メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) レンパン島捕虜収容所 第一部 <英訳あり> | 投稿するにはまず登録を |
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てっちゃん | 投稿日時: 2004-8-29 12:37 |
登録日: 2004-2-26 居住地: 投稿: 6 |
レンパン島捕虜収容所 第一部 <英訳あり> レンパン島 レンパン島はシンガポール南東数十キロのインドネシア領の無人島である。 誰も知らなかったこの島に太平洋戦争敗戦時《1945》、10万前後の日本軍が 捕虜として収容された。 我々は飢えに苦しみ、環境の極めて厳しかったレンパン島を、 特別の感情を持って死の島とか、レン(恋)パン(飯)とかけて恋飯島と呼んだ。 老生《ろうせい=老年の男性が自分のことを謙遜していう言葉》の投稿「太 平洋敗戦の時」に対し、尊敬する線友《パソコン友達》t o s h yさんからレンパン島は 「思い出したくない記憶かも知れませんが、後世に残す事実としてここにお書き下 さると宜《よろ》しいかと存じます。」 との丁寧なコメントを頂いたのでレンパン島のことを3部に分けて書きたいと思う。 第一部 マレー半島南部 クルアン検問所 クルアンからレンパン島へ 第二部 レンパン島 静村弘法山宿営地 開墾開拓 レンパン浮腫(栄養失調) マラリア レーション 昭和21年元旦 第三部 滝本隊 句会 帰国 第一部 マレー半島南部 クルアン検問所 昭和20年10月21日ランゴスからマレー半島南部のメンキポールへ 移動した頃、「日本軍捕虜はレンパン島と言う無人島に送られる。その島では 第一次世界大戦のドイツ人捕虜が多数餓死《がし=うえて死ぬ》した」との 噂が流れた。 10月23日英軍から我々の部隊に対し、クルアンからシンガポー ル経由レンパン島へ移動が命令された。 クルアンには厳《いか》めしい英軍の検問所があり、物々しい黒、灰色、白の キャンプが設けられてあった。命令に従わなかった者、質問に素直に答えなか った者、所持品を隠した者など、即刻《そっこく=直ちに》黒キャンプに入れ られるとの風評があった。 黒キャンプ: 戦犯容疑者《せんぱんようぎしゃ=戦争犯罪の疑いがある者》 鉄条網《てつじょうもう=棘のある鉄線を張った柵》に囲まれ 4隅に監視所あり。 灰色キャンプ:容疑不明の者 白キャンプ: 全く疑いのない者 我々は如何なる検査がされるのか分からず非常に緊張したが、我々の グループは比較的簡単に通過することが出来た。 兵隊は簡単な持ち物検査、将校には英人検査官と印度兵が対応した が、小生の時には通訳がおらず、何が何だかよく分からぬままにOKとなった。 そして滝本隊は幸運にも全員が白キャンプに入った。 クルアンからレンパン島へ 英印軍《=イギリス・インド軍》監視の中追われる如くクルアン駅から貨車 に積み込まれて、のろのろと十数時間南下してシンガポール駅に到着、 其のまま英印軍の監視下住民の罵詈雑言《ばりぞうごん=ののしりの言葉》 の中をケッペル港へ向い、10月26日数百トンの貨物船へ乗り込んだ。 何時間か眠り込んでレンパン島が見えた時、案外大きな島と感じた。 先発の工兵隊が建設した名前だけが素晴らしい「宝港」の仮設 桟橋《かせつさんばし》に着くと、骨と皮の半裸の使役 《しえき=雑役》の兵隊が居た。捨てたタバコの吸殻《すいがら》を拾った。 彼等は自ら《みずから=自分》を卑下《ひげ=いやしめる》して 「レンパン乞食《こじき=物貰い》」と言った。 第一部 おわり |
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