忙しく戦争が激しくなるにつれて段々足が遠くなってしまい、二十年八月十五日以後は城津に行くことが出来ぬ儘《まま》、連絡無しにご一家は日本に引き揚げられた。
 後年、浦和にお住まいになっていると聞いてお訪ねした。奥様は既に亡くなられ、先生ご自身は緑内障で突然失明されたよしで、いかにもご不自由な御様子で体力も随分衰《おとろ》えられていた。城津《ソンジン》のときからの婦人がお世話をしていた。お嬢様お二人は結婚されて岡山と東京におられ、その後先生のお葬式の時にお会いしたが、それからの消息は分からぬ儘になってしまった。


3 工場医務室 のころ

 赴任早々の城津の旅館から通っていたころは・宿にもどれば自分の時間でのんびりできていた。工場は昼夜操業をしており、工場の増設、道路、合宿、社宅、港湾等の建設が威勢よく進行していた。十四年の春に社宅が出来たので双浦に移った。三百号社宅と言われる三間の家で、港湾係の(老?)夫婦と独身の設計係とで一間ずつに住んだ。
 食事は一日三回会社の食堂に行った。ここでは工員も事務職員も一緒に狭い所で長椅子に腰掛け、自分で飯を盛って食事をしていた。それだけ草創期の者たちには、後々まで「皆が同じ釜の飯を喰った」同士的な連帯感がのこつていたと思位後だと思う。
 課長、主任、社員社宅は一戸建てで、四百、六百号は二戸続き、工員社宅は長屋だった。一階建ての独身社員寮、二階建ての独身工員寮が完成し、工員クラブ、社員クラブ、デパート風の大きな店、映画館を兼ねた公会堂などが次々に建ち、郵便局、警察署もできた。工場は三交代で二十四時間休む事なく動いていた。
(夜間勤務後の休養室設備を福祉係と相談したが、とうとう実現できなった)。
 工場も社宅も活気にみちていた。私も忙しいのは苦にならず診療の他、粉砕、電撃、製鋼、鍛造《たんぞう》、圧延、熱処理などの現場によく見回りに行った。毎月の工場の社報に保健衛生の記事を書き、その季節に多い病気のラジオ放送もした。工員養成所では保健の時間を受け持って講義をしていた。

 日曜祭日も舎宅にいると呼び出しを受けるので、どうしても休みたいときは汽車に乗り朱乙《チュウル》辺りまで出かけている。社内で私を休ませようという提言があって七月に一と月の休暇がでた。東京の家に帰ったが清瀬お母さんは湯河原の門川で転地療養をしていらした。
 この時は工場医務室のあり方に就いて、京浜地区の工場を方々見せて貰い、労働科学研究所にも行った。「労働時の疲労の客観的判定」に就いて考えていたので質問したが、研究中とのことでヒントは貰えなかった。岡山から青山に移転して間もない頃だと思う。

 高周波病院
 十五年になってバラックの仮病舎が建ち内科の村田院長、外科の副院長、小児科、歯科がそろった。耳鼻科、皮膚科、眼科はもっと後だった。内科は三人になり、病室が出来たので往診は少なくなりずつと暇になった。しかし院長は診察には余り熱心でなく新病院の建椴《けんたん》にカを入れておられた。
 医局員が多くなったことは遊び相手が多いことで、将棋、碁、麻雀はことに盛んだった。その中心は副院長で下心有ってのことかも知れなかった。(コレハ後こ記ルス)。又小児科医長も気に人らぬと思ったが段々行動がおかしくなり、麻薬中毒とわかり辞めて行った。後任の医長も気に入らなかった(コレモ後ニ記ルス)。

 十六年春 本病院が開設した。ベット数百五十、北鮮随一の総合病院と言われた。内科3、外科2、小児科2、産婦人科、放射線科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各1、歯科2の医局員。外科診療助手1、マッサージ師1。歯科技工士1、放射線技師1、検査技師3、助手1。薬剤師3、助手1。調理師1。看護婦が何人いたのか忘れた。付属看護婦養成所も同時に開所した。
 院長は白石先生の推薦で元山道立病院院長を辞めて来られた方で内科医長、京大、五十歳前半。副院長は内地からきた京大外科荒木教授推薦、外科医長、四十歳後半?。放射線も京大だがこの方は京城に実家がある、安藤君の義兄、三十歳後半。産婦人科は咸興《ハムフン》道立病院からこられた東大、四十歳後半、二代目の院長。
小児科、眼科も道立病院からきた医専、四十歳後半と前半。耳鼻科、皮膚科は城大、三十歳前半と後半。歯科は東大歯科教室からきた東京歯科医専、三十歳後半。
 これに医員が外科、内科の城大二人、内科の平壌医専一、小児科の大邱医専一、歯科医一の五人、皆三十歳前後。薬局長と、事務長も道立病院からきた五十歳半ば?。検査室に東大坂口内科からの室長ら優秀な技師が三人も揃えられたのは嬉しいことだった。

 開院に当たって、会社の看板は医長全員が学位を取っていることだったようだ。歯科、耳鼻科、皮膚科はとったばかりだが、外科の安藤君はずつと前に取っており卒業も先輩になる。上に副院長で外科医長が来たので、ちとおかしな立場だなと思った。病院社宅が出来たとき、安藤者と私とには医長舎宅が用意されていた。会社は私たち二人の処遇苦労したのだろうか。
 社宅は緩い坂道の左右に建っていて、正面高いところが院長、その横に副院長宅。その下に一戸建ての八、八、六、四・半、三畳の医長舎宅。二戸続きの医員、事務員の舎宅と並んでいる。官庁と同じに上から序列の順に割り当てられて、安藤君と私がどんけつだった。
 副院長に何故一人朝鮮を知らぬ人が京都からきたのか分からない。工場の技師長、院長が京大だったからか。京都が三人、城大が四人。眼科、小児科も城大で仕事をした人だが院内に学閥争いが有ったわけではない。

 私はこの年の秋召集を受け、十八年一月に復帰した。戻ったときには眼科、外科、放射線、歯科医長、事務長は辞めていた。(軍隊生活ニ就イテハ別ニ記ス)。
 歯科は、歯科医師が特別措置で医師の資格を取得出来るようになり、その教育を受けるために辞め、眼科は宿直の時に診た子供さんがジフテリーだったのを軽くあしらって手遅れにしたと、家族からしつこく言われて、嫌になって辞めたように聞いた。引揚げ後歯科、放射線とはよく会った。歯科は内科に転向していた。眼科の消息は知らない。
 副院長に就いては別に記す。

高田さん
 高田さんは卒業が遅れて、副院長より後になっているが年は上と聞いた。
 大言壮語型《=自分の力以上に大きいことを言う》の副院長には我関せずで音楽、写真に深い造詣《=学問または技芸に深く達している》を持っておられ、碁や麻雀ではなく、焼物やゴルフが院長と共通の趣味だった。
 私が十八年一月に復帰して間もなく、院長が発疹チフス《=法定伝染病》で亡くなられた。殉職に対する会社の措置に不満があったので、安藤君と二人で高田産婦人科医長を誘い三人で工場長に交渉に行った。会社葬にする事と、弔慰金《ちょういきん=弔意の気持ちをこめて遺族におくるお金》の額を確かめることだったと思う。高田さんは前から辞意を云っておられたが二人に同調してくださった。

