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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     玉音放送の想い出
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投稿者 スレッド
しんちゃん
投稿日時: 2004-6-10 8:39
登録日: 2004-2-27
居住地: 河内長野市
投稿: 20
玉音放送の想い出
 昭和20年(1945年)8月15日、ラジオは朝から、本日正午から「天皇陛下御自らの重大放送があります」と放送をしておりました。
 私は、これはきっと本土決戦に備え、国民は最後の一人に至るまで米軍と戦えとの放送に違いないと固く信じておりました。
当時中学校では必ず配属将校《=軍隊式教育のために各学校へ軍人を派遣した》がおり、1年生の時より軍事訓練を通じて「生きて虜囚《りょしゅう=捕虜》の辱《はずかし》めを受ける事勿《なか》れ」「身を挺して《みをていして=自分の身を犠牲にして》皇国《日本国》を死守すべし」と徹底して教えられていました。

 さて、この8月15日 私は15歳で中学4年生でした。その前年の昭和19年4月から私達は大阪の木津川河口にあった軍需工場に動員されておりました。
その工場は久保田鉄工所(=現在のクボタ)でした。当時は国家総動員法《=戦争による労働力や物資不足のため政府は人や物の統制を行った1938~1945年》[/color]とかで、中学3年以上の者はすべて軍需工場に動員されていました。

 そこでは、上陸用舟艇《しゅうてい=小船》の焼玉エンジン《=軽油を燃料とする内燃機関》を製造しておりました。
私はその部品になる鋳物用の油芯を作っておりました。
油を混ぜた砂を鋳型につめて部品を抜き出すという作業ですので、衣服も顔も油だらけでしたが、戦争の勝利を信じ頑張っておりました。

 最初は原材料も豊富にあり忙しい毎日でしたが、昭和20年に入ると、原材料の不足で作業をしたくてもできない日が目立つようになりました。その内、海軍の兵隊の何人かが我々を叱咤《しった=叱り付ける》激励すると称して、工場内を木刀を持ち巡回しだしました。
手を休めている者を見つけると、「気合を入れて働け」「滅私奉公《めっしほうこう=私事を捨てて仕事にまい進する》」と怒鳴り木刀で殴られました。

 仕事をしたくても原材料不足で出来ない状況下で、私達は掛け声を出し、手を動かしていかにも忙しく作業をしている仕草《しぐさ》をすることを自然に覚えました。
海軍の兵隊が工場内におるのも可笑《おか》しいですし、私たちがズルをするようでは報国の精神に欠けるものでした。

 20年6月ごろには、やはり細々と作業をしておりましたが、
今から振返ると矛盾だらけでした。
上陸用の焼玉エンジンを作っても、取り付ける小型船舶もない、燃料もないし、仮に取り付けてもどこへ上陸するというのでしょうかーーーー。

 この年の4月には既に米軍は沖縄に上陸し、住民も悲惨な戦闘に巻き込まれておりました。6月中旬には守備隊とも交信が途絶えました。

 この頃から、本土決戦は避けられない、米軍の上陸は九州の東側か、紀伊半島の田辺付近か、房総半島かと取り沙汰《とりざた=世間のうわさ》されてきました。本土に上陸されたら私達はひとたまりもないだろうが、戦うしかないと覚悟を決めておりました。

 工場は連日B29《ボーイング社の長距離爆撃機》の爆撃を受けておりました。普通は警戒警報が出て、次に空襲警報の順となるものですが、これも最初の頃だけでした。後になると、警戒警報が出るとすぐB29のエンジン音が聞こえてくるという状況でした。
おまけに、日本側の邀撃《ようげき=迎え撃つ》の戦闘機は、警報が発令されると、飛行場の爆撃を避けるため、B29の飛行とは反対の方向に飛び去り疎開《そかい=戦火を避けるため場所を移す》しておりました。(本土決戦に備えての温存との噂《うわさ》でした)。高射砲の対空炸裂《さくれつ=はれつ》音も殆ど《ほとんど》耳にしなくなっておりました。

