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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2010-5-31 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 11 本田 裕

 私は、昭和20年生まれ、
 昭和の初め頃まで、おじいさんは、鍛冶屋でしたが、鍛冶屋を継がなかった勤め人の父の六男として生まれた私は、鍛冶屋とは無縁の家庭環境の中で、戦後の物不足にお袋と買いだしの記憶と共に、羽生の街中にも鍛冶屋の光景を見ながら、街の移り変わりの記憶を忘れることなく、戦後の昭和を育って来ました。

 そうした中で、自称、羽生の鍛冶屋として街から、地域から、鍛冶屋の灯が消えてゆくありさまと業種転業を書き記したいと思います。
 羽生の町にも、戦後、10軒、鍛冶屋が存在しておりました。ふいごで風を送り、真っ赤に燃えたコークスの中に鉄を入れて、くわや鎌を造ったり、リヤカーの部品を修理したり、足袋底を抜く金型を造ったり、陸田に水をくみ上げる、バチカルを造ったり、カンナを造るそれぞれの分野の鍛冶屋と云われる職人が、街中に、在に、件数が減りながらも昭和50年頃までありました。

 しかし、農業、工業、生活文化の変化して行く中で、農機具や、鉄工所、金物店へと業種を変えて行ったのです。羽生に於いて野鍛冶から、農機具の乾燥機メーカーへと躍進して、日本の農業に貢献している会社があることは、後に、北埼玉から野鍛冶がなくなってから鍛冶屋を開業した私としても、その企業を尊敬しております。

 鍛冶屋は時代の流れの中で徐々に灯が消えていくのですが、それは、次回のつづきと致します。
sumidagawa60
投稿日時: 2010-6-1 0:59
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 11 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

お久しぶりですね。段々とお話が佳境に入ってきましたね。

昭和史の中でも、40年代から50年までは、日本は、まさに高度成長の真っ只中にありました。特に40年から45年の間は、”いざなぎ景気”と呼ばれ、43年には、日本は自由世界第2位の国に成長し、農村は近代化の歩みを急速に進め、一気に農業の機械化が多方面で進んだ時代です。トラクターから、もみすり機、乾燥機、田植え機など、次々と今まで人力や畜力に頼っていた、日本の農業も機械化によって農作業が人手を必要としなくなり、農村から都市への人口の大移動が起こった時代でした。
確か、大阪万博も45年に開催され、まるでお伊勢詣のように、団体旅行が流行った時代でもありました。
農協さんの団体が世界を駆け巡ったことも話題になりました。
一般庶民が生活の豊かさを実感する時代でもありました。
今となっては、ほんとに良き時代、夢と希望ののある時代でした。 :
編集者
投稿日時: 2010-6-2 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 12 本田 裕

 四里の道は長かった。で始まる、田山花袋の小説、田舎教師の舞台になった町が羽生であります。

 私の店、羽生の鍛冶屋は、田舎教師の主人公が眠る菩提寺、建福寺山門前にあります。
 昔にさかのぼりますが、戦後間もない羽生の町は、田舎そのものの家並みで、野鍛冶の殆どが住居の土間を仕事場にして、コークスを燃やして、二人作業の人力で、真っ赤な鉄を叩いておりました。

 私のところから、歩いて1分のところには、足袋底を抜く金型を造る鍛冶屋があって、 小学生の頃から、私は、よく、おやじさん達の仕事を興味深く見ておりました。その鍛冶屋さんも、昭和30年頃、別な場所に引っ越し鉄骨屋に転業して、今は、良くできた息子さんが、鉄骨建設業の二代目として、頑張っておられます。

 また、前回、お話しをしましたが、羽生には、野鍛冶から、転業して日本の乾燥機メーカーになった企業がありますが、もう一軒、金物店に転業して、多角的に、自動車部品加工や、ホームセンターを始めたりした商才、豊かな、鍛冶屋さんもおりました。今は、お孫さんが、インターネットを活用して、ペット関連の大きな事業を展開しております。

 世の中の移り変わりを見ながら、仕事をしていた鍛冶屋さんは、転業を決断して、事業として成功して行ったのですが、職人気質のまま、仕事にしがみ付いていた鍛冶屋さんは、機械化の波に圧されて、鍛冶屋の灯を消して行ったのでした。 

 次回は埼玉近隣の鍛冶屋のお話しをしたいと思います。お楽しみに。
編集者
投稿日時: 2010-6-8 7:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 13 本田 裕

