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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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編集者
投稿日時: 2014-4-24 6:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 44

 高度経済成長期の応援歌「あぁ上野駅」 

 昭和39年、井沢八郎が唄った「あぁ上野駅」は日本中の人々の心を響かせた。今から50年前に大ヒットした「あぁ上野駅」のことを書き綴るきっかけが起きました。

 昭和39年といえば、東京オリンピックが開催された年でもある。また、私にとっては、富士電機の技能訓練所を卒業して、現場に配属され、配電盤、変圧器、遮断機の製品制作現場に就いた年でもありました。当時の富士電機は、川崎、日野、千葉、松本、四日市、そして吹上と六事業所があり、私が7年間勤務した吹上工場も、当時、従業員は2500人位いて、マグネットスイッチの製造増産で、従業員の募集が掛けられ、県内はもとより、東北地方からの就職者も多く目だっていました。会社では、女子寮を建て、男子には、借り上げ宿舎を用意して、雇用受け入れ体制を整えていました。どこの職場にも、福島、宮城、山形、岩手出身の従業員が機械工場、電気組み立て工場、板金、溶接工場で汗と油にまみれて、頑張っておりました。季節工といって、半年間の契約で近隣や東北から働きに来ていた人も100人位はいた記憶があります。当時は人手不足で、中学卒の若い働き手を金の卵と呼ばれた時代でもありました。東北線に乗って東京に夢を膨らませてやって来た人の数は、高度経済成長期にどれくらいいたのでしょうか、私には数えられないことです。私がいた板金工場は120人程ですが、途中入社の人は3か月の見習い期間を経てから正規雇用になる順序をたどりますがそれらの中には、集団就職で上野について京浜工業地帯の中小会社に就職して、挫折を味わい転々と渡り、吹上工場にたどり着きやっと自分の居場所を見つけたと生き生きと輝いて働いていた人がいたことを思い出しました。



 昭和40年、通信教育大学講座を勉強する機会が出来、月に1度は東京に出かけるようになりました。そして、上野で中学生が行列して上野駅の改札口を通り、広小路口の方へ歩いて行く列を目にしたことがあります。今思えば、3月の終わりの頃とだったので、修学旅行ではなく、あの行列が集団就職で来た東北の中学生だったのだと今にして思うのであります。その時には、井沢八郎の「あぁ上野駅」の唄が毎日のようにテレビから流れておりました。さて、今、何故、50年前のことを書くことになったかということですが、「あぁ上野駅」を作詞した関口義明先生は、羽生市の出身なのです。残念なことに関口先生は平成24年8月72歳で他界されました。そして、平成24年12月、私の知り合い同志が一藤うどん店で、宮崎出身の70歳の森山さんから、羽生生まれの83歳の羽生実業高等学校の関口先生の先輩である長谷川さんに、あんな素晴らしい、詩を作った人を何もしないでいいのかと、火がつけられました。長谷川さんは、よし、羽生市のために役に立つようなことをしょうと固い、熱い闘志が湧いてしまいました。火が付いてしまったからには、もう止まりません。詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建てようという決心となりました。顕彰碑を建てる場所は、利根川昭和橋際、「道の駅はにゅう」となり、国土交通省の管轄する河川法にはまる場所だけに、市の力を借りなければ到底できないことであり、市長の協力と遺族の了解、発起人会の結成、羽生市観光協会、地元自治会、羽実同窓会の協賛、そして、「関口先生を偲ぶ市民の会」を結成し8588名の賛同署名を集め、11名の役員の奉仕と関口先生の奥様から、多額の寄付を頂き、「関口義明先生を偲ぶ顕彰碑建立実行委員会」は、羽生市の商工課が窓口になって、国土交通省利根川上流河川管理局からの許可が僅か申請から20日間で下りました。びっくりする間もなく、電源はソーラー発電の設計でボタンを押すと「あぁ上野駅」の唄が流れる顕彰碑の工事に取り掛かり、その間に著作権許諾の手続き、除幕式の準備、3月30日を目指し、市長、議長、国会議員、県会議員、羽実同窓会長、羽実校長、地元、川俣地区自治会長、前会長、市役所担当部課長、関口先生の地元歌手の後援会、賛同に協力した市民、そして、ゲストとして、あぁ上野駅を唄っている歌手「立花英樹」そして後援会の皆さん総勢二百数十名の出席による盛大な除幕式となりました。

