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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     心のふるさと・村松 第三集
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編集者
投稿日時: 2015-11-5 9:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 4

 エ、電信電話学 (通信学理第三部)

 『通信学理』第三編無線通信を教材に用いた科目は正式の科目名が何であったのか不明であるか、多分時間割の中で「電信電話学]の時間が可成り配置されている所からすれば、この科目ではなかったかと思われる。大學の配置科目に「無線通信工学」なるものがあり、配列は若干異なるが、周波数、通信方式、無線送信機、無線受信機について言及されているから、通信学理第三編に該当するものと云ってよいだろう。

 第三編の構成は、第一章受信装置、第二章送信装置、第三章周波計、第四章無線電話装置、第五章空中線及接地、第六章電波ノ輻射及伝播、第七章方向探知機となっている。とりわけ、受信装置について、九四式三号甲無線機の構造はスーパーヘテロダイン方式が特徴であったことを徹底して教えられた。
 同時に、器材を用いて「故障探求」の演習が行われた。送信真空管の陽極(プレート)が管の頭部に突出し、発電機の高圧がここにかかっているのを知ったのもこの頃である。


 オ、電機学(通信学理第四編)

 この科目については、三号甲や五号無線機の送信電源が発電機の転把を二名又は一名で回転させて発電を起こすものであったから、この方の教育よりも、二号乙の発電機の構造理解に力点がおかれた。今日では自動車が普及しているから、これらの理解にはそれ程苦もなく理解できるであろうが、当時は発電機の構造を知るのに重要な科目であった。英語は一切用いられないから、シリンダーのことを「気筒」といい、以下プラグが「点火栓」、キャブレーターを「気化器」、マフラーを「消音器」と教えられた。単気管であったから、航空発動機に比べれば単純であったといえる。しかし、演習ごとに燃料として、ガソリンとモービル油を混合したものを搬送しなければならなかったこと、発働機の自重が約五十キログラムあり、二名で棒に差し込んで搬送し、駆け足しで散開をする場合には参ったことなどが記憶に残るが、発動機を分解し、整備をした後、再度これを組み直して、発動機が高らかに可動したことは永久に忘れられない程に印象が強い。第四部の中心は発動機の部であった。
 以上、学科について細々と回想を記したが、これら以外に、服務や各種演習の印象もあるけれども、紙数の関係で、他は省略する。
編集者
投稿日時: 2015-11-4 6:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 3

 ウ、・電磁気学 (通信学理第一部)

 『通信学理』は四分冊から成り、昭和十六年教育総監部から公刊された。昭和十九年に百版を重ねている。第一分冊(第一編電磁気学)、第二分冊(第二編有線通信)、第三分冊(第三編無線通信)、第四分冊(第四編電源及発動機)となっている。我々は第二編を除いて学んだことになる。

 第一編電磁気学は基礎科目であり、教授部の教官について学んだ。電磁気学の教官は四名おられた。十一期は甲斐憲夫中尉と須藤卓郎中尉(十九年三月交替)に教えられているし、十二期は山瀬暁平技術軍曹(五、六中隊)と小林喜久夫中尉(小林氏は後に八中隊四区隊長に転任、七、八中隊)が担当された。一分冊は後に忘失したために、現在、大学理工学部学生向きの電磁気学の教科書(大学一、二年生向)を二、三冊入手して調べてみたが、当時の教育水準からいえば専門学校程度の学力を要し、理解することは仲々困難であったように思われる。記憶に残っている内容とすれば、磁気電磁界に姶まりアンペアの右ねじの法則、インダクタンス、リアクタンス、オームの法則、クーロンの法則、インピーダンス、フラディの法則など、蓄電器や抵抗、電池の接続や計算について割合に高度なことが教授されたように思われる。ホイートストンブリッジの原理とかインピーダンスの計算方程式が仲々覚えられずに悩んだものだとは今は昔話として懐かしく想い出される。
編集者
投稿日時: 2015-11-2 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 3

