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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     上海の思い出(その一)
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投稿者 スレッド
toshy
投稿日時: 2004-8-6 10:21
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(その一)
 私は第二次世界大戦が始まる前の年に上海に引っ越しました。

 父が商社員で上海に転勤することになり、私は幼稚園を一学期済んだところで、上海に引っ越したのでした。

 父は最初単身赴任でしたが、「龍田丸」で上海に行ったと言っていました。
 
 戦前わが国の代表的な名船として「浅間丸」の名が挙がりますが、その姉妹船でした。 (「浅間丸」「龍田丸」インターネットで検索して下さい)
 
 私たち家族(母と私・弟・妹)を迎えに来て呉れた父と共に上海に向かった船は「新田丸」でした。
(「新田丸」もインターネットで検索して下さい)
 
  1940年(昭和15年)、日本が誇る豪華客船として竣工《しゅんこう》した「新田丸」は当時の日本の技術と贅《ぜい》をつくされた最高の客船でしたが、しかし竣工してまもなく太平洋戦争が始まり、空母《くうぼ=航空母艦》冲鷹《おきたか》に改装され昭和18年に横須賀から出航した後、八丈島沖で米潜水艦の雷撃《らいげき=魚雷での攻撃》で沈没しました。

 上海に着いた私たち家族は楊樹浦にしばらく居て、それから公平路と言う所に住みました。

 ここは煉瓦《れんが》造りの3階建ての、今様《いまようー今ふう》に言えば団地でした。
 
 普通は1階ごとに入居するようですが、私たちと父の上司は1~3階までを借りて居ました。

 1階は暗くて昼間でも電灯を点けなければ成らないので、食事場所としてだけ使っていたようでした。

 2階は畳を入れて居間にして居ました。
 3階には叔父《おじ》が一時寄宿して居た記憶が有ります。
 
 和風の檜風呂《ひのきぶろ》など無いので、屋上に風呂小屋を造りました。
 
 さて、そのようなところで半年あまり生活して翌昭和16年4月に私は小学校に入学しました。

 北四川路から少し入った上海市民病院の前の上海第四国民学校です。

 私たちから小学校は尋常《じんじょう》小学校から国民学校となり、国語の教科書も「サイタサイタ」から「アカイアサヒ」に変わったのでした。

 公平路から南京路まではバス通学でした。
 登校時は父の上司の娘さんが一年上で一緒だったでしたが、帰校時は下級生は早く終わるので、母が迎えに来て呉れて居ました。

 この第四国民学校も一学期間通っただけで、公平路に分校が出来たので、そちらに転校しました。

 そして昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃をして第二次世界大戦が勃発《ぼっぱつ=突然起こる》しました。

 日本は真珠湾攻撃とともに、上海の黄浦江に停泊して居たイギリス砲艦「ぺトレル」を撃沈しました。

 一緒に停泊していたアメリカ砲艦「ウエーク」は降伏しました。
(インターネットで「大本営発表」のキーで検索して下さい)

 こうして、私たちは外地で開戦を迎え、終戦後に引き揚げ者と成るのでした。
               toshy
toshy
投稿日時: 2004-8-6 18:05
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(その二)
 話が前後しますが、神戸から上海までは確か2泊3日の航海だったと思いました。

 3日目の朝、甲板から水面を見ると茶色でした。
 船員さんが「揚子江に入ったんだよ」と教えて呉れました。
 
 右舷側《げんそく=船の側面》を見ても左舷側を見ても河岸は見えません。
 数時間経って黄浦江に入り、やっと両岸が見えるようになりました。
 
 当時上海には米英両国の共同租界《きょうどうそかい=外国の共同居留地》とフランス租界が有りました。
 私たちは、その共同租界に住んで居ました。
 
 (上海の共同租界に関しては、インターネットで検索して下さい)
 開戦後は共同租界は日本租界と言える状態でした。
 
 現在の四川北路の魯迅《ろじん》公園の正門前に上海神社が有りました。
 その向かい側に日本海軍陸戦隊本部が有りました。
 
 陸軍は登部隊の司令部が当時の名前で新市街の五条が辻に有りました。
  (新市街には後日引っ越すことになりました)
 
