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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 1 お姉ちゃんがお婿さんを
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編集者
投稿日時: 2016-4-20 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 36 今日はおいもの配給日

 今日はおいもの配給日 1946年

 戦争が終わって食糧難のときがやってきた。お米は米穀通帳で登録した家族に配給米が配られる。外米もやがてやってくる。配給は各戸に割り当てられる。さつまいもの配給はタイハクいもや沖縄いも。今の時代、タイハクいもはむしろ珍重されているが、当時のタイハクいもは、「またか」とうんざりした。水っぽく甘みがない。たまに農林一号や二号が配られると大喜び。配られるお芋の重さは一貫目。その重みがどれくらいかは肌で感じる。南京袋にいれて引きずりながら運んでくる。何で南京袋というのか。丈夫で泥まみれに強い。

編集者
投稿日時: 2016-4-19 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 35 夕日の富士

 夕日の富士

 「戦災の焼け跡と生活のすべ」 1949年 一夜のうちに米軍爆撃機B29はすべてを焼き尽くした。戦後4年たった昭和24年、まだ墨田区寺島町(現東向島)は焼野原だった。よくここまで徹底的に破壊したものだ。焼け跡にバラックが建つ。焼け残ったトタンや鉄板、ブリキなどを屋根にして、木切れを壁にした仮小屋バラック。子どもは多い。10人兄弟などざらにあった。生活しなければ。焼け跡には掘り出すと鉄くず、銅線、真ちゅう、レンガなどが出てくる。レンガはへばりついたバリを金槌で剥がして整形、一個2円で売る。銅や真ちゅうが値がいい。子供らは探し競って売った。向島から見た富士山。茜色の夕空にシルエットがとてもきれいだった。


編集者
投稿日時: 2016-4-18 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 34 わたしの親たちは何人いたのか

 「わたしの親たちは何人いたのか」

 いままで親たちは何人いたのか、計算してみました。 それぞれに両親がいる。25年を一世代として、500年前までさかのぼると累計100万人いたことになる。私は今その先頭にいる。「責任あるなあ僕は」 繋がりの一本でも切れると僕はいないことになる。


編集者
投稿日時: 2016-4-17 8:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 33 木目の天井画

 木目の天井画  1951年

 「木目の天井画、いろんな形に見えて」昭和26年(1951年)床に就く。目は上に。毎晩見て寝る天井。同じ紋様が続く。いろいろな形に見える。節目は人の顔のよう。猿やライオンにも見える。木目の波は穏やかな砂浜。遠くの犬が吠えている。廊下の灯りは二燭灯。障子を照らす。柱時計が耳を澄ますと時を刻む。明日のための枕元。おやすみなさい。


編集者
投稿日時: 2016-4-15 6:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 32 家の守り、柴犬チュウ

 「家の守り、柴犬チュウ」 昭和48年(1948年)

 千葉県市川市笹塚(現在市川真間)の祖母の家のチュウ。大抵の家は防犯のため番犬を飼っていた。“猛犬に注意”の張り紙が門に貼ってあった。人が訪れるとけたたましく吠える。チュウは常時、鎖でつながれていた。報酬は一日一度、アルマイトのボウルでおじや。生活圏は円周内。駆け回り、地面を掻き、穴を掘る。夜、あちこちの家で犬が遠吠え。チュウもウォーン。遠吠えに応える。当時の飼い犬は今のように散歩もさせないし、家の中にも入れない。吠えることだけが仕事だった。


編集者
投稿日時: 2016-4-14 6:30
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 31 自分で頭を刈る

 自分で頭を刈る 昭和28年頃。

 当時小学校六年生。親は大体忙しそうなので長く伸びてしまった坊主頭を自分で刈ってみる。バリカンを右手に、体をくねらせて。左手で後頭部をなぜて刈ったあとの結果を感触で調べる。とら刈りになった。修正がきかない。前方はいいんだけれど後ろがダメ。帽子を被って伸びてわからなくなるまでを待つ。大体1週間かかった。


編集者
投稿日時: 2016-4-13 7:34
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 30 こたつは炭火だった

 昭和27年頃こたつは炭火だった。

 炭火を木の枠の中の火鉢に入れる。炭火は朝、薪でご飯を炊いたあと、残った真っ赤に焼けた薪炭を取り出す。薪炭をこたつのところに運んでくる母。布団をまくって火鉢木枠のふたを開け、薪炭を入れる。その作業は結構危険で時間がかかる。終わるのを待つ間、みんな寒い寒い。電気ストーブはまだ無い。部屋の暖房はこたつと火鉢。炭火に頼っていた。エネルギー問題などはない平和な時代だった。


編集者
投稿日時: 2016-4-12 6:46
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 29 母の病院通い

 母の病院通い

 太平洋戦争が終わって一家は疎開先の福島から市川に戻った。幸い市川は戦火を免れた。戦時中の過労がたたって、母清子は極度の神経痛に襲われた。生来の股関節脱臼で左右の足のバランスが悪くそれが余計に神経痛を悪くした。千葉医大病院に通う。駅から病院までは上り坂。わたしの背丈がちょうど母の左手をつく高さにあっていた。小学校一年のわたしは母の体重を全身で支えた。


編集者
投稿日時: 2016-4-11 8:17
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 28 さんまの骨を焼いて

 「さんまの骨を焼いて」というタイトルになるでしょうか。今でも私は魚の骨が大好きです。そのまま食べるか焼いて骨全部を食べてしまう。焼いていると骨の先が焦げて香ばしい匂いが漂い、煙が着ているシャツに染み付く。火鉢を囲む。五徳に骨を置く。骨の継ぎ目からジワーと泡が出る。自分の骨はきまっています。おかげで兄弟は骨が丈夫なようだ。今は火鉢がないので骨はガスレンジで焼くが情緒がなくなって寂しい。


編集者
投稿日時: 2016-4-10 6:56
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「描き残したい昭和(新見 睦)」から 家庭 27 疎開先のもらい風呂

 疎開先のもらい風呂 1945年

 昭和20年疎開先の福島県伊達郡柱沢村の柳沼長太さんの家。私たち一家は隣の青年会館に居留していた。「おふろ、くらんしょ」と一家をお風呂に呼んでくれた。庭の隅に小屋があって、そこが風呂場だった。風呂の水は下の池から汲んでくる。バケツで何回も往復する。その作業が大変なのでめったに水は取り替えない。それでお湯はすざまじい臭い。それでも「おふろ、くらんしょ」と呼ばれると、もらわざるを得ない。湯を沸かす炎が立ち上る。小屋の中のあかりはその炎だけだった。


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