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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第10回)
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編集者
投稿日時: 2013-12-27 7:26
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 11

 ◆生と死 その4

 -------夜間飛行自体、危険だったのでしょうね。

 田中‥相当、無理してやったんでしょうね、飛行機の性能的にも。燃料も質が落ちてましからね。そういう中での訓練ですから事故も起きやすかったでしょうね。

 岡本‥それと、一式陸攻にエアコンがあったかどうかは知りませんけど、九六陸攻にはエアコンがなくて、高度2000m、3000mに上がると寒くて、ブルブル震えていました。あと、機材が支那事変の渡洋爆撃に使われたもので古いから、隙間から風が入る。それで、搭乗する時、飛行靴で芝生を踏むから泥がついて、それがホコリになって操縦席に舞うんです。だから、飛行眼鏡をかけて操縦する。機内は冷えに冷えているからおもらしする。九六式陸攻にはトイレがないんです。一式陸攻には小さなオマルがありました。だから、着陸して解散になったら、みんな一斉にトイレに行って、まずフンドシを代えて (笑)。それが現実でした。

 田中‥上空で操縦を交代するくらいだから、飛行時間が長いでしょ。岡本一3時間とか4時間とか……。

 田中‥午前中なら午前中いっぱい飛行作業ですからね。でも、九六式陸攻から一式陸攻に代わって大分良くなりましたね。やっぱり一式陸攻は新しい機体だし、九六式陸攻も悪い飛行機じゃないけど、一式陸攻に比べれば性能が落ちますから。一式陸攻には空調もありました。排気管を通して暖房にはなっていたわけです。   

 -------空調以外に装備での不満はありましたか?

 田中‥通信機能が劣悪でした。アメリカと相当、差があったんじゃないですか。零戦とか世界レベルに達した技術もありましたが、通信機能はひどかったと思います。

 岡本‥レーダーでも、すぐに捕まえられてバタバタと落とされましたしね。敵からすれば狙い撃ちですよ。私は九六式陸攻までしか乗りませんでしたけど、防弾が弱かったですね。

編集者
投稿日時: 2013-12-28 8:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 12

 ◆特攻から夜間爆撃に その1

 -------松島を出撃した時は特攻のつもりだったはずが、夜間雷撃に変わっていたということですが、それは出撃先の出水で知ったのですか?

 田中‥松島を出撃するということは、沖縄への攻撃に参加するということですからね。直前まで具体的な命令は出ませんでしたけど。

 岡本‥でも、松島では特攻と言われたのか、言われなかったのか。田中さんはどうでした?

 田中‥特攻とは言われませんでしたね。でも、特攻と同じですよ。

 岡本‥搭乗割の黒板に、「第〇次特別攻撃隊」と書かれているんですよ。だから、我々はみんな、特攻だと思っていました。だから、私より先に出撃した田中さんたちはもう死んでいると思っていました。

 田中‥普通の攻撃でも出撃したら99%は生還しないんですからね。それを知っていましたから、特攻だろうが、通常の攻撃だろうが、あまり意識しませんでした。出撃すれば死ぬんだと思っていました。   

 -------田中さんは何次の特別攻撃隊として出撃したのですか?