 この為、B29爆撃機は我々の頭上近くを悠然と飛行しておりました。私達は7月ごろになると、警報と同時に、工場から2キロも3キロも先まで逃げ回り、警報解除と同時に3時間かけて家に帰るという生活を繰り返しておりました。

 その頃は指揮系統の統制は全く無く、誰に断ることも無く皆が自分勝手な行動をしても、全く咎《とが》められませんでした。

 8月に入るや広島と長崎に新型熱戦爆弾《=原子爆弾》が投下されたとの報道がありましたが、私達はその規模の恐ろしさを知るすべはありませんでした。

 8月15日の当日、私は夏風邪を引き工場を休み家におりました。正午前から私は母親と一緒に重大放送を聞くためにラジオの前で待機しておりました。

 正午きっちりラジオからは「只今《ただいま》より重大放送があります。全国の皆様ご起立を願います。」との放送に続いて「君が代」の国歌が流れました。
一般国民が初めてお聞きする天皇の玉音《お声》がラジオにより放送されました。

 しかし、15歳の少年にはあまりにも表現が難しく、途中までは何を言っておられるのか良くわかりませんでした。皇国を死守すべしとの放送と思っていた自分が、どうも様子がおかしい、と気づく頃には半分以上が済んでおりました。
「堪へ難きを堪へ《たえがたきをたえ》、忍ひ難きを忍ひ《しのびがたきをしのび》ーーーーー」と最後まで聞いて、やっとこれで戦争は終わったんやと感じ出しました。
しかし無条件降伏したとの感覚は全くありませんでした。

 何故《なぜ》ならば、この放送が文語体の詔書《=天皇の文書》形式の文体であり、各方面に配慮した文面で、降伏との言葉が全く無かったためです。
ましてやポツダム宣言そのものすら知りませんでした。

 これからの日本はどうなっていくのか、全く未知数の中、大きな不安が残りましたが、ともかく「戦争は終わったんや!」の嬉しさが込み上げてきました。
12時半ごろ屋根の物干し台に上がりました。その時米軍の艦載機《かんさいき=軍艦から発進した飛行機》が飛んできました。その姿をじっと見ておりましたが、機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から機関銃でねらい撃つ》も無く飛び去って行きました。
「アッやっぱり戦争は終わったんや!」この時やっと実感できました。

 8月15日の早暁、大阪砲兵工廠《しょう》(兵器工場)がB29爆撃機の1トン爆弾の総攻撃を受け壊滅しました。当時6万人の人々が動員されて生産に従事されていたと言われています。
この為多くの犠牲者が出たとの噂がありました。
   ---黙祷《もくとう》ーーー

その年の9月初め、私達はようやく2学期の授業に戻ることが出来ました。最初に教えられたのは“デモクラシィー”という言葉でした。
そこから平和日本の再建に向けての第一歩が始まりました。

                 しんちゃん
あんみつ姫
投稿日時: 2004-6-11 23:22
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 玉音放送の想い出
しんちゃん  こんばんは!

玉音放送のあった日は、酷い暑さで、絶え間ない蝉の鳴き声だけが記憶に残っているという話を良く聞きます。

私は昭和18年生ですから、戦争の事は殆ど知りませんが、当時は町の人間は食糧難で、多くは田舎に「買出し」に行ったそうですね。

赤ん坊の私を背負った母が、祖母と一緒に買出しに行った日に、艦砲射撃《かんぽうしゃげき=戦艦から大砲を撃つこと》に遭い、田圃《たんぼ》の中を逃げ惑って九死に一生を得たと聞きました。

祖母はその時に焼夷弾《しょういだん=さく薬と油や黄燐などを入れた小型爆弾》の破片が膝《ひざ》に当たり、医薬品は勿論《もちろん》医師なども不足だった当時ですから、満足な治療も受けられなくて、歳を取ってからも良く膝が痛むと言っていました。
引用:
 私は、これはきっと本土決戦に備え、国民は最後の一人に至るまで米軍と戦えとの放送に違いないと固く信じておりました。


きっと勝つと思うからこそ、国民は耐え難きを耐え、忍び難き
を忍んでいたのですから、玉音放送があると言われて、やはり
しんちゃんと同じように思った人は多かったでしょうね。

