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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第8回)
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編集者
投稿日時: 2013-5-17 6:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)

 特攻インタビュー(第8回)

 海軍航空特攻 粕井貫次氏

 (公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ

 「編注・当会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当会事務局までご連絡下さい。」

    ◇   ◇   ◇

 粕井貫次氏軍歴(略歴)
  第13期海軍飛行予備学生 海軍中尉
  出水海軍航空隊国分分遣隊国分海
  軍航空隊(第一国分基地)
  神風特別攻撃隊 乾龍隊

    ◇   ◇   ◇

 特攻ライブラリー取材班
            
       (五十音順)

  及川 昌彦 世話人
  神崎 夢現 進行
  倉形 桃代 記録
  提橋 律子 世話人
  須貝 智行 写真撮影
  高橋 暢  映像撮影
  須田 智歩 インタビュー書き起こし
  長尾 栄治 インタビュアー・構成

    ◇   ◇   ◇
 
編集者
投稿日時: 2013-5-18 7:30
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その2

 ◆海軍飛行予備学生に志願

 --------粕井さんは海軍飛行予備学生13期生ということですが、海軍飛行予備学生とは、どういう制度だったのでしょうか。

 粕井‥海軍飛行予備学生は第1期生が入隊した昭和9年以来、10年以上続いた制度です。海軍では、海軍兵学校を卒業した正規の士官以外に予備士官というのがありました。飛行科の場合、民間に飛行連盟というのがありまして、飛行操縦を勉強していた学生かいました。数十人くらいの数に過ぎませんでしたが、その人たちの経験を生かそうと、海軍が学生飛行連盟などに話をして、志願者があれば予備士官として採用しようということになったのです。海軍ですから商船学校出身の民間船舶の航海士、そういう人たちを海軍の予備役として編入する制度もありました。

 アメリカでは、昭和16年頃から高等専門学校以上・大学卒業者から搭乗員を大量に養成する制度ができたらしいです。日本はそれより遅れて、戦局が厳しくなった昭和18年、搭乗員を急いで増やさなければということで、それまで100人以下、あるいは、せいぜい数百人だったのが、私が入隊した13期の場合、一気に5000人以上という募集をかけました。その時の日本国内の雰囲気は、戦争ムードというか、一国を挙げて米英と戦わなければならないということで、学業の期間も繰り上げ卒業で短くなっていました。当時、大学や高等専門学校の学生には徴兵猶予という制度があり、徴兵検査を受ける満20歳になっても、兵役を免除されたのですが、そういう制度も問もなく廃止になるということで、同じ軍人になるならば早いうちに、それも昇進が早い……予備学生は最初から士官待遇ですから。それから、やはり飛行機に乗れるというのはその時分、かっこ良くてあこがれでした。それに海軍の制服もかっこ良かったですから、それで志願したというわけです。

 --------志願された時は学生だったのですか?

 粕井‥私は4人兄弟の2番目ですが、兄と弟は体が丈夫で父親が工業学校に行かせたんです。私は兄弟に比べるとそんなに立派な体ではなかったので、「お前は商業学校に行け」と父に言われました。昭和16年3月、商業学校を卒業する時、働きながらでも、もう少し学歴を付けたくて夜学の専門学校に入ろうと思いました。私は大阪に生まれ、大阪で育ちましたが、当時の大阪には夜学の専門学校が2つしかありませんでした。関西大学の専門部と日本大学大阪専門学校です。会社に近い……近いといっても7キロほど歩きましたが……大阪専門学校に入りました。会社と学校と自宅の間を通いましたが、戦争が厳しくなり、もう軍隊に行こうと志願したのです。

 専門学校を昭和19年3月に卒業する予定でしたが、繰り上げで、昭和18年9月末卒業になりました。飛行予備学生に合格したので、結局、卒業を待たずに9月13日、三重海軍航空隊に仮入隊し、10月1日に正式の予備学生に任じられました。専門学校の卒業式には、私の代わりに親が参加しました。

 --------夜学に進学するほどですから、何か夢や目的があったのですか?

 粕井‥そうですね。満州国の行政官、専門学校以上を出ていれば、満州国の高等文官になる資格がありました。それから、今でいう司法試験ですね。あるいは、行政職でも高等文官行政職試験というのがありましたから、そういう試験を受けてみたいという気持ちがありました。それから、当時の新聞の人事欄に南方司政官というような……これは占領地域に対する行政に携わる職業だと思いますが、そういうものも非常に魅力的に映りました。
編集者
投稿日時: 2013-5-19 6:37
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その3

 ◆「五省」の思い出

 --------入隊後、理想と現実のギャップに悩まされたという体験談がありますが、粕井さんはいかがでしたか?