 田中‥第4次だったかな‥‥ 昭和20年5月6日に沖縄に向け、出水を出撃しました。午前零時過ぎです。一式陸攻に250kg爆弾を2発、60kg爆弾4発を積みました。約1t近い爆弾をかかえたわけです。魚雷1本よりも重いくらいですね。それで離陸するというのは、やはり大変なことなんです。離陸に失敗した人もいますからね。 私の飛行機には、右側の操縦席に和田飛曹長という、私より10歳くらい年長のベテランがいました。それから、搭乗整備……搭整と言っていましたが、機関関係を扱う人ですね。それも、楢木野 (ならきの) 上飛曹長という歴戦の人がいました。ペアは6人でした。操縦が2人、整備が1人、偵察は13期飛行予備学生の榎本中尉(旧姓・鳴門)、あとは若い下士官でした。戦争の場数を踏んだ人がいましたから、生還できたのもそのおかげと思います。 さっきも言ったように、過重状態で離陸するわけですから緊張しました。離陸後、私たちは沖縄の北飛行場の爆撃に向かいました。快晴で、月は出ていませんでしたが、星がきれいでした。それで、高度5500mで、東シナ海を西寄りのコースをとりました。沖縄にアメリカ軍が上陸して、飛行場を全部占領していましたからね。途中で落とされる可能性は高かったんです。敵の夜戦を警戒して、遠回りしましたから時間が掛かりました。でも、その方が安全だったんです。 
編集者
投稿日時: 2013-12-29 9:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 13

 ◆特攻から夜間爆撃に その2

 田中‥つづき

 それで、北飛行場までたどり着いて、爆弾を投下する前になると、前方に閃光がバッハバッハと走るんです。最初、なんだか分かりませんでしたが、敵の対空砲火なんですね。その中を突っ込むわけですから大変、緊張しました。高角砲の至近弾の衝撃で飛行機はものすごく揺れるし、もっと近づくと、今度は花火の中に入ったような、火の粉の中に飛び込んだような感じでした。こっちは実戦は初めてですからね、もう無我夢中で、何が起きているのかもわからず、言われて、ああ、そうかという具合で (笑)。

 なにしろ、至近弾の衝撃というか、下からズーンと突き上げるようなね。また、破片があちこちに当たるんです。直撃を受けたらひとたまりもありません。弾幕に入ると空が真っ暗になるんです。煙でね。それで、一式陸攻は気密性が良くなくて、火薬の匂いが機内に入ってくるんです。その印象が強く残っていますね。

 それで、一式陛攻の尾部に銃座があるんですが、そこで、川口二飛菅が欺網紙を撒いていたんです。アルミ箔で敵のレーダーを欺くためです。アメリカの高角砲はレーダーで撃っていますからね。だから、敵弾は後ろ後ろに行くわけです。前方で爆発したら一式陸攻なんてひとたまりもありませんが、後ろで爆発したから、そういう意味では非常にうまくいったわけです。で、高度5500mで飛んでいるでしょう。下を見ても何も分かりません。飛行場に爆弾を全部落としたつもりですがね。飛行場を通過した直後、左エンジンが止まったんです。一式陸攻はロケット排気になっているんです。排気管が分かれているんですね。だから、きれいに青色に光っている。それがパッと消えてしまった。プロペラも止まった。これはやられたと思って、和田飛曹長が必死に操縦をしました。それでみんなで手動ポンプを動かして……重いから疲れるんですよ。それで、何とか対空砲火の圏外まで出ました。そうなるとね、早く九州の基地に戻ろうと頑張りました。 いやあ、弾幕を抜けるまでの長かったこと (笑)。時間にしたら、ほんの数分のはずですけど、非常に長く感じました。

 ああいう時の機内の雰囲気というのは異常ですね。6人が乗っているわけですが、誰も何も言わないんです。だけど、お互いの考えていることが分かるんですね。不思議ですけど、何も言わなくても、みんなの意思が伝わっていました。 その後は、ひたすら九州を目指して飛び続けましたが、朝日が昇る頃、薩摩半島の突端にある開聞岳が見えました。その時は、「ああ、九州に着いた」という安堵感が初めて起きました。  
編集者
投稿日時: 2013-12-30 5:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 14

 ◆特攻から夜間爆撃に その3

 -------1つのエンジンだけで帰還できたのですか?

