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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     自分誌 鵜川道子
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2009-3-27 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子
 スタッフより

 この投稿につきましては、手書き原稿のテキスト化と掲載について、作者の鵜川道子様のご了承を得ております。

 なお、手書き原稿のテキスト化は、メロウ倶楽部の有志が手分けして行いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 1935年(昭和10年)、私は北朝鮮の地で早産により三ヶ月も早く未熟児としてこの世に誕生した。父も母も結婚して間もなく勤務先の勧めにより朝鮮の地に赴くことになったと云う。父の話によると内地を離れることに不安を感じていたが、母は他国での生活は若いうちにと云った。勇気ある言葉に決断したのだと話したことがあった。
 父母が結婚した昭和四、五年頃のことらしい。
 父も母も静岡県浜松で生まれ、兄弟八人ずつのにぎやかな家庭で育った者同志であった。気候もとても厳しい北朝鮮に移住することはお互いに気持ちが決まるまでは相当な迷いがあったのではと今、思うのである。
 三十八度線《注1》の左上にあたる海州と云う地であった。   
 私が二才位の頃、三才年上の真佐子姉はもうこの世にはなく当然のこと乍ら私の記憶には無いがその話になると母は三年位は涙が止まらなかったと話してくれた。そんなつらい思いの中で未熟児でこの世に出て来た私を育てなければならなかった父母の気持ちはどんなものであっただろうかと考える。

 道子が三才になる前に弟(元幸)が生まれ、また二年後に下の弟(元美)が生まれたのだから父も母もその頃には落ち付いて安定した生活が出来るようになったのではないかと想像する。海州の思い出は今でも私の頭の中に残っている。家の造りや、庭に梨の木があったり、玄関のところが二,三段の階段があったことなどはっきりと覚えている。寒い冬の思い出はオンドルの部屋には、いつも火鉢でおしるこを作ってくれた。厳しい冬の寒さの中での母の思いやりだったのだろう。父は酒も飲まず甘党だったのか、おみやげと云うと生菓子と云って今で云うケーキを買って帰って来たことなどよく覚えている。この様に思い出を書き綴れば何も苦労のない家庭のようだが、幼い私にとって父は大変厳しかった。

 私は生まれた時の未熟児特有の眼病をひきずっていた為か思い出すことは道庁の眼科に小学校に上がるまで通院していた。夜になると泣いたりぐずったりする私の為に仕事で疲れていた父が眠りを邪魔されたのだろう、時々ひどく怒って手足を縛られ押入に入れられることもあり私はあまり父のことは好きになれずにいた。小さい弟達に手がかかるのに今思えば、私が悪かったのだと父母の気持ちになって充分すぎる程わかるのだが・・・・。

 私が小学校に上がる間際になって父の勤務先が変わる事となった。ソウルの市内も市内、三越の裏手に、岡本館と云う共同住宅の一間に移り住むことになった。隣に病院があり門の所になつめの木があって赤い実が落ちる頃、拾って食べた思い出がある。
 一年生になる前にと家族全員で日本に帰り母の実家や父の兄弟の家に行き、私の為に七、五、三の祝いをして写真を撮ってもらった。忘れられない思い出の一つである。今アルバムにはその証拠がある。又その頃動物園に行ったり電車に乗った記憶がある、浜松には大勢のいとこ達が居たので楽しく遊んだ記憶がある。そして京城に戻ったのが、私の国民学校に上がる為の京城の生活だった。

 父は私にランドセルと靴、合羽と傘などを買って来て私を喜ばせた。母は三越で赤いビロードのワンピースを買って入学式に着せてくれたのを忘れることが出来ない。
 学校は南山国民学校であった。大変大きな学校で、屋上に運動場があった。先生は川瀬先生、優しそうな眼鏡の男の先生でした。生まれた時は未熟児だったのに入学時の背の高さは後から二,三番目で机も後の方に並ぶことになった。
 又、こんな思い出がある。先生は図画の時間に何でもよいから絵を描くようにと云われ私は画用紙一杯にチューリップばかりを沢山かいた。それしか書くことが出来なかったのに、先生は大変褒めて下さった。南山国民学校にはわずかな間しか行かなかったにもかかわらず川瀬先生のお名前はこの年になっても忘れ得ぬ人となってしまった。
 南山国民学校に入学したその当日のこと家の近くに中華料理店があって入学祝いに父が家族に中華料理を御馳走してくれた。そんなことは前にも後にも絶対なかったような気がして六十年も経った今でもはっきりと私の脳の中に残っている。そして南山国民学校にはどの位通学したであろうか?ソウルの郊外に新しい家が出来て引越した。公営住宅式の二軒続きの家であった。隣には母親のいない小さな男の子が居て浅野さんの坊ちゃんと呼んでいた。丁度その頃少し離れた所に新しい小学校を建設中で出来上がるまでには期間があり、それ迄は分教場に通学していた。京城の市内に住んでいた時とは違って山を切り開いた町全体が新しい明るい雰囲気に包まれていたが、分教場に通う鷺(ろ)りょう津(しん)の坂は寒い冬では大変であった。
 新しい町と云うのは上道町(今では上道洞)と云っている、京城の市内から西に向かって漢江の河を渡り鷺りょう津の坂上に位置する所であった。小学校一年生の私たちにとっては、かなりの時間を要する通学路であったが、それでも学校は楽しく担任の清原さよ子先生の思い出は現在でも頭の隅に焼き付いている。冬の寒いある日のこと教室のダルマストーブの前で先生がオルガンを弾いている姿、そして和音を言を云い当てるテスト、ドミノ、ドファラ、シレソと云うあれ(傍点あり)である。私は特別に音感がよかったと云うわけではなかったと思うが偶然にもよく云い当てたのだろうか?先生から大変褒めて頂いたのである。それからと云うもの先生の思い出を忘れることはなかったのである。こんなことが子供心のとても嬉しかったのかとなつかしく思うことである。