 粕井‥私の場合、それほどありませんでした。入隊前、昼は鉄工所の事務員勤めをして晩は夜学へ通う。毎日、長距離を歩かなきゃいけない。食糧事情も良くありませんでした。それに比べ、海軍では食料がとても豊富というか、足りていましたし、運動もできますし、体力がモリモリついてくるのが自分でもわかりました。あっというまに3キロばかり肥えました。運動選手だった者は食料が少ないといって体重も減りましたけども、私の場合は規則正しい生活をしたし、それから勉強も……座学というやつですね、これもできました。だから、精一杯がんばって自分の力が発揮でき、かつ認められるということで理想と現実の間で悩んだということはありませんでした。

 --------予備学生としての生活や訓練はどのようなものだったのでしょうか?

 粕井‥夏と冬では少し違うでしょうが、朝6時前後に起床、それから洗面、集合、体操です。それから朝礼があって、別科があって、いろんな座学もあれば体技もありますし、それが午後4時ごろ終わりまして、それからまた別科で体技とかいろいろあって、夜は温習、いわゆる自習時間です。そういうふうな規則正しい生活で、夜は9時か9時半ぐらいに巡検といって、日直将校が各隊を検分して回って、そのあと就寝という非常に規則正しい環境でした。

 --------入隊から飛行機に始めて乗るまで、どのくらいかかったのですか?

 粕井‥昭和18年9月に入隊して、乗ったのは翌年の昭和19年1月ですから、4ヵ月ぐらいですか。

 --------その間は、ひたすら基礎教育ですか。

 粕井‥はい。体育だと、まず基本的に駆け足ですね。それから相撲をやりました。それ以外にカッター……短艇、ボート漕ぎです。それから手旗信号。それからトンツー……通信の発信受信。それと海軍士官としての一般的な教養や心得……特に、指揮官としての心構えというようなことについて徹底して仕込まれました。

 --------短期間で海軍魂を入れるため鉄拳制裁が当たり前だったという話もありますが。

 粕井‥同じ飛行予備学生でも、土浦航空隊と三重航空隊では大分、違うみたいです。土浦は当時の飛行長がスパルタ教育をやったようです。ところが、三重海軍航空隊の方は寝る所がベッドでした。土浦はハンモックでしたが。それから、トップに立った教育主任の田村中佐、その後、長谷川という名前に変わりましたけど、この方が非常に温厚ないい方で……100歳ぐらいまで生きられましたか。慰霊祭には毎回お越しになりました。それから、教育主任補佐官の国定謙男少佐が立派な人でした。この方は終戦になって、自分の教えた学生がずいぶん戦死した、この責めを負わなければならんということで、終戦直後の、確か昭和20年8月23日ですか、自分の菩提寺に奥さんとお子さんたち2人を連れて、子どもたちにキャラメルを与えて拳銃で撃ち、奥さんも拳銃で撃ち、ご自分は割腹自殺された。それぐらい立派な方でした。そういう立派な方たちの言動に対して、私は本当に惚れ込んでおりました。いわゆるイジメとか嫌がらせなどは、ほとんどと言っていいくらい受けたことかありません

 --------三重での教育期間で印象に残っていることは何かありますか?

 粕井‥夜の温習、いわゆる復習時間が特に印象に残っています。「五省(ごぜい)」という5つの反省をやるわけです。当番の学生が、全員の目をつぶらせて静かにさせた後、五省を…… 
 「一、至誠に惇る勿かりしか。
  一、言行に恥づる勿かりしか。
  一、気力に缺くる勿かりしか。
  一、努力に憾み勿かりしか。
  一、不精に亘る勿かりしか。」
 ……これを1つずつ区切って唱えるんです夜、シーンとした中で、それを唱えると、非常に……後に、私は趣味で催眠術やったことあるんですが……脳の表面の、新しい脳の皮質が麻庫した状態で、潜在意識に軍人精神が注入されるというような、そういう時間を持つわけです。「ああ、おれはまだまだ努力が足りなかった」とか、「まだまだ気力が足りなかった」とか、「もっとベストを尽くすべきだったな」とことを、毎日、反省を繰り返しながら向上していったわけです。

