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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどってNo.1幼年時代‐昭和20年代
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投稿者 スレッド
sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-17 12:25
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.6東京オリンピックとカラーテレビ
白黒テレビの普及の次は、テレビのカラー化だった。


カラーテレビの普及の契機は、なんといっても、やはり1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックだった。


いまでも、記憶に残るのは、開会式の最後に登場した日本選手団のブレザーのスカーレット(緋色)とズボンの純白との色鮮やかな
コントラストだった。(それは、まさに、日の丸選手団の登場だった!)
もちろん、このテレビの映像は、自宅で見たものではなく、街頭か
どこかの電器店で目にしたものだったと思う。


カラー放送といっても当時は、全面放送ではなく、オリンピックの閉会式は確か、白黒。カラーで放送された競技種目もごく一部の競技にかぎられていた。
もちろん、あの「東洋の魔女」の名で、世界に名を覇した、
バレーボール競技の金メダル獲得の映像は、モノクロだった。


カラーテレビの普及といっても、当初はやはり、白黒テレビに比べ
かなり価格が高いため、ごく少数の富裕層に限られたものだった。それでも、高度成長期の波に乗って、1970年代には日本のすべての家庭のテレビが、カラー化された。
ちなみに、NHK総合テレビの全面カラー化は、
1971年(昭和46年):私が大学を卒業し、サラリーマンとなった年なので、よく覚えている。       (画像は「昭和毎日・昭和のニュース」からお借りしました)
sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-14 10:50
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.5日米宇宙中継とケネディー暗殺事件
テレビニュースの速報性という点で今でも鮮やかに記憶しているのは、ケネディー大統領の暗殺事件の映像だった。
1963年(昭和38年)の11月の日米初のテレビによる宇宙中継の初映像が、なんと「ケネディー大統領がテキサス州ダラスで銃に打たれて死亡したと」いう衝撃的なニュースだった。

丁度、その日は日本では11/23の勤労感謝の休日で、みんながそのニュースに食い入るようにテレビにかじりついていたことを、いまでも思い出す。


「日本放送発達技術小史」によれば、テレビはその前年(1962年:昭和37年)にNHK総合テレビが全日放送となり、受信者は、1000万人の大台に乗ったとのこと。さらに付け加えれば同年のテレビの受信者数は、ラジオのそれを上回り、51%:31%となった。
(画像は、Wikipedhiaより転載しました)
編集者
投稿日時: 2013-2-14 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.4 白黒テレビの普及

 暫くテレビの話を続けよう。テレビの登場はひとつの文化革命と言ってよいだろう。「百聞は一見に如かず」と言うが
見ると聞くとでは、普通、やはり見た方が現実をよく確認できる。高度成長期は、言い換えれば映像文化の到来の時代でもあったのだ。

 それまで、ニュースは、新聞・ラジオで見聞していたものが、目に見える、臨場感のあるニュースがお茶の間で見られるようになったのだ。画期的なマス・メディアが登場したわけだ。

 テレビの登場により社会の娯楽の範囲も広がりを見せたが、それはもっと後のことで、最初はなんといっても、新聞よりもスピード感のあるニュースの世界でのテレビの活躍だった。

 1959年(昭和34年)には、皇太子殿下(今の天皇陛下)の御成婚がテレビで放映され、美智子妃殿下のお美しさに「ミッチー・ブーム」旋風が巻き起こった。
 それほどに、テレビは社会に変化をもたらしたわけだ。

 (皇太子・美智子妃殿下ご成婚の記念切手の画像は郵趣サービス社HPより借用しました【印刷しないでください】)

編集者
投稿日時: 2013-2-14 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.3 白黒テレビの登場

 先般、NHKテレビでテレビ放送開始(1953年:昭和28年)60周年記念番組が放映されたのを、懐かしい想いで観賞された方は多いと思う。

 50年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」として喧伝された。これら3品目は、新しい時代の象徴であり、努力すれば、手の届く夢の商品だった。とりわけ、白黒テレビにはいろいろな思い出がよみがえって来る。