 城津《ソンジン》は伝染病の多いところ。内科の診療中に患者の背中に蚤《のみ》が這っている。発疹チフスはこれが媒介《ばいかい=双方の間にたってなかだち》する。院長がかかったときは京城《ソウル》から岩井教授に来て頂いたが駄目だった。特効薬の無い時代で、年輩者の死亡率は高かった。次の年に私もかかった、片山君に助けて貰った。私の時も京城《ソウル》から助教授が来てくださったと聞くが、意識不明が続いていて何も知っていない。
 後任の院長には城大の四人(外科、耳鼻科、皮膚科、内科)は高田さんにお願いすることに決めて動いた。大学から会社に高田氏推薦の報があったと云うが、大沢教授辺りからではなかったううか、皮膚科の赴任には大沢教授が関与しておられる。私はそこまでは動いていない。

 後任を引き受けるに就《つ》いて、会社から小児科医長を副院長にすること、私を内科医長にすることの注文が付いていると言われ、私の意見を聞かれた。
 内科は医師を一人増やして貰えばやって行けると思う。小児科は副院長の器ではないと思っているので反対だ。あなたに院長になって頂きたいから、会社がどうしてもと言うのなら、名前だけのことにして欲しい旨の返事をした。(そのようになった為であろうか、敗戦のときの対応は院長がー人で当たられた)。

 高田院長は就任後よく動いてくださった。内科に関しては早速医師を一人採用し、胸部Ⅹ線間接撮影装置をいれて結核の集団検診を始め、も少し後になるが私が提唱していた健康管理料の準備に看護婦を一人配置してくださった。亦《また》、興南《フンナム》の朝鮮窒素k.kと話し合って労働科学研究所の朝鮮支部も発足した。

 私の国内留学に就いても、会社、大学に話してくださったが、岩井、大沢教授の間がうまく行かなかったこともありご破算になった。

 二十年八月日本敗戦の時ロスケ《ロシア人をあざけって言うことば》が来た大混乱のなかで高周波病院解散を宣言されるまで、戦後の処理を独りでやられた苦労は大変なことだった。
 病院解散、院長退任表明の後はご自分一家だけの生活になり、抑留《=強制的に留め置く》中は歯科医長と元の道立病院で仕事をつづけ、年が明けてから家族は闇船《やみぶね=正規のルートではない》で帰国させ、身軽になっておられた。後に道立病院の仲間とー諸に脱出を企てたが失敗し、帰国は私どもと一緒になった。
 闇船が順調に港を出ている十月、船頭と打ち合わせて海上で船に乗り移ることを計画し、小舟に乗り沖に出て船を待っていたが夜明けになってもこないので戻ってきた。闇船は夜の出航前に荷物の点検があり、不審な荷物から道立病院長の勲記《くんき=勲章者に勲章とともに与えられる証書》、勲章が見つかり出航は取りやめになったと聞く。

 引揚げ後北品川の会社に同行したが交渉は無駄だった。
 しばらくは埼玉の病院に勤めておられたが歯科医長の郷里、山形の新庄で開業され大変な名声だったという。ここには歯科と耳鼻科も開業したがうまくいったのはお一人だけで、仙台学会の後お訪ねしたときは、二人はいなくなっていた。晩年は病院を閉鎖し、神奈川の秦野《はたの》で娘さんの家族と暮らしておられた。
 私の七十の祝いの会を熱海でやったときには喜んで出てくださった。奥さんは外出が不如意《=思いのままにならない》とのことでお一人で見えた。
 病院の同僚とは個々に会ってはいるが、皆が一緒に集まったことはないので、七十の祝いにかこつけて夫婦で来てもらうように声をかけた。岡山、兵庫、大阪東京、茨城、から揃って出てきてくれ、帰国以来初の対面の者もいた。

 住所は分かり年賀状の交換をしているが、敗戦の時のあり方が気に入らない二人には意識して声をかけなかった。もう一人は亡くなった。
                                以上

 この記事を読み返すと、我ながらなかなか執念深い男だなと思う。
 他に同僚の記事はあるが、今度の印刷は止めにする(平成二年三月)。

                                終わり。

編集者
投稿日時: 2006-10-19 19:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6
応召
             昭和十六年九月~十七年十一月

 十六年九月何日だったかは忘れてしまったが赤紙がきた。小児科の豊田君が一諸だったと思うが出かけた時は一人だけだった。召集らしい様子が分からぬよう隠密に出発することと言われた。病院で壮行会を催してくださった、鱈《たら》の料理だった。
 門出に「海征かば」を歌ったが自分自身が「草ムスカバネ」の身になるなどの実感はなにもなかった。

    海征《ゆ》かば  みずく屍《かばね=しかばね》  山征かば草むす屍
       大君の辺《へ》にこそ死なめ  返り見は  せじ
 
 私は昭和十三年一月に初めて実施された第一期軍医予備員教育を受けていたので、身分は予備役陸軍軍曹、召集された時は軍医として従軍することになる。
 大学を卒業した年に京城《ソウル 》龍山で徴兵検査を受け、第一乙種合格と言われた。甲種合格だと殆《ほとん》どは現役でその年に兵隊にいく。乙種合格には第一と第二とがあり、その次は丙種合格、ここまでは国民皆兵と言われていて一旦緩急《いったんかんきゅう=ひとたび緊急な大事が》ある時はこの順番で軍に召集される。時勢は何時召集令状(赤紙)が来るかわからぬので、一乙の者は殆どこの教育を受けた。
 十六年十二月八日大東亜戦争《太平洋戦争》が始まってからは召集は丙種にまで広がり、まさか召集はあるまいとこの教育を受けなかった者は二等兵で召集され一年間は普通の兵隊、すぐには軍医にはなれなかった。

軍歴確認書

 昭和十三年 -月  九日 衛生伍長の階級を与う
              軍医予備員候補者として歩兵第七十八連隊に入隊
         二十三日 衛生軍曹
              軍医予備員を命ず                          
         二十四日 在営期間満了除隊

 昭和十六年 九月 十六日 臨時召集により歩兵第七十三連隊に応召《おうしょう=在郷軍人が召集に応じて参集》
                衛生曹長の階級を与う 見習士官を命ず
                羅南《=ナラム》陸軍病院付
         十月 十五日 会寧《=フェリョン》陸軍病院付
 昭和十七年 十月 十五日 軍医少尉補 会寧陸軍病院付
        十一月 三十日 召集解除
 
 この軍歴書は六十一年に横浜刑務所を退職するつもりでいたので年金の足しになるかと、羅南のは高丸(大学同期生、一緒に召集され羅南陸軍病院に配属された)に、会寧のは藤本君(大学の後輩で会寧陸軍病院の庶務主任)に証明を書いてもらい作っておいた。

