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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     電気通信大学藤沢分校物語
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編集者
投稿日時: 2016-12-29 16:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)7

 敷地の確保

 藤沢市は敷地確保のため①県有地の払下げ、②私有地買収の折衝を進めた。さらに、1943年(昭和18)3月、円滑に土地買収を進めようと「市参事会に買収を委任する」として金子市長は市会に議案上程、買収を加速した。(注1105)

(1)県有地の払下げ

  藤沢市は、1942年(昭和17)10月に県知事宛に協議方の申込みをした。(注1106)

  藤土発第1485号  昭和17年10年13日
   藤沢市長
   神奈川県知事宛
   県有地払下方協議ノ件
   今般本市ニ於イテ別添写ノ通り逓信省ノ依頼二依り官立無線電信講習所ヲ建設スルコトト相成候。就テハ敷地トシテ、左記県有地ノ払下ヲ受ケタク此段及御協議候也


 記

 一、払下ヲ受クベキ県有地ノ所在並地積
   藤沢市鵠沼上鰯5,218番ノ66号地ノ内
   砂防敷地約弐千参百六拾四坪 別紙図面イ号
   藤沢市鶴沼上鰯5,218番ノ66号地ノ内
   砂防敷地約参千五拾弐坪 別紙図面口号
   藤沢市辻堂浜見山7,238番ノ2号地ノ内
   官有砂地約千参百四拾七坪 別紙図面ハ号
   藤沢市辻堂浜見山7,238番ノ2号地ノ内
   官有砂地約四千百弐拾八坪 別紙図面二号
   合計・約10,891坪(*印、筆者加筆)

 一、払下代金
   壱坪当り金八円以内

 一、払下ヲ必要トスル理由
   今般、本市二於テ逓信省ヨリノ依頼二依り同省所管官立無線電信講習所ヲ建設スルコトト相成之ガ敷地約四万坪ノ広大ナル土地ヲ必要トスルヲ以テ其ノ地域内二在ル県有地ヲ該講習所敷地トシテ払下ヲ受ケントスルモノナルニ因ル

   神奈川県は土地払下を承認するとともに一方湘南遊歩道の将来計画に対する留意点を藤沢市に伝えた。

   18庶第242号    昭和18年4月1日
   神奈川県官房長
   藤沢市長殿
   縣有土地売却二間スル件
   今般貴市二對シ藤沢市鵠沼字上鰯5,218番ノ66ノ内及辻堂字浜見山7,238番ノ2の内県有土地一高一千四百三十九坪ヲ売却相成候処右ハ其ノ施設ノ性質二鑑ミ特二売却相成タルモノニ有之候條将来風致、砂防上支障ヲ来サザル様格段ノ御留意相成度依命及通牒候
   (注1107)

   県有地の確保は最終的に11,439坪で、藤沢市の希望する通り土地が払下げられた。

(2)私有地の確保
   私有地の買収にあたり、昭和17年7月、藤沢市は「官立無線電信講習所敷地買収に関わる協議会」(以下買収協議会という)を設け、県有地と並行して買収を進めていた。

 ① 第1回買収協議会‥昭和17年7月24日
   (注1108)
   開催場所‥市役所
   出席者‥合計28名、市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者16名。

  市側の説明
  *買収対象は14名、19,797.28坪である。
  *個人的に種々なる事情があっても買収の変更は困難、先祖伝来の土地に対し同情する。
  *食糧増産に逆行するが止むを得ない。
  *国家のことだから嫌やはない。市役所の立場で努力する。承諾してもらいたい。
  *私有地に関する資料は省略します。
  まとめ
  *替地、価格など出来得る限り考慮するが、要求通りにはいかない。
  *委員会制度で今後は進めたい

 ② 第2回買収協議会‥昭和17年8月14日
   (注1109)
   開催場所‥市役所
   出席者‥市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者9名計21名
  市側の説明
  *逓信省でも位置の選定をした関係上(位置の変更は)お諦め下さるようにして貰いたい。
  *替地関係に原因するようであるが之は別途にして価格の点に付き協議したい。
  参加者意見
  *最近の実例に釣り合った価格に願いたい、此の点は特に市当局に御尽力をお願いしたい。
  まとめ
  *価格は議員を合同して評価する。
  *大部分の意見は替地にあるようだから予定地を選定した上に於いて行う。
  *机上でなく実地について評価したい。

