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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     電気通信大学藤沢分校物語
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編集者
投稿日時: 2015-2-13 15:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (7) 2

 7・2・1 鉄砲場の設置

 幕府の享保の改革の一環として、鉄砲方役人たちの武術鍛錬の場として、さらにいえば当時、軍事部門を担当する番方衆の士気昂揚を目的として湘南海岸に設置されたものである。その本質的意義は幕府の軍備・軍事力の低下を防止するという点にあったと思われる。その後、1792年(寛政4)には武州西台徳丸が原(板橋区高島平、筆者注:高島平の地名は高島秋帆にちなんで名付けられたという)に鉄砲場を設け、さらには1843年(天保14)に江戸四ツ谷角筈村に、翌年は下渋谷村、赤坂今井、1852年(嘉永5)大森海岸、1854年(安政元)深川越中島に設置した。こうした増設の目的は対外防衛意識の台頭による軍備の拡大であった(注74)。

 幕府の大筒(大砲)実射場は早くより鎌倉海岸にあった。(注72)1728年 (享保13年)、幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が、鎌倉の西方、茅ヶ崎の柳島村(相模川河口)から藤沢の片瀬村までの海岸を鉄砲場としたのである(注77)。


 鉄砲場が設置された当初は、区域の各村々は旗本領であったが、柳島村以外は逐次幕府領に組み入れられ代官支配村となった。代官は文官であり、幕府を支える年貢徴収が主任務で、一面、領民を守る民政の担当者として、治安維持や訴訟なども取り扱った。それに対する武官は鉄砲場での演習に従事する大筒役や鉄砲方であり、純粋に火砲・銃器の製造や火薬類の準備、演習での火術の指導などが任務であった(注75)。

 選定の大きな理由は、砲術調錬に適した藤沢の地形的特質、即ち山上からの射撃、舟上からの試射、長い海岸線を有する砂丘の荒野、また江戸、鎌倉に近く、藤沢宿(東海道五十三次)にも近い地理的利便性もあったからであろう。

 服部清道氏は「相州炮術調錬場編年史料」(注76、昭和44年発行)の中で、享保の改革で活躍した大岡越前守忠相(1677~1752)の介在があったのではないかと述べている。「大岡氏は天正19年(1591)以来この地方に采地を有し、且つ堤村の浄見寺(筆者注:茅ヶ崎市では毎年4月下旬大岡越前祭を催している)をもって代々の葬地としていた事により、当地方の地理的環境にも相当明るかったと思われ、また忠相の実父忠高、養父忠実(原文のママ)共に、元禄年中(1688~1704)にそれぞれ御先鉄砲頭をつとめ、更に相州鉄炮調錬場が設けられた享保13年(1728年)には、忠相は江戸町奉行として幕府の要職者との接触があっただろうと考えられ、初め幕府がこの地に炮術調錬場を設けるに就いては、予め幕府当事者の検分調査が為されたでありましょ、が、それに至るまでの予備的な資料の提示なり、推挙なりに、大岡氏の介在を想定したいと思うのです。」

 然し、郷土史研究家、東哲郎氏は「これまでの研究では何故、此の地が鉄砲場として設定されたかの確証はない」と述べている(注75)。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 15:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (7)

 逓信省は、藤沢市に分教場設置を望んだ理由の一つは「関係方面に連絡して適当な土地を物色したが、海軍関係とも密接な関係のある湘南海岸が非常に好適の地であると考え、調査した結果、鵠沼海岸の某地点に川沿いに好適の地があった」と藤沢市議会で明言した(注71)。

 では、海軍と密接な関係とはどういう事なのか?
その遠因を探ると、藤沢に1728年(享保13)設置された鉄砲場に突き当る。1868年(明治元)に廃止されたが、そのうちの辻堂が横須賀海軍砲術学校演習場として近代日本海軍に引き継がれ、密接な関係が生じるのである。