 --------粕井さんにとって海軍生活はご自分の性格に合っていたようですね。

 粕井‥合っていたというか、入隊した時、私はまだ19歳ですから、非常に純真というか……。私は、どちらかといえば、すぐ何かに惚れてしまう方なんです。非常に感化されやすい性分なのでしょうか。例えば、戦前、吉川英治の『宮本武蔵』を何回も読んでみたり、谷口雅春先生の書かれた『生命の賓相』あたりを何回も読み直したりして、精神的な向上を出来るだけ目指そうとしていました。だから、最も素直な、純真で若かった時代ということがいえるでしょう。

編集者
投稿日時: 2013-5-20 6:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その4

 ◆水上機の操縦 1

 
 --------飛行訓練が始まった頃のことを教えてください。

 粕井‥私の兄が、川西航空機という飛行艇や水上機を製造している会社の技術者で、戦時中、北浦海軍航空隊(現・茨城県潮来市)で水上機の整備をしていました。そういうこともあって三座水偵……3人乗りの水上偵察機の操縦を希望しました。他の人は大体、戦闘機を希望しましたね。水上機希望者が少なかったせいか、希望通り、水上機操縦の練習航空隊だった博多航空隊に転勤になりました。

 練習機教程で最初に飛行機に乗る完熟飛行というのがあります。下士官の教員に乗せてもらって離水するわけですが、エンジンが回ったと思うと水柱というか、すごい波が立って、飛行機が動き始めると、もう波しぶきがいっぱいでしょう。波の抵抗に対して、操縦悍やフットバー(方向舵)をパッパパッパと修正しなければいけない。それが神業のように見えるわけです。
 アッと思うと、もう水面が下の方になっている。「うわ、こんな神業みたいなことが果たして俺に出来るんやろか」と思って最初はびっくりしました。しかし、それも慣れで、そのうちに人並みには何とかやれるようになりました。

--------水上機の操縦方法は独特なのですか?

 粕井‥上空では地上機とほとんど一緒ですが、水上機の場合はフロートがついていますから空気抵抗があります。宙返りなどの特殊飛行でも、陸上機の方がスピードがつきやすいですから楽です。

 一番違うのは離水と着水です。離水する場合、水上機というのは、エンジンを入れるとまず機首が上がるんです。そして、スピードがついてくると機首が下がるんです。ところが、あまり下げすぎると波頭にフロートが突っ込むと危ないわけですから、適当な角度で加速しなきゃいかんわけです。そして最後に、まさに離水する直前にフロートをちょっと、おしりをピュッと上げるんです。ということは操縦悍を前へ倒すんです。そうするとおしりが上がって、スーツと上がっていくんです。ところが陸上機は、エンジン人れて、だんだんとスピードがついてくると機首が下がります。そのままの上昇の角度そのままでスーツと上がっていくんです。だから水上機に比べて陸上機はものすごく楽です。

 それから着陸の場合、水上機は波とかうねりにフロートを取られてはいけませんからダウンの格好です。マイナス3度ぐらいの角度で降りていくわけです。そして15mのところでエンジンを絞って、だんだんと機首を上げて、一番機首が高い失速直前のところでチャッと着水するわけです。これが水上機です。ところが陸上機はそうではなくて、ずっと高いところからパス姿勢で入る時にはアップ、たしかI度ぐらいだったと思います。このままの姿勢で降りてくるわけです。そして航空母艦の艦尾、軽い飛行機の場合5mです、5mのところでエンジンをいっぱい絞って三点着陸です。水上機は失速寸前までこうアップする。陸上機は三点着陸ですから、陸上機のほうが楽です。それから陸上機の場合は、いわゆる着陸誘導板というのがありまして、それが赤と白の平行線が一直線に見えるようにエンジンをふかしたり、しぼったりしながら降りていけばいい。水上機の場合はそういうものがありません。海の上ですから。だから非常にそういった点は難しかったです。

 --------飛行訓練には練習機教程と実用機教程がありますが、練習機と実用機では操縦方法が違いましたか?

 粕井‥昭和19年4月、博多での練習機教程を終え、実用機教程は四国香川県の詫間海軍航空隊に移って行われました。詫間には零式水上偵察機がありました。零式水上偵察機には練習機にない水中方向舵があるんです。練習機ではエンジンと感覚だけで水上を滑走しなければいけない。ところが、水中方向舵があると非常に方向転換がやりやすい。それから実用機になりますと飛行機のプロペラの角度を変えるわけです。離着水のときにはローピッチにして、巡航速度になるとハイピッチにするわけです。それから、エンジンの温度、筒温を上げすぎず、下げすぎないために、エンジンカウリングを開いたり絞ったり。それから、着水離水するときフラップを上げ下げする。練習機と比べて、そういういろいろな操作がありました。

 --------お話を聞いているだけで頭が混乱しそうですが、そういうのは、訓練で自然と覚えられるのですか?

