メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) あの日のリュックサック | 投稿するにはまず登録を |
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堅香子 | 投稿日時: 2004-9-3 14:53 |
登録日: 2004-2-19 居住地: 北九州 投稿: 55 |
あの日のリュックサック 忘れもしないS子5歳の夏の昼ひなかだった。
空襲警報のサイレンが鳴った。いつものように母はS子にまず防空頭巾《ぼうくうずきん=空襲から頭を守る綿入れ布製の物》をかぶせ国防色(カーキ色)のリュックを背負わせ、家の裏山の斜面に掘ってある防空壕《ぼうくうごう》へと背を押した。 (その時父は外出し、長兄は兵役に服し旧制中学4年の次兄は学徒動員《がくとどういん=1944年学徒勤労令、戦時下の労働力不足を補うため中等学校生以上が軍需工場で働いた》で火薬製造工場へつめていた) 身丈《みたけ=身長》には大きすぎるリュックの中には貯金通帳、印鑑など僅《わず》かな貴重品が入っていた。サイレンの鳴るたびに末っ子のS子はきまって一番に壕に走らされた。 その日もB29のヒューヒューなる金属音に混じって、焼夷弾《しょういだん=油脂類と爆発物を入れた小型爆弾》の炸裂《さくれつ》するおびただしい轟音《ごうおん》が鳴り響いた。 斜面を利用して作られた防空壕は3つくらい並んで掘られていた。 壕の中は蒸し暑く薄暗い奥の方には布団が2,3枚積み上げてあり、湿気たムシロに座って、みんなおし黙って不安顔で聞き耳をたてていた。 入口の板戸の隙間《すきま》から外を窺《うか》がっていた者が告げた。「何かキラキラ光って舞い落ちよるぞ」と。 どれほどの時間が経《た》ったであろうか。ようやく音が遠のいた。 みな一斉に外に出てラッキョやサツマイモ畑の畝《うね》を通って高台へと出た。 見渡すと、市街は薄汚れた雲がたち込め、いたる所から黒煙が立ち上り、火の手もあがっていた。ただならぬ様子である。 「ありゃあ なんじゃろうか」「こりゃー おおごとばい 製鉄所がやられたんやろ!」「この分じゃあ 死んだ人もおおかろうばい」 S子の頭の上ではそんな言葉が飛び交っていた。 その時だった。防空頭巾からはみ出したおさげ髪に、縞《しま》絣《かすり》のブラウス・モンペの上下、共切れのカバン(バック)を肩から斜めにかけ黒のズック姿、煤《すす》けた真っ黒い顔をして次姉が戻ってきたのは。 母は姉を見るなり駆け寄って「無事やったネ!」ひとこと言ったきり抱き合って泣いていた。 S子よりひと回り年上の姉は製鉄所(新日鉄)に勤め始めたばかりだった。交通機関は断たれ7キロの道を歩いて我が家へ辿《たど》り着いたのだった。 死者2500人、被災人口53,000人(八幡市史)を出した「八幡大空襲」であったことを、後に知ることになる。 翌日、長崎に原爆が投下されたのだった。 今、街ですらりと伸びた乙女の背にとまっている蝶《ちょう》のようにカラフルなリュックを見ると、あの日のリュックサックを思い出す。 |
堅香子 | 投稿日時: 2004-9-3 15:07 |
登録日: 2004-2-19 居住地: 北九州 投稿: 55 |
おさがり(お古) 写真撮影は、物心ついてから二度目であった。 奉安殿《ほうあんでん=ご真影、勅語などを置くための設備》のあった場所とは反対側の校舎をバックに、1組総勢50名の生徒と教師が満開の桜の木の下に勢揃いした。 スノコを大型にした板状のものが幾枚か敷き詰めてあった。国民学校入学の記念撮影である。 (翌年、学制改革により「小学校」と改称され、のちにユニセフから粉ミルクが支給されるようになる《=学校給食の始まり》) みんな素足で先生の指図に従う。S子は言われるままにスノコの最前列に正座した。雪の日に庭でモンペ《=袴の足首を絞ったような形のズボン》姿で家族揃《そろ》って撮って以来なので大変緊張していた。 小豆色のビロードのワンピースに身を包んだS子。後あきの丸襟《えり》で胸のあたりに同系色の糸でスモックを施した姉の「お下がり」であった。 衣服はいつも姉のおさがりであったが、この洋服は大のお気に入りであった。 教科書も「おさがり」であった。 入学する前には年上の近所の人、親戚《しんせき》の人などを頼って教科書を譲り受けるために予約をとっておかなくてはならなかった。それでも入手できない者は隣席の人と共用していた。 そうして得た教科書はところどころ墨で塗りつぶされていた。 持ち主の名前も男名前、女名前ありでそれを棒線で消して自分の氏名を書き加えていった。しばらくして質の悪いザラ紙に印刷したものも使用した。 ランドセルだけは「おさがり」ではなかった。姉の手作りであったから。 母が街から買いだしに来た人に頼んで大事なお米と交換して得た黒繻子(じゅす)の帯を解いて作ってくれたのだった。 フタの部分には鈴に猫がじゃれている金糸の刺繍《ししゅう》がしてあり、今にも跳び出しそうな立体感にあふれS子は上機嫌だった。 S子は嬉しくて入学式の前から何度も背負って玄関を出たり入ったりしてその日を待ちこがれていた。 入学式は、紋付姿の母に連れられて4キロ(1里)の道を登校したのだった。 終戦の翌年1946年(昭和21年)4月のことである。 どちらも15年ほど前に甥《おい》や姪《めい》に書き残そうと思い書いたものに、手を加えました。 1946年(昭和21年)国民学校入学 北九州市 女性 |
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