 7.鉄砲場

 7・1 大砲(大筒)の進歩(注72)

 豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592~1598)では、日本軍は鉄砲に於いては質量共に優れていたが、大砲では明軍、朝鮮軍に劣っており、戦争後期には大いに苦しめられた。大阪の陣(1614~1615)の時には東軍は多くの大砲を持ち、これを攻城の最大の武器とした。島原の乱(1637~1638)の時にも、攻城軍は多数の大砲を使用し籠城軍を苦しめた。そして遂に1644年(正保元)には五貫目玉(19㎏)の青銅製巨砲さえ出現したという。然し、その後は泰平が続き大砲技術は停滞、退歩してしまったようである(洞富雄『種子島銃』)。


 7・2 享保の改革

 1716年(享保元)徳川吉宗は江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は紀州藩主の藩政を幕政に反映させ、第6代家宣、第7代家継の正徳の治(1711~1716)を改める享保の改革(1716~1745)即ち幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約、新田開発などの公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などを実施した(注73)。

 享保の改革は、幕府機構及び民政の上でも後代の規範を作りあげた事において幕政史上注目されているが、この時代は学問や武備の面でも後代の源流を形成したという点で注目する必要がある。幕府の正史たる『徳川実紀』は勿論、歴代の将軍をほめたたえているが、『実紀』が彼に与えた評価は「聡明大度」と「膂力(腕力)抜
群」であった。彼は武芸を大いに奨励したし、彼自身も達者だった。綱吉の時廃止された鷹狩りりに江戸の近郊で鷹狩りをやった事は有名である。元来、徳川氏の支配は武力を以って成立したものだから、その精神を失わない事が大切だとし、武道訓練をも進め、その中に大砲や鉄砲が入っていた事は勿論である(注72)。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (6) 5

 5・4 藤沢市の近代 その2

 1878年(明11) に都区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢に置かれた。町村統合は続き、1908年 (明41) には藤沢大阪町・鵠沼村・明治村が合併して藤沢町が誕生した。

 1868年(明治元) に廃止された相州炮術調錬場のうち、辻堂は横須賀海軍砲術学校の演習場 (詳細次号) として残されたが、鵠沼は大分の府内城主だった大給子爵が入手した。鉄道開通を機にここに日本初の大型別荘分譲地・鵠沼海岸別荘地が開発(武蔵川越の出身、伊東将光) されることになる。広大な不毛の砂原に一町ごとに街路綱が敷設され、区画と砂防のためにクロマツが植栽されて分譲された。

 1902年 (明35)、江島電気鉄道藤沢-片瀬間が開通する。以来、華族や富豪の別荘が次々に構えられ、一方で区画を数百坪単位に細分して営まれた貸別荘を拠点として、白樺派の文士 (武者小路実篤、志賀直哉等) や草土社の画家 (岸田劉生)、大正教養主義の学者(安倍能成、和辻哲郎) らによって新しい自由な文化が鵠沼から発信された。

 1923年 (大12) 9月1日、関東大震災によって市城で4000戸余が倒壊したが、大規模な火災は発生しなかった。津波によって江の島桟橋をはじめ、境川、引地川の橋は被害を受けた。海岸部では1メートル前後の隆起がみられ、砂浜は広がり、江の島では隆起海蝕台が海面上に現れた。震災からの復興は急ピッチで進められ、被害の大きかった京浜地区から多くの人々が移り住み、海岸部の別荘地は定住の住宅地となっていった。1929年(昭4)小田原急行鉄道江の島線が開通すると本鵠沼や鵠沼海岸駅周辺では耕地整理の名目で街路の整備が行われて住宅地化が進んだ。震災からの復興が一段落した頃、レジャー施設の開設が相次いだ。鵠沼海岸には安全プール、藤沢には競馬場、片瀬山には遊園地 「龍口園」 が開かれたが、世界恐慌の影響などで長続きしなかった。