 上海にはリッツと言う劇場が有り、李香蘭《りこうらん》と言う歌手が人気でした。
 父が「李香蘭は日本人だよ」と言って居たのを覚えて居ます。
 
 そうです、山口淑子さんです。
 
 当時日本軍の高級将校を狙うテロが頻発《ひんぱつ》しました。
 リッツで日本軍将校がテロにやられたと言うことが新聞に出ていたのを覚えて居ます。
 
 上海には日本人が10万人ほど居たそうです。
 
 今にして思えば、よく外国で安全に住んで居られたものだと思いますが、市中の橋と言う橋の中央には全て日本兵士の歩哨小屋《ほしょうごや=警戒、監視のための建物》が有りました・

 日本人は全て兵隊さん(当時はそう呼んでいました)の前で、頭を下げて通って居ました。

 虹口(ホンキュー)マーケットは、母がよく買い物に行っていました。
 
 床一面に水が流れて居て、ズック靴が湿るので買い物について行くのは嫌《いや》だった事を覚えて居ます。

 ここでディックミネの「夜霧のブルース」を思い出しました。
 ♪夢の四馬路か虹口の街か・・・♪
 この歌は後年、石原裕次郎が歌ったのでしたっけ?
 
 そうそう、上海と言えばガーデンブリッジとブロードウェイマンション(今の上海大厦)ですね。
 
 外灘(ワイタン)の情景は今も脳裏から忘れられません。
                toshy
ザックス
投稿日時: 2004-8-6 21:28
登録日: 2004-2-22
居住地: 東京
投稿: 65
Re: 上海の思い出(その二)
toshyさん

 戦前の上海は今は亡き叔父が出征して上海の絵はがきで小学生の私に便りを送ってくれたので覚えているだけなので、興味深く読んでいます。

 戦後は2回訪れ、初めのときに泊まったのは花園飯店でしたが、ジャズで有名な和平飯店へ行き、ダンスを踊ったのでよく覚えています。その頃は自転車の氾濫《はんらん》に驚きましたが今はどうでしょうか。

 私の所へ中国の人が診察に来ますが、背が高く素朴《そぼく》なのが北京、小柄でお洒落《しゃれ》なのが上海、と思えば大体は当たります。

 続きを楽しみにしています。
toshy
投稿日時: 2004-8-6 22:36
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
Re: 上海の思い出(その二)
ザックスさん
 お読み頂いた上にコメントまで頂き、有り難う御座いました。

 私も、1986 年に父と、そして 1998 年にニフティの FMELLOW の人たちと上海に行きました。

 1998 年の時は和平飯店に泊まり、上海バンスキングの演奏を聴きました。

 戦後に訪れた時の様子も最後に補遺《ほい=洩らした物を補う》としてでも書きたいと思います。
               toshy
toshy
投稿日時: 2004-8-7 0:18
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(その三)
 公平路の住まいは 1986 年に行った時も残って居ましたが、3階建てで、一棟《ひとむね》が5~6軒に分かれていたと思います。(何しろ小学1年の頃のこと、記憶は定かでは有りません)

 幅数メートルのコンクリート舗装《ほそう》の道を隔てて、数棟が建って居ました。
 
 日本人は私たち2家族だけだったと思います。
 他はほとんど中国人、向かいには外人が住んで居ましたが、開戦前だったか、あとだったか記憶が定かでは有りません。

 とにかく中国人の中での生活でした。
 近所付き合いとか、遊んだ記憶は全く有りません。
 
 母が団地の外の中国人の店で買い物をする程度でした。
 
 そこも何ヶ月居たのか覚えはないのですが、新市街と言われた日本人の住宅街の有る所に引っ越しました。

 前々回書いた登部隊の有る、今の地図では5角場と書かれて居るところです。

 全くの郊外で、一日に数本のバスで上海神社の所まで行き、またそこから虹口の方まで買い物に行ったようでした。
 
 何度か帰りのバスが出た後で、次のバスまで待てずに1時間以上掛かって上海神社の所から新市街まで歩いて帰った記憶が有ります。(こんな事は60年前の事でも覚えて居るのですね)