 江南国民学校の新しい校舎が出来上がって、分教場から立派な校舎へと移った。教室も廊下もピカピカにする為、放課後の清掃の時間は誰云うともなく油紙やロウを持って行って廊下を一生懸命磨いたのである。分教場の不自由な生活真新しい校舎での日々の授業が幼い乍ら本当に嬉しかった思いを心から感謝していたに違いない。そして学校を愛する心が日々に増して行ったあらわれだったに違いない。

注1 38度線=アメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。

写真は投稿者)


編集者
投稿日時: 2009-3-28 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌・2 鵜川道子
 上道町に落ちついた昭和18年の春待望の妹が生まれた。京城で生まれたからと私が名前をつけたのが京子、8才年下色白の可愛い妹の誕生である。
 父の妹がわざわざ信州からお産の手伝いに来てくれて母もどんなに助かったことであろうか 朝、目を覚ますと妹の産声が隣の部屋から聞こえた。私が二年生になる春、上道町の家に引越す。家族が又一人増えたための引越しだったのだ。   

 その頃第二次世界大戦が激化して来たとのニュースは毎日のように、ラジオから流れていたし学校で朝礼の時間に度々話を聞かされていた。しかし日本人多しと云えども他国で割合静かな暮らしをしていた私達はまだまだ何の恐怖心も感じてはいなかったのではないだろうか。庭つき一戸建住宅に近日中に引越しと決まって父の妹(信子叔母)と掃除をする為その家に入ると木の香りや畳のにおいがしていたがその頃黒いカーテンを窓に張って電燈の光がもれない為の作業であると知らされたのだった。
 夜になっても電燈は暗くする様にとかなるべくろうそくを立てて燈りをとることをすすめられていた頃であった。私はそのろうそく立ての板をまともに踏んでしまいしばらくは不自由な思いをして通学したつらい思い出が甦って来た。

 家の前の道路は巾が広く桜の苗木も植えられていたがまだ出来上がったとは云えないほど新しい道路であった。上道町は町全体が全て新しく本当に安全に子供達が走り廻れる安全性はなかったのだが戦争中だと云うのに急ピッチで町づくりが進められていた様な気がする。

 春になり二年生になると高嶋先生と云う女の先生が私達のクラスの担任となった。小学校も徐々に整備されて校庭にもクラス毎に花の苗を植えたりた種を蒔いていた様な時代であった。内地では戦争に参加する出征兵士達が次々と家族や友人、知人に見送られて外地に赴いていた頃、私達家族の住むソウル市外では山にかこまれている為、四季折々の花が咲き自然の中で子供達も幸せ過ぎる程の静かな生活を送っていた時期があった。家の廻りにはレンギョウが沢山咲いていたり、夏にはアカシヤの花が甘い香りを放っていた。今でもこれ等の花を見ると生まれ故郷をより身近かに感じさせて貰えるのである。

三年生になった時の担任の先生は矢沢多寿子先生である。家庭訪問の日先生を自分の家まで案内した時、母と先生はお互いにびっくりして声を上げたのだった。先生の父母と私の父母は以前からの友人だったとのこと、海州に住んでいた頃は家も近くて勤務先が父同士が同じだったとの事、不思議なめぐり合わせだったと話していた。そして私の父も先生のお父様も長野県の古郷(ふるさと)まで一緒で親しくしていた間柄であったと云う。そのせいであろうか先生はいつもやさしくして下さったような気がした。夏休みだったと思うが黒石町(こくせきちょう)の先生のお宅に友達四,五人で遊びに伺った記憶がある。黒石町は江南小学校から割合近くで確か東側に漢江の大きな河の流れが見える場所であった。  

 二年生の時お世話になった高嶋先生は結婚の為か江南小学校から去って行かれる時、クラスの教え子達を漢江の河が見える小高い山に登って当時音楽教本にあった「工場(バ)だ機械だ」を合唱して先生から別れの言葉を聞いた。クラス中で泣いてしまったこと一生忘れられない。別れがこんなにつらいと云うことを教えてくれたのは、きっと高嶋先生が初めてだったのかも知れない。
編集者
投稿日時: 2009-3-29 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・3

 自分誌 3

 母は幼い四人の子供の面倒を見乍ら近くに畑を借りて菜園を作った。勿論韓国は冬などとてもそんなことは出来ない。でも夏になるとキューリやトマト、トーモロコシ、カボチャ、なす等…母の手造りの野菜で助かっていたのではないかと思う。今にして思えば母の実家は浜松の農家であったこともありきっと内地をなつかしんで畑をやっていたのだと思う。
 母はよく鷺(ろ)りょう津(しん)の市場に行って来ると云い往復二,三時間以上もかかる所まで歩いてお使いに行ったりもした。妹は一,二才の頃だったのでしっかりとおんぶして行くのであるが四,五才の気かん坊の弟はいつも私がみることになっていたので家の近くでばかり遊んでいたように思う。その為、友人などとの交流があまりなかったのが少々残念に思われるがそれでも山に行って花をつんだり木登りしたり小川でどじょうを取ったりすることなど楽しい思い出は今でもはっきりと頭に残っている。

