メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) 新兵の8月15日 <英訳あり> | 投稿するにはまず登録を |
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伸 | 投稿日時: 2005-7-30 15:44 |
登録日: 2004-2-28 居住地: 投稿: 10 |
新兵の8月15日 <英訳あり> 敗戦の日のお昼前(昭和20年《1945》8月15日)私たちは、灼 《や》 けつくような太陽の下、練兵場《れんぺいじょう=教練や演習 を行う広場》というのだろうか、ここでは一番広い場所である 海兵団の広場に、総員集合せよとの命令があって、じりじりと照 りつける太陽の下、休むことなくつづく、蝉の声をききながら 土埃《つちぼこり》をたてて、二千人くらいの兵隊が練兵場に集ま った。 ここは大阪の住吉区杉本町にある大阪市立大学の校庭であるが、 軍が接収《せっしゅう=強制的に自分のものにする》してこの時は 、大阪海兵団という新設の兵隊の教育訓練所になっていて、海軍 の下士官や新兵の教育を行うところである。私たち新兵は、約一 カ月半前の6月の終わりに、現役召集にてここに集まり、きょう は、その新兵教育の終了する日、普通、新兵教育は3カ月間行な われるのだが、戦雲が急を告げていたので、即席の兵隊として今 日から、それぞれの所属分隊に、配属される事になっていたので ある。 ところで、私たち新兵は何も知らなかったが、広島や長崎に、特 殊な爆弾《原子爆弾》が投下されて、さすが強硬な姿勢の軍部も ソ連《ソビエト社会主義共和国連邦》の参戦とともに、各種の事 情が交錯し戦争を続けるという強い体制を失しなったのであろう か、天皇の親裁《しんさい=天皇が裁決する》をえて、8月15日 付をもって無条件降伏という180度の転換をすることになったらし い。そのことを国民に告げる、天皇の放送が、あるというので、こ うして全海兵団員が集まっているのだが、12時からのいわゆる 玉音放送と言われるものは、妨害の電波が入っていて、何を言っ ているのか、さっぱりわからず仕舞いであった。 この後、これを補足すために、この集団の中では一番の責任者で ある。海軍少将、岡 新という大阪海兵団長が、指揮台に上が り、簡潔《かんけつ=簡単で判りやすい》にこのような事情に至っ た経緯を述べた後、諸君は、間もなく残務整理が終わった者から、 順次兵役解除となり、懐かしい故郷へ、妻子の待つ我が家に帰る ことができる。 この大阪海兵団のなかで、万一、戦争犯罪人が居るとすれば、そ れは、この私、岡 新のみであるから、諸君は安心して、軽挙妄 動《けいきょもうどう=軽はずみな行動》することなく、今暫く復員 までの間、現在の任務を続けてもらいたいと説明を聞いたときは、 正直言ってほっとした。 人間の尊厳というものを無視し、新兵に牛馬以下の扱いを行い、 殴《なぐ》る蹴るどやすといった行為を、平然と行ってきた上官や 或いは、教班長らの、謂《い》われのない暴力行為は許されるもの ではないが、これが日本の軍隊が持つ暗部で、尽忠《じんちゅう= 忠義を尽くす》奉公・特攻精神・徹底教育の名目のもとに、ことあ るごとに無抵抗の部下に制裁を加えるという無法が、今日からは まかり通ることはなくなるだろうという期待と、「天皇の赤子《せきし =天皇が親、人民は子という思想》だからお国の為に」という何 時も肩に乗っていた重たい荷物が、突然取れたという思いがかさ なって、十九才の私には敗戦と共に来るであろう、これからの困 苦や重圧を、その時は考えるゆとりなどは無く、ただただ解放さ れる事がうれしかった。 思い返せば、この上官のしごきに耐えかねて、1週間ほど前に同 じ班の仲間が夜中に脱走をはかったが、宿舎の横を流れている大 和川に架《か》かっている国鉄阪和線の鉄橋を渡ろうとして、終電 車に刎《は》ねられて即死するという事故があったばかりだ。軍紀 も緩《ゆる》んでいて、その前後に何人かの脱走兵があったが、そ れは紀州辺りの海岸線で、蛸壺型の穴を掘り爆雷を抱いて、その 中に入り敵が上陸した時、頭の上を通るであろう戦車を爆破する という任務が我々新兵の仕事だという噂が流れていたからで、逃 亡兵が出るのも当然であろう。 敗戦で、この必ず死ぬであろう任務から解放されたという思い と、束縛が解けて自由になったという嬉しさが、これからの苦難 に対する思考を吹き飛ばしてしまったというのが、その時の一番 の正直な心理状態だったように思う。ということで、私の敗戦の 日の思い出は終わりだが、何しろ60年も前の新兵の記憶ゆえ、 間違っている処《ところ》があるかも知れず、その節はご容赦 《ようしゃ》 を乞う次第である。 |