 ここでは第十国民学校に入学しました。
 後に第七国民学校と成りました。
 
 住宅街も国民学校も新築でした。
 
 学校からは放射状に、甲・乙・丙・丁と4つの住宅街が有りました。
 それは俗称で、甲は明和街、乙は平昌街、丙と丁は慶林街と言う住宅団地でした。
 
 私たちは丙でした。
 今でもその住所を覚えて居ます。
 
 上海市新市街合作路慶林街○○号です。
 
 新市街に住んで吃驚《びっくり》したのが甲つまり明和街団地です。
 (当時団地と言う言葉は有りませんでした)
 
 どこが吃驚したかと言うと、コンクリート建ての一棟が3階?4階で、中程に階段があり、その両側に玄関が有るのです。そうなのです、私たちが結婚する時にあこがれた住宅公団の建て方の住居なのです。

 私が生まれ育ったのは、京都と大阪の間で、大阪までは当時の省線電車(東海道本線)で30分くらいの所でしたが、当時は村で小学校は畑のあぜ道を通って行くのが近道と言う環境で、もちろん戸建て住宅ばかりでした。

(省線電車の駅までは3分ぐらいの便利な所でした)

 それですから集合住宅に住んだのは上海の公平路が始めてでした。
 
 それまで集合住宅など見たことも無く、さらに上の階、或いは下の階に他人が住んでいる家など考えた事も有りませんでした。
 そして乙、平昌街(へいしょうがい)は今で言うテラス住宅でしょうか。
 
 2階建ての各戸が3~4軒棟《むね》続きで一棟《いっとう》をなして居ます。
 
 明和街は1階の住人しか庭が有りませんが、平昌街は各戸に庭が有ります。
そして慶林街ですが、約100軒の大きな庭の有る戸建て住宅街です。
 
 各戸は10軒位ずつが一ブロックになり、各この周りは高さが 1.5 メートル位の煉瓦塀《れんがべい》で囲まれて居ました。
この煉瓦塀の上を走り回るのが子供たちの遊びでした。
 
 丙と丁の区別は外からでは判らず、建坪が少し広かったようです。
 このような所に住んで、初めて学友との間に生活レベルの差が有ることを知りました。

 なにしろ今まで周りは中国人ばかり、日本人の友達と遊ぶと言えば父の上司の家に行く以外はなかったのですから。

 それが同学年100人以上の世界に成ったのです。
                toshy
toshy
投稿日時: 2004-8-7 9:50
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(その四)
 公平路の生活に関してはあまり記憶も残って居ないのですが、新市街の慶林街に引っ越してからは結構いろいろなことを覚えて居ます。

 洋間には暖炉が有りましたが石炭を焚《た》いたことは無く、電気ストーブが置いて有りました。

 そしてマジックアイの付いたラジオが有りました。

 それは短波放送も聴けるものでしたが、開戦後は日本人は短波放送は聞いてはいけないことになり、内部で配線が切断されて居ると父が話して呉れました。

 それまでは父はロンドンのBBCなどを聞いて居たようでした。
 
 さてマジックアイなるものをご存じでしょうか。
 
 緑色に光る真空管で、ダイヤルを回して目的の放送局に同調させると扇型の光る部分の変化で、正しく同調したかどうか判るのです。

 このマジックアイと言う真空管はスーパーへテロダイン方式のラジオでしか使えないものです。

 日本では終戦後しばらく経《た》ってからスーパーへテロダイン方式が普及し、それまでは並三とか並四とか、少し経ってからは高一と言われる方式のラジオしか一般家庭には無かったのに、上海では昭和16年には買うことが出来たのでした。

