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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い
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編集者
投稿日時: 2014-2-11 8:25
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 21

 コウリャン飯と米の飯 その3

 このツツガムシの事は生まれてから、この時初めて聞いて知ったのであった。戦後復員してから広辞林(戦前版)で調べたら確かに、本州では新潟県の阿賀野川流域に生息する鼠の寄生虫と書いてあった。
 あの聖徳太子が唐の国王に送ったと言う「日出づる処の天子書を日没する処の天子に送る恙無きや」とあるが、どちら側が語源か知らないがとにかく昔から恐ろしい病気として知られていたのであろう。

 さて、余談を書き過ぎちやったが、タイトルの飯の話に戻そう、半日中行軍してかなり暗くなった頃、山の中の小学校の体操場へ入った。ここで夕食大休止である.酷暑の越後平野を重い軍装で半日中行軍して極限まで疲れた体には、何よりも嬉しい夕食である。

 皆美味そうにコウリャン飯を食べながら賑やかな談笑で場内は沸き上がった。しかし其の中に、この楽しかるべき団欒に加わらないで片隅に固まって、しょんぼりしている一団がある。昼間の強がりも何処へやら、昼食は人の倍食ったとは言うものの、炎天下半日中行軍した今では空腹も疲労度も皆と同じだろう。

 後悔先に立たず、食べたくとも飯食の中身は空気だけ、これから一晩中行軍して朝まで体が持つかなあー、恐怖の場面を想像して慄然たる思いであった。其のとき其処へ見回りに来られた青山区隊長殿、片隅に固まって怯えている一団の馬鹿者共を目ざとく見つけ 「其処のお前達、飯も食わないで何をしているのか」……
「実はこれこれしかじか」区隊長烈火の如く「馬鹿者!若し戦地でそんな事をしていたら死んでしまうではないか」これが他の軍隊ならば(ビンタ)でも食らう所だろうが、厳しく叱責されただけで行ってしまった。もっとも飯も食わないでくたくたに疲れている子供を、ひっぱたいていたら、戦地でなくても死んでしまうと思われたのだろう。

編集者
投稿日時: 2014-2-12 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 22

 コウリャン飯と米の飯 その4

 でも、区隊長殿は只立ち去ってしまったのではなかった。数十分も経ただろうか、再び見えて「其処にいる八人、こちらに来い」 と言われ、我々八人はどんな罰をうけるのかと覚悟をしながら、屠所に引かれる羊の如く付いて行った所は学校の小使い室であった。
 其処で我が日をを疑う様な光景を見たのである。入校以東一度も見た事もなく夢にさえ見た眩しい程に白い米の飯が盛られて湯気を立てている。其のうえ熱い味噌汁まで……百姓の子で食べ放題食っていたとは言っていたが、実は貧乏百姓、一年中麦飯であって、お節句や年末の年とりの晩でなければ本当の白米だけの飯は食えなかったのである。

 怪我の功名などと言っては不遜であるが、真面目な戦友達が皆コウリャン飯を食べているのに、本来罪人である筈の俺たちがこの待遇、区隊長殿、本当に申し訳ありません。

 八人皆同じ思いであったろう。休憩時間が終わって出発したのはもう夜中である、腹は満たされたが暗い道を歩いていると、今度は睡魔が訪れる。

 歩きながら、とろとろつと眠ってしまう。肩から銃が滑り落ちそうになって「ハッ〃」と驚き目が覚める、一分も経ないうちに又とろとろ、うとうと、銃が滑って「バツ〃」と こんな事を何度も繰り返す、皆んなの靴の裏の鋲と道の小石とで「パチパチ」と出る火花が何か幻想的な思いを誘い、歩きながら夢うつつ、靴も重いが銃も重い、子供用の鉄砲ではない。正真正銘の九九式短小銃である。十四歳の子供にはちょっと重すぎる。何貫目あるんだろうかこれは…。

 こんなことを書きながら、今頃気が付いた事であるが、生来俺の肩は右肩が著しくさがっている。
 銃が滑り落ちるのは、このせいだと!戦友達の中には「北原の肩がひっかしがっている事なんか始めから知っている」と言うかも知れないが、居眠り行軍で銃が滑り落ちて困っていた事まで見抜いていた者はいないだろう。