 ィ、通信修技

 我々十二期になると戦争も急迫を告げていたので、必要最低限のことしか教わらなかったようである。種々の少年通信兵に関する写真集をみると、ごく少人数でタイプライターを使用して受信修技を行なっている風景などがみられるが、我々の場合は、一コ区隊五十有余名を対象に教官(区隊長)又は助教(班長)が発振器によりスピーカーを通じてモールス通信符号を送信するものを習得した。モールス符号については合調音語、即ち、「伊藤」、「路上歩行」、「ハーモニカ」といった形で符号を憶えることはなかった。十一期の場合はイロハ仮名文字も教育されたと聞いているが、我々は軍用略数字だけを一先ず教えられた。軍用通信は四つの数字を一語とし、受信紙は一列十語(四十文字)で五欄あったから全部で二百の数字を送受信することになっていた。この数字に乱数表の数字を第二欄に記入し非加増(つまり次の位へ増加した数字を位上げしない方法)の数字を第三欄に記入する。暗号解読はこの方法で、組立ては逆の方法をとることになっていた。

 後に若干仮名符号を教育されたが、合調音語は想像受信を招くということで、似かよった符号を集めて逐次、符号を記憶させる方法がとられた。例えば「イ」、「ウ」、「ク」、「四」とか、「夕」、「ホ」、「ハ」、「六」といった類似符号集合組合法である。スピーカー受信修技から後に受話器着装による受信に変った。これは受話器の配布数が少なかったのか、通信講堂の施設が充分でなかったのか一応の受信技倆の向上をまってかは不明である。ただ誤字については減点が厳しく、一誤字につきマイナス十点、脱字はマイナス二点位であるから、誤字が十個出れば採点評価は○(零)点ということになる。クラスでプラス点をとる者は数人にも満たなかったようだ。マイナス二百点位でもましな方で、一つの符号にこだわって誤字脱字が続出すれば採点不能の烙印を押されることは初期の頃はざらにあった。

 送受信修技で、最初は受信から初められたと思うが、電鍵が各人に交付され、助教の発声で、一斉に行なった記憶は鮮明である。送信枝術について、当時、逓信省、逓信講習所では「按下式」という方法がとられていた。これは長符号の場合に、指先きで電鍵のツマミを押えるが、同時に手首も下部へ下ったままで押える方法をいう。これに対し、我々の習った方法は「反撥式」といって、指先きでツマミを押えながら、既に手首は元の正常の位置に復元している状態に戻すやり方である。理由は按下式であると、無線の場合、符号が明確に切れず、ネバつくためと聞いた。しかし、通信速度は按下式の方が速かったようだ。送信試験は印字機で行われるが、「初め」の号令がかかるまで胸が鼓動し、緊張の余り、手首が震えることがしばしばあった。その為に、入浴の際によく手首を振り、もむことを常に教官からいわれたものである。十一期の場合、通信修技の技倆の差からランク別に甲、乙、丙、丁と分かれ、それに応じて 特修が行なわれたようである。
編集者
投稿日時: 2015-11-1 9:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 2

 ア、典範令教育

 典範令とは衆知のように、我々であれば「通信兵操典」、「通信教範」、「軍隊内務令(書)」、「陸軍礼式令」「作戦要務令」などを総括していう。これらは軍人として共通して理解しておくべきことがらについてのマニアルと思えばよい。

 とりわけ軍隊内務書と陸軍礼式令は入校後、直ちに教えられる科目である。これらの内容やその他兵器の取扱い法は、抜粋して理解し易いように学校で独自に編集された配布文書(今でいうガイドブック)があったように思われるが原本がないので不詳である。例えば、生徒の外出制限区域として蒲原鉄道の今泉までは許可されるが、五泉や新津は不可であったことを記述した本があった。これは「生徒心得」のガイドブックであったかも知れない。

 さきにも述べたように軍隊内務令や陸軍礼式令、さらに通信兵操典など日常の起居・學習・服務について支障のない最低限のことを教育されると、後は主として「通信教範」に依っていた。「通信教範」は総則にはじまる第一部から第五部まであったが全部教わった訳ではない。ただ別冊があって、これは暗号の組立て、解読教育の為に用いられたが、軍事秘密に属するから、個人所有は認められず、暗号教育の授業の場合には、冊数を数えて木箱に入れ講堂に持ちはこびしたものである。十九年から二十年にかけて一~二度、組立て法が変更された。

