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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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編集者
投稿日時: 2012-4-4 6:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 26 当時の農家は

 町工場で鉄骨建築の仕事経験の中で、農家に出向いての作業が多かったせいか、昭和44年頃の農業面における、機械化による農作業の進歩の様子を見ることが出来ました。経済成長の波に乗って昭和30年代後半頃から農業機械の導入が見られるるようになったと思いますが、40年代になると小型のトラクター、手押しの田植機械、バインダー、が稲作に導入され、何処の農家も労働力を人力から機械力へと変えて行きました。農機具メーカーは、新型機械の開発販売に拡大を計り、手押し機械から乗用型機械へと普及を進めて行きました。農家で鉄骨の作業場を作っていると、農協の職員、農機具店が、よく、農家に出入りしていたことが、記憶に残っております。

 楽をして米を作りたいという農家の思い、おいて行かれたくないという心理に、農機具メーカーは次々と新型タイプの機械を開発して、日本の農法を変えて行きました。

 当時、高度成長期において、日本の農業は規制に守られながら、農業外収入の増加で、だんだん豊かになった農家が多くなった時代でもありました。

 中規模的農家は、広い屋敷、新築された入母屋造り、三波石で造られた庭、鉄骨の納屋、車庫、軽トラ、ホンダのカブ号、スクーター、乗用車2台、等が昭和40年半ばの高度成長の時代に仕事先の農家で見た光景でありました。

 農業から日本の高度成長の姿を描写するのは、力足らずになったと思いますが、次は別な産業の中から、記憶を元に当時のことを記したいと思います。
編集者
投稿日時: 2012-4-7 8:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 27 軽量鉄骨から重量鉄骨へ

 加須市の鉄骨建築会社での軽量鉄骨の加工から施工までの経験を積み、本格的な重量鉄骨を経験するために、昭和45年4月、草加市の個人経営の建設会社に転職しました。総合請負の建設会社で、重量鉄骨加工、鋼材の販売、金属スクラップ回収等をやっている会社です。従業員は20人足らずの会社ですが、元請けのため、土建、大工、板金、スレート、とび職,  電気、水道、排水工事、外壁、サッシ、タイル、左官、など多種の職人を傘下にして、総合的に鉄骨構造を軸とした、工場、倉庫, 店舗ビル、鉄骨住宅、工場内生産設備、等の仕事をしている会社です。

 1500坪程の敷地に事務所、鋼材倉庫、門型、天井クレーン付きの鉄骨加工場、鋼材倉庫の2階は、広い原寸場となっておりました。

 入社してまもなくの6月、社員旅行があり、社長一家、従業員の家族も無料招待の大阪万博見学を兼ねた、二泊三日の社員旅行に行くことになりました。好景気の波に乗って、世間の平均よりも高待遇の会社でありました。

 草加、越谷、川口、浦和、を主な仕事エリアの中で、成長企業の設備拡大で重量鉄骨建築は、てんてこ舞いの忙しさでした。 私は、さまざまな業種の企業の施工現場で日本経済が拡大して行く姿を重量鉄骨建築を通して見ることができました。製鋼所、ビールメーカー、倉庫会社、食品加工会社、皮革加工会社、段ボール会社、製紙会社、部品下請け工場、パチンコ店、などなど、施工現場で多くの経験をして行く機会に恵まれました。

 次回は、記憶にある、出来ごとを記して行きたいと思います。


編集者
投稿日時: 2012-4-26 8:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代

 草加市の建設会社の鉄骨部門には、私よりも経験の長いベテランがおりました。(愛称)海老さんという親方は、20年の経験で、工場長という立場で、重量鉄骨の総合的な知識と技量を備えておりました。私にも親切に、指導してくれたので、助かりました。原寸引きから加工、現場組み立て、施工完了まで、急所急所のおさまりのコツを教えてくれました。おかげで半年で、重量鉄骨の加工から現場施工までを理解できるようになりました。
 じょじょに加工をまかされるようになり、忙しい日々が続きました。昭和45年頃、大量消費時代を迎えた消費拡大の波に乗り、企業は増産のための設備投資が急ピッチで進められました。