 ちなみに日本軍がスーパーへテロダイン方式の無線機を使うようになったのは、ずいぶん後だったと思います。

 それから米国のライフと言う雑誌のバックナンバーが沢山有りました。
 父は開戦までは購読していたようでした。
 
 ライフは英語の雑誌ですから私にはもちろん読めませんでしたが、GEやウエスティンハウスの大きな冷蔵庫の広告だけは、今も思い出せます。

 当時、慶林街の家に有ったのは氷で冷やす小さな木造の冷蔵庫だったのですが、米国では既に数百リットルの大きな電気冷蔵庫が普及し、大きなハムなどが一杯入った冷蔵庫の広告がライフなどに出て居たのでした。

 このような国と日本は戦争を始めたのですね。
 
 父は時々日本軍の将校や中国人を招待して歓談して居ました。
 
 私たち子供は、ハムやチーズのおこぼれをちょうだいするだけでしたが、父たちはジョニーウォーカーを飲んで居たようでした。

 これらはいつまで続いたか覚えて居ませんが、慶林街の記憶ですから開戦後で有ったことは確かです。
                 toshy
マーチャン
投稿日時: 2004-8-7 17:35
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
Re: 上海の思い出(その一)
toshyさん

 大作をありがとうございました。

引用:

 父は最初単身赴任でしたが、「龍田丸」で上海に行ったと言っていました。 
 私たち家族(母と私・弟・妹)を迎えに来て呉れた父と共に上海に向かった船は「新田丸」でした。
(「新田丸」もインターネットで検索して下さい)
 
  1940年(昭和15年)、日本が誇る豪華客船として竣工した
「新田丸」は当時の日本の技術と贅をつくされた最高の客船でしたが、しかし竣工してまもなく太平洋戦争が始まり、空母冲鷹に改装され昭和18年に横須賀から出向した後、八丈島沖で米潜水艦の雷撃で沈没しました。


 船好きにとっては、たまらない船ばかりです。
 新田丸は、不運にも、建造されたのが遅すぎましたね。

 あと、あこがれの船としては、秩父丸(鎌倉丸と改称)でしょうか。

 とにかく、客船としての新田丸に乗れたということはすごいですね。
toshy
投稿日時: 2004-8-7 18:14
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
Re: 上海の思い出(その一)
マーチャン コメントありがとうございました。

引用:

 船好きにとっては、たまらない船ばかりです。
 新田丸は、不運にも、建造されたのが遅すぎましたね。

 あと、あこがれの船としては、秩父丸(鎌倉丸と改称)でしょうか。

 とにかく、客船としての新田丸に乗れたということはすごいですね。


 不運なのは全ての船に言えますね。

 軍艦に改装されたものも改装されなかったものも、ほとんど沈め
られて仕舞いました。

 ところでもう一隻、豪華客船に乗ったのですよ。

 それは次回のお楽しみに。
               toshy
toshy
投稿日時: 2004-8-8 1:40
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(その五)
 父は私たちのために英国製の Hornby と言うゼンマイ式の鉄道のおもちゃを買って呉れて居ました。

 これは O(オー)ゲージで、4畳半の部屋に足の踏み場も無いほどレールを敷き詰め、父と私と弟の三人が各所のポイント操作をし、2台も3台もの汽車を同時に走らせては遊んだものでした。

 一度線路を敷き詰めると片づけるのが大変なので、何日もレールを敷きっぱなしでした。

 またゼンマイは力強く4畳半の部屋を何周もしました。
 
 2番目の弟が生まれてしばらくして、戦争が長引くのが判り、父は家族の安全のためにと母と子供を日本に帰す決心をしました。

 昭和18年の事でした。
 
 帰国の船は「帝亜丸」と言う外国で建造された豪華船でした。
 (インターネットで「帝亜丸」で調べて下さい)
 