 羽生近隣の野鍛冶
 
 戦後の昭和を中心に平成にかけて、羽生市近隣地域で 鍬、草カキ、鎌、万能 等をつくる野鍛冶の様子を語りたいと思います。
 羽生を中心に見渡して見ると、北埼玉郡、北葛飾郡、大里郡、そして、群馬県の邑楽郡、茨城の古河市、にそれぞれの町に3軒~5軒の農作業道具を造る野鍛冶がおりました。
 前にも申しましたが、金物店、鉄工所、農機具店、などに転業して行った野鍛冶があったことをお話しましたが 野鍛冶のまま、平成時代に灯が消えるまで、地域の鍛冶屋として、頑張っておりました。幸手市には手スキを専門に製造していた鍛冶屋、古河市には、手スキ、大正鍬、万能、を周辺の金物店に製造、卸をしていた鍛冶屋がおりました。大里郡の熊谷、妻沼、そして、群馬の千代田町等には、板倉町の雷電神社、大泉町の社日様、妻沼の聖天様等の各地の縁日に農道具を並べて売っていた野鍛冶がおりました。

 私には大先輩であり、後輩の仲で熊谷の2代目木島鍛冶店さんは、万能の伝統的製法が上手で、新聞にも、テレビにも何回も出て、有名になりました。私とは、鍛冶屋の技術の研究の話しでいつも、焼き入れの話では、時間を忘れるほどでした。その木島さんも昨年89歳で体調を崩し、製造の仕事を止めることになりました。
 純粋な、農道具をつくる、野鍛冶は、規模をちじめながら、埼玉界隈には、春日部に1軒、千代田町に1軒、そして私と数軒となりました。日本の各地でも鍛冶屋は激減しており、あと、10年~20年後には文化財的存在になるのではないかと思います。

 次回は日本の刃物の産地における、鍛冶屋事情等について、お話したいと思います。



sumidagawa60
投稿日時: 2010-6-9 14:28
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生近隣の野鍛冶のお話
羽生の鍛冶屋さん

野鍛冶の話、面白かったですよ。

そうなんですね、昔は、どの村や町にも鍛冶屋さんが
居たのですね。農業の道具:鍬や鎌、マンノウや備中;確か
私の田舎では、万能のことを備中と言ってたような記憶があります。愛知県の稲沢ですが、:を造ったり修理をする人が必須だったのでしょう。

私も、水飲み百姓の倅で昭和30年代は、田植えも手植え、新潟の方から助っ人を頼んで、その人たちの食事の世話に、お袋が走り回っていたのを憶えています。もちろん、小学生も労働力でした。

当時は、農林水産業に従事する人が日本の産業の主流で約6割が農業、そのほか林業、水産業。サラリーマンは、まだ、少なく、都会の憧れの職業でした。その第1次産業が、今では、数パーセントとか。日本の食料自給率は、50パーセントをきって、危険水域に入ってる。

もう一度、我が国に農業がよみがえる日が来ることを期待してます。その期待に応えるのが、政治なのでしょう。政治家や官僚の皆さん、お願いしますヨ!

編集者
投稿日時: 2010-7-7 7:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 14

 三条の刃物・1

 三条と云えば金物、金物と云えば三条と云うくらい、新潟県三条は、金物、刃物、工具等の産地として全国の人々に広く知られているところであります。
 日本には、鍛冶職人が伝統を継承している産地があります。 プロ用洋包丁、ステンレスハサミ、庖丁等の産地として岐阜県の関市、 刺身庖丁などの和庖丁の名工職人の居る大阪府堺市、 大工道具、園芸刃物、利器工具等の兵庫県三木市、 小野市は、鎌、握りはさみ等の産地です
 このほか、庖丁、ナイフ、山林刃物等の福井県の武生(越前市)、ナタ、斧、庖丁などの高知県の土佐山田町、 信州鎌の長野県の信濃町古間、 剪定鋏、鎌等の山形市であります。           
 そして、東京は明治15年、ラシャ切鋏の発祥の地であり、吉田弥吉の系図を引く、ハサミ職人が平成になっても伝統を守っておりますが、 昭和50年代までは、名工と云われるハサミ職人が10数社に居て、全国の繊維加工作業者に愛用されておりました。
 このほか、日本には産地形成の中ではなく、単独工場で、刃物等を製造している メーカーが周辺の他県にも数多く存在しております。