 召集令状は葉書よりは少し大きな赤い紙に、何月何日何時ドコソコエ入隊すべき文句が記入されている。これが来れば否応なし、荷物は何も要らない、赤紙を小さな奉公袋に入れて体一つで指定の時に指定の場所に行かねば「徴兵忌避《ちょうへいきひ=徴兵適齢者が徴兵を嫌って避けた》」の罪で捜し出されたすえ軍法会議(軍の特別裁判所)で厳罰を受ける。

 私は軍刀を風呂敷に包んで持って行ったが他に何を持っていたか覚えていない。この軍刀は、双浦で今泉さんにみて頂いて購入した備前物の脇差を革の鞘《さや》に包んで軍装にしておいた。(今泉さんは工員養成所の所長で、閣下で通る予備役陸軍少将、敗戦の時はこの地区の軍司令官だった。城津《=ソンジン》で部隊は武装解除を受けソ連に連れて行かれたが幸い帰国されたと聞いた。ついにお会いせぬままでいる)。
 いずれは私にも召集令が来るものと覚悟はしており、軍刀も用意はしていたが本当に戦争になって戦地に行くとか、生きては帰られぬかも知れぬとかは思ってもいなかった。「出征」の前に婦人科の高田さんが三池子が妊娠していることを知らせてくださったが、当然帰って来れば会えるものとしか考えていなかった。
 幸い私は一年余りで召集解除になったが、その儘《まま》敗戦の時まで従軍を続けた者も、再召集を受けた者も多く、シベリアに連れて行かれた者、南方に行った者、この時の召集仲間の運命は色々だった。ニューギニア、フィリッピンに行った者のうち、五人が戦死した。
 この時の召集は関東軍特別大演習「関特演」と言われたもので南鮮でも第二十師団に多数が召集された。独蘇《どくそ=ドイツとソビエト》戦の牽制《けんせい》のように聞いたが既に対英米戦の準備だったのだろう。召集指定の七十三連隊にはクラスの、林、丹羽、高丸、溝淵、松岡、吉野がいたようだ。私は幸い高丸と一緒に羅南陸軍病院付になった。高丸は二度目の召集(初めは昭和十四年、日本軍がソ連の戦車隊に完敗したノモンハンに行っている)なので彼の言うとおりに行動して、皆目勝手分からぬ軍隊生活に大変助かった。


 召集されたものは野戦部隊《=実戦の部隊》と留守部隊とに配属され、野戦部隊は毎日の猛訓練で鍛えられたが陸軍病院では特別な肉体訓練はなく、いくらかの軍陣医学の講義があだけ、野戦のとき何処に野戦病院を置くかなどの話だった。

 病院配属の召集者は多勢いて診察の仕事はない。見習士官だけでも五、六人はおり、広いひと部屋をあてがわれ一と月余りすることなしに将棋《しょうぎ》や碁《ご》をやっていた。十月にようやく各々の配置が決まり、私はも一人の見習士官と会寧陸病に転属になった。
 会寧は豆満江をはさんで対岸は満州、山の中の国境の町で京城から羅南を通り満州のハルビン、新京(長春)に行く鉄道が通っている。既に秋は過ぎ冬の北風が吹いていた。ここには歩兵、工兵砲兵、飛行聯隊のほか野戦部隊がいくつもいたよぅだ。       

 病院長はもう年輩の中佐だったが、その後待命になり後任に大陸で野戦病院長をしていた大佐が来た。庶務《しょむ》主任は城大の三年後輩の中尉で、大学では面識はなかったが何よりも頼みになった。専属の軍医は私たちの他には何人もいなかったようで、眼科、外科等の専門医は隊付きの召集軍医が来ていたし、宿直も隊付き軍医が交代で泊まっていた。
 後になって新卒の現役少尉が配属されて来た、新進気鋭=新進で意気込みのはげしい》の自信家、恐いもの知らずか。それと現役の薬剤少尉、これも見習士官より階級は上である。薬剤長は年輩の穏やかな中佐。歯科は町の開業医が来ていた。


 私の仕事は内科の患者を診ていればよかった。一緒の見習士官は阪大出の産婦人科医で内科患者の主導権は私に任せてくれた。病室主任は庶務主任になっているがこれも任せてくれた。患者は兵隊が殆どで、将校患者は稀《まれ》にあり病室主任が主治医になる建前《たてまえ》だった。

 軍隊には色々な制約があったのだろうが、治療に就いて束縛《そくばく》を受けた記憶はない。診療簿にチンキでなく丁幾、ピカでなく重曹と書くように言われた位の記憶しかない。初めの院長には何かと「指導」を受けたが次の院長は初め二、三回診療室に様子を見に来たが、その後は報告を聞くだけになった。
 診察の他に衛生兵の教育があるが毒ガスなど知らぬ事は衛生曹長に頼んで私は側で聞いていた。
 亦週番士官という勤務もあった。週番士官のタスキを掛け下士官を従えて消灯前に各内務班を巡視するのだが、これは班長の「異常有りません」との報告を受けるだけであれば問題はない。何か事が起きたときにはまったくお手上げの週番士官だが、幸い何事もなしにすんでいた。

 時には兵隊を引率して外を歩かねばならぬ事がある。この時に面倒なのが敬礼で、階級が下の者は向こうが先にしてくれるが、そうでないのには「歩調トレ、カシラ右」--の号令を掛けねばならない(コノコロハ右側通行)。見習士官だから将校と見れば号令を掛ければよいのだが、準尉《じゅんい=将校に準ずる》という厄介なのがいる。
 階級は見習士官が上だか、準尉の服装は将校の格好で襟章《=えりにつけた飾章》を見なければ分からない。
(註)これにさきに号令を掛けるのはまずい、いちいち気を使うのは面倒だからこれも指揮は下士官に頼んで別に歩くようにした。
 註 準尉
    下士官、兵は同じ官給の服でいわゆるゴボウ剣を上着の上に着けている。
    準尉と将校とは自前の良い生地の服装で、長い剣を上着の下の刀帯に吊っいて、帽子も下士官、兵とは違う。
    襟章は各兵科別に決まった色分けになっていて(例えば歩兵はエンジの赤、騎兵は萌黄《もえぎ》)、階級を示す筋と星とが付いている、少尉は筋一本に星一つ、中佐は筋二本に星二つ。準尉にはこの星がない。
    見習士官は下士官の服装に長い剣を上着の上に締めた刀帯に吊り、襟章は曹長と同じ三っだが横に座金がつている。
    準尉はもとは特務曹長と言っていた。「兵」の初めは二等兵で一等兵、上等兵、兵長と上がって来る。この上が下士官で伍長、軍曹、曹長となりこの上が準士官といわれる準尉。ここまて昇ってくるのは大変なことで大ベテラン、この後も優れた者は将校になり、少尉更に上にもなれるがよくよくの身に限られる。
       