 村松に着いたのは、まだ明けきっていない早朝だった。歩き乍らよく眠った為か学校が近付く頃は、すっかり目覚めて元気になって来た。
 誰も高熱を出した者もなく文字通りつつがなく行軍は終わった。
 有難い事に学校の嬉しい思いやりか、風呂が沸かしてあって皆で昨日からの汗を洗い落としで寝床に入った。
編集者
投稿日時: 2014-2-13 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 23

 コウリャン飯と米の飯 その5

 あれから五十六年、今でも忘れられないのが、あの小学校の小使い室で食べた本場越後の白い米の飯の感激である。

 農業者として一生平凡気楽に過ぎた俺の人生に、只一度あの十四歳の少年兵時代だけが最も緊張し、生き甲斐に充実した貴重な時期だったと今も思う。
 あの戦争が良かったか悪かったか、何んてことは政治がやった事で子供の知った事ではない。
 唯尊きは子供乍ら祖国の急を肌で感じ、何の疑いも持たずに救国に志願する純な至誠である。
 これは今でも誇りに思い、幼少時軍籍に入り同じ至誠に燃えた戦友を全国に持ち得た事を、生涯に渡る幸せと信じている。

 入営前は鬼の住み家の様に聞いていた軍隊に対する先入観とは全然異なり、温厚で慈愛に満ちた上官に恵まれ、そして昭和の白虎隊、純真で至誠の固まりの様な戦友達、最近我が国の政界でも漸く教育の見直しを議題にされる様に成って来た。村松少通校の校長であられた高木正賓少将閣下も、其の自叙伝「百歳を迎えて」のご本の中にも「特に終戦時の陸海空の少年兵生徒諸君は日本復興の精鋭として、正に国宝的存在であり、今、全国に散在して健闘を続けている」と言う様な要旨の言葉を随所に書いておられる。
 これは現在の日本の青少年の精神面の塊状に対し、かつての少年兵生徒なら誰も持っていた純真な至 誠を正に国宝であると、評価しておられるのであろう。

 戦後すでに五十六年、帝国陸軍最年少の兵士と自負していた小生も、すでに七十歳、ご慈愛を賜った内務班長さん方、優しかった先輩助教官の曹長さんも故人となられ、紅顛懐かしい同期戦友諸君の中にも、数えて数人か……

 昭和は遠くなりにけり。

           
 (平成十三年・青春の絆)
編集者
投稿日時: 2014-2-14 7:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 24

 私の三月十日  その1

  十一期三中隊二区隊  北川 武男

 すでに、四十年も過ぎ去ってしまった出来事となると、その時その場の情景など、大分記憶からは遠退いてしまっている。而し或る一点に就いては鮮やかな色彩で、脳裏に強く焼きついている為か、鮮明なる画像となって浮かび上ってくるのである。

 昭和二十年と言う年は、我々十一期生にとって栄えある陸軍兵長となり、各部隊や前線に赴く卒業の機なのであった。
 春三月、管名岳の雪溶けと共に、高木校長閣下を始め学校本部、教官、十二期生と、全校を挙げての祝福と激励を一身に受け、国難に殉ずべく、村松陸軍少年通信兵学校の校門を後にしたのであった。

 この卒業時、即ち陸軍生徒から一人前の陸軍兵長として孵化する直前に、卒業休暇が一週間程与えられたのである。
 幼さない胸をふくらませながら入校をした当時とは打って変り、立派に磨かれた知性と教養に加えて貫禄を培い備えた少年兵は、それぞれの肉親の待つ故郷へと、勇みに勇んで散って行ったのであった。

 私もその中の一人として、東京の両親の許に帰って来たのである。入校前にお世話になった方々の家や、お世話になっていた元の職場を尋ね訪ねて、御挨拶をして歩いた。訪ねる家毎に、又会う人毎に「立派になったね」「しっかりと御国の為に働らいて下さい」 と、称賛と激励をいただき、若き血潮をたぎらせた胸の中は天下でも取った様な得意満面の気持で一杯であった。