 私は、製造ラインの拡張の仕事で、草加、鳩ケ谷、川口、八潮、越谷、などにあった皮革工場、ソース工場、ビール工場、パン工場、製紙工場、印刷工場、鉄筋製鉄工場、鋳物工場、金網工場、などのラインの骨組の制作や補修等の仕事で現場制作をする機会が多くめぐってきました、そんなことで、生産を上げるためのスピードアップの現場を見ながら、高度経済成長の中で、私も、波に乗って仕事をしていたのかと今更ながら思っております。
 消費の拡大は、増産のために工場増設を加速させ、物流、備蓄倉庫を必要とする経済波及効果を生むことになりました。そして、草加、越谷周辺の余裕ある農家の中には、300坪から600坪程の倉庫を建てて貸す人が出て来ました。越谷の農家で倉庫を建てていた時、3時休みに、よく、おせち料理に使うクワイをご馳走になったことが記憶にあります。

 高度経済成長の時代を、今となって思うのですが、昭和40年代は、第一次ものづくり競争の時代ではなかったかと、私は感じております。
 サラリーマンの給与も、毎年1万以上~2万前後のペースで上がり、趣味の分野にも皐月の盆栽が流行り、親方の海老さんを筆頭に、同僚も、私も皐月の盆栽に熱くなり、数万、数十万の、日光や、やたの鏡などの盆栽を求めて、栃木の鹿沼へ休日は、みんなで車を走らせたものです。皐月盆栽ブームは高度経済成長時代の日本人の忙しさの中に湧き起こった好景気の証しの一つとも云えるのではないでしょうか。
sumidagawa60
投稿日時: 2012-5-7 23:40
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代


羽生の鍛冶屋さん、アクセス1万件ヒットおめでとうございます。

済みません、今夜は飲んでますので
折角の昭和の40年代の原稿にコメントができなくて。

おやすみなさい!

編集者
投稿日時: 2012-5-8 6:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 28 第一次ものづくり時代
sumidagawa60さん

 応援、ありがとうございます。

 羽生の鍛冶屋さん、素晴らしいですね。
 
 こういう記録が、日本中のあちこちから、ここに集まればいいな

 と思います。

 これからも、応援、よろしくお願いいたします。
編集者
投稿日時: 2012-5-29 5:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 29 立ち上る煙

 昭和46年頃、当時を見ると高度経済成長の時代であったと云えるのだが、家電産業の成長、自動車産業の成長が著しく目立っていた。国内需要、輸出の拡大に伴い、それらの機器に付随する、プラスチック、ゴム、合板、塗料、等の有機材料の加工産業も並行して、成長して行った。このほか住宅建築の増加に伴い、日本は裾野の広い産業、経済成長の基盤が出来上がったといえる。企業は増産に伴い生産工場の敷地には、加工済みの残材が積まれていた光景を仕事がら、目にすることが多かった。私が勤めていた建設会社は、鉄、非鉄金属の回収もしていたことから、依頼を受けたところの町工場に、鉄屑などを度々引き取りに行った。また、東武鉄道の耐用年数の過ぎたレールや、型式の古い放送機器を内幸町と渋谷のNHKの放送センターにも、2トン、4トントラックで引き取りに何度か行ったことがある。

 日本の技術は進歩を続け、世の中に新製品が続々と出て、高度経済成長は消費社会の中で流行を早めて行った。その結果、増え始めたのが廃材と称する「ごみ」である。私の住む北埼玉にも行き場をなくした建築廃材、タイヤ、建設残土が雑種地等に高く積まれた光景が、あちこちに見られた。

 大きな工場の煙突からは、ボイラーを焚くために重油を燃やし、灰色の煙が上っていた。、今では考えられないことだが、リサイクル産業が整備されていなかった当時は、行き場のない、ごちゃ混ぜの廃材を燃やしているのか? 田んぼの彼方に高く立ち上る、煙の光景が何本も見られたものである。