 田中‥動いたり、止まったりしながらでした。

 岡本‥よく、エンジンがもちましたね。

 田中‥さっき言ったベテランの力ですね。楢木野上飛菅は燃料を余計に積んでいて、それも役に立ったと思います。それで、出水に着陸したんですが、60kg爆弾1発が弾倉に残っていたんです。あれがよく着陸の衝撃で爆発しなかったと思いました。実に運が良かったんですね。整備兵がみんな驚いていました。何しろ、被弾箇所が30数カ所ありましたから、あの一式陸攻が火も噴かず、よくもったと思いました。

 岡本‥機長の榎本中尉が「もう自爆する」と言ったそうですね。

 田中‥川口、楢木野といったベテランが、まだ助かるという見込みを持っていましたけど、それに耳を貸さないで、「もう落ちましょう。自爆しましょう」とね……。生死の境というのは本当に紙一重だと思います。   

 -------弾幕から脱出した後は、機内の雰囲気も変わりましたか?

 田中‥それは変わりましたね。みんな、生きようという意欲が……人間だから本能的にあるわけです。何とか九州へ、出水に帰らなければならないと。だから、さっきも言ったように開聞岳が見えた時、ちょうど朝日が上がって、開聞岳はきれいな円聞型の山ですからね。「ああ、九州に着いたな」と。それは嬉しかったですね。その時は、もうどこに不時着してもいいと思いました (笑)。それで、その時、サイダーか何かを出撃してから初めて飲んだ記憶があります。   
編集者
投稿日時: 2014-1-2 8:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 15

 ◆特攻から夜間爆撃に その4

 -------ペアになった搭乗員たちとは、その後も一緒だったのですか?

 田中‥出撃で川口飛曹長が負傷したんです。耳たぶのところに高角砲の破片が当たったんでしょうね。血だらけになってマフラーを巻いていました。それで、ペアが半端になったということもあるんでしょうが、松島に原隊復帰することになりました。その時、一式陸攻は置いて、九六式陸攻で帰りました。そこでペアは解散しました。 

 -------田中さんが昭和20年5月6日に沖縄に出撃された頃、岡本さんは松島にいたのですか?

 岡本‥はい。昭和20年5月7日に第5次特別攻撃隊として黒板に名前が出ましたが、翌日に取り止めになって。それで、6月1日くらいでしたか、松島空は今度、作戦のため、銀河隊と一式陸攻の基地になる。それで、練習航空隊の松島空は北海道の美幌で訓練を続ける。で、私と同期生が10人くらい美幌に行きました。残りの人は福島県の郡山や山形県の神町に行って、赤トンボで最後まで戦うということになりました。私は運悪く、美幌組に入っちゃった。それで美幌で訓練をしていたわけですが、そのうち、アリューシャン方面から敵機動部隊が来るという情報が入りました。いよいよ最後の攻撃だというので、8月14日くらいの晩から飛行場の照明をつけて、掩体壕から飛行機を出して、爆弾や魚雷を積んで、格納庫の前でエンジンを始動して出撃の時を待っていました。そしたら、翌8月15日の朝、暗号係だった同期が、「岡本君、停戦だよ。戦争は終わったよ」と言うんです。驚いて宿舎に帰って、みんなに「戦争が終わった」と言ったら、「岡本、冗談もほどほどにしろ。ぶん殴るぞ」と言われました。だから、敵の機動部隊に最後の攻撃に行く直前で助かったわけです。
編集者
投稿日時: 2014-1-3 6:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 16

 ◆終戦の日を迎える

 -------田中さんは松島に戻った後はどうされたのですか?

 田中‥松島というのは海岸線から近い飛行場ですから、艦砲射撃を受けるというので、飛行機はすべて神町航空隊……今の山形空港がある場所に持っていったんです。昭和20年7月頃のことでした。でも、結局そこも敵の艦載機の攻撃を受けて、地上ですべて破壊されました。それで飛行機がなくなってしまいました。そのまま、そこで終戦を迎えたわけです。終戦の話を聞いた時は気が抜けたみたいになりました。

 岡本‥私たちは北海道の美幌にいたんですけど、8月が終わっても復員できない。ところが内地の航空隊は復員ということで、戦闘機でも何でも乗って郷里に近い飛行場まで飛んでくるんです。美幌でも千歳でもそういう飛行機が飛んでくるのに我々には復員命令が出ない。それで同期と話して、命令が出なければ函館まで歩いて行って、津軽海峡を泳いででも本土に帰りたいと相談している間に、やっと復員命令が出ました。それで貨物列車で函館まで行きました。

 -------ご実家はどちらにあったのですか?