 ③ 第3回買収協議会‥昭和17年8月19日
  (注1110)
   開催場所‥日の出橋と太平橋の中間
   出席者‥合計40名、市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者9名。
   現地評価後、その後の折衝を経て、土地買収が完了した。

(3)敷地
   敷地買収は約参萬壱千坪にのぼった。
   県有地 11,439.23
   私有地 19,797.28
   合 計 31,236.51坪

(4)敷地図
  敷地確保のために計画された官立無線電信講習所敷地図(昭和17年)と13年を経過した藤沢市都市計画基本図(昭和30年)を示す。
  尚、同基本図の黒枠は、比較し易いやすいように筆者が推測して追記したものである。

  詳細は次号以降で述べるが、1955年(昭30)の藤沢市都市計画基本図であるが、1956年(昭聖には旧電気通信大学藤沢分校の木造校舎を改修し、校地7,270坪で藤沢市立湘洋中学校の開校が決定、職員11人をもって開校するのである。(注1113)

  また1960年(昭至11月、全学調布移転統合に伴い、旧学生寮及び食堂(藤沢市鵠沼上鰯5,200)延1,6502㎡が用途廃止され大蔵省に引き継がれた。(注1114)
               (以下次号)

 注1101‥図説ふじさわの歴史(1991)
 注1102‥目黒無線会同窓食詰第8号
 注1103‥ふるさとの思い出写真集 明治・大正・昭和 藤沢(S54)
 注1104‥ふるさと藤沢(2010)
 注1105‥昭和18年議案第三十号 市参事会委任事項の件
 注1106‥昭和17年官立無線電信講習所関係 書類綴りの内「県有地払下方協議ノ件」
 注1107‥十八庶第二四二号「県有土地売却に関する件」
 注1108‥官立無線講習所敷地買収に関する協議会録(昭和17年7月24日)
 注1109‥同右(昭和17年8月14日)
 注1110‥同右(昭和17年8月19日)
 注1111‥昭和17年官立無線電信講習所関係 書類綴りの内「官立無線電信講習所敷地図」
 注1112‥藤沢市役所都市計画基本図縮小図
 注1113‥ウイキペディア「藤沢市立湘洋中学校」
 注1114‥電気通信大学六十年史




編集者
投稿日時: 2016-12-29 16:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)6

 新校舎敷地の下見(注1102)

 目黒無線会同窓合誌(第8号)は「新校舎敷地湘南に選ばる」と題して次のように伝えている。
「昭和17年3月21日大東亜聖戦下の春季皇霊祭のその日、車中一同、祖国の御楯と散華された英霊に、彼岸の御冥福と感謝の誠心を捧げつつ、東京発午前9時50分伊東行きの列車は藤澤駅に到着、途中混雑の為、別々に乗車した同行の人達も藤澤駅で落ち合って挨拶を交歓をするという始末、小田原急行鵠沼行に乗り換へて、4ツ目(原文のママ、2ツ目?)の停留所鵠沼海岸駅で下草、出迎えの富永先輩の案内で一同徒歩視察ということになった。

 昔の海岸村は中々立派な町になって驚かされた。鵠沼の町を横切って、駅より10分程にて、日の出橋の袂に出るが川は北より南に流れている、この川を引地川と謂うらしい。将来この川を利用して鍛錬用のカッターが浮かび海に漕ぎだされることになるそうである。
 水量は相当多いらしいが水深は餘り深く無さそうである。

 川口まで3丁(筆者注、327m)位である。日の出橋の付近より霊峰富士を眺むることが出来る。この辺より見た富士は裾が長く愈々その姿は吾々一同に強い印象を与える。
 日の出橋を渡ると、新校舎の敷地が全面的に展開して、右は道路を(この道路はやがて七間道路に拡張されて辻堂に通ることになると謂う話である)境界にして、一面の左は松林で、松林の入口に一軒、松林の中に文化風の住宅が目下二軒あるが、之の道路を挟んで、参萬坪が実に官立無線電信教習所の鵠沼新敷地なのである。