 私が今回、顕彰碑建立に関わったというのは、一生一代の「俺は諦めないと云った84歳の長谷川会長の大決断を成功させることでありました。だから私は終始、役には就かず無役を以って高齢の長谷川会長が最後までやり通せるように補ってやることでした。

 午前8時~午後5時まで、ソーラー発電でボタンを押すと「あぁ上野駅」が順調に流れます。高度経済成長期の思いでが蘇って来るでしょう「道の駅はにゅう」に是非お越し下さい。

編集者
投稿日時: 2014-4-25 9:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 44 その2

 羽生の鍛冶屋 本田 裕 寫眞


   関口義明先生顕彰碑









   関口義明先生顕彰碑除幕式






















編集者
投稿日時: 2014-5-11 6:25
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 44 その3

 顕彰碑建立その後

 道の駅はにゅうに建立された「あぁ上野駅」を作詞した羽生の作詞家関口義明先生の顕彰碑が、東京 朝日 埼玉 読売新聞の埼玉版に掲載され、埼玉の各地から、毎日見学者が訪れるようになりました。

 川口、春日部、さいたま、こうのす、小川など、東北出身という人が目立ちます。建立後、1っヵ月の内で、見学に来た人にどこから来たんだいと聞いてみると「宮城から東京に出て来たんだけど、女房が鴻巣なんで、鴻巣に家を建てたんだ・・・」春日部の人は、井沢八郎の唄を聞きながら、「うちのかあちゃんは、しゅっ、しゅっ、ぽっぽで真っ黒顔で青森から春日部に来て俺につかまっちゃったんだ」と面白、おかしく、話しました。

 また、除幕式にも、その後も何度も顕彰碑の前にたたずむ、見たからに紳士的な方、それも、そのはず上野をめざし50数年前北海道から上京し、東京での生活から、今は加須市に住み、加須市の観光大使として活躍されている、水戸部真正志さんでした。関口先生とも交友を持たれていた尊敬すべき方です。 歌碑の前に来てボタンを押す人は、あとを絶ちません。唄を聞いて涙ぐむ人、何回もボタンを押す人を見ていると、「また押したと、笑いながら」ソーラー、音響機器の調子を調べ、毎日顕彰碑の状態を見に来ている私なのですが、長谷川会長の信念と関口先生の奥様の協力、そして、観光協会の会長でもある河田市長の顕彰碑建立への理解が、部長、課長に難しい国の認可手続きの仕事を頑張らせてくれたといえる。

 今は、50年前、60年前を思い出し、埼玉県内を主に訪れているが、やがて、東京には集団就職で、何十万人はいるであろう上野に来た人に知れ渡るようになると、「道の駅はにゅう」は、新たな観光スポットとして、脚光を浴びることになる日も遠い日ではないだろうと予想する。

 50年60年前の高度経済成長期に故郷を離れ関東地方でまだ元気にしている70歳前後の人達は元より、50代の若い人にも、ボタンを押して井沢八郎が唄う「あぁ上野駅」を聞いてもらい、23歳の頃この歌を作った関口先生が「道の駅はにゅう」から500メートルの利根川土手際で生まれたこと、詩の素晴らしさに感動し羽生にも凄い人がいたんだと感動してもらえたら、先生の奥様、長谷川会長、11人の発起人、地元の川俣、母校の羽生実業高等学校、羽生市にとっても誇りにできる有難い宝物になる。

 今日もどこかのおじさん、おばさんが歌碑の前に立ち、石に刻まれた文字を読み、赤いボタンを押した・・・「どこかに 故郷の 香りを乗せて・・・

編集者
投稿日時: 2014-5-27 7:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 45

 野鍛冶への道 その1

 昭和52年に刃物店を開業して、1年が過ぎ、販売、修理、そして庖丁を造るようになり、鍛冶屋としての本田刃物店が、歩き出しました。コークスは熊谷の「増野石炭店」から、松炭は岩手県水沢市の「馬場商店(当時の社名)」から、一般特殊鋼材は大里村の「熊谷特殊鋼」高級安来鋼は、東上野の「岡安鋼材」木柄は、熊谷市肥塚の「納見木工所」とのつながりが出来て、本格的に鍛冶屋としての、態勢が整いました。そして、庖丁の分野に挑戦していく一方、農道具の製造にも品目を広げて行きました。