昭和20年当時 既に大人だった人たちからも、この時の印象
を伺いたいですね。



----------------
あんみつ姫

Amiさん
投稿日時: 2004-7-22 10:26
登録日: 2004-7-21
居住地:
投稿: 1
Re: 玉音放送の想い出
しんちゃん こんにちは。
またあの日が近づいてきました。

玉音放送。何のことか分からず疎開先の河内松原の小学校の校庭で聞きました。分からないまま帰宅し泣いていた親から説明されました。その夜から灯火管制《とうかかんせい=空襲の目的となるため、電灯を消したり黒い覆いを掛けた》の必要が無くなり明るい部屋で過ごしたのを覚えています。度々停電がありましたが・・。

当時小学校では勉強は殆ど《ほとんど》なく農家の手伝い、手旗信号《てばたしんごう=赤白の小旗を動かして信号を送る》、モールス信号《=長短の符号を組み合わせて文字にする電信》の暗記、いなご100匹糸に刺してくる《いなごは貴重な蛋白源だった》などが宿題でした。

その後大阪市内の小学校に戻りました。教科書を墨で塗りつぶし軍国主義を抹殺《まっさつ》しそれを進駐軍《しんちゅうぐん=占領軍》が視察に来ました。DDT《殺虫剤》を盛大に振り掛けられたり、ララ物資《LARA=大戦後にアジアに物資を援助したアメリカの民間組織》とかのミルク給食があったりしました。とにかく変化の激しい年でした。

あの時代は酷暑、厳冬にも何も感じず元気に遊んでいたようにおもいます。   (Ami)


しんちゃん
投稿日時: 2004-7-22 20:19
登録日: 2004-2-27
居住地: 河内長野市
投稿: 20
Re: 玉音放送の想い出
Amiさん、今日は。
Amiさんの貴重な初投稿をこちらに頂き有難うございます。

イナゴ100匹糸に刺して来るのが宿題とは今では信じられないですね。クラス全員分を集めれば相当の量になったでしょうね。
私も昭和16年の6年生のとき、クラス全員が糸を通した針を持って近くの田んぼに出掛けイナゴを取って来ました。それを釜茹《かまゆ》でにしたまでは記憶にあるのですが、その後そのイナゴがどうなったのか不明です。

個人的には、母親から体に良いといっては、ホウラク《=素焼きの平たい土鍋
で煎《い》ったあと醤油・砂糖で塗《まぶ》して食べさせられました。(ホウラクはご存知ですね?)

それにしても、河内松原が疎開先とはこれまた今では信じられませんね。小学生も戦争中は苦労しましたね。

Amiさんの体験はこのReとは別に投稿の価値がありますよ。そうされたら!
      しんちゃん
SHIG
投稿日時: 2004-7-22 22:31
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
私の場合、当時幼稚園坊主でよく覚えてはいませんが、もともと松原よりもずっと田舎の岡山県にいました。
おばあちゃんの家に行っていたときに小学生の兄貴が弁当箱に詰めた芋羊羹《いもようかん》を持ってきてくれて「日本は負けたらしい。でもアメリカも大分疲れているらしい」と教えてくれたのがその日でした。
祖母は村のどこかへ行ってその玉音放送を聴いてきたのでしょうが兄貴の情報のほうが先でした。
いなごはその後も良く食べました。ホウロク(私のところではホウラクではなくホウロクといっていました)で煎ったイナゴに甘辛い味付けがされるとなんともいえないおいしさでした。
翌年小学校に上がったのですが、教科書はもう新しく印刷されたのをもらいました。といっても新聞1枚くらいので絵は無く色もなく、自分で裁断して適当な紙で表紙をつけて使ったものです。
サイタサイタサクラガサイタから始まりました。
男女共学になったのは翌年のことです。
かれい
投稿日時: 2004-7-23 9:56
登録日: 2004-1-4
居住地:
投稿: 137
Re: 玉音放送の想い出
SHIG さん

SHIGさんと私は同い年です。
引用:

