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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     私の従軍記 飯塚 定次
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編集者
投稿日時: 2015-4-2 7:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 4

 午後五時頃だったと思う。小林少尉幕僚以下護衛隊と通信隊、機関銃二基、すみだ機関より数名、私と大沢一等兵とその外助手二名初めての敵地への潜入なので全てを神様次第という想いでした。真暗闇の砂利道(北スマトラは殆ど砂利道)、無燈で走る事は確か戦地へ来てから初めてだと思う。懐中電灯で車の直前の地形を確認し乍ら前進、私が先頭車を運転し小林閣下グループと通信隊をのせて時速三~四キロで前進して行った。時々二号車が来ないので戻ると道路の真中を大の字で大沢が寝てしまっている。無理もない。一昨日来、全く寝ていない。昼間アチエへ後続隊を迎えに行った時も前夜から寝ていないので私も道路の補修用の砂利石に乗入れたり半分無意識の処もあった。その後、引継ぎでの運転だから、顔に水を吹きかけて目覚めさせて運転させた。夜中の二時頃指揮系統の者二十名位集められ先遣隊長から報告事項があり「我々は現在敵軍より先に出てしまっているのでロスマウニという地点迄戻る。敵は山中(タケゴン)方面へ逃げ込んで途中の橋を皆落して逃げている」という。又引返して朝八時ロスマウエの生沼部隊本部に到着。生沼部隊長に報告した処大変喜んでくれて「御苦労だった。とにかく一眠りしてくれ食事用意しておいたからすませて休んでくれ。」とねざらって下さった。

 自動車班長の大川中尉に報告したら「すまんがまだ遅れている部隊があるので全力で輸送している処だ。すまんが迎えに行ってくれ、遅れて事故でも起きたら困るから」といわれて食事を戴いて直ぐ迎えに行き、部隊責任者に三日間殆ど寝ていないから運転中何の話でもいいから大声で話をしてやって下さい、たたいてもひねってもねむらない様にして下さいと各車輔に伝達し夕方迄かかりました。自動車は徴発したのだけで殆どシンガポールに残していますので輸送に時間がかかりました。唯敵一千八百名位の大部分が司令官以下山中のタケゴンという処へ逃げ込んだので予想された戦乱は殆ど今まではなかったのでシンガポールの二の舞はありませんでした。夕方になって部隊はオランダ軍の逃げた街道を追跡しました。未だ眠れません。三十キロメートル位で山にぶつかり、その入口の川の橋が落されていて歩くしかない山路になりました。あいにく雨が降り出して山路の行軍は最高の難行苦行となりました。

 午後十時頃建物を見つけ、まず火を炊いて衣類を乾かし乍ら私はそのまま寝込んでしまいました。前後不覚といいますが只たき火の傍で五時間位、不寝番に護られて五十名位が死んだ様に眠っていました。たき火の傍で軍装を整え人員点検よし、落伍者なしと確認、大川隊長の命令で一名連れて道路偵察に夜明けの街道を登った。一時間位行った処で川にぶつかった。大きな谷川で橋が落されていて川の手前に部落があり工場があった。中を点検したら物音がしたので銃を構え乍ら突込んだら敵兵二名が手を上げたので押え、手を後手にしぼって柱にくくつた。緊張した。それは「コカコーラ」の工場だった。無人になった工場は無気味なもんだ。間もなく本部が到着。状況を報告。工作隊に連絡して仮橋の所在確認して四方警戒を徹底しつつ既にタケゴンに到着。敵を降伏させ武装解除をして部隊本部で収容所管理に任じている事も判明した。河を越して台地に出て間もなく、街道の両側にある大木の上から狙撃され四列縦隊で進行中の一列目へ小銃らしき銃声と供に耳元で「カチッ」と音がした。倒れる音がして、見たら私の左が二大隊の自動車班長平塚中尉、その左が二大隊自動車班の西川甚一兵長だった。彼が頭部を鉄帽の上からやられたのだったがかすり傷ですんだ。平塚中尉は上背があり軍刀を提げているから敵からねらわれ、それが外れて隣のそうだ西川君といった西川甚一といったかナ、彼は気丈に大丈夫ですといったが衛生班へ下げて続行した。樹上の狙撃兵は射殺したと思った。その後一日か二日かかってタケゴン到着。
編集者
投稿日時: 2015-4-1 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 3