 岡本‥東京です。 

 -------田中さんは終戦後、すぐに復員できたのですか?

 田中‥山形県の神町にいましたが、終戦になったということで、8月末には帰れと言われました。私も家は東京でした。貨物列車で帰ってきましたよ(笑)。
編集者
投稿日時: 2014-1-4 6:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 17

 
 ◆日本の思い違いで始まった戦争 その1

 -------終戦後、大学に戻られたのですか?

 岡本‥学徒出陣で繰上げげ卒業になっていましたが、大学側は復学しろと言ってきました。実際、入学したのは昭和17年4月で、昭和18年12月には海軍に入ったわけですから、仮卒業ということでした。だから、余裕があったり、住むところがある人は大学に戻って勉強した人がいたかもしれませんが、私は行かないで、すぐに就職しました。大学に戻っていたら、今頃、神戸大学の教授くらいになっていたかもしれない。惜しいことをしました (笑)。

 -------仮卒業ということですが、復学しないと卒業扱いにならないのですか?

 田中‥いや、卒業になっていますよ。昭和19年3月卒業ということになっています。だから、仮卒業と言っても、そのまま、繰上げ卒業になったんです。私たちより下の人は復学しましたね。私も復学はしないで、昭和21年に就職しました。

 -------大学時代、こんな学問をしたい。こんな仕事をやりたいというものはありましたか?

 岡本‥私は西洋史に興味を持って、大学のゼミも西洋経済史を選びました。社会の仕組み……日本だと古代から中世、戦国時代から徳川時代へと……社会はこういう風に変わっていったんだと。ヨーロッパはどういう風に発展してきたのかと思い、まず、イギリス経済史に取り付いたところで、学徒出陣になったんですがね。世界のいろんな国が、いろんな宗教を持って、いろんな経済機能を持ちながら興亡を繰り返していくのをまず知ろうと。それで、小さな島国である日本が、どうやってこれからやっていくのかが何となく心配でした。本当はもっと勉強して、経済史なり、社会経済史なりをかじってみたかったなと思います。でも、戦後、復員したら、学生に戻るなんてとんでもない。まず、食べることが最優先でしたから。

 田中‥今、思えば、あの時、あれも勉強すればよかった。これも勉強すればよかったと思いますよ。今、言っても仕方がないですけどね (笑)。

 岡本‥私たちの時代は高等学校くらいから、夏目漱石、森鴎外、ドストエフスキーを読んでみたり、トーマス・マンをかじってみたり。食料が不足していたから、近くの空き地で芋を作った。でも、合唱をやったり、楽しみもありました。だけど、支那事変から太平洋戦争と、ひしひしとね、何か精神的に落ち着きませんでしたね。周りは出征兵士でどんどん出て行く。新聞は勝った勝ったと報道する。こんなに簡単にアメリカに勝つのなら、これは有難いことだと思いましたけどね。今、飛行機の生産数とか、日米の数字が出ていますけど、それを見ると、何で戦争を始めたのか分からない。どういう計算があったのですかね。
編集者
投稿日時: 2014-1-5 5:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 18

 ◆日本の思い違いで始まった戦争 その2

 -------アメリカとの戦争がなぜ行われたのか、何かご意見がありますか?