 1929年(昭4)、県知事山縣治郎は湘南と箱根を結ぶ国際観光地の開発を目指し、「湘南遊歩道路」県道片瀬大磯線の敷設を行った。当時は緑地帯や乗馬道も設けられ、砂防林として砂丘列に沿ってクロマツが植え付けられた。一方、相模野台地南端の地形と展望を活用し、藤沢カントリー倶楽部 (設計‥石井光次郎、赤星四郎他) が開設された。1940年(昭15)藤沢町が市制を施行して藤沢市が誕生する。翌年には鎌倉郡村岡村、さらに翌1942年 (昭17) に高座郡六会村が藤沢市に合併した。太平洋戦争に突入すると、北部の台地に藤沢海軍航空隊と海軍電測学校が開設される。南部の海岸地域に、官立無線電信講習所が藤沢分教場を設置した。戦争が激化すると、藤沢市は疎開先となり、人口が急増した。(以下次号)

注) 引用資料は最終稿にまとめて記載します。
注61‥会報V Ol・24-1
注62‥鵠沼郷土資料室
注63‥ウィキペディア 「藤沢市」
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (6) 4

 5・4藤沢市の近代 その1

 1868年(明元)9月、明治維新によって神奈川県と改称された。1872年(明5) 羽鳥村の名主三嘴八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて読書院を開設し同年8月、学制が布かれると読書院は羽鳥学校に改称し、以下藤沢市城では鵠沼学舎 (現鵠沼小学校) など5校が次々に開校した。一方小笠原東陽の読書院は中等教育部門を私塾として存続させ、後に耕徐塾、更に耕徐義塾と改称し、政財界に多くの人材 (鈴木三郎助、吉田茂等)を送り出した。然し1897年(明30) 台風で校舎が全壊し、1900年(同33) に廃校となった。

 王政復古の大号令の下に、明治政府は神政政治を目指し、廃仏毀釈を早々に断行した。この影響をまともに受けたのが江の島の金亀山与願寺である。寺は廃されたが弁財天信仰は引き継がれ、宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館となった。開港以来、片瀬や江の島には多くの外国人が訪れるようになった。動物学者のモースはシャミセンガイ研究の為、江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。貿易商のコッキングは江の島の東山頂部にあった与願寺、菜園を買い取り、別荘と熱帯植物園を造営した。ヨーロッパ式の海水浴も伝えられた。医師ベルツは海水浴場適地を探索し、片瀬は海水浴適地と内務省に紹介した。「海水浴場」と銘打った例としては、1886年(明19)の鵠沼海岸海水浴場が最初である。海水浴客を当て込んで「鵠沼館」が開業し5年ほどの間「対江館」 (田中耕太郎建築)「東屋」(伊東将行建築)が相次いで開業した。1891年(明24)学習院が隅田川の浜町河岸にあった遊泳演習場を片瀬に移すと、片瀬海岸に学習院の寄宿舎が建てられた。

 1911年(明44)遊泳演習所は沼津御用邸の隣接地に移されるが、この跡地を活用して村営の海水浴場が開設された。長後は、開港地横浜に続く長後街道と機業中心地八王子へ続く八王子(滝山)街道の交差点の故により、台地上の各地に製糸工場が設立され養蚕業の中心地となった。藤沢市城で最初のキリスト教会が開設され、平野友輔が近代医療を開始した。1887年(明20)、後に東海道本線となる横浜-国府津間が開通し藤沢停車場が開設される。鉄道の開通により農業形態も自給農業から商業的農業へ発展した。北部の台地では養蚕に加えてサツマイモ栽培と澱粉工業・アルコール醸造、その残滓を利用した養豚が盛んになる。南部の砂丘地帯はサツマイモやモモなどが特産品となった。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (6) 3