 父は日本まで同行して呉れましたが、今回は一等船客でした。
 
 新田丸で上海に来た時は2等船客だったのでした。
 
 と言うのは船は等級に依ってサービスに大きな差があるのです。
 
 上の方の甲板には一等船客しか行けません。
 
 また、夜の食事時は一等船客の場合は、船長や一等航海士などが、船客と一緒に食事をします。

 船長と同じテーブルだったことが有ったのを覚えて居ます。
 
 父はまた上海に一人で戻り、私は地元の国民学校に通うことに成りました。

 日本に居る間に下の弟が病気で亡くなって仕舞いました。
 
 そのこともあったのでしょう、父は戦争がひどくなって死ぬ時は家族一緒に考えたようでした。

 結局一年間日本に居ただけで、また上海に戻ることに成りました。
 
 今度は米国潜水艦に攻撃される恐れがあったので、航海時間の短い関釜《かんぷ=下関ー釜山》連絡船で釜山に渡り、満州から北京そして南京経由の鉄道で上海に行くことに成りました。

 当時満州には有名なアジア号が走って居ましたが、私たちはその姉妹列車の興亜号で、奉天まで行きました。

 そこには父が迎えに来て呉れて居ました。
 
 今考えると、母は子供3人を抱えて異国の地を奉天までよく行ったものだと感心します。

 奉天で一泊した後は北京で一泊し、紫禁城や天壇、それに萬壽山や石舫の有る昆明湖などを観光しました。

 それから鉄道の長旅が南京まで始まりました。
 
 途中、山海関では万里の長城が見られたのですが、私は眠って居て起きた時は既に過ぎ去ったあとで、とても残念でした。

 再び慶林街での生活が始まり、再び第七国民学校に戻りました。

 上海に戻ったのが昭和19年で終戦の前の年ですから、戦況は厳しくなり、翌20年になると日本が空襲を受け、日本に爆弾を落とした米軍機は中国に帰投したと聞いて居ました。

 子供の時の記憶ですから定かでは有りませんが、夜になると空襲警報が発令され、防空壕に待避したものでした。

 住宅街から少し離れた所に日本軍の飛行場が有り、赤とんぼとか抹香鯨《まっこうくじら》と呼んでいた練習機がよく飛んで居ました。

 空襲警報時に飛行場方面から高射砲の音が聞こえた事も有ったようでした。

 ただ上海が空襲を受ける事は無く(日本に爆弾を落とした後なので爆弾を持って居なかったと言われて居ました)、一度だけ北四川路の電話局前の道路に一発落ちたとか新聞に報道された事が有りました。
(これも、子供時代の記憶で裏は取って居ません)

 飛行場以外にも登部隊本部を始め、輜重《しちょう=糧食・被服・武器などを扱う》兵隊そのたの日本軍は近くに居ました。

 そして時々近所で演習をやって居ました。
 
 ある日、学校から帰ると母が「今日は兵隊さんが庭を貸して呉れと言って、無線機を使って演習をして居たけれど、もう少し早く帰って来たら見られたのに」と話して呉れました。

 自宅で間近に見られなかったのは残念でしたが、そのような光景は何度か見たことが有りました。

 手回し式の発電機を回して通信して居るのを見て居たことが、終戦後日本帰ってからアマチュア無線をする動機になったようです。

 当時は国民学校4年生でしたが、上級生の工作の教科書にはスパイダーコイルを使った鉱石《こうせき》式ラジオの作り方が有りました。

 しかし、上海では部品が何処《どこ》に売って居るか判らず、その時の思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。
思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。





  4年生の時の通信簿が残って居たので、
 ご覧に供しましょう。










  変色して居るので、白くしたもの、
 しかも大きく表示させましょう。







 そうこうして居るうちに、やはり上海も危ないから日本人の多
い大連に疎開することになり、ほとんど引っ越し荷物を作った時、
終戦と成りました。

 8月15日は自宅で玉音放送を聞いたような気がします。

 もし終戦がもうすこし後だったら、大連に疎開して居たでしょう。

 上海から引き上げたのは上海からの日本人引き揚げ者の最後で、
昭和21年4月なのですが、大連に行っていたらどうなっていた
ことやら、運命とは判らないものです。
                  toshy

toshy
投稿日時: 2004-8-11 0:15
登録日: 2004-2-17
居住地:
投稿: 42
上海の思い出(最終回)
 慶林街の住人は終戦時には、疎開《そかい=戦火を避けるため住居を移す》や既に日本に引き揚げた人が居なくなって半分くらいになって居たと思います。