 通信教範は漸次改訂されたが、その原点はいつ頃から規定されていたのか不明である。目下の資料によれば、昭和九年教育総監部から出された「歩兵通信教育規定」がその最初ではないかとも考えられる。この規定は有線が主で、無線については同規定第十三に「無線電信通信二関シテハ『歩兵無線電信通信教育規定』及『通信隊無線電信通信教育規定』ニ拠ル」と記されているのみで、この無線に関する資料は未見であるから判断の仕様がない。昭和十三年「諸兵通信法教範草案」が、つづいて昭和十六年 通信教範抜粋 総則及第一部」が教育総監部で編集され、最後に「通信教範」総則及第一部として刊行された。この第一編通信修技にもとづいて送受信技術が教えられたことになる。「通信教範」第二部以下は終戦時、全部焼却した。
編集者
投稿日時: 2015-10-29 17:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集

 スタッフより

 この投稿は、
  大 口 光 威 様
 のご了承を得て転載させていただくものです。

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心のふるさと・村松 第三集
元少通生らが寄せる村松への思い

 第十期生徒 佐藤 嘉道
 第十期生徒 大口 光威


一、村松少通校の教育
 村松少通校について本誌は、先にその第一集に於いて、村松少通校の教育が、どのような考えの下に、どのような仕組みで行われたかについて、当時の教官(区隊長)であった渡部善男氏に「村松と私、思い出す儘に」として、綴って頂くと共に、続く第二集に於いて、幻の教本とも言われた「村松陸軍少年通信兵學校生徒心得」の抜粋を復元することによって、学校側が将来の幹部を目指す生徒達をどのように育成しようとしていたかを、教官と生徒の関係などを中心に明らかにしました。

 しかし一方、これらの記述では、具体的に、同校で行われた教育の内容はどういうもので、どのような行事の下に行われたかは明らかにされておらず、この点、今回は、記録として残す意味で、以下に、私(大口)と六中隊四区隊で枕を並べあった戦友の小林龍馬氏(戦後、立命館大学教授として国際金融論等の分野で活躍)が綴った文章を再掲してみます。


教育科目の概要と同校に於ける行事略年表
             十二期  小 林 龍 馬
(一)、教育科目の概略
 軍学校では通常、座学と術科・演習及び服務に分かれている。座学には普通学と軍事に関わる科目により成る。通信学校生徒隊→少年通信兵の在籍期間は通常二カ年で第一年は基礎課程で国語、数学、歴史、電磁気学、通信修技、器材取扱いであり、第二年で応用に入って実戦に即した野外通信訓練、行軍、索敵、露営の陣中勤務と二年後半で必要な服務要項と戦術教育をさずけるとなっていたが、戦争状況の急迫がつげられると、在籍期間も短縮されるようになった。九期生の一カ月短縮にはじまり、以後、十期が約六カ月、十一期の一部は一年足らずで卒業して戦地におもむいた。

 これら諸科目の中、重点的に教育された科目は何と云っても通信修技であり、電磁気学であった。それは通信兵の基本科目であったからである。
 學科始めが午前八時から開始されたかどうか不明であるが、午前に三段(一時間目と呼ばず、一段、二段、三段)とし、午後も三段(四段、五段、六段)と一日、六時間(六段)と区切られていた。一段の正味時間は恐らく五十分刻みではなかったかと思われる。ただし、同一内容の科目、例えば通信所勤務などであれば通して行われたようである。段と段の間に休憩が入ったことも記憶にある。

 又、休日も毎日休みではなく、月に終日休み一回、半日休二回の回数であったが、三種混合注射を受けた後とか、夜間演習、長時間演習を行なった場合は翌日、休業となることもあった。

 さて、国語、歴史などの内容については余り記憶が定かではない。
 ただ文官教授により、軍人勅諭の解釈が講述された。
 したがって、歴史といっても勅諭の前文に関わって国史の一部を習わった様に思われる。数学については主に電磁波や通信器材の内部の周波数の関係からか三角函数が主に教授された。全体的に生徒の理解度が充分でなかった為か、教授の方法は繰り返し教育がなされたし、講堂以外に内務班にまで教授が足を運ばれ質問に答えられていた。時間表の一部を見ると、後期にも特別一段(一時間)を割いて、数学の授業があった程である。語学は敵性語ということで一切講義されてない。陸士の受験科目も昭和十五年以後に受験科目対象から外されている。
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