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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     電気通信大学藤沢分校物語
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編集者
投稿日時: 2015-7-25 6:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(9)2

 9・2経済統制の進行(注92)

 日中戦争が長期化すると、一層の軍需増強が必要となり、軍需生産拡大のため、民需を圧迫する戦時経済統制が本格化していった。流通段階から始まった配給も、消費者への割当て配給が不可避になり、藤沢では1910年(昭15)7月の砂糖の配給制を皮切りに米・酒・味噌などの食料品、マッチ・靴下・木炭などの日用品も配給制となり1942年(昭17)末までには、その枠外に残されたものはないほどまでになった。

 軍需生産への資材・労働力の集中化をはかるため、1942年(昭17)には企業整備令が出され、1944年までに718名の転廃業者を出した。小売業者は、営業を続けようにも品物がなくなり、残った商人も統制物資の配給業務を担当してわずかな手数料を得るにすぎなくなった。1942年度(昭17)後半になると、金属類の回収が始まり、記念物・銅像・鐘などあらゆる物が対象となり、遊行寺の一遍上人の銅像も供出された。一般家庭からの回収を促進するため、藤沢市内の廃品回収業者43名を統合して藤沢市資源回収班を編成した。

 出征と労務動員によって農業労働力が減少し、肥料などの資材も不足してくると農業生産が急速に低下し、1939年度(昭14)から銃後農村生産力拡充運動が展開された。農繁期の共同作業、共同炊事、畜力利用が推進された。都市近郊農業として発展してきた果樹・高級野菜・花卉(☆かき)なども1941年(昭16)から栽培を禁止された。更に制限・禁止だけでなく、県から割当てられた量を目標に、米「麦・甘藷・馬鈴薯などの生産計画をたて、部落単位に作付けと供出量を決定した。あらゆる経済活動が「聖戦完遂」という目標に隷属し市民一人、一人の生活の全てを規制するに至ったのである。
編集者
投稿日時: 2015-7-24 16:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(9)

 1937年(昭12)の日華事変を契機に、わが国は完全に戦時下体制に入った。この事態に対応するため、政府は同年8月24日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」を決定し、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久などをスローガンとして、これを日本精神の昂揚を期する国民運動にするとともに、国策遂行の基盤たらしめようとした。その後1941年(昭16)に入ると12月8日、大東亜戦争がぼっ発し、翌年4月18日、帝都東京は、米機による第一回の空襲に見舞われることになった。「防護施設の整備と防護訓練の徹底の指示」がされた。1943年(昭18)に入ると戦局の悪化に伴い、防空の切実度は一段と高まった。さらに1944年(昭19)後半になると、空襲も次第に激しさを増し、防空教育訓練も一段と強化されることになった。(注91)
 藤沢市も近隣と同様軍事都市化されていく。


9戦時下の藤沢市の状況

 9・1 軍需工場の進出(注92)