 見習士官は階級は曹長だが身分は将校なので部隊の営門《=兵営所の門》での敬礼も違うようだ。同行した下士官が衛兵に私えの敬礼をやり直させたことがある。
 師団長主催の新年宴会にも出席した。こうした正式の会の席は宮中席次で決まるので、召集を受けた文官《ぶんかん=武官でない官吏》の将校の方が隊の上官よりも上の席につくと聞いた。
 師団の将校は殆ど集まっているのだろうが、見習士官は末席に座っているので上の方は分からぬ。なおこの席での余興に当時一流とわたしも名前を知っていたバイオリニストが兵で召集きれていて、カツポレか何かを注文されて気の毒に思った。
 営内《=兵舎内》居住の決まりになっているが、外出は自由である。会寧の陸病では兵舎の二階の個室で暮らした。暖房はペーチカで食事、洗濯、掃徐の世話など全て当番の従兵がやってくれる.朝は運んでくれた朝飯を摂《と》って病院に行くが刀はつけないでいい。患者の診察をして、昼は病院長以下の将校らと会食する。午後は重症者病室の回診や、講義や、時には慰問演芸の立会いや結構忙しかったが、定時になれば部屋に帰り、一番風呂に入って夕食を摂る。勤務時間後の患者は宿直の者がやってくれるので全くの自分の時間になり、城津に比べるとはるかに楽な毎日である。外出は自由だが行く所とてはない。映画館が一軒あって時に見に行ったこともある。一人ではつまらないので下士官、兵の誰かを連れて行くが、臨時の外出ができるので喜んでいた。この他には城津工場の警備?課長だった丹下さんが会寧の邑長でおられたのをお訪ねしたのと、お菓子屋にお万頭《まんじゅう》を買いに行くくらいだったろう。

 天長節(天皇誕生日)だったと思うが暖かい小春日和に兵隊達を連れて支那料理屋に行ったことがある.二、三十人だったろうか。支那料理屋と言っても支那蕎麦《しなそば》、ワンタン、ポーズのようなものだったろう。小さな店なので入りきれない、てんでに外で腰掛けて食べていた。下士官に財布を渡して面倒を見て貰ったが幾らかかったかは記憶にない。


 勤務のなかで楽みなのは患者移送がある。入院患者で長期療養を要するものは内地や鮮内の療養所に移すのだがこれを連れて行く仕事で、患者は一人の事も、十数人のこともある。内地送還は汽車に乗って清津《チョンジン=朝鮮北東部の港市》まで連れて行き、ここから船に乗せた。朱乙《チュウル》や馬山《マサン=韓国の港湾都市》の療養所にも行った。慢性の病人だが重症患者はいないし患者の引率は下士官、兵がいるから私の出番はない。清津《チョンジン》は日帰りだったが、用が済んだ後に、ホテルの港が見える食堂で何か洋食らしいものを食べるのが楽しみだった。患者一人を送りに兵と二人で朱乙《チュウル》分院に行ったときは、患者を引き渡した後、兵を連れて二人で温泉旅館に行った。温泉に入り浴衣を着て夕食をたべた。外出は自由だが外泊は出来ないのでご馳走を食べてからまた分院に戻り宿舎に泊って翌日会寧に帰った。この温泉は城津から息抜きに何回か来た所だ。
 馬山は朝鮮の南端だから北の端の会寧《フェリヨン》からは大変な長道中《ながどうちゅう》で、朝立って乗り換えを二回し次の日の午後に着いた。患者と下士官とは三等車で私は二等車だから途中では、朝目を覚ましたときと、列車乗り換《か》えのときに会うだけ。無事患者を引き渡してから下士官と別れて、すぐ夜汽車で引き返して朝早く京城《ソウル》に着いた。洋子が生まれて間もない頃だった。
 
 会寧《フェリヨン》に居るとき軍医少尉になった。軍歴書で見ると十月十五日である。今までは何もかも官の支給品で暮らしてきたがこれからは、自分の費用で暮らすことになる。も一人の見習士官も一緒に任官したので二人で偕行社に行き、軍服、外套、靴、長靴《ちょうか》、背嚢《はいのう=軍人が背負う方形のカバン》、将校行李《こうり》など一揃いを整えた。幾ら掛かったのか、其の費用はどうしたのか記憶にないが、見習士官の俸給で間に合ったのだろう。長靴など必需品ではないのに何故これも貰ったのか分からぬ。「地方」=(チホウ、軍隊でないー般民間)では手に人らぬ物なので、長靴は敗戦直後に物々交換で米一斗になった。
 十一月三十日 召集解除。任官してーと月余り経っているがこの間の記憶は無い。官舎に入ったのだろうか、食事はどうしていたのかも覚えていない。
 解除になるとすぐ発って城津により其の足で京城に行き、清瀬《きよせ=東京都北部の市》お母さんの容態がよくないので洋子を連れて三人ですぐ東京に向かった。軍人優先の世の中なのに便乗して道中は軍服を着たままで通したが、関釜連絡船に乗るのに行列とは別にすぐに乗せ貰えたりしたように何かと便利だったようだ。しかし軍服を着ていても、一年余りの病院勤務しか経験の無いこの将校さんは、大失敗をした。東京から父と四人で仁科に行ったときに、沼津で軍刀を置き忘れて汽車を降り、駅を出て自動車に乗るときに気が付いた。幸い停車時間が長かったので汽車はまだ出ていなかったから助かった。


 伊豆仁科《静岡県西伊豆》の、伊山伯父は三池子の父智道の兄で、幼時三池子が育ったところ。この伊豆行きは三池子との結婚の挨拶もだが、お母さんの葬式のあとの息抜きもあって仁科にご厄介になった。蓮台温泉《れんだいおんせん》に案内してくださり、手作りのドプロクのご馳走にもなった。伊山伯父とはこれが最後だった。

 私の応召中三池子は、家財を城津の社宅に残したまま京城の山本家で世話になっていた。洋子はここで無事に生まれ、皆に可愛がられて育った。この間に山本のおぢいさんが京城高等商業学校校長を退官されている。何か有ったようだが、それについて、一切話された事はない。
 応召中にも会社からは俸給《=公務員に対して支払われる給料》の何割かがでていたので、三池子は東京への仕送りは続けてくれていた。少尉になると俸給は増えたのだろうが、どうしたのか憶えていない。解除になり東京に行く費用は手元に有ったのだろう。


 私の軍隊生活はこの時の一回だけだったが、一緒に解除になった者の多くは二度目の召集でビルマ、フィリッピン、ニューギニアに行っている。召集解除が無いまま敗戦のときまでいてシベリアに連れて行かれた者もいる。これは先に記した。
 私が再召集を受けなかったのは、軍需工場の病院でその内科の責任者だったからだろうか。敗戦間際に内科と皮膚科の二人が召集をうけた。私に当たっていれば戦後の生活は全く変わったものだったろう。
 又、城津赴任の際の外国留学の約束は獨蘇戦に続く大東亜戦争《=太平洋戦争》で駄目になり、国内留学に代わった。召集解除を期に城大に戻る話があったが、これは別に記す。実現していたらこれもどんな 運命になっていただろうか。
 大東亜戦争は日本の呼び名、今は太平洋戦争とか、第二次大戦とか言われている。学生時代からの、支那事変、満州事変が行き着いた対英米宜戦布告《=開戦宣言》は、召集をうけていた会寧陸軍病院で聞いた。
 近くに野戦部隊はいたが、病院に戦傷者がいるわけもなく、戦争は遠い他人ことだった。一年余りの私の軍隊生活は、戦地に行った者には極楽にいるものと思われるだろう。背嚢しょって行軍したこともなく、いわんや弾《たま》の下をくぐったことはなく、「上官の命令」も知らない。
               