 昭和十五年十月から十六年六月迄教育訓練が行われ、南支中山県を愈々出発。この期間、軍は南支の作戦に参加していた。中山県はマカオの近くだったので物資の拠点となっていた。ベトナムへ進撃が始まり六月末海南島に陸海の軍船が進撃準備に集結。巡洋艦、航空母艦、駆逐艦、輸送船等々二百隻余の船団で中山県を出る時は内地と同じ様に日の丸旗を沿道で中国の人達が送ってくれた。貨物船を徴用して私達は乗り込んだが仏領インドシナのサイゴンへ敵前上陸する為の作戦会議が甲板で行われ二十五軍と十五軍のいわゆる日本が英、仏、オランダ、タイへ向かって大東亜戦争への緒戦が火ぶたを切る事になったわけです。

 海上見渡す限り軍艦と貨物船。最初で最後の観艦式となった七月二十八日、陸海の敵前上陸はなくなり(仏国と合意が成立)、七月三十日サイゴンで入城式を行う事になり、予定通り入城式を行い部隊本部は市街地の中、確か六階建位だったと思いますが学校の予定で建てた建物を当てた様で十二月三日迄ここを拠点に南インドシナ三国を偵察に大川中尉のお供をしてフランスが作った道路のすばらしさに脱帽した。そして、生活は中国流であり経済を掴んでいるのも中国人、いわゆる華僑だとみました。十二月二日完全軍装で全員出発。ラオスのタイ国境のジャングルへ向かった。大川中尉が運転して私が助手席に乗って行軍途中から大川中尉から「愈々米英佛蘭と戦う対戦争が近日中に始まる。近歩三(近衛歩兵第三聯隊)は第十五軍の基幹部隊としてまずタイへ進撃し飛行場を召領し空軍基地とする。ジャングル野営の一週間は蚊とさそりの攻撃を受け、死を覚悟させられた。各自の身勝手な行動をとらぬこと、現地人の言動に動かされぬ事、勝手な言動は許さぬ、飲食は支給されるもの以外口にするべからず、と厳重に言渡した。十二月八日早朝、暗闇の中を出発。バンコックへ進撃、(午前八時)空港を占拠。タイ国は即日降服して協力体制をとったので、空軍は即、作戦を進め、二日目も寝る時間はないまま、カンボジヤへ前進。プノンペンを前進基地として、体勢を整え寝食を得た。そのため十二月八目から十二月三十日迄連日連夜の軍需物資輸送を十両のトラックで敵の攻撃も受け乍ら夜陰、仮眠一時間位で完送して生沼部隊長から感謝状をいただいた。愈々これからマレー半島を南下して英軍根拠地へ突入する。死に場所へ来たぞと実感出来た。