 1933年(昭8)の「神奈川工場名簿」により藤沢市域内の職工5人以上の工場をまとめたのが表9-1である。同表をみてすぐわかることは製糸業の比重の高さである。31工場のうち8工場(約25%)を占め職工数は1096名(約67%)を占める。辻堂の蚕糸興業は1931年(昭6)東京の資本家によって設置されたが、恐慌により経営は順調に進まず、1934年(昭9)には三井物産の委託経営となり、1937年(昭12)には片倉製糸に移った(☆終戦後閉鎖)。東京螺子製作所は1921年(大10)に東京から片瀬に移転し、職工90名で航空機・船舶用精密ネジなどの軍営品を生産し急速に発展していた。他に目立つのは醸造業である。伝統的な酒造業(松本・加藤)に加えて大和・東京・東海などの市域外の有力資本家が出資し、甘藷による醤油醸造、合成酒、洋酒などの醸造を行っている。表9-2は職工数10名以上の1940年(昭15)の旧市域の工場名簿である。表9-1と9-2は地域が異なるとはいえ、市域の工業の様子は相当異なっていることがわかる。
 関東特殊製鋼は1932年(昭7)に鵠沼に工場を設立し、1937年(昭12)に39名で航空機・船舶用のバネ、ロールを生産していた。住友金属工業の系列に入ると同時に大々的に拡張し、町の用地斡旋によって辻堂駅北側に移転した(☆2010年(平成22)解散。跡地を含め湘南C-Ⅹとして都市再生プロジェクト事業が進行中である。☆印は筆者注として書き添えた)。
 日本精工はわが国有数の鋼球・軸受専門メーカーで、重工業の発展に伴って需要が急増し、1938年(昭13)に鵠沼地区東海道線北側で職工145名で開業した。その後急速な発展を遂げた。前述の東京螺子も軍拡の時代に入ると、各種砲弾の薬莢・弾丸の製造を加え、1939年(昭14)に1500名、1945年(昭20)には5950名の職工を擁する迄拡大した(☆1981年合併によりミネベア株式会社藤沢工場となっている)。
 これらの大工場は職工10名以下の下請け・系列会社を多数生んだ。昭和恐慌からの回復と満州事変以降の軍事化が同時に進むことにより、日本の工業は重化学工業化を一気に進めた。京浜工業地帯に近接し、労働力も豊富にあり、工場適地も多かった当地城に、昭和10年代に軍需工場が進出してきたのである。
















編集者
投稿日時: 2015-2-13 20:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (8) 5

 8・5演習場・別荘地・辻堂駅(注85)

 1872年 (明5) 東海道線(新橋-横浜)が開通し、1887年 (明20) に程ケ谷(現在の保土ヶ谷)・戸塚・平塚駅が開設、同31年茅ヶ崎駅も設置された。1902年(明35)江ノ電線(藤沢-片瀬)の新設は、それまでの鵠沼海岸などにおける別荘地帯・海水浴場に加えて、辻堂海岸方面も、新たな別荘地として京浜地方の人士に注目されるに至り、ここに演習場と別荘地の利害関係が対立するようになった。軍事訓練が避暑・海水浴の季節でない冬季に実施されるという配慮がなされたが地主の不満を抑えるのが出来なかった。然し軍用地の払下げは、この後も容易には実現されなかった。

 辻堂駅開設請願運動は1914年(大3)に「辻堂停車場既成同盟会」が結成され、その設立と共に決議書を作成した。ここには予定駅の敷地及び新設道路用地の買収にいかに応ずるかという申し合わせが記されている。次にその請願書の新駅開設に関する要求の理由を要約する。新駅開設の第一の理由は藤沢-大船駅の距離が約4・5キロに対し、藤沢-茅ヶ崎駅の間隔は約7・5キロの遠距離にあり、辻堂の地域住民にとって駅が多大な不便をもたらしていた。「上流名士別荘住宅」の新築・増加がみられるに至った。その結果、近村の戸数は約1万戸、人口にして約4万人を超え、以上からも地元住民の便宜に応えて欲しいという事であった。第二の問題は辻堂一帯が「雑穀・甘藷」の生産地で、他の地域への移出量は約50万俵に達するうえ、「京菜・魚類」及び他地域依存の肥料、その他生活必需品も増加し、「穀物・果実」 の作付に良い「平担ナル砂質地」が広がり、畑地としての開発の可能性が保証できる。また 「水質極メテ清涼、其ノ量亦甚ダ豊富」なため 「工業家ノ注目」を集めて、工業地帯としての発展の将来性もある事を強調している。第三の根拠は、数百人から千数百人の軍隊が交代で辻堂演習場に出動し、また火器・弾薬・器材が藤沢停車場より輸送されているが、「不便」と「失費」の少なくないことが関係官庁で検討されていると 「灰聞」しており、国家の利益に沿うとしている。この結果、翌年4月辻堂駅の設置承認の内示(約2,500坪の無償提供、移転補償ナシ) が通達され、1916年 (大5) 2月、寄付の所有権移転完了、同年8月起工、新駅は3ケ月余りの短期間で完成した。

