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     大正人の責任。 変蝠林
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2011-6-15 14:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
大正人の責任。 変蝠林
 
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・返信)は、メロウ倶楽部の公開サイト「大正の部屋」への投稿(2008/10/10)を、投稿者またはご家族(含・返信者)のご承諾を得て転載するものです。

----------------------------------------------------------

 大正人のみなさま:

 此の折角の部屋がやや閑散と見受けられます。
明治の父母や日露戦争の勇士に囲まれて育った所為か大東亜戦争の 惨めな惨敗に変な責任を感じてるのでは?

 此処で沈黙して居ては、却って無責任を免れ得ません。
 戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。

 
 資格無しの   変蝠林(1917-)
編集者
投稿日時: 2011-6-15 14:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 千葉の小猿

 大正期の方々へ レス遅くなりましたが

引用:
戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。


 これはぜひ残していただきたい内容です。
 聞いた話ですが「傾斜生産方式」ということで食料とエネルギー(肥料と石炭に)に極めて少ない資源を集中したと聞いています。
 私の年代は昭和30年代半ばからですが「傾斜生産」の延長上にあると思います。
 敗戦処理からこの時代のことは今後もし同じような危機があっても教訓として重要です。
 ぜひお願いします。

編集者
投稿日時: 2011-6-17 8:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 不虻

 千葉の小猿さん

 大正期の不虻ですが、レスが遅くなって済みません。
 
 終戦から昭和24,5年までの日本の大問題は、一千万人の餓死者が出るかもと言われた食糧危機問題とややもすれば超インフレに移行するかも知れないインフレ処理の問題並びにエネルギー、原材料不足でにっちもさっちも行かなくなっている鉱工業生産停滞の問題でした。

 こんな状況下で、有澤広巳・東大教授等の提唱したのが「傾斜生産方式」でした。これによりあらゆる物資の割り当てや資金供給などを石炭、鉄鋼、化学肥料に集中しました。

 当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。

 その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。

 長々と御免なさい。 
編集者
投稿日時: 2011-6-17 8:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 マーチャン

 不虻さん

 引用:
その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。


 
 貴重なお話、ありがとうございました。

 私など、当時まだ小学生で詳しい事情は何もわかりませんでした。
 ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。

 エロア、ガリレオ援助は、有料だったのでしょうか。
 後にアメリカに返済したという話も聞きましたが、その辺が良くわかりません。

 日系人の方のご協力があっていただけたのに、それは公表されていなかったという話も聞きましたが本当だったのでしょうか。

 戦争中の話は分からないことばかりですが、占領下での出来事にも「よく分からないこと」が多いですね。


編集者
投稿日時: 2011-6-18 8:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 Pan

 マーチャン、みなさん、こんにちは。

引用:
ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。


 ガリオア[GARIOA]資金(援助)の事だったと思います。

 『ララ物資』の再縫製に戦争未亡人を雇用する事業を立ち上げた人がありましたが、最初から計画的だった政治家がらみの詐欺師に酷い目に遭いました。

 もう少しその人から具体的な経緯を聞きたかったのですが、亡くなってしまわれました。

 何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。

編集者
投稿日時: 2011-6-18 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 不虻

 マーチャン、Panさん、みなさん   こんばんは。

 「ガリレオ」はPanさんの言われるとおり「ガリオア」の間違いでした。つい書き違えました。申し訳ありませんでした。

 このような資金援助は20億ドルに達したそうですが、これが無かったら、都市生活者の飢餓や鉱工業の再建など出来なかったと思います。

 昭和24年GHQの指示の依って、これら援助資金は日本円に換算され、「対日援助見返り資金」として積み立てられ、復興金融金庫を通じて重要産業の復興資金に貸し付けられました。これらは後に開発銀行融資になりました。

 またこれらの援助資金が日本の対米債務か、贈与かは随分問題になったようですが結局一部を返済することとなり5億ドルほど返済したとのことです。

引用:
何かお金や物が纏まって動くと、必ずそこには黒い物が動きますね。


 そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。


編集者
投稿日時: 2011-6-19 9:06
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 変蝠林

 みなさん 

引用:
そうですね。重要産業の一つであった化学肥料工業も政府育成の効果有り、昭和24年には早くも戦前水準に回復しましたが、反面有名な「昭電事件」を生み出しました。


 詰まらぬ事を思い出しました。
 あの頃、名古屋から東海道線夜行で浜松町下車、大門前の角に在った昭和電工を
 訪れました。

 其の折に、先方社員に鶯谷辺りの赤線宿に連れ込まれ苦しい一夜を過ごしました。
 何の用件だったか記憶せぬのに、嫌な一夜を未だに思い出す変な変な時代でした。

編集者
投稿日時: 2011-6-19 9:10
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 変蝠林

 不虻さん

引用:
当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。


 私が名古屋支店に転勤したのは昭和23年10月でしたが当初は繊維課所属。
 後、食料課、燃料課兼務に転属させられ当時未だ沖取りだった名古屋港には伊勢湾海運を使って良く通いました。石炭課長を兼務した頃には四日市にも社用車で化学工場訪問が増えました。

 エロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入ではマイロ等陸揚げで中川に大分零し泥川にした責任有りです。兎に角夢中の時代でしたね。



 
編集者
投稿日時: 2011-6-20 8:08
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 不虻

 変蝠林さん

 私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に名古屋にいたのですね。

 私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。

 石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。

 当時の名古屋も焼け野原。兎も角大変な、しかし今になれば懐かしい時代でした。

編集者
投稿日時: 2011-6-20 8:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 大正人の責任。 変蝠林

 不虻さん

引用:
私は名古屋に22年から24年2月までいました。3ヶ月ほどは同じ時期に名古屋にいたのですね。


 当初は繊維部でしたから所謂ガチャ万時代、転任早々から丸善地下のキャバレイに連日のアフターファブでした。

引用:
私はその間に名古屋の女性と結婚し、長男が生まれました。22年に赴任したときは商工局の寮に居住していましたが、朝食は甘藷でした、そんな時代でしたね。


 私の寮は新出来町でしたが偶然にも県営住宅に当選、小桜町の二室美宅に・・・・名古屋の結婚は嫁入り道具数車と聞いて、長女の成長を心配してたのですが・・・

引用:
石炭課長もして居られた由。局でも割り当て以上の石炭入手を目論み、管内で生産された日用品をかき集め、それを九州の炭坑に送って、見返りに石炭を管内に送って貰うようなこともやっていました。何か御縁があったかも知れませんね。


 米国よりの石油コークスが主体で東邦瓦斯、揖斐川電工に良く通いました。
 城内の関係官庁は食料庁で三井三菱等と談合宴会の多い時期でありました。

 時効とは居え変な方向に進まぬように此の辺りで
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