 昭和40年代、日本の高度経済成長は環境問題を後回しにし、資源を大量に消費して、世界のトップを目指していた時代であったのではないだろうか。
編集者
投稿日時: 2012-7-24 6:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 その30 家電の普及 本田 裕

 昭和30年代の「三種の神器」といえば、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことであるが、昭和40年代になると、カラーテレビ、クーラー、マイカーへと変わって行ったといえる。

 昭和45年勤めていた建設会社の社長宅には、最新の電化製品がありました。エアコン、ステレオ, 電子レンジ、など、一般家庭よりも先取りして、電化製品が普及しておりました。

 従業員は、会社敷地内にある、社長宅にも、度々上がることがあり、最先端を行く文化生活を見せられ、仲間の中には、大型テレビ、応接間に、ステレオを、サイドボードをと、ボーナスの時期になると、昼食の時、電気製品購入の話題で持ちきりでした。

 臨時ボーナスが出るほどだったので、物価上昇が進む中で、仲間の従業員も遅れを取ることなく電化製品に囲まれた文化生活を営んでおりました。ところで、わが家は、昭和45年頃は、ちょっと世間より遅れをとりまして、世間が新型に対して、旧型の電気製品で一応の電化生活を追っかけていたのが、当時のわが家でした。

 残念なのは、わが家で使用していた電気製品等の写真等が残っていないのが残念です。ただ記憶としてあるのが、テレビはソニー、洗濯機はサンヨー、冷蔵庫、はナショナル、であったように思います。クーラー、電子レンジはありませんでした。単純なオーブンでした。掃除機もありませんでした。もっぱらホウキとハタキでした。炬燵は家具調ではなく、単純電気炬燵でした。

 音楽は苦手なのでステレオはなく、電気製品に過剰の金を掛けることなく、まあまあの給料を私は、家の増改築のために、友達との交友のために使い、そして、働いて頂いた給与は先々、自営独立に役立つようにして行こうと微かな決意を描き始めました。

編集者
投稿日時: 2013-1-30 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 その31、社員旅行、南九州へ

 昭和46年、勤めていた建設会社は、高度成長の波に乗って、好景気でありました。社長は従業員には慈悲深い人でありました。利益は、従業員の福利厚生のために、使う社長でありました。ボウリング大会、上野東天紅等への食事会、そして、個人的には、社長が着ていた東京の有名デパートのオーダーのブレザーを何着も頂きました。

 そして、4月には南九州へ社員旅行が企画されました。川崎港から、6千トンのハイビスカス号で、宮崎の日向港へ向かいました。26時間かかりましたが船酔いにもならず、初めての船旅は楽しいものでした。日向に付くと日豊本線で宮崎駅に向かいました。宮崎に着き、バスで宿泊地の青島に向かいました。洗濯板の海岸を見ながら、青島を一回り歩き、当時のジャイアンツの宿泊ホテルの隣りの橘ホテルに到着しました。当時のホテルとしては、レジャーランド風の大ホテルで、部屋を間違うほどの広さでした。宴会と料理、娯楽で十二分に楽しみ、翌日は、バスで、堀切峠、えびの高原、霧島温泉、国分、そして桜島を半周しながら、煙出す桜島の写真をとりながら、観光客がひっ切りなしに立ち寄る、食堂、土産物店、で迷子にならぬよう、鹿児島港への船に乗りました。港に着くと、再び、バスに乗り、西郷隆盛の銅像の立つ観光スポットへ、そして、磯庭園を見学し、物産店によりながら、西鹿児島駅に到着しました。夕方は、駅近くの料亭に行き、旅行最後の贅沢郷土料理、薩摩料理を思い残すことのないように、ご馳走になりました。夜行列車に乗るまでの自由時間を、パチンコ等で楽しみました。