 粕井‥そうですね。練習機の時は誘導コースを回る時間も短かったですが、実用機で飛ぶ場合は長い距離を飛ぶわけですから。あわてて操作しなくても、順番にやっていけばいいわけです。だからむしろ、長距離の場合、安定した実用機の方が楽です。特に、実用機教程で使った九四式水上偵察機というのは……ガダルカナル攻撃にも使った三座の水上偵察機ですが、上空での操縦性能が非常に安定していましたから、そういう飛行機だと手を離していても、ひとりでに楽に飛んでくれました。

--------水上機の場合、どのような訓練が中心だったのでしょうか?

 粕井‥水上機は長距離偵察が重要な任務ですから、訓練では計器飛行が非常に重視されました。天候不良とか夜間の場合には計器飛行の技術が非常に大切ですから。それから潜水艦攻撃です。
 「潜爆」と言っていました。潜水艦に対して、30度くらいの緩降下爆撃を行います。空母などから出撃する艦上爆撃機は、急降下爆撃と言って、45度以上で突っ込みましたけど、私たちの場合は30度の角度で潜水艦攻撃をやりました。

 それから夜間定着。これが怖いんです。陸上機の場合、夜間でもライトの先ほどに着陸誘導板(誘導灯)というのがあるから進入角度がわかるわけです。ところが水上機の場合、そういうものがありませんから、高度100mからアップ2度からアップ3度ぐらいの姿勢で速度プラス10ノットか15ノットでもってエンジンを絞りながら、そのままずっと降りてくるわけです。そしてフロートが海面に着いたとたんに、エンジンを絞って操縦悍をゆっくり引くわけです。だから、非常に手探りで、特に海面が暗くて見えにくい時は危険が伴いました。

編集者
投稿日時: 2013-5-21 6:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その5

 ◆水上機の操縦 2

 --------水上機は、すべて二座(二人乗り)か三座(三人乗り)なのですか?

 粕井‥いや、一人乗りの単座もあるんです。零戦にフロートをつけた二式水上戦闘機というのがありましたし、それ以外に、「強風」という水上戦闘機がありました。二座の場合、前が操縦、後ろが航法と射撃です。三座の場合は、前が操縦、真ん中が航法、後ろが通信と射撃です。そういう役割分担がありました。

 --------三座以外に二座の水偵にも乗られたのですか?

 粕井‥いや、私は二座に乗っていません。三座しか乗りませんでした。練習機は二座でしたけど。私が操縦した飛行機は、赤トンボの水上機と陸上機、三座水偵の零式三座水偵と、九四式水偵ですが、風防のない吹きさらしの赤トンボの方が気持ち良かったですね。

 --------風防のある飛行機の方が楽だというイメージがありますが?

 粕井‥バスを運転するのとオートバイで走るのと、どっちが楽しいかというのと同じです。私はオートバイの方が楽しいと思うんです。ビューつと風を切り、運転してるぜという実感がありますものね。例えば、新幹線の技術はすごいし、時速200kmで、あの長い車両を運転する満足感はあるでしょうが、それよりも、昔のチンチン電車のような、ドアもなく風も吹きさらしという、その方がやはり運転する醍醐味があると思います。

 --------練習機、実用機の訓練課程が終了すると、いよいよ実戦部隊に配属されるわけですね。

 粕井‥はい。私は一番先に決まりまして、隊長に「アラフラ海の近くのアンボンという航空隊に決まったぞ」と言われ、皆が「おめでとう」と胴上げしてくれました。ところが、アンボン航空隊がどこにあるのかわかりません。地図で調べたら、ニューギニアの近くでしょう。「うわ、えらいとこになったな」と。まだ71~72時間しか乗っていないから自信がなかったんです。他の連中は大津に行ったり、詫間に残ったりと他の転勤先が決まるでしょう。うらやましいですよね。休みの日には家に帰れる者もいるし。ところが、私のアンボン航空隊行きが中止になりました。というのは、アンボン基地の飛行機がほとんど壊れてしまったんです。で、今度は転勤先がなかなか決まらない。やっと決まったのが、練習航空隊である九州の出水海軍航空隊国分分遣隊で、しかも陸上機の教官、それも練習機……九三式中間練習機、赤トンボの教官です。ちょっとガッカリしました。

編集者
投稿日時: 2013-5-22 6:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その6

 ◆海軍士官としての勤務 1

 --------国分に赴任されたのはいつ頃でしたか?