 私がプノンペンを発った時、一月十八日頃だったと思うが、マレー半島を制圧して我が部隊は二月八日頃シンガポールの対岸に集結し上陸用舟艇部隊で第三大隊があらゆる援護を受け乍ら全島が要塞だったシンガポール島に大きな犠牲を払ってジョホール水道から全島に張り巡らされた集音器(その集音器に音が入ればその地点に集中攻撃をかけてくる陣地、即ち要塞で出来ていた。)兵士の前に戦車がゆく。その戦車を踏み越えて敵陣を一つ一つぶして前進して行った。二月十日の紀元節には日章旗を樹てる予定が約十日近く遅れた。詳細は内地の方々の方が御存じと思いますが、島の中央辺に水道池があって『ライフ』の表紙になった擱座(かくざ)した戦車があった地点を通ったのが十八日だったと思う。この時点では既に聯合軍司令官が降服していたと思います。市街地に直結したゴム林に部隊本部は野営して、二月二十五日次の作戦への準備に入った。三月八日シンガポール港に前進し、次の攻撃地スマトラ島進撃部隊で出撃態勢に入り、部隊長生沼大佐以下(第一大隊はビルマ作戦に出陣)直轄の通信隊、速射砲隊、聯隊砲の三部隊、第二、第三大隊が出陣した。その中で第三大隊の第十中隊は中隊長以下殆どシンガポール作戦で軍曹以下十名程が生き残ったがその外、戦死してしまった。宮兵団のスマトラ(オランダ領)島へ敵前上陸した処は北スマトラのアチエ地区、三月十日シンガポール港を出発、三月十二日夜コタラジャ沖に集結、夜明けと共にオランダ軍の反撃を制して腰迄海水に浸ってサイドカー一台をかつぎ上げて十時過ぎに設営した本部に入った。オランダ軍は約二千名山中へ逃込んだので、自動車班は全力でシンガポールから上陸した部隊の輸送を反復行った。作業の途中で部隊長から至急来る様に伝令が来たので、参上すると、「只今から偵察先遣隊を小林旅団長が指揮されて出発される事になったに付き、車輌二両(現地調達)で先遣隊を搬送任務を」と下命された。
編集者
投稿日時: 2015-3-31 6:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 2

 廣東には二~三日滞在し私外四名計五名の新兵は廣西省欽県に進み、ここで編入される部隊、独立自動車第一八五中隊、隊長長谷川中尉の下に参加すべく待機。四月六日頃だったと思う、南寧に布陣していた近衛師団司令部へ向って出発した。街道は百五十キロメートルの間、戦車壕で寸断されていて軍馬の死骸は未だそのまま放置されていた。数日前此の街道で敵機に襲撃され道路沿いの河中に散開して身をかくしたが執拗な敵機は離れず、反復攻撃し夜間迄水中で難を逃れたと云う。その第一日目、最初の野営の午後八時頃大河の向側の山の中腹から夜襲を受け、急遽壕に入り応戦した。三十分位かなと思った。一時間位で戻った。まず戦地へ入ったと実感した。翌日敵機襲撃の現場を通り翌々日、南寧到着。申告すませて間もなく竹田小隊長より、明日、命令受領者随員として出張を命ぜられた。部隊みんなから羨望のヤジが飛んだ。これは任務を全うして一日休暇が出るので社会の風に浸る事が出来るからと判った。

 私には無用だったが、先任の用事がすむ迄待って帰隊。ところが部隊復帰と同時に小隊長に呼ばれ、「飯塚は即、本部書記を命ずる。」と辞令を受けて欽県の長谷川部隊本部へ服務した。部隊本部は民間の三階建煉瓦造りを徴用していた。部隊は七、八百メートル離れていて、営庭で吹くラッパも殆ど聞えず、朝五時前に起きて上官(事務関係の准士官下士官)の世話をした。水は五百メートル離れた処にいた久能兵団司令部の井戸迄天秤で二回汲みに行った。南支那方面には当時、この兵団以外に九州の兵団と近衛師団の三箇軍団で第二十五軍の主力をなしていた。十万以上の戦力で間もなく東南アジアへ進出して行ったのである。

 長谷川部隊は兵站自動車第一八五部隊で従来、馬が担当していた輸送、兵員兵具食料等の補給が任務である。私個人は戦時日誌、日々の行動戦歴をコピーして本国の軍司令部、部隊本部等々二十五ヶ所へ日誌として発送するのですが、現在の様にコンピューターがある訳ではなく全部手作業でガリ版刷りで仕上げるのでかなりの仕事量だ。

