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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     うなぎと泳いだ吾が半生
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大陸鰻
投稿日時: 2005-7-8 21:09
登録日: 2005-7-8
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うなぎと泳いだ吾が半生
 (これは、旧満州奉天葵小同窓会誌に投稿したものです)

 葵《=小学校》から一中《=中学校》、予科練《=海軍飛行予科練習生》へと進んだ私は、敗戦後父の故郷静岡県大井川町に復員《ふくいん=兵士が帰郷すること》、以後一年余を慣《な》れない百姓の手伝いをして過ごした。青春真っ只中《ただなか》の一八才から一九才……奉天での少年時代には、夢にも考えなかった生活であった。
 更に思いもしなかった職業に就いた。昭和23年、一念発起して焼津の肥料工場に入社したのである。テレビも車もない、若者には何の娯楽もない海だけが煌《きら》めいていた焼津、満州を思いだす余裕もなく働いた。

 男は働くために生きるのだと信じていた私は、大袈裟《おおげさ》でなく一年三六五日中、三六〇日を懸命に働き続けたのである。

 ~うなぎとの出会い~

 四〇年、会社が新たに養鰻《ようまん》会社を設立したのを機に私も移職した。
 鰻《うなぎ》養殖が、生魚餌から配合飼料へ転換した頃であり、私は新会社営業部門に転属したのである。
 葵同期の悪童(爺)蓮は信用しないが、当時貴重品のストッキングを活用し顧客の奥方連を攻撃して売り込みに成功、抜群の営業成績をあげ同業者仲間から「吉原はマダムキラーずら……」と妬み《ねたみ》半分の賞賛を受けるほどになった。悪童達が何と言おうと、これは「うなぎ」に誓って真実であるのである。

 ~うなぎの先達《せんだつ=案内者》で台湾遊泳へ~

 四四年、養鰻業界は稚魚不足に悩まされるようになった。そこで私は、最も死亡率の高いシラス鰻の時期を暖かい台湾で育てる稚魚《ちぎょ=卵からかえったばかりの幼魚》のコストダウンを思いついた。これも悪爺達は信用しないだろうが、今や常識となった台湾での稚魚育成→日本輸出を最初に考案実行したのは、再び鰻に誓って此の私であるのである。
 早速渡台《とだい=台湾に渡る》、半年余現地に駐在、稚魚の盗難監視、数多のクレーム処理等のために文字通り不眠不休で働いた。米ドル1ドルに対し日本円は360円、台湾票40元、そして私は四〇才を越えたばかりの働き盛り……今は昔の物語である。
 四五年初頭、台湾業者間にも鰻養殖が「大発財」の商売であることが浸透して来た。機を見るに敏な申国人台湾南部を中心に、続々と養殖池が増設されて来たのである。
 この状勢を見た私もまた、稚魚よりも活成鰻《=成魚となった生きたうなぎ》としてから輸出する方が、より大きな利潤をあげると確信するに至った。
 おりしも、航空機の大型化に依る航空貨物輸送の黎明期《れいめいき=始まりの時期》を迎え、運賃大幅割引き制度等が始まり、低コスト商品空輸が可能となった。早速某商社と提携した私は、台湾で活成鰻を買いつけ、チャーター機で週二便日本へ輸出したのである。空飛ぶ鰻、正に時代は速やかに動く。

 ~懐かしや再び中国語に囲まれて~

 ご存じかと思うが、台湾の日常会話は福建語が主体である。しかし、生まれも育ちも満州で中国語の基礎を多少でも習っていた私は、商用でも日常生活でも随分得をしたと思っている。
 更に長期滞在、度重なる渡台に依り、現在では日常会話では大体困らない程度になった。満州と台湾との地理的、言語的違いはあるが、付き合うのは中国人であることに変わりはない。
 鰻のお蔭で、再び懐かしい中国人と心から話し合い、飲むこともできたるマダムキラー(殺姑娘?)としても友好に励んだが?残念ながら字数に制限があり、公私諸々《もろもろ》の検閲上の理由から、事実を書くのは控えさせて頂く。
 うなぎは大きく育ち私も育った。
 私が最初に渡台した四四年頃、台湾からの活鰻輸入量は僅か24トン、現在では実に47000トンとなり、停滞する国内生産のため全体に対する輸入量も60%に達している。

 養殖魚の中でも鰻は代表的存在で、殆ど《ほとんど》100%が養殖となり、連れて値段も味も近年は大いに改善された。
 万葉時代から歌にも詠まれた鰻は良質の蛋白質、脂肪、ピタミン類を豊富に含有、日本人の嗜好《しこう=好み》にピッタリの食品である。
 江戸時代と限らず、鰻蒲焼は全国夫々《それぞれ》の自慢の造り方があり、滋養食のみならず、精力剤としても効用があることは有名である。まして近年は、スーパー等で製品が安価・簡単に求められ、専門店に行かなくても家庭で安易に食べられる。
 職業柄、私は毎日、毎食、食間?に鰻を食べているが、お蔭で頭髪都々的没有以外は大元気である。皆さんも、大いに食して頂きたい。

 葵卒業以来半世紀近く、二代に渉《わた》って生きた私は会社代表者となったが、同時に紅顔の美少年は紅顔のロートルとなった。今では鰻との関わり合いを心から喜び、天職と感謝している。
 葵・予科練の同期の仲間は、昔も今も明日もまた、変わらぬ心の寄り所である。今後も鰻と共に、長い交遊を楽しみたいと願っている。
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