 右の方に一万五千坪即ち全敷地の半分を寄宿舎用地、教職員住宅地、及び寄宿舎用自給自足或いは生徒鍛練用の田園となる話である。松林の入口より運動場用地となる所を進むに従って、相模湾に寄せる黒潮の囁きが、春の陽を剪(筆者注、切るの意)って聞こえて来る。運動場の予定地を過ぎると、校舎の予定地になるが、校舎の建坪が三千坪と言う事になっている。校内が広いので中に通りが出来て居り永楽通りと書いた道標があった。敷地を南に行くと背の低い松林になるがその向こうが江の島より辻堂へと続くコンクリートの立派な道路(筆者注、湘南遊歩道)になる。道路の下が砂丘状の海岸で、左前方2キロ位のところに江の島が見える。同行者一同、江の島の桟橋の方へこのコンクリートの道路を東に行く、左手一面が敷地で校門を南に面して即ち海岸に向けて建てる様な話であった。
 この敷地より約20分程度で江の島の洗心亭に到着、一同昼食を共にして、この日の敷地下見
分行きを終えた。(中野記)」
 これを読むと1942年(昭和け)の時点で計画のおおよそは生徒に知らされていたかと思える。








編集者
投稿日時: 2016-12-29 16:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)5

 湘南遊歩道の建設(注1101)
                 
 「神奈川県が気候温暖、風光明媚をうたい文句に神奈川県湘南海岸公園計画を立案して、東京の緑地地帯としての湘南の地域開発に取り組んだのは、昭和初期のことである。その構想の中心事業となったのが湘南遊歩道であった。
 この道路は、片瀬龍口寺から大磯町郵便局に至る延長16・7キロで、車道(幅12m)のほかに、乗馬道(幅7.5m)を設け、両側に歩道と植樹帯を設置するという本格的な「逍遥道」であった。
 道路は昭和5年に着工され、昭和11年に相模川の湘南大橋の完成によって全面開通し、海岸地域の開発の動脈として機能していくこととなった。

 さらに神奈川県は昭和9年に湘南海岸一帯の総合的な都市計画を樹立した。計画は①仏都鎌倉を中心とした国際観光都市の建設、②藤沢以西に広がる湘南海岸公園の建設、③大磯丘陵の高麗山公園の建設の3本柱からなっていた。
 藤沢町もこの計画の一環として、都市計画法の適用を受けることとなり、保養都市の保存と観光施設の整備などに力を入れた。昭和11年に至り、4年後のオリンピックの東京開催が決定すると、海岸地帯には外人客目当てのホテルの建設ラッシュとなった。選手村の招致や、湘南遊歩道の舗装、県営プールの建設なども計画され、海岸地帯は開発に湧いたのである。」
 その湘南遊歩道は藤沢分教場に面していた。
編集者
投稿日時: 2015-12-21 8:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)4

 10・4 新宮事業費

 藤沢市史(第6巻)では官立無線講習所の建設に関して次のように記載されている。

 藤沢市が逓信省の要請に応じて、同講習所を鵠沼海岸に建設することを決定したのは昭和17年3月のことであった。逓信省は太平洋戦争勃発度(原文のママ)、陸・海軍における無線通信士の必要が著しく高まったのに鑑み、東京目黒にあった私立無線電信講習所を17年4月から官立に移管し、同時にその移転拡充を図ることにした。新校舎の建設を藤沢市に託したのは恐らく移管前に着工する必要があったからであろう。藤沢市に依頼して建設した施設を逓信省が借上げるという方式をとることにしたのである。敷地買収もふくめて建設費の総額を260万と見積り、藤沢市側はその全額を起債でまかない賃借料をその償還財源とするというのが契約の基本条件であった。(以下省略)(注1005)

 新設費(260万円)の内訳を表1002に示す。
 但し紙数の都合上要約した。(注1006)
 事業規模は敷地面積34000坪に7480坪の建物面積を有する事業であった。本館は木造2階建て1棟、普通教室木造平屋建て3棟、実験室、実習室などを含む特別教室木造平屋建て3棟、その他附属建物群などであった。