 粕井‥昭和19年7月です。

 --------その時の階級は?

 粕井‥階級は少尉です。

 --------飛行予備学生は、階級がどのように上がって行ったのですか?

 粕井‥第13期の平均的な飛行予備学生は、昭和18年9月に入隊して、昭和19年5月21日、少尉に任官しています。卒業は昭和19年7月……水上機の方が他の機種よりも卒業が早かったです。あれは、どうしてですかね。私は昭和19年7月卒業ですが、他の連中は9月に卒業しています。

 それから、昭和20年6月1日付けで中尉に進級です。ただ、土浦航空隊に入隊した者の中には前期・後期というのがあったらしくて、その中の一部には入隊してから6ヶ月で中尉になり、それから9ヶ月で中尉になった者がいたそうです。だから、終戦の時、特別昇進で大尉になった者もいるように思います。

 --------三重空でも、同じように前期・後期と分かれていたのですか?

 粕井‥そうです。

 --------地上機の教官として国分分遣隊に赴任されたわけですが、その時、初めて地上機に乗ったのですか?

 粕井‥はい。

 --------簡単に乗り換えられるものなのですか?

 粕井‥そうですね。違うのは離陸と着陸です。水上機の場合、着陸は出来おしりを下げるでしょう。陸上機は三点着陸ですから、着陸の時におしりを上げすぎまして尾輪のゴムを2回ばかり切りまして、ちょっと恥ずかしい思いをしました。

 --------士官としての勤務、それも教官ということで、緊張したりしましたか?

 粕井‥着任してすぐ、甲種飛行予科練習生12期の飛行練習生を受け持てといわれまして、I週間ばかり受け待ったことあります。彼らは中間練習機課程を終えて、もうすぐ実用機課程へ行く直前ですから、50時間ぐらい乗っています。私は水上機を入れて70時間です。だから陸上機の操作は私より上手いんです。「飛行後の注意をお願いします」と言われても、「いや、なかなか今日はうまくできた」とか言って(笑)。そんな経験があります。その後、甲飛13期で第39期飛行練習生の操縦を最初から教えました。
編集者
投稿日時: 2013-5-23 6:22
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その7

 ◆海軍士官としての勤務 2

 --------予科練出身の若者の印象はどうでしたか?

 粕井‥かわいかったですね。3歳ぐらい年下、ちょうど私の弟ぐらいでしたから。非常に素直で真面目で探究心旺盛で……。海軍では下士官が彼らをイジメまして、バッターでどついたりして、それを取り締まるのに苦労しました。

 N‥予科練生か下士官からイジメられたのですか?

 粕井‥下士官にもいろいろあって、甲飛というのが一番、出世が早いわけです。その次が乙飛(乙種飛行予科練習生)。それから丙飛(丙種飛行予科練習生)といって一般兵科から飛行科へ変わった連中もいるわけです。そういう連中は、甲飛の連中があっという間に自分たちを追い抜いて偉くなっていくでしょう。それに対する嫉妬というんですか、そういう理由でイジメるんです。

 --------粕井さんも予備学生で正規の教育を受けた士官というわけではありませんね。そういう点で、イジメのようなものにあったことはなかったのですか?

 粕井‥私はありません。というのも、最初に配属になった出水海軍航空隊国分分遣隊には中尉以上が6人しかいませんでした。あと、我々、少尉でしょう。海軍兵学校出身者というと、分遣隊長と司令と飛行長ぐらいのものです。分隊長がI人いましたが、予備学生の先輩ですし。だから、兵学校出からのイジメというのは経験していません。

 --------部隊には海軍兵学校、予備学生、予科練など、いろいろな出身の方がいたと思いますが、それぞれ特徴のようなものはありましたか?

 粕井‥兵学校を出た人、特に、大尉以上の我々より格が上という人たちは、やっぱり立派な人が多かったです。下士官、特に出世の遅い下士官の中には、上の言うことをあんまり聞かないで、自分勝手なまねばかりするという乱暴なのがいました。甲飛出身の下士官教員に私は会っていません。私たちの部隊では乙飛出身の人がほとんど、乙飛か丙飛出身でした。

 --------予備学生はどうでしたか?