 新しい学校の教室では、学校を心から愛する気持ちが旺盛な為か皆でピカピカに磨きをかけていた。が子供にはあまり縁のない戦争の話がだんだん聞かれる様になって来ていた。日本がアメリカやイギリスと戦争をしていると云う話である。 
 父親が仕事先の出張から帰って来る度に話をする様になっていた。学校では軍歌ばかり教える様になり何となく身近かに感じる様になって来て町内会でも子供会でも慰問袋を作ったり慰問団として兵隊さんの宿舎のような建物を尋ねて歌や遊技等をしたこともあったが年令的には未だ十才にも満たない私であったのでどちらかと云えば今で云うイベントと云う位の考えしかなかった様である。 

 しかし昭和二十年の四月となり四年生に進級し矢澤先生から原岡先生に変わった途端教室が足りなくなって又山の上の分校に午前と午後の二部制の授業が行われるようになった。一学期が終わり夏休みに入る前、集団疎開の話があって母は自分の着物をほどいて三組ぐらいの標準服(上衣、モンペ)を作って支度をしたりリュックに入れ出かける用意をし始めていた。私は集団疎開なるものがどんなものなのか知る由もなく、先生や親達ののことを聞いてそれに従ってのことであったが今思えば危機一髪どんな所に行っていたのだろうかと思われてならない。
編集者
投稿日時: 2009-3-30 7:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・4

 八月十五日が私達にとっては親と離れ離れになるのを中止してくれた最良の日であったことは間違いないと確信している。それからと云うもの学校からは何の連絡もなく、それぞれが我、先にと内地へ引揚げたのである。
 上道町からどうやって京城の駅まで親子六人が出かけて行ったのか、父母が家財道具を毎日片付け朝鮮人に手渡し一人一箇の行李(こうり)につめて荷造りし追われるような日々を過ごしつゝ庭に咲いたコスモスやホーズキ、そして黄色の卵のようなナスが玄関前で淋しく私達を送り出してくれた。この家にもう二度と帰って来られないのだからよく見て覚えておきなさいと母が云った。母はどんな気持ちだっただろうかと今更のように思い起こす出来事であった。
 京城の駅からは何と貨物列車にそれもギューギュー詰めの更には列車の屋根にまで人が乗っているのだと聞いた。私はすぐ下の弟(一年生)の手を離してはならないと父母に云われ必死で釜山にたどりついた。
 釜山に着いた時は一時休憩所のような所で用を足して一息ついたのだが子供乍らに忘れられな不潔さに驚いた。母も乳飲み子の妹を背負っていたのだからどんなにつらい思いをしたことかと思う。そして釜山からは小さい舟に乗りどこかの港に着いたのかよくわからなかったが、知らないうちに父の姿はなく母と四人の子供だけになっていた。トイレもないような小舟であったことは子供心にとても不安で我慢の限界に達し母を困らせたあの時のつらさは経験した者でなくては当低(到底)わからないかも知れないだろう。
 それから又大きい船に乗り替えてやっと博多の入港で長野の父の実家までは そんな簡単には帰れなかったのだろう。
 博多で宿を見つけてどれ位滞在していただろうか。母と四人の子供がやっと日本の地に足を下ろしてのだ。母は北朝鮮の寒いと所で十年余り生活する中(うち)に体をこわした上に私達兄弟姉妹を次々出産して随分無理をした揚句の引揚げの大事業だったと思われた。父が途中から居なくなったのを不思議に思い乍らも母にはぐれないようにと二人の弟に気を配り汽車に乗り、本当にながいながい車中の旅でようやく長野の祖父母の許にたどり着いたのであった。
編集者
投稿日時: 2009-3-31 8:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・5