 藤沢市は逓信省と緊密な連絡を取りながら、事業達成に向けて、土地の買収をスタートするのであるが、戦雲の状況芳しからず、予算の確定、土地の確保、資材の不足などそれに伴う遅れが生じ、工事を分割して第1期工事とする計画に変更された。(以下次号)

 注1001‥会報V 0l・23・1、・2
 注1002‥電気通信大学60年史
 注1003‥無線同窓会50年史
 注1004‥官立無線電信講習所関係書類綴りの内「校舎等賃貸借要綱」
 注1005‥藤沢市史第6巻
 注1006‥官立無線電信講習所関係書類綴りの内「事業費内訳」
編集者
投稿日時: 2015-12-20 10:05
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)3

 10・3校舎等賃貸借要綱

 昭和17年5月、逓信省は藤沢市と校舎等賃借に関する契約が取交わされた。(注1004)
《別紙要綱》

官立無線電信講習所校舎等賃貸借要綱

一、藤沢市は官立無線電信講習所新設に伴う校舎及その他付属建物を、政府の指示に基き昭和17年度中に新営の上、之を政府に貸与するものとする。

二、官立無線電信講習所敷地買収費及び校舎その他附属建物新営費総額は金貳百六拾萬円とする。

三、官立無線電信講習所賃貸借契約期間 (昭和 年 月 日、工事着手の時)より満一ヶ年とする。但し借入期間満了前に契約当事者双方より解約の通知を為さざるときは、満期の翌日より起算し満一ケ年間、なおその効力を有するものとする。爾後満期の時に於いても亦同じ。

四、政府は毎年度藤沢市に対し年額金拾九萬七千六百圓の借料を支払うものとする。但し本件建設等の全部の完成を見る迄は、その実際使用の建設費に対し同率の金額を支払うものとする

五、官立無線電信講習所敷地及建物に対する諸公課及び共同課出等は藤沢市の負担とすること。

六、政府に於て敷地又は家屋の模様替、増築等を必要とするときは、藤沢市の承諾を得ることを要す

七、敷地又は家屋の模様替、増築、修繕等に必要な経費は政府の負担とすること。

八、政府は一箇月以前に予告の上、土地及建物の全部又は一部を相当価格を以って買収することを得ること。但し全部買収の場合に於ける買収価格は市に於て為したる、官立無線電信講習所新設費債の買収当時に於ける未償還元金相当額以上になること。

九、藤沢市は原価完全償却の上は、施設全部を政府に無償寄付すること。


----------------------------------
電務第273擁 昭和17年5月30日
           電務局長
神奈川県藤沢市長
官立無線電信講習所校舎賃貸借
要綱二関スル伴
    野藤繚発第675擁5・6
右御来照の官立無線電信講習所
校舎等ノ賃貸借ハ別紙要綱二依
り契約ノコトト致度見込ミニ付キ
御諒知相成り度。(以下省略)
-----------------------------------

編集者
投稿日時: 2015-12-19 6:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)2
 10・2官立無線電信講習所の設立に當りて

 中村純一官立無線電信講習所所長は無線電信同窓会に次のように寄稿した。(注1003)

 昭和17年4月1日は我国無線界にとり記念すべき日となった。それは我国に於ける無線通信士の養成を国家が自ら経営することとなり、官立無線電信講習所がこの日を以って関係各方面就中無線通信界の祝福を受けて、新らしき第一歩を踏み出したからである。我が国に於ける無線通信士養成事業の歴史を茲に事新しく説く必要もないのであるが、電信協会が逓信省の慫慂(筆者注ショウヨウ、誘い勧めること)に依り民間関係各方面の協力の下に、群立せる養成施設を総合し、大正7年12月8日を以て所謂社団法人電信協会管理無線電信講習所を創設したのであるが、爾来同協会は全力を挙げて本邦無線通信士の養成に当られ、設備の改善に、学制の改革に、経営上幾多の苦心を傾注し、逓信省亦資格検定の銓衡に、補助金の交付に或は昼夜にも講師の派遣に、真に協会と一身同体となりて無線通信士の養成に尽くしてきたのであるが、支那事変勃発以来無線通信士の需要愈々急迫を告ぐるに至り、養成人員の飛躍的増加を図る必要に迫られ、他面時局下無線通信運用の完璧を期する為無線通信士の質的向上を期する必要が痛感せらるるに至り、関係方面の積極的援助協力の下に官立無線電信講習所の設立を見ることとなったのである。