 誰もが召集の為に一生が左右された時代だった。私は運が良かった方だと思っている。 

                            
 以上


編集者
投稿日時: 2006-10-19 19:55
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7
16-補

応召追加 会寧《フェリョン》のこと

   威鏡北道《ハムギョンプット》 会寧邑《フエリョンむら》
   東径129度、北緯42度に在。(ソレゾレ日本デハ、九州五島列島ト北海道襟裳岬《えりもみさき》ニアタル)、冬は零下二・三十度まで下がり夏は三十度を越す。私が行った十月にはもう木の葉は落ちていた。雪は少なく凍土は五月頃迄解けない。
   豆満《トゥマン》江を挟んで対岸は満州で、ソ連国境にも近い。人口 二万二千、内内地人三千七人(昭和十七年)。木材、石炭、牛、緬羊《めんよう=羊毛をとる羊》、穀物が主な産業。満州間島省との貿易が盛んである。駅前から7本の商店街が陸軍病院前を通り歩兵75聯隊迄続いている。これと直角に「銀座通」がある。
   邑《むら》長の丹下政之助さんは警察署長を辞めて高周波城津《ソンジン》工場におられたので、お訪ねしていた。敗戦後丹下さんは霹助《ろすけ=ロシア人をあざけって言う語》に捕まえられて行方不明、奥様は山の中を歩いて城津迄たどり着かれ、収容所で寝込まれたまま栄養失調が快復できずお亡くなりになった。私は僅《わず》かなお金と米とをお分けすることしか出来なかった。

 この地方には旧石器時代からの韓民族の歴史があるようだが、以後 粛慎、靺鞨、悒婁、沃沮、高句麗《コウクリ=古代朝鮮の国名のひとつ》(BC1-686)とツングース族の支配下にあり、金(1115-1234女真族ツングース) 元(1270-1358 蒙古族)と続く。朝鮮民族の朝鮮統一は新羅《シラギ》(BC7-935)のあと、高麗《こうらい=朝鮮王朝のひとつ》(915-1382)になるが北のこの地方までは届かなかったようだ。

 1392年に李氏朝鮮《りしちょうせん=朝鮮の最後の王朝》が興り会寧には1434年会寧都護府《とごふ=唐で周辺支配のために置かれた官庁》が置かれている。この李氏朝鮮も1637年以来女真族=満州族の清国《しんこく》の属領にされ、1910年には日本に併合される。          

 日本との関係は文録の役、慶長の役(壬辰の乱、丁酉の乱(1582-8)に加藤清正は、1582年に会寧まで遠征しており、更に豆満《トウマン》江を越えて間島にも進軍したといわれている。

 日露戦争(1904-5)の時には元山に上陸した第2師団が戦闘をしながら北上し、明治38年8月に会寧に入城している。9月6日講和の時の休戦協定は会寧《フェリョン》の東北12キロの鉄洞という部落で交渉されたが、ここだけは纏《まと》まらぬままに両国の講和が締結《ていけつ=条約をとりきめる》している。

 昭和16年10月に私は会寧陸軍病院に配属され17年11月までいた。
 朝鮮は北に羅南《ナラム》の第19、南に京城龍山の第20師団の二個師団があった。
 会寧には第19師団の歩兵第75聯隊、工兵第19聯隊、第2飛行団飛行第9聯隊、野戦垂砲兵第15聯隊、高射砲兵第5聯隊、補充馬廠《しょう=うまや》、陸軍倉庫、憲兵隊、陸軍病院があり朝鮮では京城、羅南に次ぐ軍都であった。

 当時は関東軍特別大演習(閑特演) と言われた臨時召集で、25万の関東軍兵力は75万に増強し野戦部隊が編成され、そのまま16年12月の大東亜戦争の宜戦布告につながった。羅南の各部隊も野戦と留守部隊とに分けられ、野戦病院も編成された、私は陸軍病院付きなので留守部隊に属し、野戦の演習訓練は全然経験せず普通の病院勤務の事しか知らない。

 なお、開戦後これらの部隊はビルマ、フィリッピンに派遣された。一部はフィリッビンには行かれずに台湾にあがったのもある。
 18年頃までは精鋭を誇った関東軍《かんとんぐん》はその後主力部隊の殆どが南方戦線、支那、大戦末期には南朝鮮 (済州島=米軍上陸) に転出していて、20年には対ソ連作戦は満州の大半を放棄して朝鮮に近い満州の山中にはいって抵抗することしかできぬ弱体になっていたようだ。それでも陣地と兵力を保持していた部隊は北満の各地で停戦命令のでるまでソ連兵と戦い続けている。北朝鮮でも羅津、清津に上陸したソ連軍に、羅南部隊は陣地を構え敵を撃退し19日に停戦命令を受けるまでソ連軍の進撃を許していない。これに就いては別に記す。

編集者
投稿日時: 2006-10-22 20:47
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8
敗戦と抑留、 引揚げ

 昭和二十年《1945年》八月~二十二年一月

♯ 一  二十年八月十五日の前後
♯ 二  わが家十人家族の一年間
# 三  抑留者の暮し 脱出 闇船
♯ 四  私の 引き揚げ
♯ 五  同僚医師の選んだ道
♯ 一  二十年八月十五日の前後


♯ 一  二十年八月十五日の前後

  朝鮮(ちょうせん) 威(かん)鏡(きょう) 北道(ほくどう) 城津府(じょうしんふ) 双浦(そうほ)
         
 日本高周波重工業株式会社 城津《ソンジン》工場付属高周波病院

 昭和二十年八月~二十二年一月

 昭和二十年七月の末に病院では内科医師と検査技師とに召集令がきて、早々に出征した。(二人は済州《チェジュ》島に配属、敗戦になり家族よりも早く内地に復員した)。

 八月になると広島に、次いで長崎に爆弾が落とされ、これは新型でマッチ箱の大きさでも物凄く強烈な力を持つものだと噂されたが、原子爆弾とは聞いていない。八日に工場従業員、病院では皮膚科医長が現地召集をうけ、一個大隊が編成されて病院の裏山に続く高地に陣地を構えた。九日、ソ連軍が満州に攻め込んできた。従業員の家族は西海岸に疎開することになり、病院の家族は十五日頃に予定された。

 以前から毎晩のように十二時ころにサイレンが鳴り、上空をB29《アメリカの爆撃機》の編隊が飛んでいっていた。サイレンが鳴ると病院に駆けつけていたが、工場には一回も爆弾は落とされなかった。北の清津(せいしん)、羅津(らしん)の港が目標だった。一度は日中に黒い小型の飛行機が低空を飛んできた、日の丸は付いていない。何もなしに飛び去ったが、その後に海上で銃撃を受けて負傷した船員が、病院に手当を受けにきた。ソ連の飛行機だった。ソ連軍は朝鮮にも攻め込んできた(羅津《ラジン》空襲は九日、滑津上陸は十三日)。家族の疎開は始まっていたが病院はまだだったまま十五日になった。