 テレビが発売開始の頃は、当時テレビを買えるのは、村でも一番のお大侭に限られ、大人も子供も夕刻になると、その家敷の、座敷に上げてもらい、みんなで相撲放送を楽しませてもらった記憶がある。

 その10年の内外には、大半の家庭にテレビが普及し始めた。といっても、 貧乏な我が家にテレビが届いたのは、小学校6年の頃だった。それまでなんとか、うちでもテレビが買ってもらえないものかと夢にまで見た。(夢の中に出てきたテレビは、仏壇の中に納まる小さなテレビ:当時はトランジスタ・テレビなどなかったが、それほどに欲しかったのだろう夢のテレビが!)

 当時のテレビの人気番組は、なんと言ってもプロレスだった。力道山と外人レスラーとの迫力ある決闘シーンに、街頭テレビの前で、国民がかたずを飲んで見守り、空手チョップで勝負を決める力道山に、皆が溜飲を下げ、興奮したものだった。

(写真は、tempest丸さんの「なにこれ珍満景」HPより、作者のご了解を得て画像をお借りしました。)

編集者
投稿日時: 2013-2-14 7:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.2 昭和30年代

 昭和戦後史の教科書によれば、1950年代に朝鮮動乱の特需に沸いた日本は、経済は確実に右肩上がりに転じ、1956年(昭和31年):私が小学校の2年生の時:経済白書では「もはや戦後ではない」と明記され、世は神武景気の時代に突入していた。

 とはいっても、未だ庶民の生活は貧しく、一般家庭ではその日暮らしと言ってもよい生活が普通だった。私の家も、戦前こそ、父が
農家の次男坊として独立し、苗木販売業で築いた財産も、戦後の
ハイパーインフレと、過失による火事で、あらかた失って、元の
水飲み百姓に逆戻り。

 小学校の4年生の頃からか、家計を助けるために、朝夕、新聞配達を手伝うようになった。このころから家計に、いくばくかの現金が必要になったような時代への変化を感じた。今までの農村経済からだんだん都市経済に移行しつつあったのだ。

 当時の思い出として忘れられないのは、尾張地方に紡績工場があちこちに進出してきた。大和紡績や、尾西毛織・・・など。工場に併設して其の社宅が有るのだが、工場長・幹部社員の社宅は一般社員のそれより随分、広い敷地に立派な家が建っているなと、新聞を配りながら、それらを、まぶしく眺めたものだった。

(タカのブログより新聞少年のイラストをお借りしました)

sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-9 20:06
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどってNo.1幼年時代‐昭和20年代
 高度成長期と言えば、通常、昭和29年から昭和48年までを指す。

 私の生まれは、昭和24年だから、昭和29年までの5年間のことは良く覚えていない。(愛知県稲沢市生まれ)

 只、小学校に上がる前の年、”小鳩保育園”の何かの行事で、壇上に昇って皆さんの前で、挨拶をしたことと、その前に、本当は、ウンチが漏れそうなのに、生来、小心者の私は、それが言い出せず、壇上に上がってしまい、不思議と気持ちは上がらなかったけど、コロコロウンチを漏らしてしまったことは、良く覚えている。

 小学校に入ったのが、昭和の30年、時はもう成長期の入口だった。
 車が珍しくて、親戚の大工の叔父さんの小型トラックの後ろに、兄貴と二人がカバーの中に隠れて、砂利道を、名古屋まで
乗せてもらったことを、懐かしく思い出す。

 当時は、オートバイが主流で、まだ自動車は、珍しかった。私が生まれた年に、世に出たのが、ダイハツのミゼット三輪自動車で、10歳(1954年)の時に出たのが、4輪トラックのトヨエースだった。

                          (写真は「愛媛県歴史民俗博物館学芸員ブログ」より転載)
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