 5・3 藤沢市の近世
 
 15世紀末、小田原城に入った伊勢宗瑞 (のちに北条早雲とよばれる後北条氏の祖) は、16世紀に入ると相模一帯の支配に乗り出し、上杉朝長の大庭城を落とす一方、玉縄城や鵠沼砦を築き相模川以東を東都として支配し、ここに大庭御厨は消滅したと考えられる。後北条氏は藤沢に大鋸引 (おがびき、製材業・大工)を集住させ伝馬を置く。これが「大鋸(だいざり)」の地名の起こりであり、現在に続く藤沢の街の基礎が形成された。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は敗北し、遺領は徳川家康の支配下に入った。家康によって五街道が整備され、藤沢に御殿・代官陣屋が設置され、東海道の伝馬宿となった。

 江戸初期に遊行上人普光が再建した清浄光寺(遊行寺) (写真①)は、1631年(寛永8)幕府から時宗247寺の総本山として認められた。藤沢は宿場町と門前町を兼ねた性格をもつようになる。江戸の町人文化が安定して発展した元禄期頃から、大山詣や江の島詣(写真②)が盛んになり、藤沢宿は東海道の往来ばかりでなく、江の島道の分岐点としても賑わうようになる。この頃、杉山検校が江の島道の各所に弁財天道標を建てた。一方、藤沢宿周辺の43か村は助郷村に指定されて負担が増した。(写真①、写真②‥注63)

 1728年(享保13)幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が享保の改革の一環として片瀬山から相模川に至る湘南海岸に相州砲術調錬場(鉄砲場)を設置する。鉄砲場内での耕作が禁じられたほか、物資運搬や宿舎提供などが義務付けられ、村民の負担はさらに増えた。

 藤沢市城は水田適地が少なく、麦や雑穀を中心とする自給的な農業が中心だった。辻堂や鵠沼の砂浜では地引網が主な漁法だった。漁獲物の多くはイワシで、干鰯(ほしか)として肥料にされた。江の島ではカツオ漁と磯物のイセエビやサザエ漁が行われた。片瀬は河口港として発展し、高瀬舟で川を下ってきた年貢米や諸物資が、200石船などの外洋船に積み替えられた。260年余の江戸時代には、元禄地震や安政地震をはじめ、想定マグニチュード7以上の巨大地震は9回を数え、富士宝永山の大噴火や浅間山の大噴火が飢饉をもたらした。藤沢宿は境川の谷の出口がふさがれたような場所にあるため、しばしば水害に悩まされた。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (6) 2

 5・2 藤沢市の先史から中世まで

 藤沢市域に人々の暮らしが見られるようになったのは、今から凡そ、3万年前のク期旧石器時代とされる。(途中省略) 時代は下がり、735年 (天平7) の 「相模国封戸租交易帳」に、鵠沼辺りと推定される 「土甘 (とかみ) 郷」が、古代藤沢として初めて公的な記録に登場する。文学作品「更科日記」 には藤沢付近の 「村岡」 の地名がでてくる。(途中省略) 「延喜式神名帳」 に載る古社としては、大庭神社・宇部母知神社 (打戻)・石楯尾神社 (鵠沼) がある。石楯尾神社の地にはのちに皇大神宮が勧請され、相模国甘郷総社神明宮と称されることとなる。

 平安時代末期、鎌倉に住んでいた平景正 (鎌倉権五郎) が境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、大庭御厨と称される荘園として伊勢神宮に寄進して大庭氏を名乗った。

 1144年(天養元)源義朝が大庭御厨郷に乱入したことが伊勢神宮の記録「天養記」に出ている。之が鵠沼という地名の初出である。

 1192年(建久3)平氏と藤原氏を平定した頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いた。(途中省略) 鎌倉に隣接する藤沢の地は人々の往来が格段に増加したが、当時の湘南砂丘地帯は、砥上ケ原、八校(八的)ヶ原と呼ばれる淋しい砂地の荒野だった。その光景は、ここを通る歌人(西行法師)の心を捉えて歌枕となった。頼朝をはじめ、鎌倉の坂東武者は時折馬の遠乗りや鷹狩のために相模野台地の原野まで訪れ、渋谷氏の居館などを宿所とした。鎌倉においては武家社会に支持された臨済宗が「五山」と呼ばれる大伽藍を持つ寺院を中心に興隆する一方、念仏や題目をひたすら唱えること説く宗派も庶民に支持された。これら鎌倉仏教と呼ばれる動きのうち、藤沢に関連深いのは浄土真宗(鵠沼)・時宗(藤沢)・日蓮宗(片瀬)である。

