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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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編集者
投稿日時: 2015-2-12 7:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 54

「埼玉鍬の制作」

 昭和55年になって、お客さんから、農道具の要望が多くなり、店に農具が並ぶようになりました。

 中でも、鍬がよく売れるようになり、本格的に鍬の制作に取り掛かりました。
 羽生の農地は、原始利根(会の川)と1600年代に利根川東遷事業で出来た現在の利根川に囲われた砂目土と本つちの平坦な地形地質の成り立ちです。
 そうした土質から、平鍬と云われる、平らな形状にしゃくり、と反りをつけた鍬が昔から使われておりました。

 その鍬にも、形状に異なりがあって、昔から使われていた、はめ込み式の本鍬、大正時代に鍛冶屋の間で造られた大正鍬、昭和になって、菖蒲町(今の久喜市)の鍛冶屋が考案した昭和鍬、そして、熊谷、深谷、鴻巣、の高崎線沿いを中心に使われていた「埼玉鍬」が羽生では農家の人達に使われておりました。

 私は、熊谷の木島さんと鴻巣の石井鍛冶屋さんの鍬を参考に、私が見てもっとも切れる埼玉鍬を当店の推奨として、羽生に広めることにしました。























編集者
投稿日時: 2014-9-4 6:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 53
 

「バブルに向かう中で」

 羽生の縫製業は当時、東日本一と云われていた、ある日、お客さんが来て、「被服やも、あと10年過ぎには、駄目になるよ」と云ったと下請けの旦那が私に言った。

 私もすぐには受け止めなかったが、羽生の縫製業の歴史をひもどいてみると、高度経済成長の昭和30年代ごろから、東北から、ミシンの女工さんを受け入れていた反面、羽生より、東北へ工場を作った方が、安い賃金で使えるというのが被服やの経営者たちの考えでした。そして、昭和40年頃には、少しずつ日本経済の成長の波に乗って、工賃も、徐々に上がり始めました。東北へ工場を作る動き、羽生から故郷へ帰った技術を身につけた女工さんを指導者にして現地で人を集めて製造をはじめました。当時は羽生の被服やさんも、儲かって笑いがとまらなかったのではないかと思います。

 しかし、オイルショックを境に業界の物流は、商社の力で韓国の繊維製品が、日本のスーパー、問屋を通じて、衣料品店に並ぶようになりました。韓国製品と、「日本製品の品質か、韓国製品の価格か」の競争が始まりました。

 高度経済成長期に働く職場の広がった女性。年々日本の女性はミシン掛けを嫌うようになり、若い働き手の少なくなってきた業界は、国内生産から、安い外国生産に比重が掛けられていきました。
 安い外国製品に押され、日本の女性も低賃金の被服業界離れが始まり、若い縫子さんの集まらない時代が目に見えるようになりました。とはいっても、中高年のベテランが多い業界でありましたので、まだ、元気といえば元気といえる羽生の被服業界でした。
 ですから、私の所で扱っている、ハサミ関係は販売と修理においては、まだまだ、需要がありました。

 ところが、私に、「被服やも、あと10年過ぎれば駄目になる」と云ったお客さんの先見の明が当たる時がやって来るとは、昭和54年の時点では私にも読めませんでした。

 やがて来る、バブル崩壊、中国への工場進出が待ち構えているとは。・・・  
編集者
投稿日時: 2014-8-8 6:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 52

 (営業の失敗を生かして)

 
 実用新案の販路開拓の難しさを経験して、本田刃物店が羽生の鍛冶屋として、根を張るには、本田刃物店の、名前と場所、業務内容を地元に知ってもらうことが先ず必要であることを、知らされました。それにはどうするか?、私はチラシを入れることが早道と考えました。私の店は非常に分かりずらい、羽生駅から歩いて5分なのですが、鴻巣県道と本町通りの大通りを結ぶ4mの入り道と呼ばれた、狭い通りから、これまた狭い、3,6メートル巾で25メートルも奥に引っ込んだ所のために、お客さんには、非常に分かりずらく、本田刃物店を地元に知ってもらうことに大変苦労しました。ただ、田舎教師のゆかりの寺、建福寺があり、花屋さんと中村眼科、後に東の新入口に富田脳外科クリニック、そして吉沢歯科が出来て、それが救いの目印となりました。駐車も2台以上となると、車の入れ換えでも毎日何度となく苦労させられました。
 それでも、当時は、近くに駐車場がなく、そのような、悪条件で本通りの商店と比べたら、何倍ものハンデを抱えての、商売の日々でした。

 当時の時点で、お客さんに店に来てもらうために可能なことは、切れる刃物を作ること、上手にハサミや庖丁を修理すること、お客さんの無理を聞いてやることでした。

 それでも、本田刃物店の良さが人の口から口へと伝わるには、食品等と違って、息切れするほどの時間がかかり過ぎることで、宣伝の苦労をさせられました。

 外商での経験で知名度と販路がなかったために壁にあたってしまった。条件が悪い中、本田刃物店を知ってもらうための一案としてチラシを新聞折り込みを市内にすることにしたのでした。