 十五日は正午に重大放送があるとのことで、病院の職員一同は事務室に集っていた、玉音放送である。天皇陛下のお声だというが、内容は聞き取り難い。日本は負けたらしい。だが、ある者は「これからロシヤと戦うのだから頑張れ」ということだと聞いている。

 院長は工場長室に行き、日本が負けたことを確認し、病院はこのまま診療を続ける事をきめてきた。内科と眼科の医師、看護婦、歯科と検査室の助手、事務員等の朝鮮人職員は、この時以後病院から姿を消した。

 家族の疎開は中止になり、京城《ソウル》まで行っていた列車はすぐ引き返して四、五日後に双浦にもどってきた。(後日この処置は種々批判されたが、私は当然の決断だったと思う)。

 城津《ソンジン》には双浦《そうほ》の一個大隊のほかに、一個旅団の軍隊がいてソ連軍上陸に備えていたが、軍の司令官と、府尹(市長)との連名の治安維持の布告がだされた。朝鮮人の内地人社宅襲撃の噂があって、夜警隊をくむ話もあったが病院社宅では何事もなかった。

 朝鮮がわではすぐに人民委員会が組織されたようだが、具体的な事は全く分からない。双浦では警察官も憲兵もいなくなり、朝鮮人の公安隊(保安隊?)が組織されて元の警察署を本部とした。私が初めて接触したのは彼らに軍刀を渡した時だったと思う。

 軍隊がいた為だろう、治安は保たれていたが、後にこの部隊はソ連軍に武装解除を受けた。帰国後に知ったのだが、この中に城大医学部同期生の松岡、高丸の二人がおり、また十六年に私が召集されていた会寧の陸軍病院も、城津《ソンジン》まで下りて来ていて、みなシベリアに連れて行かれた。  
 十五日以後も病院は日本人職員だけで診療を続け.入院患者も残っていたが、続々と北からの避難民が到着し始めた。ソ連軍の突然の攻撃で慌しく戦場から逃れてきた人たちで、満州の間島地区や、ソ連国境に近い羅津《ラジン》、滑津、会寧《フェリョン》等からここまで、ロスケを避けて二、三百キロの山間を十日間以上も歩き続けてきた。初めは家族皆揃って出てきたのが老人、乳幼児は殆どいなくなっている。病院で一、二泊休養をとり、さらに南下して行った。家を出てから初めての憩いの入浴、炊事、洗濯であったろう。

 南下を続けるという病人には薬を渡したが、無事内地までたどり着くことが出来たのはどの位いたろうか。南朝鮮に着く前に北朝鮮に抑留され、咸(かん)興(こう)や元山(げんざん)の収容所では発疹チフス《ほっしんチフス=法定伝染病》が流行して多数の死亡者が出たと聞く。病人を抱えて動かれない家族は別の合宿に収容した、その後移動禁止の命令が出てこの人たちはそのままここで冬を越さねばならなくなった。移動禁止令が出た時、双浦《そうほ》には五千人ほどの日本人がいた。

 敗戦の日のすぐ後に私の家に三人が訪ねてきた。
 初めに来たのは軍装の下士官で、応召時に会寧《フェリョン》陸軍病院での部下だった。「羅津《ラジン》の任地から元山《がんざん》の要塞司令部に連絡に行き、帰任の途中、城津《ソンジン》まで来て敗戦を知った。これから隊に戻るつもりだ」と言う。羅津は戦場になった所で、もう戻られる所ではない、もっと南の師団司令部羅南《ナラム》でさえ戦闘があったのだから、羅津の部隊はもう無くなっているだろう。日本は負けたのだから原隊復帰は考えないで、軍装は捨て、剣は土に埋めて南におりなさいとすすめ、ズボンなど着替えを渡した。

 もう一人は大学同期の吉野。「威鏡《ハムギョン》両道の山中で捕虜になり、部隊と徒歩で北上中、吉州辺りでソ連兵の隙を見て脱走してきた。家族のいる興南《フンナム》まで南下する途中だ」と言う。朝鮮語が上手なので一緒に脱走した朝鮮人と同行し、服装も朝鮮人になりすましてロスケの自動車に乗せてもらいここまで来た。これからもロスケの自動車で南下出来そうなことを言っていた。「何十日ぶりかの暖かい布団に寝て」次の日に出て行った。(後日の話では、ロシア語を勉強していたのでソ連軍の歩兵部隊の貨車に便乗して興南まで歩くことなしに行ったと言う)。

 あと一人は、大学医局の先輩で、滑津の工場病院勤務。上陸してくるソ連軍を逃がれてきた家族連れの工場職員の一群で、山の中を徒歩でここまでたどり着いた疲労困憊《ひろうこんぱい=つかれはてた》の仲間だった。この一群には子供連れがいたが 一、二日の休養では南下を続けるのは無理な人が多く、かなりな人数を残して本隊は次の日に南下して行った。
 三人とはもっと後になってのことになるが、内科の医師金君が来てくれた。十五日以後は病院に来なくなり病院社宅を引き払い、公安隊に出ていたが近く威境《ハムギョン》南道の両親の元に帰るので、お別れの挨拶に来たと言う。「一緒に行かないか、親元に行けば先生一家の面倒はみてあげられる、日本に帰る便も多いだろう」と言ってくれた。

 金君が十八年春に赴任してきた時には、御両親が揃って挨拶にみえられた。京城《ソウル》医等卒業の日本に馴染みきっていた真面目な男だった。ソ連軍侵攻で内地人職員の家族疎開が計画されるとき、「朝鮮人職員の家族が入っていないのは何故か」と憤慨して聞いてきた男だった。厚意は感謝したが日本人を残して自分だけがここを離れることは出来ないので、無事な帰宅を祈って別れた。

 双浦には八月二十三日にロスケの軍隊がきた。入院患者は出来るだけ減らしてはいたが、私が初めてロスケと出会ったのは病室を看護婦と回診している時だった。
 将校だけに乱暴はしなかったが、顕微鏡をだせというのがいた。責任者と思われる将校は、穏やかな態度で院長にベットの提供と病棟の一部開け渡しを要求してきたが、受け取りの証書をよこしさえした。このころはまだ通訳はいない、ロシア語を話せると称する朝鮮人が中にはいると飛んでもない誤解になることが多かった。
               
 最初に来たロスケは、戦闘を続けてきた兵隊でピリピリしていた…日本兵が隠れていないか各所の捜索は厳しかった。(会寧、滑津、羅司 書州では戦闘があり日本軍は山中に退いて反撃にでるとの情報だった)。合宿所の廊下で出会いがしらに機関銃を撃ち込まれた者、少しの不審な挙動で撃たれた者もいた。

 私の家に来たときは、入るとすぐ一人が私に機関銃をつきつけて、他の八、九人が一と部屋ずつ天井、押し入れの隅まで丹念に調べた後やっと銃を離してくれた。軍装品は早く処分したが背嚢《はいのう》だけは、帰国のさいに子供にしょわせて帰るつもりで箪笥《たんす》の上に置いていた。これを見つけるや、きっと振り向いて銃を構えなおした、肝《きも》の冷える思いだった。ロスケは私の腕時計を見つけて コレモラッチイクヨ といった素振りをして持って行ったが、初めにきた兵隊は他の物には手を付ける事はしなかった。