 1333年 (元弘3)、新田義貞軍が鵠沼に放火し、村岡辺りで幕府軍と交戦し、稲村ケ崎を経て鎌倉に攻め込み、幕府を滅亡させた。二年後に中先代の乱が起こるが、辻堂・片瀬原の合戦で北条残党を滅ぼした足利尊氏は京都室町に幕府を開く。政治の中心は京都に戻ったが、鎌倉には関東管領が置かれ、主に上杉氏が支配した。この時代に編まれた「太平記」に「藤沢」 の地名が初めて出てくる。大庭御厨は一時結城氏が地頭となるが、その後上杉氏の支配下に入る。15世紀半ば頃、扇谷上杉氏が支配権を振り、その家臣太田道連が大庭城を修理築城したといわれる。

編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (6)

 逓信省が、藤沢市議会で 「官立無線電信講習所新設費起債」をお願いした経緯を説明した。その中で、特に藤沢市に場所を求めた理由として
   ①学生2000人を収容可能
  ②船で通信訓練をするため海軍方面とも連絡の便が良く、日常何時でも海員に関する訓練を行う事が可能な場所、
  ③校舎、寄宿舎を建設し政府に貸してくれる適当な公共団体である」と述べた (注61)。
 理由の 「藤沢市は海軍方面とも連絡の便が良く…」とはどのようなことなのか、を探る。
 本章では先ず藤沢市の一般的な歴史的・地域的特質の経緯について紹介する。

 5.藤沢市の特質(注62)

 5・1 湘南の中心都市・藤沢

 藤沢市は首都東京の南西方向ほぼ50キロに位置し、湘南地方とよばれる神奈川県の相模湾南東岸の中心にある。周囲は横浜市、鎌倉市、茅ヶ崎市、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町に囲まれ南北12キロ、東西6・55キロと南北に細長く、面積は69・51平方キロで神奈川県総面積の約2・9%を占める。地形は大きく三つに区分できる。南東部は第三紀層からなる三浦丘ホの北西部端で、陸繋島の江の島もその一部である。北部はかつて相模川が形成した大きな扇状地が隆起した洪積台地であり、相模野台地の南部にあたる。平坦な地形で東に境川、中央に引地川が谷底平野を形成して南流する。台地の西部は高座丘陵とよばれる部分で、相模川支流の目久尻川・小出川が南西方向に流れる。南部は縄文時代後期まで浅い海底だった所が陸化して形成された海岸平野で、湘南丘陵地帯とよばれる。

 西の辻堂、中央の鵠沼、東の片瀬で砂丘列が見られる。気候は南部ほど海洋性気候の影響が強く、温和で、リゾート地形成の要因となっているが、飛砂や煙害を被りやすいという側面をもっている。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:37
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (5) 4

 4.7

 電信協会創立五十周年祝賀会

 官立移管後の約 1年を経た 1943年(昭 18) 4月 17日夜、帝国ホテルに於いて電信協会創立 50周年の祝賀会が開催された。電信協会 50年史には次のように記載されている。
 「世は決戦体制下、一億緊張の極に達し、昨年 4月に敵機の帝都来襲を見てから丁度満一年に当たるので、予てよりアメリカの与論は一年前失敗に終わった日本本土空襲を、本年 4月一周年を期して再挙するぞという宣伝も行われて居た。帝都は道行く男女何れも巻脚絆、もんぺ姿で、心の緩みを互いに警戒し合っている時であった。それ故、時局の様相に鑑み、若宮会長は極めて質素にしかも最も有意義に之を挙行した。来賓として荒木貞夫大将、逓信省側からは寺島逓信大臣、中村電務局長、隅野無線課長その他、又その他陸海軍、船舶、航空、電気通信事業或いは新聞報道関係、各界の名サ有力者多数。更に電信協会側からは若宮会長、宮崎、杉の両部長、商議員、古老新進の諸会員等、約 200名がテーブルに集まった。」