 茲に我々の忘れてならないことは電信協会が多年苦心経営せられ、内容外観とも真に我が国無線通信士揺藍の殿堂とも謂うべき校舎等施設の一切を無条件に挙げて政府に寄附せられたことで、我々は固より、聞く者をして洵に感に堪えざらしめるものがある。

 私は伝統に輝く官立無線電信講習所の初代所長として教職員の協力を得て、所風の刷新、施設の改善拡充、教育内容の充実、生徒の心身錬成に鋭意努力しつつある。即ち生徒に対しては質実剛健しかも明朗豁達に日々の学業にいそしみ、身体を鍛錬し、規律を重んじ、礼節を尚び所風の高揚に努めしむると共に、至誠奉公の信念に燃ゆる皇国無線通信士として、沈勇克く事に処し、責務完遂の信念に徹せしめる様、錬成に努むる覚悟である。

 講習所としては施設すべき事項頗る多ので、将来逐次実行に移して行きたいと存ずるのである。官立校開設早々より新卒業生が続々と送り出されるのであるが、これらの卒業生に対しては同窓の先輩たる本会々員の懇切なる御指導を願わねばならない。年々共に否、月と共に優秀なる無線通信士を送り出そうと我々教職員一同張り切っていることを諒せられ、同窓先輩諸君に於かれても研讃且精励せられ、新人に対し好模範を示さるる様切に自重を望んでやまない次第である。
編集者
投稿日時: 2015-12-18 6:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)1

 10藤沢分教場の建設

 10・1 官立無線電信講習所開校

 1918年(大7)12月設立の電信協会管理の無線電信講習所は24年の歴史の幕を閉じ、1942年(昭17)4月1日、官立の無線電信講習所として生まれ変わる。中村純一逓信省電務局長は官立無線電信講習所所長(兼務)に就任した。

 移管された4月、初めての新入学生がその門をくぐった。即ち船舶科の高等科並びに普通科の学生各300名、航空機科の高等科生100名、そして陸上科の高等科生及び普通科生各50名ずつ合計800名を迎え入れた訳である。この他に電信局協会管理時代の本科、選科、特科を加えれば1200名を超えていたと思われるのである。このため高等科と本科生は午前8時から午後2時まで普通科の全部、そして選科生と特科生の一部は午後2時30分から午後8時30分までの時間割で施行せざるを得ず、官側からの派遣講師も相当戸惑った筈である。(注1002)


編集者
投稿日時: 2015-12-17 6:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(10)前号まで

(前号まで)

 平成22年、藤沢分教場に関する資料が少ないことに注目した編集委員会の勧めがあり、私は目黒会、大学、藤沢市文書館、鵠沼郷土資料展示室、関係者等に残る資料を掘り起こし、藤沢分校の歴史を蘇らそうと思ったのである。

 大正6年電信協会(明26年組織、若宮正音会長)は安中電機製作所から帝国無線電信講習会を継承経営し「国家のための無線学校を創設する計画」を唱え、公益法人化組織にすることを決め、電気通信大学の前身、社団法人電信協会管理無線電信講習所が認可されて、1918年(大7) 東京麻布区に開設した。電信協会から1942年(昭17)官立無線電信講習所の成立までを述べた。

 無線電信講習所初代所長若宮正音(在任期間、大7~13)及び第2代所長若宮貞夫(同、大13~昭17)のひととなりを再掲する。
 電信協会会長若宮正音は1854年(安政元)岡山県豊岡町に在る西楽寺の若宮正海長男とし
て生まれ本家と僧籍を次弟に譲り、自らは大阪師範学校で学を修め、教員、和歌山新聞編集長
を経て工務部の官吏となり、逓信省大臣秘書官、外信局次長、工務局長を経て1891年(明24)
初代の電務局長となる。電話開設につき渋沢栄一等の民営論と工務部(後の逓信省)の官営論があったが、初代逓信大臣榎本武揚、逓信次官前島密を説いて官営論を実現させ「電信電話線建設条例」を制定、電話事業の生みの親ともいわれている。漢籍や書を愛したが、碁が好きで、秋山好古陸軍大将(坂の上の雲の主人公)や土佐の政客竹内綱(宰相吉田茂の実父)などが訪れた。秋山将軍は馬を玄関前の松につないでおいて囲碁を闘わせられ、吉田茂もよく迎えに来られたという。1924年死去。