 このころの部隊は軍紀がまだ艮かったので、病院は外来だけにして診療を続けていたが、日を追って後から続いて来る兵隊ほど乱暴狼藉略奪がひどくなり、八月の末に院長は病院の解散を宣言した。

 ロスケが来てからも病院解散の前迄しばらくは、看護婦なしで外来と往診とをしていた、日本兵の捕虜《ほりょ》の長い行列を見送ったのは往診の途中だった。
 病院外来で診療をしている所に、公安隊の制服に軍刀を吊《つ》った男が訪ねてきた。「自分は〝解放〝で刑務所から出てきて、この地区の隊長をしている。前に肋膜炎《ろくまくえん》になった時にお世話になったので、何か出来ることが有ればしてあげたい」との申し出だった。「私は今、ここで患者さんを診ているが、家はロスケの略奪をうけているだろう。妻は子供を連れて逃げ隠れしている。昨夜私は家で八か月、一歳、三歳の三人の子を見守りながらロスケの略奪を眺めていた。妻は貴君も知っているK夫人と義山に身を潜めて夜を明かした。亦動かれない病人の所には往診に行くのだが.途中身の危険を感じることが暫しばある。病院に出て来ている職員は皆おなじだ。診療が続けられるように職員と舎宅、看護婦宿舎を守る手段をして欲しい」旨を頼んでみた。

 私の希望は早速実行され病院舎宅への道路 各社宅などに、赤い文字でロシア語の立て札や、貼紙をして良く見えるようしてくれた。職員に身分証明書のようなものも作ってくれた。文字は読めないのでどちらも何が書いてあるのか分からぬながら、早速の好意を非常に感謝したのだが、これは全く役に立たなかった。
 略奪に来るロスケは文字が読めないのか、舎宅の襲撃、略奪は続き、また道路で捕まった時この紙を見せてもひねくり回すだけだった。間もなく病院は解散した。

 彼は生命保険会社に勤めていたが思想犯で入獄していたという。その後失脚したようで別人に代わった。つぎの隊長もやはり“解放”された人だった。

 私は何度か公安隊の留置所(牢屋)に往診に行った。敗戦直後に憲兵隊、警察、検事、裁判所の人たちはいち早く姿をくらましたというが、捕まった人もあったようだ。工場の職員では朝鮮人工員に辛く当たったと思われた人たちが入れられていた。この人たちへの仕打ちが酷いので一言云ったら、自分たちの受けたのはこんなものではなかったという返事だった。人民裁判があつたと聞くが、この人たちのその後は分からない。後日私も此所に入れられそうな事があった、是は別に記す。

 ロスケは次々に別な部隊が来て連日連夜狼藉を繰り返している 何時まで続くのか。近く憲兵隊が来ると噂されて待ち焦がれている矢先に、当の憲兵隊将校が路上で兵隊に射殺された事件を聞き、不安が一層たかまった事もあった。

 二十三日ソ連軍の先頭部隊が行進してきた時、沿道には赤旗を振り万歳(マンセイ)を叫ぶ人が溢《あふ》れていたというが、ロスケの狼藉は内鮮の別はなく、暴行を受けた朝鮮夫人が自殺した話を聞いた。この話をした人は、「この行動をとった日本人は一人もいないが、朝鮮婦人は違うのだ」 と、民族の高い誇りを私に言いたかったのだと受けとった。

 病院は解散したが病人は居る。診察、治療を受ける場所が無くなったのだから、こちらから出向いて行くしかない、私は往診行脚《おうしんあんぎゃ》をはじめた。
 病院は解散したので以後の行動は職員各自の判断であり、同僚医師が選んだ道は色々で、中には私は憤りを感じていることも有るが、ここでは触れない (イズレ書クコトニナロウ)。

 病人といっても多くは栄養失調である。北から下りてきた人たちは着の身着のままであり、独身の若い子は食べるすべを知らない。子供を抱えた出征家族には略奪の後、売り喰いの財源は僅《わず》かしかないのもいる。もすこし後になると、日本人世話会(これは十二月に正式なソ連、朝鮮に対する交渉代表になった。会長は元の高周波病院事務長)ができ、働ける者は作業に出て食料を受け、これを供出して共同生活になったが、当初は弱い者は助かりようはなかった。私の往診鞄《かばん》のなかは明太魚の干物、大豆と唐もろこしのパンとが主だった。お金が何よりだが、先行き分からぬ売り喰いのわが身に、そう置いてくる余裕もなく、せめてもの思いしか出来ない。

 通過部隊がなくなり、駐屯部隊だけになってようやく治安が落ち着くと、すぐに病院は朝鮮人民委員会によって市民病院として再開され、院長には城津の長老の開業医の一人がなった。元の病院の職員では、外科の安藤医長と内科医長の私とが協力を求められた。経営は事務長が全て取り仕切っていたようだが、この男の素性は知らない。

 私は其の後も往診を続けていたが、間もない時に事務長から詰問をうけた。勝手に往診をしていて薬は何処から出しているのか、薬代や往診料をどうしているのかが主な問題だった。
 これは患者の求めで行っているのではない。寝込んでいる人の生活指導と慰め、励ましが主眼だ。病院に来られない人の看護も必要だ。特に伝染病の早期発見はこちらから出ていかなけれ不可能だ。薬代や往診料等を受けるすじはない。そんな話をしたら其の後は何も言はなくなった。

 何日か後に往診の途中、公安隊の隊員に隊に来てくれといわれた。鞄を取り上げられて誰もいない部屋に案内され、用は何かと聞くと、隊長が帰る迄待てという。暗くなる前に隊長が来て、失礼しましたといって帰らせてくれた。もっと前のことだが歯科医長が歯科用の金隠匿《いんとく》の疑いでほうり込まれた例がある。何があったのか説明はない、他に心当たりはないから事務長の仕業だろうと思った。

 市民病院は後日、ソ連に取り上げられたので、元の工員クラブに診療所が開設されてここで私たち二人は働くことになった。所長は私たちよりももっと若い開業医で、小児科を診ていた。正式の引き揚げまでここが仕事場になった。

 感心したのは、市民病院開設と同時に此所を基幹に医学専門学校が早々と発足した事だ。北朝鮮には医学校は二校しかなかったので、緊急を要したのだろう、南には大学一つと医専が五つあった。外科医長は解剖学を、私は細菌学を予定された。

以上 二十年《1945年》八月十五日の前後 終わり。
編集者
投稿日時: 2006-10-23 7:42
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9
#2 十人家族の一年間

     敗戦の時のわが家は妻と八ヶ月、三歳の子の四人家族だったが、
     ロスケ《ロシア人をあざけっていう語が社宅を荒すようになってからは、内科医の ご主人が召     集された片山夫人と一歳の子と一緒に住むことにした。
     病院解散のあとに看護婦養成所の生徒と、工員養成所の     生徒との四人を預かり十人になった。