 予備役応召の一色兵長に親切にご指導いただいた。とにかく本部に五十名余の処へ初年兵は私一人だけ。将校には当番が一名ついていますから良いが下士官伍長から曹長迄は当番がついていないので全部私の処へ廻って来る。朝四時に自律起床、六時に部隊の水事班に本部の朝食を受領に行ってくる。下士官の洗面の支度、兵器の手入れ、靴の手入れ、これだけ朝の特注作業だ。上級下士官(曹長)五名の洗面は井戸水を汲んで来たのを一度滅菌の意味で沸かして、それを冷やして用意した。夜、就寝は十二時。正味睡眠は三時間半位、それが四月二十九日着任から十月の大移動(国内国外全部の組織変更。これを第七六次の編成改正と号した)。

 今迄は軍馬が大砲も兵員も移動手段だったが昭和十五年十月から自動車が兵器として編成されて長谷川部隊は近衛師団の機械化に編成され、私は崎口准尉(人事担当)の業務も助手として特に自動車班の編成についてお手伝いし、近衛第二師団第三聯隊と第四聯隊へ転属編入の手続を執った。私は第三聯隊本部へ崎口准尉と全部の手続を終了した時点で近衛師団司令部へ手続きを済ませ、歩兵第三聯隊本部へ参り転属の手続きをすませ、本部自動車班四十数名の班長は新任の大川中尉(満州の第一連隊から赴任)、内務班長は予備役(昭和八年兵軍曹)内務四班編成、私は第四班長と聯隊本部教育係として聯隊全体の自動車班の教育係大川中尉の助手を命ぜられ、新編成の聯隊本部、第一、第二、第三各大隊の自動車教育が始まった。第三聯隊は第一へ田中少尉、第二へ平塚中尉、第三へ竹田少尉が、崎口准尉は兵器班の修理班長として、私の処へも内務班新兵(民間の運転手をしていた召集兵)、補充兵、新兵と大所帯となりました。軍隊の組織が新兵器による新装備で私のような外様は肩身がせまい処ですが新しい任務が生じて階級に合致しない上下の関係が生じ、特に聯隊本部とか旅団本部、師団司令部は任務に依って変則的な部署が出来上っていました。
編集者
投稿日時: 2015-3-30 8:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次

 はじめに

 この記録の
 メロウ伝承館への転載につきましは、飯塚 定次様のご了承を
 いただいております。

 メロウ伝承館スタッフ

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 昭和十四年八月、胸ふくらませ徴兵検査を受ける為、故郷六合(現島田市)へ五年ぶりで帰ってきた。家を出る時、母に「お勤めはきびしからうが男子、家を出て一度志を樹(た)てたなら自らが足で立つ力を備えて何の某と名乗る迄は此の家の敷居はまたぐまじ」と亡き父のいる佛壇の前で私の顔を穴のあく程ひきしまった顔で門出のあいさつに応えてくれた母の顔をじっと見つめて、大きく、無言で頭を下げた。
                                 
 五年ぶりで迎えてくれた母や妹弟兄嫁達が涙を流し乍(なが)ら歓迎してくれた。 
 三年程前、名古屋市中区住吉町の松屋写真館で写真をとり家宛に「比の通り元気です」と母や家族に手紙を添えて便りしていたが、母に身を樹てずに家へ帰るなといわれて初めての家だったのでうれしかったが、徴兵検査のための里帰りだから逃げ帰ったわけではないと自身にいい聞かせ乍ら亡き父にも母にも挨拶し、「今度は兄さんのような体格でないから判らないが国の一大事、父や兄と同じ様に軍人としての務めを果たす様、決心をして明日に臨む」と母に申し上げた。母は、「その体では平時なら無理だらうが、戦時の事なれば男はみんな戦場へ立つ事と覚悟していなさい。」と云ってくれて、昔、父が日露戦争にあたって応召して明治三十八年二月第三師団乃木大将の率いる第二軍に参戦、旅順攻撃の激戦に厳冬の野戦で伏せて数分の間に軍服が地面に凍てつき服が破れてしまった事を、「生涯誓って『寒い』というまい」と、父が生還して家人に話して、その通り生前決して「寒い」とはいわなかったと、その父の決心と、勲章をこの時母から心意気として持つ様みせてくれた事を思い出した。
 