 粕井‥予備学生は、やはり、娑婆気が抜け切れないというか。その分、仲間意識も強かったです。例えば、飛行機が不時着するでしょう。そして、指揮所に報告するわけですが、指揮所から見ていると、「おい、あいつ知っとるか」、「ああ、知ってる、知ってる」、報告した奴に、「おい、なんで降りたんや」と言うと、「いや、エンジンの調子悪いねん」、「よっしゃ、なら整備に言うとくから、今晩泊まらんか。」となるわけです。「先任将校は誰それやから、ちゃんと挨拶しとけよ」とアドバイスしたり、我々が主計に頼んで宿泊の手続きをしてやるとか。同期生が全国に5000人おりますから。だから、どの航空隊でも10人や15人くらいはいるんです。だから、非常にツーカーで行くんです。ところが、兵学校出の少尉か中尉が降りても、「おい、知ってるか」、「知らんなあ」……。そうなると、その人は、まず、先任将校を探して挨拶しなければいけないし、整備長にきちんと整備のお願いもしなければならない。泊まりとか、いろいろ手続きを自分でお願いしなきゃいかんということで大変なわけです。そういう点、仲間が大勢いるということは、すごく力になります。

 --------国分分遣隊に着任した時、粕井さんはおいくつだったのですか?

 粕井‥20歳です。昭和19年9月、武田少佐という艦爆乗りの方が分遣隊長兼飛行長として着任しました。着任早々、もの凄い剣幕で「こんな、むき出しの兵舎や木造建物は泥の中に埋める!」と言うんです。戦地から帰還したばかりで、アメリカ軍の空襲を経験していますから空襲の対応を訓示したわけです。武田少佐の着任から間もなく、分遣隊は航空隊に昇格して、国分海軍航空隊となりました。武田少佐は副長兼飛行長になり、安田中佐が司令として着任しました。この安田司令という方が、鉄拳制裁、バッターなどの罰直は「もってのほか」という方針でした。分隊長は前田大尉という兵から大尉まで上がった方で、「私は学問がありませんから、分隊士よろしくお願いします」と言って、精神訓話などを任せてくれました。海軍では、祝日などに精神訓話をしなければならない。例えば天長節、今の天皇誕生日です。その時には天長節にふさわしいものを。また、紀元節、建国記念日ですね。その時には、日本の歴史を題材にした話というように、祝日のたびに精神訓話をしなければならない。私は話すことには慣れていたのか、分隊長の代わりに、100人くらいを前に1時間近く精神訓話をやったりしました。そういう経験は非常によかったと思います。

 -------国分航空隊には、教官の数はどれくらいだったのですか?

 粕井‥士官だけで15~16人くらいいたしょうか。他に下士官教員がたくさんいました。

 --------学生の数はどのぐらいでしたか?

 粕井‥私か知っている範囲内で、飛行予科練習生か200人です。

 --------教官I人で何人の練習生を受け持つのですか?

 粕井‥大体、4名ないし5名です。私は単独飛行が遅くなった連中を受け持ってくれと言われ5名受け持ちました。練習生の中には下士官にイジメられて萎縮する者がいるわけです。上空へあがってから操縦悍を抜いて、教官席がある後ろから前の操縦席の頭をどついてみたり、ひどいことする奴がいるんです。そういう下士官教員に習うと萎縮するんです。それを、のびのびと操縦させる習慣づけをしなければいかんと。

 --------国分航空隊の組織を教えていただけませんか?

 粕井‥2つの飛行分隊があって、分隊長がだいたい大尉です。その下に、私のような少尉や中尉の分隊士が何人かいます。それから下士官教員が10人ほどいる。そして練習生か100人ぐらいいて、1個分隊になっているわけです。練習生は班に分かれます。1班で12~13人くらい。班に食卓があって、寝る時には梁と梁の問にハンモックをぶら下げて、そこで寝るという形です。

 --------国分航空隊の教官時代はどのぐらい続いたのですか?

 粕井‥昭和19年7月に着任して、昭和20年1月に特攻隊編成になって……。それから確か、4月まで熊本県の人吉航空隊で特攻訓練やりました。それから四国の観音寺に行きまして、観音寺で4月から7月まで特攻訓練をまたやって、そして、訓練が一応終わりということになって、7月に九州の大分と国分に分かれて特攻出撃配置ということになりました。
編集者
投稿日時: 2013-5-24 7:25
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その8

 ◆海軍士官としての勤務 3

 --------教官時代、最も記憶に残っていることは何ですか?