 以上のような辻堂演習場を含む湘南海岸一帯の軍事化の中で、1921年 (大10) 11月18日には鵠沼海岸で海軍陸戦隊(横須賀鎮守府所属)の上陸演習が行われ、大正天皇に代って、当時の皇太子 (後の昭和天皇) が統監した事は極めて象徴的な事であった。(以下次号)

注81‥ウイキペディア 「明治維新」
注82~85‥藤沢市史第6巻抜粋、要約
注83-1‥藤沢市史第6巻から引用した 「辻堂海岸の海軍演習場」第8-1図の中で表記されている大ヤンゲンを大ヤゲンとした。その理由は、本文の中では大ヤゲンと書かれ、また、「藤沢の地名」 (藤沢市発行) においても、同様に大ヤゲンと表記されている。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 20:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (8) 4

 8・4 海軍演習の状況(明治・大正)(注84)

 1909年 (明42)、川口村村長は、片瀬から鵠沼海岸の西浜に通じる境川筋の 「山本橋の整備」に関し提出した県知事宛の請願書(『町村会議案及び決議書』 川口村役場文書)の中で同橋は架設以来、横須賀鎮守府の海兵団(軍艦乗務の補充員と軍港警備員) などが辻堂演習所へ至る通路に当たり、毎年士官・水兵多数が数十回通行するなどその軍事的重要性を述べている。

 第8-2表は1902年(明35) の1年間に、辻堂海岸において実施された射撃演習の状況を集計した表である。史料はこの年に関して記録されているに過ぎないが、年間を通じて同演習場を利用した官庁は、横須賀鎮守府所属の海兵団・水雷団の他に、砲術練習所・水雷術練習所があり、また軍艦の実弾射撃訓練も実施された。
 ここに登場する軍艦は一等巡洋艦9,700トン級の大型から二等砲艦の600トン級の小型まで多様な形式がみられるが、何れも横須賀鎮守府所属の艦隊のみならず、呉、佐世保、舞鶴各鎮守府に配属のものまで含まれ平時編成に於
ける常備艦隊の一部であった。

 同表はまた、射撃演習が湘南海岸の海水浴の季節7・8両月を避けて12・1月の冬季に集中し、毎月繰り返されていた中でも、この2ケ月に年間度数の約半分が集まっていた。こうした射撃演習は同年のみに留まらず、殆ど毎年実施されていた事は疑いない。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 20:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (8) 3

 8・3 軍港横須賀と辻堂演習場(注83)続き

 三浦半島の丘陵地帯で隔てられてはいるが、横須賀から直線距離で約15km(原文のママ)に過ぎない藤沢地区が、以上のような軍事基地横須賀地区の影響を受けない筈が無く、まして江戸時代に鉄砲場として設定された鵠沼・辻堂海岸の砂丘地帯が、軍部にとって好適な条件を備えた演習場として注目されたのは当然であった。
 明治期以降、演習場として指定・利用されてきたのは、辻堂村でも小字の大ヤゲン(注83-1)・弥平田・砂山・勘久などの地区にまたがる湘南砂丘地帯[現在の住宅公団辻堂団地・県立辻堂海浜公園・相模工業大学(現湘南工科大学)などの敷地にほぼ相当する地域]を中心に、その西部は茅ヶ崎方面の海岸 (筆者注‥松下政経塾など)まで及んでいた。(第8-1図参照)

 すでに旧幕時代に、鉄砲場として使用されてきた鵠沼・辻堂村の演習場には農民の共有林や開発新田などが含まれ、土地所有権を認めたままで、幕府は軍事目的に同地を利用していた(『市史』第五巻第四章第四節参照)。