 若宮貞夫は1875年(明8)豊岡町若宮正海三男として出生。1899年(明32)東京帝国大学法学部卒業後逓信省に入省、同年正音の養嗣子となる。1922年(大11)逓信次官、1924年退官、同年衆議院議員に当選。1931年陸軍政務次官、1934年(昭9)政友会幹事長、1941年鳩山一郎を中心とした同友会結成に参加。その他衆議院予算委員長、国連協会理事を務めた。1946年(昭21)死去。貞夫の四女正は元高知県知事橋本大二郎の母、貞夫は大二郎の外祖父にあたる。正は元総理大臣橋本龍太郎の義母。
 藤沢市の歴史的、地域的な特質から、江戸時代に辻堂鉄砲場が設置され、その管理には代々江川太郎左衛門家が藤沢宿代官として、民政にあたっていた。明治維新により、辻堂鉄砲場は日本海軍横須賀海軍砲術学校として引き継がれ、近代化を急ぐ日本は藤沢市もまた軍港横須賀との結合を前提に軍事都市としての機能を持たせ、海軍と藤沢市との密接な関係をもたらした。一方満州事変、日支事変、第2次世界大戦と益々広がる戦局は通信を絶対不可欠なものとし、無線従事者の養成が一層急務なこととして認識された。

 1942年(昭17)3月24日、逓信省は無線電信講習所の官立移管を進める一方、藤沢分教場の建設に関し大蔵省、藤沢市と交渉を進めてきた中村純一電務局長は藤沢市長に校舎借入に関する公文書を送った。「時局柄経費の関係を考慮した結果、所要の校舎、寄宿舎等は借入に依るとの方針で、昭和17年度予算に計上し予算の成立を見ましたが、貴市城内に格好の敷地を認めましたので、該地に無線電信講習所を設置したく、以上の事情を御諒察の上、貴市に於いて本件講習所新設に関する校舎、寄宿舎等を新営の上、これを政府に貸与方、御配慮を煩わしたく照会致します」。同年3月26日に大野守衛藤沢市長は、藤沢市会に「官立無線電信講習所新設費起債に関する件」を上程し、可決した。(注1001)


編集者
投稿日時: 2015-7-27 6:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
電気通信大学藤沢分校物語(9) 4
9・4藤沢市内軍事関連施設

 戦時下の藤沢に存在した軍事関係の施設(注97)に関する記載の抜粋である。尚、文中の「横須賀海軍」を「横海」と略した。また筆者は、引用した地図(9-4)に施設の位置を番号で、軍事工場に名称を加筆した。⑪の辻堂兵舎の実際の所在地は、茅ヶ崎市である。

 ①横海施設部藤沢施設事務所
 ②第一海軍燃料廠藤沢分工場
 ③第一海軍衣糧廠辻堂支廠
 ④横海電測学校
 ⑤横海警備隊防空見張所 片瀬・六会
 ⑥横海特別陸戦船隊砲台 片瀬・江ノ島
 ⑦第20連合航空隊司令部
 ⑧第20連合藤澤海軍航空隊
 ⑨横海通信隊六会分遣隊通信隊送信所
 ⑩横須賀海兵団辻堂兵舎
 ⑪横須賀海兵団辻堂演習場