 粕井‥下士官教員と親しくしながら節度を保ち、なおかつ、どのように彼らを引っ張っていくかということですね。彼らの方が若いですから。私も若かったけど、彼らはもっと若い。中には年長の下士官もいましたけど。

 私の部屋は練習生宿舎の一室でした。普通、士官は士官用の建物にいるのですが、私は士官としてただ一人、練習生宿舎に住んでしました。准士官に進級した飛曹長と同室で、飛行長から、「士官としての心得を教えるように」と頼まれましたが、彼は准士官になって外出の制約がなくなったから毎晩のように外泊するわけです。ですが、私はちゃんとした教育訓練をするなら、自分がキチンとしていなければならないと考えて、2ヶ月ほどまったく外出しませんでした。
 夜に一人でいると、下士官からたまに、「1杯飲みませんか」と誘いが来るんです。彼らは下士官教員室で飲んでいるんですね。3回に1回はお付き合いしないと、やっぱり具合が悪い。それで一緒に飲むと地が出るんです。中には、「後ろから、編隊飛行で噛み付きまっせ」という奴がいる。「それぐらいの度胸あったら、いっぺん噛み付いてみろ」と言い返すわけです。それくらいガンとやらないといけない。大体、絡んでくる奴は進級が遅れている奴ですね。兵長で下士官教員の配置についているけど、なかなか二等飛行兵曹になれんとか、二等兵曹の奴でも他の連中はもう一等飛曹とか上等飛曹になっているとか、そういう奴です。そういう奴には頭からガッンとやらないと。

 それと、やはり、こっちに実力がないといけない。だから、先はどの精神訓話もそうです。それから学科もそう。私か学科を教える時、廊下で講義を聞いているんです。「どんな講義をしよるんや」と。だから、私も絶対にひけをとってはいけないということで、1時間しゃべる時には2時問も3時間も予習して。赤本という軍隊の規則とか軍極秘とか、赤表紙の本があります。

 それは、士官だったら借りられますから、それを借りて、ダーつと読んで。あとは、やはり言行一致ということです。今から考えたら、私もずいぷんと面映いような行動があったと思うんです。一挙手一役足、俺を見習えと。軍人はどうあるべきかと思ったら俺を見ろという気持ちでやったわけです。だから、2ヶ月も外出しなかったんです。先ほどお話した国定少佐とか、三重空隊の五分隊の分隊長しておられた石井分隊長とか、そういう立派な人を見ているでしょう。だから、「ああ、士官というものは、ああでなければならない」という気持ちはものすごく強かったです。
編集者
投稿日時: 2013-5-25 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第8回)・その9

 ◆「赤トンボ」特攻隊の編成  1

 --------国分航空隊時代は日本の敗色が強くなった時期ですが、燃料不足などで、訓練が滞ったりしたのですか?

 粕井‥昭和20年1月、一般的な飛行訓練を続けるには機材も燃料も足りないということで、200人の中から100人だったか……下士官入れて200人に絞ったか、ちょっとあいまいですが、その絞った人数で限られた燃料で集中して特攻が行えるような訓練をせよということで特攻隊編成になりました。特攻配置以外になった連中は、すべて搭乗員配置から外されて各基地の穴掘りとか、そんな仕事に従事しました。

 --------その特攻隊編成の命令で、特攻がはじめて身近なものになったのですか?

 粕井‥そうです。それまで、いろいろと聞いてはいました。関行男大尉が亡くなったり、その前後に何機か特攻出撃があったということは聞いていましたが……。普通は、相当、練度が上がっている実施部隊の中で特攻に行けですよね。ところが、我々の場合は訓練効果を上げるために、選別した連中に対して、集中して特攻訓練を行うということです。それが昭和20年1月に始まったわけです。

 --------特攻隊編成の命令を受けた後のことを教えてください。

 粕井‥私は、その前に内示を受けて、練習生100名の中から25名を選べと。操縦技術優秀で、なおかつ長男でない次男、三男で、いつ特攻で戦死しても家系が絶えない人を選べと言われました。

 N--------粕井さんは、選んだ練習生にどのように伝えたのですか?