 二ケ月程して、役場から通達があって「第二乙種合格。入隊は昭和十四年十二月二十日」と、入隊は第三師団第三輜重聯隊とあった。当時、名古屋の会社に勤務していたので縁というものを感じました。勤務先では二年先輩の出征があって二人目、みんなからも町内の方々からも「お目出度うございます、御苦労様です」とお祝いを受けました。郷里へ十二月十七日帰り、その日徹夜、村中の人達からお祝いを戴き、友人、知己、親戚等々挨拶とお酒に徹夜で攻められて、朝の挨拶は両脇を友人に支えられて杉の葉で飾られた門の前で真当(まっとう)な挨拶もできない程酪酎して徹夜の宴席止むを得ないと恥かし乍ら自戒の中、「恥ない御奉公を致します」といって万歳で村境の川の橋迄、大勢の方々に送られ出発。名古屋の会社へ入り二十日の朝、又名古屋の会社の人達、町内会、婦人会、青年学校等の大勢の方々に送られて入隊いたしました。

 そして、昭和十四年兵、新兵四千人程と第一期の教育、凡ゆる初年兵教育を受けました。
そして、ここでも人間関係の縁というものを痛感いたしました。知らない他人なのですが隊長の田中見習士官が浜松の方、この方とは野戦でもずっと同じ部隊でした。そして、教育係助手として佐々見習士官、此の方が早大出の方で教育期間中、大変きめ細かく個人的に応援して下さいまして楽しい教育期間をすごしました。もう一人班長の早川伍長が静岡出身の方で班長室は同じ建屋の隣室ですので大声の日常がすべて判る訳です。それで共同制裁を受けそうな雲行になると班長室から大きな声「おい飯塚ちょっと来い」と呼ばれるので恐い教育係助手達は「おい飯塚、班長がお呼びだ。いって来い」となりまして必ずピンチを救って下さいました。うれしくてありがたくて益々精励克己いたしました。
                 
 三ケ月の研修期間が満期、愈々(いよいよ)出征となったのですが、私は教育係として残る事になりました。それで班長に頼みましたが命令だからというのです。私は身体が弱く医師から小学生の時から長生きは無理といわれ、小学生三年生の時から運動を止められた体ですので戦争に出会い国家の為にこの身体を捧げようと決めていたのです。それが内地に残って教育係では靖国神社へ行けません。どうしても身命を国に捧げて親孝行をすると決めていた事に違反することになるのです。それで教育係長をして下さった田中少尉殿に直談判して田中隊長も御一緒に戦地へ発たれる事になっていましたので強くお願いして私の代わりの方を出征名簿の中から四百分の一、何かの理由で残りたい方、事情のある方を選んで戴いて戦地へ私をつれて行って下さいと懇願いたしました。出発直前になって田中隊長の処へ編成された一人を繰替えて御一緒に戦地へ発つ仲間に入れてもらいました。願いが叶いました。私は武者震いして自分の前途に乾杯いたしました。

 昭和十五年三月二十三日午後十一時営門出発、大勢の方々に見送られ三千名(四千名だったか?)名古屋駅迄徒歩行進。深夜の東海道線を西下し、早朝の名古屋港から輸送船(貨物船)に乗船して大陸に向って時速五ノットといふ最低スピードで海南島に立寄り、三月三十日廣東港に入航上陸いたし、配属先へ分かれて行った。この間、船内では二百名を単位に班が編成され、私も二百名の同志を預かる班長を命ぜられ、船内の行動を指揮した。船よいで何も食べないので酒保でリンゴを木箱一ケース買い、これをかじって八日間過ごした。

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