 私の育った向島区でもその頃まで空襲警報は連日出ていたものの、爆撃による直接の被害は全くと云ってもよい程こうむってはいなかった。そんな日々が通り過ぎた九日の夜。
編集者
投稿日時: 2014-2-15 6:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 25

 私の三月十日  その2

 何時ものように空襲警報が発令された。家族の者は比較的のんびりとした気分で身ごしらえだけは整えていた。その内に警報が解除となり、今夜もこれで眠れるかと思いやれやれと気を抜いたその時であった。

 どこからともなく飛行機の爆音が聞こえてきた。と同時に爆弾の作裂する音が耳に響いた。と感ずる間こそあれ、墨を流したような夜空が一瞬にして紅蓮のカーテンに変ってしまったのであった。「これは大変な事になったぞ」。空を見上げていた父が大声で叫んだ。

 時計の針は午前零時を過ぎていた。
 私は早速布団をまとめて母を伴い、百米程離れている荒川放水路の土手に妹と一緒に避難を開始した。未だ早目であったので他に避難をして来た人は余り居なかった。適当な場所を選び布団を敷き、その周りを荷物や布団で囲ってその中に母を座らせ、すぐ又妹と二人で荷物を運んだ。

 その間に於ても低空で飛び交うB二九の姿は、焼ける民家の炎の反射で真赤に染り、まるで空飛ぶ赤鬼のように私の目には写った。
 空襲前から吹いていた北西からの風が、空襲と共に益々強く、突風となって吹き荒んできた。風を避けるようにして運んだ布団が、荷物が、次から次からと飛び散る強さとなった。火は風を呼び、風は火を呼んだ。

 母と妹に此処を離れない様にと言い残して、家に戻り防火に備えて空を見上げた。軒端から見るB二九は益々低空となって焼夷弾を落とした。強い風に流されて頭上を斜めに落ちてゆくのがこの眼にもはっきりと見えた。

 今に落ちるぞ、今度は落ちてくるか、血走った眼で見上る空。
 私の頭上にもいくつかは落ちてくるのではないかと思うと、緊張感で身体は固く硬張り、胸の鼓動は高鳴り、時間の経過など全く感じられなかった。

 いつの頃だろうか。B二九の姿が視界から消え、爆音も静かになった。真赤に焼けていた夜空の色も次第に薄れてきた。
 フーツと、一人肩で息をついた。「今夜の空襲もこれで終りだろう」、とつぶやいた父の声にハッと気がつき、堤防上の母と妹を迎えに行った。

 確かに比の辺であった筈である。其暗な堤防では仲々見つからない。少々焦ってきた。大きな堤防の下から上まで運び出された荷物で一杯となっている。一歩一歩と、荷物を踏みつけ踏み分けながら探した。やとの事で荷物と荷物の間になかば失神状態の母を探す事が出来た。「家は焼けなかったよ」 と、一言伝えた。コクンと領いただけであとはうつむいたまま、動こうとはしなかった。

 地獄絵のような恐ろしい比の空襲の有様を、堤防の上から目のあたりに見せられ、何時死ぬのかと思う恐怖で生きた心地は全くなかったものと思う。低空で飛び交うB二九の胴体からバラバラと落ちる焼夷弾を直接に見つめ、いつ自分の上にも落ちてくるのではないかと思う恐怖に、それはそれは恐ろしかった事であろうと察する事が出来た。
 陽が昇ってから焼けた町内を見に行った。実に惨憺たる見るに耐えない現場であった。昨日まで在った知人の家がどこか、全く見当がつかない一面の焼野原である。その焼野原の中で彩しい死体が、様々な姿かたちで転がっていた。命を失った人間は物と同じだ。男女の区別すらつかない程に真黒く炭化してしまった物、子供を胸に抱えて防火用水の蔭にうづくまった姿のままの物、防空壕の中では折り重なって蒸し焼きにされ、ボロ雑巾のようになった姿、等々。実に傷ましかった。
 この人達は皆、阿鼻叫喚の焦熱地獄の中で苦しみもがきながら死んでいったのであろう。
 かわいそうに。
編集者
投稿日時: 2014-2-18 9:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 26