 ソウルにも山はあったが長野の家の近くの山とは全然違っていた。
 祖父母の家にはまだ戦争から帰っていない父の弟と二人の妹が居た。信子叔母は私より十三才年上で朝鮮では一緒に暮らした叔母である。年下の叔母は八才違いの歳だったと今考えると二人は二十三才と十八才であった筈であり人生の一番いい花の時代だったのかとふり返って考えてみる。
 上の叔母は村のお寺に東京から集団疎開で来ていた児童の世話をする保母さんをしていた。下の叔母はあの頃先生の数が足りなくて代用教員として働いていたようだ。父は幾日か後になって帰ってきたので祖父母の家は急に大にぎわいの家となった。
 いつまでも同居しているわけにもいかなくなったのか少し上の部落に牧野という所があって昔からある土蔵を知り合いの方から借りて一時的ではあったが住んだのだが日の当たらない土蔵の中はひんやりして寒いためか家族皆が風邪ばかり引いていた。一家六人の生活は相当苦しかったようだ。父は近所の畑仕事や炭焼きの手伝いに行ったりしていたがそれだけではとてもわずかな収入にしかならなかったようでる。
 母は実家が浜松にあり兄弟達も大勢暮らしていた。母のすぐ下の弟が織物や染色工場を経営していたので反物の行商をしてみてはと勧められてと云っていた。そして仕入れのため汽車で中央線をつきに幾度となく往復し留守を預かるのは私の仕事のようになって行った。反物やお茶そして婦人の雨靴などを仕入れて来ては行商をするようになった。仕入れとは云っても母の弟夫婦に無理を云って金銭面でお世話になっていたようである。あのころの交通機関では浜松を往復するには一日では足りず時間的なロスがあったと思われる。
 信州の冬は日の出も遅く暗いうちに起こされて朝食の支度をして学校にも行かなくてはならないのだった。父に毎朝厳しくたたき起こされる小学校時代であった牧野の土蔵の中の生活はどれ位続いたのだろうか。学校までは徒歩で四十分位の所を班登校した思い出がある。学校は楽しい筈の場所だが引揚者という貧しい生活の為、着る物も充分ではなかったが母が浜松の従姉妹達から貰って来るお下がりの洋服で大変助かっていた。信州の田舎ではセーラー服などを着ている友人も居ない頃に母が持って来てくれたセーラー服を夜なべで直してくれたのを学校へ着て行き皆の注目の的になったこともあった。それが子供心にも自慢に思えて勇気が出たのを覚えている。まだあの頃はクラスの女の子達は着物にモンペとそしてはんてんを着て下駄を穿いて通学していた時代であったから皆んなの目から見れば少々うらやましい思いをさせてしまったようである。母は私達子供四人を精一杯愛してくれたと思う。せっせと浜松通いをし帰って来れば品物を背に行商をして家族の食料を稼いでいた。
 食事を作るのは殆ど私の仕事であり勉強をする時間もない位であった。五右衛門風呂を炊き乍ら炎の明かりで宿題をするのがせめてもの勉強の時間である。この五右衛門風呂は考えて見ると土蔵の家から出て祖父母の同じ屋敷内にあったにわとり小屋を改造して畳の二間の家に移り住んだ時のことだった。庭に造った五右衛門風呂には小さな豆電球が一つだけつけてあった。板の囲いだけしかない半畳ほどの風呂場であった。祖父母の家は国鉄の洗馬(セバ)と云う駅のそばであった為に母の浜松通いも以前とは違い大変楽になったと思う。学校も徒歩で十五分位の所になり私をはじめ弟達も以前よりらくになっていた。
 丁度その頃引揚者にとっては話が持ち上がったとのことであった。山の木を伐採してある土地を開墾すれば三反歩まで自分の土地としてくれることになったと父が話していた。どんなにいい話か知らないが四十才位まで役人のような生活をして来た父がやり通せるかどうかと云う心配が母にはあったと思う。しかし父はその話を受けて立ち上がったのだった。開墾と云うのは誰かに給料を貰うのわけではない。その日その日の収入は一圓だって無いのであるが母も協力する気持ちだったらしい。山に鍬を入れれば赤土と石ばかり、そして大木の切株を一つ一つ根っこから取り除く作業である。父はときどき自分の腕の筋肉を自慢気に見せていたこともあった。山の中腹から下を見下せば蒸気機関車が煙を吐いて走っているのを見て時間を知るのである。そこに唯一人自分との戦いをいどみ毎日黙々と開墾に精を出している父の姿を家族は見ていた。本当に若い頃に経験して来た朝鮮での生活とは全く違う生活がそこにはあった。父も母もお互いに孤独との戦いがあったと今になってはっきりと私自身認識した。
編集者
投稿日時: 2009-4-1 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・6