 若宮会長の挨拶

 「本日は御多忙中特にお繰り合せご来臨を賜りまして、主催者として洵に光栄の至り、衷心より厚く御礼申し上げます。電信協会は明治 25年末の創立から昨年を以って満 50年に達したのでありますから、昨年末にこの記念会を開催するのが順当であり、左様致したいと思って居りましたが、色々の事情もあり、その上協会の結末をつけるべき諸般の事項の処理途中でありましたので、結局今日に持ち越したのであります。

 50年と申しますと、俗に云う人の一生に相当する長い期間であり、この間協会は終始一貫、我国電気通信事業の為に奉公させて頂いたのでありますが、時勢の推移に伴って、協会の事業にも変化があり、又会運にも自然消長があったのであります。今日は協会 50年記念会の事でありますから、ご迷惑は万々拝察いたしますが、この際少しく過去を回顧させて頂きたいと存じます。
 

 電信協会は時の電気通信界の権威者であった浅野、大井、五十嵐の三博士、その他この分野の中堅幹部の方々並びにサ・・徒涯苗垢鯡海瓩撞錣蠅泙靴針管禺禝楡飢仕銈・臂Г靴董¬声・25年 12月3日に結成されたものでありまして、その事跡を顧みますと、大体、創立以来大正 6年に至る 25年間の前期と、大正 7年より現在に至る 25年間の後期とに区分する事が出来、前期は専ら電気通信一般に関する技術並びに行政を調査研究して、事業の改良進歩に貢献いたし、後期は主として無線通信士の養成を担当し、我国私設無線に国家の要求する有資格者を提供する事によって国家に貢献するに努めて来たのであります。その前半の業績は単に科学の基礎的研究、又は行政の事務的改善と云う事の一方にのみ偏しないで、この両者を調和結合して電気通信事業の改良進歩を図ると云う点、即ち科学と運営の結合実施と云う点に特異性を帯びて居り、これに依ってこの分野に貢献した所が、少なからずあります。これはあながち手前味噌だけではありません。当時、遺憾ながら我国の文化程度はまだ低いと思われて居た時代に、外人が電信協会なるものの存在を知って、日本には電気通信の為に斯様な団体があり、機関雑誌まであると驚嘆したと云う話が伝わって居るのを見ても、凡そ推察し得る事と存じます。素よりそこに若干の成果を挙げるに就きまして、先輩諸公が精神的に或いは又物質的に大なる犠牲を払い続けられた事は申す迄もない次第であります。しかる所、時勢の推移に伴い、会運やや衰退の色を呈して来まして、先輩諸公は夫々私財を寄付して、些かの基金を造り、持久方の途を講ずるのも止むを得ないと云う時代に出会ったのでありますが、丁度このような時、前欧州大戦の影響を受けて、我国船舶は世界的な活躍の時代となりましたが、海外雄飛には無線電信設備の必要があり、その機械は辛うじて製作し得ても、これを操縦する通信士を獲る途がなく、官も民もこれには頗る悩まされた結果、期せずして官民双方から協会に対して「通信士養成を担当せよ」との要望がもたらされました。協会では「元来この種の事業は国営の性質を帯びるもので、民間団体のよくし得る所でない」との考えで躊躇したのでありますが、時の逓相、田男爵の強いお勧めに従い、「国家事務の代行機関たる心得」を以って協会で担当する事となりまして、ここに協会後半生の成果が生まれて来たのであります。