サイタサイタサクラガサイタから始まりました。


私もサイタサイタサクラガサイタだったと記憶していましたが、戦後にサイタ
サイタを使ったというのは初めて聞いたといわれ、記憶がどこかで混戦して
しまったのかと不安になっていたのでした。同級生に証明されて嬉しいです。

引用:

男女共学になったのは翌年のことです。


そうでした? 私は別々だった記憶は全くないのですけど。

                        かれい

タイトルから外れたところにコメントつけてすみません。

                    

SHIG
投稿日時: 2004-7-26 23:11
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
引用:

私もサイタサイタサクラガサイタだったと記憶していましたが、戦後にサイタ
サイタを使ったというのは初めて聞いたといわれ、記憶がどこかで混戦して
しまったのかと不安になっていたのでした。同級生に証明されて嬉しいです。



ところがですね、当時読む本が無いから兄ちゃんや姉ちゃんの教科書も読んでいましたのでひょっとしたらノボルノボルアサヒガノボルだったかもしれない。いややっぱりサイタサイタだったな、と記憶が混乱しますねえ。

引用:

そうでした? 私は別々だった記憶は全くないのですけど。

国民学校を廃止して男女共学の小学校になるのは全国一律ではなく遅くなったところもあるみたいです。私の岡山県は確か遅いほうだったと聞いたことがあります。


マーチャン
投稿日時: 2004-7-27 9:48
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
Re: 玉音放送の想い出
SHIGさん

 なつかしく拝見しております。

引用:

国民学校を廃止して男女共学の小学校になるのは全国一律ではなく遅くなったところもあるみたいです。私の岡山県は確か遅いほうだったと聞いたことがあります。


 私の場合、戦時中でしたが

  東京の小学校は 一年生・二年生のみ共学。三年生以上は別々

  兵庫県では 各学年とも二クラス以上ありましたが、六年まですべて共学でした。

 戦争中でも、地方や、学校の規模によって共学にしていたところもあったようです。また、オトコ先生が徴兵《ちょうへい=強制的に兵隊に取る》で行ってしまわれて先生が足りなくなってやむを得ず男子組と女子組を合併したーーーという話も聞きました。

 なお、共学といっても、三年以上は、教室の左半分は男子、右半分は女子と分かれていました。

 また、出席簿に関しては、昭和29年高校卒業当時でも、男子と女子は分けてありました。いまは、一緒らしいですね。

              
かれい
投稿日時: 2004-7-27 13:02
登録日: 2004-1-4
居住地:
投稿: 137
Re: 玉音放送の想い出
SHIGさん

引用:

ところがですね、当時読む本が無いから兄ちゃんや姉ちゃんの教科書も読んでいましたのでひょっとしたらノボルノボルアサヒガノボルだったかもしれない。いややっぱりサイタサイタだったな、と記憶が混乱しますねえ。


3つ下の弟の教科書は アカイ アカイ アサヒ アサヒ だったと思います。
ノボルノボルアサヒガノボル って、名詞が入れ替わっただけで、サクラガサイタと同じ文体ですね。
これはSHIGさんの創作でしょう。

ところで、新聞紙状の教科書は初めのうちだけではありませんでした?
そのうちボチボチとお下がりを持つ人が出はじめ、私のもどこかから親が調達してきました。
そして、3学期には、新しい本を貰ったような気がするのですが、このあたりの記憶はおぼろです。
SHIGさんの記憶ではどうなってますか?

男女共学のこと、マーチャンのお書き込みと合わせて、状況がわかりました。

                    かれい
SHIG
投稿日時: 2004-7-30 21:48
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
引用:

これはSHIGさんの創作でしょう。

失礼な。創作では絶対にありません。

引用:

そして、3学期には、新しい本を貰ったような気がするのですが、このあたりの記憶はおぼろです。
SHIGさんの記憶ではどうなってますか?

新聞紙の教科書は1回だけだったと思います。翌年からは曲がりなりにも本の体裁《ていさい=かたち》をなしていました。

学校のことは昭和21年4月入学の私が男子国民学校に入学して翌年小学校になったのは確かです。地域差はあったのでしょうが。
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