 それでは、日本の産地における鍛冶屋事情として、先ず、三条地域から、語りたいと思います。
 私が、昭和52年、「羽生の鍛冶屋」刃物店を開業してから、問屋筋との関係ができ、三条、与板周辺、の鍛冶屋の歴史を学ぶ機会ができました。
 昭和30年代、40年代の成長期も、三条を中核とした、燕、与板、月潟地区においては、鑿、鉋、鋸などの大工道具、食器道具、手工具、建築金物、盆栽刃物、農具、鎌、ハサミ、庖丁・・・と文明の利器が、鍛冶職人や製造作業者によって、日本の殆どの家庭、工場、農家向けに生産され、それを、大小、400社前後の金物問屋の営業マンが全国の金物店に営業に出かけて行ったのであります。
 東京オリンピックを契機に、高度成長時代に向かって、ホームセンターの進出が始まった昭和47年頃から、個人技の鍛冶屋と大量販売に向けての工場機械生産品との販売競争が始まることになるのであります。さて、三条の鍛冶屋さん達はどうなっていくのでしょう。
 つづきは、次回と致します。
sumidagawa60
投稿日時: 2010-7-7 8:43
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 14
おはようございます。

いよいよ、刃物産地の話に入ってきましたね。三条の話、ぜひ続けてください。燕三条は、確か新幹線の駅名ですね。懐かしい思いがします。

小生は、元、旅行業で、世界のあちこちに行きましたが、
刃物の話となると、ドイツではやはり、ゾーリンゲンの町です。
町の名前が”ゾーリンゲン”という世界のブランド名となっているのです。日本のお客さんは、ドイツのお土産というと、何をおいても、ゾーリンゲンの刃物、ハサミなどを空港などでどっさり、買い求めてご満足です。たしかに、物がしっかりしており、小生も、もう40年前に買い求めたゾーリンゲンの爪切りを今でも愛用してます。
そのゾーリンゲンの町に、或る時、農業機械団体の視察旅行で訪れたことがあります。三条の町と同じで、あちこちに、刃物の中小企業の工場が沢山ありました。そこで働いている人たちは結構年配者が多く、日本でいえば職人さんです。ある工場で聞いた話で印象に残っていることは、”マイスター制度”の話です。刃物に限らず、ドイツの産業・技術を支えているのは、Meister:ドイツ語で”親方”といった意味:マイスター制度が伝統産業の底支えとなっている説明を聞いたことです。

日本の産業の再生の鍵は、この辺にあるのではないでしょうか?政権内閣よ、目先のことにとらわれないで、20年先、100年先の日本のあるべき姿をしっかりとらえて、頑張って!若者に夢を!

編集者
投稿日時: 2010-7-11 9:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 15

 三条の刃物・2

 私が、三条、与板の問屋を通じて、鍛冶職人の手打刃物と関係を持つようになったのは商売を始めた昭和50年代のことですが、かんな、のみ、鋸、工具、盆栽はさみ、握りはさみ等を扱うようになって、過去の歴史を知ることになりました。
 江戸を販売先として、金物問屋、鍛冶屋が総意工夫の努力を積み重ねて、三条の金物は明治、大正、昭和に全国へと販路が広がって行ったのですが、その原動力となったのが、鍛冶職人でありました。
 何百年もの続いて来た、三条金物文化の中で、各分野に、名工と云われた鍛冶職人が居りました
 私も、取り扱い商品の中で、大工道具の、大工さんの間で、あこがれの「中屋伊之助」の鋸を扱ったことがあります。また、鉋では、与板の碓氷健吾氏のものを販売しました。
 私は、問屋を通じて、鍛冶職人の最高峰の技を知り、野鍛冶の私に、教科書として、刃物の奥深さを教えてくれたのでした。
 そうした、名工の居た、三条周辺の鍛冶職人の世界にも、一人、二人と鍛冶屋の灯を消す時代が訪れる時が始まるのでした。
 その、鍛冶屋の灯の消し役となるのが、大量消費時代に向けて、大量販売競争に伴ない、手仕事から機械力へと、技術が人間の手から、機械に託され、ホームセンター出現から、価格競争が加速され、海外に技術を移し、低価格商品をもって、さらに、大規模ホームセンターの出現によって、鍛冶職人の手が加わらない電動刃物工具が消費者に選択されてしまったのです。
 消費者が、ホームセンターで買い求めるようになってから、金物店も、三条の問屋も、鍛冶屋も激減してしまいました。伝統技術を継承した匠の刃物工具がこの世から、なくなる日は、そう遠くないでしょう。
 しかし、燕、三条は生産場所を工業団地に移し、大量生産の基地として日本トップの金物産地の地位を守りつづけております。 昭和から平成へと時代が流れて行く中で機械力製造品の飛躍で手づくりの鍛冶職人の商品は、販売競争に敗れたのであります。
 三条には何度か問屋、職人との交流の機会で足を運びましたが、 燕、三条と云う所は、器用な職人が多く、苦境に強く、新しい利器製品を開発する素晴らしい技術集団が生まれる所なのです。
 つぎは、何処の産地を語りましょうか。お楽しみに!
編集者
投稿日時: 2010-7-29 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 16