 商売にはパンフレット、チラシ宣伝は必要であると昭和54年から、今日においても続けております。これも、二徳万能販売での壁にぶつかった時に教えられたことなのです。・・・

編集者
投稿日時: 2014-7-31 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 51

 大工道具に革命の到来 (鋸、その2)

 替刃式鋸は、玉鳥産業の(レザーソー)が先ず、普及し、つづいて、岡田産業の(Zソー)中屋式鋸と、その他の鋸メーカーも、さまざまの鋸分野に替刃式という、交換するだけで目立て修理を必要としない鋸に構造革命に成功しました。

 鋸鍛冶職人が伝統技術でハガネを2枚重ね打ち鍛造し焼き入れをして、銑で鋸板を薄く引き、歪を取り、目立て職人がヤスリで刃形にすり込み、アサリ槌で刃を右、左と交互に出すアサリ出しをして、仕上げの精密ヤスリで刃を立て、手作業の鋸を完成して来た伝統技術の将来に危機がやってきたのです。そして、先々、鋸鍛冶、目立て職人の仕事は激減し廃業の時代がやって来ることになります。

 羽生の町にも、斎藤鋸店、岩崎鋸店と3軒の目立て修理をする店が当時はありましたが、便利を求める競争社会の中で、鋸製造精密機械の開発によって、千年以上も続いて来た製法の伝統技術が消えて行くのは、寂しいものです。

 手鋸両刃鋸の目立てをする時は、鋸万力、目立てヤスリ、アサリ槌、金床、歪取り槌などを使用します、参考写真を添付します。・・・






















編集者
投稿日時: 2014-7-30 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 50

(大工道具に、革命の到来 その1、鋸)

 私の所では、地元の大工さんの客が50人位いました。開業と同時に、良質の鋸を扱い、目立ても知り合いの、目立て職人歴25年の田尻さんに頼んで取り次ぎをしておりました。

 私も、大内式の半自動目立て機を50万円で買い、ダイヤモンドホイルも揃えて、自分で目立てが出来るように、「アサリ出し」の練習をしながら、短期間で、素人用の鋸くらいは修理が出来るようになりました。本職用は田尻さんに任せ、素人用は、極力自分がやるようにしておりました。

 鋸の修理は、ハサミや庖丁より、はるかに熟練が要することを認識しながら、大工さんに、中屋伊之助作、中屋貞助作、真藤勝雄作などの一流鋸を扱い、大工さんに好評でした。
 しかし、昭和50年代から、鋸鍛冶が作ってきた手打ちの鋸を脅かす替刃式の鋸が世に出るようになりました。

 第二次高度成長とも云うべき、建築産業界にも技術革新の競争が始まったのです。

 三木市の玉鳥産業、岡田金属、三条の中屋などが、目立ての必要がない使い捨ての替刃式鋸を開発して市場に低価格で販売するようになりました。鋸の技術革新は、昭和50年代からバブルの波に乗って急速に加速して行くのでした。・・・

編集者
投稿日時: 2014-7-23 6:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 49

 (初めての外商で学んだこと)

 不調であった、行田での二徳万能販売り込みであったが、諦めず、加須市、館林市の水道工事店をを探しながら、訪問販売を続けました。水道工事店ばかりでなく、土建屋さんにも売り込みを広げてみました。業者の応対はさまざまで、多くが冷ややかで次の所へ次の所へと地図を頼りに歩きました。数か月に亘る、二徳万能の販売数は100丁に満たず、独自の販売では、限界となりました。収支もマイナスの状態であり、ひとまず、休むこととしました。

 しかし、数か月の間に出会って、好意的に評価して買ってくれた水道工事屋さん,土建屋さんとの出会いは、外商の不調を、次のステップのバネにしてくれました。

 館林の水道やさんの中には、仲間を紹介してくれた人が数人おりました。リピーターになってくれた人もおりました。お茶をのみなねぇーと世間話しを交えてお客を顧客にして行くコツなどを教えてくれました。

 当時の加須市、館林市の社長さんには「職人に固執するのではなく、物を買ってもらう商人として大きな人間になれよ」とハッパをかけられたのだろうと今でも感謝しております。

 外商で体験した一期一会の応対は有難い感激、私はこの頃から、技術は技術として「お客さんの笑顔が見える仕事を目指そう」と思うのでした。
編集者
投稿日時: 2014-7-21 8:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 48

 砕石用二徳万能という実用新案商品を作ってしまい、営業の経験のない私が、外商という、訪問販売の道を経験することになった。お客さんに来てもらって、ものを買って貰うことから始めた本田刃物店であります。突然の要望をうけたことが、販路を持たない私にとっては、外へ出て買って貰わなければならないことになってしまいました。

 開業して間もない本田刃物店です。製造も始めたばかりです。修理も、店売りも安定した状態ではありません。そんな中、砕石用二徳万能の販売は、私にとって、プラス面とマイナス面の貴重な経験をさせてくれました。