スカッパー | 投稿日時: 2005-7-31 17:41 |
登録日: 2004-4-11 居住地: 投稿: 25 |
Re: 新兵の8月15日 伸さん
ご無沙汰してます 大阪に海兵団が それも杉本町の市大《=市立大学》にあったとは 知りませんでした 私も大竹海兵団で約1ヶ月新兵教育を受けました 教班長の私的 制裁の感があります あれでは真っ直ぐな者でも《ゆが》んだ人間つくりの感じがしました 分隊総員が理由も判らず 軍人精神注入棒とやらでやられた時は さすが分隊士の准 《じゅん》士官が見るに見かねて 止めに入った事もありました その後三重海軍航空隊に移動後は 士官教育とやらで 海兵団とは雲泥《うんでい》の 差があり やっと人心地がした思いがありました 他国の軍隊でも 此れほどでもないが 良く似た躾《しつけ》教育も有るやに聞き及びます もっと合理的な方法での躾教育で なければなりません 今の自衛隊はどうなんでしょうね スカッパー |
伸 | 投稿日時: 2005-8-3 15:23 |
登録日: 2004-2-28 居住地: 投稿: 10 |
Re: 新兵の8月15日 スカッパーさん、こんにちは。
新兵の敗戦日にコメントを頂戴しまして、有り難うございました。あの軍人精神注入棒には まいりましたね。烏《からす》の鳴かない日はあってもあの棒にどやされない日はありませ んでした。私は主計科《=会計を仕事にする科》でしたので、「主計衛生が兵隊なれば蜻蛉 《とんぼ》蝶々も鳥のうちと、ほかの兵科の者からからかわれました。 そのお返しが又大変で、各科の閲兵《えっぺい=隊列の検閲》式があるときなどは、教班 長が1日中つききりで、分隊行進の練習をするのですが、足の上げ方から手の下ろし方、 首の位置目の位置、と事細かく注意を与えながら、怒鳴られ同士でした。その代わりに海 兵団長などの講評は、いつも主計科と衛生科はトップでした。 しかし毎日毎日の生活のなかで、なんといっても餓《ひ》もじい思いが1番つらかったですね。 なにしろ毎食中食器に、七分か八分程度の飯がそうっと入っていて、副食は野菜のみそ汁 が関の山で、一週間に一度ぐらいは、鰯のつみれが入っていたらバンバンザイというような ことでした。これではアメリカさんがきてもとてもじゃないが勝てませんね。 そんなことで、海兵団の思い出は何一ついいことがないのですが、若ければこそ耐えられた のだと思っています。終戦後は.その鬼の教班長が、需品庫の倉庫長になり、私を呼んでく れましたので、少しは楽をしましたが、1カ月後の9月の15日には、無事に復員しまいま した。あの戦争がもう1月も続いていたら、私はおそらく、どこかの海岸線で死んでいたと 思います。と愚痴《ぐち》ばかりですみませんでした。今後とも宜しくお願い申します。 |
スカッパー | 投稿日時: 2005-8-3 17:49 |
登録日: 2004-4-11 居住地: 投稿: 25 |
Re: 新兵の8月15日 伸さん
海兵団の教班長で思い出しましたが 私の班は機関科の上機曹で腕の桜は一重 隣の 班長は整備科の上整曹《海軍の階級》で二重の桜の腕章で整備科でも高等教育を受け た人で 性質は雲泥の差 主計科でしたら蒸気を機関科から貰うので 機関科に対し て 袖の下が常に贈られたとか ビフテキなんて機関科は シャベルで釜で焼いて食 ったとか いろいろあったそうです また食器の湯のみは一升瓶の底が入り 中食器 はそれから考えるとかなり大きかったのではと思います それに七分つきの飯を山盛 りとすれば おお食らいでした それでも常に腹が減っていました 実施部隊では士官室は茶碗に銀飯《白米のご飯》毎日卵か牛乳の航空糧食《こうくう りょうしょく=航空隊用の食事》付で贅沢でした 昔の軍隊は階級差別が酷《ひど》かっ たのですね 今の自衛隊では 食事に差別はありません スカッパー |
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