 五年生の何月であったか父母は私を母の実家に預けた。浜松の海に近い五島小学校であった。半年位であっただろうか?月日のながさはよく覚えていないが、まだ母の実父母や結婚していない叔父叔母そして従姉妹達もいて十人家族の中の生活であった。母の兄弟である弟と妹はとてもやさしくよく勉強をみてくれて大家族の中の一員となった私は淋しさもなく信州での生活を思えば天国と地獄の差とも思える勿体ない生活に切り替っていた。近所の和子ちゃんと庭でまりつきをしたり校庭で日の暮れる迄遊ぶこともあった。
 庭のさくらんぼがたわわに実ったり柿の木には沢山の実がなり秋祭りに叔母と一緒に出かけて村人(むらびと)の余興を楽しんでいる姿(今ではカラオケ)、その中で一曲だけは妙に忘れられない曲がある。叔母がよく口ずさんでいて私にも教えてくれた歌…「落ち葉散る散る山あいの…」である。こんなことを考えているとやはり半年以上はおばあちゃんの家に世話になっていたのだろうか?おばあちゃんと云えば乳母車である。畑で取れたいろいろな野菜を積んで大勢の子供達(母の兄弟や姉妹達である)の家に行くのを仕事のようにしていた。私もよく叔父や叔母の家へ行き、いとこ達と遊ぶことがあった。おばあちゃんは自分の母親の所へも私を連れて行ったことがあった。かやののおばあちゃんと云ってその頃は百三才と云っていたがあれからどれ位生きていたのであろうか!そんなわけで頬かぶりをして乳母車を押していたおばあちゃんの腰ぎんちゃくの私がそこに居た。
 夜は十人でにぎやかな食卓をかこむ。畑で取れたての野菜、そして伯父が釣って来た魚が毎日のように煮魚となって食卓に上がる。夕食後はゆき子叔母(母の一番下の妹)が勉強を教えてくれるのである。そんな生活が続いていたある日突然のように父が来て私を連れて信州へ帰るというのであった。信州の生活は思い出すだけででも私にとってはつらいことであり、それに引き替え、浜松の五島での生活はどんなに楽しいものであったことかと考えていた。私は勿論帰りたくないと云って駄々をこね叔母の勤めていた役場へ行き泣いてトイレに隠れていたのだが父にとっては母の実家にいつまでも私を預けて置くわけにもいかないという気持ちだったのかも知れない。叔母の説得でやはり父の云う通りにする外はなかった。浜松での生活は私の心の中の良き思い出となり一つ一つが甦って来るのである。この経験がなかったら私の少女時代は無味乾燥の時期であったに違いない。
 父と共に信州の地に戻った私はまた同じクラスに入って級友達と何事もなかったかのように馴染むことが出来た。その頃朝鮮から引き揚げてきたという子供が四人になった。男女二人づゝであった。国語の時間に教科書を読まされたとき、アクセントが違うと何度も何度も注意されたりして人前で話すことがつらくなった時期があった。母は授業参観から帰ってくるともっと大勢の友人と話しをするようにと個人的に云われたそうだが無口という言葉を知ったのもこの頃であった。アクセントが違う違うと笑われたことが無口になる原因であったことは自分ではわかっていたのだが先生は私の無口は性格から来ていると見ていたらしい。そんなことがあってか先生は社会科の時間に朝鮮での生活習慣を出来るだけ沢山発表する様にと四人の子供に宿題を出したのだった。私達四人はノートに発表する事柄を書き出して一人づつクラスの皆んなの前で自分たちの生まれ育ったふるさとの様子を話したのである。それからというもの級友達は四人に対する態度が大きく変化したように感じられた。
 そして、その頃の父は山を開墾した端から序々に野菜の種を蒔いたり、りんごや桃の苗を植えて自分の仕事を相変わらず熱心に作り上げていた。母も暑い時も又、寒い時も大きい荷物を背負って行商に精を出していた。私も或る時一度だけ母について奈良井川の橋を渡って一山越えてお客様の家を訪問したことがあった。 母の働きも家族に食べさせる為の必死の思いがあったと思われた。売った商品は必ずしもお金になるわけではなく豆、野菜、小麦粉や米と物々交換になることもある。主に農家を廻るのでそのようなことになるのは仕方のないことだった。 
 ある時はお茶を持って行くとおせんべいになって帰って来ることもある。それは四人の子供に食べさせる為なのである。その頃のおせんべいとは今のものとは違う。トーモロコシの粉で焼いたおせんべいを持って帰るのである。一斗缶に入っているが量はあっても大変軽いのである。小麦粉は夕食の時皆で食べるうどんに変身する。私は学校から帰ると毎日小麦粉をこねてうどんを作るのである。父は毎日うどんやそばを作れと要求する。六人が食べるための量を六年生の私が作るのは大変だと思ったのかどこから買って来たのかうどんを打つ道具を買って来たので私の仕事は楽になって苦痛に思えなくなっていた。お米はなかなか手に入らない時期であったと思う。父は畑を作るために豚や山羊、兎を飼うことを思い付いたようだ。この動物達の糞を利用して堆肥を作りせっせと畑に運んで土を作っていた、その頃は大八車で急な坂道を引張り上げるようにして石コロを拾い木株を根っこから一つ一つ撮るのだから大変な仕事だと子供乍ら感じていた。大雨が降れば畑の真中に川が出来、土まで流されてしまうこともあった。父もこれには本当に困っていたようだが自分で考え乍ら野菜を作り果樹園を造っていた。 
 私や弟は山羊や兎の餌を取りに学校から帰ると大きいビクと鎌を持って草取りに出かけた。野山にはブヨ(虫)が待ちかまえていて人間の肌を刺しに来るのである。一つ刺されただけでも我慢が出来ない程の痒さであるが、よほどおいしいのだろうか?私達の腕も足もブヨの餌食となってそして翌日になるともう膿をもつのである。薬をつけたり包帯でグルグル巻きになって病院通いをする羽目になってつらい思いをした。栄養失調のため体に抵抗力がなくなっているのだと云われた。あの頃は生きるために一家団結していたようである。
編集者
投稿日時: 2009-4-2 8:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・7