 明治初年以降も、政府は旧鉄砲場を一括接収するかたちで、旧幕府から引継いだわけでなく、一部に地主の土地所有権を認めながら、徐々に軍用地として民有地の買収を推進していったようである。演習場の区域内部にある土地所有権の移動に就いては、史料の制約から明らかでない。1906年(明39)、横須賀鎮守府が辻堂海岸の土地40町歩強を買収して、軍事訓練の目的に利用していた事実がある。これは第8-1図の辻堂演習場一1933年(昭和8)当時で、同図から約80町歩余りと概算・推定一の約半分に近かったと考えられる。残余に関しては不明である。また辻堂地区には同演習場以外でも東京築地の海軍造兵廠が羽鳥の地主三野家その他との間に、土地と家屋の賃借関係ないし買収を進めていた事実がある。海軍造兵廠は横須賀造船所、東京・大阪砲兵工廠に次ぐ規模の工場であり、1889年(明22)兵器と火薬の二製造所を基礎に設立された。以後その規模を整備・拡張し、日活戦争当時には、砲身・砲架・砲弾・水雷など海軍で必要な兵器を製造・供給する中心工場となった。辻堂方面に土地・家屋を必要とした理由は、火器弾薬ないし器材などの保管用地などに使用したのであろう。これら造兵廠が進めていた土地は、何れも引地川の下流域にあり湘南砂丘地帯の海軍演習場に含まれる地区であった。これらの鵠沼・辻堂南部の軍用地は、極めて広大な地域にまたがり、それが同方面の軍事的性格を強めていったことは否定できない。

編集者
投稿日時: 2015-2-13 20:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (8) 2

 8・3 軍港横須賀と辻堂演習場(注83)

 1868年(明初)、明治政府は旧幕営横須賀造船所を幕府から引継ぐと共に、横須賀湾を日本海軍の軍港として強化し、また辻堂の幕府鉄砲場をも接収して軍隊の演習場や実弾射撃場に拡張・利用した。政府は旧幕府の借財の担保物件として、フランスの管理に移っていた横須賀造船所の抵当権を、英国東洋銀行から資金の調達を受けて、解除して取戻したうえ、1872年 (明5) には海軍省へ移管した。以後、同工場は 「事務章程」 や「職工規則」を制定すると共に、1877年 (明10)代以降、錬鉄・鋳造・製缶・組立・船渠などを含む諸施設を拡充し、後に舞鶴・呉・佐世保などとならぶ海軍工廠の一つとして整備されていった。

 横須賀には「帝国海軍」の創設と共に、海軍区の警衛、艦隊の出動、沿海の防備を担当し所属部隊を監督する官庁として鎮守府が開設され、早くから軍事都市としての機能をもつようになる。海軍の創立当初には軍港・要港の設備がなかったが、1871年 (明4)、兵部省の中に海軍提督府が設置されたのが鎮守府の始めである。

 1884年(明17) に東海鎮守府が横浜から横須賀に移転されると共に、横須賀鎮守府と改称、鎮守府条例が制定された。ほぼこの段階になると、参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・監獄署・軍港司令部・屯営・水雷営・病院・武庫・倉庫・造船所・軍政会議などその機構がかなり整備された。1889年 (明22)、軍港司令官が任命され、第一は横須賀、第二は呉、第三は佐世保、第四は舞鶴などにも鎮守府が開庁され、軍備拡張と共に東日本に於ける海軍の基地としての基礎が確立した。(『海軍制度沿革』海軍省編)。

 以後1916年 (大5) に、海軍航空隊も創設され、1923年 (大12)の関東大震災の後には海岸の埋立・拡張と共に、市内各所の海軍諸施設が横須賀・箱崎の二半島に集中して、海軍用地としての性格が増した。
 横須賀は、そうした軍事都市として、その規模を拡大してきたのみならず、「東京ハ我国ノ脳髄タル首府ナリ、東京湾口防備ノ必要ナルコトハ固ヨリ言ヲ侯タザルナリ」 岩海岸要地防御ノ位置選定ノ件』 1891年 (明24年)、参謀次長川上操六意見葦 との軍部の認識を前提に進められる東京湾の要塞化の過程でも重要な位置
にあった。