 慶林街は高級住宅街で有ったため、中国軍将校の住宅として接収《せっしゅう=強制的に借り上げる》される事となり、私たちは明和街・平昌街とは違った、それまで行ったたことの無かった本圀街(ホンコクガイ)に引っ越すことになり、そこで日本への引き揚げ船を待つことに成りました。

 終戦後は子供に至るまで常時身分証明書を携帯させられ、行動範囲も制限されて居ました。

 ただ近くに国民学校の分校が作られ、寺子屋《=昔の手習い所》のような授業が日本に引き揚げるまで続けられました。

 終戦の年は4年生、引き揚げたのは翌21年の4月でしたから、一応4年生は修了しました。

 そのときの先生は小林先生で、今もお名前の方も覚えて居ます。
 
 学校のことは休み時間に腕をバットにして野球をしたことなど思い出されるのですが、終戦から半年もの間の生活用品などは何処《どこ》で買って居たのか、覚えが有りません。

 パンや卵なども食べて居ましたから、どこかに店が有ったような・・・。
 
 お米だけは引っ越しの際に米俵を10俵あまり持って来たのは覚えて居ます。(引き揚げる日まで白米のご飯を食べて居られました)

 母が「お父さんは東大出との事で世話役をやることになったので、日本に帰るのは全員の引き揚げが済む時、つまり最後だそうよ」と言ったのを覚えて居ます。

 そのうちに引き揚げが始まり、月に一度だったか、それとももっと多かったのか忘れましたが、だんだん近所に空き家が増えて行きました。

 いつだったか、先に引き揚げる人たちを見送った翌日、その人たちが着の身着のままで帰って来ました。

 なんでも乗船した引き揚げ船が黄浦江に残って居た機雷《きらい=水中に敷設する爆弾》で沈没したとの事でした。

 引き揚げ者に許された僅か《わずか》ばかりの荷物も無くした人たちに、私たち残った者は衣類などを差し上げたのでした。

 そうこうして居る間に翌年の春となり、上海日本人の最後として、白龍丸と言う(砕氷貨物船と聞きました)船で引き揚げる事に成りました。

 携行荷物は大人も子供も一人一つ。
 
 弁当は傷むと言うのでパンを持参することにしました。
 子供の頭ほども有る大きなフランスパンを、一旦《いったん》蒸してから重しを載せて圧縮し、容積を小さくしました。

 そうそう、昭和20年の3月に一番下の弟が生まれて居ました。
 上海の記録がほとんど何も残って居ない状態ですが、戸籍謄本には弟が上海で生まれた事が記載されて居ます。

 その赤ん坊を連れて私たちは米軍のトラックの荷台に載せられ、ウースンの乗船場に向かいました。

 白龍丸は貨物船だったので船室は無く、ハッチから船倉の底まで木の階段を下りて行くのでした。

 上海からは2~3日で博多に着きました。
 
 検疫のため、乗船後7日経たないと上陸出来ないとのことで、日本を目前にしながら数日間、船の中で過ごしました。

 そして上陸してからは例のDDT(粉末殺虫剤)を下着の中まで吹き込まれました。

 そしてバラック小屋で数日間、過ごしました。
 
 その間に配給されたパンはフスマ《=小麦を挽いた後の皮。家畜の飼料》入りの真っ黒なパンで、先日まで白いパンを食べて居た者にとっては大変な驚きでした。

 ようやく汽車に乗り、八幡製鉄所の焼けただれた鉄骨や広島の焼け跡風景を見つつ、祖父の居る大阪にたどり着いたのでした。
                         おわり。
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