 私の三月十日  その3

 此の夜、私は、上野駅から新潟行列車に乗って中浦原郡の村松まで帰らなくてはならなかった。三月十一日が卒業休暇の帰校日なのである。現在でもこの時のことを想い起こすと、胸の中が締めつけられて痛くなってくる。

 あの惨憺たる空襲の惨状を目のあたりにした私には、両親を残して比の厳しい時期に、東京を離れる事は非常に辛く、そして耐え難い悲しい気持で胸が張り裂けんばかりであった。而し現実は酷しい。意を決して七粁余の余燵くすぶる焼けた路を上野駅へと向った。

 隅田川に架る言問橋の橋上には、彩しい自転車や、リヤカーの残骸に囲まれた消防自動車が四台、折り重なるようにして焼けただれた姿を晒していた。松屋百貨店は、未だ黒い煙りを七階あたりから吹き出して燃えていた。大きく立派だったあの観音様の御堂も、今はその姿さえも無かった。田原町附近には都電が骨組みだけを残して立往生をしている。鉄筋で出来ていた銀行や警察署の建物は外壁だけを残し、木造の民家は全くその影すらも留めてはいなかった。華やかであった町並みも今はただ、真黒に焼崩れて広々と、どこまでも広がって眺められた。

 上野駅は罹災をした人達でごった返していた。誰の顔も火に焙られ、煙りのすすで真黒にくすんでしまっている。眼は真赤に充血し、髪の毛はチリヂリに焼けこげて半ば放心状態である。着ているものもほとんどが焼けこげて穴があき、履物など満足にはいている人は少なかった。そして両手両足なども表に出ている部分は全部が真赤にやけただれて、顔も大きく腫れあがっていた。少しばかりの荷物やトランクをさげた人。炊事道具だけを持っている人。何も手にしていない人。見るも無惨なその姿は実に気の毒であった。男も女も、大人も子供も。

 そんな哀れな姿の羅災者の中で、無傷の侭で一緒に並んで居る軍服姿の私に、何んとも云うに云えぬうらめしさと、怒りをふくんだ複雑な視線が、徐々に注がれてきたのであった。
 私には、この人達に同情は出来ても、今ここで此の人達に何もしてやる事は出来ない。そう思ってくると気の毒な気持が身体中に広がり、どうしても此の場所に居たたまれなくなってしまった。傍に疲れきってしゃがみ込んでいた幼い子供の手に、そつと雑嚢から出した握り飯の包みを持たせて、その場から静かに離れ、駅員に頼んで一人ホームの中に入っていった。
編集者
投稿日時: 2014-2-20 7:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 27

 私の三月十日  その4

 この夜新潟行列車が発車してくれたからよかったのであるが、若し沿線の駅が爆撃を受けて列車が動かなかった。としたらどうなっていたであろうか。と思うだけでも背筋が寒くなるのを今もおぼえる。

 この空襲により、東京十一期の故尾川吉一君と、村松十一期の故桑山重君のお二方が、焼夷弾の猛火に遭われて帰らぬ鬼籍の人となられた事も最近になってやっと知る事が出来たのです。この夜、もしもあの烈風が吹かなかったとしたら、或は私の頭上にも焼夷弾が落ちてきたのではなかろうか。その時はきっと焦熱地獄の中で苦しみもだえて死んでいったかも知れないと、今も尚、そのように感じられてならないのである。

 あの日から四十年の永い歳月が矢の如くに流れていった。あの峻烈な記憶は年と共に少しつつ薄れてはゆくが、無抵坑な人達を無差別に爆撃をして殺戮し、そして大切な人の命を露よりもはかなく消していったこの戦争の悲しみを、決して子供や孫達に味合わせたくないものと強く胸に秘めていると同時に、比の夜亡くなった戦友や多くの犠牲者に対し、心からの御冥福をお祈りする次第です。

 太平洋戦争下、米軍による東京空襲は、昭和十七年四月十八日のB二五中型爆撃機による初空襲によって開始をされたが、その後二年数ヶ月にわたり空襲は無かった。そして昭和十九年に十一月二十四日になって東京は本格的な空襲を受ける様になったのである。