 母は行商をやめて我が家に小さい店をつくった。母は毎日重い荷物を持ち運ぶのが少しづつ大変になってしまったのだと思った。浜松の母の弟には大分お世話になったが結局売り食いで仕入れのお金も満足に返済出来ない状態になったとのことであった。が幸い駅に近い場所であった為日銭をわずかでも欲しいと思ったに違いない。そのうち魚やパン、菓子、野菜等を店に並べて売るようになった。 
 母が家に居るということは本当に有り難いことであった。その頃私は体に異常を訴え病院通いが始まったのだった。中学一年の初め頃腎臓と肺浸潤を患って入院した。その後はしばらく学校にも行かれない時期があって思うように家の手伝いも出来ず毎日家族が忙しい思いをしていると云うのに子供乍ら何ともつらい日々を送っていた。母はとても心配して担任の先生には一年休校を願い出ていた様である。一学期は殆んど休んでしまったので秋になって登校した時は英語や数学はもう何も分からず学校が面白くなくなっていたのである。だが担任の永原先生は学校では体育の時間は見ているだけでよい、放課後の清掃も免除として無理をしなくてよいと云う特別な条件で登校を受け入れて下さったのである。頭髪の中や顔にまで出来物が出来て包帯を巻いていたがとうとう毛髪を全部剃り落とし男の子のような姿になってしまったのだった。学校を一年休学すれば卒業も一年遅れるわけだからその時のことを考えればとやっぱり先生は大目に見て下さったのだろうと感謝の気持ちで中学生活を送ることが出来た。
 しかし三年生になると高校受験の話や進路を話し合う機会が多くなり悩みもだんだん深くなって行く。父は女の子だから無理して高校は進学せず家の中の手伝いをした方がいいと強く主張するが母は何としても高校受験だけでもした方がいいと云う。母は若い頃女学校に行きたかったが兄弟が多く親に負担をかけまいと六年間専売局で働いてから女学校に入学した話を私によく聞かせてくれていたのである。
 その為か父と母の意見が異なり、まとまらずにいたが受験だけして、その後決めればいいと気持ちを決めて最後の返事をしたのだった。
 県立高校を受験することにした。心も決まって受験組に入って勉強することで何となく嬉しい気分になっていたのだが卒業式が近づくにつれ父の反対はますます本格化して行き、その中での受験の発表を見た。成績は自分で考えていたよりはずっとよい方向で合格していた。そんな時も父からは「こんなに貧乏しているのにお前が高校など入学したら後に続く弟達もみんな高校に行くと云うことになるだろう、その時はどうする」と云う。母は全く逆の言葉で私の心を支えてくれた。将来のことを考えて高校ぐらいは行かなければ…と父と母の間で私の心はとても悩んだ、そして実力行使をする決意で母から商品を借りて一人で木曾の山村に出かけて行き行商をやってみようと一軒一軒の家庭訪問して一日中歩いた。自分の思いをぶつけてみたが思うように商品は売れずがっかりして、夕方家に帰った。本当に辛い一日であったが母の苦労を痛切に味わった。
 父の云うことを聞いて家の手伝いをしようかとも考えたが、母は「後で後悔する、私が何とかするから高校には行きなさい」とかばってくれたのだった。

 最後まで辛抱出来るだろうかかと悩みつゝ、桔梗ヶ原高等学校に入学、汽車通学をした。中学の頃体が弱かったので少しでも健康になりたいと思う気持ちで課外活動はダンスクラブに入部し夏休みの合宿もやって見た。又クラブの発表会も楽しく忘れ難い思い出の一つとなった。
 体はすっかり元気を取り戻し勉強も男女共学の中で一日も休むことなく一日一日が青春真只中と思えるような空気に包まれる学校生活であったが家に帰ればそんなに楽しいことは一つもなく母と一緒に店の手伝いをしたり炊事の支度、掃除、洗濯や風呂炊きで宿題もまともに出来ない様な忙しさであった。
 父に一言でも逆らったら学校など止めろ勉強など必要ないと顔さえ見れば怒鳴っていた。それでも二年間はそれに耐えていたが、いつも母に対しては可哀想で心が揺れ動いていた。父は面白くないうっぷん晴らしを私に全て向ける様になって時々体罰まで受けることがあった。寒い冬の夜、雪も降っているのに家に入れて貰えず風呂の火を焚く所で一夜を明かしたこともあった。今考えても体中がぶるぶるふるえるようだ。母の姉である伯母がよく木曾の御岳山に登るために来ていた頃、母や私のことを心配して浜松の学校に転校を薦めてくれた。母は毎日の様子をみて心を痛めていたのか伯母の気持ちを受け入れて二年生の三学期が終わった春休みに私の浜松行きを許してくれたのだった。
編集者
投稿日時: 2009-4-3 8:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・8

 その時はこのまま親や弟妹達と一緒に暮らす生活が終わるなんて考えもしなかった。残る後一年間の高校生活を我慢してでも進級したかったのだが父が許してくれなかったのが残念であった。浜松の学校は母が若い頃六才下の人達と学んだ女学校であった。昔と今では名前が変わったが校長は三代目の岡本富郎先生である。県立から私学に転校を願い出たのでなかなか難しかったようであるが伯母と母が必死でお願いして入学を許された。
 西遠女子学園と云った。簡単に入学できないと誰もが考えていた。でも長野の学校に戻る事も出来ないと覚悟していた。母が幼い頃にお世話になった恩師を訪ねて力になって頂いたので四人で面接に行ったのだった。
 校長先生は特別に入学を許可したいがそれには条件があると云われた。それは人と何か違う特技があればとの事、私はこの時咄嗟(とっさ)に「速記が出来ます」と答えていた。「将来速記者になり度いと思って速記を習っています」と口から出た言葉。「その他には?」と聞かれ「ダンスを習っていました」と課外活動の事を伝えた。このまま学校を止めたらどうなるのかと云う切羽詰った気持ちから出た言葉だったかも知れないが思いがけない言葉が口から飛び出したと自分でも本当にびっくりしたのだがそのことで入学が許可されたのであろうか?
 ・・残る一年間は親から離れて伯母の世話になることとなった。そしてこの一年は思い切り勉強をさせて貰ったといつも心の底から感謝して過ごした。伯母には二人の子供があったが男の子は戦死、女の子は結婚適齢期の26才で戦後結核で亡くなったのだった。私も引揚げてきたばかりの頃その従姉妹に一度会ったことがあったのだ。
 伯母は私のことを本当に可愛がって世話をして下さったと思う。高校在学中は授業の他に塾でタイプやソロバンを習って就職の準備もした。卒業後はタイプを生かそうと伯父の世話で浜一織布KK入社したのだが七ヶ月ほど勤務したものの自分の希望とは程遠い会社の雰囲気に負けて退職せざるを得なくなってしまった。
 伯父や伯母に本当に申し訳ないと思いつつ… それから長野の実家に帰った時、父の妹で朝鮮で共に暮らした叔母に逢った。現在は東京で住んでいるとの事だった。浜松の高校を卒業して七ヶ月働いたがと現在の心境を話すと、東京へ出て来ないかと快く誘ってくれたのだ。あの頃の私は東京と聞いただけで夢見る乙女の心境になりあこがれを強く抱くようになってしまった。浜松に帰ってから叔母には本当に申し訳ないと思ったのだが東京へ行き度い気持ちを話した。
 自分ながら恩知らずの姪だと思われるのではないかと覚悟を決めての事だったが叔母は強く反対もせず東京行きを許してくれた。
編集者
投稿日時: 2009-4-4 8:47
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・9