 熊谷の「木島鍛冶店」、鴻巣市の「石井農具店」との交友ができ、万能、鍬、鎌、草かき、などの造るところを見せてもらい、富士電機時代、鉄を加工する技術経験が生き、何度か見ただけで、自分にも出来る見通しが立ち、野鍛冶製品制作の挑戦が始まりました。鉄を加工していろいろな形状を制作することは、それほどむずかしいことではありませんでした。昭和53年秋からスタートした、野鍛冶への道「羽生の鍛冶屋」奮闘の始まりです。
































編集者
投稿日時: 2014-5-28 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 45 つづき

 
 野鍛冶への道 その2




































編集者
投稿日時: 2014-7-1 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 46

 野鍛冶への道 その2 (実用新案)

 農道具を造り始めて、まもなくのこと、近所に発明に関心を持つ、電気水道店の社長がおりました。
 オイルショックから5年、日本の産業、経済は再び、多種の産業分野で技術革新による合理化のスピードを上げておりました。

 電気水道店では、テレビのアンテナ取り付け作業を1人で出来るマストキーパーという、取り付け補助具を開発して、実用新案特許を取得して、販売ルートを確保して、全国の電気屋さんに使用してもらうことに、成功しました。
 そして、水道工事をしている電気屋さんが、農道具を造り始めた私のところにきて、困っていることがあるので、相談にのってくれと、新築住宅現場で水道管の配管工事で、狭いところで機械が入らず、作業に時間が掛かって苦労していると、能率向上の道具を作ってくれとのことでした。
 当時の住宅は山を崩した砕石混じりの土で埋め立てをして地盤を固くした上に、住宅を建てるケースが多くありました。そのために、水道屋さんは、狭い場所をツルハシとショベルで深さ40センチ前後、水回りの場所から取り口までの10メートルから20メートルの距離を手掘りをして汗をかかなければならないのが日常でした。
 電気水道店の社長の依頼は、砕石混じりの固くなった地盤を能率アップできる道具を考えてくれとのことでした。
 私も若かったせいか夢中になって、要望に応えられるよう、頭も使い、弁理士さんに頼んで電気水道店の困ったヒントをもらって、ツルハシ作業より速い、写真のような、石も砕く頑固な「二徳万能」と名前をつけて実用新案を取りました。

編集者
投稿日時: 2014-7-15 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 47

(初めての出張売り込み)

 電気屋の社長のヒントを元に、実験を重ねながら完成した工事用道具を熊谷市の石井弁理士を通じて実用新案をとりました。
 当時、手続き費用含め14万円程要したと記憶しております。

 さて、二徳万能を如何にして販売するかの課題にぶち当たりました。製造することに関してはクリアしましたが、なんといっても、造ったものをどう販売して行くかが、初めての営業経験の私にとっては、寝ても頭から離れない難問題でした。

 対象が水道工事屋さんなので、相談を持ちかけたアイデアマンであり、外交に長けた近所の横須賀電気の社長が羽生市の水道工事組合に口添えして、田口組合長宅で会合があった日に、おじゃまさせて頂き、15名の水道屋さんに説明をさせて頂きました。地元ということもあって、「試しに使ってみるよと」云ってくれたので、羽生市の水道組合においては、定価を9800円に設定しましたが、特別8000円にして30丁程買ってもらいました。

 羽生での初めての売り込みは横須賀社長の計らいでうまく行きました。さあ、これから、隣りの加須や、行田、館林などの水道工事店にどうやって売り込んで行ったらいいのか見通しの見えない、営業未経験である羽生の鍛冶屋の一人ぼっちの手さぐりの売り込みが始まるのでした。・・・

編集者
投稿日時: 2014-7-21 8:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 48

 砕石用二徳万能という実用新案商品を作ってしまい、営業の経験のない私が、外商という、訪問販売の道を経験することになった。お客さんに来てもらって、ものを買って貰うことから始めた本田刃物店であります。突然の要望をうけたことが、販路を持たない私にとっては、外へ出て買って貰わなければならないことになってしまいました。

 開業して間もない本田刃物店です。製造も始めたばかりです。修理も、店売りも安定した状態ではありません。そんな中、砕石用二徳万能の販売は、私にとって、プラス面とマイナス面の貴重な経験をさせてくれました。