 以後昭和二十年八月十五日の無条件降伏の日まで約九ケ月の間、約百三十回、休みなく空襲が続けられたが、その中でも昭和二十年三月十日の墨東方面を重点にした空襲は、B二九 三百三十四機が超低空で無差別に、住宅密集地を焼夷弾の絨緞爆撃を行なったのであった。この爆撃で下町方面は一夜にして廃墟と化し、約十万人が死んでいったのである。

 (昭和六十三年・かんとう少通)
編集者
投稿日時: 2014-2-21 6:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 28

 終戦前後の村松少通校  その1

   
     十二期五中隊三区隊 橋本 雅吉

 八月十五日の終戦を村松少通校で迎えた我々にとって、わずか一年三ケ月であったが、村松は、戦車の思い出と、戦後の出発として数多くの思い出を今日に残しています。

 そこで終戦前後の村松少通校はどうなっていたのかの記憶に残っている当時の状況を記してみたいと思います。

 村松少通校の生徒隊は、一中隊から八中隊(光、武、南、芳、岩、向、波、矢)で昭和二十年三月第十一期生が出陣し、一時は十二期生のみ(五~八中隊)でしたが、四月に、十三期生が入校し、再び一千六百名の生徒隊となりました。昭和二十年七月ごろになると戦雲ますます急を告げ、この頃から村松少通校にも大きな変化がありました。

 その第一は、少通校の練兵場の一部に軍用航空機用の滑走路(菅名村寄り、練兵場の東→西)の設置が本格化し、施設隊も到着し、工事がはじまりました。我々も使役として作業に参加しました。滑空路と言っても簡単なもので、練兵場の芝生をそのまま活用し、タコツボを埋め、ローラーでならす簡単なもので、八月上旬には完成し、単発の軍用機が一日、二、三回程度発着するようになりました。一方、食糧自給の一端として、練兵場の一部を農場とし、四月ごろから、サツマ芋や、カボチャ等の作付けも行われました。

 また、現在慰霊碑のある愛宕山の中腹に通信機を格納するための横穴式地下壕掘りもこのごろ急ピッチで工事が進められました。
 米軍機の日本に対する空襲がますます烈しくなるころ、新潟方面に対する空襲は少なく村松上空に飛来したのは七月下旬の一回のみで、二機が高度五千米ぐらい(目視で約三十センチの大きさ)でした。

 その時の状況を申しますと、午後三時ごろ空襲警報が発令され、我々射撃班は、九九式短小銃と、弾薬箱を持って校内に掘ってあるタコツボに入り射撃体制に入りましたが、今、思うと、小銃対飛行機では笑い話にもなりません。
編集者
投稿日時: 2014-2-22 7:06
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 30

 終戦前後の村松少通校  その2

 終戦直前になると、隊の動きも目まぐるしくなり、五中隊は、全員疎開することとなり、大蒲原村を中心に、我々三区隊は、十全村小学校に八月十三日疎開が完了し、小学校の講堂には通信教育用の設備も設けられ、校庭には天幕を張って露営生活の準備も出米ました。
 また、衣類、資材等についても十全村の農家の土蔵を借用し、すべて疎開が完了しました。

 しかし、この疎開生活も 二晩だけで、終戦当日の八月十五日は、玉音放送を聞くため、完全軍装で、少通校に戻ることになり、他の区隊と合流し、途中、村松町郊外の日枝神社に参拝し、午前十一時ごろ少通校に戻り、全校生徒整列し、正午から本部より流れた玉音放送を聞きました。

 当初、我々は戦局烈しき中で、なお一層の奮起を求める放送と信じていたところ、戦争終結であることがわかり、全く途方にくれ、呆然となりました。

 その後、我々は再び隊に戻り、九月一日の復員までの間、九九式短小銃の菊の紋章を削ったり、不必要晶の焼却等の作業を行い、九月一日から復員を開始しました。

 なお戦後、少通校を逓信講習所として開校する予定でしたが、この案は中止されました。

 戦後の少通校の建物は、昭和四十五年の第一回慰霊祭当時には、大部分残っていました。しかし現在、そのまま残っている建物は、極めて少なく、ただ、学校本部前の営門の外側にあった哨舎がそのまま残っており、慰雪祭の時には必ず散策する場所の一つになっています。