 東京・品川・横浜・横須賀を含む 「海岸防御」体制の整備は、フランスやオランダの工兵技術を土台に、軍部が1873~74年 (明6~7)前後から具体化するが、三海壁(人口砲台)の構築と、それに平行して推進された横須賀を中心とする夏鳥・笹山・箱崎・波島その他の地区にわたる砲台の建設で、それら備胞工事は、ほぼ1894~1895年明27~28)の日活戦争期までにその大部分を完了した。1896年 (明29) に要塞司令部が設置され、1899年 (明32) に要塞地帯法が制定された。次いで
1915年(大4)にはそれが強化されて、横須賀を中心とする東京湾とその周辺の要塞化が一応完成した(『東京湾要塞歴史』東京湾要塞司令部)。

編集者
投稿日時: 2015-2-13 20:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (8)

 明治維新により、鉄砲場は辻堂海岸と茅ヶ崎市の一部を日本海軍横須賀海軍砲術学校辻堂演習場として、近代日本海軍に引継がれた。近代化を進める日本は、藤沢市をも軍港横須賀との結合を前提に形成された軍事都市としての機能を持たせるのである。

 8・1明治維新(注81)

 明治維新とは明治政府による天皇親政体制の転換とそれにともなう一連の改革をいう。
 その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐におよび日本を東アジアで最初の西洋的国民国家体制を有する近代国家へと変貌させた。
 近代国家建設を推進するためには、「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに中央集権化に依る政府の地方支配強化は、是非共必要な事であった。
そこで改革を全国的に網羅する必要がある事から1871年(明4)廃藩置県が実施された。1870年(明3)に徴兵規則が作られ、廃藩により兵部省が全国の軍事力を握る事となり、1872年(明5)には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。

8・2幕営横須賀造船所と辻堂の鉄砲場(注82)

横須賀は、幕末期の慶応改革の一環として、フランスの援助の下に巨費を投じて、造船場が建設されて幕営軍事工場の中心地になると共に、また幕府海軍の根拠地になった。フランス人技師約40名の助力に依って、既に構築中であった幕営長崎造船所を上回る最大の造船施設の着工を開始した、その背後には、対長州戦争に於ける敗北の痛手を、軍事力の強化によって乗切ろうとする幕府の権力再編の意図があった。フランス人技師は、横須賀湾が本国のツーロン軍港に似ている所から同湾を選び、幕府に協力した。幕末期には敷地の築造、工場・住居・船渠などの建設が進んだが、造船のうえでは幕府軍事力の補強に殆ど役に立たず、幕府の倒壊と共に同造船工場は新政府に接収された(『横須賀海軍船廠史』第一巻)。鉄砲場は幕末期の異国船来航以後、更に重要な意味をもち地元農民に認められてきた慣行や既得権さえ無視されるかたちで、軍事的利用が優先されていった。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 15:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (7) 5

 7・3・2 英龍の晩年

 英龍は、日本が内憂外患の激しい状況下に生れ、そして代官の立場からその対策を考え努力した。その過程で、渡辺崋山や高野長英、小関三英等の友人を「蛮社の獄」で失い、そして師範・高島氏が投獄される憂き目にあうなど苦々しい体験を経てきた。しかし幕府が何人ものあたら知識人・有能者を抹殺してなお、日本の針路の決まらないのに焦躁しきりであった。遂に1850年(嘉永3)50歳の時に、反射炉を造り、独力で海防問題に乗り出し、相模国沿岸の防備を説き、台場築造を建議・上申するなか、55歳で死ぬ。その意思は子息英敏に依って継承され、達成されるがその時はもう諸外国との修好条約が結ばれる状況を迎えていた(注79)。


 7・4 鉄砲場と農民の負担


 国家的観点からの鉄砲場の重要性と、その周辺に住む人々にとっての鉄砲場の意味とは、おのずから別なところがある。地元の人々にとっては鉄砲場というものは、何かにつけて気の重いものであり時には迷惑な事もあった(注72)。
その詳細は省略する。