 販路の開拓を知らない私は、タウンページを広げて、水道工事店をピックアップして、行田市の水道工事店を住宅地図もって、訪問販売のスタートを切りました。営業の顔になっていない私は、固い表情で初めて水道店(太陽冷熱)のドアを開けました。昭和54年のことでありました。行田市では、10軒程の工事店を商品を持ち込み歩いて見ましたが、社長のいる時間帯がお昼休み、夕方5時過ぎでないと、お会いして説明できないことを教えられました。

 留守番の奥さんが親切に、「帰ったら話しておきますからまた来てください」とか、名前は忘れてしまいましたが、「羽生の水道やさんをよく知っているから、具合がいいようだったら電話するからまた来てくれとか」、買いそうな口調で、説明は良くさせてくれたのですが、最後には、「よかんべえ」と・・・結局、行田における始めての外商の成果は、3軒だけでありました。多くの日数と時間を費やしての行田市での外商の成果は3丁です。

 私は、営業の厳しさをまともに受けましたが、昔、通信教育大学講座の勉強をしていた昭和41年頃、世田谷東北沢の「いづみ編集社」で私の恩師、「高瀬兼介先生」が、私に「本田君、なァ、若い君は、これからの人生の先々で苦難にぶちあたるかもしれん。そう断言した方が現実的かもしれん。でもなァ、負けてはならんぞ、いいか自分に負けてはならんぞ」と云って、苦難にぶち当たった時それが全部苦しみだと思ってはならん、苦しみのドラマの中に必ず誠意を表わしてくれる人がいるものだ、そういう出会いがあったら、その誠意に応えるべく精いっぱい頑張れよ・・・」と人生論をしてくれたことを思い出しました。

 そして、私は、あきらめることをせず、二徳万能を加須市、館林の水道工事店に、店の仕事時間を調整して、売り歩くのでした昭和54年春ごろのことです。
編集者
投稿日時: 2014-7-23 6:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 49

 (初めての外商で学んだこと)

 不調であった、行田での二徳万能販売り込みであったが、諦めず、加須市、館林市の水道工事店をを探しながら、訪問販売を続けました。水道工事店ばかりでなく、土建屋さんにも売り込みを広げてみました。業者の応対はさまざまで、多くが冷ややかで次の所へ次の所へと地図を頼りに歩きました。数か月に亘る、二徳万能の販売数は100丁に満たず、独自の販売では、限界となりました。収支もマイナスの状態であり、ひとまず、休むこととしました。

 しかし、数か月の間に出会って、好意的に評価して買ってくれた水道工事屋さん,土建屋さんとの出会いは、外商の不調を、次のステップのバネにしてくれました。

 館林の水道やさんの中には、仲間を紹介してくれた人が数人おりました。リピーターになってくれた人もおりました。お茶をのみなねぇーと世間話しを交えてお客を顧客にして行くコツなどを教えてくれました。

 当時の加須市、館林市の社長さんには「職人に固執するのではなく、物を買ってもらう商人として大きな人間になれよ」とハッパをかけられたのだろうと今でも感謝しております。

 外商で体験した一期一会の応対は有難い感激、私はこの頃から、技術は技術として「お客さんの笑顔が見える仕事を目指そう」と思うのでした。
編集者
投稿日時: 2014-7-30 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 50

(大工道具に、革命の到来 その1、鋸)

 私の所では、地元の大工さんの客が50人位いました。開業と同時に、良質の鋸を扱い、目立ても知り合いの、目立て職人歴25年の田尻さんに頼んで取り次ぎをしておりました。

 私も、大内式の半自動目立て機を50万円で買い、ダイヤモンドホイルも揃えて、自分で目立てが出来るように、「アサリ出し」の練習をしながら、短期間で、素人用の鋸くらいは修理が出来るようになりました。本職用は田尻さんに任せ、素人用は、極力自分がやるようにしておりました。

 鋸の修理は、ハサミや庖丁より、はるかに熟練が要することを認識しながら、大工さんに、中屋伊之助作、中屋貞助作、真藤勝雄作などの一流鋸を扱い、大工さんに好評でした。
 しかし、昭和50年代から、鋸鍛冶が作ってきた手打ちの鋸を脅かす替刃式の鋸が世に出るようになりました。

 第二次高度成長とも云うべき、建築産業界にも技術革新の競争が始まったのです。

 三木市の玉鳥産業、岡田金属、三条の中屋などが、目立ての必要がない使い捨ての替刃式鋸を開発して市場に低価格で販売するようになりました。鋸の技術革新は、昭和50年代からバブルの波に乗って急速に加速して行くのでした。・・・

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