 そこで協会は大正 6年から準備にかかり、翌 7年先ず組織を改めて社団法人として(筆者注:承認は田逓信大臣)、海運界造船界の有志から設立費用の寄贈を受けて。無線電信講習所」を設立致しました。何分民間団体として初めての試みで、早やその創設の時から校舎、器具機械の設備、教育の整備等幾多の困難に出会ったのでありますが、関係諸方面の熱烈なる支援の下に幸いに内容を充実する事が出来、政府に於かれても教育の充実に伴い卒業者に対し無試験で国家免状を授与すると云う特権を与えられ、又最近に及んでは現官の官吏を講習所へ配属せしめて教授の任に当たらせると云う、国家の代行機関たる特異性を明らかにせらるる事となったのであります。

 講習所の設備がやや整った以後も、決して坦々たる大路のみを歩んだのではなく、矢張り幾多の試練と苦難とはかわるがわる来往致しました。現にある時は経営甚だ困難に陥り、代行機関に対する政府の庇護の厚からざる事を恨み歎きながら頑張った時代もあり、又ある時は海運界不況の影響を受け、卒業者の就職難に悩んだ時代もありました。この失業苦は最も悩みの大きなものでありましたが、さりながら経済界の盛衰は一時的な現象であり、皇国の前途を見渡すと無線通信は海にも、陸にも、空にも益々其の利用を増加すべきものであるとの確信の下に、協会は終始積極方針を堅持致しまして、昭和 12年以来、引。海・3回の拡張を致しました。特にその第 3回目は広く海運界、航空界、陸上電気通信界、電気機器製作界から支援を得て一大拡張を断行いたし、是によって幸いにその後、俄に起きて来た需要激増に応じて、国法に依る絶対必要量だけは供給する事が出来たのであります。第一回拡張の直前、昭和 11年の秋の頃と記憶致しますが、宮崎、杉両理事から「新造船の状況に鑑みると、近く通信士の不足を生ずると云う予感がある。今からその対策を講じておく必要がある」と提唱され、先ず政府筋、民間筋の意向を聴いて見ると「今は質の問題であって量の問題ではない」と云われ、尚、退いて順を追って調査して見ると、両理事の見通しが当たって居ると思われるので、直ちに第一次拡張計画を立て、同年末神戸へ参り船主協会幹部の方々へ再び若干の寄付をおねだりして、昭和 12年に着工致しましたが、両理事見通しの通り、その竣工前に早や校舎の不足を告げ、引続き第 2次拡張をしたと云う事もありました。斯くして講習所開設以来 25年間に相当多数の通信士を海、陸、空へ送り出し、殊に船舶無線の 8~ 9割までは当講習所出身者で操縦されて居る実情であります。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (5) 3

 4.5

 講習所業務の引継ぎ(注54)待望の官立無線電信講習所はいよいよ 4月 1日から新しく発足する事となった。この朝( 3月 28日)事務引継ぎの為、電信協会側から若宮会長及杉、宮崎両理事、逓信省側から中村所長事務取扱、隅野電務局無線課長等出席、先ず官立設置の祝福を交換した後、事務引継ぎとなった。引継ぎは物件や書類だけではない、生きた人間の身柄が主体であるところに学校の引継ぎらしいところがある。偶々学年期である為大多数の生徒は巣立った後でもあり引継ぎ学生数としては 736名であったが、別に新入学生として選定済みの者を加えると引継ぎ合計 1,930名の多数で専属教員数は合計60名であった。全ての引継ぎが終わると中村所長は正門に至り、寺島大臣が揮毫せられた墨痕新しき「官立無線電信講習所」の表札を掲げた。

 4.6施設一切の寄付願の提出と感謝状(注55)