 7・5 鉄砲場の廃止

 1728年(享保13)鉄砲場が設置され1850年(嘉永3)の演習を最後にその利用が終わったようで、海防が叫ばれた時代を迎えて、江戸城近郊の演習地に舞台が移された(注75)。

 1868年の明治維新により約140年間に亘って利用された鉄砲場は廃止となった。鵠沼村の南東部は日本初の別荘分譲地として開発され、辻堂村西部は日本海軍横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となった(注77)。



 (注)引用資料は最終稿にまとめて記載します。

 注71:調布ネットワーク( Vol.24‐1)

 注72:藤沢市史(第5巻)

 注73:ウィキペディア「徳川吉宗」

 注74:茅ヶ崎市史4通史編

 注75:藤沢市文書館古文書講座「鉄砲場関係古文書を読む」平成26年開催

 注76:相州炮術調錬場:「相州炮術訓練場編年史料」の編者服部清道氏は、“「炮術調錬場」は俗称「鉄炮場」と呼ばれていたが、その正式な呼称は各種文書でまちまちであり、打小屋場所の移動を考慮して誤解を避けるため「相州」の字を冠し呼ぶ事とした”としている。
 文中の「炮」は(注)76、77以外は「砲」と記述した。


 注77:ウィキペディア「相州炮術調錬場」

 注78‐1:ウィキペディア「江川太郎左衛門」

 注78‐2:ウィキペディア「パン」

 注79:図説藤沢の歴史


 (訂正)前号vol25‐2を訂正します。

 ①P 42下段12行目 煙害→塩害

 ②P 45上段2行目 田中耕太郎→井上大次郎

 ③同、注62 鵠沼郷土資料室→鵠沼郷土資料展示室
編集者
投稿日時: 2015-2-13 15:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (7) 4

 7・3・1 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)

 藤沢宿代官江川家は、1723年(享保8)、花木橋と戸塚往還修理の為中原の林を伐り出す際、手代の不正事件が発覚し代官職を解かれる。然し、次の代になり復職し第36代英龍(1801~1855)に受け継がれる。1834年(天保5)、英龍は34歳の時、代官職を継いだ。

 それまでの彼は1825年(文政8)の「異国船打払令」に象徴される鎖国日本の状況を憂い、その3年後に起こった「シーボルト事件」を悲しむ。やがて国内では新潟での百姓一揆等、頻発する中に、封建の世の変動を敏感に受け止めていた。彼が代官職を相続して間もな、大塩平八郎の乱(1837年=天保8)、そして米国商船の浦賀入港事件等の大事件が頻発したため、民政の改革と海防の充実を痛感し、職制を超越して西洋の新知識吸収に急傾斜するようになる。

 既に開明君主として知られる水戸藩主・斉昭は自ら洋式船建造に踏み切り、幕府に先んじて海防の具体策を実現しつつあった、然し鳥居耀蔵等に代表される幕府役人の頭は鈍かった。周囲の開明武士・知識者が「改革」をいくら言っても実効性はなく、日増しに幕府及びその重職者等への批判は高まっていった。そうした1840年(天保11)、清国とイギリスとの「阿片戦争」が起こり外国からの侵略に対する危機感は日本中に広がっていった。もはや対岸の火事として、傍観できない状況を迎える事になる。

 ここに英龍の砲術師範である高島秋帆は「阿片戦争」の日本への影響を予想して、幕府に対し、いわゆる「西洋砲術意見書」を建議した。幕府は一応西洋砲術を採用すべしとの意見を入れて、翌年5月、徳丸が原で洋式銃隊砲隊の調錬を許した(注79)。

 然し、幕府の伝統的な砲術家達はこれを酷評したが、実力の差は明らかであった。1842年(天保13)6月、幕府は直参(旗本、御家人)の他、・大名の家臣でも秋帆の訓練を受けてもいいと令し、高島流砲術の声価は定まった。(注72)