 このように、かつては雪中訓練や、通信演習の場として名の知れた村松もいつしか桜の名所と化し、多くの人のいこいの場となっています。
 なお終戦当時、陸軍大臣より全軍にあてた訓告がありましたので記しておきます。


 
 訓 告

 玉に停戦講和の御聖断を拝す。全車の将兵は烈々たる闘魂の下、或は万里の異域に勇戦敢闘し、或は皇土の防衛に満を持して準備を進めつつありし所、今や泣いて戈を収むるに至れり、皇国苫難の前途を思えば萬感極まりなし。

 至尊亦深く此の間を精察せられ然も、尚大局のため非常の御決意を以て、大命を宣し給えり。

 全軍将兵は真に涙を呑み激情にただよることなく、又、冷厳なる事実に目を覆うことなく、冷静真撃一糸乱れざる統制の下、軍秩を維持し粛然たる軍容を正し、承詔必護の一途に徹すべし。

 至尊は「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精体たるを信ず」との優諚を垂れ給う、光栄何ものか之に加えん。

 全軍将兵宜しく此の光栄を体し、高き衿持をもて、千辛萬苦に克ち、忍び難きを忍び森厳たる皇軍の真姿を顕揚すべし。

 昭和二十年八月十七日         陸軍大臣

 (昭和六十二年・かんとう少通)
編集者
投稿日時: 2014-2-23 6:55
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 31
 

 少通校における思い出  その1

       十二期五中隊一区隊 佐藤嘉道


 訓 育 演 習

 七月三日、自分等は、訓育演習の為、会津若松に行軍す。
 朝の内は食事の準備で非常に忙しかった。
 朝七時五十七分五泉発会津若松に向ふ。入校式後二度日の軍帽姿嬉しかった。
 まだ身体ににあはずなんとなくぎごちなかった。車中に於いて車両輸送の教育を受く。中隊長殿以下全員軍帽姿で、新しい軍服姿、勇ましいものであった。

 十一時頃到着せり。すぐ白虎隊の墓、飯盛山に向ふ。初夏となり汗をかきかき行軍し飯盛山に登る。大木の下の石段を登る。中腹に行き、青の洞門を見る。白虎隊の苦心の跡をしのぶ。青い水が洞門より流れ、暑かった心も涼しくなった。山頂に登る。墓、自刃の跡、記念塔を見る。山頂より城跡を見たり、すると昔を思ふ。食後、白虎隊の剣舞見学す。


 遊 泳 演 習

 七月二十日より八月二日までの二週間、楽しみにしていた。
 七月二十日新潟の演習地にむかひ、出発せり。五泉までの行軍、入校以来初めての完全軍装、夏の暑い盛りつらかった。五泉より新潟に向ひ、新潟より市中行軍し、雨にぬれ砂地になり、目的地新潟工業学校に到着す。
 講堂に五中隊は宿泊す。四、五日のうちは、遊泳はせんかった。少しは泳げた自分も、日本海の荒海には少しも泳げなかった。しょっぱい海水をのんだりして、演習も終る頃は、荒海にても泳げるようになった。

 朝早く起床して、裏の松林を過ぎ、砂をふみつつ海辺にて、地引き網を引くのを見、網を引いて見た。その日はあまりとれなかなかったが面白かった。
 又午後泳ぎにゆく時は、砂が焼けてたまらぬ、海の中に入ってほっとした事もあった。又白山公園に行き、史蹟を見たり、市中見学、映画を見たり楽しかった。この演習は乾パン、西瓜が配給になったり、食事も待遇よくよかった。

 又一日中泳いで寒くなって甲ら干しをしたり、疲れた体を引っ張って、町の風呂屋へ行って、潮にまみれた体を洗ったりして、軍歌演習をする時など楽しみであった。朝の点呼の時素足で点呼を受けたりし、気持ちよかった。楽しかった演習は、本校入校以来初めて通信機材を取り扱ったりして、いろいろの事を学んだ。
 演習帰りは先発隊となって、荷物をおろしたりして、汗をだしあごをだした事もあった。

 中隊へ帰って隔離中隊になっていたのにはびっくりした。だが楽しかった。二度とない遊泳演習も終りたり。
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