 3月 28日臨時総会終了後、午後 5時若宮会長は杉、宮崎両理事同伴、寺島逓信大臣を官邸に訪ねて、臨時総会の決議に依る無線電信講習所施設一切の寄付願を提出した。官邸では寺島大臣以下列席し、之を受領せられ、丁重なる挨拶があり、尚大臣からは会長及び両理事に対し、次の感謝状と共に心を込められた記念品を贈与せられた。

 感謝状(その1)

 君は大正 7年 9月 25日社団法人電信協会理事に就任すると共に無線通信士養成機関設立の事に従い画策宜しきを得て同会管理無線電信講習所の創立を見たり。次いで大正 13年 5月 4日同会会長に就任し、爾来二十有四年の長きに亘り終始一貫奉仕的精神を以って国家に須要(筆者注:どうしても必要なこと)なる無線通信士の養成事業に盡瘁(筆者注ジンスイ:自分の事はかまわず全力を尽くす事)し、其の間幾多の困難に遭遇するも克く之を突破して鋭意施設の整備拡充と所風の刷新向上とに努めたり、又時代の要求を察知して政府の方針に即応し常に施策の適切な実施を誤らず、特に支那事変勃発以来無線通信士の需給急激に逼迫を告げるや寝食を忘れて養成人員の増加充実の措置に奔走し為に克く斯界の養成に応え得たるのみならず、今次大東亜戦争に於ける陸、海、空各般の重要なる無線通信の遂行上遺憾なきを得たるは、偏に君が献身的努力の賜物にして其の功績洵に大なり。今般社団法人電信協会管理無線電信講習所を政府へ移譲せられるに際し、君が多年の功労に対し茲に深甚なる感謝を表す。

 昭和17年3月28日
 逓信大臣従三位勲一等 寺島 健
 社団法人電信協会
 会長 若宮貞夫殿  
 (感謝状その 2以降省略)
編集者
投稿日時: 2015-2-13 14:33
登録日: 2004-2-3
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電気通信大学藤沢分校物語 (5) 2

 4.4

 若宮正音・貞夫と田健次郎3人の親密度の深さを想像させる略歴を示す。

 若宮正音:1854(安元)-1924(大13)現兵庫県豊岡市に生まれる。
 田健次郎:1855(安2)-1930(昭5)現兵庫県丹波市に生まれる。
 若宮貞夫:1875(明8)-1946(昭21)現兵庫県豊岡市に生まれる。

 *若宮正音: 1886(明19)逓信省書記官、 1888(明21)逓信大臣秘書官、 1890(同 23)工務局長兼秘書官、電話創業、 1891(同 24)初代電務局長、電気試験所創立、 1893(同 26)電信協会会長、農商務省商工局長、 1896(同29)健康を理由に退官。 1918(大 7)社団法人電信協会会長(注56)

 *田健次郎: 1890(明23)逓信省書記官、 1897(同30)電務局長、 1898(同 31)逓信次官兼鉄道局長、1901(同34)衆議院議員(政友会)、1903~ 06(同 36~39)逓信次官、 1906   (同39)貴族院議員、1907(明40)男爵、1916(大5)逓信大臣、その後司法大臣、農商務大臣、台湾総督、枢密顧問官等を歴任。参議院議員田英夫{1923(大12)~ 2009{平21)}は孫。(注57)

 *若宮貞夫:1899(明32)逓信省入省、1922(大11)逓信次官、1924(大13)第 2代社団法人電信協会会長、衆議院議員、 1931(昭 6)陸軍政務次官、 1934(同 9)政友会幹事長。
元高知県知事橋本大二郎{ 1947(昭 22)~}は外孫。(注58)

 ① 3人は同県人で、共に逓信省高級官僚。

 ② 田健次郎、若宮貞夫は衆議院議員、政友会。
 
 ③ 逓信大臣田男爵社団法人電信協会設立を認可。

 ④ 男爵は若宮正音電信協会会長亡き後の会長を若宮貞夫に継ぐように指示。(4.7 参照)
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