 浜松にずっと居たい気持ちもあったのだが東京へ出て働きたい旨を強く押し通したのである。荷物をまとめ東京の叔母からの手紙を待っていた。しばらくして伯母から住所と地図と東京駅から乗車するバス路線を書いた手紙を貰い受け入れ体制が整ったことを確認してトランクを提げて浜松を後にしたのであった。 
 浜松の駅で東海道線の電車に乗ろうとした時、同じクラスで一年間仲良く過ごした間渕京子さんと偶然会って聞くと同じ東京に行くところだと云っていた。当時は新幹線はなくゆっくりとお互いに話し合い乍ら東京駅までの時間を楽しんだ。京子さんは小石川の親戚に行くのだと云っていたが、それが最後になるとは考えられないことだった。 本当に若い年令で他界してしまった様である。
 丸の内からいまはもうない市川行きの都営バスに乗った。随分道のりがあったが江戸川区役所(八蔵橋)で下車、大杉公園に向って歩き出した。地図を見乍らトランク一丁提げて十月の日ざしがかたむいてる時間帯、一本道をドブ川に添って右に曲がり菊畑の手前に叔母の家の表札を見た。地図の通りであった。門の鍵は開けてあったので玄関を開けて「ご免下さい」と声をかけると叔父が現れた。
 はじめて見る叔父の顔、やさしそうな叔父の第一印象、今でもあの姿がはっきりと浮かんで来る。「私、信州の道子です」と自己紹介すると「ああ道ちゃん!上がりなさいよ」と快く出迎えてくれた。手にはホーキとはたきを持っていた。掃除をしていたのだろう「叔母は菊の花を買いに行っているけどすぐに帰って来るから」と座敷に通してくれた。茶色の猫が独りで窓のガラス戸を開けて外に出て行った。初めて東京の土を踏んだ日であった。叔母も菊の花を手にしてすぐ帰って来た。 
 この時の光景は何十年の月日が流れているのに忘れることが出来ない。それからというもの叔父や叔母と相談してもう一度タイプを習いに行こうと云う気持ちになった。叔父はナスアルミに勤めていたが退職したばかりだと云っていた。叔母夫婦にも子供がなく、叔母が若い頃新宿の文化服装学院を卒業しずっと洋裁の仕事をしていたと云い若い人5,6人で自宅でずっと洋裁の仕事をしていたとのこと、叔父はとてもきれい好きで何かと家事を手伝い乍ら若い頃から小説を書くことが夢であったらしい。よく書斎にこもっていることが多かった。
 食事の後によく冗談めいたユーモアを云っていたが何でもよく知っている人で本当に頼れる叔父で安心して心おだやかな生活をさせて頂けたと心から感謝している。 西も東も全くわからない私のためバスで一緒に出かけ東京をガイドしてくれたり本当に親切にして下さったと叔父の気持ちに対して今更乍ら思い出しては感謝しているのである。お陰で少しずつ東京の生活に慣れ日本橋のタイピスト学院で和文タイプを三ヶ月習得することが出来た。日本橋三越前と云う駅前にあるメトロ街に学院があって三越に立ち寄ることもあった。エレベーターの中で高校(長野)の同級生に逢った。彼女はエレベーターガールとして三越に就職していたのだった。見違えるような変身ぶりだったが直ぐに名前を思い出して少しの時間だったが再会の喜びを味わった。東京のしかも三越に勤めるとあんなにきれいになってしまうのかとうらやましく思ったものだったがあの時以来逢ってはいない。タイピストとして働こうと心に決めて三ヶ月真面目に通学しようやく就職先を探す為飯田橋の職業安定所に足を運んだ、昭和30年頃のことである。丁度その頃は大変な就職難の時代であったのだった。一度浜松で失敗しているので大きい会社に就職したいと云う願望が強すぎたようだった。なかなか思うような所がなかった。夢は益々ふくらむ一方だが現実はそう簡単にはいかない。
 生命保険会社のタイピストを募集していることを知って応募した。面接の日、本社を尋ねたら何と宮城を一望する所に玄関のある会社である。胸をときめかせて面接に望んだ。こんな東京のド真中でタイピストの仕事が出来たらと考えただけでも胸が高鳴ったのである。4,5日してから合格通知が来て次回は学科試験の日が記るされてあったのだ。本当によかったと胸がわくわくしていた。そして二度目のテストに赴いた。なんと云うことだろう、これも通過した旨の知らせがあったが三次試験は又日を改めて身体検査があると云う。三次試験が通ればあの大きな会社のしかも本社の中で仕事が出来るのだと思えばもうこれ以上の所はないと云う気持ちになっていた。そして第三次試験に臨んだ。しかし、その結果は肺に跡(かげ)(病気の)があると云うことだったのだ。レントゲンは昔の病を暴露したのだ、何と云うことだ。崖っぷちから海の中に突き落とされたような衝撃に襲われた。今迄一生懸命やって来たことは一体何だったのだろう、全てが無に伏してしまった。今更父母の許に戻ることも出来ない。これからどうしよう、又、職業安定所に行く気持ちにもなれなくなってしまった。今更小さな会社に勤めるのはもうこりごりと八方ふさがりのような心境になった。
編集者
投稿日時: 2009-4-5 13:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・10