 ロスケが来てからは、乱暴狼藉が続き、女たちは坊主《ぼうず》頭になったものもいる。家の天井や床下に身を隠した。妻たちは昼は子供を抱いて家の回りをロスケの眼を避けて逃げ回り、夜は二人で裏山の大豆畑のなかに身を潜めていた。下の方でピストルの音がするのが良く聞こえたという。
 私は家で電燈を暗くして音もたてぬように息をつめて三人の子を寝かせていると、ガヤガヤと大声がし、ロスケが玄関の戸を叩く。壊されては困るので開けると、何人もが土足でどかどかと入って来る。一晩に何回か殆《ほとん》ど毎日のことで、こちらが抵抗しないのが分かっているので傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だ。女がいないとわかると、押入れのものを放り出し、箪笥《たんす》の引き出しを抜き出し、持ちたいだけ持って出て行く。ある時、日中ジープで乗り付けてトランクに詰め込んで根こそぎ取っていった。この連中はロスケのほか東洋人もいた。八路軍《はちろぐん=1947年人民解放軍と改称》と聞いたが蒙古人《もうこじん=モンゴル人》の顔貌《がんぼう=顔かたち》と見た。

 片山さんの家は工員養成所の生徒が三人留守番でいた。ここは殆ど荒されることがなかったが、一人がソ連兵に捕まえられた。幸い捕まえられた仲間では一番小さかったので釈放されてきたが、他の人たちは連れ去られたようだ。
 九月になりロスケの襲撃がようやく少なくなってきた時、突然病院住宅に立ち退きの命令が来た、しかも当日の夕方までと期限付きである。この頃は今後どうなるのか見通しは全く五里霧中《ごりむちゅう=見通しがまったくたたない》で、すぐ近く帰国出来るとする者から、捕虜みたいに使役《特に雑役をさせる》に使われるとする者まで意見はまちまちで、実際に民間人もソ連軍に連れ去られている。

 零下十度以下になる土地で皆が冬を過ごすとなると大変なことになるが、五千人もの集団がそうすぐに帰国は出来まい。又日本人が居る間は面倒をみに残るつもりなので、私は長期戦を覚悟していた。
 若者三人が大八車《だいはちぐるま=8人分の仕事をする意》をさがしてきてくれて、片山家とわが家にある食料は全部、二個有った大豆カス(註)も積んだ。寝具、衣料も残らず選んだ。本は内科学三冊と治療学、細菌学、統計学の計六冊を選んだ。(翌日他の本を取りに行った時には、全部庭にほうり出されて焼かれていた)。引越先は六畳と四畳半の二た間で、この家にはも一つ六畳間があり四人家族の方がおられた。
  註 大豆カスは乗馬クラブ厩舎長の計らいでロスケが来る前に、病院職員は一個ずつわけて貰った。ドーナツ形の五、六十キロはあろう重たいもので、捨てた家が多かったようだが、わが家では引越のたびに運んでいた。もともとは馬の飼料だが、
ペンチやのみ、金槌などでほぐして一年間の食糧に大事に使った。
 
工場には工員養成所と看護婦養成所があって、地元の子女以外に内地で募集して連れて来た子らがいる。会社がこの子たちの寄宿舎生の面倒を見ることが出来なくなった為に路頭に迷う身になるので、身寄りのない子たちは職員の有志が引き取ることにした。わが家では養成工三人と看護婦生徒一人と、併せて四人を預かったので、家族は皆で十人になっていた。私たちは抑留者中屈指《くっし》の大家族で、この後も引越を何回もして段々広い所に移り、最後は技師長舎宅の応接間と座敷との二た部屋に住んでいた。
この子たちを預かった家庭で一番の問題は食べ物だったようだ。若者らの不満は自活をえらび、看護婦生徒も外に出て飲食店などに住み込んで働くようになった。なかには養いきれずに外に出した家もあるようだが、わが家十人の結束は終始崩れなかった。

わが家の主食は豆かすと海藻入りの雑炊、大豆粉ととうもろこし粉のパンに馬鈴薯で
干明太魚が主な蛋白源だった。朝鮮人の市場バザールは早々と開かれ戦時中乏しかった食料は米を始め色々と並んでいたが、その中では塩でかき混ぜた生ウニが安くて栄養価が高く、大豆パンに好くあったペーストとして大変重宝した。
お金があれば何でも手に入るので、各々の家の暮らしぶりは様々のようだった。わが家での現金や物々交換は、略奪が少なかった片山さんの衣類を売って作っていたが、十人家族の台所は大変だった。(私の家の衣類は殆どロスケに取られてしまった)。やがて若者三人は港の荷役《にやく=船荷のあげおろし》に出るようになり、工場が再開されると工場で働いて現金、大豆等の食料の支給を受け、これを日本人世話会に供出した。
私は初め市民病院に、後に診療所に出て現金を受けていた。その一部は世話会に渡していたが、残りは往診先で使ってしまったようだ。妻はこの間、私から現金を受け取った覚えは無いと言っている。

ロスケが駐屯部隊だけになると、治安は落ち着いてきた。私たちが追い出された病院舎宅にはソ連軍将校が家族と住むようになった。この細君達が服を作りたがっているとの話を聞いたので、片山さんと妻とは元のわが家にでかけていった。わが家のマダムは、早速今から始めて欲しいと言う。二人はそれからは毎日ロスケ宅に「通勤」を始めることになった。ミシンは使い馴れた自分のものだ。
彼女の示すスタイルブックと生地とで仕立て上げる仕事だが、マダムはつきっきりで裁断、裁縫の手伝いをし、昼と夕食と、間の休み時間とには自分達と同じ食べ物を手作りで出してくれる。昼前に行くと夕方まで仕事をさせて、食器の後始末などには一切手を出させない。帰るときには、何かの報酬を出すが現金ではなく黒パンが一切れのこともあり一山のときもある。メリケン粉、油、砂糖、煙草などのこともあり、何れも大変な貴重品だった。
休み時間に出されたケーキを食べずに、持ち帰って子供に食べさせようと思っていると、それは別にあげるからこれは食べてくれと言われる。十数軒ある隣近所のマダムたちから一仕事終わるのを待ち切れぬばかりに引っ張りだこにされた。

 治安が落ち着いてきたとはいえ、全然様子の分らぬ、言葉も分らぬ所に出かけたのだから大変な冒険だった。ロスケの兵隊はいるがマダムが守ってくれるので心配はない。仕事の割に報酬は少ないが二人分の食糧が無くてすむのだから大いに助かる。お土産は一家の潤い、団欒《だんらん》の貴重なかてであった。
マダムたちの生活は家によって違うが何処も切り詰めたもので、流してくれる品物は彼女らにとっては精いっぱいだったようだ。しかし男共が港湾の荷役に出て、一とにぎりの食料、大豆を支給されるのに比べると好い仕事と言える。

私は病院に、若者三人は工場に、片山さんと妻とはロスケの家に働きに出た後は看護婦生徒の前田さん(屋久島《やくしま》から応募)と子供ら三人が家に残っている。前田さんは家事一切と子供の面倒を全部取り仕切って、やりとげてくれた。皆が働きに出られて、十人もの家族が一年有余の抑留生活を無事切り抜けることが出来たのは、全く前田さんのお蔭だった。
  六人の脱出は後記する。

                           
  以上 十人家族 終り
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