 このうち無線関連の施設は3ヶ所(④⑧⑨)である。またこれらの全ての施設は敗戦とともに消滅、瓦解した。
 ④電測学校‥遅々として進まないレーダー・逆探の開発に対して、その技術研究を推進するために、艦政本部隷下の技術研究所と海軍航空本部隷下の空技庁支庁を統合し、海軍省外局の海軍電波本部が1944年発足した。研究者の拡大と同時に、艦船・地上基地のレーダー技術者の養成を意図し、同年9月1日に開かれた。藤沢には藤沢海軍航空隊が6月に開隊されており、藤沢空との連携が図れると考えた。(注98)
 ⑧藤沢海軍航空隊‥無線兵器(戦闘機電話・電波探信桟)整備員養成を目的として開隊された教育隊で、殆どは開隊前に教える理論が正しいか実験を行ったり、教科書を作ったりして開隊の準備を進めていた士官・下士官である。第一期の入隊は、1944年6月第14期甲種飛行予科練習生の400名、その後最大1万名に及ぶ兵士が練習生として教育を受けている。(注99)
 地図には官立無線電信講習所の名が見える。
 六会送信所、海軍電測学校、藤沢航空隊、無線電信講習所が、揃って1941年(昭19)に開設された事実は海軍と藤沢市との深い関係を示すものである。
 次回は無線電信講習所の建設を中心に述べる。
 (以下次号)

 注91‥藤沢市教育史 通史編 近代
 注92‥図説ふじさわの歴史
 注93‥現在の藤沢
 注94‥演習場チガサキ・ビーチ
 注95‥ウィキぺディア「横須賀海軍砲術学校辻堂演習場」
 注96‥郷土史家大石静雄氏所蔵
 注97‥「戦時下藤沢の軍事施設」
 注98‥ウィキぺディア「海軍電測学校」
 注99‥「藤沢海軍航空隊研究」

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投稿日時: 2015-7-26 5:51
登録日: 2004-2-3
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電気通信大学藤沢分校物語(9)3

 9・3辻堂演習場(昭和期)(注93)

 1911年(明44)、海軍砲術試験場は千葉県方面に移し、辻堂の用地は主として海軍陸戦隊の演習の専用地となった。

 9・3・1射撃場設備要図(注94)

 1942年(昭17)に横須賀海軍砲術学校が作成した「辻堂付近」図のなかの辻堂海岸の「海軍用地」部分を写した「射撃場設備要図」(辻堂茂兵衛資料館蔵)がある。その図に演習に関するさまざまな情報が書き込まれている。(紙数の都合上、詳細は省略する)

 9・3・2演習(新兵教育総仕上げ) (注95)

 ・海軍機関学校(後の海軍工機学校)の生徒も合同で演習に参加した。
 ・辻堂海岸の広大な砂丘を戦場に見立て、紅白に分かれて演習を行う。
 ・攻撃部隊、陣地防御部隊のいずれかとなり、3日間行う。
 ・最初は中隊単位で演習を行う。
 ・白い事業服を着て、斥候の訓練、報告要領の訓練をしながら前進する。
  同時に、相手との駆け引きを展開する。
 ・仕上げは白兵戦(大隊対抗の遭遇戦)となる。
 ・各隊との連携訓練を重ねながら敵に接近し、攻防戦を展開する。
 ・この訓練は空砲を撃つことが許される。
 ・戦機が熟すると「着剣」の号令がかかる。
 ・小銃の先に銃剣を差し、突撃ラッパを合図に敵陣へ突進し、最後に双方が着剣を十字に組合せ、「ウオーッ」と大歓声を上げ、白兵戦を終了する。
 ・最終日は、追撃退却戦を行う。
 ・辻堂から鎌倉まで砂浜を走り、鎌倉市街地を経由して、一挙に駆け抜ける。

 演習写真(9-3)を示す。(注%)

 9・3・3民宿

 ところで演習のために訪れた兵士達は、演習地の北に隣接する辻堂集落(現辻堂元町3丁目付近)に民宿した。明治時代から「民宿」が行なわれていてその後「民宿」は慣習・常態化したため、辻堂の民家の構造は年毎に改造され、田舎には珍しい座敷と浴場を備えるようになり、それなりの経済効果をもたらした。(注93)
 宿泊には一応の費用は払われていたが、それ以上に宿を貸す家々の準備のための出費は大きかったと思われる。なお、兵隊達の食事は烹炊所(ほうすいじょ)に定められた家で作られ、宿泊家の負担にならなかった。辻堂元町の古いお宅には、宿泊した兵隊と家人が並んで撮った記念写真が数多く残されている。(注97)

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