 田中‥あの当時もね、若い人の中には、戦争に対して非常に懐疑的だった人もいました。それは少数でしたけど、いたことはいました。戦争に懐疑的で批判的だった人はいました。

 岡本‥土浦で知り合った東大出の予備学生は非常に懐疑的でした。日本はこんなことでは負けると言っていましたね。頭のいい人はもう分かっていたんですね。その彼は要務土に回されて、結局、フィリピンのクラーク飛行場に行って、陸戦で戦死しました。私自身も海軍に入って、下士官は下の者をこき使う。海兵出は予備学生をいじめる。戦後、海軍上層部のやったことを知ると、海軍にいましたが海軍への不信感というものがあります。 

 チャーチルの 「第二次大戦回顧録」に書いていましたが、日英同盟はアメリカの強い要請でイギリスから破棄することになったらしいですが、イギリスもアメリカもドイツのヒトラーが暴れまわるし、ソ連は大きくなるし、中国には共産主義がどんどん入ってくる。それで、日本は満州、北支くらいまでは国土が狭いから与えて、ファシズムと共産主義の防波堤として頑張ってもらいたいと考えていた。それが突然、ドイツと日独伊三国軍事同盟を結び、ソ連とも不可侵条約を結ぶ。そして、フランス領インドシナ半島に進駐する。それでは困ると禁輸をしたら、日本は禁輸されたから今度は真珠湾攻撃だと……。だから、日本は思い違いをしていたんですね。日本は上海までの進出に止まって、蒋介石を助けたり、うまくやっていれば、イギリスやアメリカを味方にできたかもしれない。イギリスやフランスはドイツにやられて、アメリカに助けを求めるしかない。とても太平洋で日本と戦争をする気はなかった。だから、私は残念でならない。でも、日本人が、朝鮮や大陸で何千万という異民族をうまくマネジメントできたかというとダメだったと思います。だから、日本人は小さく、静かに、貧しく、チマチマと生きながら終わるのかもしれません。

 田中‥基本的には教育です。誤った教育のため、ああいう大きな戦争に巻き込まれた。閉ざされた偏向教育というのは怖いと思います。岡本‥天皇陛下の 「て」を聞いたら、もうパッと背筋を伸ばさなければならない。で、正月だ、何だというと、みんなでゾロゾロと宮城前広場(現・皇居前広場) に行く。それもいいけど、軍隊が天皇を利用して、「天皇のため」「神国のため」「八紘一宇だ」と言って、そういう理由で滅茶苦茶に訓練をやるわけです。だから、私たちは高等学校、大学を出て良識がある者にとってはバカバカしかったですね。

 -------そうすると、軍隊に入るのが嫌だった学生もいたのではないですか?

 田中‥いましたね。

 岡本‥でも、そういうことを言える雰囲気ではありませんでした。みんな、死に物狂いでやっているんだと。今さら、いい悪いではなく、国と国が殺し合いをやっているんだから、その時に嫌です、なんて言えません。みんなそうだったと思います。

 田中‥今でもあるんじゃないですかね。正論が通用しない。正しい考えが通らず、全体がある一つの方向に進んでいく。今の時代でも同じことがあると思います。普通の社会でもね。
編集者
投稿日時: 2014-1-6 5:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 19

 ◆若い人へのメッセージ その1

 -------今の若い人たちに伝えるメッセージのようなものはありませんか?

 田中‥当時の若者は視野が狭かったと思います。日本人全体がそうだったかもしれませんが。今は情報がどんどん入ってくるから、若者も視野が広くなる。私たちは限られた世界の中にいて、学生でも限られた情報しか入りませんでしたから、今とは状況が全然違いましたからね。だから、今の若い人はそういう意味では幸せだと思います。どんな情報でも自由に取れるという時代に生きているわけですから。