 販路の開拓を知らない私は、タウンページを広げて、水道工事店をピックアップして、行田市の水道工事店を住宅地図もって、訪問販売のスタートを切りました。営業の顔になっていない私は、固い表情で初めて水道店(太陽冷熱)のドアを開けました。昭和54年のことでありました。行田市では、10軒程の工事店を商品を持ち込み歩いて見ましたが、社長のいる時間帯がお昼休み、夕方5時過ぎでないと、お会いして説明できないことを教えられました。

 留守番の奥さんが親切に、「帰ったら話しておきますからまた来てください」とか、名前は忘れてしまいましたが、「羽生の水道やさんをよく知っているから、具合がいいようだったら電話するからまた来てくれとか」、買いそうな口調で、説明は良くさせてくれたのですが、最後には、「よかんべえ」と・・・結局、行田における始めての外商の成果は、3軒だけでありました。多くの日数と時間を費やしての行田市での外商の成果は3丁です。

 私は、営業の厳しさをまともに受けましたが、昔、通信教育大学講座の勉強をしていた昭和41年頃、世田谷東北沢の「いづみ編集社」で私の恩師、「高瀬兼介先生」が、私に「本田君、なァ、若い君は、これからの人生の先々で苦難にぶちあたるかもしれん。そう断言した方が現実的かもしれん。でもなァ、負けてはならんぞ、いいか自分に負けてはならんぞ」と云って、苦難にぶち当たった時それが全部苦しみだと思ってはならん、苦しみのドラマの中に必ず誠意を表わしてくれる人がいるものだ、そういう出会いがあったら、その誠意に応えるべく精いっぱい頑張れよ・・・」と人生論をしてくれたことを思い出しました。

 そして、私は、あきらめることをせず、二徳万能を加須市、館林の水道工事店に、店の仕事時間を調整して、売り歩くのでした昭和54年春ごろのことです。
編集者
投稿日時: 2014-7-15 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 47

(初めての出張売り込み)

 電気屋の社長のヒントを元に、実験を重ねながら完成した工事用道具を熊谷市の石井弁理士を通じて実用新案をとりました。
 当時、手続き費用含め14万円程要したと記憶しております。

 さて、二徳万能を如何にして販売するかの課題にぶち当たりました。製造することに関してはクリアしましたが、なんといっても、造ったものをどう販売して行くかが、初めての営業経験の私にとっては、寝ても頭から離れない難問題でした。

 対象が水道工事屋さんなので、相談を持ちかけたアイデアマンであり、外交に長けた近所の横須賀電気の社長が羽生市の水道工事組合に口添えして、田口組合長宅で会合があった日に、おじゃまさせて頂き、15名の水道屋さんに説明をさせて頂きました。地元ということもあって、「試しに使ってみるよと」云ってくれたので、羽生市の水道組合においては、定価を9800円に設定しましたが、特別8000円にして30丁程買ってもらいました。

 羽生での初めての売り込みは横須賀社長の計らいでうまく行きました。さあ、これから、隣りの加須や、行田、館林などの水道工事店にどうやって売り込んで行ったらいいのか見通しの見えない、営業未経験である羽生の鍛冶屋の一人ぼっちの手さぐりの売り込みが始まるのでした。・・・

編集者
投稿日時: 2014-7-1 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 46

 野鍛冶への道 その2 (実用新案)

 農道具を造り始めて、まもなくのこと、近所に発明に関心を持つ、電気水道店の社長がおりました。
 オイルショックから5年、日本の産業、経済は再び、多種の産業分野で技術革新による合理化のスピードを上げておりました。

 電気水道店では、テレビのアンテナ取り付け作業を1人で出来るマストキーパーという、取り付け補助具を開発して、実用新案特許を取得して、販売ルートを確保して、全国の電気屋さんに使用してもらうことに、成功しました。
 そして、水道工事をしている電気屋さんが、農道具を造り始めた私のところにきて、困っていることがあるので、相談にのってくれと、新築住宅現場で水道管の配管工事で、狭いところで機械が入らず、作業に時間が掛かって苦労していると、能率向上の道具を作ってくれとのことでした。
 当時の住宅は山を崩した砕石混じりの土で埋め立てをして地盤を固くした上に、住宅を建てるケースが多くありました。そのために、水道屋さんは、狭い場所をツルハシとショベルで深さ40センチ前後、水回りの場所から取り口までの10メートルから20メートルの距離を手掘りをして汗をかかなければならないのが日常でした。
 電気水道店の社長の依頼は、砕石混じりの固くなった地盤を能率アップできる道具を考えてくれとのことでした。
 私も若かったせいか夢中になって、要望に応えられるよう、頭も使い、弁理士さんに頼んで電気水道店の困ったヒントをもらって、ツルハシ作業より速い、写真のような、石も砕く頑固な「二徳万能」と名前をつけて実用新案を取りました。

編集者
投稿日時: 2014-5-28 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 45 つづき

 
 野鍛冶への道 その2




































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