 夜行列車が、西鹿児島駅を出発すると、列車の座席では退屈しのぎに、トランプや花札が始まり、八代や熊本を通過するのを、うつろに聞きながら、目が覚めたころは、博多、博多、の場内アナウンサーの声でした。

 何処で朝食を摂ったのかは記憶になくなりましたが。福岡空港から、初めて乗る飛行機で全日空で羽田へと帰路に着きました。

 高度成長期時代の中、小規模会社ながらも、社長の計らいで、お土産以外は、すべて、会社持ちという、私にとっては、豪華な旅を経験しました。また、この時代は、余裕のある人たちにとっては、海外旅行への始まりでもあったように記憶しております。
 高度経済成長期には、私の住む羽生市でも、社員旅行が、「ハワイ」といった好景気を象徴した、鍛冶屋から転向した農機具メーカーもありました。 

編集者
投稿日時: 2013-2-1 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 32 奮闘記 その1 「開業」

 
 昭和52年、4月10日、私は、刃物販売、刃物研ぎ、農具製造の羽生の鍛冶屋こと「本田刃物店」を開業しました。

 15年間の修行を続けて来た、オイルショック後に、突然の、脚、腰強打による怪我で1年間の入院、人生を大きく狂わさせられることとなった。埼玉医科大の8階の廊下の窓越しで羽生の方角を見ながら、年老いて来たおふくろに申し訳ないことをしてしまったと涙を流した。大きな仕事は出来なくなったけど、自分には、15年間、身に付けた腕がある、駆け足や高所作業は出来なくなったけど、座り仕事でも、両手に技術があれば、いくらでも仕事はできる、「負けたくない」そんな思いで、退院後、1年間、毎日、利根川の土手に行って、リハビリを続けながら、縫製の町羽生で、出来る仕事は何かを考えました。

 住宅街の中で、自分に出来る仕事として、まず、選んだのが、縫製で使う鋏の修理と家庭で使う庖丁の研ぎでした。そして、大工、土建業、鉄骨業の友達らが手弁当で店と作業場を作ってくれました。

 温かい友情に支えられ、そして、当初は、はさみ、庖丁、農具、大工道具、等の仕入れ販売も加え、小さな「本田刃物店」羽生の鍛冶屋はスタートしたのであります。

 次回より、多くの経験をして行く記録を綴る中で、羽生の鍛冶屋の奮闘ぶりを書いて行きたいと思います。

編集者
投稿日時: 2013-2-5 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 33 奮闘記 その2

 開店の日、開店お知らせのチラシを新聞折り込みに1万枚入れました。朝8時に、シャッターを上げると第1号のお客さんは、よく知るところの葬儀屋さんでした。

 当時は、職人であった葬儀屋さんは自分のところで、棺や葬儀道具を作っていました。

 開店、第1号のお客、葬儀屋さんは、高級カンナを2丁お買い上げになりました。1万5千円のカンナ2丁で3万円のところを開店記念3割引きで2万1千円、そして、さらに、千円おまけして、2万円也。これが本田刃物店のはじめての売上金額でした。

 その後、時間が経つに連れ、裁ちバサミ、庖丁、握りバサミ、などを、義理を含めて買いに来てくれた人、住宅街の中を、探しながら来てくれた人が数多くおりました。はじめての経験で、勝手が分からない中、商いの経験のある、おふくろと友人も手伝ってくれて、お客の対応をしてくれました。開店初日は、70人程のお客が、来店してくれました。

 2日目は、お客の数は、半分程度になりましたが、縫製屋さんが多く来て、裁ちバサミや握りバサミをまとめて買ってくれて、初日より売上が多くなりました。ハサミや庖丁の研ぎを持ってくる人も多くなり、開店当時は、販売と修理で頭の中がチンプンカンプンで、空を見上げることのない、毎日でありました。

 開店記念セールの1週間も終わり、それから無我夢中での半年後、本田刃物店が「先祖からの鍛冶屋」の火を再び灯す、切っ掛けとなる日が近づくのであります。
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