 岡本‥私はたまたま中近東や東南アジアに行って、イギリス人やアメリカ人がコンサルタントとかで、単にフォードとかGMを売るだけでなく、発電機も海水蒸留装置などその国にインフラに入り込んでいる。それから欧米の石油資本がサウジアラビアとかクエートとかで、炎天下で頑張って石油の試掘をして、当たれば石油が噴出すけど、当たらなければ何千万の損と、そして、沖合いにターミナルを作ってパイプで陸上に持ってきて、どんどん輸出している。それからまた、マレーシア辺りでは中国人が金融から何から牛耳っている。特にマレーシアとかタイとかでは、英米系の肥料会社とか農業専門会社がゴムとかを、植林して栽培して新種交配して、それを製品化する。それをジャングルに10年20年住み込んで開発する。それに、現地民を何万人、何十万人と使いながら、マレーシアならマレーシアに、タイならタイに病院を建て、学校を作り、ホテルを作る。イギリスなんかはマレーシアにオックスフォードとかケンブリッジの出版社が来て、そこにマレー語と英語の教科書を作る。

 つまり、自分の利益も取るけれど、現地民のために産業を育成しているんですね。中近東でもシェルとかの石油資本が、単に石油を採掘するだけでなく、陸上に施設を作って、まずホテルを作り、公園を作り、ゴルフ場を作り、映画館を作り、それからモスクを作り、ヒンズーの寺院を作り、もちろん教会も作る。各国に入って国作りに協力しているんです。そして、現地民に技術を教え、日本企業よりはるかに高い給料を出している。だから、タイやマレーシアから日本に来る留学生は、帰国しても日本企業に勤めないで、欧米系の企業に行くんです。給料も全然違うし、与えられる権限がまた違います。日本企業の場合、主要なポストは日本人が占めちゃう。 

編集者
投稿日時: 2014-1-7 7:37
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第10回) 20

 ◆若い人へのメッセージ その2

 岡本‥つづき

 クエートで痛感したのですが、欧米人が何であんなところで頑張っているかというと、派遣された欧米人自身も給料がいい。したがって10年20年住み込んで、帰る時は稼いだお金を持って帰って、ロンドン郊外に1億円で家を買って、残りのお金でゆっくりと暮らすというライフスタイルなんです。だから、日本のシステムと、欧米人たちの考え方と、現地への入り方が違うんです。そういうのを経験すると、今の日本の若い人はパソコンや携帯電話でチョコチョコやっているよりも、語学と海外常識をもっと勉強して、どんどん海外に行かないと。日本企業も海外派遣をしていますけど、若い人は命令だから仕方がないというのがほとんどです。でも、喜んで行くようになって欲しい。それには日本の政府や企業も、海外勤務者の給料に少し色をつけるという程度でなく、例えばイギリスでは、海外に住み込む人の子供はロンドンの寄宿舎に入れる。夏休みが始まると航空会社が子供たちを集めて親の海外勤務地に送る。夏休みが終わると、また飛行機が各地を回って子供たちをロンドンに連れて帰る。イギリスでは、国を挙げて海外勤務者の家族を応援しているんです。日本では子供の教育があり、奥さんもあまり行きたがらないということで、海外に行って住み込むということが非常に難しい。今のように、日本も失業率が高くなって、大学は出ても就職が難しいという時代になったのだから、海外に行ってあらゆるチャンスを掴む。場合によっては永住するくらいの勇気を持って欲しいと思います。 

 あとは、日本の政治家たちにも言えますが、チャーチルの 「第二次大戦回顧録」とか、ちゃんとした本を読んで、あの時、イギリスはどう考えていたのかとか、どう対処したのかを勉強しないと。中国でもアメリカでもどう考えているのかと、そういうことをもっと真剣に考えて欲しいです。あまりに、日本人が小さなことにチマチマし過ぎて、このままだと先行きが不安です。だから寂しいですよ。こんな国、こんな国民のために、我々の友達がみんな特攻隊とかで死んでいったのかって。恋も結婚もしないで、死んだんですから。それが一番、残念なことです。だから、こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、顕彰とか慰霊祭とか、特攻とかに興味を持つのもいいけれど、それは過去のことであって、むしろ、若い人たちは自分の将来のため、これから必要なことを勉強しないといけないのではないかと思います。

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