メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) 学童疎開(集団疎開)の思い出 <英訳あり> | 投稿するにはまず登録を |
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マーチャン | 投稿日時: 2004-5-3 21:10 |
登録日: 2003-12-31 居住地: 宇宙 投稿: 358 |
学童疎開(集団疎開)の思い出 <英訳あり> 私たちの小学校は、長野県の山奥の温泉場へ疎開《そかい=戦火を避けて都会から田舎へ住まいを移す事、小学校では集団で学童疎開する事で空襲から子供達を守った》しました。 昭和19年、私は3年生、9歳でした。 温泉旅館に学年ごと、男女別に分かれて合宿しました。 我々の宿のご主人は村長をしておられる方でした。 先生、寮母さん、宿の方、寒村《=貧しい村》に急激な人口の増加で食料の確保など、さぞ大変でしらっしゃったと思います。 よく面倒を見ていただいたと思い感謝しております。 それにしても、かなり色々な問題が起きていたようです。 しかも、戦時中のため、すべては極秘に処理されており、父母にも一切知らされていなかったようです。 1.伝染病の流行 我が初恋の坊やは級長さんでした。 明るい目のくりくりした少年でした。 流行性脳脊髄膜炎《りゅうこうせいのうせきずいまくえん》という病気になりました。先生がフトンにぐるぐる巻きにして、リヤカーに乗せた級長を自転車で町の病院に連れて行く、その途中で亡くなったそうです。 かぼそい声で「おかあさん、おかあさん」と叫んでいたそうです。 流行性脳脊髄膜炎は伝染病なのです。すでにそのとき、疎開地で何人か犠牲者が出ていたーーーとの話もありました。 また、我々女児のいた寮には、腸チフスが発生しました。寮そのものが隔離《かくり=人の出入りを禁止し、接触しないようにする》され、児童の外出は禁止されました。 学校にも行かれず寮のなかでの自習となりました。 宝塚の慰問団だけが、少人数でしたが、寮に慰問に来てくれました。 2.こういう病気もありました ある日「特別な身体検査を行う。寮母先生の指示に従って一人づつ別室くるように」との指示がありました。 一人づつ名前を呼ばれて別室に入って行きました。 もどってくる子を捕まえて「特別な身体検査って何?」と聞くのですが「行けば分かるから」といってあたふたと逃げてしまうのでした。 お互い、だんだん自分の順番が近づいてくると不安でたまらなくなりました。 実際に検査を受けて、その場を逃げ出した子の気持ちが分かりました。 早い話、児童の間にある種の性病がはやったーーーその検査だったのです。 9歳の子どもには過酷な検査でした。 幸い同じクラスのこどもは誰も被害にあいませんでした。 今、思うと温泉場でしたから、風呂場からの感染だったのではないかと思います。 もちろん、このことも父母は知りません。 でも、知らされていなくって幸いだったと思います。 3.私を殺して ある日、教官室と呼ばれていた部屋(旅館ですから、もちろん和室。暖房は炬燵《こたつ》でした)に行く用ができました。 軍隊式に「3年、○○、入ります」といって唐紙を開けました。 中には、担任の中年の男の先生(単身赴任です)と、30代のお裁縫《さいほう=針仕事》の先生がおられました。 女の先生は、モンペをはいていませんでした。 そして、いきなり「○○さん、私を殺して頂戴《ちょうだい》」といって泣き出しました。 そのときは、なにが起こったのか、どうしたらいいのか分かりませんでした。 いま、考えると、無理もないことと思います。 炬燵をはさんで和室で向き合っての勤務。募《つの》るストレス。おかしくなるなという方が無理です。 ーーーもし、こういう時代に生まれていなかったら、9歳でこんな経験をしなくても済んだのにーーーと思います。 いろいろ書きにくいことばかりなのですが、学童疎開の現実を書き残して置きたくて書かせていただきました。 |
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