 叔父も叔母も人の子を預って居る以上心配だったのだろう、タイプもいいが将来役に立つ洋裁の仕事を手伝ってみないか?と相談をかけてくれた。又外に出たければいつでも捜せばいいからしばらく皆んなと仕事を手伝って見たらと云う。 
 中学の頃、家庭科の時間に針を持つことが非常に苦手だった自分を知っている以上やれる自信は皆無に等しかった。それなら近くの洋裁学校に少し通って基本だけでも教わり乍ら家の仕事を手伝えばいいじゃないかと云ってくれたので新小岩のマスダ洋裁学院に通ってみることとなった。
 院長先生は毎日素敵な衣装を着替えて来る。そして勿論洋裁の基本から教えてくれるのだがイベントもありすごく楽しみな授業であった。美容の大家の山野愛子先生が現れたり、シャンソン歌手の芦野広が来てシャンソンを歌ってくれたのもすごいと思いやっぱり東京だと感心して毎日が何となく楽しく思えるようになった。
 午前中で授業が終り家に帰ると洋裁を仕事としている叔母の仕事の手伝いをすると云ってもミシン掛けなどは全然出来ないのでアイロンの掛け方を教えて貰ったりボタン付けやまとめ等であった。
 自分では方向転換したつもりでも心のどこかでは納得出来ない気持ちが残っていた。これが運命なのかと思い乍ら生きてゆくことの難しさを考えては悶々とした日々を送っていた。


 丁度その頃、信州の田舎での事を思い出したのである。友人宅にアメリカ人の牧師がやって来て誘われるままに興味をもって説教を聞きに行ったり日曜学校に通ったことがあった。
 東京、江戸川区で、路傍伝道の一群が家の近くを太鼓を叩き乍ら賛美歌を歌っていた。
 急に懐かしさがこみ上げてきて誘われるままにテントの中に入ってゆくと品のいい婦人達が3,4人と青年の男女4,5人位だっただろうか、私のように興味あり気に入った者が何名か居た。 牧師はあまり背の高くない丸顔の中年男性であった。頭の毛の生え際がもう薄くなっていたが顔だけは血色がよく一見して熱血漢と云う印象があった。
 伝道しているのを見て私はすごい感動を覚えたのである。日曜日と木曜日の夜は町会の会館で集会をやっているので参加して下さいとのことであった。聖書の話が聞かれると思うと何だか嬉しい気持ちになって仕事が終わると夕食後叔父と叔母の許可を得ては町会会館へと足を運んだ。牧師先生は埼玉から出張して熱心に聖書を述べ伝えてこの地にキリスト教会を建設したいと大きな夢を語ることもあった。
 埼玉にも教会と保育園があり自分の家庭や子供のこと教会のことなどもよく話してくれた。夏の頃、埼玉の教会に仲間と大勢で招かれて一日楽しく過ごしたこともあった。牧師の家には物静かな奥様と三人の男の子が居て一番上の子はまこと君と云っていた。保育園の所で仲間と写真を撮った。場所は久喜と云う所だった。埼玉は隣りの県ではあるが江戸川の松江迄週二回出張して神のみ言葉を伝えに来るのは本当に大変なことだと思った。人は心で動かされるのだと感じた。
 牧師先生の熱血が信者一人一人に伝わってか集会には出席が多くなり次の年のクリスマスには洗礼を受ける決心をしたのである。世の中はまだまだ安定しているとは云えなかったが教会に集まる同志は老(おい)も若(わか)きも本当に真面目そのものであり心の暖かさを持っている人の集まりであると確信した。そして毎日の生活も仕事もこれで変わるのではないだろうかとそんな気がしたが変わったのは私の心だけであった。もともと不器用な私が一番苦手な仕事をするのだから楽しい世界ではなかったがキリスト教の教えに少しでも忠実に生きようと努力していたことは確かであった。
 今思えば私の青春時代は実に聖らかな身と心であったかと思う。これも父の妹とそのつれ合いの叔父のやさしさの故であったと思っている。叔父も叔母もきっと安心して私を見守っていたのかも知れない。
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