 英龍が藤沢との関わりを具体的にもつのは1834年(天保5)からである。英龍が藤沢関係のことで最も衝撃的な処断として知られるのは、鉄砲場見廻役と鉄砲方役人・佐々木氏の処罰事件である。鉄砲場に取り立てられて以後、幕府の鉄砲役人達が大勢来て、一定の期間、練習を行っていた。鉄砲場の管理は現地の宿役人に任せられており、幕府方での派遣隊責任者は、いつごろからか佐々木氏となっていたが、本来、芳しくない管理、つまり調錬場内の作付(田作)を地元の農民に許可していた。この事が、1832年(天保3)、国改めで発覚し、佐々木氏は祖父・父・長男ともども流罪、藤沢宿役人・辻堂村名主の5名は、伝馬町の牢屋に投獄された。うち1名は自殺する。この事件は、鉄砲場管理だけの問題でなく別の問題が含まれているようである。それは英龍を先頭とする開明派武士や知識者達の、鉄砲方役人の「砲術」の練習場並びに技術・武器等の旧弊に対する批判が込められていなかったろうかという事である。この説を裏書きするかのように、刀こそ武士の命と信じてきたので、鉄砲を利用するのに、かなりの不平を持っている事と、鉄砲の利用は、鉄砲方役人に任せようとする雰囲気があった。と同時にその鉄砲方役人といえば旧来の「砲術」つまり特権武芸流の仲間に独占され、何の実益性も無い伝統武芸に低迷していた。
 この話は、山路愛山が勝海舟の伝記を書くなかで、海舟の回顧談としてのせている。
 明治期以降の茅ヶ崎では事件の中心人物である佐々木卯之助を好意的に受け止め1898年(明31)追悼記念碑を建立している(注74)。

 1842年(天保13)英龍は日本で初めて堅パンを製造し、日本のパン祖と呼ばれている(注78‐2)。英龍が幕府鉄砲方に就任したのは、1843年(天保14)である(注72)。
編集者
投稿日時: 2015-2-13 15:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語 (7) 3

 7・2・2 鉄砲場(注77)

 1)運営:幕府鉄砲方、藤沢宿代官所と地元の村々の名主から任命された鉄炮場見廻役(地元住民)で運営。見廻役は勘定奉行配下ながら代官の直接支配を受け苗字帯刀を許されていた。


 2)演習頻度:

 *1728~1748年:毎年の演習

 *1750~1774年:隔年の演習

 *1775年以降:最低隔年の演習


 3)演習期間:

 *7組に分かれ、各組16~25日間、4月上旬~7月中旬に断続的に実施。

 *江戸から参加する役人は往復各2日間を加えて、20日から1ヶ月間の出張となる。

 *風雨の日は順延。秋口まで行うこともある。


 4)演習内容:4種類の演習がされた。

 ‐1町打:遠距離射撃訓練。辻堂海岸に発射場及び打小屋を置いた。射撃目標は柳島の海岸、大筒稽古は烏帽子岩も標的とした。

 ‐2角打:近距離射撃訓練。平場の鵠沼海岸で行う。打場から一町(約109m)毎に定杭を打ち発射の度に着弾地点を特定し、飛弾距離を測定。

 ‐3船打:船上射撃訓練。地元の漁船小舟3隻と300石船一艘を借り、船上から射撃訓練をした。

 ‐4下ケ矢(さげがや):高所から下方へ打つ訓練。片瀬村駒立山から下方に打ちおろした。


 7・3 江川太郎左衛門(注78‐1)

 江川太郎左衛門家は平安時代以来明治維新に至るまで38代続いた名家である。平安末期に伊豆に移住し、源頼朝の挙兵を助けたために領域支配が確定した。1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、1723(享保8)~1758年(宝暦8)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石(後二十六万石)の代官とし、民政に当たった。
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