 粕井‥まず、候補者を名簿で出して、その後、全員を集合させ、「今から特攻編成を行う」、「メンバーは今から読み上げるから、その者は一歩前へ出ろ」と言いました。だから、本人たちはその時まで知らないですわな。雰囲気として、薄々、わかっていたでしょうけども。名簿に載っていない練習生は搭乗員、搭乗配置から外されましたから、皆、「予科練じゃなしにドタレンや」、「土方のドタレンや」と言いましたね。それから士官は皆、方々の航空部隊へ転勤になりました。それと当時、「空地分離」という管理方法になったんです。「空」というのは搭乗員と航空機を整備する最低限の整備員。それは飛行機と一緒にあちこち行くわけです。「地」というのは、基地の営員です。というのも、今までみたいに空地の要員が一体になって異動することが出来ないわけです。だから、「空」だけは戦局に応じて、あっちこっち迅速に異動できるような体制になったわけです。

 --------特攻隊編成になると、それらしい名前がつけられたのですか?

 粕井‥はい。私たちの場合は、「神風特別攻撃隊・乾竜(けんりゅう)隊」です。一緒に、「坤竜(こんりゅう)隊」も編成されました。「乾坤一擲(けんこんいってき)」から取ったものです。後に国分と大分に分かれた時、「乾竜隊」は国分に、「坤竜隊」は大分に配置されました。

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投稿日時: 2013-5-26 6:32
登録日: 2004-2-3
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特攻インタビュー(第8回)・その10

 ◆「赤トンボ」特攻隊の編成  2

 --------特攻訓練は具体的に、どのような訓練だったのですか?

 粕井‥夜間の離着陸。それから、観音寺の沖合い約10kmのところに円上島という小さな島があるんです。それに向かって編隊で飛んで行って、島の上に到着した時、照明弾を落とすわけです。照明弾が落ちたら島が明るくはっきりと見える。それに向かって突入する訓練です。突入して引き起こして、そのまま基地に戻ってくる。これが基本的な訓練です。だから夜間飛行、それから急降下爆撃、緩降下爆撃、そして夜間の着陸です。

 --------サングラスをかけている写真がありますが、普段、使っていたのですか?

 粕井‥夜間飛行をする場合、出来るだけ視野を良くするために、夜、真っ暗なところで山の稜線を見たりするわけです。普段、昼の明るいところの目に慣れてしまうと、夜間は非常に見えにくいんです。むしろ、昼はあまり日向に当たるなと、明るいところに行く時にはサングラスをかけて、出来るだけ瞳孔を開けないようにしておけと。毎日そういうふうに自覚して訓練すると、なかなか見えなかった夜の山の稜線なんかが、かなり見えるようになります。

 --------特攻訓練には、何かマニュアルとか教本があったのですか?

 粕井‥いや、マニュアルなんかありません。経験の積み重ねです。中練特攻でしょう。赤トンボで特攻するわけですからね。破風張りの赤トンボに果たして爆弾を積めるかどうかというところからですもの。零戦特攻だって250㎏なのに同じ爆弾を積もうというんですから。私は体重が軽い方ですから、「軽いお前が乗れ」というわけに連れて行った練習生は、まだ40~50時間しか乗っていないから練度が低くて、失速したり、機体の姿勢が判らなくなると墜落してしまうわけです。実際、そういう事故が何回も起きました。それで、操縦席の前と横の二方向から操縦悍にフックをかけて、操縦悍を中正に固定するわけです。練習機は安定した飛行が出来るように設計されています。機体が少々、変な姿勢で飛行してもエンジンの動きが正常で、舵も中正の位置にあれば何百mか落下しますけど、そのうち水平飛行に戻ってくれます。だから、高度さえ十分にあれば失速などで墜落することはなくなったわけです。沖縄への長距離飛行では全機にこの装置をつけようとか、途中の南西諸島の島々に誘導橙を設置しようとか、そんな幼稚とも言えない原始的なアイデアも浮かびました。

 --------練習機に爆弾を積んで飛行するというのは思ったより天変だったのですね。

 粕井‥そうですね。九三式中練はスロットルレバーが 0 から10まであります。6か7ぐらいでスピードがついて上昇して、水平飛行に移る時には3・3か3・5くらいに戻すわけです。ところが、250㎏爆弾を積むと10まで押しても、なかなかスピードが上がらないんです。上がった後、普通の上昇のレベルである5ぐらいまで絞ると、今度は飛行機が沈むんです。普通だったら、どんどん上昇するぐらいまでスロットルレバーを開けておかないと水平飛行が出来ません。旋回する時も背中に重い荷物を持っている感じで、「ヨイショ」という感じになる。元へ戻そうと思っても、なかなか戻らないんです。

 --------爆弾を積んだ状態だと、時速何kmくらい出るものなのですか?

 粕井‥75ノット弱です。75ノットというとキロに直すと140kmですか。
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