 播州の刃物 
 
 私が、播州小野市、三木市の刃物と深く関係を持つようになったのは、昭和52年からです、問屋を通じて、播州鎌、握りハサミ、大工道具、を扱うようになり、兵庫県小野市、三木市も訪れるようになり、周辺の鍛冶屋事情を知ることになりました。その中でも昭和40年~50年代の播州の鎌は、日本でも、信州鎌、山形の三九郎鎌、越前鎌と競い、日本一の生産の座を守っておりました。播州の鎌鍛冶は、農家の副業としてやっていた人が多かったのですが、手打ちの鎌を造る職人は年々減る一方で、昭和50年代には数十人いた鎌職人も平成の今日に於いては、プレス抜き物鎌に圧され、鍛造手打ちの鎌職人は、私の知るところでは数人になってしまいました。

 「材質、火造り温度、鍛造、焼き入れ温度、焼き戻し温度時間、角度、反り、刃付け、バランス、等によって決まる鎌の切れ味」これから先、人の手が加わった手打ち鎌を造る鎌職人は、産地以外も含めて、日本全土で、数人になるのではないかと推測されます。

 しかし、播州には一部のメーカーで機械力による、鎌の製造に工夫が見られ、手打鍛造品には届かなくとも、その向上には賞賛するものがあります。

 その他の播州刃物は機械力が進み、科学の力を取り入れて利器工具の進歩には凄い物があります。ただ、海外生産品が増加していることが、心配の種であります。

 私も、羽生の鍛冶屋から、埼玉の鍛冶屋へとエリアを広げ、刃物店、刃物修理を通して、「お客さんの笑顔が見える仕事を目指す」これをモットーに時代のニーズに合せた変身をして行かなければと、64歳の飛躍をしょうとしております。

 つぎは、越前に行くことにしましょう。
編集者
投稿日時: 2010-8-1 8:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕 17

 越前刃物

 越前市には、ナイフビレッジという武生の鍛冶職人の共同作業場がある、公的援助によって出来た作業場は、観光スポットになっており、見学ができ、作品展示場もあって、即売もしている。武生はそれほど大きくない刃物産地であるが、今は、主に生産は工業団地内でナイフ、庖丁、山林刃物等が製造されている、平成になって産地は縮小の傾向にあるが戦後の昭和時代には鍛冶職人も多くいて盛んに鎌などが造られていた。

 武生には、小さな鍛冶屋、問屋が多かったせいか、播州や三条の大問屋が、武生の問屋に売り込んだという、昔からの慣習で、県外産地のメーカーと大問屋が、武生の問屋組合に売り込む時は、問屋達を料亭、旅館に招き、持て成しをして、そのあと、商談に入ったのだと昭和40年、50年頃の慣例取引の話しを問屋から聞かされました。

 武生は眼鏡フレームで有名な鯖江と合併して越前市になりましたが、焼サバのおいしい所で、刃物に関しても、小規模産地になったのですが、佐治武士氏のナイフは有名です。また、2メートルほどの、まぐろ解体庖丁を造る清水制作所は貴重な存在となっております。

 私が、武生へ行ったのは、平成11年のことですが、その後、庖丁類で新しい鋼素材で、挑戦する職人が居て、頼もしいところがあります。

 それに加えて、私の店に昭和60年から、毎月、関東地区を電車を乗り継ぎ、数十軒のお得意回りをして、重いカバンを持って、夜行列車に乗り、夜行列車で武生に帰る問屋の根気強さと経費節約姿勢には、「たいしたもんだ」の褒めことばを贈りたいほどの、営業の基本を見習うところを感じます。 問屋業の厳しさ=小売業の消滅、この現実の中で、技術を身に付けることが出来たことに、感謝の思いで火の鉄に向き合って行きたいと思います。
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